その21.乙女        (ヒカル 32歳~34歳)   

 

8.雲井雁が父邸に移る、若君離別の哀愁

 

 自分自身のことで、そんなに騒がれていることも知らずに、ヒカルの若君がアンジェ城にやって来ました。前回の晩は人目が多くて、恋しい若姫に思いを告げることができなかったので、普段よりも一塩恋しくなって、人が少ない夕刻早めに訪れたのでしょう。

 いつもなら大宮は何も言わずににこにこしながら喜んで迎えるのですが、今回は真剣な態度で話してきます。

「あなたのことで、内大臣が恨み言をおっしゃっていましたので、大変心配しています。さして疎遠とは言えない者に思いを染めて、周囲の者に気苦労をさせているというのは心苦しいことです。こんなことを言いたくはありませんが、そうしたことも気付いていないのか、と思って」と話しますが、自分でも気にかかっている一件でしたから、すぐに何についてなのか思い当たりました。

 若君は顔を赤くして、「何のことについてでしょうか。閑静なシセイ城に籠もるようになってからは、とにかく人と交じる折もありませんので、恨まれてしまうようなことはありえないと思いますが」と言いながらも、大層恥かしく感じている様子が愛おしく不憫なので、大宮は「まあ、いいでしょう。これからは気をつけなさいね」とだけ言って、別の話に切り替えたものの、若君は「こうなると、手紙のやりとりもますます難しくなってしまう」と考えて歎息をしてしまいます。

 

 大宮が夕食を用意しても食欲はなく、寝についたふりをしても心中はうわの空です。人が寝静まった時分に若姫がいる部屋の戸を押してみますと、普段は特に鍵がかけられていないのに、堅く閉ざされていて、人声もしません。ひどく心細い思いがして、戸に寄りかかっていると、若姫も目を覚まして、風の音が柳の葉にあたってさやさやとそよめき、空を飛ぶ雁の啼く声がほのかに聞えます。

 若姫は子供心なりに、何かと思い乱れているのでしょう。

(歌)霧が深い雲の中を飛ぶ雁も 私のようなのでしょうか 気が晴れず 物悲しいことです

と独り言を言っている気配が少女らしく可憐です。

 

 若君はひどくじれったくなって、「この戸を開けてください。乳母の娘さんがおりませんか」と話かけるものの、室内からの返答はありません。若姫は若君に独り言を聞かれてしまったのがやるせなく、顔に掛け布団を被せてしまいましたが、恋心のせつなさを知らないようでもないのは憎いことです。乳母たちが近くに臥していますので、身動きするのも気がひけますが、お互いに音をたてずにいます。

(歌)夜中に 友を呼びながら 空を行く雁の声が 物悲しく聞えるのに 

       荻(Silver Glass, Herbe de Pampas)の上を吹く風が さらに悲しみを吹き加えている

「身にしむものだな」と若君は思い続けながら、大宮の居間に戻って溜息をつきます。

「もしかして祖母が目を覚まして、この溜息を聞いてしまったら」と気になって、みじろぎながら寝入りましたが、不愉快なまま恥ずかしさがつのって、早朝に自室に戻って恋文を書いてみましたが、乳母の娘を呼び出すこともできず、若姫の部屋にも入れないので、胸が潰れる思いです。

 

 若姫の雲井雁の方は父親たちに騒がれてしまったのが恥かしいだけです。「自分の身はどうなってしまうのだろう。周りの人はどう思っているのだろうか」とまで深くは考えず、あくまでおおらかであどけなく、侍女たちが若君の噂をしていても、「疎ましいことだ」との思いもしていません。「なぜこんなに騒がれてしまうのか」と思ってもいなかったことでしたが、世話役の者たちがひどく咎めたりしますから、自分の方から若君に手紙を書いて送ることはありません。大人びた者なら、何とか隙を見つけ出すこともできるでしょうが、若君の方もまだまだ頼りない歳でしたから、「ただ非常に口惜しいことだ」と思うだけでした。

 

 内大臣アントワンはあれっきりアンジェ城を訪れることはせず、もっぱら母の大宮をひどく恨んでいます。正妻には「こんなことがあった」という素振りも見せません。ただ何となくとても不機嫌な気分で、「梅壺が格別な花やかさで王妃に立ってから、アンジェリクが世の中をはかなんで打ち沈んでいるのが心苦しく、胸が痛くなってしまう。実家へ下らせて、ゆっくり休ませることにする。さすがに王さまはアンジェリクのことを大事に扱ってくれていて、夜昼、ずっと伺候させておられるようだが、アンジェリクに仕えている侍女たちもくつろぐ暇がなくて、辛がっているようだから」と言って、急に王さまに里帰りを願い出ました。急な申し入れなので王さまは許しがたく、むずがっていましたが、アントワンが無理を言い立てますので、しぶしぶ里帰りを承諾しました。

「ソーミュール城に戻って退屈することもあるでしょう。妹のマリーはまだ六歳と幼いですから、アンジェ城から雲井雁を呼ぶことにしましたので、一緒に遊んでみなさい。雲井雁を大宮に預けて不安もなかったのですが、アンジェ城にはこざかしく早熟な者も交じっているようで、そうした者と親しくなるのも不愉快ですから」とアンジェリクに話しながら、急いで雲井雁をソーミュール城に移すことにしました。

 

 大宮はひどくがっかりして、「一人娘の葵を失くした後、張り合いがなくなって心細い思いをしていました。この姫が来てくれたのが嬉しく、生きている限り大事に面倒をみることができる者として、明けても暮れても老いの寂しさを慰めてみようと思っておりました。心外にも貴方が若姫と引き離してしまうおうと考えておられるのが辛いことです」とこぼしますと、内大臣は恐縮して、「私はただ心にずっと思っていたことをそのまま申し上げただけです。母上とすっかり隔ててしまうことがどうしてあるでしょうか。王宮で貴婦人として仕えている者が、世の中が恨めしくなって、このところ実家に下っていますが、退屈さで塞ぎ込んでいるのを見ていても心苦しいので、雲井雁と一緒に遊ばせて慰めてあげよう、と思い立って、ほんのちょっとの間だけソーミュール城に移すだけです」と弁解します。

 

「ここまで育て上げてくれ、一人前にしていただいた御恩を決していい加減には思ってもおりません」とまで申しますので、こうと思い立つと、止めようとしても思い直すことがない息子の性格でしたから、大宮はとても飽き足らないまま口惜しく思います。「人の心こそ、煩わしいものはありませんね。確かにまだ幼い二人が私に隠し立てをしていたことはけしからぬことです。でもそれはそれとして、内大臣として何事も深く弁えておられる貴方が、私を恨んでソーミュール城に引き取ってしまうとは。本妻が住むあちらに移っても、別の女性が生んだ娘にとってはここより安心できる、というのでもありませんのに」と大宮は泣きながら話しました。

 

 ちょうどそこへ若君がやって来ました。「ひょっとしたら少しは隙があるかもしれない」と最近はそれとなくアンジェ城に顔を出しています。内大臣の馬車を見つけて気が咎め、体裁が悪いので、そっと身を隠して自室に入りました。

 内大臣に付いていずれも官位五位の衛門府の左の少将、太政官の少納言、兵衛府の佐、庶務官、大夫などといった息子たちも皆、アンジェ城に集まっていましたが、内大臣は若姫の部屋への立ち入りは許していません。左衛門の督、権中納言といった内大臣の異腹の官位四位の兄弟なども、故太政大臣の言いつけに従って、今でもアンジェ城にやって来て、大宮とも懇意にしていましたから、彼らの息子たちもそれぞれ参上していました。それでも誰も彼もヒカルの若君の気品には似るべくもないように見えます。

 大宮の若君への慈愛も並ぶ者がいないほどでした。孫たちの中で若君以外では雲井雁だけを身近な可愛い者に感じて、側から放さずに愛情を注いでいましたが、こうした具合に引き離されてしまうのを非常に寂しく思います。

 

 アントワンは「これから所用を片付けて、夕刻に娘を迎えに上がります」とアンジェ城を出て行きました。「今さら仕方がないから、何とか体裁よく言いつくろって、一緒にさせてもよい」と心中では思うものの、矢張りそれも面白いわけではなく、「もう少し官位が上がって、一人前になってから欠点がないか、娘への愛情が浅いか深いかを見定めて許すとしても、きちんとした結婚という形にもっていこう。幾らやかましく諌めても、二人を同じ所に置いていては子供心のままに見苦しいことも出て来てしまうだろう。大宮もまさか強く諌めることもないだろうし」と考えますので、アンジェリクの退屈を口実にして、どこに対してもうまく言いつくろって、雲井雁をソーミュール城に引き取りました。

 

 雲井雁は大宮から「内大臣は私のことを恨んでいるようですが、貴女がここから離れるとはいえ、貴女に対する私の気持ちはお分りでしょう。発つ前に私の所にお出でなさい」との言付けを受け取ったので、大層綺麗に着飾って大宮の居間に行きました。満十三歳でしたが、まだ充分に成熟しているとは見えず、まだまだ子供っぽいのですが、しとやかで美しい様子をしています。

「貴女を片時も側から放さず、明けても暮れても慰み相手と思っておりました。これからどんなに寂しくなってしまうでしょう。残り少ない年齢になったので、貴女の行く末を見届けることはないだろう、と自分の寿命について考えています。今のうちに私を見捨てて、どこへ移って行かれるのだろうかと思いますと、何とも悲しくてなりません」と大宮は涙を流します。

 

 姫君は自ら招いた過ちが恥かしく、顔を上げることもできずに、ただ泣いてばかりいます。若君の乳母コレットが居間に入って来て、「姫君を私の主君でおられる若君と同様の御方と見なしておりました。口惜しいことに、こちらから去っていかれるとは。父上が他の方と縁組をさせようとされても、決して同意してはいけませんよ」などと囁きますので、雲井の雁はますます恥かしくなって、ものも言えないでいます。

「まあまあ、そんな面倒なことは言わずにおきなさい。人にはそれぞれの運命があって、どうなるか先のことは分かりませんから」と大宮がたしなめると、「いえいえ、内大臣は若君を過小評価されているのですよ。本当に人より劣っているのか、誰にでも尋ねてみてください」とコレットは言い続けます。

 

 若君は物陰にひそんで様子を見ていましたが、人に咎められて困ってしまう場面でもありません。ひどく心細くなって、涙をおしぬぐっている若君を見つけたコレットは不憫になって、大宮には何やかやと口実をつけて、夕刻の辺りがごたごたしている暗紛れを見きわめて、二人を対面させました。

 二人はお互いに恥かしさで胸が潰れて、何もしゃべれずに泣き合います。「叔父の内大臣の心持ちがあまりに恨めしく、いっそのこと貴女への恋心を諦めてしまおうか、とまで思い詰めることもありますが、恋しさが募ってどうしようもありません。今より少しでも機会があった時分に、どうしてもっと逢っておかなかったのだろう」と話す有様は若々しく痛々しげなので、「私も同じ思いです」と雲井雁が答えました。「私のことを恋しいと思ってくれるでしょうか」と若君が告げますと、少し肯く様子はまだあどけない。

 

 灯火がともった頃、内大臣が戻って来た気配がします。ものものしく張り上げる前駆の声に、侍女たちは「そらそら。お帰りだ」などと慌てて騒ぎ立てますので、姫君は「とても恐い」と震えています。若君は「もう、どうにでもなれ」と一途になって、雲井の雁を放そうともしません。

 すると姫君の乳母ポーリンが居場所を探り当て、二人の様子を見て「まあ、情けない。やはり大宮がご存じないはずはなかったのだ」と考るととても恨めしくなって、「いやもう、厭になってしまう。内大臣殿がお叱りしたことを聞きもしないで。継父の次席大臣もどう思われることでしょう。結構な御方と申すものの、初めての縁組の御方が官位六位ではね」と呟くのがほのかに聞えます。衝立のすぐ後までやって来て、わざとらしく嘆いています。

 

「私のことを『位なし』と軽蔑しているのだ」と若君が思うと、世の中が恨めしくなって、悲しいかな、恋心も覚めてしまう心地がするのも味気ないことです。

「ほら、ポーリンがあんなことを言いましたよ。

(歌)真っ赤な血の涙で染まっている 私の袖の色が 官位六位の者が着る浅緑だ と言い貶めてよいものか

恥かしいことだ」と若君が詠みますと、姫君が返歌をします。

(返歌)色々と我が身の不幸を思い知らされてしまうのは どのように染まった宿縁なのでしょうか

 

 雲井雁の返歌が終らないうちに、内大臣が入って来ましたので、姫君は仕方なく自室に戻りました。後に取り残されてしまった心地がしてひどく体裁が悪く、胸が塞がったまま若君は自室に戻って横になってしまいます。

 馬車が三台ばかり、ひっそりと急いで出発していく気配を聞くと、若君の気持ちは落ち着きません。大宮から「こちらにいらっしゃい」との伝言がありましたが、寝入ったふりをして身動きもしません。涙ばかりが止まず、夜中歎き明かして、霜がまだ真っ白な時分に急いでアンジェ城を去りました。泣き腫らした目を人々に見られるのが恥かしく、また言うまでもなく、大宮に呼び出されたりしますので、気が置ける場所へすぐにでも帰りたかったからでした。

 シセイ城へ戻る途中、誰のせいでもないと心細い思いを続けていると、空模様もどんよりとした曇りで、まだ暗いままでした。

(歌)霜や氷がわびしく結んでいる明け方に 空を一層暗くしてしまう 涙が降っている

 

 

9.若君、コンスタンの娘に懸想、雲井雁への煩悶

 

 太政大臣ヒカルは今年の収穫祭向けの舞姫を一人出すことにしました。舞姫は毎年、上級貴族から二人、県知事など中級貴族から三人を供するしきたりになっています。

 ヒカルは大した仕度ではありませんが、舞姫に付き添う童女の衣裳など、当日が近づいて来たからと言って、急いで用意させます。シセイ城の花散里には、夜に王城に参内する介添え人たちの衣裳を担当させます。全般的なことはヒカル邸で準備しますが、梅壺王妃も童女や下仕え向けの素晴らしい必要品を供しました。

 昨年は冷泉王の母堂などの一周忌があったため、舞姫なども中止になって寂しかったのですが、その分を含めてなのか、王宮人の気持ちも例年よりも花やかに催そうと意気込む年になりました。

 

 舞姫を出す各家はあれこれと競い合いながら、色々の事に万全を尽くしています。上級貴族からは雲井の雁の継父である次席大臣の大納言、内大臣の弟の左衛門の督、中級貴族からはヒカルに従ってブルターニュに下り、今はカルヴァドス(Calvados)知事と太政官の左中弁を兼任している官位五位のオリヴィエが出しています。出された舞姫はそのまま王宮に留まって、宮仕えをさせる、とのお達しがあった年なので、それぞれ自分の娘を出しています。

 ヒカルは自分が出す舞姫としてセーヌ・マリチーム(Seine-Maritime)知事と左京大夫を兼任している官位五位のコンスタンの娘エレーヌが見目形が非常に美しいと聞いて、その娘を上げることにしました。コンスタンは「迷惑なことだ」と思いましたが、次席大臣は本妻ではない愛人に生ませた娘を出しているのだから、セーヌ・マリチーム知事の貴殿が秘蔵の娘を出したとしても、何の恥じにもなりはしない」と周囲の者たちも説得しますので、「どうせならそのまま王宮仕えをさせてみよう」という気になりました。

 

 コンスタンは舞踊の稽古などを自邸でみっちりとさせて、身近の世話をする介添え人も厳選して舞姫が王宮へ上がる日の夕刻、エレーヌをシュノンソーのヒカル邸に送りました。ヒカルの邸内でも「婦人たちに仕えている童女や下仕えの中から器量が勝れている者を」とヒカル自ら面会に立ち会って選出しましたから、選ばれた者たちはそれぞれ分相応に光栄に感じています。王さまの前に召されての謁見にそなえて、候補者を歩かせて決めましたが、とりどりに美しい童女たちの容姿がいずれも捨て難いので、「いっそのこと、付添いをもう一組、差し上げたいくらいだ」とヒカルは笑います。結局、身のとりなし方や品がよい者が選ばれました。

 

 学生の身の若君は雲井雁への思いで胸が一杯で、食欲もなく塞ぎこんで、書物を読む気にもなれずにぼんやりと横になっていました。舞姫が王宮へ上がる夕刻、「少しは気分が慰められるかもしれない」と起き上がって、シュノンソーへ出掛けてみました。姿・形が立派で美しく、落ち着いていて優美なので、若い侍女たちは「何とお美しい」と見惚れています。

 東館には西館に住む紫上も来ていましたが、ヒカルは紫上がいる内カーテンの側に若君を近づけません。自分の若い頃の経緯もあって、紫上をちらとでも見てしまったら、どう思ってしまうのか、と心配なのでしょう。婦人たちも若君と隔てを置くようにしていますが、この日は混雑に紛れて、若君は館内に入ることができました。

 

 馬車で到着した舞姫エレーヌはかしずかれながら馬車から降りて、東館の隅にある間に屏風などで囲んで作った臨時の控え所に入りました。若君はそっと近寄って、屏風の隙間から覗いてみますと、疲れたのかだるそうに物に寄りかかっています。何だか恋する人と同じ年頃に見えましたが、体つきはもう少しほっそりしていて容姿はもっとよしありげに見え、器量が美しいところは勝っているようにすら見えます。

 薄暗いので仔細には見えませんが、あの人と感じがよく似ている懐かしさに、心移りするわけではありませんが、気持ちを抑えることができずにドレスの裾を引いて音をたてますと、舞姫は何となくいぶかしそうにしています。

(歌)オリンポスの宮殿に仕える舞姫は 私のものだと 立てた標識を忘れないでください

「古くからある名歌もこう詠んでいますよ。『乙女が袖を振る あの山のみずみずしい垣が 久しい昔からあるように ずっと以前から  あの乙女を思い続けてきたことよ』」と若君は出し抜けに話しかけました。

 若々しい美声でしたが、誰とも見当がつかず、エレーヌは薄気味悪そうにしています。慌しく世話役が化粧直しに近づいて来て、辺りが騒がしくなったので、若君は残念ながらその場を離れました。

 

 若君は官位六位の薄藍色の長衣を着るのが嫌なので、王城へ上がることもせずに、物憂い生活を送っていましたが、収穫祭の舞姫を機に好みの色が選べる平服を着れることになったので、それを着て王城に上がりました。まだ幼なげですが、気品があって美しく、大人になりきれないままに王城内をざれ歩きます。若君が自分の実弟であることを承知している王さまを始めとして、若君に好意を抱く人は並一遍ではなく、世にも珍しい可愛がりがたでした。

 五人の舞姫が王宮に入る儀式では、いずれもいずれも正装を凝らしていましたが、「器量では太政大臣と次席大臣が出した舞姫が勝っている」と人々は褒めそやします。確かに二人とも美しくはありましたが、著しく綺麗な点では太政大臣が出した舞姫に及ぶ者はおりません。美しさは当世風で、中級貴族の身分の者と見えないまでにきちんと着こなした容姿は類なく見事でしたから、そんな風に褒められるのでした。舞姫たちは皆、例年よりも少し大人びいてもいましたので、本当に格別な年となりました。

 

 ヒカルも王宮に上がって儀式に見入っているうちに、その昔、目が止まった乙女時代のアキテーヌの舞姫モニクを思い出しました。吉日の夕刻、サン・マロ時代を思い出しながら、モニクに便りを送りました。

(歌)あの当時 天の羽衣を着て舞った乙女も 歳を召されたことでしょう 昔の友である私も 

       歳を重ねましたから

 便りを受け取ったモニクは、ヒカルがあれから後の積もる年月を数えて、思い出すままにせつない心持ちを堪えきれずに詠んだ心情を興味深く感じるものの、空しいことです。

(返歌)収穫祭の舞姫と言えば 日陰の髪飾りをかざして舞ったその昔 

          貴方からお情けをかけていただいたことが 今日のことのように思われます

モニクからの返信は、収穫祭に舞姫が着る青摺りの衣装に合わせてか、青地に紋を摺りこんだ紙をしっかりと選んで、黒インクの濃淡で紛らわせつつフランス語にラテン語を混ぜて書き散らしていましたが、ヒカルは「人柄のわりには趣がある」と感心します。

 

 若君はコンスタンの娘が目にとまったことから、王城でも誰にも悟られないように辺りをうろうろしますが、側近くに寄ることすらできません。とても人を寄せ付けない雰囲気でしたから、何となく遠慮がちになって、溜息をつきつつ諦めてしまいました。それでも娘の美貌が心に焼きついて、「逢えずにいるのが辛い、あの人の慰みにでも仲良くなってみたい」と考えます。

 

 王宮では舞姫五人を皆、そのまま王宮に留めて、宮仕えをさせる意向でしたが、今回は退出させることにしました。セーヌ・マリチーム知事コンスタンはルーアンで、カルヴァドス知事オリヴィエはカーン(Caen)で娘にミサをさせたいと希望して退出させました。次席大臣は別の形で王宮勤めをさせることを申し出ました。アントワンの弟の左衛門の督は実の娘ではない者を舞姫として出したため、お咎めがありましたが、その者も王宮に残すことになりました。

 コンスタンは「内宮仕えの席が空いていますので」とヒカルに願い出ましたので、「そうなるように骨を折ってみよう」とヒカルもその気になりましたが、それを聞いた若君はとても残念に思います。

「自分の歳がもはや若年ではなく、官位も六位とみすぼらしいものでなかったら、あの娘を所望してみたいものだ。せめて思いを寄せている気持ちがあることだけでも知らせずままに止めてしまっては」と、ご執心というわけではありませんが、雲井雁への涙に添えて、エレーヌを思って涙ぐむことが折々にありました。

 

 エレーヌの兄で、王宮で近習を勤めている少年がいつも若君に仕えていましたが、若君は普段より親しげに話しかけました。

「お前の妹の舞姫はいつ頃、王宮に上がるのか」と尋ねますと、「年内には、と聞いております」と答えます。

「顔が大層よかったので、何とはなしに恋しくなってしまった。そなたが常に妹に逢えるのが羨ましい。そのうち逢わせてもらえないか」と頼みますと、「どうしてそんなことができましょう。そうしたいと願ったところで、私ですら自由に逢うことができないのですよ。男兄弟だから、と言っても近くに寄せてくれません。まして他人のあなた方に逢うことはありませんよ」と答えました。

「それなら、便りだけでも」と若君は手紙を託しました。兄は「前々からこうしたことは戒められていますので」と迷惑がりますが、「せめて」としきりに頼み込みますので、気の毒になって、妹に手渡しました。

 エレーヌは歳のわりには色恋沙汰に目覚めているようで、「興味がある」と手紙を読みます。緑を薄様に好ましく重ねた紙に、筆跡にはまだ幼さが残っているものの、先行きが楽しみな感じで書かれていました。

(歌)乙女が天の羽衣をひるがえして舞う姿に 思いをかけて私の心は 陽のあたらない蔭にいても 

       お気づきになったことでしょう

 

 兄とエレーヌが二人で手紙を見ていると、ふいに父のコンスタンが寄って来ました。二人は怖じけて恐くなりましたが、手紙を隠すことはできません。「何の手紙だ」とコンスタンが取り上げると、二人は赤面しています。

「よからぬことをしたではないか」と叱りながら、逃げ出そうとしている兄を呼び寄せて、「誰からの手紙だ」と問いますと、「太政大臣の若君がしかじかこうこうと言われて、渡されました」と答えます。するとコンスタンは打って変ってにこにことして、「いやいや、若君は何という戯れ心をお持ちなのだろう。お前なんて、ほぼ同年齢というのに、言う甲斐のないほど他愛ない者だ」などと若君を褒め上げて、兄妹の母君にも手紙を見せてしまいます。

「あの若君が少しは愛人の一人として思し召してくださるなら、ありふれた王宮仕えをさせるより、いっそのこと差し上げてしまおうか。若君の父親の心構えをずっと見て来たが、一度見初めた女性を自分の方から忘れ捨ててしまうことはない。実に頼もしい話ではないか。これで私もサン・ブリューの修道僧のようになれるかもしれない」と喜んでいますが、誰も取り合わず、エレーヌの内宮勤めの準備を急いでいます。

 

 

10.イングランドの宣戦布告とムーラン太公后の死

 

 フランス王国がミラノ公国を神聖ローマ帝国に奪われた翌月十二月にメディチ家出身の教皇が他界し、翌一月に新教皇が就任しました。前教皇はフランス王国と帝国を天秤にかけながらも、どちらかと言うとフランス側に好意的でしたが、新教皇はフランスに冷たい素振りを見せています。四月に入ってフランス・ヴェネツィア連合軍がミラノ公国奪還を試みましたが、ラ・ビコク(La Bicoque)の戦いに敗れ、奪還に失敗しました。翌五月、イングランド王がフランスに宣戦布告しました。フランス軍はイタリアの橋頭堡としてジェノヴァ公国を確保できたものの、帝国・イングランド連合に対して不利な状況に追い込まれていることは否めません。

 

 フランス王国との反目の度合いを強めているシャルル・ブルボン公は当然なことにイタリア戦線には参画していませんが、噂どおりブルボン公が配下を通じてフランス軍の内情を帝国軍に漏らしている疑いが強まっていきます。十一月中旬、ムーラン太公后が失意のうちに亡くなりました。すでに義理息子が帝国側に組みしていることを確信していたのか、遺言で娘に譲ったブルボン公国の継承権をフランス王国に譲渡する意向を表明していました。すぐにフランス王宮はパリ議会にブルボン公国の財産差し押さえを提訴しました。

 

 ネーデルランドの白菊総督からムーラン大公后追弔の手紙がヒカル宛に届きました。サン・マロの不遇時代に受け取った手紙以来の手紙でしたが、前回同様に、幾度となく夢に浮んできた特有の香りが漂っています。まだ物心がつかいない幼い頃にフランス軍にほぼ強奪の形で母国から引き離され、将来のフランス王妃としてムーラン大公后に育てられた追想、婚約者の桐壺王とブルターニュ公国の紫陽花公女の結婚により、居場所をなくした寂しさを慰めてくれた幼いヒカルとの思い出などが細かに書かれていましたが、戦争状態に入った帝国とフランスの現実には全く触れていません。

 早速、ヒカルは白菊総督に返信しましたが、音沙汰は全くありません。

「やはり帝国の皇帝であり、スペイン国王でもある甥のカール五世の背後で、イギリス王国との同盟も含めて白菊総督があれこれと助言しているに違いない。サン・マロで受け取った手紙に『そのうち都に戻られて、私の良き宿敵になられることでしょう。その時が来るのを楽しみにしております』

とあった意味が理解できなかったが、今の状況をすでに先読みしていたのか。神聖ローマ帝国選挙で負けてしまったが、今後も手強い好敵手と張り合っていくことになる」とヒカルは白菊との不思議な因縁を案じました。

 

 

  

               著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata