その35.若菜 下  

  

8.ヒカル、紫上と女楽談。紫上、病んでシュノンソーに移る。    ヒカル 四十六歳

 

 女楽が終わった後、ヒカルは自室に戻りましたが、紫上は山桜上の住まいに残って話しなどをした後、明け方に自分の住まいに戻って、陽が高くなるまで眠りました。

「山桜上のハープの音色はとても上手になったではないか。どう感じたかね」とヒカルが尋ねると、「初めの頃、あちらの住まいでちらっと聴いた時は、どんなものかと感じましたが、格段に上達されました。どういうわけでしょう。あれだけ熱心に教えられたからでしょうか」と返答しました。

「そうだね。直に手を取り取りの、ぼんやりとはしていなかった師匠だからね。あれこれ面倒で煩わしく、稽古に時間がかかるので、他人には教えてはこなかった。ところが朱雀院も王宮でも『いくらなんでもハープはしっかり教え込んでいることだろう』と話すのを耳にすると困るので、『せっかく朱雀院が特別な後見役に、と私に預けられたのだから、ハープを教えるといったことなど、せめてそのくらいのことはしなければいけない』と思い立ったのだ」と説明しました。

 

 そのついでに「昔、貴女が世馴れていなかった頃に世話をしていた時分は、暇がない状態だったので、ゆっくりと特別にハープの稽古をしてあげることもできず、近年になっても何となく次から次へと多忙に追われて面倒を見ることができなかったが、貴女のハープの音色が出色だったので私も面目をほどこした。夕霧大将がすっかり感じ入って感嘆していた様子は私が思い描いた通りで嬉しかった」とヒカルは紫上を褒めました。

紫上は今はこうした芸事も円熟し、王子や王女の孫たちの遊び相手や世話を引き受けている様子も至らない所もなく、すべて何事において行き届かない所がないので、ヒカルにとって有難い存在です。逆に「ここまで兼ね備えている人は、長生きをしない例もある」と、縁起でもないことが頭に浮かびました。これまで様々な女性の有様を見定めて来ましたが、「紫上ほど、何から何まで兼ね備えた女性は本当に類がない」と感じ入っていました。

紫上は今年満三十八歳になりました。ヒカルは紫上と連れ添った歳月のことなどをしみじみと思い出していました。そのついでに、「今年はとりわけ祈祷などを例年よりも格別にして、身を慎んでください。何かと忙しいこともあって、私が思い至らないこともあるから、自分自身であれこれと考えて、大きなミサなどをさせてみなさい。それにしても、貴女の祖母の弟の司祭が物故されたのは非常に残念なことだ。大概において、あの司祭は祈祷を頼むのに、とてもふさわしい人物だったからね」などとも話しました。

 

「私自身は幼い頃から普通の人とは違って大切に育てられ、現在でも世の中の評判や有様はこれまでにないほど、類例が少ないものになっている。けれども誰よりも悲しい目にあったことは、人並み以上だったかもしれない。まず第一に母や祖母など大事な人に次々と先立たれ、このような歳になっても、たまらなく悲しいと思うことが多くある。味気ない、そんなことがあるはずはない、といった妙なことへの物思いが絶えず、いつも心に不安を覚えながら人生を送って来たが、『その埋め合わせと言うのか、思っていたよりは今日まで生き永らえて来た』と思わずにはいられない。

それに対して貴女自身には、あのサン・マロ下りで別れた以外は、後にも先にも心を痛めるほどの不安はなかった、と思う。王さまの后、ましてそれより下の高貴な身分の女性といっても、誰でも必ず安心できない物思いが付いてまわっている。身分の高い人たちの間では、付き合いに気を使い、互いに競い合うことが絶えず、楽なことではない。こうした中で、貴女には親の家の深窓で過ごして来たような気楽さがある。その意味では、人よりも勝った運命で生まれた、ということを自覚しているでしょうか。勿論、山桜上がこの城に輿入れして来ることは予測も出来ず、少し辛く感じただろうが、そうであっても私の貴女への愛情が前よりも増した、ということを貴女自身は気付いていないのかもしれない。とは言っても、貴女は物事の察しが良いから、『山桜上の存在があっても、自分への情愛は変わらない』と考えていることだろう」と話しました。

 

「おっしゃるように、何となく頼りない私の身では出来過ぎた人生だ、とよそ目では思われているでしょうが、心中では堪えられない嘆きだけが増えていますので、わが身のために神に祈っております」と、紫上はまだ言い残していることが多そうな気配で、恥ずかしそうにしていましたが、「本心では、もう先は長くない気持ちがしています。そんなことを知らない顔をして今年も過ごしていくと、どうなってしまうのか不安でなりません。前々から話していますように、修道女になることを許してくだされば」と続けました。

「よりによって、そんなことはもっての外です。貴女が修道女となって世俗から離れていったなら、残された私に何の生き甲斐があるだろう。こんな具合に、ただ何ということもなく月日を送っているようだが、明けても暮れても貴女と隔てなく過ごしている嬉しさは勝るものはない、と感じている。まだまだ私がどれほど貴女のことを思っているか、その志を見届けて欲しい」とばかりヒカルは話しますが、紫上は「またいつもの口癖を」と不満足で、涙ぐんでいる気配に、ヒカルは「とても愛おしい」と感じながら、あれこれ慰めていきました。

 

「多くの例を承知しているわけではないが、女性はそれぞれ、どこかに取柄があるということを理解していきながら、『本心から気立てが穏やかで落ち着いた女性を見つけ出すのは極めて難しい』という結論に至った。

 夕霧大将の母の葵君は、まだ少年の頃に縁が出来て、高貴な家柄の出自であることを承知しながらも、いつも仲良くすることができずに、打ち解けない気持ちのままで終わってしまった。今から考えると、気の毒でもあるし残念でもある。ただそれは私一人の過ちだったわけではない、と内心ひそかに思い返してもいる。葵君は生真面目で礼儀正しく重々しく、この点では物足りないと思えるところはなかった。ただあまりに几帳面すぎて、はめをはずすような所もなく、融通もきかなかった。少し賢夫人すぎた、というのであろうか、頼もしく感じながらも、実際に顔を合わせると、煙ったくうっとうしい人柄だった。

 秋好后の母メイヤン夫人は、とりわけ女性というものを知った最初の女性とも言える人であり、嗜みが深く優雅な女性の例として思い出すが、最近になって、オランダの白菊総督の面影をメイヤン夫人に追い求めていたことに気付いた。メイヤン夫人は人柄が分かり辛く、扱いにくい性格だった。私を恨むのが当然と言えるほど一理はあると思われることを、そのままいつまでも根に持って深く怨じるのにはとても閉口した。だから常に気を緩めることがない気恥ずかしさで、私も相手もくつろいで朝夕の対話を交わす際でも、非常に気がねをしなければならなかった。『気を許して話すと、見下されてしまうのではないか』などと、あまりに取り繕っているうちに、次第に隔たりがある仲になってしまった。私とあってはならない浮名を立てて、我が身の軽薄さへの悔いをひどく思い詰めておられたのが相すまなく、本人の人柄を本当に考慮してみても、罪は私にある、といった気持ちでいた。その償いに、そういった縁があったのだからと当人に説明しつつ、世間からの非難や嫉妬も無視して、秋好后を盛り立ててお世話をしたのだから、メイヤン夫人もあの世から私のことを見直してくれていることだろう。

私は昔も今も、いい加減な気紛れから、人に迷惑をかけて後悔していることも多くある」と過ぎ去った婦人たちについて、少しずつ述懐しました。

「サン・ブリュー王妃の後見役をしてくれている婦人は、『それほどの身分でもないし』と軽く見て、扱いやすい相手と思っていたが、心の底がうかがい知れないほど、際限のない深さを持っている人だ。上辺は人の言うことに靡いて温和なように見えながら、内心の深いところには人には打ち解けない芯の強さが隠されていて、何ということもなしに、侮りがたい所がある」と話したりもしました。

 

「他の婦人方はお逢いしたことがないので分かりませんが、サン・ブリュー上ははっきりとではないものの、自然とそうした信念の強さを見せることがあり、打ち解けにくく取りつきにくい点は明らかにあります。隠し立てはしない私のことを本心ではどのように見ているのか、と気が引ける時もあります。けれどもサン・ブリュー王妃は、そんなことも承知していても、私に好意を抱いておられる、と感じております」と紫上が返答しました。

 その存在を知って、一時はあんなにまで妬ましく疎んじたサン・ブリュー上を、「今ではこのように許容して行き通い合っているのも、サン・ブリュー王妃のためを思っての真心の結果なのだろう」と思うと、ヒカルは有難みを感じました。

「貴女こそ、さすがに内心に陰りがないとも言えないのに、人によって事柄によって、如才のない心遣いをしている。今まで随分多くの女性を見て来たが、貴女に匹敵する人はいませんよ。あまりに立派すぎる」と微笑みながら話しました。

 

 ヒカルは「とても上手にハープを弾いてくれた嬉しさを伝えよう」と、夕刻、山桜上の住まいに出掛けました。山桜上は「自分の存在で苦しんでいる人が存在する」ことなど思いも寄らず、まるで子供のような若々しさで、一心にハープの練習に熱中していました。

「今日はハープを横に置いて休息しなさい。その代わりにハープの師匠を慰労してください。大変難儀した日頃の成果が出て、もう心配がないようになったからね」とヒカルはハープを片付けさせて、寝室に入りました。

 

 紫上の住まいでは、いつものようにヒカル不在の夜は、遅くまで起きていて、侍女たちに小説などを読ませて聞いています。

「このように、世の中に起こる事柄を書き集めた昔物語にも、不誠実な男や色好みで二心を合わせ持つ男に関わり合った女、といったような話が集められているが、最後は頼りにする男が現れて落ち着いて行く。それなのに私は浮き草のように過ごして来た。確かにヒカル殿が話されたように、人とは違った幸せな宿命に恵まれはしたが、女として堪えがたく満足できない物思いが離れない身のまま、人生を終えてしまうのだろうか。味気ないことだ」などと思い続けているうちに、夜が更けて就寝しましたが、明け方になって胸が痛みだしました。

 侍女たちは介抱しながら心配して、「ヒカル様にお知らせしなければ」と話していますが、「それはなりません」と紫上は制して、苦しさを我慢しながら日が明けるのを待ちました。身体も熱っぽくなって、気分もひどく悪くなりました。

 日が明るくなっても、ヒカルはすぐには戻って来ない気配でしたが、こちらからは「これこれしかじか」と知らせることはありませんでした。たまたまサン・ブリュー王妃の使いが紫上の住まいを訪れて、「急に具合が悪くなった」と聞き知って、驚いて王妃に伝えたので、王妃の許からヒカルに知らせました。

 

 胸が潰れる思いでヒカルが急いで駆けつけると、紫上はとても苦しそうでした。「どんな加減ですか」とヒカルが身体に触れてみると、ひどい熱でした。はからずも昨日、「今年は身を慎んで」といった話をしたことを思い出して、薄気味悪くなりました。スープなどを運ばせましたが、見向きもしません。

 ヒカルは終日、紫上に付き添って、できる限りの世話を焼きました。紫上はちょっとした菓子でさえ食べるのも難儀そうで、起き上がることもなくなって、数日が経過しました。

「一体、どうなることだろう」とヒカルは落ち着かず、祈祷なども数限りなく始めさせました。僧を呼んで祈祷をさせました。紫上はどこということもなく、ひどく苦しんでいて、時々、胸の痛みが起きて、苦しんでいる様子が堪え難く辛そうでした。様々な祈願をさせますが、効験は見えません。重病と見えても、自然と病勢が衰える兆候があると期待できますが、そんな様子も見えないので、ヒカルは「この上もなく悲しい」と気持ちが塞がり、他のことなど考えられない状況になってしまったので、若菜の賀の準備の騒ぎも静まり、賀はしばらく延期となりました。朱雀院も紫上の病気を知って、度々非常に丁重に見舞いをして来ました。

 

 同じ容態のまま、二月が過ぎました。言いようもなく心痛したヒカルは「試しに居場所を変えてみたら」と、紫上をシュノンソー城に移しました。

 ヴィランドリー城内は動揺して、悲嘆にくれる人が多くいました。冷泉院も知らせを聞いて心配しました。夕霧大将も「紫上が亡くなってしまったら、父も必ず修道僧となる本意を遂げるに違いない」と、真底心配して奔走しています。修法などは、通常に実施されるものは言うまでもなく、夕霧は自分の志をこめた祈祷もさせました。

 紫上は意識が少しはっきりした時には、「かねてから修道女になることを願っていますのに、それを許してくれなくて」と恨み言を言いますが、力が及ばない死別で別れるよりも、眼前で紫上が修道女となる様子を見るのが堪えられず、惜しく悲しくなります。

「以前から、私自身が世を捨てて、修道僧になる本願が強くあったのに、後に残される貴女が寂しくなってしまう、というのが心苦しくて俗世界に留まっていたのに、逆に『貴女が私を見捨ててしまうのか』と思うと」とだけ、未練ある言葉をかけました。それを聞いて、紫上は「頼りがいもない」と感じながら、さらに衰弱していって、もはやこれまで、と見える折々がしばしばありました。

「どうしたら良いものか」とヒカルは途方にくれて、山桜上の住まいへは全く訪れなくなりました。ハープなど楽器類にも興が乗らず、すべて仕舞い込まれて、紫上に仕えるヴィランドリー城の人々は皆残らず、シュノンソー城へ移りました。ヴィランドリー城は火を消したようになって、残っているのは女性ばかりになりました。「この城の花やかさは、紫上一人の存在によるものだった」と見受けられました。

 

 サン・ブリュー王妃もシュノンソー城へ移って、ヒカルと一緒に看病しました。

「妊娠中でただのお身体ではないのですから、物の怪などに憑かれてしまうのが恐いです。早く王宮へお戻りなさい」と紫上は苦しみながらも諭しました。サン・ブリュー王妃の第一王女がとても可愛く美しいのを見て、紫上はひどく泣いてしまいました。

「大きくなるのを見ることができずになってしまいそうです。私のことなど忘れてしまうでしょう」と話しますので、王妃は涙を止めることができず、悲しい思いでいました。

「そんな縁起でもないことを考えないでください。そんなことはありえません。気持ちのもちようで、人はどうにでもなります。心が広い器には幸せもそれに従い、狭い心の持ち主にはそうなる運命の結果しか出ません。高貴な身分に生まれても、豊かでゆったりした点に乏しく、こせこせした人は長続きしません。逆に心が落ち着いて、穏やかな人は寿命が長く続く例が多くあります」などと王妃は「紫上の心配りが有難く、罪障が軽いこと」を明記して神やキリストに宛てて、祈祷させました。

 

 修法を務める僧侶たちや、夜勤めでも紫上の近くにいる高僧などは、王妃がここまで途方に暮れている気配を理解して、ますますいたわしく心苦しくなって、精魂を傾けて祈りました。容態が少し良くなる日が五、六日続くかと思うと、再び重く患うといったように、いつまでとはなく月日が過ぎて行きました。

「一体、どういうことになるだろう。やはり回復は無理なのだろうか」と、ヒカルは歎いています。物の怪などと称して出て来るものもいません。ただ日が重なっていくにつれ、衰弱していく様子だけが見えるので、とてもとても悲しく、やるせない思いをしながら、心が休まる暇もありません。

 

 

9.柏木、第二王女と結婚後、乳母の娘ドニーズの手引で山桜上と密会    ヒカル 四十六歳

 

 そう言えば、衛門督の柏木は官位三位の中納言に昇進しました。安梨王は柏木を非常に親しく思っていることもあって、柏木はまさに時の人になっています。ところが自分に対する世の中の声望が増しているのに、山桜上への自分の思いが叶わない憂いに思いをはせ続けていたことから、柏木は山桜上の腹違いの姉である第二王女と縁組をすることにしました。第二王女の母は身分が低い貴婦人だったので、あまり遠慮がいらない気軽さもあって、朱雀院からの申し入れを受け入れたのでした。

 第二王女の人となりは、普通の女性と較べてみても気配が優れていましたが、柏木は当初から心に思い沁みている山桜上にやはり深く惹かれていました。(歌)私の心はついに慰められなかった アルプスの養老山の山頂に輝く月を見た時は かえって悲しくなった といったように、第二王女を心では慰められない老女と見なして、人目に見咎められない程度の扱いしかしないでいました。

 

 いまだに山桜上への本心を忘れることができない柏木の仲介役となっているドニーズは、山桜上の侍従を務める乳母の娘でした。その乳母の姉は柏木の乳母でしたから、柏木は少年の頃から山桜上の話を身近に聞いていて、まだ幼い時分から山桜上がとても可愛く美しく、朱雀院が大事にしている様子などを耳にしていました。そうしたこともあって、山桜上への恋心が深く染み込んだわけでした。

 たまたま、ヒカルが紫上の看病でヴィランドリー城を離れているから、城内の人目が少なく、ひっそりとしているだろうと推し量って、柏木はドニーズをル・リヴォ(Le Rivau)城に呼んで相談しました。

「以前から寿命が縮むほど、山桜上のことを思っているのだが、こうした親しい手づるを通じて様子を聞き知ることが出来、自分の胸中も話せるので心丈夫に感じている。しかしまだ一向に私の思いの効果が表れないのは、はなはだ辛いことだ。『ヴィランドリー城には大勢の婦人たちが揃っていて、山桜上は婦人たちに負けておられているようで、独り寝の夜が多く、寂しく過ごしておられる』と父の朱雀院にすら奏上する者もいるので、朱雀院は少し後悔をされている様子だ。『同じことなら、臣下で安心できる者を婿にすべきだった。誠実に心をこめて仕えてくれる者をこそ選ぶべきであった、と言われる一方では、第二王女は逆に、中々心配がいらない相手を見つけたので、末長く続きそうだ』と話されている、と伝え聞いている。山桜上が可哀想だし、悔しいことだと、私はひどく思い乱れている。同じ血筋だからと第二王女をお迎えしたが、姉妹と言っても別々なものだった、と実感している」と柏木は溜息をつきました。

 

「まあ、何て大それたことをおっしゃる。第二王女を差し置いて、一体どうするお積りですか。際限がないお心持ですこと」とドニーズが咎めました。

 柏木は少し笑って、「そうと言うことだ。もったいなくも第三王女を願っていた様子は、朱雀院も王宮も聞き及んでいたことだ。『どうかして衛門督に仕えてもらっても良いのでは』と朱雀院は何かのついでおっしゃったにこともある。本当に朱雀院がもう少し骨を折ってくれていたなら」などと言い返しました。

「でも、山桜上の婿になることは難しいことでしたよ。宿運ということもありますが、あのヒカル様が口に出されて所望されたのですから。それに肩を並べて妨げることができる身分とお考えだったのでしょうか。と言っても、この頃は少し昇進されて、表着の色も中納言が着る深紫色になりましたが」とまくしたて、取り付く島もない口調で言い張るので、柏木は言い返すことができなくなりました。

「分かったよ。もう過ぎ去ったことは話さないことにする。ただヒカル様が不在という有難い好機に、お側に近い所で私の胸中の思いを少しだけでも話せるように、何とか工面してくれないか。もちろん、大それたことをしでかす気持ちなど、とても恐ろしいことだから、全く念頭にありはしない」と懇願しました。

「それ以上の大それた心なんて、どんなことになるのでしょうか。何て恐ろしいことを考えついたのでしょう。私は何をしにやって来たのでしょう」とドニーズは不服顔でした。

 

「何て聞き難いことを言う。あまり度を越したことを言わないで欲しい。世の中の男女の仲など、定まったことなどありはしない。后や貴婦人であっても、ひょっとした類のことがなくはない。まして山桜上の有様を考えてみると、とても類がないほど素晴らしい御方であるのに、内心では満足できないことが多くおありであろう。朱雀院の子供たちの中で、並ぶ者がいないくらい大切に育てられたのに、さほど同列でもない身分の婦人たちに混ざり合って、目に余ることもあるだろう。私は詳細に聞いている。世の中というのは、非常に定めがないものだから、一概に決めつけてぶっきらぼうに言い切らないで欲しい」と柏木が言い返しました。

「人から侮られているご様子だから、と言って、縁組を別の立派なお方に改めるわけにはいきませんよ。山桜上ヒカル様の間柄は、世間一般の有様とは違います。ただ朱雀院が『後見者がおらずに落ち着かいない状態でいるよりは、親代わりに』とヒカル様に頼み込んだのですから、その点はお互いに理解し合っておられます。つまらないことを言って、山桜上を貶めようとされるのですか」とドニーズはしまいには怒りだしてしまったので、柏木はあれこれと言い繕いました。

「実際のところ、この世には存在しない、あれほどご立派なヒカル様の様子を見馴れておられる山桜上にとっては、私などは数にも入らず、こんなみすぼらしい姿の者と直に逢ってくださる、とは全く期待していない。ただ物越しにでも、ただ一言告げたいだけなのだから、さほどご本人の尊厳を損ねることにはならない。自分の思っていることを神やキリストに話すと、罪を受けてしまうことになるのだろうか」と、柏木は「間違ったことは決してしない」と宣言して、山桜上との密会を頼み込みました。

「そんなことはできません」とドニーズはしばらくの間、断りましたが、思慮が浅い若い娘でしたから、そこまで必死に熱っぽく頼み込んで来るのを拒み通すことができなくなりました。

「ひょっとして、そうできそうな隙があったら、何とか手立てすることにいたしましょう。ヒカル様がおられない夜は、内カーテンの周りに侍女が大勢侍っていますし、ベッドの側にはしかるべき者が必ず控えているから、どんな折りに、そんな隙を見つけられるのだろう」とドニーズは困惑しながら帰って行きました。

 

 その日以来、ドニーズは柏木から、「どうだろう、どうだろう」と毎日のように責め立てられましたが、ようやく適当な機会を見つけ出して、柏木に知らせました。柏木は喜び勇んで、粗末で目立たない姿で、こっそりヴィランドリー城に入りました。

「正直の話、自分自身でもはなはだけしからぬことをしているのだから、山桜上と間近に出逢えたとしても、どうなろうとも取り乱すことなど思いも寄らないことだ。ただ、とにかく間近で拝見してもらって、山桜上の姿をちらっと目撃した春の夕刻のことを、月日が経ってもいまだに思い出している有様と自分の思いを伝えることが出来れば、ほんの一行くらいの返事はしてくれるだろう。可哀想な男だと感じ入ってくれるだろうか」と淡い期待ばかりを抱いていました。

 四月十日過ぎのことでした。「明日はトゥールのサン・ガチアン(Saint Gatien)大聖堂で山桜上の姉である斎院のミサがあるから」と手伝いに行く侍女が十二人、そのお供の別段身分が高くもない若い侍女や童女などが、思い思いに裁縫や化粧をしたりしながら、ついでに見物もしようと目論みつつ、とりどりに忙しそうにしていました。

 山桜上の周りはひっそりとして、人が多くはいない頃合いでした。普段は山桜上の側に仕える監視役の侍女も、時々通って来る恋人の某中将に無理に呼び出されて、自室に下がっていて、側に侍っているのはドニーズだけになっていました。

「ちょうど良い折りだ」とドニーズは感じて、ベッドの東面の座席の端に柏木を座らせました。そんなにまですることもなかったでしょうに。

 

 内カーテンの中に入った山桜上は無心のまま、ベッドに横になりました。近くに男の気配を感じて、「ヒカル様がおられるのだ」と思った束の間、男はかしこまった気配を見せながら、山桜上をベッドから抱き下ろしました。

「何者かに襲われたのか」と必死に見上げてみると、ヒカルとは別の男でした。しかも訳も分からない妙なことを話します。山桜上は情なく、気味が悪くなって人を呼びましたが、近くに控えている者はおらず、聞きつけて参じる者が誰もいません。わななきながら、冷や汗が水のように流れ出て、気を失うばかりの様子は悲しげでもあり、可愛らしげでもありました。

「取るに足らない者ではありますが、こんなにまで憎まれてしまう身とは思いません。私は以前から身のほど知らずな恋心を抱いていたのを、ひたすら抑え込み、心の中に埋めたままで過ごして来ました。貴女に好意を抱いている話がなまじっか漏れてしまって、ヒカル様の耳にも入ってしまったようですが、『もってのほか』ともおっしゃらなかったようなので、希望を持つようになりました。私は身分が一段階低いので、人より深い貴女への気持ちを空っぽにしなければ、と心を乱したこともありました。

 どうであっても、もう甲斐がないことと幾度の思い返しながら、どんなにか貴女への思いが染み込んでいるのか、年月が経っても口惜しくも恐ろしくも、色々と思いがつのって行きました。堪えることが出来ずに、こうした身のほど知らずな振る舞いをお見せしてしまったのも、とどのつまりは思慮が浅いことなので、恥ずかしいことですが、もうこれ以上の大それた罪を重ねる気持ちはありません」と言い続けました。

 

「この男は柏木中納言だ」と山桜上は気付きましたが、あまりに目にあまる行いが恐ろしく、何も返答はしません。

「貴女が恐がるのももっともなことですが、こうしたことは世の中に例がないことでもありません。珍しいほど無常なお心持なのが情けなくて、ますます向こう見ずな気持ちになってしまいます。一言、可哀想な者とおっしゃってくだされば、それを承って去っていきましょう」と柏木はあれこれと言い立てました。

 離れた場所で想像していた時分は、威厳があって近づいて話をするのは恥ずかしいと気が引けていましたが、「ここまで来たのだから、ただ、これほどまでに思い詰めている一端を話しはするものの、それ以上の手出しをすることはしないでおこう」と思っていました。ところが実際に逢ってみると、それほど高貴で近づき難い女性ではなく、やさしげで可愛らしく、どこまでももの柔らかな気配がこの上もなく上品に感じさせる点では、似た女性は他にはいない印象でした。

 自制する賢明な心も失って、「どこへなりとも連れ隠して、自分自身もこの世を捨てて姿を隠してしまいたい」とまで思い乱れました。我を忘れた熱い抱擁が終わった後、柏木は不覚にもしばらくの間、まどろんでしまいましたが、夢の中で、あの手なずけた猫がとても可愛らしげに鳴きながら寄って来ました。

「そうだ、私がやって来たのは、この猫を返そうと連れて来たからだった。しかしそんなことをしたら、すぐにヒカル様が気付いて咎められてしまうのに、どうしてなのだろうといぶかっている」といった光景でしたが、柏木ははっと驚いて眼を覚まして、「なぜ、こんな夢を見たのだろう」と不思議に思いました。

 

 山桜上は、柏木がした行為があまりに浅ましく、現実とは思えない事態に胸が塞がって、途方に暮れていました。

「やはり、こういった逃れられない宿縁は浅くはなかったのだ、と考えてください。我ながら分別心をなくした気がします」と柏木は釈明しながら、猫の綱がカーテンの端を引き上げて山桜上を目撃した夕べの出来事を話しました。

「なんてまあ、そんなことがあったのか」と山桜上は口惜しく、情ない宿命の我が身を嘆きました。

「こうなってしまったら、どうやってヒカル様にお逢いできよう」と、悲しく心細くなって、まるで子供のように泣きじゃくりました。そんな山桜上を「申し訳なく、可愛そうだ」と見やりながら、柏木は涙をぬぐってあげますが、柏木の袖は山桜上の涙でますます湿っていきました。

 夜が明けていく模様なのに、柏木は中々帰って行こうともしません。「これから、どうしたら良いでしょう。私のことを大変憎まれておられる様子ですので、再度お目にかかることは難しいでしょうが、たった一言でも声を聞かせてください」とあれこれ困らせますが、山桜上にとっては煩わしく情けないだけで、別段、話そうともしません。

「何だか、気味悪くさえなってしまいます。そんなひどい扱い方はないでしょうに」と柏木は残念そうに恨み言を言いました。

「こうなったら、生きている必要はありません。自分の身は無意味なものになってしまいます。今まではこの世にとても未練があったので、ここまで生きて来ました。今宵限りで逢えなくなると思うと、胸がはちきれてしまいます。露ほどでも許していただけるなら、それと引き換えに命を捨てましょう

」と言いながら、山桜上を抱いて内カーテンの外に出て行きますので、「しまいにはどうするつもりなのか」と呆れ果てていました。

 

 柏木は隅の間の屏風を引き開いてドアを押し開けると、昨夜入って来た渡殿の南側の戸がまだ開いたままでした。まだ夜明け前の薄闇の時刻でしたが、せめてちらっとでも顔を見てみたい気持ちになって、やおら鎧戸を引き開けて、「そんなにひどい冷淡さですと、私の恋心も失せてしまいます。お心を少しでも落ち着けよう、とのお気持ちがありますなら、せめて『不憫な者』とだけでもおっしゃって下さい」と脅すように話しました。山桜上は「とんでもない」といった感じで、何か話そうとしながらも、ただわなないて震えていますが、まだまだ少女っぽさが残っている様子です。

 次第に夜が明けて白じんで行くので、柏木は気がせいて、「しんみりした夢物語を話したいところですが、そんなに憎まれては困ります。それにしても、やがて思い当たることもありましょう」とゆっくりも出来ずに立ち去っていく明け方の景色は、秋の空よりも、あれこれ気を揉ませます。

(歌)起きた後 帰って行く先も分からない 夜明けの薄暗がりに どこから降りかかった露が 

   私の袖を湿らせているのだろうか

と、柏木は自分の袖を引き上げながら歎きますが、山桜上はようやく帰ってくれるのだ、と少しほっとしました。

(歌)この夜明けの薄暗がりの空 嘆かわしい身は消え去ってしまいたい 夢を見たのだと済ませたい

と、力弱げに話す声が若々しく可愛らしいので、聞捨てもできないように柏木は去っていきますが、自分の魂は本当に本人の身を離れて、その場に留まっているような気がしました。

 

 柏木は第二王女と住むル・リヴォ城には戻らず、実家のソーミュール城へとこっそりと行きました。ベットに横になったものの、目を閉じることも出来ません。昨夜の夢のような出逢いは、間違いなく再現できるのが難しいことを考えると、あの夢の中の猫の姿の様子をとても恋しく思い出しました。

「それにしても、大それた過ちを犯してしまったものだ。もうこの世に生きていくことすら、眩しくて目も開けていられない」と恐ろしく、身もすくむ思いがして外出などもしないでいます。山桜上にとっては無論のこと、自分自身としても「とてもあってはならないことをしてしまった」という気持ちで、恐るべきことと感じるので、気ままに出歩くこともできません。

 王様の后と過ちを犯して露見したとしても、これほどまで恋の炎に燃えているのなら、身を滅ぼしたとしても苦しくはない。そこまで重い罪には当たらないとしても、ヒカル様ににらみつけられてしまったなら、とても恐ろしくいたたまれないことだ。

「この上もない高貴な女性と言っても、男女の情愛を少しは解しているなら、上辺は優雅でおっとりとしていても、内心では好きな男に心を寄せ、男の言葉に靡いて情を交し合う類のこともある。これに対して山桜上は深い思慮などなく、ただひたすら恐怖心に駆り立てられて、今にでも誰かに見聞きされてしまったように、目も開けれないほどの羞恥に包まれてしまい、陽が当たる場所に出ることも出来ないまま、『何と情けない身になってしまったのだろう』と自戒していることだろう」と、柏木は連想しました。

 

「山桜上の気分がすぐれない」との知らせを受けて、並々ならぬ誠意を尽くしている紫上の看病に加えて、山桜上の身にも何が起きたのか、と驚いたヒカルはシュノンソー城からヴィランドリー城に戻りました。

 ところが、山桜上ははっきり加減が悪い、といった風には見えず、ただひどく沈み込んで、まともにヒカルと目を合わさないようにしています。

「久しい間、不在にしていたのを恨めしく思っているのだろう」とヒカルは愛おしく感じて、紫上の病状などを話しました。

「もう今は最期かもしれない。いまさらながら、薄情な態度を見せてはならないと考えている。少女の頃から面倒を見て来たので放っておくわけにもいかず、しばらくの間は何事も忘れたようにして、看病に専念している。この期間が過ぎたら、貴女も自然と私のことを見直してくれるだろう」とヒカルは弁解しました。ヒカルの話を聞きながら、ヒカルが柏木との出来事を露ほどにも気づいていないことを知って、山桜上は申し訳なく心苦しく感じて、人知れず涙ぐましくなってきました。

 

まして、柏木はル・リヴォ城に戻ってからも、じくじくした気持ちだけが募っていて、寝ても起きても煩悶しながら暮らしていました。祭りがある日などに、先を争って見物に行こうとする仲間たちが連れ立って誘いに来ますが、柏木は病気がちな様子を見せながら、ベッドに臥していました。夫人の第二王女に敬意を払っているように振る舞いながらも、さして打ち解けた様子も見せずに、自室に引き籠って所在なさげに心細い思いでいました。

童女が持っている葵を目にして、

(歌)神が許したわけでもないのに 髪飾りの葵の花を摘んでしまった 罪を犯したことを後悔している

と思うと、かえって恋しさが募ってしまいました。祭りの見物に向かう馬車の賑やかな音など、世の中のことは他人事のように聞きながら、誰のせいでもなく、手持ち無沙汰のまま暮らし難く思っていました。

 第二王女も、柏木がこのように自分には興味がなさそうな気配を感じ取って、どういう事情でなのか理解しないまま、「自尊心を傷つけられてしまうほど、目に余る態度だ」と物思いをせずにはいられないでいます。侍女たちが祭りの見物に出掛けて、人が少なくのんびりした城内を眺めながら、チェンバロをやさしげに弾き鳴らしている気配は、さすがに王女らしい気高い優雅さがありました。その音色を耳にしながら、柏木は「同じことなら妹の方がよかったのに。その思いが叶わない運命だった」と今なお思っていました。

(歌)月桂樹と葵を組み合わせた髪飾り 睦まじい組み合わせのようではあるが どうして葵の花より劣る 

   月桂樹の落葉を拾ってしまったのだろうか

と、いたずら書きしているのは、まことに失礼な嫌みというべきでしょうが、これが世間に漏れてしまって、これ以降、第二王女は「落葉上」と呼ばれるようになりました。

 

 

              著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata