邪馬台国吉備・狗奴国大和外史

 

No.4 「欠史八代説」を第一王朝の皇別四氏族から検証すると

           参照補遺2大和の日本統一に関わった氏族

           自説の要旨古事記の吉備津彦二兄弟の吉備征服の逸話が、大和国が邪馬台国ではなかったことを

                         明白に語っている

               ―邪馬台国大和説は渡来系漢籍学者の想定にすぎなかった

                       ―大和天動説と大和地動説の相違点

〔その1〕概略

 日本の古代史の世界は、あいもかわらず「欠史八代説」(初代神武天皇から第九代開化天皇までは架空の人物とする説)が幅をきかせていて、「欠史八代説」が誤説であることを指摘する声はかき消されてしまっています。

 

 威勢だけはよい「邪馬台国・九州説」、考古学的に信憑性が高いと主張される「邪馬台国・大和の纏向(まきむく)首都説」、したり顔で吹聴される「天皇家の出自は朝鮮半島説」や「御所市の葛城王朝説」はいずれも「欠史八代説」を前提としています。ところが各説とも、ある段階まで進むと行きづまってしまい、出口が見えない論争の応酬を繰り返していくだけの状況におちいってしまいます。

 その理由は「欠史八代説」という前提が間違っているからです。古事記・日本書記、風土記等に見れる神武天皇や欠史八代の系譜や伝承は、後世に追加された要素は確かにありますが、基本事項は史実を伝えており、入り口付近の絡み合った糸をときほぐして中に入っていくと、3世紀末の統一日本誕生にいたる物語がどんどん膨らんでいき、出口も見えます。

 古代史の史実追求を深めていく中で、欠史八代説が足かせとなっていることを多くの方々が気づかずにいることは残念なことですが、そのうちに「欠史八代説は誤りだった」とする風が日本列島内でも吹き出してくることを確信しています。それを先んじる形で私自身は、ヒミコとトヨや吉備津彦兄弟が活躍した3世紀以前の、1世紀から2世紀末まで約200年間の史実の追跡へと駒を進めています。

 

 大和狗奴国の勃興から日本統一までに関わった氏族についてはブログ「大和の日本統一に関わった氏族」(補遺2.No.3)で紹介しましたが、今回のブログでは「欠史八代」に属す天皇から派生したと伝わる皇別氏族(ワケ)である氏族から、「欠史八代説」で切り捨てるか見逃されてきた点に焦点をあててみます。

 

1.皇別氏族 

 意富(おお) 初代神武天皇(イハレビコ王)から出自

 和邇(わに) 第五代孝昭天皇(カエシネ王)から出自

 吉備氏 第七代孝霊天皇(フトニ王)から出自

 阿倍氏 第八代孝元天皇(クニクル王)から出自

 

 私の「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」は、

1.第七代孝霊天皇の王子である吉備津彦兄弟の吉備征服

2.初代神武天皇の宇陀野入りは水銀朱の産地を確保する目的で、その後、宇陀野と吉井川・紀ノ川を結ぶ水銀朱交易路の真ん中に位置する南葛城地方(中心部は御所市)に葛(狗奴)国を建国した

2点から始まりました。

 

 1960年代頃から正論と見なされてきた「欠史八代説」に沿うと、神武天皇か欠史八代を出自とする皇別氏族も後代に創作された架空の系譜ということになりますが、神武天皇と欠史八代は狗奴国王として実在した、とするのが私の一貫した主張です。

 欠史八代説が私が主張するように誤りであるか、あるいは定説どおり正論であるかのポイントは、神武天皇と欠史八代の系譜が第十代崇神天皇と連続しているか、逆に断絶しているか、にあります。崇神天皇以前の諸氏族は架空で、崇神天皇時代からの諸氏族は実在した、と崇神天皇で区切ると、阿倍氏は父親のオオビコは架空だが息子のタケヌナカハワケは実在していた、など混乱していきます。応神朝、継体朝初期、飛鳥時代に創作された、とすると、大伴氏、物部氏、蘇我氏、中臣氏の活躍が多いはずです。

 

2.欠史八代説

 これまでの日本古代史の研究を振り返ってみると、明治時代から第2次世界大戦末までは、欧米諸国の帝国植民地主義の風潮の中で、右の方向に行き過ぎました。明治時代の小学生向けの歴史教科書を見てみると、欧米列強に対抗して海を越えていった、日清戦争の頃からその性格が強まっていきます。

 第2次世界大戦後は、戦前に対する反省や東西冷戦・資本主義対共産主義の風潮の中で、左の方向に行き過ぎました。古事記や日本書記などに記述される第十代崇神天皇の頃までの話はより新しい時代に創作されるか、6世紀か7世紀の史実をモデルにして脚色された、と論じることが先進的、革新的であると見なす風潮が強まり、伝承に対するあら捜しに比重が傾きすぎました。

 

 欠史八代説の源は津田左右吉博士ですが、1964年に出版された「日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ」(中央公論社)での井上光貞氏の主張が現在に至るまでの「欠史八代説」論理づけの一般的な根拠の1つとなっています。

井上光貞氏の説

「『古事記』と『日本書記』のもとになったのは、六世紀につくられた「帝紀」と「旧辞」であると述べた。帝紀は皇室の系譜であり、旧辞は宮廷の物語であるが、この二つを、それぞれの天皇の巻ごとに組み合わせた形で、古事記・日本書記の記述は成り立っている」(「日本の歴史」 文庫本P.268)

「あきらかに神話上の人物である神武天皇のあとの八代は、日本の民族が文字や暦をもつ文明の段階に達したのち、その王名表である帝紀のなかに、架空につくりあげた天皇群ではなかったろうか。」(同 P.272)。

 その根拠として井上氏は以下の3点を指摘されます。

ハツクニシラス―スメラミコトが二人(神武天皇と崇神天皇)存在する。

神武天皇の後の八代は帝紀にだけ載っていて旧辞にはなかった。

大倭日子・大倭帯日子・ 大倭根子日子・若倭根子日子の5つの美称は78世紀に奉った国風諡号(しごう)といちじるしく類似している。

 

 その頃から、「欠史八代説」が金科玉条の前提となり、現在でも誰もが信じて疑わない状況におちいっています。古代史研究の総本山となった国立歴史民族博物館の初代館長が井上氏であり、関東学派と関西学派の双方の重鎮も「欠史八代説」に立脚していますから、「欠史八代説は誤り」と主張できる雰囲気が日本列島では存在できず、「上古代史研究」という池は外来種の渡来系漢籍学派に占拠されるがままになっている、という印象を受けます。

 

 

3.「欠史八代説」から派生した代表的な誤説

天皇家の祖先は朝鮮半島説(騎馬民族説)

 箸墓を代表とする大和盆地の巨大な定型型前方後円古墳は1970年代頃までは、築造は4世紀前半(300350年頃)と推定されていました。江上波夫氏もこの推定に沿って、朝鮮半島南端にいた、倭人だが満州系騎馬民族の文化を取り入れた崇神天皇が北部九州に上陸して、子孫の応神天皇が東上して瀬戸内海南端に河内王朝を打ちたてた、とする「騎馬民族説」を1948年に発表されて、一世を風靡しました。

 その後、定型型前方後円古墳の築造は3世紀後半と約50年前後早まり、崇神天皇も4世紀前半ではなく3世紀後半に実在した人物であることが確実となり、考古学的にも騎馬民族が上陸した痕跡は皆無であることから、現在では「騎馬民族説」は誤説であったことが明白となっています。

 

 江上氏のもう1つの誤判断は、騎馬民族と崇神天皇とをつなげた辰国は騎馬民族系が建国した国ととらえたことです。辰国はかって朝鮮半島南部の中央部に存在した国ですが、前3世紀末の秦の滅亡から前漢が誕生していく混乱期に中国北東部から逃げのびてきた雑多な亡命者が建国した国で、騎馬民族系の南下以前から存在した国です。辰国は4世紀半ばに半島南西部で百済、南東部で新羅が勃興してから衰微に向い、5世紀初期に残党の一部が弓月(ゆつき)君として日本に亡命し、秦氏の母体となります。

 

邪馬台国九州説

 江戸時代から続く九州説も定型型前方後円古墳の築造と崇神天皇を4世紀前半と基準にされています。その論理は近視眼的な「九州対大和」に終始したままで1970年代からほとんど進展していません。吉備の特殊壺・器台が大和に移入されたこと、前方後円古墳が大和盆地とほぼ同時期に房総半島でも登場した動きまで考慮されていませんし、伊都国と奴国を凌ぐ大型遺跡は九州には存在しないことはもはや明らかです。欠史八代が実在した説も存在しますが、その王朝は九州にあったとしています。

 九州説で見逃されている点は弥生中期末で奴国が衰退を始めたことです。寺沢薫氏は奴国の衰退後、伊都国が倭国の盟主となったと主張されています(日本の歴史 02 王権誕生 講談社)が、私は57年の奴国の金印から107年の帥升の遣使の間に吉備邪馬台国が奴国を制覇し、伊都国を半島への窓口として傀儡王国を残した、とする説を進めています。

 

邪馬台国・大和の纒向首都説

 新聞やテレビの報道を信じて、邪馬台国所在地問題は「纒向が首都」で決着した、と思い込んでおられる方々が多いようですが、欠史八代説にもとずいて、邪馬台国大和説で結論づけようと、焦った結果の勇み足です。

 文献では第五代孝昭天皇と第六代孝安天皇の王都が存在したのは御所市で、纒向に王宮(首都)が存在したのは4世紀前半の垂仁天皇と景行天皇のみです。自説では第七代孝霊天皇が唐子・鍵遺跡の機能を纒向に移転させた商工業副都心となります。

 秋津遺跡など御所市の発掘調査が進み、第五代孝昭天皇と第六代孝安天皇の王都の存在が確証されると、纒向首都説も再検討が必然となります。

 

御所市の葛城王朝説

 2013年の数年前から進められている京奈和自動車道建設に伴う発掘調査により、第五代孝昭天皇と第六代孝安天皇の王都が存在したと文献が伝える御所市への注目度が高まっています。

 私の推定では、倭国大乱の頃に実在した第五代孝昭天皇の時代から葛(狗奴)国の拡大と繁栄が始まり、王都は北側は鴨都波(かもつば)遺跡から掖上の本間山、東側は孝安天皇陵から国見山の丘陵、南側は巨勢丘陵、西側は葛城川を結ぶ円内が王都で、調査が進む玉手遺跡、今出遺跡、秋津遺跡、中西遺跡は連動した王都の街並みととらえています。

 鳥越憲三郎氏などは、西から大和盆地に入り纒向に大和邪馬台国を建国した勢力に対抗した、後の葛城氏につながる葛城王朝の王都と、欠史八代説に立った推定をされています。「曲学の徒」を自称される桂川光和氏は私と同様に孝昭・孝安天皇の王宮があった地域と主張されておりますが、立場が邪馬台国大和説である点が私と異なります。

 

参照 「自説の統一日本誕生までのあらすじ」

弥生前期

呉・越族のボートピープルの到来。

九州北部でムスビの神々、瀬戸内海東部でイザナギ・イザナミ神話の発生。

弥生中期

筑紫(九州北部)は倭国(の西日本)の中心部。奴国と伊都国の繁栄。

弥生中期末

57年(奴国の金印)から107年(帥升の遣使)の間に、吉備が奴国・伊都国を支配下に置き、倭国の盟主に。神武天皇が水銀朱の交易路開拓で大和に入り、南葛城地方に狗奴(葛)国を建国。

弥生後期

倭国の盟主となった吉備王国(邪馬台国)で、男王が数代続く。

倭国大乱180年~190年頃)

吉備の楯築王の急死で、後継者を巡って南北対立の内乱となる。北の主軸は出雲、南の主軸は阿波。スサノオ族宗家のヒミコの女王即位で大乱は終息するもののの、出雲、阿波、丹後、伊都国の独立性が強まる。

弥生終末期

吉備王国はヒミコの治世が約半世紀続くが、大和の葛国の膨張が始まる(①東海3国、②淡路島・阿波、③近畿全域、の順で膨張)。ヒミコ治世末期に吉備への攻撃を開始(第八代孝元天皇)。

ヒミコを継いだトヨの時代に大和が吉備を征服。トヨは第九代開化天皇の后候補として大和入りするが開化天皇が急死。

古墳草期前期

トヨ(やまとととびももそひめ)は第十代崇神天皇の相談役となる。

大和が吉備に次いで東出雲、山陽道、九州中西部まで支配下に置く。次いで東国、西出雲の順で征服し、第10代崇神天皇末期に東西日本の統一を達成。大和の前方後円墳の定型化。

11代垂仁天皇下で、大和を主軸として日本神話が成立し、伊勢神宮が創建される。

 

 

〔その2〕意富氏と太安万呂

1.神武天皇の3人の息子  義兄タギシミミと二王子

 神武天皇の正后の長男で、第二代綏靖(すいぜい)天皇の兄であるカムヤイミミ(神八井耳)は、古事記を編纂した太安万呂(おおのやすまろ)の先祖にあたることを除くと、あまり注目されていませんが、その子孫は古代史の世界の味を深めるスパイスの役割を果たしています。

 

 神武天皇は日向を旅立った時、アヒラヒメ(阿比良比売)ともうけた息子タギシミミ(多藝志美美)を同伴させます。タギシミミは5歳くらいの幼児でした。宇陀野で産出される水銀朱の確保と交易路の開拓で大和入りした神武天皇は、宇陀野―磯城国―吉野川・紀ノ川を結ぶ水銀朱街道の中間に位置する南葛城地方に落ち着いて、葛(狗奴)国を建国します。

 その後、神武天皇は三輪山周辺を根拠地とする磯城国からヒメタタライスケヨリヒメ(比賣多多良伊須気余理比賣)を正后として迎えます。イスケヨリヒメは母セヤダタラヒメ(勢夜陀多良比売)と三輪山の蛇神との間に生まれた女性ですが、これは出自が神聖であることを示しています。20歳ほど若く、タギシミミとほぼ同年齢でした。神武天皇が磯城国から正后を迎えた理由は、水銀朱街道の安全を保つ政略結婚の意味合いもあり、第4代安寧天皇まで正后を磯城国から迎えています。欠史八代説の根拠の1つとして、一夫多妻制の時代に第六代孝安天皇までは一夫一婦であることが不自然として挙げられますが、大和国へと飛躍する以前の葛(狗奴)国はまだ小国にすぎなかったため、正后以外の后は正確に伝承されなかった、とも推測できます。

 

 神武天皇はイスケヨリヒメとの間に神八井耳と神沼河耳(かみぬなかはみみ。綏靖天皇)の二皇子をもうけます。古事記では神八井耳の前に日子八井(ひこやい)が生まれています。

 神武天皇(推定治世87105年頃)が他界した後、タギシミミは義母イスケヨリヒメを強引に娶って王位を継承します。これは外から進入してきた日向派と地元勢力の磯城族の間で後継ぎをめぐって確執や権力闘争がありましたが、日向派と地元派の妥協の結果だった、とも言えます。

 父王の死後、父の后を娶る例は、第八代孝元天皇の后イカガシコメ(伊伽賀色許売)を第九代開化天皇が娶り、崇神天皇をもうけた例があります。いずれも天皇が中年を過ぎた頃に娶った后ですが、欠史八代説では双方とも後代の作り話になります。

 

 先妻の子であるタギシミミは義理の二兄弟の存在が邪魔となり、秘かに二人の抹殺を企てますが、母イスケヨリヒメが察知して二王子に知らせます。

「三輪山の狭井川から暗雲が立ち上り、畝傍山に嵐が襲来しますよ」

 母の警鐘を受けた兄弟は先手を打って、タギシミミ征伐を決意します。南葛城地方の洞窟で昼寝をしていたタギシミミを急襲します。まず兄カムヤイミミが矢を射とうとしますが、おじけづいて矢を放つことができません。機転をきかした弟が矢を放って殺します。恥じた兄は王位を弟に譲り、神沼河耳が第2代の王となり、磯城族の外戚の座が確立します。

 これもいかにも神話らしい作り話という印象を与えます。太安万呂は父王の正后を義理の息子が娶ったことを不道徳として、自分の祖先が「意気地なし」であったことを恥として省略することも可能でしたが、なぜかそのまま残しています。伝承を脚色せずに正確に伝えていこうとする意思を貫いたからでしょう。

 

2.カムヤイミミの後裔

 意富氏は古事記と日本書記では神武天皇か綏靖天皇の稿でしか登場しません。日本書記では「意富氏の祖」とだけ、あっさりとした記載ですが、編者が太安万呂であったためなのか、古事記では子孫の氏族が詳しく記載されています。

(子孫)

近畿地方

  :意富(おお。多)臣本家。大和国十市郡多郷)、小子部(ちひさこべ)連、坂合部(さかひべ)連、雀部(さざきべ)臣、

   雀部造、小長谷(をはつせ)造、都祁(つげ)直(大和国山辺郡。伊勢国との国境)。

東海地方

  :伊勢の船木直、尾張の丹羽臣(丹羽郡)と島田臣(海部郡)

九州・四国地方

  :火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、伊余国造

東国

  :常道の仲国造、科野国造、下総の印波国造(但し国造本紀のみに記載)、道奥の石城国造、安房の長狭国造。

 

 カムヤイミミは唐子・鍵遺跡がある田原本町の南部(橿原市に近い)の十市(とをち)郡多郷を根拠地として、意富氏となります。第七代孝霊天皇は唐子・鍵遺跡に近い黒田の盧戸(いほど)宮に王宮を置いて、十市県主の祖、大目の娘、細比売を娶りますが、大目も意富氏に属す可能性もあります。

 留意する点は、子孫は大和、伊予・中部九州、伊勢・尾張、東国の4地域に集中していることで、自説の第五代孝昭天皇から始まった葛(狗奴)国の膨張から日本統一に至るまでの過程と一致します。 邪馬台国九州説を取ると、神武天皇の大和東上説とからめて、カムヤミミミの原郷地は中部九州で、中部九州から大和に入り、伊勢・尾張、東国へと勢力を広げていった、というイメージが浮かんできますが、考古学的に見ても、神々や神社の流れから見ても実証性はありません。

 

孝昭天皇(治世推定170195年頃)の時代に宇陀野の水銀朱を狙って阿波国の示唆を受ける形で伊勢国が攻め込んできましたが、葛国が反撃して一挙に東海3国を制覇します。その際に意富氏は尾張氏、第三代安寧天皇の三男・シキツヒコ(師木津日子)の長男と共に攻撃軍に加わった。

第九代開化天皇(同247267年頃)の時代に吉備津彦兄弟を主体に吉備邪馬台国を制覇した後、山陰道にアメノホヒ族、山陽道にアマツヒコネ族・アメノユツヒコ族が派遣されますが、西国制覇の第3の道として意富氏が伊予・豊後・肥国に派遣された。

第十代崇神天皇(同268298年頃)の時代に、意富氏は関東平野の制覇と開拓の先行隊の役割を果たした後、崇神天皇の長子トヨキイリヒコ(豊城入彦)による東国支配の補佐役となる。

 

3.大和の日本統一と意富氏

(伊予と中部九州の制覇)

 意富氏系の西日本での国造の分布を見ると、伊予、大分、熊本、肥後と一本の糸でつながります。肥前国と肥後国風土記では、肥国(肥後と肥前)に入った意富氏の健緒組(たけをくみ)が益城郡朝来名(あさくな)の土グモを退治した後、八代まで南下して、不知火(しらぬい)を目撃します。

 日本書記では詳しく紹介されているが、古事記では全く触れておらず、応神朝以降に付加された可能性が強い「景行天皇の九州遠征」では、阿蘇山から肥後に入る街道に位置する豊後の竹田市周辺で土グモを退治します。これは元々はタケオクミの中部九州征服の逸話だったとすると、伊予、豊後と肥国がつながっていきます。

 タケオクミが肥国の制覇に追われていた頃、開化天皇が急死して、20歳前後の若さで崇神天皇が即位します。大和に凱旋したタケオクミは崇神天皇に面会して不知火を報告したことから、「火(肥)君」の称号を賜わります。

 

(東国制覇)

 意富族は東国の関東平野の征服でも先陣役を果たしています。意富氏に属すタケカシマ(建借間)は常陸国行方郡で土グモを退治しますが、肥前の杵島の祭り(歌垣)が突然出現します。これはタケカシマ軍の中に肥前に滞在したか、肥前出身の武人が混ざっていたことを示しています。杵島は佐賀県鹿島市に隣接しており、肥前風土記の逸文に、常陸の筑波山と同様に歌垣の名所として紹介されています。タケカシマ軍は霞ヶ浦から那珂川へと北上し、タケカシマは仲国(水戸市周辺)の初代国造となります。

 

(東国への陸路と海路の入り口の守護)

 意富氏系の国造の分布を見ると常道の仲国造、科野(しなの)国造、下総の印波国造、道奥の石城国造、安房の長狭国造となっています。

 このうち、科濃国造の所在地は陸路での東国・道奥への入り口に位置する上田市常田の科野大宮社とされます。霞ヶ浦の奥の鬼怒川河口に位置している印波国はトヨキイリヒコ(豊城入彦)が移住した上野国と下野国への海路からの入り口にあたります。これは義父と義弟にあたるオオビコ親子に代って、長男トヨキイリヒコを東国の統括者として送り込んだ崇神天皇が、信頼する意富氏に陸路と海路での東国の入り口の要所守護をゆだねたことを意味します。

 

4.意富氏と中臣氏

 タケカシマは仲国の初代国造となっていることから、意富氏に属すと考えられていますが、私はタケマシマは吉備邪馬台国の武人だった中臣氏の出自と考えています。

 理由はタケマシマと鹿島神宮との関係が密接なためです。鹿島神宮は中臣氏の氏神タケミカヅチを祀り、飛鳥時代の大化の改新の中臣鎌足へと続きますが、タケミカヅチは霞ヶ浦の水道(現在は利根川)の対岸にある香取神宮で祀られるフツヌシと共に大和系ではなく、吉備系の神さまです。

 

 それがなぜ、大和系の意富氏と連携しているのか。小説版「箸墓と日本国誕生物語」で詳しく記述しましたが、以下のような連想をしています。

 タケカシマは吉備邪馬台国の武人で、吉備邪馬台国が大和に敗れた後、他の捕虜と共に河内湾の生駒山麓に連行された。その後、タケヲクミ軍の西国遠征軍に組み込まれ、土グモ退治で武勲を遂げてタケヲクミ将軍の信頼を勝ち得て、部下たちと肥前の杵島周辺に定着。タケヲクミ将軍の大和凱旋に同伴して大和入りした後、東国への先鋒役となり、仲国造となった。その後、中臣氏は復権して息子オオカシマ(大鹿島)は中央朝廷の5大夫に抜擢され、仲国造は意富族の子孫が受けついだ。

 

5.大和政権と忌部氏・中臣氏の関係

 忌部氏の祖アメノフトダマと中臣氏の祖アメノコヤネは、天の岩戸にこもってしまったアマテラスを地上に復活させる祭祀とアマテラスの孫ホノニニギの降臨のお伴(五伴緒)として登場しますが、アマテラスから神武天皇へと続く大和系神話や物語にはほとんど登場しません。双方とも「天(あま)」がつきますから、「天つ神対国つ神」の論理では天つ神系となりますが、大和土着の神々でもなく、出雲の大和への国譲り後のホノニニギの降臨の際に人工的にお伴にされた印象を与えます。

 この点をどのように解釈していくかで、古代史と神話解読の方向が枝分かれしていきますが、こんがらかった大和と忌部氏・中臣氏との関係の糸をほどいていくと、3世紀の大和の拡大と日本統一までの過程が解明されていきます。

 大和盆地に忌部の地名があり、吉備の地名も2か所にあります。双方とも「大和盆地が発祥地」なのか、それとも「征服者として大和に入った」のか、逆に「大和の被征服民として徴発されて大和に入った」のか・・・の3つが考えられます。

 

 3つの中で私が主張する説は「大和の被征服民として徴発されて大和に入った」ものです。

 阿波忌部の大和入りは孝霊天皇(治世推定215239年頃)時代で、前方後円墳と石積みの技術を伝えます。大和の前方後円墳は吉備から大和に直接入った、とする見方がありますが、自説では阿波を仲介して、吉備(楯築墳丘墓)―阿波(萩原2号墳)―大和纒向(ホケノ山古墳等)となります。

 吉備中臣の大和入りは約半世紀遅い崇神天皇(治世推定268年~298年頃)の前半で、オオモノヌシと特殊壺・器台の技術を伝えました。

 

参照 文献での掲載 

「神武天皇記」

母イスケヨリヒメの警鐘の二歌

狭井川よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす

畝傍山 昼は雲とい 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉騒げる

先妻の子は當藝志美美、イスケヨリヒメの子は日子八井(日本書記では無掲載)、神八井耳、神沼河耳。

神八井耳の子孫  (日本書記では「多臣の始祖なり」のみの記述)

意富(おほ。多)臣(大和国十市郡多郷)、

小子部(ちひさこべ)連、坂合部(さかひべ)連、雀部(さざきべ)臣、雀部造、小長谷(をはつせ)造、都祁(つげ)直(大和国山辺郡。伊勢国との国境)。

東海地方: 伊勢の船木直、尾張の丹羽臣(丹羽郡)と島田臣(海部郡)

九州・四国地方: 火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、伊余国造

東国: 常道の仲国造、科野国造、道奥の石城国造、安房の長狭国造

 

「孝霊天皇記」

黒田の盧戸(いほど)宮に座して、天下を治めた。十市(とをち)県主の祖、大目の娘、細比売を娶って、大倭根子日子国玖琉(くにくる)をもうける。

 

「国造本紀」

西国:伊予国(伊予)、大分国(豊後)、阿蘇国(肥後)、火国(肥前と肥後)

東国:仲国(常陸)、印波国(下総)、科野(信濃)

 

「肥前国風土記 総記」「肥後国 逸文」

健緒組(たけをくみ)。崇神天皇に八代の不知火を報告して、「火君健緒純」の称号を賜わる。

肥前国風土記  逸文 杵島山」

年毎の春と秋に、手を携えて杵島山に登り、飲酒をし歌い舞う。歌垣。

「常陸国風土記 行方郡」

古老が言うには、斯貴(磯城)の瑞垣(みづがき)宮の天皇(崇神天皇)の時代、東の境の荒ぶる賊を平らげようと、建借間(たけかしま)を派遣した。 (中略) タケカシマが兵を放って追撃させると賊は集落に逃げ帰って、入り口を固く閉じた。(中略)一計を案じたタケカシマは杵嶋の唱曲(うたぶり)を七日七晩遊び楽しみ歌い舞って土グモを外へ誘い出して殲滅した。 タケカシマは那珂(仲)の国造の初祖である。

「常陸国風土記 香島郡」

鹿島神宮の縁起。崇神天皇が武器・鏡・絹布等を献上。孝徳天皇の大化5年(649)、中臣〇子(推定は鎌子)、中臣部兎子等が下総の国を割いて、神の郡(香島郡)を置いた。

 

 

〔その3〕和邇(わに)氏

 和邇氏についてまとめてみると、大和盆地の南葛城地方の中小国にすぎなかった葛(狗奴)国が盆地全域を支配する大国に発展した3世紀前半以降、7世紀の飛鳥時代に至るまで、生え抜きの皇別氏族、大和の名家として大和朝廷を支える陰の主役だったことが明らかになります。

 

1.第五代孝昭天皇の東国制覇

 180年頃に吉備邪馬台国の楯築王が他界した後、吉備邪馬台国を盟主とする倭国(西日本)はひび割れして大乱となります。

 原因は楯築王が跡取りを残さずに急死したことから、母方の甥にあたる出雲国王が倭国の盟主の座を宣言したことにあります。出雲国王は神門王国の発祥の地である三次盆地に攻め込みました。これに吉備南部、讃岐、阿波国の瀬戸内海勢力が反発し、倭国は日本海勢力対瀬戸内海勢力の南北戦争の様相になります。

 

 それまで倭国の盟主である吉備邪馬台国の顔色をうかがいながら、自重していた倭国の主要国は独立性を増していきます。ことに出雲王国、阿波王国、丹後王国が勢力を増していきます。朝鮮半島との交易の窓口である伊都国は吉備邪馬台国の傀儡王国でしたが、出雲側に組みしながら独立性を増し、吉備の束縛から解放されて交易品を自由にさばくようになり、富が蓄積されていきます。

 楯築王の他界から10数年後の200年前後に、西出雲に西谷2号墳、丹後半島に赤坂今井墳丘墓、阿波に萩原2号墳、伊都国に平原(ひらばる)1号墓と、ほぼ同時期に大型弥生墳丘墓が登場します。これは出雲王国、阿波王国、丹後王国と伊都王国が楯築王墓に匹敵する墳丘の築造を競い合った結果です。

 

(葛国の東海国の制覇)

 倭国大乱が勃発した頃、葛国の王は第五代孝昭天皇(治世推定170195年頃)でした。出雲勢に対抗して勢力拡大を進める阿波勢力は紀伊半島にも進出していきます。その痕跡として伊勢国にも忌部族の氏神であるアメノヒワシ(アメノフトダマの兄弟神)が存在します。

 出雲は玉造の花仙山に産出する碧玉(青メノウ)と越のヒスイが交易品の宝物でした。これに対し阿波は水銀朱とアワビ等から見つかる真珠を宝物としていました。しかし真珠は偶然にしか見つからず、量も限られています。そこで自国でも産出され、金と同価値があり、伊勢と大和との国境にある宇陀野の水銀朱に着目しました。

 阿波族は伊勢のサルタヒコ族をあおって、宇陀野の水銀鉱山の収奪を計画しました。伊勢勢力は国境を越えて宇陀野に攻め込もうとしましたが、大和勢に押し戻されてしまいます。大和軍は伊勢国を制覇した後、一挙に美濃と尾張まで攻め込み、狗奴国の膨張が始まります。大和軍の主体は尾張氏、神武天皇から出自した意富氏と第4代安寧天皇の皇子シキツヒコ(師木津日子)の長男の3者でした。伊勢サルタヒコ族は阿波国が充分に支援してくれなかったことを恨みに抱き続け、後の大和軍の阿波国侵攻の時には尖兵役を担います。

 

 孝昭天皇は尾張氏の功績を評価し、尾張氏のオキツヨソ(奥津余曽)の妹ヨソタホヒメ(余曾多本毘売)を正后とします。磯城国出身の后もいたことは間違いないでしょうが、外戚の座は四代続いた磯城族から尾張氏に移ります。尾張氏の根源地は御所市か尾張国かの2説がありますが、尾張氏の氏神であるアメノホアカリの系譜を見ると神武兄弟の従兄弟か縁戚関係にあり、神武天皇の大和入りに同伴して、御所市笛吹に定着した人物が祖となったと私は解釈します。

 

 [その1]概況で言及したように、御所市は宇陀野の水銀鉱山―磯城―風の森峠―五條(吉井川・紀ノ川)を結ぶ水銀朱街道の中心部で、孝昭天皇と次の孝安天皇(治世推定195215年頃)が王宮を構えた「大和朝廷の古里」です。王宮の所在地が他に移っていった後も、旧都として4世紀半ば頃まで繁栄を続け、応神朝に入った4世紀後半から葛城氏の拠点となります。

 ところが阿波国との関係が悪化した結果、この街道は危険になります。水銀朱を瀬戸内海に搬出するために、大和川経由など新たな交易路の確保が必要となりました。

 

2.和邇氏の誕生 ――葛国から大和国へ飛躍

  孝昭天皇と正后ヨソタホヒメの間にアメノオシタラシヒコ(天押帯日子)とクニオシビト(國押人)の二皇子が生まれ、弟クニオシビトが第六代孝安天皇となりますが、孝安天皇は兄の姪オシカヒメ(忍鹿比売)を正后にします。これにより王家の純粋性が高まり、他の氏族よりも優越していることが明確化されます。

 大和盆地の西南部を地盤とする葛国は、大和盆地北部へ勢力を拡大して、大和盆地全体を初めて統一します。この時点から狗奴(葛)国は大和国に脱皮していき、日本列島統一に向かっていきますが、その陣頭指揮を担ったのがアメノオシタラシヒコで和邇氏の祖となります。

 

 大和川沿いの纒向が大和盆地北部や山城、北越諸国とを結ぶ北の街道と、伊勢から御所市に向かう東西の街道の交差点に近い市場として自然発生し、北(日本海)、東(東海)、西(瀬戸内海)の産物が集合するようになります。水銀朱も御所市・吉野川ルートから、纒向から大和川を下るコースに比重が移っていきます。

 盆地北部では東側は穂積氏などの中小国が割拠、西側では物部氏の登美(とみ)国が支配していましたが、東海3国を制覇して、兵力と財力ではるかに凌駕するようになった葛国に呑み込まれていきます。

 

東北部は和邇氏

 孝安天皇の実兄で舅でもあるアメノオシタラシヒコは大和盆地北部への拡大を進めながら、天理市北部の和邇に根拠地を構えます。

 アメノオシタラシヒコの息子たちは盆地北東部へ拡散していき、春日氏、大宅氏、柿本氏、大坂氏など大和盆地生え抜きの名族となっていきます。穂積氏の出自で崇神天皇の母となったイカガシコメ(伊香色謎)は書紀では物部氏の遠祖オオヘソキの娘、先代旧事本紀の天孫本紀ではニギハヤヒ5世孫ウツシコヲの弟オホヘソキとありますが、これは後世の混同によるためで、穂積氏は割拠していた小国の出自であるようです。

西北部はアマツヒコネ族

 西北部は物部氏の支配地でしたが、アマツヒコネ(天津日子根)族が進出して物部氏はその配下に組み込まれます。アマツヒコネ族は河内(大阪府東部)から山城(京都府南部)へ地盤を広げていき、物部族の一部は尾張の東に位置する三河と遠江の制覇を託された可能性もあります。

 欠史八代説もあって、アマツヒコネについてはほとんど無視されていますが、大和の日本統一に重要な役割を果たした氏族の一つで、アマツヒコネ族をしっかり把握していないと、推察は誤った方向に進んでしまって、古代史の森の中で迷子になってしまいます。

 

3.タケハニヤスの反乱

 開化天皇の腹違いの弟で崇神天皇の叔父であるタケハニヤス(建波邇夜須毘古)は崇神天皇治世10年に天下取りの野望を察知されますが、反乱鎮圧で和邇氏のヒコクニブク(日子国夫玖)が活躍します。

 タケハニヤス軍は山城と大和の国境を流れる木津川でヒコクニブクと決戦となり、敗れた後、木津川流域の祝園(はふりその)、山城国河原と平尾、淀川流域の楠葉(くすば)へと逃亡します。タケハニヤスの妻アタヒメ(吾田媛)が率いる別働隊は大和川河口から上り、河内と大和の国境の大坂でイサセリビコ(吉備津彦兄)軍と対峙します。このことからタケハニヤスの地盤は山城国南部から河内国北部、生駒山・信貴山の西麓だったことが分かります。

 

 国造本紀では河内国と山城国とも国造はアマツヒコネ族で、孝元天皇の后でタケハニヤスの母ハニヤスビメは国造の格付けであろう河内アオタマ(青玉)の娘ですから、タケハニヤスの母方はアマツヒコネ族の出自であることは明瞭です。

 欠史八代説に立つと、開化天皇の兄弟オオビコもタケハニヤスも架空の人物となります。このためタケハニヤスやアマツヒコネ族への考察もほとんどされておらず、忘れられた存在になってしまっています。

 河内湾に定着したアマツヒコネ族は淡路島の海人等から船舶航海の技術を修得し、吉備津彦兄弟の吉備征服で海からの攻撃に参加します。その後、船を操ってアメノユツヒコ(天湯津彦)族と共に、海から安芸、周防、長門へと海から進撃していきます。中国地方の瀬戸内海沿岸部は山地が迫っていますから、陸路での進軍よりも海路での方が速やかに行動できますので、アマツヒコネ族が担ったのは当然でした。

 

 開化天皇の死後、腹違いの弟タケハニヤスはアマツヒコネ族の勢いを背景として天下取りの野望を着々と進めます。近畿地方に加えて吉備を征服した大和には戦利品が続々と入っているはずですが、崇神天皇は即位後、天災地変により、大和国は亡国の危機に見舞われます。この筋書きにタケハニヤスを加えると、より鮮明に事態が浮かび合ってきます。

 アマツヒコネ族を把握していたタケハニヤスは開化天皇の急死により準備期間なしで即位した崇神天皇の政権がまだ脆弱だった時に、船でアマツヒコネ族が運ぶ戦利品と捕虜を統括管理できる立場にいました。西国の遠征から船で帰還した兵士たちは戦利品を没収され、大和盆地へと放り出されます。絶望感と飢えにおちいった兵士たちは盗賊となって農民を襲う手立てしかなく、大和盆地は荒廃していきます。

 河内湾の船着場だった八尾市の大和川河口に吉備から特殊器台(向木見型)が運ばれてきたのもこの頃からです。タケハニヤスたちは倭国の盟主の象徴として特殊壺・器台の活用を始めます。八尾市や大和盆地の特殊器台は吉備勢力が大和へ東上していく過程で運んできた、という話も欠史八代説に沿って推定されたもので、タケハニヤスやアマツヒコネ族が実在したとすると、勇み足の誤説だったことになります。欠史八代説が史実をゴミ箱に捨ててしまうがために、古代史の森で迷子となり、出口へと進めなくなってしまう好例の1つにあげまられます。

 

4.アマツヒコネ族と物部氏の混同

 もう一つ、古代史の世界への入り口の糸をもつれさせている要因の1つは、アマツヒコネ族と物部氏の混同です。

 

 アマツヒコネ族はタケハニヤスの反乱後、連座する形で大和朝廷での権限が弱まります。代って中央に登場するのは物部氏です。崇神天皇末期の治世60年に、西出雲王国の状況把握のため、矢田部造(物部氏と同族)の遠祖タケモロスミ(武諸隅)が登場しますが、古事記と日本書記では神武天皇時代以来、物部氏の初めての登場となっているのはそれを物語っています。

  平安時代に編纂された先代旧事本紀は物部系の興原敏久(おきはらのみにく)が中心だったことは間違いがないようですが、ことに第五巻の天孫本紀では物部氏の祖先は日向の神武天皇一族の系譜に属すと見なし、海部尾張氏の「勧注系図」でも踏襲されています。これは忌部系の斎部広成が編纂した古語拾遺で忌部氏礼賛の性格が濃厚であるのと同様に、中臣対忌部、蘇我対物部の構図の中で、敗者側のやっかみ心理からそれぞれの祖先の活躍を拡大解釈させているためで、そのまま史実と信じるのは要注意です。河内湾周辺でアマツヒコネ族が衰微していく過程で、アマツヒコネ族と物部氏とが混同されていった、と解釈するのが妥当です。

 

5.大和の名族

 タケハニヤスビコの反乱を鎮圧した和邇氏のヒコクニブクは垂仁天皇の治世25年に五大夫(阿倍、和邇、中臣、物部、大伴)の一人となります。

 国造本紀では、和邇氏は武社(千葉県山武市。上総一ノ宮の玉前神社)、吉備穴(備後北)、吉備風治(備後南)、淡海、糠田、三野前、多遅麻、稲葉、甲斐の9国の国造となっています。ことに下総の武社国と備後の吉備穴国と吉備風治国は中央政府の監視役、お目付け役として配置された印象を与えます。

 

(応神朝以降)

 欠史八代説と並んで、4世紀後半の神功皇后と武内宿禰も架空の人物として葬られてしまって、3世紀に続いて4世紀も謎の世紀となり、日本で歴史時代が始まるのは5世紀初め頃から、という嘆かわしい誤説がはびこってしまっています。

 私は神功皇后と武内宿禰は実在し、4世紀半ば過ぎに景行・成務親子に対してクーデターを起こして新しい王朝を始めた、とする古事記・日本書記などの記述は、もちろん脚色・増幅された部分もありますが、史実を伝えていると理解しています。

 理由は景行天皇の時代に宮廷は爛熟・腐敗してしまったからです。色好みの景行天皇はあまたの后との間に80人を越える皇子・皇女をもうけました。おまけに皇子・皇女に各地の領土を分け与えようとします。この政策で最も被害をこうむるのは地方に根をはった国造や豪族達ですから、各地で反乱が頻発します。この気運を背に受けて、神功皇后と武内宿禰は筑紫から大和へ進軍します。朝廷は東海や東国に兵士派遣を要請しますが、大半は様子をうかがってか兵士を派遣しません。景行・成務朝に愛想をつかしていたこともありました。

 

 両派の激突の命運を決めたのは大和盆地の守護役である和邇氏でした。朝廷の守り役を自負する和邇氏も景行朝の腐敗ぶりに苦りきっていました。和邇氏が神功皇后と武内宿禰側についたことが神功側の勝利の決め手となり、応神朝が始まります。

 応神朝は神功皇后の摂政で始まり、皇子の応神天皇は王朝の正当性を裏づけるために、景行天皇の皇子である五百城入彦(いほきいりひこ)孫3姉妹を后に迎えますが、和邇氏出自の宮主矢河比売(みやぬしかはえひめ)も后にして、宇遅和紀郎子(うぢのいらつこ)、八田若郎女(やたのいらつめ)、女鳥(めとり)王をもうけ、遺言で宇遅和紀郎子を後継者に指名します。

 仁徳天皇は恐妻だった葛城氏の磐之媛が亡くなった後、腹違いの妹である八田若郎を正后にします。その後も雄略天皇と仁賢天皇、王朝が替わった継体天皇も和邇氏から后を迎えています。それ以降も和邇氏は小野妹子、柿本人麻呂と有能な官僚・文化人を輩出していきます。

 

参照 文献での掲載 (記:古事記、紀:日本書記、風:風土記、造:国造本紀)

「孝昭天皇記」

孝昭天皇が尾張連の祖、奥津余曽の妹、余曽多本毘賣を娶って生まれた御子は、天押帯日子、次に大倭帯日子國押人

天押帯日子の子孫

  春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、

  知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壹師君、近淡海国造 等。

「孝安天皇記」

姪(天押帯日子の娘)忍鹿比賣を娶って、生まれた御子は大吉備諸進、次に大倭根子日子賦斗邇。孝安天皇と孝霊天皇は次男で天皇に。長子相続制ではない。

「崇神天皇記」

「こは為(おも)うに、山代国にある我が庶兄(まませ)タケハニヤス(建波邇安)王、邪き心を起こせし表(しるし)にこそあらめ。伯父(オオビコ)、軍を興して行でますべし」とのりたまひて、すなわち和邇臣の祖ヒコクニブク(日子国夫玖)を副えて遣はしし時、すなわち和邇坂に忌瓮(いはひべ)を居えてまかり往く」

「国造本紀」

武社(千葉県山武市):大和の東国支配。上総一ノ宮の玉前神社。

吉備穴(備後北)、吉備風治(備後南)、淡海、糠田、三野前、多遅麻、稲葉、甲斐。

「垂仁天皇紀」

(治世25年)五大夫:阿倍臣(武渟川別たけぬなかわわけ)、和邇臣(彦国葺ひこむにぶく)、中臣連(大鹿島おほかしま)、物部連(十千根)とをちね、大伴連(武日たけひ)。

「神功皇后記」

(忍熊王の反逆)忍熊王は難波の吉師(きし)部の祖、伊佐比(いさひ)宿禰を将軍とし、太子(応神天皇)の御方は和邇臣の祖、難波根子建振熊(たけふるくま)を将軍とした。

「応神記」

応神天皇は本家筋から3姉妹を迎えるが、和邇氏出自の宮主矢河比売(みやぬしかはえひめ)を愛し、宇遅和紀郎子(うぢのいらつこ)、八田若郎女(やたのいらつめ)、女鳥(めとり)王が生まれた。宇遅和紀郎子を後継者に指名して没する。

「仁徳記」

 王位の座を年長の皇子、大山守(おおやまもり)が握るが、宇遅和紀郎子と仁徳天皇が征伐。宇遅和紀郎子は仁徳天皇に王位を譲るため、身をひきます(自害)。妹のは八田若郎女は葛城氏出身の恐妻、磐之媛(いわのひめ)の死後、仁徳天皇の第2番目の正后となります。

 

 

〔その4〕吉備津彦兄弟と吉備氏

 備前一の宮の吉備津彦神社、備中一の宮の吉備津神社の祭神である吉備津彦兄弟(兄はイサセリビコ、弟はワカヒコタケキビツヒコ)の父親は第七代孝霊天皇ですから、欠史八代説では架空の人物となります。

 ところが、吉備津彦兄弟の子孫は兄の息子が上つ道(備前)、弟の息子が下つ道(備中)に根をはり、ことに応神朝で大和朝廷を倒すことが可能なほどの勢力となり、飛鳥時代の吉備真備まで、古代史をにぎわせる氏族となりますから、何らかの始祖がいたはずです。

 

 その始祖は大和から支配者としてやって来たのか、吉備は大和に支配されたことはなく土着勢力が成長したのか、あるいは朝鮮半島からやって来た人物なのか。吉備津彦兄弟が史実の人物なのか、想像上の人物なのかが、「吉備勢力の大和東上説」と「吉備邪馬台国は大和に敗北した説」との分かれ道となります。

 「大和東上説」をとると、上つ道と下つ道の子孫は大和へ東上した吉備勢力の本家筋か一族にあたることになります。すると、なぜ分家筋の大和が本家筋の吉備を征服した伝承や大和に抵抗したウラ(温羅)伝説が後代に造作されたのか。5世紀の雄略天皇時代の下道臣前津屋(さきつや)の驕り、雄略天皇が吉備の上道臣田狭(たさ)の妻稚媛(わかひめ)を奪って磐城(いはき)と星川稚宮の2皇子をもうけ、雄略天皇の死後、星川皇子の反乱に吉備上道臣も呼応して鎮圧された史実がモデルとなったのか……と話は混乱していき、「木を見て森を見ない」、「木が森を隠している」がために森の中で迷子になっていく典型的な例となります。

 

1.孝霊天皇の阿波征服

 7代孝霊天皇が実在したと見て足跡を追っていくと、纒向副都心を造った後、大和国を近畿地方の雄へとふくらませ、第10代崇神天皇による日本統一への端緒を作った人物となります。

 

 父の孝安天皇(治世推定195215年)が大和盆地全域、河内湾を支配下に置いた後、淡路島に進出しましたが、孝霊天皇(治世推定215239年)の時代に淡路島全域の支配に成功します。

 淡路島には吉備系の海人族であるオオクニタマ(大国魂。オオトシの子神)族の拠点がありました。神武天皇の大和入りに際して水路案内役をして倭直部の祖となった速吸門(明石海峡)の椎根津彦(しひねつひこ。珍彦うづひこ)も同族に属します。椎根津彦の子孫の長尾市(ながおち)が祀った大和神社と淡路国二の宮の大和大国魂神社がつながるのは、この理由によるようです。

 淡路島を含む瀬戸内海東部の影響を受けている庄内式土器の誕生につながり、山国である大和が淡路島の海人を取り込んだこんだことが大和の瀬戸内海地域への海路での進出につながっていきます。

 淡路島制覇で活躍したのは第4代安寧天皇の皇子シキツヒコ(師木津日子)の次男ワチツミ(和知都美)で、兄は第五代孝昭天皇時代の東海3国制覇で活躍しています。シキツヒコは南淡路の御井宮に在住して、姉ハヘイロネ(蠅伊呂泥。アレヒメ)と妹ハヘイロド(蠅伊呂泥杼)をもうけます。姉妹は孝霊天皇の后となって吉備津彦兄弟を生みます。

 

 大和が淡路島を占領したことにより、阿波の忌部族との争いが激化していきます。先に阿波国が淡路島に攻め込みましたが大和側が押し返し、阿波国中心部の吉野川下流へと攻め込みます。皮肉にも先陣役を担ったのはかっての僚友、伊勢サルタヒコ族でした。阿波の聖山である大麻山の主がサルタヒコであることはこれを物語っています。サルタヒコ族にとっては、阿波国が十分に援助してくれなかったため、大和に敗北してしまった、とする恨みがありました。

 

2.纒向の副都心化と阿波文化の取り込み

 孝霊天皇は十市(とをち)縣主・大目(おほめ)の娘、細比賣(くはしひめ)を正后として、国玖琉(くにくる。孝元天皇)をもうけ、同じ十市の、唐子・鍵遺跡に近い黒田(徒歩で約30分、2キロメートル)、現在の法楽寺辺りに王宮を構えたと伝えられています。

 吉備津彦兄弟もこの黒田の王宮で誕生します。淡路島出身の后、意富夜麻登玖邇(おほやまとくに)阿禯比賣(あれひめ)は、箸墓の主となる夜麻登登母母曾毘賣(やまととももそびめ)、日子刺肩別(ひこさしかたわけ)、吉備津彦兄の比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ。またの名は大吉備津日子)、倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)を生みます。また阿禯比賣の弟(妹)、蠅伊呂杼(はへいろど)は日子寤間(ひこさめま)、若日子建吉備津日子を生みました。

 記紀の記載には孝霊天皇から複数の后が登場します。孝霊天皇以前の王さまも複数の后がおりましたが、大国にのしあがった葛国は孝霊天皇の時代から、阿波忌部氏の祭祀の影響を受けて、きちんとした語り部が整備された、系譜も整いだしたと考えるのが妥当です。もう1つの理由として、正后ではない后から生まれた吉備津彦兄弟などをはずすことができないため、正后以外の后の系譜も記録するようになったことが挙げられます。

 

 大和から瀬戸内海に至る水銀朱交易は御所市・五條・紀ノ川ルートから大和川・河内湾ルートへと移行していきます。悩みは大和川下りは大和と河内の国境地域では岩礁が多い難所となっていたことです。孝霊天皇は阿波の吉野川流域に産する平状の青石・赤石を積み重ねるなどの技術で治水工事に長けた阿波の工人を徴発して、この難題を解決し、より大型の川舟でも河内湾から大和盆地に上がることができるようにしました。孝霊天皇の陵墓が大和川を見下ろす王子の丘の上にあるのはこの偉業を誇るためです。平状の石を積み重ねる技術は竪穴式墳丘墓の木槨を覆う石室造りにも応用され、萩原二号墳墓に代表される阿波型の前方後円墳が伝わります。

 

 この10数年来、「纒向王宮・首都説」と「箸墓ヒミコ説」が考古学者を主体に喧騒され、それを鵜呑みにしたマスコミ(大手新聞・テレビ・出版社)が拡声器の役割をしたことから、邪馬台国所在地論争は決着した印象を与えます。ところが「纒向王宮・首都説」は「欠史八代説」が誤説であることに気づかずに、大型建築物群が出現しただけで纒向が王都であった、と拡大解釈しているだけの話しです。纒向に王宮が存在したのは4世紀前半の第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の時代で、いかなる文献もヒミコが存在した3世紀に纒向に王宮が存在した、とは言及していません。

 

 纒向首都説で考察が欠けている点は、纒向と阿波文化の関係に加えて、纒向と唐子・鍵遺跡との関係です。

 纒向の興隆に反比例して唐子・鍵遺跡は衰微していきますが、話は簡単で、孝霊天皇が支流の寺川にある唐古・鍵遺跡の商工業の機能を、より水深が深く大型船も上がれる大和川本流の纒向に移して、大型都市化した、ということです。

 「3世紀の纒向首都説」は考古学、文献、神話・神社史の3本脚の1つの脚に立脚しているにすぎません。2本目の脚の文献を欠史八代説で封印してしまい、3つの脚の神話・神社史と有力氏族の系譜とは断絶しています。本来の「大和王権発祥の地」である御所市から孝昭・孝安天皇の王宮跡が出現したら砂上の楼閣となり、木っ端微塵に崩れさります。

 

3.孝霊天皇の近畿全域への拡大策と吉備津彦兄弟による吉備邪馬台国の征服

(孝霊天皇の近畿地方征服)

 大和の膨張は進み、支配地域が東海3国、淡路島・阿波国に次いで近畿地方全域へと拡大していきます。まず近江の征服から始まります。近江には東の尾張から尾張氏が、西の山城からアマツヒコネ(天津日子根)族、南の伊勢からイクツヒコネ(活津日子根)族が進入します。近江の中心部の野洲川河畔の御上(みかみ)神社にはアマツヒコネの子神アメノミカゲ(天之御影)が祀られ、イクツヒコネ(活津日子根)族は彦根市の語源になった、と伝えられます。

 尾張氏は日本海側の越前に進んだ後、丹波へと進み、アマツヒコネ族は地元の河内から摂津に入り、両軍は丹波で合流して東播磨で吉備邪馬台国と対峙するようになります。総帥は孝霊天皇の兄、大吉備諸進(もろすす)でした。吉備津彦兄弟はまだ10代前半の少年でしたが、叔父に元に従軍したことが桃太郎伝説伝説につながります。

 

(第八代孝元天皇と第九代開化天皇による吉備邪馬台国征服)

 大和による吉備邪馬台国制覇は第八代孝元天皇(治世推定239247年)と第九代開化天皇(治世推定247267年)の二代に渡ります。

 孝元天皇の時代に吉備に攻め込みますが、帯方郡の助けもあって吉備邪馬台国は侵入を阻み、膠着状況が続きます。この渦中でオオキビモロススが他界し、成人した吉備津彦兄弟が将軍となり、266年頃に吉備の首都は落城します。

 吉備征服の主体は陸路は尾張軍、海路はアマツヒコネ軍でした。ウラ伝説や備中、伯耆溝口、備後、安芸に分布する鬼伝説は吉備邪馬台国と投馬国の敗者によるゲリラ戦があったことを伝えています。

 これまで見逃されてきたことは、大和は吉備を征服した後、日本海側はアメノホヒ族が東出雲まで、瀬戸内海から西はアマツヒコネ族・アメノユツヒコ族が、〔その2〕で紹介した意富氏の健緒組(たけをくみ)が伊予、豊後経由で九州西中部の有明海まで一挙に制覇している点です。吉備と共同して西日本の勢力が大和入りした場合は、大和軍が吉備に次いで西へと攻め込んでいく必然はなかったはずです。 

 

4.吉備勢力の大和東上説

 三国志・魏志倭人伝は「倭国大乱以前に、邪馬台国は男王が数代(35代)続いた」と記述していますから、欠史八代説に沿った「吉備勢力の大和東上説」では邪馬台国は前期は吉備に、後期は大和に存在したことになります。

 東上した時期として3つが想定され、吉備の特殊壺・器台も同じ時期に大和に入った、ということになります。

倭国大乱中か直後(190年~200年頃)に吉備を主体とした西部勢力が大和入りして、ヒミコを女王に共立した、

ヒミコの在位中(190年代~247年)に大和へ移動、

トヨの在位中(248年~266年頃)に大和へ移動)。

 

 ①~③のいずれの時期でも、吉備・西部勢力が大和入りした後、大和盆地の土着勢力や東海勢力と手打ちをして、平和的な協調により「メデタシ、メデタシ」というお伽話的な結論に至ります。これは史実の把握というよりも、関東派、関西派、九州派の学閥的な対立を反映して、日本は「和をもって尊し」とする平和な国なのですから、仲良く協調しましょう、と現代的なメッセージの所産にすぎません。

 ヒミコ・トヨから初代天皇と主張される崇神天皇へのつなぎはいずれの説明でも論理的に不自然です。やはり邪馬台国と大和は分断している、と考えた方が理にかなっています。

 

5.トヨ(ヤマトトトビモモソヒメ)の大和入り

 自説では吉備邪馬台国の最後の女王トヨは、本人の意思ではなく、開化天皇の后候補兼人質として大和入りした、と考えています。

 邪馬台国が大和に敗北したのが266年か267年頃とすると、247年に13歳ですから、3233歳となります。生まれは234年となりますが、吉備津彦兄弟とほぼ同い年と言えます。

 トヨとおぼしき女性は吉備津彦兄の同腹の姉、夜麻登登母母曾毘賣(やまととももそびめ)と想定できますが、吉備津彦兄の妹、倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)か孝元天皇紀で紹介される正后の欝色謎(うつしこめ)の第3子、倭迹迹姫(やまとととひめ)の可能性もあり、その曖昧さがトヨの大和入りの後に吉備津彦兄の系譜に組み入れこまれた証しともなります。

 

 ヒミコの縁者(宗女)であるトヨが讃岐出身と判断している理由は、讃岐一の宮の田村神社の祭神の筆頭であるだけでなく、東かがわ市の水主(みずし)神社なども含め、崇敬が讃岐地方に根強く残っていることです。また田村神社と船山神社の地区に百相(ももそ)の地名もあり、「讃岐のももそからやって来た姫」と解釈することもできます。

 開化天皇はトヨを后として迎え入れることで、倭国の盟主の座が吉備から大和に移ったことを誇示しようとしましたが、急死してしまいます。トヨにとって運がよかったことは跡を継いだ崇神天皇とそりが合ったことです。崇神天皇の腹違いの叔父タケハニヤスの謀反を通じてトヨと崇神天皇の絆が深まり、大和は倭国の盟主の証しである特殊壺・器台と弧帯文等を受け継いで、盟主の座を固めていきます。

 

7.吉備津彦兄弟の子孫

 吉備津彦兄弟が実在したとすると、吉備中山の山頂にある茶臼山古墳の主は吉備津彦兄のイサセリビコ、あるいは弟も含めた二人と考えられます。上道の備前車塚古墳はイサセリビコの息子墓でしょう。

 

 景行天皇は最初の正后として、吉備臣の祖、若日子建吉備津日子の女、針間の伊那毘能大郎女(いなびのおほいらめ)を娶って、大碓と小碓(倭建。やまとたける)をもうけます。年齢から判断すると若日子建吉備津日子は吉備津彦弟の息子と見るのが妥当でしょう。

 王朝が応神朝に替わると、吉備氏はさらに表舞台に出ます。ヤマトタケルは応神朝の祖神へと祭り上げられ、応神天皇は吉備臣の祖御友別(みともわけ)の妹、兄媛(えひめ)を追いかけて吉備へ(応神天皇紀)、次の仁徳天皇も吉備の海部直の女、黒日賣を追いかけて吉備へ出かけています。

 吉備一族は朝鮮半島南部の支配・経営でも重用され、大和朝廷を脅かす存在となります。雄略天皇は大和朝廷を見くびった吉備の下道臣前津屋(さきつや)を誅殺します。次に吉備の上道臣田狭(たさ)の妻稚媛(わかひめ)を奪って、磐城(いはき)と星川稚宮の2皇子をもうけます。雄略天皇の死後、母にそそのかされた星川皇子が反乱をおこし、吉備上道臣も呼応しますが、鎮圧されてしまいます。

 

参照 文献での掲載 (記:古事記、紀:日本書記、風:風土記、造:国造本紀)

「孝安天皇記」

孝安天皇は姪の忍鹿比賣(おしかひめ)を娶って、大吉備緒進(もろすす)、次に大倭根子日子賦斗邇(ふとに。孝霊天皇)をもうける。

「孝霊天皇記」

十市縣主の祖、大目の娘、細比賣を娶って大倭根子日子国玖琉(くにくる。孝元天皇)をもううける。

意富夜麻登玖邇(おほやまとくに)阿禯比賣(あれひめ)を娶って、夜麻登登母母曾毘賣(やまととももそびめ)、日子刺肩別(ひこさしかたわけ)、次に比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ。またの名は大吉備津日子)、次に倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)をもうける。

    注:孝元天皇紀では正后の欝色謎(うつしこめ)との第3子に倭迹迹姫(やまとととひめ)。

また阿禯比賣の弟(妹)、蠅伊呂杼(はへいろど)を娶って、日子寤間(ひこさめま)、次に若日子建吉備津日子をもうける。

大吉備津日子と若建吉備津日子とは、二柱相副(たぐ)ひて、針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前に忌瓮(いはひべ)を据えて、針間を道の口として吉備国を言向(ことむ)け和したまひき。

大吉備津日子は吉備の上つ道臣の祖。若日子建吉備津日子は吉備の下つ道臣、笠臣の祖。日子寤間は針間の牛鹿臣の祖。日子刺肩別は高志(越)の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖。

 

「崇神天皇紀」

治世10年、大彦(おおびこ)をもて北陸に、武渟川別(たけぬなかはわけ)をもて東海に、吉備津彦をもて西道に、丹波道主をもて丹波に遣わす。

武埴安彦(たけはにやすびこ)と妻吾田媛(あたひめ)は、謀反逆(みかどかたぶけ)むとして、師(いくさ)を興してたちまちに至る。夫は山背より、婦は大坂より、共に入りて帝京を襲はんとす。時に天皇、五十狭芹彦(伊佐勢理毘古。吉備津彦兄)を遣わして、吾田媛の師を撃たしむ。

治世60年、吉備津彦と武渟川別とを遣わして、出雲振根(ふるね)を誅(ころ)す。

「国造本紀」

吉備:上道国造、三野(みぬ)国造、下道国造、加夜国造、笠臣国造

福井県:角鹿(つるが)国造、

大分県:国前国造、

熊本県:葦分国造、

静岡県:蘆原国造、

「景行天皇記」  吉備臣の祖、若日子建吉備津日子の女、針間の伊那毘能大郎女を娶って、大碓と小碓(倭建。やまとたける)をもうける。ヤマトタケルの九州と東国遠征。

「神功皇后 摂政前紀」 吉備臣の祖鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲国を撃たしむ。

「応神天皇紀」 吉備臣の祖御友別(みともわけ)の妹、兄媛(えひめ)を追いかけて吉備へ。 

「仁徳天皇記」 吉備の海部直の女、黒日賣を追いかけて吉備へ。

「雄略天皇紀」 吉備の下道臣前津屋(さきつや)を誅殺。吉備の上道臣田狭(たさ)の妻稚媛(わかひめ)を奪い、磐城(いはき)と星川稚宮の2皇子をもうける。雄略天皇の死後、星川皇子の反乱に吉備上道臣も呼応したが、共に鎮圧される。

 

 

〔その5〕オオビコ(大毘古)と阿倍氏

1.崇神天皇の叔父で義父のオオビコ

 阿倍氏の始祖となるオオビコ(大毘古)は第八代孝元天皇(治世推定239247年)を父として、穂積臣等の祖、内色許男(うつしこを)の妹、内色許賣(うつしこめ)を母として生まれ、開化天皇と同腹の兄です。

 

 開化天皇(治世推定247年~267年)は父親である孝元天皇の后伊伽賀色許賣(いかがしこめ。孝元天皇の正后の姪)を后として崇神天皇(治世推定268298年)をもうけています。父王の存命中に父から奪って后とするのはよほどの異常事態以外はありえませんから、伊伽賀色許賣を后としたのは孝元天皇の死後となります。崇神天皇が20歳前後で父の急死を受けて即位したとすると、開化天皇 の治世は247年~267年からにかけて約20年間と推定します。

 孝元天皇は吉備津彦兄弟を総帥として、東播磨を基地として吉備邪馬台国へ攻撃を始めます。が、魏の帯方群からの援軍もあって、野望がくじかれ、治世年数は比較的に短く、ヒミコとほぼ同じ247年頃に他界します。吉備邪馬台国とは小康状態が続きますが、後を継いだ開化天皇は266年頃にようやく吉備邪馬台国の首都征服を達成しました。ところが瀬戸内海から大和盆地に流入した伝染病で、開化天皇は急死して、急遽、崇神天皇が即位します。

 父親代わりとなったのが、崇神天皇の叔父オオビコです。オオビコには息子としてタケヌナカハワケ(建沼河別)と膳(かしわで)臣の始祖の兄弟、娘として御真津比賣(みまつひめ)がいましたが、

娘を崇神天皇の后に据えて、外戚の座を固めます。

 

  崇神天皇はすでに紀伊国造の荒河刀辮(あらかわとべ)の娘、遠津年魚目目微比賣(とほつあゆめまくはしひめ)を后としてして、后との間にトヨキイリヒコ(豊城入日子)とトヨキイリヒメ(豊鉏入比賣。アマテラスの祭女)が生まれます。

 オオビビの娘ミマツヒメは正后となり、伊玖米入日子伊沙知(いくめいりびこいさち。垂仁天皇。治世推定299330年頃)、伊邪能真若(いざのまわか)、3皇女と倭日子(やまとひこ)をもうけます。  

 3の后である尾張氏出自の意富阿麻比賣(おほあまひめ)は大入杵(おほいりき)、八坂(やさか)の入日子(いりひこ)と2皇女をもうけますが、八坂入日子の娘八坂入日賣(いりひめ)は第12代景行天皇の第2番目の正后となり、若帯日子(わかたらしひこ。成務天皇)と五百木(いほき)入日子等を産み、景行・成務朝が倒れた後、五百木(いほき)の入日子の息子、品陀真若(ほむだまわか)の娘3人が応神天皇の后となって第1王朝(神武・崇神朝)から第2王朝(応神朝)へと引き継がれていきます。

 

(埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣)

 1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣(国宝)にはオオビコと同一人物と見なされる「意富比垝(おほびこ)」を始祖として8世の「乎獲居(おわけ)臣(おみ)」に至る系譜が彫られていました。

 素直に解釈すれば、これによりオオビコが実在したことが証明されます。8世孫「乎獲居臣」は阿倍氏ないし膳氏の一族か、武蔵国北部で大きな勢力を築いていた壬生吉士(難波吉士と同族)と推測されています。「壬生吉士」とすると、神功皇后軍を迎え撃った忍熊王の将軍「難波の吉師部の祖、伊佐比宿禰」に通じて、オオビコを祖とする一族は景行・成務天皇側についていたことが分かります。

 オオビコが実在したとすると大和朝廷の基礎を築いた人物となりますが、1960年代から吹き続けている「欠史八代説」の風に乗って、後代にオオビコを初代にまつりあげた系図すり替え説や、オオビコが実在したとしても崇神天皇ではなく、垂仁天皇の時代の人物で、オオビコが関わる崇神朝のタケハニヤスビコの反乱は垂仁朝のサホビコの反乱を下敷きにして創作された、などなど例のごとく屁理屈の応酬となっています。自分が属する歴史学会や研究会の空気を配慮しながら、実在か架空のどちらの風に乗るか、という現実的な選択が優先されて、史実追及は後回しとなっている印象を受けます。

 

2.タケハニヤスビコ(建波邇夜須毘古、武埴安彦)の反乱 (注:〔その3〕和邇氏 3.を参照)

 タケハニヤスビコも崇神天皇の叔父ですが、母は河内の青玉の娘、波邇夜須毘賣(はにやすびめ)で、河内を地盤とする一族です。オオビコと違い、開化天皇の庶兄弟となり、身分的にはオオビコよりも低くなります。

 

  タケハニヤスビコは崇神天皇治世10年に天下取りの反乱をおこし、鎮圧されます。欠史八代説ではオオビコと同様にタケハニヤスとも実在しなかったことになりますが、実在説に立つ私は以下のような筋書きを描いています。

 タケハニヤスビコは兄の開化天皇の急死を受けて、天下取りの時機到来と判断します。母の出身母体であるアマツヒコネ族が西国から船で持ち込んでくる戦利品は河内湾で陸揚げされますので、戦利品をコントロールできる立場にあり、富が蓄積されていました。崇神天皇が即位した後、大和盆地が荒廃していくのは、タケハニヤスビコ配下の掠奪行為に起因します。また倭国の盟主の象徴である特殊壺・器台を吉備から河内に持ち込んで、大和の王位奪取を着々と進めていきます。

 開化天皇の后候補として大和入りしていたトヨの行く先が混乱する中で、タケハニヤスビコはトヨ(やまとととびももそひめ)を后にしようと、秘かにトヨと接触します。トヨがタケハニヤスビコの反乱を察知シタのはこの理由によります。

 タケハニヤスビコの野望はオオビコ、和邇氏、吉備津彦兄の軍隊により、阻止され、鎮圧されます。いつの世でも「勝てば官軍、負ければ賊軍」ですから、タケハニヤスビコに連動する形でアマツヒコネ族の朝廷での勢力は衰え、替わって物部氏が台頭していきます。

 

 現代ではタケハニヤスビコとアマツヒコネ族はほとんど忘れられてしまった存在となっています。邪馬台国九州説でも大和説、あるいは他の説でも、タケハニヤスとアマツヒコネ族の存在については、不思議なほど考察が及んでいません。布留式土器がいつから始まったか、なぜ河内湾に吉備の特殊壺・器台が運び込まれたか、などについては考古学的な見地からの推定に留まり、それが各種文献とどう関連していくか、この場合は文献で言及されるタケハニヤスビコとアマツヒコネ族に対する考察が欠落しているがために、一時的には話題を提供しながらも、古代史の森の入り口から迷路にはまりこんでしまっていく状況が続いていくことになります。

 

3.四道将軍

 タケハニヤスビコの反乱がおさまって大和盆地は平静に戻り、崇神天皇は東西日本の統一に踏み出します。

 東西日本の統一でに向け、日本書記では四道将軍として、西道に吉備津彦、丹波にヒコイマス(日子座。崇神天皇の腹違いの弟)、北陸にオオビコ、東国にオオビコの息子ヌナカハワケが送られます。

 古事記では四道将軍の言及はありませんが、西道はすでに吉備邪馬台国に次いで筑紫までと、豊後経由で肥国まですでに征服していたためです。吉備津彦兄弟は筑後など残された地域の征服の統括を託されます。

 

 ヒコイマスの丹波行きは、すでに孝霊天皇の時代に丹波は征服されていますから、独立を保っていた丹後半島の丹後王国の征服をめざしたものです。ヒコイマスの孫、迦邇米雷(かにめいかづち。父は山代の大筒木真若)は「丹波の遠津臣」の娘(高材比賣たかきひめ)を娶って神功皇后の父、息長(おきなが)宿禰をもうけています。オオクニヌシの后の系譜の中でトリミミ(鳥耳)は10世孫の遠津山岬多良斯(とほつやまさきたらし)まで詳しく記載されていますが、遠津山岬多良斯が「遠津臣」につながると判断すると、丹後王国は出雲系の王国だったことが分かります。

 オオビコは順調に越前、越中、越後から会津盆地に入ります。ヌナカハワケの東国入りは「東の方十二道」(古事記)、「東海」(日本書記)とありますので、通常、東海道経由で東国に入ったと解釈されちますが、富士山麓を縫って東国に入る東海道は垂仁天皇の時代に開通したものですから、実際は東山道を使って信濃から上野、下野、岩代(会津盆地)へと進んで、会津で父オオビコと再会したようで、常陸、武蔵へは足を踏み入れていません。

 

4.タケヌナカハワケの筑紫行きとトヨキイリヒコの東国下り

 王としての実力を発揮しだした崇神天皇は、次第に叔父で義父であるオオビコと義弟ヌナカハワケの存在が煩わしくなっていきます。さらにヌナカハワケは東国を制覇したと吹聴していますが、実際は東山道を通って信濃から上野に入り、下野を経て会津盆地に進んだにすぎず、肥沃な関東平野には手をつけなかったことが部下たちの証言から明らかになります。

 崇神天皇は手付かずのままである関東平野の常陸に海路から意富氏とタケカシマ(建鹿島)を送り込み、関東平野の一角を制覇して、常陸、下総、武蔵と続く関東平野の征服を進めます。

 

 ここで崇神天皇は絶妙な手を打ちました。安芸、周防、長門、筑紫と西道を押さえていたアマツヒコネ族・アメノユツヒコ族を意富氏に次ぐ軍勢として東国に送り、ヌナカハワケを東国から筑紫担当に配置替えします。崇神治世の晩年、西出雲王国の征服でヌナカハワケと吉備津彦が将軍として送り込まれます。ヌナカハワケが東国か大和から派遣されたとすると、距離的に遠すぎると不審でしたが、筑紫から西出雲に攻め込んだ、と解釈すると論理的に納得できます。年代的に見ると吉備津彦は第2世代でしょう。

 意富氏、アマツヒコネ族・アメノユツヒコ族による北部関東地方と南部東北地方の征服が固まった後、崇神天皇は紀伊国造の娘から生まれた長子トヨキイリヒコを下野の宇都宮に送り込みます。

 ヌナカハワケとアマツヒコネ族・アメノユツヒコ族との配置転換により、東国でのオオビビ・ヌナカハワケの影響力の排除、西国でのアマツヒコネ族の影響力の排除、息子トヨキイリヒコを東国支配の総帥とする、という一石三鳥の政策は見事に決まり、東国は天皇家の財政を支える直轄地となります。 

 

5.垂仁天皇以降

 崇神天皇を継いで、垂仁天皇が即位しますが、垂仁天皇の母ミマツヒメはオオビコの娘、ヌナカハワケの姉ですから、阿倍氏は外戚の座を維持します。垂仁朝治世25年に任命された五大夫では、阿倍臣(武渟川別たけぬなかわわけ)、和邇臣(彦国葺ひこむにぶく)、中臣連(大鹿島おほかしま)、物部連(十千根)とをちね、大伴連(武日たけひ)と、ヌナカハワケが筆頭となっています。

 国造本紀では、阿倍氏は北陸(若狭は膳氏、越地方)はオオビコの行路を国造として受け継ぎ、筑紫もヌナカハワケの後を継いでいますが、東国での国造は那須国のみと、崇神天皇の政策を引きずっています。 

 

 垂仁天皇・景行天皇時代は阿倍氏は尾張氏と手を組んで、朝廷を動かす存在となり、逆にトヨキイリヒコを筆頭とする東国勢と吉備氏は冷遇されます。

 アマテラスを祀る場所として、朝廷の経済基盤となった東国支配の窓口である伊勢が選ばれ、伊勢神宮が建立された理由は、阿倍氏と尾張氏がトヨキイリヒコを牽制する意味合いを含んでいます。

垂仁天皇の治世で編纂された日本神話が「大和の天つ神対出雲の国つ神」の論理で構成されていることも阿倍氏と尾張氏の意向が反映されています。

 

 垂仁天皇を継いだ景行天皇は崇神天皇の第3の后、尾張連から意富阿麻比賣から生まれた八坂の入日子の娘である八坂入比賣を2番目の正后として若帯日子(わかたらしひこ。成務天皇)、五百木(いほき)の入日子、押別(おしわけ)、五百木(いほき)の入比賣をもうけており、尾張氏と阿倍氏は外戚の位置を維持します。

 ところが景行天皇末期から応神朝誕生に至る過程で、阿倍氏・尾張氏と吉備氏・東国勢の立場は逆転し、阿倍氏・尾張氏は朝廷の中枢部では衰微していきます。

 

 景行天皇の時代に宮廷は爛熟・腐敗してしまいます。(注 〔その3〕5.を参照)

 色好みの景行天皇はあまたの后との間に80人を越える皇子・皇女に各地の領土を分け与えようとしましたが、各地で反乱が頻発し、この気運を背に受けて、神功皇后と武内宿禰は筑紫から大和へ進軍します。

 神功皇后軍を迎え撃った忍熊王の将軍は「難波の吉師部の祖、伊佐比宿禰」ですが、伊佐比宿禰はオオビコを祖とする一族だった可能性があります。朝廷は東海や東国に兵士派遣を要請します。成務天皇の母は尾張氏系ですから、東海諸国は兵士を派遣したでしょうが、トヨキイリヒコ系を主体とする東国は静観を決め込んで、兵士を派遣しなかったことが戦局を左右する要素の1つとなり、神功皇后側が勝利をおさめます。

 摂政となった神功皇后は、王朝の正当性を裏づけるために景行天皇の皇子である五百城入彦(いほきいりひこ)孫3姉妹を后に迎えます。

 応神朝では吉備氏、東国のトヨキイリヒコ系が勢力を伸ばし、半島経営で活躍する。反対に阿倍氏と尾張氏は朝廷の中枢部では衰微していきます。筑紫は国造はヌナカハワケだが、一の宮は応神系(神功皇后と応神天皇)。

 

文献での掲載 (記:古事記、紀:日本書記、風:風土記、造:国造本紀)

「孝元天皇記」

穂積臣等の祖、内色許男(うつしこを)の妹、内色許賣(うつしこめ)を娶って、大毘古、少名日子建猪心(すくなひこたけいごころ。書紀ではヤマトトトヒメ)、若倭根子日子大毘毘(おほびび。開化天皇)をもうける。

大毘古の子、建沼河別(たけぬなかはわけ)は阿倍臣等の祖。

「崇神天皇記」

大毘古の女、御真津比賣(みまつひめ)を娶って、伊玖米入日子伊沙知(いくめいりびこいさち。垂仁天皇)、伊邪能真若、国片比賣、千千都久和比賣、伊賀比賣、倭日子をもうける。

「崇神天皇紀」

治世10年、大彦(おおびこ)をもて北陸に、武渟川別(たけぬなかはわけ)をもて東海に、吉備津彦をもて西道に、丹波道主をもて丹波に遣わす。

治世60年、吉備津彦と武渟川別とを遣わして、出雲振根(ふるね)を誅(ころ)す。

「垂仁天皇紀」

(治世25年)五大夫:阿倍臣(武渟川別たけぬなかわわけ)、和邇臣(彦国葺ひこむにぶく)、中臣連(大鹿島おほかしま)、物部連(十千根)とをちね、大伴連(武日たけひ)。

「国造本紀」

那須(栃木県)国造、若狭(福井県)国造(膳かしわで臣)、高志(石川、富山、新潟県)国造、高志深江(新潟県)国造、筑紫(福岡県)国造

「欠史八代説」を皇別氏族から検証すると 最終 No.6

           参照 : ブログ「大和の日本統一に関わった氏族」

 

 

〔その6〕崇神天皇時代の皇別四氏族

1.崇神天皇と皇別4氏族

 神武天皇と欠史八代から派生した皇別氏族は、崇神天皇による東西日本の統一の場面で、揃い踏みをします。

意富(おほ)氏 

  :伊予と九州中央部を制覇。次に東国の常陸を制覇し、東国の入り口の信濃を管理。

和邇氏  

  :大和盆地の名家として、タケハニヤスビコ(建波邇夜須毘古、武埴安彦)の反乱を鎮圧。

吉備氏  

  :四道将軍として西道を統括。タケハニヤスビコの反乱を鎮圧。

阿倍氏  

  :自説の要旨タケハニヤスビコの反乱を察知。四道将軍として、父オオビコ(大彦)は北陸、息子タケヌナカハワケ(武渟

   川別)は東山道と東北地方南部を制覇し、親子は会津で合流。

 

 欠史八代説に従いますと、四氏族をもうけた天皇は架空の人物となりますから、当然なことに氏族の始祖、意富氏のカムヤイミミ(神八井耳)、和邇氏のアメノオシタラシヒコ(天押帯日子)、吉備氏の吉備津彦兄弟(イサセリビコとワカタケキビツヒコ)、阿倍氏のオオビコも架空の人物となります。

 実在する天皇が崇神天皇からとすると、氏族の始祖も崇神天皇時代からとなりますから、意富氏はタケヲクミ(健緒組)、和邇氏はヒコクニブク(日子国夫玖)、吉備氏は上の道臣と下の道臣、阿倍氏はタケヌナカハワケが始祖ということになります。ところが吉備津彦兄弟とオオビコは崇神天皇の時代に四道将軍として活躍していますから、実在したとしても不思議ではなく、話しは込み入っていきます。

 

 皇別四氏はどこから、どうやって崇神天皇時代に台頭したのか。氏とも欠史八代説と同様に後世に創作されたとすると、意富氏は初代の神武天皇、和邇氏は第五代孝霊天皇、吉備津彦兄弟は第七代孝霊天皇、オオビコは第八代孝元天皇から出自したとする系譜を創作する必要があった理由を検討することが必須となりますが、邪馬台国所在地論争のいずれの説でも、皇別氏族にまで考察が及んでいません。

 

 邪馬台国の大和説ではヒミコ・トヨから崇神天皇へと王位が継承された、と推定されています。すると崇神天皇の父や叔父も存在したはずで、彼らが誰なのかの考証が必然となり、また彼らをさしおいて女性のヒミコとトヨが王位を保持したことは天皇家の男子一系の論理から外れることになります。

 九州説では邪馬台国の国王系譜から出た崇神天皇ないしは応神天皇が河内か大和盆地に東上した後、東西日本を統一したことになります。この場合も氏の出自は九州なのか近畿地方など他の地方なのか、について考察する必要があります。

 吉備東上説は大和の埴輪の原形となった特殊壺・器台の発祥地が吉備であったことが1980年代に実証されたことから有力な説になりましたが、 西部勢力の東上を従来の「九州」から「吉備」に入れ替え、ヒミコ・トヨから崇神天皇への継承は大和説を採用する、という九州説と大和説のどちらをも納得させうる折衷説のような印象を与えます。

 

 邪馬台国大和説、九州説、吉備東上説や他の説にしても、基本的に「欠史八代説」に立脚していますが、[その1]概略で紹介した井上光貞説以来、「欠史八代は帝紀のみで、旧辞の記載がない」という単純な論理に終始して、帝記の系譜に登場する皇別氏族まで気配りが及んでいないことが根本的な欠陥です。

 

 神武天皇から始まる系譜は、もちろん後代に挿入された氏族も混ざってはいるでしょうが、伝承は正しい、と見なすのが自然です。ヒミコ・トヨから崇神天皇の継承は不自然で、ヒミコ・トヨの王朝(王国)と崇神天皇の王朝は分断されており、邪馬台国は男子一系を伝統とする王国によって滅ぼされた、と解釈した方が素直です。

 

2.吉備邪馬台国と大和狗奴国の歴史比較

 自説は神武天皇から実在したとしますが、その系譜は邪馬台国の系譜ではなく、邪馬台国の敵国だった狗奴国とします。狗奴国は吉備邪馬台国を破ってはずみがつき、その勢いで一挙に九州地方中部から東北地方南部まで傘下におさめて、初めて日本統一の偉業を達成した、というものです。4皇別氏族は大和狗奴国の膨張に沿って、4皇別氏族が誕生しています。

 寺沢薫氏は弥生中期末に奴国が衰微し、代って伊都国が倭国の盟主の座を握った、と推定されますが、自説では奴国と同時期に伊都国も吉備邪馬台国の傘下に入り、1世紀末頃に吉備が倭国(西日本)の覇権を握り、107年に後漢に遣使を送った帥升は吉備邪馬台国王と推定しています。

 

(吉備邪馬台国と大和狗奴国)   注:年代は推定

1世紀半ば頃)

弥生中期後半に勃興。出雲制覇

1世紀後半~2世紀初め)

中期末に奴国・伊都国を支配下に置く 吉備国と宗像族の要請を受けて水銀

倭国(西日本)の盟主。帥升の後漢への遣使   朱交易路に葛(狗奴)国を建国

2世紀後半)

倭国大乱。北の出雲と南の阿波勢力の対立 東海3国への進出

ヒミコの即位で倭国大乱が終結 大和盆地全域を支配

3世紀前半)

淡路島・阿波、近畿地方を征服

ヒミコが魏の帯方郡に援けを講う 吉備邪馬台国への攻撃

3世紀後半)

大和に破れ、女王トヨが人質として大和入り 吉備に次いで九州西中部まで支配

崇神天皇が東西日本を統一

 

3.纒向遺跡の全貌図の検証

 3世紀の纒向王都説」、「纒向はヒミコの王都で、箸墓はヒミコの墓説」は国立歴史民俗博物館も参画したこともあって新聞・テレビが大きく報道したため、「邪馬台国の王都は纒向だった」説で確定した、と思い込んでいる人が多いようです。

 

 邪馬台国纒向首都説でしばしば引用される想像図は、寺沢薫氏が作成された「纒向遺跡の全貌」です(日本の歴史2 「王権誕生」P.2532000年発行。講談社)。精緻に描かれたデッサン画をじっくりと検証してみます。

 纒向遺跡は東は三輪山南麓、北は三輪山と龍王山に挟まれた山麓、西は柳本古墳群がある台地、南は大和川(初瀬川)の中に位置しています。

 遺跡の中央部を大和川の支流が縦貫し、左側に王宮跡と想定される大型建物群、その手前の大和川に近い地域に3つの中型古墳(勝山古墳、石塚古墳、矢塚古墳)、王宮跡と台地の間に祭場跡があります。

 支流の右側には5つ以上の集落があり、南部に支流へとつながる運河が走り、東端に箸墓古墳とホケノ山古墳があります。

 ちなみに4世紀前半の垂仁天皇の玉垣宮(珠城たまき)宮と景行天皇の日代(ひしろ)宮は纒向中心部から奥に入った三輪山北西麓の穴師(あなし)と伝えられています。崇神天皇の水垣(瑞籬)宮は纒向地区から東に約3キロメートル離れた三輪山東麓の金屋にあります。

 

(纒向は文献どおり大きな市場があった地区)

 問題は垂仁天皇以前に、纒向地区に王宮が存在したとする記述はいかなる文献にも存在しないことにあります。

 

 王宮中枢部への入り口は南側の大和川の方向、川を隔てて集落群と対面する東側のどちらかが想定されますが、どちらの場合にせよ、死者を祀る古墳は王宮から離れた場所に配置するのが一般常識ですから、王宮のすぐ近くに死者を祀る古墳を3つも築造していることは不自然です。

 また謀反者や敵の襲撃を考えると王宮が台地の坂下に位置しているのも整合性がありません。垂仁天皇や景行天皇の王宮のように、背後を山々で守られ、集落より少し高い位置にあるのが合理的です。

 柳本古墳群がある台地には丹波、山城から纒向に入る主要街道が走っています。街道の坂下にあたる位置は、王宮としては防御しにくい、危ない地域ですが、物品の流通拠点としては適しています。このため、日本書記崇神紀など紹介しているように、纒向は大きな市場(大市)があった場所で、王宮跡と推測される大型建物群は「官営倉庫群」だった、と私は推測します。

 

 第六代孝安天皇時代に伊勢と河内・紀伊を結ぶ東西街道と丹波からの北街道が交差する地点に近く、大和川の水深も深い纒向に市場が自然発生し、第七代孝霊天皇の時代に商工都市として人工的に大規模開発され、大和川支流の寺川河畔にあった唐子・鍵遺跡が移転して、大きな市場として発展します。

 中心部を貫く川の左側が官営倉庫群、右側が大市の施設群で、衣類・雑貨市場、 穀物・ナッツ類・乾物食品市場などに区分けされていました。運河近くは野菜・肉・魚の生鮮食品市場で、市場の開催日には出入りする小舟や人々でごったがえしとなりました。

 

 以上の理由により、現在の日本列島の風向きから推し量ると、袋叩きにされるか、足をすくわれることを承知した上であえて書きますと、「3世紀の纒向・邪馬台国王都説」は20世紀後半の誤説である欠史八代説にそって、20世紀末から21世紀初頭にかけて一部の考古学者が創案した「幻の王都」にすぎない、と結論づけています。

 と言って、纒向遺跡の価値が消滅するわけではなく、南西に数キロメートル離れた唐子・鍵遺跡や孝霊天皇王宮跡と連動した遺跡群として考慮されるべきです。

 

4.視点をより高く、より広く

 邪馬台国所在地論争を含めた日本古代史への考察、どのように日本国が誕生したかについては、第2次世界大戦以前は、日本書記などの記述を鵜呑みにして、神武天皇2600年前説を土台としていました。歴代天皇は生身の人間であると同時に神でもあるから、100歳以上長生きしても不思議はないと、強引に解釈されました。記紀などで使われる神は「聖人」の意味で使用されている場合もありますが、聖人を神と権威づけることにより、第2次世界大戦前の政治・社会を都合が良い方向にしむける意図が勝っていた時代でした。

 第2次世界大戦後はあまりに右傾化が行き過ぎた反省を踏まえて、欠史八代説と神功皇后・武内宿禰架空説が先進的、革新的であるとして評価され、一般化しました。これにより3世紀と4世紀は文献的には戸口が閉ざされてしまい、考古学を主体とする方向に進みました。

 

 ところが双方の説とも、論議がある程度まで進行した時点で行き詰まり、最後は日本は平和な国ですから、邪馬台国所在地をめぐる関東派、関西派、九州派の学閥論争も、最後は平和的に協調しましょう、ということでお茶を濁してしまいます。

 その原因は双方のいずれとも200年以上も前の本居宣長(17301801年)を越えていないからです。新井白石の時代から始まった邪馬台国所在地論争は、本居宣長の頃に「邪馬台国・大和対九州」の構図が固まり、さらに日本神話を「大和の天つ神対出雲の国つ神」の図式で解釈するようになりました。その流れはいまだに尾を引いており、日本古代史の入り口にある「邪馬台国・大和対九州」という木が日本列島全体の森を隠しています。裏返して言うと、過去200年あまり、本居宣長を越える説が登場しなかったことになります。

 

 ここ10数年間、「邪馬台国は吉備、狗奴国は大和説」を進めてきましたが、その過程で「高天原からスサノオ・オオナムチに至る系譜は吉備邪馬台国の時代にすでに確立し、その上に大和建国神話が上積みされ、出雲の国譲り神話が4世紀初頭の垂仁天皇の時代の政治情勢の下で吉備邪馬台国神話と大和建国神話の接着剤として創作されたことを明らかにしました(「邪馬台国吉備説 神話編」参照)。

 残念ながら、本居宣長による方向付けは誤っていたことに同意する声は、列島内では踏みつぶされてしまうのか、ほとんど挙がってきませんが、21世紀前半は本居宣長以来の見直しをする時代になって欲しいものです。

 

 それへの道は、視点を九州西部の有明海から東北南部の猪苗代湖・阿武隈川まで俯瞰できる高さまで高め、ばらばらに考察されている文献、考古学、神話・神社史・氏族系譜の3点をセットにして、より広い視野で連動させていくことです。

 いずれは、欠史八代説とそこから派生した諸説が誤りであったと認識する風が日本列島内でも吹いてくることを確信しつつ、199」の戦いを続けていきます。

 

 

         「欠史八代説」を皇別氏族から検証すると   ―完―

  

 

 

No.5  「千葉県市原市の神門(ごうど)古墳の埋葬者は尾張氏系」

 

(その1)神門古墳群の概要

 

 邪馬台国論争で、千葉県市原市にある東日本最古の前方後円墳である神門(ごうど)古墳群に着目されておられる方は数えるほどしかおられないでしょう。

 

 神門古墳群は大和盆地から遠く離れた房総半島の東京湾側のほぼ中央に位置しますが、大和盆地の纆向型前方後円墳が出現したとほぼ同じ時期に築造された纆向型前方後円墳です。

 「邪馬台国のヒミコ」が活躍した3世紀前半に、東海地方を飛び越えて、なぜ、房総半島でも出現期の纆向型前方後円墳が出現したのでしょうか。邪馬台国が大和であったとすると、邪馬台国はヒミコの時代に、すでに房総半島にまで勢力を伸ばしていたことになります。

 

 市原市には椎津川、養老川、村田川の3つの河川が流れています。それぞれの流域では縄文時代から多くの集落が形成されていましたが、上総国の首都として古墳出現期から古墳終末期まで連続して古墳群が築造されています。

 とりわけ、3つ川の真ん中にある養老川の東京湾側から見て左岸の丘陵部である国分寺台周辺が上総国の中心部だったようで、奈良時代の国分寺跡や神門古墳群があり、現代でも市原市役所が存在しています。

 

 市原市に存在する古墳の中でも最も古いとされる神門古墳群は3号墳、4号墳、5号墳からなり、時代的には5号墳、4号墳、3号墳の順で古く、同族の首長3代にわたる古墳群と想定できます。

神門古墳群のすぐ近くにある諏訪台1号墳と村田川流域にある小田部(おだっぺ)古墳とも同じ出現期に築造されています。

(神門古墳3基の概要)

 「発掘いちはらの遺跡 No.4P.5(編集:市原市埋蔵文化財センター)から引用させていただきます。

神門5号墳(千葉県指定史跡として保存されています)

全長42.6メートル。3基の中では最も前方部が未発達で、「いちじく型」とも呼ばれる。後円部径は30メートル前後。

鉄剣、鉄鏃(近江・東海系の銅鏃の系譜を引く)、東海系の高坏(たかつき)をはじめとする祭祀用の土器類が出土。

神門4号墳(消滅)

全長48.8メートル。纒向型前方後円墳の比率に近い形です。

短剣、鉄槍、鉄鏃、東海系の高坏や特殊な壺をはじめとする祭祀に使った土器などを発見しています。とくに41本の鉄鏃は「定角式鉄鏃」と呼ばれる特徴的なもので、福岡県の津古生掛(つこしょうがけ)古墳と同じ時期と考えられます。

神門3号墳(消滅)

全長49.1メートルあり、前方部が纒向型前方後円墳よりやや発達しています。

短剣、鉄槍、鉄鏃、東海系の高坏・壺を中心とする祭祀用の土器などを発見しています、鉄鏃は「鎬造柳葉(しのぎつくりやないば)式鉄鏃」と呼ばれるもので、ホケノ山古墳の鉄鏃と似ており、時期的に近いものと考えられます。

 

 

(その2)大和盆地の纆向(まきむく)にある出現期の前方後円墳との関連性

 

 ヒミコかトヨの陵墓と考えられている定形型大規模前方後円墳である箸墓(全長278メートル)以前に造られたものと推定されている大和盆地の纆向型前方後円墳として、

1.纆向石塚古墳(全長96メートル)、

2.東田大塚古墳(同102メートル)、

3.纆向矢塚古墳(同96メートル)、

4.纆向勝山古墳(同110メートル以上)、

5.ホケノ山古墳(同約80メートル)

5基が存在します。

 

 神門古墳群の3墳の全長は纆向の4基の2分の1弱にすぎませんが、市原市埋蔵文化財調査センターは3墳も箸墓の造営以前に築造された、と判断されています。

 「発掘いちはらの遺跡」P.12では、神門5号墳は纆向石塚古墳とほぼ同じ頃、神門4号墳はホケノ山古墳とほぼ同じ頃、神門5号墳はホケノ山古墳の後に造られた、と推測されています。

 ということは、箸墓の築造年代により、大和と市原市の纆向型前方後円墳の築造年代もはっきりしてくるわけです。

 

 首長3代が連続した古墳群として、1代の治世年数を20年平均と仮定した場合、

(1)箸墓の築造が280年頃とすると、5号墳は230年代、4号墳は250年代、3号墳は270年代、(2)250年代とすると、5号墳は200年代、4号墳は220年代、3号墳は240年代となります。

 私個人の判断としては、箸墓250年頃説は早すぎ、箸墓280年頃が妥当ではないか、と考えていますので、5号墳は230年代、4号墳は250年代、3号墳は270年代となります。

 

 九州の福岡県小郡市にある津古生掛(つこしょうかけ)古墳(墳長33.0メートル。後円部は直径29メートル、高さ9メートル)も纆向型前方後円墳に分類されています。築造は地元では300年以降の4世紀、「発掘いちはらの遺跡」では神門4号墳と同じ頃(250年代)と推定されており、50年以上の差があります。私の邪馬台国吉備・大和狗奴国説では、266年頃に大和が吉備を征服した後、一挙に九州東部から北部まで勢力下におさめたことになり、津古生掛古墳の築造を270年代頃と考えると、前方後円墳が定型化される280年代以前にすでに小郡市は大和の支配下に入っていたことを示していることになります。

 

(その3)纒向型前方後円墳の起源は阿波と考える自説

 

 神門古墳群と市原市埋蔵文化財調査センターを訪れてみる前は、神門古墳3墳から近畿、東海、北陸地方の土器などが出土していることを知らず、纆向型前方後円墳が大和盆地と同時期に房総半島に出現した謎を解くカギは「阿波」にあると考えていました。

 理由は、第7代孝霊天皇(治世推定215239年頃)が治世を始めてからまもなく、大和狗奴国は淡路島を拠点に阿波を攻略し、阿波南部の住人は房総半島の先端に逃亡し安房国を建国するからです。阿波には萩原2号墳(円丘の径が20メートル、突出部は5.2メートル。築造年は2世紀末~3世紀初頭)に代表される前方後円型墳の伝統が存在し、大和は阿波の工人を大和盆地に徴発してその伝統を吸収し、房総半島では阿波からの移住者が北上して、市原市の神門古墳群を築造したのではなかろうか、とする考え方です。

 

(大和狗奴国の膨張と東西日本の統一)

 大和の纆向と房総半島の前方後円墳の原点は阿波にあるとする着想は大胆ですので、想定外として懐疑的な方もおられると思いますので、私の大和狗奴国説にもとずいた、2世紀末から3世紀末までの大和の膨張と東西日本の統一に至る流れの概略を説明します。

    (参照)「邪馬台国吉備説 神話篇」P.499 P.502

         当HP:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説箸墓と日本国誕生物語

 

 弥生時代中期末(80年代)に大和盆地の御所市周辺に神武天皇が狗奴(葛)国を打ちたてた後、狗奴国は第五代孝昭天皇の時代から膨張を始めます。

第五代孝昭天皇(治世推定170年代~190年代)

倭国大乱の隙に乗じて、伊勢・美濃・尾張の東海3国を征服し、葛国の膨張が始まります。御所市笛吹を根源地とする尾張氏が木曽川流域に移住(真清田神社)して、尾張地方を開拓していきます。第四代までの磯城族に代わって、孝昭天皇は初めて尾張氏の后を正后とします。

 

第六代孝安天皇(治世推定195215年頃)

大和盆地全体を初めて支配します。大和盆地の西北部に定着した兄アメノオシタラシヒコが和邇(わに)氏の祖となります。淡路島を攻略した後、阿波王国との利権争いが激化していきます。庄内式土器が登場し、東海地方と瀬戸内海を結ぶ東西道と山城を結ぶ北道が交差する纆向が交易市場として発展していきます。

 

第七代孝霊天皇(治世推定215239年頃)

阿波王国の攻略に成功します。阿波王国の一部が海路、房総半島先端に逃亡し、安房国を建国します。その後、尾張氏を主体に、近江、越前、丹波を攻略した後、摂津と東播磨まで進攻します。

石工にたけた阿波の工人が大和盆地に徴発され、大和川の治水工事が始まります。大和川河畔の纆向で都市開発が行われ、唐古・鍵遺跡の商工業が移転します。阿波の弥生墳丘墓の影響をを受けた纆向型前方後円墳が登場します。

 

第八代孝元天皇(治世推定239247年頃)

東播磨の加古川を前線基地にして吉備邪馬台国への攻撃を開始しましたが、魏の帯方郡からの援けを得た女王ヒミコの吉備邪馬台国が防戦、以後、戦局はこう着状態となります。

 

第九代開化天皇(治世推定247267年頃)

魏から西晋への政権交代に呼応して、266年、女王トヨが西晋に遣使を送ります。その前後に、大和が吉備邪馬台国への攻撃を再開し、吉備邪馬台国は滅亡に向かいます。讃岐に逃亡したトヨは人質および開化天皇の后候補として大和入りしますが、開化天皇が急死します。

 

第十代崇神天皇(治世推定268298年頃)

王宮内に祀るアマテラスとヤマトオオクニタマ二神の折り合いが悪く、大和盆地の治安も乱れます。大叔母ヤマトトトビモモソヒメ(自説ではトヨと同一人物)の助言を得て、オオモノヌシを三輪山に勧請すると、大和盆地の治安が改善し、以後、東西日本の統一へと邁進していきます。吉備から徴発した工人の影響を受けながら特殊器台、初期埴輪(都月型)、布留式土器が登場し、 ヤマトトトビモモソヒメの自害後、箸墓が築造されます。

 

 220年代に孝霊天皇の治世下で、大和川(初瀬川)沿いに位置する纆向の都市開発と初瀬川の治水工事に向けて、吉野川の治水工事と石工に長けた阿波の工人が大和盆地に徴発され、阿波型の前方後円墳を大和に伝えた。一方、大和の進攻の過程で海路、房総半島の南端に逃亡し、新しい阿波国として「安房国」を建国した安房勢力が東京湾を北上して、中規模の扇状地が広がる養老川下流域に定着して、阿波型の前方後円墳を大和盆地とほぼ同時期に築造していったのではないだろうか、とするのが私の想定です。

 

 

(その4)神門古墳群と市原市埋蔵文化調査センター

 

 私の想定が正しいなら、神門古墳群で阿波との関連が出てくるかもしれない。そんなロマンを描きながら、JR内房線の五井駅東口に降り立ち、観光事務所で入手した地図を頼りに更科通りをまっすぐ進んでいきました。

 更科通りは五井駅から国分寺台まで伸びる道路で、上総の首都だったこの地に数年間滞在した菅原孝標の女(むすめ)が記した「更級日記」にちなんで命名されています。

 更級道を進んでいくと、地図で眼についた阿波須(あわす)神社が見つかりました。やはり阿波の影響が残っていた、とわくわくしてきます。祭神はどの神さまなのか分かりませんでしたが、阿波の忌部系の神さまでしたら、私の想定は的中かもしれない、と期待が膨らみます。

 阿波須神社を過ぎたあたりから、奈良時代の国分寺跡、神門古墳群や市原市役所などがある丘陵地の国分寺台が見えてきました。 

 

 国分寺台は遠くから見ると小粒な丘陵のようでしたが、麓に到着してみると、予想外に広大で、丘陵全体が宅地化され、モダンな住宅街になっています。惣社5丁目をめざして住宅街を進んでいくと、観光バスが停まっており、そこが上総国分寺跡でした。そのすぐ先右手に神門5号墳がありました。

 柵で囲まれており、なかなか立派な古墳です。説明掲示板を読むと「埋葬施設から出土した土器には、弥生時代後期(3世紀頃)の土器や、北陸地方あるいは近畿地方と直接関連がある土器が含まれていました。」とあります。予想外に北陸が出てきましたが、阿波の名は出ていません。

 3号墳と4号墳を探しましたが見つかりません。訪問後の資料整理で、5号墳のみが千葉県指定史跡として保存され、3号墳と4号墳は宅地造成工事で消滅してしまったことが分かりました。3号墳は国分寺西門のすぐ側にあり、4号墳、5号墳へと続いていました。3墳を囲むように国分寺の屋根を葺いた瓦を製造する神門瓦窯群が点在していますが、国分寺が建築された8世紀の奈良時代でも神門古墳群は威風堂々としていたためか、3墳をよけて瓦窯群が造られたようです。

 

(市原市埋蔵文化財調査センター)

 神門古墳群から市原市役所へと下り、国分寺尼寺跡を過ぎ、しばらく歩いて中央武道館に隣接する市原市埋蔵文化調査センターを訪れました。

 センターは市原市の縄文時代から古墳時代までの遺跡から出土した秀逸品が所狭しと展示されていました。香炉形土器など縄文時代のまつりの多彩な土器の創造性に見とれ、ことにイノシシ形土製品(能満上貝塚)に目を奪われました。

 神門古墳コーナーでは、神門3号墳からの出土品、3墳と周辺遺跡から出土した近畿地方、北陸地方(福井・石川県)、東海地方(愛知県あたり)、北関東地方(栃木県あたり)の土器が比較展示されています。悔しいことに阿波系土器は出土していないようです。北関東は栃木県あたりとありますから、宇都宮に定住した崇神天皇の長男トヨキイリヒコとのつながりを連想しました。

  

 説明してくださった調査員の方にしつこく3回ほど「阿波関連の物は出土していませんか?」と尋ねてみたのですが、一言も阿波の名は出ず、どうやら私の想定は誤りだったようです。

  阿波須神社も後で調べてみると、源頼朝が安房から上総を経て東上した際に阿波須権現を勧請したもので、古墳時代とは関係がないことが分かりました。

 私の「神門古墳の阿波系首長説」は遠のいてしまいました。代わって登場した考え方は、大和盆地の出身で、尾張と北陸地方に勢力を拡げた尾張族です。私の予想よりも早く、尾張系氏族かその配下が房総半島に進出していたようです。

 

 

(その5)大和の膨張の尖兵役を担った尾張氏

 

 なぜ神門古墳群の埋葬者は尾張氏系あるいはその配下ではなかったのか、とする連想は、近畿、東海、北陸を結ぶ勢力を持った氏族は尾張氏以外には考えられないからです。

 尾張氏は2世紀末の第五代孝昭天皇の時代に御所市(笛吹神社)から尾張(真清田ますみだ神社)に移住し、一族から孝昭天皇の正后を出して外戚の地位を固めた後、大和の膨張の一翼を担ったようです。第七代孝霊天皇による近江攻略に際しても、尾張から不破関(関が原)を越えて米原へと進攻し、近江征服後、越前の敦賀に入り、一軍は若狭から丹波に入り(元伊勢籠神社)、他軍は越前から越後へと進んでいきます(彌彦神社)。

 

 アメノホアカリや息子神アメノカヤマの尾張系の神さまを祀る神社を追っていきますと、西播磨の龍野市の粒座天照(いいぼにますあまてらす)神社、備前の赤磐市下市に近い高倉神社、岡山市京山の尾針(おばり)神社を経て、讃岐の田村神社へと続きますので、吉備邪馬台国の攻略でも第一線を担ったと私は考えています。

 この筋書きから見ますと、尾張氏は尾張を拠点に近江、越前、丹波へと勢力を拡大した後、阿波族が開拓した黒潮ルートに乗って、220年代にすでに房総半島に進出していたことになります。

 

 

(その6)市原市の前方後円墳と木更津市の前方後方墳

 

 神門古墳群の埋葬者が尾張氏系の首長3代だったと考えると、市川市とわずかに20キロメートルほどの近さにある木更津市になぜ、同時代に築造された「前方後方墳」が存在するのか、の理由も明確となります。

 木更津市にある高部古墳群の30号墳と32号墳は、両者とも「前方後円墳」ではなく「前方後方墳」ですが、時期的には32号墳が神門5号墳、30号墳が神門4号墳と同じ頃に造られたと考えられています。両者の違いは、神門古墳群の3基の出土品では「三種の神器」である鏡・玉・剣のうち「鏡」がありませんが、高部古墳群の2基ではは「玉」がないことです。

 

 邪馬台国大和説では、敵国の狗奴国は尾張を中心とした東海地方とする見方が大勢です。この見解では「前方後円墳の邪馬台国」対「前方後方墳の狗奴国」という図式となりますが、房総半島の中央部では前方後円墳の勢力と前方後円墳の勢力が、なぜヒミコの時代にあたる時期に共存していたのかが、謎となります。この謎も前方後円墳は尾張氏系、前方後方墳は三河、遠江の物部氏系が房総半島にもたらしたもの、と解釈すると納得できます。

 

 

(その7)上総の尾張氏と景行天皇

 

 今のところ、市原市や上総地方でアメノホアカリやアメノカヤマの尾張系の神さまを祀る神社が見つかっていないため、神門古墳群の埋葬者は尾張系と言い切れるまでに至っておりませんが、太平洋側にある上総国一ノ宮の玉前(たまさき)神社は、阿波、吉備、出雲系の神々が多い関東地方で、珍しく大和系のタマヨリヒメ(神武天皇の母神)を祭神としており、尾張氏(アメノホアカリはホノニニギの兄弟神)との関連性を示しているのかも知れません。

 

 尾張一族は上総から下総へと北上しようとしましたが、下総の勢力が強く難渋します。崇神天皇は尾張氏に代わって、九州西部の攻略に功があった意富(おお)氏に吉備邪馬台国から徴発された中臣族をつけて、房総半島を越えた鹿島・香取を結ぶ水道の奥に広がる内海から関東平野への進攻を命じます。その後、長男の豊城入彦(とよきいりびこ)を下野の宇都宮(宇都宮二荒山神社)に送り、関東平野統括の総帥とします。尾張氏は崇神天皇の関東平野平定の構想からはずされた、と解釈することもできます。

 

 神門古墳群が築造された3世紀前半頃から約1世紀後、上総の国は崇神天皇の孫にあたる景行天皇の時代に古事記、日本書記や風土記に登場します。

 景行天皇の時代まで尾張氏は外戚の立場を維持しています。崇神天皇の后尾張大海媛(おおあまひめ)は八坂入彦を生みますが、景行天皇は八坂入彦の娘八坂入媛(やさかいりひめ)を后に向かえ、七男と六女をもうけます。

 景行天皇は治世40年、息子のヤマトタケルを東国に派遣しますが、ヤマトタケルは東海道を経て、三浦半島の走水(はしりみず)から東京湾を横断して房総半島に入り、上総を経由して常陸に入ります。

 ヤマトタケルの母播磨稲田大郎姫が治世525月に他界した後、同年7月に八坂入媛が正后となります。外戚の主導権が播磨・吉備系から尾張氏に移ったことになります。

 治世538月に景行天皇は伊勢から東海に入り、同年10月に上総国に至ります。同年12月に伊勢に戻った後、翌年549月に伊勢から大和の纆向宮に戻りますが、治世582月、近江の大津市の高穴穂宮に移り、治世6011月に同地で亡くなります。

 

 ヤマトタケルと景行天皇の東国行きは史実ではなく、神話にすぎないと片付けてしまうのは簡単ですが、これが史実とすると、どういう展開になったのでしょうか。私は以下のような物語を連想しています。

 

 崇神天皇により日本統一が達成され、次の垂仁天皇の時代に支配体制が整い、第1期大和朝廷は絶頂期になります。ところが垂仁天皇を継いだ景行天皇は酒色に走り、朝廷は爛熟、腐敗していきます。このため、九州や東国の辺境地では反乱が多発するようになり、景行天皇は息子ヤマトタケルを鎮圧に派遣します。

 景行天皇は多くの后から約80人の子供をもうけますが、子供たちを諸国の国造、別(わけ)、稲置(いなぎ)、縣主(あがたぬし)に配置しようとします。この構想に地方の豪族たちが反発します。朝廷の腐敗にに苦りきっていた和邇(わに)氏を代表とする大和の名族は地方豪族に呼応して、景行天皇に退位を迫ります。

 大和にいられなくなった景行天皇は、伊勢から尾張氏を頼って上総に逃げます。上総で態勢を立て直し、北関東勢力にも加勢を頼みますが良い返答は得られませんでした。景行天皇は伊勢経由で大和に復帰したものの、大和を再度追われ、息子の成務天皇を伴って近江に逃げ、大津に王宮を構えます。 

 和邇(わに)氏を筆頭とする大和の貴族は反乱の鎮圧の目的で九州に送られたヤマトタケルの王子(仲哀天皇)の擁立を画策します。ところが筑紫の地で仲哀天皇は急死していましたが、武内宿禰の策略もあって未亡人となった神功皇后が担ぎ出され、大和勢力は近江勢力を破り、第2王朝として応神王朝が誕生します。応神王朝の誕生後、上総の尾張氏は没落します。

 

 神門古墳群から市原市の古墳群を追っていくと、色々な物語が浮かんできます。ヒミコからトヨへと続く邪馬台国のその後の行方、大和による東西日本の統一をより具体的に知っていく上で、市原市の古墳群はより一層重要になっていくことでしょう。

 

 

                           著作権© 広畠輝治 Teruji Hirohata