その21.乙女         (ヒカル 32歳~34歳) 

 

11.花散里が若君の世話役に

 

 ヒカルの若君は雲井雁に手紙すら送ることができません。コンスタンの娘エレーヌも気になりますが、やはり優先する、より大事な姫君のことが気になります。日が経つにつれて言いようもなく恋しい面影に、「再び逢えないのではないか」と思うのはそればかりです。大宮の所へも、気分が乗らず心苦しくなるので訪れることはありません。思い出すのは雲井雁が住んでいた部屋や幼い頃から一緒に馴れ遊んだ所ばかりなので、アンジェ城へ行くこと自体が辛く、シセイ城の勉強部屋に引き籠っています。

 

 ヒカルは若君の世話を同じシセイ城に住む花散里に委ねることにしました。

「大宮の寿命はもう先が見えています。まだ少年時代の頃から馴染んでおいて、大宮が亡くなった後も後見役をしてください」とヒカルは花散里に頼みました。

 花散里はいつもヒカルの言葉どおりに従いますから、親しみをこめて愛情深く、若君のお世話をします。若君はそれまでも花散里をちらちら見かけることはありましたが、「器量よしとは言えない、こんな人でも父は思い捨てることはないのだな。私が一途に恨めしい恋人の美貌に執着して、恋しく思っているのは味気ないことなのだ。容貌ではなく、花散里のように気立てが柔和な女性と一緒になった方がよいのだろう」と感じながらも、「とは言うものの、面と向って見る甲斐もない容貌をした女性も気の毒である。父上は随分長く花散里の面倒を見ているようだが、不細工な顔と性格の良さとを見定めて、つかず離れずの距離を置くことでお茶を濁しつつ、愛人として何くれと帳尻を合わせているのはもっともなことだ」とまで思ったりする自分の心の内が恥かしくなります。

 大宮は修道女の姿に容姿を変えていますが、まだまだ美しく清らかです。若君はここでもどこでも見目形が良い女性たちを見馴れています。花散里は元から美人とは言えず、盛りの歳を過ぎ、ひどく痩せて髪も少なくなっていますから、難癖をつけてみたくもなるのでしょう。

 

 年の暮れに入ると大宮は正月に着る衣裳など、もっぱら若君のことに専念して準備を急ぎます。ところが若君は幾揃いも非常に立派に仕立てあがっているのを見ても、物憂く感じるだけです。

「年始めに特に王宮へ参上するつもりがないのに、何でこんなに急いで用意されたのですか」と祖母に尋ねます。

「どうして、そんなことをおっしゃるのですか。体力が衰えた老人のような言いようですね」と大宮が言いますと、「老いたわけではありませんが、気持ちが挫けてしまった心地がするのですよ」と独り言を言って、涙ぐんでいます。

「きっと若姫を失ったことをはかなんでいるのだろう」と大宮もひどく可哀想になって眉をひそめます。

 

「男というものは、身分が低い者であっても、気位は高く持たねばなりませんよ。そんなにめそめそした風になりませんな。どうしてそこまで塞ぎ込んで思い詰めているのです。縁起でもない」と励ましますと、「そんなことはありません。人が『官位六位』などと軽蔑しますので、それも少しの間だけと考えるものの、王宮へ上がるのも億劫なのです。アンジェの祖父が存命だったら、冗談にも人から侮辱されることはないでしょうに。父は遠慮のいらない実の親ではありますが、分け隔てを厳しく考えておりますので、父が住むシュノンソー辺りへは軽々しく行くこともできません。直に父と対面するのは、父がシセイ城にやって来た時だけです。養母役になられた御方は優しくしてはくれますが、実の母がおりましたら何の苦労もありますまいに」と、また涙を落とすのを紛らわせようとしている様子が、この上なく不憫ですから、大宮もはらはらと涙を流してしまいます。

 

「母に先立たれた人は、身分の上下に関わらず、分相応に悲しい思いをするものです。誰にもめいめいの運命というものがありますし、大人になれば軽蔑する人などいなくなりますよ。何事もあまり気にしないようになさい。確かに亡くなった太政大臣が存命していたなら、よかったでしょうに。貴方の父の太政大臣が同じように蔭ながら貴方のことを親身に考えておられると、信頼しておりますが、どうも私の希望通りにされないことが多くあります。

 貴方の叔父の内大臣の気性も、世間の人は『並の人物ではない』と褒めておりますが、常に気分を変えてしまう性格が強くなっているので、長生きをしているのが恨めしく思います。まだ生い先が長い、若い貴方までがいささかにせよ世の中を悲観するようになるとは、全く何につけても恨めしい世の中になりましたね」と大宮は泣いています。

 

 

12.冷泉王の朱雀院行幸、夕霧への勅試

 

 年が明けた正月元旦は、太政大臣は外出する予定がないので、のんびりと過しています。かってのカペー王朝時代の古事にならって、シュノンソーにも一年の邪気払いをするための白馬を呼びました。七日の酒宴の頃は王宮の儀式を模して、昔の先例よりも一層凝らした盛大な有様でした。

 ムーラン大公后の遺言に添って、ブルボン公国の資産仮押さえをパリ議会に提訴した後、王宮はブルボン公国吸収の意思を固めました。ミラノ公国奪還に向けて、イタリア遠征の準備も着々と進めています。

 かってカール五世の祖父皇帝が紫陽花公女との再婚話を具体化させて、フランス側を慌てさせたこともありましたから、継承権の問題も含めてブルターニュ公国の足元を固めておく必然があり、王さまたちは朱雀院と紫陽花太王后が住むスリー・シュル・ロワール城への行幸を決めました。

 

 三月二十日過ぎにスリー城への行幸が実施されました。花盛りにはまだ早い頃でしたが、早咲きのプルニエ(梅)の色も大層興趣があって、迎える側のスリー城も特別な準備をして磨き上げています。行幸に付き従う上級官僚や親王たちを始めとして、その日の服装に苦心を払っています。皆、晴れの儀式に家臣が着る青色のビロードの長衣に桜色の上着(プルポワン)を着ていますが、王さまは赤色のビロードの長衣です

 太政大臣ヒカルもお召しがあって同道していますが、王さまと同じ赤色の長衣を着ていますので、ますますそっくりで、どちらがどちらかと見間違ってしまうほどです。衣裳だけでなく、人々の振る舞いもいつもとは異なっています。三十歳台に入った朱雀院も健康を取り戻して、非常に清らかに立派になって、容姿や態度も一塩優雅さを増しています。

 

 今日は意識して専門の文化人は招かず、ただ文才の聞えが高い学生十人を呼んでいます。儀典省の試験に出される題を模して、ラテン語による詩作りの題が下されました。これはヒカルの長男を試してみる目的もあったからです。臆病な学生たちは綱でつなげていない小舟に乗せられて、ぼう然としたまま大池に放たれてしまいましたので、どうしたらよいか途方にくれています。

 陽がようやく傾いていく頃、楽隊を乗せた舟が大池を漕ぎ回りながら、楽音を奏でると、川風の響きが面白く吹き合わせます。詩作中の若君は「こんなに苦しい修業をしなくとも、人中に交じ合い、遊び合うことができるものを」と世の中を恨めしく感じています。

 

「春の黒歌鳥さえずる」の舞踊が始まると、人々はかってブロワ城で催された「花の宴」を思い出して、朱雀院も「あれほどの催しをまた見ることができるだろうか」と述懐しますので、ヒカルもあの夜の朧月夜との出逢いも含めて、その頃のことをしみじみ思い続けます。

 舞踊が終ってから、ヒカルは朱雀院に酒盃を献じました。

(歌)黒歌鳥がさえずる声は 昔と同じですが 人々が睦みあって遊んだあの頃と 

   時代はすっかり変わってしまいました

 すると朱雀院が返歌を詠みました。

(返歌)王城から遠く離れた場所にある住みかにも 春を告げに来る 黒歌鳥の声がする

 ヒカルの異腹の弟である帥の宮は、今は兵部卿になっていましたが、冷泉王に酒盃を献じました。

(歌)笛の音は その昔の音色をそのままに伝えています さえずる鳥の音色も 少しも変わってはおりません

この歌を鮮やかに奏上して、その場を巧みにとりなした兵部卿の心遣いは立派でした。

 王さまは酒盃を取りました。

(歌)黒歌鳥が 昔を恋焦がれて 木から木へと飛び移りながら さえずっているのは 

   木の花の色が褪せてしまったからなのだろうか

と詠む王さまの様子にはこの上ない風格が出て来ています。

 

 今回の宴は公的には内々の私事として催されていますので、酒盃の流れは多くの人に廻らなかったようです。或いは書き漏らしてしまったのでしょうか。

 奏楽場が遠く、はっきりと聞えないので、王さまはハープなどの楽器の用意を命じました。兵部卿はリュート、内大臣がハープ、ハープシーコート(スピネット)は朱雀院の前に置かれます。琴は例のように太政大臣に託されました。こういった巧みな名手が優れた手つきで奏で尽くす音色はたとえようもありません。歌唱役の役人が大勢控えています。「ああ尊いことだ 今朝の尊さよ」と風俗歌の「ああ尊い」が披露され、次に「桜人」と続きました。

 月がおぼろにさして趣がある時分に、中島がある大池の渡り場のそこかしこに篝火が焚かれて、宴が終りました。

 

 夜が更けた頃、こうした機会に紫陽花紫陽王太后が住む別館を素通りしてしまうのは情がない、といったふうを装って、王さまたちは今日の本来の目的を果たすべく、邸内の東北にある別館を訪れました。もちろん、太政大臣も同道しています。

 太王后は待ちわびていたように喜んで、王さまたちと対面します。四十歳台に入って、ひどく老けた印象を受けますが、王さまは四十歳にもならずに亡くなった母宮を思い出して、「このように長生きされる方々もおられるのだ」と残念に感じます。

 話は本題に入りました。王太后はブルターニュ公国の継承権を孫の安梨(あんり)王太子に譲ることを確約しました。最後に王太后は「今はもう、こんなに歳をとってしまい、何もかも忘れておりました。もったいなくもご訪問をいただいて、昔の桐壺王のことを思い出します」と涙を流しました。

「父や母など頼りにできる方々に先立たれてしまった後は、春の区別もつかずににおりましたが、今日は慰めていただきました。また伺いましょう」と王さまが応答しました。太政大臣もしかるべき挨拶をして、「また改めて参上いたします」と告げました。

 

 一行が悠々とスリー城を去っていく響きを聞きながら、紫陽花王太后の胸が騒ぎます。

「太政大臣は私がいじめたことをどのように思い出しておられるだろう。一国を治めるべき運命を消し去ることはできなかった」と過去にした自らの仕打ちを悔みます。

 スリー城に住む朧月夜は、ヒカルに夢中になった頃をしみじみと追想していると感慨も多く湧いて来ます。今でもしかるべき折りになど、風の伝に乗せてヒカルと便りを交わすことは絶えないでいます。

 太王后は王宮に願い出る機会がある時々に、周囲の者が賜わる年官や年爵などの要望を何やかやと出しますが、実現しなかった時には「長生きをして、こんな情けない目にあってしまうとは。かっての栄華を取り戻してみたい」とあれこれを思って不平や小言を言い、その果てには若くして譲位をしてしまった息子に愚痴ります。歳をとっていくにつれ、口やかましさがひどくなっていきますので、朱雀院ももてあまして、堪え難い思いをしています。

 

 学生の若君はこの日に課題に出された詩を見事に作りましたので、官位五位を叙して登用される「学士」の資格を得ました。年功を積んだ賢者たちが選択を担当しましたが、及第した者はわずか三人でした。秋の昇進時に官位五位を正式に叙されて庶務官になりました。思いの人を忘れる時はありませんが、内大臣がきっちり監視しているのが辛く、何とも堪え難いことですが、対面することはできません。差支えない程度の手紙をやり取りしながら、お互いにやるせない間柄となっています。

 

 

13.ヴィランドリー邸造営と、式部卿宮五十の賀の準備

 

 フランス王国に先手、先手と攻め立てるカール五世は七月に入ってイングランド王国と改めて同盟を結びましたが、合わせてシャルル・ブルボン公とカール五世の妹の再婚も正式に合意されました。フランス王国は再婚話に即座に反応してブルボン公国に圧力をかけ、ブルボン公へは抗しきれずに九月七日に帝国領のブザンソン(Besançon)へ逃亡し、フランス王国はブルボン公国を吸収しました。

 その一週間後、大西洋岸の低バスク地方のフォンタルビの戦いでスペイン軍を破って名声を高めたボニヴェ総帥が率いるフランス軍がミラノ公国奪還をめざして北部イタリアに進撃しましたが、時を合わせたように、フランスに好意的とは言えなかったローマ教皇がわずか在位一年九か月で亡くなってしまいます。カレーのイングランド軍はそうした騒動に狙いをすましていたかのようにパリに向けて進軍を始め、あと八十キロメートルにまで迫って来ました。

 

 ヒカルは前々から閑静な邸を造って、「同じことなら広くて見所がある場所に、あちこちに散在している婦人たちを呼び集めてみよう」という気持ちを抱いていました。シェール川が本流ラ・ロワール川に合流するヴィランドリーにある梅壺王妃保有の山荘に周辺の土地四ヘクタールを購入して造営を進めていました。

 たまたま紫上の父の式部卿が翌年に五十歳の祝賀を迎えることになっていました。紫上は自分なりの祝賀を前々から考え準備を始めていましたが、さすがに太政大臣も「知らんふりはできない」と考えて、「それほど急がず、同じことならヴィランドリーの邸が落成してから、楽隊や舞踊家たちの選定をきっちりさせて催しては」と提案しました。それでも紫上は聖典や聖母子像の手配、ミサの日の衣裳や引出物などの手配を急いで始めました。シセイ城の花散里も手伝いました。二人は気性が合うのか、仲良く親しげな付き合いをしています。

 

 世間の評判になるほどの準備の仕方でしたから、式部卿の耳にも入りました。

「太政大臣は日頃から世間の人には残す所もないほどの心配りをされているが、生憎なことに私や周りの者には情けをかけてくれず、ことあるごとにきまりが悪い目にあわせたし、仕える者たちにも気配りをしてくれないことが多かった。やはり私を恨めしく思うことが過去にあったのだろう」と口惜しく、「祝賀式など迷惑なことだ」と思っていました。それでも「関係する婦人たちが数多くいる中で、とりわけ私の娘に愛情をかけてくれ、世間からも心憎いほどめでたいことだ、と思われながらかしづかれている幸運を娘は享受している。その余波が我が家にまで波及してはいないが、面目ではあると思う。それに私の五十歳の祝賀を身に余るほどの評判で催ししてくれるとは。思いがけなく老後の光栄を得ることだ」と喜んでいます。

 式部卿の正妻は気が晴れ晴れとはいかず、「不愉快ですね」とだけ思っています。「せっかく貴婦人として王さまに差し上げた娘の扱いでも、太政大臣は面倒を見てくれないので、ますます恨めしい」と根にもっているからでしょう。

 

 ブルボン公国の吸収、フランス軍の北部イタリア進攻、パリに迫ってきたイングランド軍への対抗措置などの騒ぎが一息ついた九月下旬から、ヴィランドリー城への引越しが始まりました。

 南西は梅壺王妃の山荘があった場所ですから、そのまま梅壺の住まいになります。南東はヒカルと紫上が住む本館となり、シェール川に面する北東は花散里に、北西はサン・ブリュー上にあてられました。元からあった池や築山は不都合なものは取り崩され、水の趣や築山の模様も改善されましたが、それぞれ婦人方の希望を入れて造営しています。

 

 本館がある南東は築山を高くして、春に咲く樹木が無数に植えられています。池の様子もゆったり面白く優れていて、眼前に近い前庭には、五葉の松、紅梅(プルニエ)、桜、藤、オレンジ、岩つつじなどのような春を楽しめる鑑賞物が意識して植えられ、所々に色々な秋草を一叢ずつほんのりと混ぜています。

 南西の梅壺の住まいは元からある築山に色濃く紅葉か黄葉する木々を植え、泉の水をはるばると引いて来て、水音が高くなるように岩を立て添え小滝が落ちるようにして、秋の草木の野の趣向にしています。季節がちょうどその時期に当たっていますから、盛んに秋の草花が咲き乱れています。サン・ブリュー上が住むモントワール辺りの野山など圧倒されてしまうような秋の風情でした。

 花散里が住む北東には涼しげな泉があって、夏場に涼む木陰となる木々が繁っています。眼前の前庭の柳の下を吹く風が涼しげです。小高い森のようになっている木々がこんもりとして面白味があり、田舎めいて冬に花を咲かせる椿の垣根を故意にめぐらせ、昔の人を偲ばせるダイダイ(ビターオレンジ)、なでしこ、バラ、りんどう(Gentiane)などのような草花を植え、その中に春秋の木草を混ぜています。東側の一部を区切って馬場を作り、柵で囲ってシェール川のほとりにアイリス(菖蒲を繁らせて五月の遊覧場所とし、その向かい側に厩舎を建てて世にも珍しい名馬を飼っています。

 サン・ブリュー上の住まいとなる西北は西側を塀で仕切って、シェール川に面する倉庫群にしています。倉庫群の垣にはエリカを植え、その上に松の木を繁らせて冬場の雪を楽しむようにしています。冬の初めに朝霜を結ばせようと、木苺の垣根も作り、我が物顔のコナラに加えて、ほとんど名も知らない深山木を移植しています。

 

 まず九月末に紫上と花散里が移りました。ヒカルは「婦人方は一度に揃って」と決めましたが、梅壺王妃は「騒がしくなりますから」と少し延期しました。その夜、紫上と、いつものようにおとなしく気取らない花散里が一緒に移って来ます。本館の春の庭のしつらえはこの時節には合いませんが、それなりに見応えがあります。紫上の行列は馬車が十五輌、お供に官位四位と五位の者どもが付き、六位の王宮人はしかるべき者だけを選別していますが、仰々しい、というほどではありません。イギリス軍がパリに近づいている状況なので、「世間からの非難もあるだろう」と簡略にしたので、何事も大袈裟で威勢を張っていることはありません。もう一人の花散里の行列も紫上にさほど劣らないようにしています。ヒカルの若君が付き添ってお世話をしていますが、花散里は母代わりの役割となっていますから、当り前のように見えます。二人に仕える侍女たちの宿舎もそれぞれ部屋を細かく割り当てられていて、世間並みよりも行き届いています。

 五日か六日後に梅壺中宮が王宮から退出しました。儀式はやはり地味にしていますが、お供に加わっている虹バラにフランスの底力を見せ付ける狙いもあってか、堂々としたものでした。ヒカルがしっかりと後見役をしているだけでなく、本人の人柄も奥床しく重みがありますので、世間からも王妃として尊重されています。

 

 四つの区分けは塀と運河でなされていますが、行き来がしやすいように設計されています。十月に入ると木々が黄色や赤色に色づいて、秋用に造られた梅壺王妃の庭は何とも言えない興趣があります。風が吹き出した夕暮れ時、梅壺は箱の蓋に色々の花や紅葉を取り混ぜたものを紫上に届けました。濃い中着に秋用の薄紫の織物を重ね、赤朽ち葉色の薄い下着を着込んだ大柄な童女が馴れきった仕草で運河に架かった橋を渡って来たのです。格式がある礼儀作法でしたが、大人の侍女ではなく、見目麗しい童女を使うのは梅壺の配慮でした。王宮での使い役に馴れているせいか、姿や仕草は他とは違って、さすがに感じがよく美しいのです。紫上に仕える若い侍女たちが王宮に勤める童女をもてはやしているのも一興です。

 箱の蓋には梅壺妃が詠んだ歌が置かれていました。

(歌)心から春の庭をお待ちのことでしょうが せめて私どもの庭の紅葉を 

   風の便りにでもご覧になってください

 紫上は返礼として、同じ箱の蓋に苔を敷いて小岩を置いて、返歌をつけた五葉の松の枝を乗せました。

(返歌)風に散ってしまう紅葉などは軽々しいものです 春の花の色を一層鮮やかに見せる 

    岩にしっかりと根を張った 松の常緑をご覧ください

 仔細に見ると、小岩に根を張った松は上手に仕上げた造り物でした。こうやって即席で思いつく紫上の趣向の奥床しさを梅壺妃は興味深く見ていますが、仕える者たちも褒め上げています。

 

「こんな秋の紅葉の便りは何とも憎らしいですな。この返事は春の花盛りの時節に差し上げなさい。今の季節に紅葉の悪口を言うと、秋の紅葉や黄葉を支配する女神ホーラ姉妹の手前もありますからね。今は一歩下って、いずれ春の花を後盾にして反撃したらよいでしょう」とヒカルが助言します。ヒカルと紫上の二人はまだまだ大層若々しく、魅力があふれています。

 婦人たちはそれぞれ希望通りの住まいを得て、お互いにやり取りをしています。モントワールの婦人は他の夫人たちの引越しが済んでから、「数ならぬ身の私は、いつともなしにこっそりと移ろう」と考えて、十一月になってからヴィランドリー城に移りました。ヒカルは住まいのしつらえや引越しの模様も他の婦人たちに劣らないように配慮しました。サン・ブリューの姫君の将来のことを考えて、万事につけそれほどの差別をつけずに、非常に重々しく迎えました。
 九月に亡くなった教皇を次いで新教皇が選出されましたが、王太子の母后と血縁があるメディチ家の者が返り咲きましたので、ミラノ公国奪還に向けた光りが少しばかりは射しこんできたようです。

 

 

 

                著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata