4.ジゼルの虚言と虚構。ニオイ卿の帰邸とマドレーヌの憂鬱

 あっという間に夜が明けました。お供の人々が来て、咳払いをします。ジゼルはそれを聞いて、二人に寄って来ました。ニオイ卿は帰って行く気持ちにはなれず、しみじみとしたまま物足りず、再びコンフランに来ることも難しく、都でも自分を捜していたとしても、今日だけはここにいることにする。「恋焦がれて死んでしまったら 後はどうしようもない 生きている日のためにこそ あなたに逢いたいとの思いで」といった歌の気分だ。「今ここから出て行くのは死んでしまうようなものだ」と思うので、ニオイ卿はジゼルを呼んで、「分別がないように思うだろうが、私が今日はここから出て行くことはしない。お供の者どもはこの辺り近くに隠れているように。事務方の男ジェラルドはパリに戻って『私が修道院に籠っている』と、それらしく報告してくれ」と言うので、ジゼルはようやく驚き呆れてしまって、不注意だった昨夜の失策を思うと狼狽してしまいますが、何とか心を落ち着かせました。

 「こうなったら、正気を失ってあれこれ騒いでみたところで、何の甲斐もないし、ニオイ卿に対して失礼なことになる。先日のヴァンセンヌ邸で怪しいことをされてから、ニオイ卿が姫君を一途に思い詰めてしまったのも、こうならずにはいられない宿命だったのだ。誰のせいでもない」と、ジゼルは自分に言い聞かせて、「今日は母君が迎えに来るのですが、ニオイ卿はどうなされますか。姫君がこうやって、逃れられない宿縁になったことを、母君にどう話したら良いのでしょう。よりによって、本当に都合が悪いことです。今日はこのままお帰りになって、お志がおありになったら、また穏やかにお越しになりましたら」と話しました。

「中々うまい言い方をするな」とニオイ卿は思いながらも、「私はあれ以来、この人のことを思い続けて惚れこんでしまったので、人の非難も耳に入らず、一途に思っているのだ。自分の身のことを少しでも考えるなら、私のような身分の者がこうした忍び歩きを思い立つであろうか。母君には『姫君は今日は心身を慎む日になってしまいましたから』などと言って、帰ってもらいなさい。私がここにいることを知られないようにするのも、姫君や私のためになることを考えてくれ。それ以外のことは何のためにもならない」と言って、浮舟を比べようもなく愛しく思うままに、どんな非難も頓着しない様子です。

 

ジゼルは部屋を出て、ニオイ卿を迎えに来ているアルノーに、「ニオイ卿はこのように話されますが、『やはり不都合なことです』と貴殿からも告げて下さい。ニオイ卿の驚き呆れる、めったにない振舞いは、そうされたいと考えられていても、こういったお供の方々の意思ではないでしょうに、どうして皆さんは思慮浅くお連れ申したのでしょうか。無礼なことを申したりする土地の人が道中にいたら、どうなることか」と言い立てました。

 アルノーは「実に面倒なことになってしまった」と困惑しながらつ立っていました。

「事務方のジェラルドと言われる人はどなたでしょうか。ニオイ卿がこうおっしゃっています」と伝えると、ジェラルドは笑いながら、「あなたの言われることで、私まで恐くなってしまいましたが、そうでなくともパリへ逃げ帰りますよ。ニオイ卿の本気で一通りではない様子を見せつけられたので、誰も誰もが身を投げ出してお供をして来たのです。さてさて、宿直された皆さんも起きて来たので」と急いで出て行きました。

 「人たちに知られないようにするには、どう工夫したら良いのだろう」とジゼルはどうしようもない思いでいました。

 侍女たちが起きて来たので、「カオル様はしかるべき事情があって、とても人に見られたくない気配がありますが、おそらく道中でのっぴきならないことがあったのでしょう。着替えなども夜が更けてから、そっと持ってくるようにと言われました」などと説明しました。

「あれまあ、薄気味悪い。あそこの坂道はとても恐ろしいと言いますからね」、「いつものように先払いもさせずに、ひっそりとお越しになったのでしょうね。まあ、何てとんでもないことを」と侍女たちが言いますが、「お静かに。そんなことを下人が少しでも耳にしたなら、ひどいことになってしまいますよ」とジゼルは注意するものの、気が気ではありません。

「生憎なことに、カオル様の使いが来たら、何と言ったら良いだろう」とジゼルは「ルーアンの神様。今日、何事もなく無事に暮らすことが出来ますように」と願を立てました。

「今日、シャルトルに参詣をさせよう」と母君の迎えが来ることになっているので、侍女たちは皆、心身を清らかにして、「カオル様がお越しになられたということだから、今日はシャルトルには行かれないことでしょう」、「それはとても残念なこと」と話しています。

 

 日が高くなったので、よろい戸を開けて、ジゼルは浮舟の近くで仕えます。本殿のカーテンはすべて閉め切って、「心身の清め」などと書かせた紙を付けていました。万が一、母君自らが迎えに来たとしても、室内に入って来ないように、「昨夜の夢見が悪かったから」という意味合いからでした。

 手や口を洗う水を用意する様子は、カオルがいる時のいつものようですが、まず姫君が相手の世話をするのを意外に感じたニオイ卿は、「まずあなたから洗いなさい」と言いました。

 浮舟は十分に上品で奥床しいカオルを見馴れていたのに、「片時も逢わずにいたら死んでしまう」と自分を思い焦がれてきた人の「情の深さ」というのは、こういうことを言うのだろう、と思い知って、「不思議な巡りあわせとなった身が、世間の噂になったとしたら、マドレーヌ様はどう思われるのだろう」と、真っ先にマドレーヌの心情を案じていました。

ニオイ卿はいまだに浮舟が何者かを知らないので、「返す返す気になってしまう。やはり素姓をありのままに話して欲しい。たとえあなたがひどく下級の人であっても、ますます愛しくなりますよ」としつこいほど問いますが、浮舟はどうしても答えないでいます。その他のことはとても愛想よく、打ち解けて答えたり、話したりして従順なので、「限りなくいじらしい」とだけ感じています。

 

 日が高くなった時分に、母君からの迎えの人たちが来ました。馬車は二輌で、馬に乗った例のように荒っぽい者が七八人、お供の男たちも大勢で、品が悪い気配でべらべらしゃべりながら邸内に入って来たので、侍女たちは苦々しくなって、「あちらの方に隠れているように」と下人に言わせました。

 ジゼルは「どうしたら良いのだろう。『カオル様がお越しになっている』と言うべきだろうが、パリにいるのかいないかは母君の方も、自然と聞き知っているはずだから、隠し通すことは出来ない」と判断して、仲間の侍女たちにも特に相談もせずに、返信を書きました。

「昨夜から月の障りで不浄の身となり、残念なことになったと嘆いておられる上に、騒々しい夢を見られてしまったので、『今日だけは謹慎されましたら』と申し上げて、心身を清めております。私どもも返す返す口惜しい思いで、何かが邪魔をしているのではないかと目を留めております」と書いて、迎えの人々に食事を提供してから帰しました。老女ベネディクトにも「姫君は心身の清めのため、シャルトルには参ることが出来ません」と侍女に言わせました。

 

 浮舟はいつもは霞む丘陵を眺めながら、思いに沈んで暮らし難くしているのに、今は日が暮れて行くことだけを気にしているニオイ卿に心が引かれてしまい、とてもあっけなく日が暮れてしまいました。紛れることもない、のどかな初春のような一日になって、「春霞がたなびいている丘陵の桜は いくら見ても飽きることはない それと同じようにあなたはいくら逢っても飽きることはないのだ」といった歌のように、浮舟には「ここの箇所は」と思わせる所はなく、愛敬が良く心から惹かれる愛らしさでした。

「そうと言ってもマドレーヌには劣っている。今が盛りの夕霧の娘フローラの色香にも劣っている」とニオイ卿は感じているものの、浮舟に心底打ち込んでいるので、「二人には見れない魅力がある」とだけ見続けています。浮舟の方もまた、「カオル大将はとても小綺麗で、こういうお方がおられるだろうかと見ていたが、繊細で華麗さがある点ではカオル様より勝っておられる」と感じていました。

 ニオイ卿はインク壺を引き寄せて、思いのままに書き流します。大層見事に字を書き連ねたり、絵などを見所多く描くので、浮舟の若い女心では、思いはニオイ卿に移ってしまうことでしょう。「思いも寄らずに訪ねて来れない時は、これを見ていなさい」と、いかにも愛らしい男女が一緒に寄り添って臥している絵を描いて、「いつもこうやっていれたなら」とニオイ卿は涙を流しました。

(歌)幾世代をかけても変らないと約束はしても 人の命は明日も分からない命なのだ

と詠んで、「ここまで思い込んでしまうのは怖いほどだ。とても心の思いのままにならない身なので、こちらに通うのにどれだけの工夫をしなければならないか、を考えると、死ぬ思いがする。あの時、つれない仕打ちをされたのに、どうして尋ねて来てしまったのだろう」と告げました。

 浮舟はニオイ卿が濡らした筆を取って、

(返歌)この世の中で 定めがないものは 人の命ばかりだと思ってよいなら 男心の定めのなさを嘆かないで済むものを

と詠んだので、ニオイ卿は「私が心変わりをしたら、恨めしく思うのだろう」と感じるにつけても、浮舟をとても愛おしく思いました。

「どういう人の心変わりを見倣ってのことだろう」などとニオイ卿は微笑みながら、カオル大将がここに連れて来た始まりを知りたがって、返す返す問いますが、浮舟は嫌がりながら、「私が話そうともしないことを、どうして聞こうとされるのですか」と恨んだりするのも、若くうぶな様子です。「いずれ自然と聞き出せる」と思うものの、浮舟に言わせようとするのは困ったことです。

 

  夜に入ってから、パリへ報告に送ったジェラルドが戻って来て、ジゼルと面会しました。

「サン・ブリュー大后の使いもヴァンセンヌ邸に来て、『夕霧左大臣も機嫌を損ねています。人に隠した外出はひどく軽々しく、間違いが起きたりします。王宮で知れ渡ったら、私の立場はひどく辛いことになってしまう』とぶつぶつ言われているとのことです。そこで私は『東の修道院の高徳な修道者に会いに』とごまかしました」などと話してから、「それにしても、女こそ罪深いものですね。何ともない端の者まで困らせ、嘘までつかせるとは」と愚痴りました。ジゼルは「高徳の修道者とまで付け加えてくれたのは、賢明なことです。その言葉で私の罪も消えることでしょう。それにしても、ニオイ卿はどうしてとても妙な癖を身につけられているのでしょうか。あらかじめ。『こうやって来る》と承っていたなら、とても恐れ多いことですから、うまく取り計らいましたのに。どうして軽率な外歩きをされるのでしょうね』と問い返しました。

 ジゼルはニオイ卿の面前に行って、その旨を伝えました。

「確かにパリの人たちはどのように案じているのだろう」と思いやるものの、「窮屈な身はやりきれないものだ。私もしばらくの間でも、身軽な王宮人になってみたいものだ。しかし、今はどうすべきなのか。包み隠すべき人目をはばかってもいられない。カオル大将もどう思うことだろう。カオルとは親しいはずの仲、と言いながら、昔から不思議なほど睦まじくしているが、こうしたわだかまりを知られてしまうのは恥ずかしいことだ。また、どういうわけか世間でよく口に出る例であるが、『待ち遠しがらせている自分の怠慢を棚に上げて、カオルが姫君を恨んだりするだろうか』とすら思ったりします。

「夢にも人に知られないようにして、ここではない所に連れて行きたいものだ」と浮舟に話します。

 

  今日もこうやって籠っていることも出来ないので、邸を出て行こうとしながら、「飽きもせずに あなたの袖の中に入ってしまったのだろうか 私の魂が自分の身体にない気がする」といった歌を思い浮かべました。

「夜が明けてしないうちに」と人々は咳払いをしてせき立てます。ニオイ卿は両開きの扉まで浮舟を連れて行ってからも、中々出ようとはしないでいます。

(歌)あなたと別れる悲しさに 先に立つ涙までが行く手の道を暗くして 私はかって経験したこともないくらい途方にくれることだろう

 浮舟も「限りなく悲しいこと」と思っていました。

(返歌)私の狭い袖では あふれ落ちる涙をさえ堰き止めかねていますが どうやって引き留めることが出来ましょう

 風の音もひどく荒々しく、霜が深い明け方でした。「東の空が白々と明けて来て あなたと私はそれぞれの服を着て別れて行く 本当に悲しいことだ」といった歌のような心地がして、馬に乗ったものの、浅ましいことに引き返したい思いもしますが、お供の人たちは「うかうかとしてはいられない」と急ぎに急がせるので、上の空になりながら、邸を出ました。

 官位五位のアルノーとジェラルドは、ニオイ卿が乗った馬の口先に付き添って、険しい坂道を越えてから、それぞれ自分の馬に乗りました。水際の水を踏み鳴らす馬の蹄さえ心細く聞え、もの悲しいことです。マドレーヌに出逢いに行ったその昔も通った坂道ですが。「何とも不思議な因縁がある山里だな」とニオイ卿は思いました。

 

 

 5.カオル・浮舟・ニオイ卿の三角関係と、浮舟の煩悶

 ニオイ卿はヴァンセンヌ邸に戻りました。マドレーヌへの心苦しい隠し立ても辛いことなので、気が休まる自室に籠ったものの、眠ることが出来ません。ひどく寂しくなってあれこれ物思いをしてしまうので、気弱になってマドレーヌの室に行きました。

 何も知らないマドレーヌはさっぱりと小綺麗にいました。ニオイ卿が「珍しくも可愛げがある」と感じた浮舟よりも、「やはりマドレーヌはめったにいない存在だ」と見やりながら、浮舟がとてもよくマドレーヌに似ていることを思い出して、胸がいっぱいになり、ひどく物思いにかられながら、寝床に入って寝に着きました。

 ニオイ卿はマドレーヌも連れて寝床に入りましたが、「ひどく気分が悪い。これからどうなってしまうのか、心細くなってしまう。自分がとても恋しくあなたを見やっていても、あなたの様子ではすぐにでもカオル大将に心変わりをするのではないだろうか。人の本意は必ず叶うものだから」と話します。

「けしからないことを真顔で言うとは」と思ったマドレーヌは、「そんな聞き憎い話をカオル様が漏れ聞いて、『マドレーヌは自分のことをどんな風に話しているのか』と疑ってしまったなら、何とも言いようがない。私のような情けない身では、何ということもない言葉でも、とても苦しくなってしまう」と、顔を背けました。

 ニオイ卿は真顔になって、「私があなたを恨んでいるのをどう思っていますか。私はあなたにとっていい加減な人なのですか。『有難すぎるほどだ』と世間の人が咎めるほどではないですか。それなのに、あなたはカオル大将よりも私のことをずっと下に見ていますね。そうなるのは宿命だと判断しているが、それにしても、あの女性のことで隠し立てをしているのは、情けないことだ」と言いながらも、「とは言うものの、一通りではない運命であったから、あの女性を探し当てたのだ」と思い起こして、嬉し涙が出ました。

 マドレーヌはニオイ卿が自分のことを本気で恨んでいるのを見て、「気の毒なことだが、カオル様と私のことをどういった風に聞いているのだろう」と驚きつつ、何も答えずにいました。

 「ニオイ卿は最初に私を何となく頼りなげに見初めたのは、私のことを何事も軽々しい者と思い込んでいたからだろう。何ということもない人を道案内にして、その好意を通して私がニオイ卿を受け入れてしまったのが誤りだったし、それがために私は軽めの劣った身になってしまったのだ」と思い続けると、ひどく悲しくなって、とてもいじらしい気配をしていました。

「あの女性を見つけてしまったことは、当分の間、マドレーヌには教えないでおこう」とニオイ卿は考えて、別のことにかこつけてマドレーヌを恨んでいるだけなのですが、マドレーヌは「あの大将との関係を本気で疑っているのだ」と単純に思ってしまって、「誰かがありもしないことをニオイ卿に話したのだろう」と感じていました。その誰かをつきとめない間は、ニオイ卿と顔を合わせるのを恥ずかしがっていました。

 

王宮のサン・ブリュー大后から手紙があったとの報告に驚いて、なおも安心してはいないふりをしながら、自室に戻りました。

「昨日の気がかりなことを周りの者も案じています。よろしかったら王宮に上がって下さい。久しくお逢いもしていませんし」などと書いてありました。大后たちに心配をさせてしまうのも心苦しいのですが、昨夜の浮舟との余韻もあってか、本当に気分がすぐれないので、その日は王宮には上がりませんでした。上官など多くの人が見舞いに伺いましたが、自室に籠って過ごしていました。

 夕刻にカオル右大将が訪れました。ニオイ卿は「こちらへ」と打ち解けた様子でカオルと対面しました。「病で悩ましくされている」と聞いて、駆け付けましたが、サン・ブリュー大后も不安そうにされています。容態はどんなでしょうか」とカオルが尋ねました。

 ニオイ卿はカオルを見ながら、浮舟を奪ったことでとても胸騒ぎがして、言葉少なにしていましたが、内心では「カオルは『聖人らしく』と言いながら、とんでもない修験者だ。あれほど愛らしい人をコンフランに囲っておきながら、のんびりと長い間、待ちわびさせているとは」と思っていました。いつもはちょっとしたことのついでに、「真面目な男」だと認め自負しているのを妬んで、あれこれけちをつけているので、カオルの内緒事を暴き出したとはしゃぎ立てることも出来ますが、今はそうした冗談事も言わないでいます。

 ニオイ卿が非常に苦しそうにしているので、「具合が悪いようですね。大して重くもないといった気持ちで日数を立ててしまうと、かえって悪化してしまいます。風邪をひかれたようですがお大事に」と真面目に話して、カオルは邸を出ました。

「カオルは確かに奥床しい人物だ。あの人は私の有り様とどのように思い比べているのだろう」と何につけても、片時も忘れずに浮舟を思い出しています。

 

 コンフランではシャルトル行きを止めたので、侍女たちものんびりと過ごしています。ニオイ卿は普通の程度ではないことを書き連ねた手紙を送って来ます。それだけでは安心できないのか、ジェラルドと呼ばれる事務方の男を、事情を何も知らないふりをさせて、寄越したりします。ジゼルは仲間の侍女たちに、「古くから知っている男がカオル様のお供になって出逢ったので、よりを戻して親しくしているようですと言い聞かせたり、何事も嘘をついて廻っていました。

 こうして一月が過ぎました。ニオイ卿は思いを馳せますが、コンフランに行く理由が見つかりません。「あの女性のことをこれほどまでに思い詰めていたら、長生きは出来ないだろう」と心細い思いも加わりながら、嘆いていました。

 カオル大将は少し公務が暇になった頃、予告した通り二月初めに、いつものように忍び歩きでコンフランに行きました。近くの教会でキリスト様などを拝みました。祈祷をさせた神父に寄贈などをしてから、夕刻、こっそりと浮舟の所に忍んで行きます。無理してやつれた姿をせずに、帽子や平服の姿はさっぱりと小綺麗で、邸内に歩み入って行く気配は気恥ずかしそうに気を引き締めていました。

 浮舟は「どうやってカオル様に顔向けが出来るだろうか」と空を見ることさえ恥ずかしく恐ろしくなりながら、ニオイ卿の有様を思い出して、またいつかニオイ卿に出逢うことを思いやると、たまらなく辛くなりました。「私は日頃から見馴れている人も忘れて、すべてあなたへの思いに変った心地がする」とニオイ卿が告げていたが、確かにあの日以降、「気分が良くない」と言って、マドレーヌ様やフローラ様などには、いつものように接することはなく、祈祷に励んでいると聞くし、また、「私がカオル様と逢ったことを聞いたら、どんな思いがするだろう」と考えると、とても苦しくなります。

 一方のカオルはいつもよりさらに気品が高く、柔和な親しみを示して、久しく来れなかった言い訳をするものの、言葉少なでした。「恋しいとか悲しい」とか、くどくどとは言わず、常に逢うことが出来ない恋の苦しさを、程よい感じで口にするのが、多弁な言葉よりも勝っていて、「とても感じが良い」と浮舟に思わせるような人柄でした。婀娜っぽいといった点でも申し分はなく、末永く頼っていけそうな心映えもニオイ卿よりも勝っていました。

「思いかけず、ニオイ卿に心変わりをしたことをカオル様が漏れ聞いたとするなら、一通りではない衝撃を受けるだろう。不思議なほど恋い慕ってくれ、思いを寄せてくれるニオイ卿を『愛しい』と思ってしまうのは、あるまじき軽薄さではある。それでもニオイ卿に『気にくわない』と思われて、忘れられてしまう心細さはさぞかし胸に深く沁みてしまうことだろう」と、浮舟は思い乱れてしまいます。

 そんな浮舟の気配を見て、「しばらく逢わないうちに、浮舟はものの情理をわきまえて、成長したものだ。退屈して寂しい住まいにいることから、あれこれ気になってしまうのだろう」と解釈して、心苦しくなったカオルは、いつもより心を留めて浮舟に話しました。

「以前から造らせていた所がようやく満足できるように仕上がった。先日、見に行ってみると、ここより水の流れに親しみがあり、花々も見甲斐がある。私のランブイエ城からも近くにある。今のように頻繁に逢えないことも自然となくなってしまう。この春にでもそこに移ってもらおう」と浮舟に話しますが、「ニオイ卿ものどかな場所を見つけた」と昨日の手紙で書いていたが、カオル様の計画も知らずに、そんなことを考えているのだとニオイ卿を気の毒に思いながらも、「そうと言ってもニオイ卿に靡いてしまうわけにもいかないのだが」と、あの時のニオイ卿の面影を思い出すと、「我ながら、何て浅ましい身なのだろう」と思い続けて、泣いてしまいます。

「そんな風にくよくよすることはない。おっとりと穏やかにいてくれると、私も気楽になって嬉しいのだ。誰かが何か耳に入れたのだろうか。少しでもあなたをおろそかに思っているなら、こうまでして逢いに来られる身分でも道程でもないのに」と、少し端近くで横になって、月始めの夕月夜の風景を眺めていました。

 カオルは亡きジュヌヴィエーヴへの悲しみも思い出しながら、一方の浮舟は新たに出て来たニオイ卿との自分の身の憂いを嘆きながら、お互いに物思いにふけっています。丘陵の方は霞がかかっていて、寒そうな洲の崎に立っている鷺の姿も、所柄のせいか大層趣があるように見えます。

 セーヌ河を渡る橋がはるばると見渡され、小枝を積んだ舟が所々で行違っている風景など、他の所では見馴れないことが寄り集まっている所なので、それを見る度ごとに、やはりジュヌヴィエーヴとの当時が目の前に戻って来たような気分がして、浮舟のような人でなくても、お互いに顔を見合わせていると、好ましい仲になってしまいそうな場面でした。まして浮舟は恋しいジュヌヴィエーヴに見立ててもかけ離れてもおらず、次第に情愛を理解するようになり、都会馴れをしていく様子が楽しく、以前よりも優れて見える心地がします。

 浮舟は複雑に絡み合った心中から、どうかすると涙が出て来てしまいますが、カオルはどう慰めたらよいのか、持て余していました。

(歌)コンフランの橋が長いように 末永く続くあなたとの契りは絶えることはない あやふやなように思って 気を揉んではいけない

「今はもう、私の本心が分かるでしょう」と詠みました。

(返歌)間なくもろくなっているコンフランの橋なのに それでもなお朽ちないものと思って頼りにしろと おっしゃるのですか

 カオルはこれまで以上にひとしお浮舟を捨てがたくなって、少しでも長く一緒にいたい思いがしますが、「世間の風評が面倒なことは今更なことだ。とにかく安心をさせることだ」と思い直して、早朝に帰って行きました。「それにしても、うまく大人びて来たものだ」と後ろ髪が引かれる感じはこれまでにないことでした。

 

 二月の十日頃に王宮で「詩作の会」が開催されるとのことで、ニオイ卿もカオル大将も参加しました。それに合わせて、管弦の催しもありましたが、ニオイ卿は見事な声で「梅の枝」などを歌いました。何事においても、ニオイ卿は人より格段に勝っていますが、何ともないことに思いを入れてしまうのが罪深いことでした。

 その日は急に雪が降り乱れ、風なども激しく吹いたので、遊園はすぐに中止となりました。ニオイ卿の宿直室に人々が尋ねてきましたが、ニオイ卿は食事を済ませてから休んでいました。カオル大将は「誰かに話をしよう」として、宿直室の端近くに行きましたが、雪が次第に降り積もり、星の光りがはっきりとしない中、カオルの匂いや様子は、「春の夜の闇はわけが分からない 梅の花の色を隠すのに 匂いは隠さない 粋なことをするものだといった歌を思わせます。カオルが「寝床に自分の衣だけを敷いて 今宵も私を待っているのだろうか コンフランの橋姫は」といった歌を詠んだり、ちょっとしたしたことを口ずさんだりしても、不思議に愛らしい気配が添う人柄ですが、とても意味が深そうでした。

 ニオイ卿は寝たふりをしながら、「事もあろうに」と胸騒ぎがしました。「カオルはあの橋姫をいい加減には思っていないのだ。自分だけが『独り寝をする袖』を思いやっている心地がしていたのに、カオルが同じ気持ちでいるのは悲しいし、がっかりする。これほどの男が前からいるのをさしおいて、どうして自分の方に靡いてくれるのか」と妬ましい思いになりました。

 翌朝は雪がおびただしく高く積っていましたが、「詩作の会」に出席しなければ」と王室に入りましたが、この頃のニオイ卿の容姿は男盛りで、こざっぱりと美しく見えます。

 カオルは年齢がニオイ卿より一つ年下ですが、落ち着いているカオルの方が二つか三つ年上のように見え、立派な立ち居振る舞いなどは、わざと上品な者にしようとする男の手本にしても良いように見えます。「さすがに亡き安梨王の婿だけあって、満足できない所はない」と世間の人が話すのももっともなことでした。学才や公務に関しても遅れをとっていません。

 

「詩作の会」の披露が終わり、皆が退出しました。ニオイ卿が作った詩が「優れている」と皆が誦したりしていますが、ニオイ卿は嬉しいとも思わず、「カオルはどんな気持ちであんな歌を誦したのだろう」と空を見上げながら、浮舟のことを思い焦がれていました。

 昨夜のカオルが詠んだ歌と気配にひどく驚いたので、無理な口実を作って、ニオイ卿はコンフランに出掛けました。都のパリではわずかに消え残っている雪も、坂道を深く入って行くままに、まだ厚く積っています。いつもよりも歩きにくい、めったにない細道を分け入って行くので、お供の人々も泣きだしたいほど恐ろしく、面倒なことに思っていました。案内役のアルノーは文書室に加えて、文官省の次官も兼任しており、いずれも重い職分に当たる役人でしたが、いかにも付き人らしく、ズボンの裾をたくし上げている姿は面白くもありました。

 コンフランでは「ニオイ卿がお越しになる」という通知はありましたが、「こんな大雪では」と油断していると、夜が更けてからジゼル宛てにニオイ卿到着の知らせがありました。浮舟も「驚き呆れてしまう」と思いました。

「姫君はしまいにはどうなってしまうのだろうか」とジゼルは心苦しく思うものの、この夜は驚きのあまり、用心深さも忘れてしまったことでしょう。帰ってもらうことも出来ないので、自分のように浮舟が気に入っていて、気立てもしっかりしている若い侍女に向けて、「並みの程度ではない、どうしようもないことになりました。私と同じ気持ちになって、内緒にして下さい」と言って、二人でニオイ卿を中に入れました。道中で濡れた香りがその場いっぱいになるのを持て余しながら、二人はカオルの気配に似せて、ごまかしました。

 その夜のうちにパリに戻るのは中途半端であるし、この邸の人目も気になってしまうので、 ジェラルドに妙案を相談しました。「川の向こう岸にある人家に姫君をお連れしたら」とジェラルドが思いついたので、先にジェラルドをその家に行かすと、夜が更けてから戻って来て、「とても上手く用意が出来ました」と報告しました。

「これはまあ、姫君をどうされるのだろう」とジゼルは慌ただしく、寝ぼけ顔で起きた気持ちも吹き飛んで、幼い童女が雪遊びをした時のように、震え上がってしまいました。

「どうしてそのようなことを」と浮舟に言わせる暇も与えずに、ニオイ卿は浮舟を抱きかかえて出て行きました。ジゼルはこの邸に残って、侍従をお供につけました。

 浮舟は「頼りなさそうだ」といつも眺めていた小舟に乗せられて、セーヌ川を渡っている間も、はるか遠い岸にも漕ぎ離れて行くように心細く思えるので、ニオイ卿にじっとくっついて抱かれているので、ニオイ卿は「とても可愛いい」と思っています。

 残月がさえざえと澄み昇って、川の水面も曇りなく見えますが、「これがモミの木の小島ですよ」と言って、舟乗りが小舟をしばらく止めたので、ニオイ卿が見やると、大きな岩のような形で、風情がある常緑樹がこんもりと茂っています。

「あれを見てご覧。非常に頼りなさそうな、はかない木だが、千年も生きる緑の深さを」と言いながら、

(歌)モミの木の小島の先で 行く末のことを約束するこの心は あの常緑樹の緑の色が千年も変らないように 幾年たっても変わることがあるだろうか

 浮舟も珍しそうな旅に出たように思えて、

(返歌)モミの木の小島の緑の色は 千年も変らないのでしょうが 波に浮いているこの舟はどこへ行くのか 行方も分かりません

小舟に乗った浮舟の様子を見ながら、ニオイ卿は浮舟が何をしても楽しく感じました。

 

 小舟は向こう岸に着きましたが、浮舟を人に抱かせて下りるのはとても心苦しいので、自分で浮舟を抱いて、お供に助けられながら小さな家に入りましたが、家の番人たちは「何て見苦しいことをするのだ。どれほどの人がこんな騒ぎをしでかすのだろう」と見やっていました。

 その小家はジェラルドの叔父のフィニステール(Finistère)知事が所有する荘園にささやかに造った家でした。まだ未完成なのか、荒々しさが残っていて、ニオイ卿が見たこともない細板を組み合わせた屏風などが置かれているものの、風も十分に遮ることが出来ません。垣根の下の雪は消え残っていて、今も空がかき曇り、雪が降っていました。ようやく日が差し出て来て、軒のツララが光る中、浮舟の容姿が勝っている心地がしました。

 ニオイ卿も雪で狭くなった道中であったこともあって、軽装のままでした。浮舟の上着を脱がすと、ほっそりとした身体づきが大層愛らしく見えます。「きちんと身なりを整えずに、気を許した様子でとても気恥ずかしく、まぶしいほど美男子な方と向かい合っているとは」と浮舟は思いながら、逃げ隠れも出来ません。

 浮舟は親しみがもてる白い服を重ね着していて、袖口や裾までなまめかしく、色様々な服を重ね着しているよりもすっきりと着こなしていました。いつも見馴れている人でも、ここまで打ち解けた姿を見たことがなかったので、ニオイ卿はこんな様子までなおさら珍しく、楽しく思いました。お付きの侍従も中々見た目が良い若い侍女でしたが、浮舟は「こんな者にまで、こうした姿を残りなく見られてしまっている」と、情けなく思っていました。ニオイ卿は侍従に「お前は一体、何者なのだ。私の名を人に漏らしてはならないよ」と口固めをしますが、侍従は「何て素敵なお方でしょう」とニオイ卿を見やっていました。

 この小屋の番人として住んでいる男はジェラルドを自分の主人と心得てかしずいているので、ニオイ卿がいる部屋のドアを隔てたジェラルドは得意そうな顔をしていました。番人が声を低めて、かしこまって話しかけますが、答えもせずにおかしがっていました。「占星術師からひどく恐ろしい占いが出たので、謹慎をするべく、パリ市内すら離れて、大事をとっているのだ。他の人を近づけてはならない」と告げていました。

 人目もなくなったので、ニオイ卿は気遣いもなく浮舟と語らいながら過ごしました。「カオルがコンフランの邸にやって来ても、この姫君はこんな風に打ち解けるのだろうか」と思って、浮舟に嫌味なことを話したりします。カオルが第二王女ジョセフィンを尊んで大事にしている様子を話したり、耳に留まった、あの「独り寝の袖」といった一節を口に出したりしました。番人が手配した手洗い水や果物をジェラルドが受け取っているのを見て、ニオイ卿は「大事にお世話をしている客人なのだ。番人には見られない方が良い」と注意しました。侍従は恋の情趣を好む若い女性なので、「楽しそうにされている」と感じながら、ジェラルドと話し込んでいました。

 

 雪が降り積もっている中、自分が住むパリの方を見やると、霞の途切れ途切れに木立ちの梢だけが見えます。丘陵が鏡をかけたように夕日に輝いているのを見ながら、昨夜踏み分けた道中が耐え難がたかったったことなど、しんみりと話したりしました。

(歌)峰の雪や汀の氷を踏み分けて来た私は 道に迷うことはなかったが あなた故に心が惑ってしまった

と詠んだり、粗末なインク壺を盛って来させて、「険しい坂道を馬で越えずに 近道を徒歩でやって来た あなたへの思慕に堪えかねて」といった歌などを書き流したりします。

(返歌)降り乱れ 汀に凍った雪よりも先に 私は空の中途で消えてしまうことでしょう

と浮舟は詠んで書きしましたが、すぐに消してしまいました。ニオイ卿は「空の中途」の語句を見咎めたので、浮舟はまずいことを書いてしまった」と書いた紙を引き破りました。

 ただでさえ見る甲斐があるニオイ卿が「ますます深くしみじみと、あなたの心に沁み込んでくれたなら」ととりなす言葉や様子は言いようもありません。「謹慎は二日間」と都の人たちに伝えたので、二人は互いに気を許して、しみじみと深く思い合いました。

 ジゼルは例の侍女たちに何やかや言いつくろいながら、衣服などを小家にいる浮舟の許に送りました。今日は乱れた髪を侍従に整えてもらい、濃い紫の上に紅梅の織物と、色の取り合わせも良いように着替えていました。汚れた上着を着ていた侍従も、鮮やかなものに着替えていましたが、ニオイ卿はその上着を取って浮舟に着せて手洗いの水を差し出しました。「スペインに嫁いだエリザベトにこの上着を差し上げたら、素晴らしいものだと気に入ることだろう。うち捨ててはおけない侍女たちは多くいるものの、これほどの様子をした者はいない」とニオイ卿は見やっていました。

 二人はみっともないほど遊び戯れながら過ごしました。返す返すニオイ卿は、こっそり浮舟をパリに移り隠すことを話します。「それまでの間に、カオル殿には逢わないように」ととても難しいことどもを誓わせますが、「そんなどうしようも出来ないことを」と浮舟は思って、答えもしないで涙すら流す気配をするので、「目の前に私がいるのに、改めてカオルに思いを移しているのか」と胸が痛くなりました。

 恨んだり泣き言を言ったり、多くのことを語り明かして、夜が深まってから、コンフランに戻ります。今度も浮舟を抱いて小舟に乗せました。「あなたが並々でないと思っている人は、こうまではしないでしょう。私の情愛を見知ったでしょう」と言うと、「確かに」と感じて肯いているのがとてもいじらしいのです。コンフランに戻ると、ジゼルが両開きの戸を開けて、浮舟を中に入れました。ニオイ卿は別れを告げますが、「たまらなく名残惜しい」との思いでした。

 

 こうした場合は、夕霧邸のフローラの所ではなく、やはりマドレーヌがいるヴァンセンヌ邸に戻ります。ひどく気分が悪くなって、食事も全く手にしないで、日が経つにつれ、青白く痩せてしまいました。顔つきも変ってしまいました。王宮でもどちらでも心配して嘆き騒ぐので、コンフラン宛ての手紙すら細々と書けずにいました。

 コンフランでは、自分の娘がお産をする所に行っていた、あの無遠慮で口うるさい乳母が戻って来たので、浮舟はニオイ卿からの手紙を安心して読むことが出来ません。浮舟の母君は、浮舟がああいった侘しい住まいで暮らしていても、そのうちカオル様が迎えに来てくれるだろうと、気長に思い慰めていました。人の目を避けるようにしながら、パリに引き取る意向のようなので、世間体もとても良く嬉しいことだと思って、少しづつ侍女を見つけたり、小綺麗な女児を雇ってコンフランに送って来ます。浮舟も「そうなってしかるべきだし、当初からその積りで待っていたのだから」との思いがするものの、あの強引なニオイ卿のことを思い起こすと、浮舟に恨みごとを言う様子や口説き文句が浮かんで来ます。寝付いて、しばらくまどろんでいる時にも、ニオイ卿が夢に見えて来るので、とても情けなく思っていました。