吟遊詩人がつづる「日本の神々」

 

[8]但馬の神々   (地方の神々篇)

       ( 参照 吉備と出雲の勃興3.「オオクニヌシと日本海」)

 

1.粟鹿(あわが)の神とアメノミサリ(天美佐利)

 日本海に面する但馬地方は西は因幡、東は丹後、南は丹波に囲まれた、森林が覆う山国でした。海側は湿地帯や泥沼が続く不毛地帯でしたが、山側は獲物となる猪や鹿、ドングリやクルミなど木の実の宝庫で、縄文時代から数多くの集落が点在していました。信濃と同様に寒冷地であることもあり水田耕作に適した場所には限りがあり、粟やヒエ、陸稲も栽培する山間の焼畑農業が主体でした。

 その山間での耕作は、「角の間から粟が生えた」あるいは「粟を三束くわえた」鹿が粟鹿山から現れて、人々に農耕を教えたと伝えられ、粟鹿の神が信奉されていました。

 

 山国の但馬に変化をもたらしたのは二世紀前半に活躍した出雲のオオクニヌシでした。オオクニヌシは丹波の亀岡に住むミホツヒメ(三穂津姫)の許に通うようになって、因幡と亀岡を結ぶ街道沿いの宿場である梁瀬(やなせ)に常泊するようになってからでした。一夜の宿でお世話をする首長の娘アワガヒメといつの間にか契り合う仲となり、アメノミサリが誕生しました。

 以来、粟鹿の里に出雲の文化が深く入り込むようになり、 南北を結ぶ街道・交易路として行き交う人々が増していきます。山国はアメノミサリの子孫が治めるようになり、同じようにオオクニヌシの系譜が続く丹後王国との友好関係も深まりました。

 

 

2.辰韓諸国からの亡命者

 オオクニヌシとアメノミサリから一世紀が経過した三世紀半ばを過ぎた頃から新たな変化が但馬地方に生じました。

 日本海をはさんだ対岸に位置する朝鮮半島南東部の辰韓諸国は12か国が並立していましたが、その中からシラ(新蘆。後の新羅)国が抜け出して勢力を広げて、次々と他国を呑み込み始め、辰韓地方が動乱の時代に入ってしまいました。シラ国に敗れた国々からの亡命者が次々と丹後半島や但馬の海岸に漂着するようになります。亡命者たちは祖国復興を目標に置きながら、人影がまばらだった但馬の海岸線沿いの湿地、泥地帯の開拓を始めました。

 

 亡命者たちの逸話は幾つかの伝説が混同されて伝えられています。

ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)伝説)

 第十代ミマキイリヒコイニエ王(崇神天皇)の時代に、額に角を生やした異国の人物が一つの船に乗って、越国の笥飯(けひ)の浦に漂着した伝説です。

 意富加羅国の王子、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)と名乗った男は、まず長門の穴門に到って、倭国王を自称するその国の主イツツヒコ(伊都都比古)に面会しますが、その素性を見て倭国王ではないことを悟り、出雲国を経て敦賀に着いた、という話でした。

 「つぬが」は辰韓地方の最高官位号を意味する「角干」と解釈できますので、男は官位を示す冠を額にかざしていたのでしょうが、地元民には角が生えていると見えたのでしょう。それ以来、笥飯浦は角鹿(つぬが)と呼ばれるようになりました。

 

(ウシキアリシチカンキ(于岐阿利叱智干岐)伝説)

 ウシキアリシチカンキ伝説は赤玉ないし白石から乙女が誕生する辰韓地方の神話にもとづくものです。誕生した乙女は日本出身の女性で、男と結ばれてしばらくしてから、故郷に日本に戻ったため、夫も妻を追って日本列島にやってきた、とする筋書きです。 日本人妻はシラ国の襲撃などで治安が悪化したため、故郷の日本に戻ることを決めた様子が浮んできます。

 ある男が黄牛に農具を負わせて田舎へ行きましたが、郡主が牛を殺して食べてしまい、その代償として白石を授けられました。自宅で白石を飾っていると美麗な乙女と化します。男は乙女を妻にしますが、妻は出身地である東方(日本)に行ってしまいます。女は難波の比売語曾(ひめごそ)社の神となりましたが、男も乙女を追って日本にやって来ました。

 

 別の伝説はアメノヒホコ来日譚と混合したものです。女人が沼で昼寝をしている間に陽が輝いて、その後、女人は赤玉を生みました。夫が牛を連れていると、王子アメノヒホコ(天日矛)に尋問されて赤玉を差し出しました。アメノヒホコが赤玉を飾っていると、美麗な乙女に化身します。乙女を妻としますが、しばらくして祖国の日本に戻ってしまいます。そこで妻を追ってアメノヒホコも日本にやって来ました。

 

(アメノヒホコ(天日矛)の亡命)

 日本書記などの伝承では、アメノヒホコの来日は第十一代イクメイリビコイサチ王(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)の時代とされますが、アメノヒホコの子孫の系譜を見ると、第五代目の清日子、多遅摩比多訶、多遅摩毛理(田道間守)の三兄弟はイクメ王の時代に逸話を残していますから、アメノヒホコの来日は第九代オオビビ王(大日日ないし大毘毘。開化天皇)の時代にあたる260年前後と判断するのが妥当です。大和はオオビビ王の父王の時代から吉備邪馬台国への攻撃を始め、播磨の揖保川までは占拠していましたが、そこから西は吉備勢力の防備が強く、攻めあぐねていた頃でした。

 

 アメノヒホコを乗せた船団は瀬戸内海に入り、吉備の海岸線に停泊しますが、帯方郡や楽浪郡との関係が深い吉備邪馬台国は、辰韓からの渡来と聞いて相手にしませんでした。仕方なくさらに東に進んで、大和勢力下にある播磨の揖保川河口に着きました。そこで大和軍に尋問され、播磨の宍粟(しさは)邑か淡路島の出浅(いでさ)邑のどちらかでの居住を許されます。しかしアメノヒホコは各地をじっくり巡ってから居住先を決めたいと申し入れ、播磨から淡路島を経て近江に入った後、辰韓諸国からの亡命者が集合していると伝え聞く但馬に若狭を経由して向いました。アメノヒホコの従者の中には淡路島の出浅と 近江の吾名邑に留まる者もおりました。

 

 

3.アメノヒホコと但馬王国

 噂に聞いたとおり、但馬にはすでに多くの亡命者が居住していました。懸命に沼地や泥地の開拓に励んだ成果が実り、一つの郡ないし国としてまとまる基礎が固まり、出身地は異なるものの、シラ国に蹂躙された辰韓11か国の祖国復興を旗印として結束して、多遅摩俣尾が首長を務めていました。

 アメノヒホコの一団は快く迎えられましたが、アメノヒホコが携えてきた財宝を見て、ツヌガアラシトやウシキアリシチカンキと違って、まぎれもなく辰韓の王族と分り、厚遇されます。将来品は玉類3個(羽太の玉、足高の玉、うかかの玉)、出石の小刀、出石の桙、日鏡、辰韓地方の神を招来する祭祀用具である「熊の神籬(ひもろき)」一具でした。

 首長の多遅摩俣尾は娘の前津見を天之日矛に差し出しました。前津見は多遅摩緒助(母呂須玖)を生み、アメノヒホコと前津見の孫が多遅摩斐泥、曾孫が多遅摩比那吉岐と続きます。

 

 オオビビ王による吉備邪馬台国制覇の際にはアメノヒホコが率いる勢力は当然のごとく大和側に付き、加勢しました。アメノヒホコ軍は豊岡から養父(やぶ)、八千高原、若杉峠を越えて奥播磨に入り、波賀、川音邑、高家(たかや)里など揖保川上流域を撹乱して、大和軍の後方支援をします。その模様は奪谷(うばいだに)と御方(みかた)里でのアシハラシコヲ(葦原色許男)とアメノヒホコの戦いとして語りつがれています。

 

 

4.ヒコイマス(日子坐)軍

 時代はオオビビ王を継いだ第十代ミマキイリヒコイニエ王(御間城入彦五十瓊殖。崇神天皇)の時代に入り、四道将軍の一人であるヒコイマスは丹波北部と丹後を征した後、丹波の統治は尾張氏に、丹後は息子の丹波道主に任せて、まだ未征服の但馬南部の山岳部へ駒を進めていきました。粟鹿の里を拠点とする地元勢力はヒコイマス軍が丹後北部の大江山連峰を征し、丹後王国も恭順したことを知り、兵数にも圧倒的な違いがありましたから、観念してヒコイマス軍に白旗をあげました。但馬地方はアメノヒホコ族が主体となっている海側は二方国、山側は但遅馬国と二分割されました。山側の粟鹿の里では粟鹿神とアメノミサリの地神と大和系のヒコイマスと山幸彦のホオリ(火遠理。別名ヒコホホデミ彦火々出見)が共存する形で祀られるようになりました(粟鹿(あわが)神社)。

 

 

5.アメノヒホコ族の大和入り

 第十一代イクメイリビコイサチ王の治世に入っていた四世紀初頭、狭穂彦(さほびこ)の反乱で愛后で狭穂彦の妹でもあるサホヒメを失った王はサホヒメの遺言でサホヒメの従姉妹にあたる丹波道主の娘たちを后に迎えてから、后姉妹の助言を通じて日本海に眼を向けるようになりました。

 后姉妹の話では最後まで独立を維持していた西出雲王国が大和に恭順する条件として出雲のオオクニヌシを祀る壮大な社を建造する約束を守らず、オオクニヌシをないがしろにしている不満と鬱積が出雲だけでなく、出雲文化圏に属する日本海沿岸諸国に充満しているということです。

 

 占いにより、サホヒメが残した愛児ホムチワケ(誉津別)が物心がついてからも言葉を発しない理由はオオクニヌシの祟りであることが明らかになりました。出雲対策重視に切り替えたイクメ王はオオクニヌシを祀る壮大な大社の建造を命じると共に、出雲の兵士を大和盆地の警護兵として招き入れます。それに合わせて湿地帯開拓の実績を買われて、但馬の民が北葛城地方の低湿地帯の開拓に駆り出されました。

 アメノヒホコの曾孫にあたる四代目の多遅摩比那吉岐には清日子、多遅摩比多訶、多遅摩毛理(田道間守)の三人の息子がいましたが、清日子はアメノヒホコ族の総代として但馬に残り、多遅摩比多訶と田道間守は大和盆地へ移住しました。アメノヒホコ族は大和川本流に支流の寺川、飛鳥川と葛城川が合流する湿地帯の開拓(三宅町)を果たし、次第に葛城地方へ拡散していきました。多遅摩比多訶は兄の清日子の娘、管竈由良度美をめとり、葛城タカヌキヒメ(高額比売)が生まれました。

 

 イクメ王は清日子にアメノヒホコが持参した財宝の献上を求めました。清日子はしぶしぶ財宝を携えて都に上ります。財宝のうち出石の小刀だけは祖国復興の象徴として献上しないと腹を固めて、財宝の中から小刀を秘かに衣(袍)の中に隠して自ら佩きました。イクメ王は清彦を招いて酒宴を催しましたが、運悪く小刀が衣の中から露顕してしまい、仕方なく小刀も献上せざるをえなくなりました。小刀は朝廷の宝物庫に納められましたたが、いつの間にか消失してしまい大事件となりました。後日、小刀は淡路島で祀られていることが判明しました。出浅(いでさ)邑に残ったアメノヒホコの従者の子孫の仕業との噂が広がり、アメノヒホコ族の汚点となりました。

 晩年を迎えたイクメ王は、不老不死の妙薬を求めて、田道間守を常世の国に遣わします。一族の汚名返上の好機とばかり、田道間守は勇んで常世の国に向かい、橘を持ち帰って来ましたが、時すでに遅く、イクメ王が崩御した翌年のことでした。田道間守はイクメ王の陵墓にぬかづいて、持ち帰った橘を献じた後、イクメ王を追って自害しました。その子孫は連の称号を授けられ、田道間守は三宅連の祖と称えられていきます

 

 

6.辰韓11か国復興の悲願

 但馬丹後近江のつながりは根強く、ヒコイマス族がその遺産を引き継いでいきます。ヒコイマスの孫カコメイカツチ(迦邇米雷)が丹後遠津臣の娘タカキヒメ(高材比売)と結んでオキナガスクネ(息長宿禰)が生まれます。オキナガスクネは多遅摩比多訶が兄の清日子の娘、管竈由良度美ともうけた葛城タカヌキヒメ(高額比売)を娶り、オキナガタラシヒメ(息長帯比売。神功皇后)が誕生します。

 4世紀後半に入って、オキナガタラシヒメは辰韓11か国の復興の悲願を実現した後、第二王朝の扉を開けました。第二王朝は近江、丹後、丹波、但馬、稲葉に拡がったヒコイマスと丹後のトリミミ(鳥耳)、アメノヒホコの子孫を背景として誕生したことになります。

 

但馬の神々を祀る代表的な神社

アメノミサリを祀る神社 

粟鹿(あわが)神社 (兵庫県朝来郡山東町粟鹿)

アメノヒホコを祀る神社

出石神社 (兵庫県豊岡市出石町宮内)

ヒコイマスを祀る神社 

粟鹿(あわが)神社 (兵庫県朝来郡山東町粟鹿)

 

国造

但遅馬国造  但馬の山側。船穂足尼。ヒコイマスの五世孫。

二方国造  但馬の海側。美尼布。出雲国造と同祖。

稲葉国造  彦多都彦。ヒコイマスの子。

 


 

吟遊詩人がつづる「日本の神々」

 

]阿波の神々    (地方の神々篇)

 

1.阿波王国の成長

 吉井川

 阿波の高天原

 

2.倭国大乱

 

3.伊勢の水銀朱

 

4.大和との戦いに敗北

 

 

 

(アメノヒワシを祀る代表的な神社)

阿波の神々を祀る代表的な神社

 

 

 次回は「伊勢のサルタヒコとサルメ」です。

 

 

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