連載小説の主旨

西暦3世紀後半に大和(大倭国)が東西日本の統一を達成する以前、1世紀末から3世紀半ば過ぎまで、吉備邪馬台国が西日本(倭国)の盟主であったことを実証していくシリーズです。 

構成は「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇」、「吉備勢力の出雲制覇」、「オオクニヌシと日本海」、「吉備の楯築王から倭国大乱へ」の4連作となります。

 

第一編 吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇

 

第1章 奴国の後漢への遣使  

 

1.遣使派遣を決める

 

「王さま、大駕洛(おおから。金官伽邪)国の甘言に乗せられては絶対になりません。 大駕洛の首露(スロ)王は狡猾です。親交を装って、貴国と伊都国を呑み込んでしまおう、という魂胆です。機先を制して、こちらから伽邪に攻め込むのです」。

  大駕洛に追われて奴国に亡命した干刀(カントウ)はつたない日本語を時折つまらせながら須玖(すく)王への説得を必死に試みます。これで何度目の説得だろう。気が遠くなるほどの回数に上ることは承知の上でした。

 

「しかし後漢に遣使を送って、冊封(さくほう)体制に組み込まれるのも利益があるようだ。中国本土からの輸入品がどっと増える、というではないか。舶来品の需要は幾らでもある。舶来品の扱いが増えれば、我が国はますます豊かになる。それに万が一となったら伽邪のみならず、漢の勢力も支援に駆けつける、とも申すではないか」。

「いやいやそれこそ、首露の思う壺です。支援にかこつけて攻め込んでくる意図がありありです。半島では秦末期から漢が成立する動乱期に半島北部の箕(き)氏朝鮮に亡命した衛満が箕の準王を騙して王国を乗っ取った事例がございます」。

 

 10年ほど前に伽邪から亡命してきた干刀の主張には一理はありました。また奴国にとって干刀を筆頭にする亡命者は技術者集団として貴重な存在でもあり、無視することはできません。

「伽邪地方の支配者が代ったことは事実だが、交易は順調に進んでいる。むしろ干諸国の時代よりも、輸入品の種類が増え、中国からの舶来品も増している」。

 半島とを結ぶ伊都国、一支(壱岐)国、対馬国の国王は「干刀たちの言い分は時代遅れとなっております。我々を伽邪に攻め込めさせようとする言い分は聞き流しする方がよろしいかと存じます。後漢に遣使を送る大駕洛国の提案に私どもは賛成です」とも言っているし、干刀の主張にうんざりしてきた気持ちもある。国内の製造者たちも干刀たちの技術はほぼ吸収して、もはや学ぶものはないとの陰口も耳にする。

 

 「首露はすでに出雲と吉備と手を結んでいるかも知れませんよ」。

 捨てゼリフのような干刀の言葉に須玖王はぎくりとしました。前夜、吉備と出雲の勢力が奴国に攻め込んでくる悪夢を見たばかりだったからです。

 干刀はそこまで先読みをしているのか。

 

 須玖王は部下たちを集めて協議を始めます。

「お前たちも承知しているように、伽邪地方の金官国から後漢の柵封体制に入る誘いが幾度かあった。伊都国、壱岐国、対馬国はもろ手を挙げて賛成したが、自国は慎重策をとった。理由は干刀たちが主張するように後漢か半島諸国に支配されてしまう恐れがあるからだ」。

「ところが膨張を続けている吉備勢力が西出雲王国も傘下におさめた知らせが入ってきた。海の遠くにある国よりも東が脅威の存在となってきた」。

「吉備勢力が出雲勢力も巻き込んで攻め込んでくることはまさかとは思うが、念には念をしておいた方が無難だ。いざにそなえた軍備増強が必要だ。しかし自国では兵士になる数は限りがある。傭兵を雇うしか対策はないだろうが、経費がかさんで行く」。

 

「そこを見きわめて、後漢に遣使を送り冊封体制下に入ろうと思うが、お前たちはどう考えるか?」

 部下たちの顔を眺め回すと、大半が納得した表情でした。

 早速、金官国の使者と伊都国に遣使派遣に同意する伝達が送られ、遣使派遣の準備が始まりました。時は弥生中期後半、西暦56年のことでした。

 

 

2.弁韓伽邪地方の歴史

 対岸の朝鮮半島で中国の影響が強まったのは紀元前210年に秦の始皇帝が他界し、秦帝国の土台が崩れだした頃からです。

 秦末期から項羽の三日天下を経て、高祖が漢王朝を確立する前202年までの動乱期、数万人に及ぶ人々が半島に逃げ込みました。ある者は秦帝国に使えた官僚や兵士と家族たちであり、ある者は中国の未来に見切りをつけて新天地を求めた食いつめ者たちでした。

 中国の北東、遼東湾に面した燕出身の衛満はとんでもない策士でした。主君の燕王が漢に背き北の匈奴に降伏して衛満にも危害がせまったことから、前195年に半島北部を支配していた箕氏朝鮮に逃げ込みます。箕の準王を巧みにくどいて亡命者コロニーを築いた後、漢が攻めてきたと偽って逆に準王の王城を攻めて準王を追い出して、自らの衛氏朝鮮を打ちたてます。

 半島南部に達した亡命者は後に辰国に発展する母体を形成していきますが、この頃から、半島と北部九州の玄界灘沿岸諸国との交易が増え始めていきます。

 

 87年後の前108年、前漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして半島を植民地化したことから、中国本土からの商人もどっと三韓地方にまで押しかけてくるようになります。武帝は鉄と塩を専売制としたことから、半島南部でも鉄の流通が増していき、倭国の諸国も鉄の輸入に飛びついていきました。

 

 半島南部の韓地方は西部が馬韓、南端部は弁韓、東部は辰韓の三韓に分かれ、中央部は三韓の端をまたぐ形で秦の末期から漢の初期の中国北東部からの亡命者がまとまって辰国を造っていました。三韓では村落国家や都市国家が次々と誕生していきます。

 西暦8年から23年にかけて王莽が前漢に替わって新を開きますが、25年に光武帝(治世25年~57)が漢を再興して後漢の時代となり、中国の影響は楽浪郡を拠点として、半島南部への強い影響を維持し続けました。

 

 弁韓の伽邪地方の住人はその頃まで、「九干」と呼ばれる諸族でした。九干は我刀干、留天干、汝刀干、彼刀干、五刀干、神天干、五天干、神鬼干から構成されていましたから、伽邪地方には9つの村落国家が存在していたことになります。

 伽邪地方の伝承によると、後漢の光武帝の時代にあたる42年(建武18年)、亀旨(クジ)峰に妙な音と歌声があがったので、九干の人々が集まって来ました。すると空から「天が私に命じて、ここに国を建て、その王になれというので、ここに来た。あなた達はこの峰の土を掘りながら、歌い踊りなさい」という声が聞こえました。九干などが「亀旨歌(韓国最初の叙事詩といわれる)」を歌って踊ると、空から紫色の綱が大地まで垂れてきました。綱の先には紅い布に金属の器が包まれていて、開けてみたら太陽のような黄金の卵が6つ入っていました。翌日、夜明けに卵6つから男の子が出現しました。最初に生まれた子は首露(スロ。または首陵)と名づけられて大駕洛(金官伽邪)国の王となり、残り5人はそれぞれ5伽邪の王となりました。

 

 要するに新しい勢力が他所から侵入してきて干諸国を破り、新しい王国を築いたわけです。この新参者はどこから来たのでしょう。満州系の北方騎馬民族が南下してくるのは約300年後の4世紀初頭以降です。半島西南部の馬韓勢力と見て間違いはないようです。

 馬韓は三韓のうちでも楽浪郡に最も近く、文明がはるかに進んだ中国の影響を最も受けやすい地域です。最新の武器を携えた馬韓勢力が弁韓諸国を破ることはたやすいことでした。

 敗れた干族の一部は倭国に亡命してきます。新支配者と倭国諸国との交易は数年、途絶えましたが、その後、交易は復活して、以前を凌ぐ活況となっていきます。率先して光武帝の後漢の冊封体制に加わった伽邪地方の諸国から使者が何度か渡来して、後漢の冊封体制入りと遣使派遣を要請してくるようになりました。

 

 

3.奴国の興隆とジレンマ

 対馬、壱岐を中継して半島と玄界灘・響灘を結ぶ交易や人的交流は縄文時代から存在していましたが、本格化したのは半島北西部で前195年に衛氏朝鮮が成立したこと、秦の滅亡前後の中国からの亡命者が半島を南下したことに起因します。対馬に最も近い伽邪地方には干族が土着していましたが、半島と北部九州を結ぶ交易の担い手となります。

 半島からは青銅の鏡、銅矛(ほこ)・銅剣・銅戈(か)などの青銅製武器、碧玉や硬玉製の管(くが)玉やガラス小玉が輸入され、富と威信の象徴として青銅の鏡、武器、玉の三点セットが甕(かめ)棺や木棺の首長墓に納められるようになります。

 

 それから約1世紀を経た前109年、前漢の武帝が半島を植民地化して南西部に真番郡を設置したことにより、日光鏡を代表とする前漢の文化が直接的に倭の国々にも影響を与えるようになります。

 玄界灘に接する北部九州の諸国は半島との交易で発展していきます。伽邪地方では干族の9つの国(9干)に集約されていきますが、その動きに連動するかのように、北部九州でも小共同体の数々の戦争を経て、クニから国家としての明確な形を現していきました。

 それに合わせて、対馬、壱岐、玄界灘沿岸諸国で、タカミムスビ、カミムスビ、コゴトムスビなどムスビ(産霊、産魂)の神々を祀る共通文化ができ上がっていきます。ムスビは霊的な働きで天地・万物を生成する神々です。

 

 金官伽邪など伽邪地方の港を出発した交易船は、対馬国、壱岐国、末盧(まつろ)国を経て伊都国に到達して荷下ろしをした後、倭の輸出品を積んで半島に戻っていきます。主な輸入品は鉄板 鉄鋌、鉄素材、大型形状鉄斧、青銅製品、絹錦、工芸品、ガラス原材、絹織物、輸出品は干しアワビ・ナマコ、真珠とヒスイ、水銀朱、工芸品などでした。

 輸入品は早良国を経て奴国に運ばれ、加工されたり、国内の販売向けに梱包されます。奴国は鉄矢じり、ガラスの勾玉・管玉、銅鏃、青銅器の鋳型(銅矛、銅剣、銅か、銅鐸、鏡、銅鏃)を製造する弥生時代最大の産業都市国家として飛躍し、3世紀後半の古墳時代の初めに至るまで盛んに生産を続けていきます。

 奴国で製造された加工品は粕(かすや。不弥)国で船積みされ、響灘の胸肩国、崗国、聞国を経て、宗像族を通じて日本海、瀬戸内海、九州東南の国々に運ばれます。

 玄界灘の国々は次第に伊都国が半島との交易、奴国が集積・加工の拠点として、伊都国と奴国が抜きん出た大国となっていきます。響灘の胸肩国は東部、東南の国々に向けた交易の拠点となります。

 

 玄界灘地方は弥生中期の半ば、前50年頃に最初の頂点を迎えました。経済の発展で人口が増大しましたが、悩みは北部九州は沿岸部まで山が迫っており、大規模な水田耕作が可能な沖積平野が少なかったことでした。耕地を新たに分散開発する必要が出てきましたが、耕地を拡大するためには傾斜が強い丘陵部を切り開くしか手段はありませんでした。

 中期後半(前50年~50年)に入ると人口が飽和化し、過剰人口は新天地を探して外に出て行かざるをえなくなります。奴国の工人・技術者は各地で歓迎され、こころよく受けいれられたこともあり、ムスビ族が日本海、瀬戸内海、九州東南部へと拡散していきます。

 農閑期や緊急事には兵士となる農民が少ないことは、兵士の絶対数が限られることを意味します。伊都国と奴国は米さえ大量に生産できたなら、北部九州を統合し、本州と四国も巻き込んだ大国へと成長する可能性はありましたが、両国とも都市国家から大国へ脱皮できなずにいました。どちらかと言うと奴国の力が伊都国を凌いでいましたが、港と産業で役割分担をしていた両国は共存していました。

 

 その一方で、平野部が多い吉備地方や出雲地方では、ムスビ族を通じて鉄斧、槍鉋(やりがんな)、刀子、のみなど鉄製の農機具を入手して、大中河川周辺の荒地や原野を開墾できるようになり、大規模な水田が増えていきます。吉備と出雲は米の輸出地域となり、奴国だけでなく伊都国、壱岐国、対馬国までもが吉備と出雲の米に依存していくようになり、立場が逆転していきました。

 

 

4.遣使の派遣の成功

「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てする」と「後漢書」に記されているように、奴国の光武帝への朝貢は成功裏に終わりました。

 須玖(すく)王は「漢の倭の奴の国王」と彫られた金印を手に部下達を高殿の招聘します。王の左には正后、右には若后が座り、どちらも遣使一行が洛陽から持ち帰った着物や簪(かんざし)、首飾りで着飾っています。

 

「おい、正后は若后の首飾りをチラチラ見やっているぞ。正后は本当は自分が欲したかったのだろう。やはり王さまは年かさの正后より若いピチピチが可愛いのだろうな」と声をひそめたささやきも聞こえます。

「これが金印だ。銅の金メッキではないぞ。重みも光沢も違うだろ」。

 皆は須玖王が頭上にかざした金印を注視します。本物の金を見るのは皆、初めてのことでした。わずか2.3センチメートル四方の小ぶりでしたが、重くどっしりした印象を与えます。

 ブルン、ブルンと須玖王が漢の鉄刀を振りかざします。一振りで人の首をはねてしまいそうな鋭利な刃先が怪しい輝きを放ち、高殿は静まりかえります。

 

 大使役をつとめた使者が後漢の首都、洛陽と光武帝の有り様を語ります。

「洛陽は絹で着飾った貴族・高官で満ち溢れ、極楽とはこういうものかとの思いがしました。漢の王さまに献じたヒスイが珍重されました。洛陽には硬玉は幾種類もありましたが、高質のヒスイは中国では産出されないということです」

「何しろですね、洛陽は地平線の彼方まで家並みが果てしなく続いております」。

 山々が海にせまる光景を見慣れた奴国の人々には、視界をさえぎる山や丘陵がなく、四方見渡す限り平野が地平線まで続いている風景などは想像がつきませんでした。

 

「万が一、吉備が攻めこんできたら、お前たちはどうするか」

「吉備なんぞの田舎物は漢の鉄刀を見るだけでおじけづいてしまいますよ」

「つきつめると鉄が先か米が先かの話でしょうが、後漢の威光を加えたら、鉄の勝ちに決まっております」

「噂では吉備国は常備軍が少なく、大半が農民兵のようです。普段は農作業をして農閑期になると臨時の兵士になるらしい。武器も鉄どころか銅製でもなく、石製だと言います」

「我らは鉄矢じり、吉備は石矢じり」と鼻歌まじりに、「鉄剣でせっけん(石剣)をせっけん(席巻)するだけさ」と誰かが駄洒落を飛ばすと高殿は爆笑にわきました。

 

 これで当分の間は安泰だ。吉備勢力が攻めてきても、半島の諸国が支援にやってきてくれる。後漢の威光を背景に、我が国を盟主として本州と四国も含めた倭国をゆるやかに統一していけばよい。次の方向が見えてきた須玖王はご機嫌でした。跡継ぎの王子を見やると、初めて酒を本格的に飲んで、吐き気がするのか青白い顔をしていました。何か頼りなさそうな姿に一瞬不安がよぎります。

 高殿には干刀の姿は見当たりませんでした。どこかに消えうせてしまったようですが、気に留める者はいませんでした。奴国はますます繁栄を謳歌し、絶頂をきわめていきます。

 

 

第2章 吉備の成長と発展

 

1.イザナミ黄泉路神話  (参照:補遺2 「中臣氏と吉備邪馬台国」)

 弥生時代中期に入った頃から(前200年以降)、瀬戸内海東部から日本海側の伯耆・出雲に至る出雲街道の中間に位置する津山盆地が大発展します。水稲栽培に加えて、桑畑と養蚕にも適地だったことから、織物産業が成長したからです。さらに中国山地で銅と錫(すず)が産出するようになって、銅鐸や銅剣、銅鏃(やじり)など青銅器の製造業も発展し、人口増大に拍車がかかります。津山盆地を見下ろす那岐山(なぎせん)は国生みのイザナギ・イザナミの降臨地となり、津山盆地を守る武人集団として富(とみ)族が生まれ、武神タケミカヅチと剣神フツヌシが誕生します。

 

(武神タケミカヅチと剣神フツヌシの誕生)  

 国生みに続いて、イザナミは三貴神、オオヤマツミなど次々に自然の神々を生んだ後、火神ヒノカグツチ(ホムスビ)を生もうとすると、ほとを焼かれてしまったイザナミは苦悶して死んでしまいます。

 怒ったイザナギは腰に佩(は)いた十拳剣(とつかつるぎ。タケミカヅチの父ないしは祖父神イツノオハバリ)を抜いて、カグツチの首を斬ります。すると剣先についた血が湯津石村に流れついて、イハサク(石拆)、ネサク(根拆)、イハツツノヲ(石筒之男)が誕生します。剣の本(もと)についた血も湯津石村に流れついて、ミカハヤヒ(甕速日)、ヒハヤヒ(樋速日)、タケミカヅチ(建御雷之男、又はタケフツ建布都、トヨフツ豊布都)が誕生します。剣の手上(たがみ)に集まった血は手俣から漏れ出て、クラオカミ(闇淤加美)、クラミツハ(闇御津羽)が誕生します。

 イハサクからクラミツハまでが剣を製造する過程から生まれた八神となります。また剣の刃からしたたった血が天安河辺でフツヌシの祖となる五百箇磐石(いほついはむら)となった、とする伝承もあります。剣に関する神々は伝承によって微妙に異なりますが、イツノオハバリ、 タケミカヅチとフツヌシが代表的な剣三神となります。

 

(イザナミの行き先は根国から黄泉国へ)

 瀬戸内海東部で創作されたオリジナルではイザナミは紀伊半島の南端、黒潮が洗う花の窟(いわや)に葬られ、太平洋の彼方にある根国に送られますが、津山盆地では薄暗い鍾乳洞の先にある黄泉(よみ)国に置き換えられます。

 イザナギはイザナミを慕って黄泉の坂を越えて黄泉の国に入り、イザナミに再会します。イザナギが櫛から歯を抜き取って火をともすと、暗闇から腐敗したイザナミの姿が浮かんできました。驚いて逃走するイザナギを8人のヨモツシコメ(黄泉醜女)が追撃してきます。イザナギが黒御鬘(くろみかづら)を投げるとブドウの実(えびかづら)に、櫛を投げると竹の子に変わり、ヨモツシコメが食べている間に坂下まで逃げ切り、最後は桃子(桃の実)を投げつけてヨモツシコメを退散させます。

 黄泉路神話は、中国山地を越えて日本海沿岸の伯耆・東出雲へ、中国山地沿いに備後北部へと二方向に分岐して伝播していきます。比婆山が二か所に存在するのはこの理由によります。

 

 

2.高天原神話  (参照:補遺2.「中臣氏と吉備邪馬台国」 [3]と[4])

 昼の世界を治めるオオヒルメは中国山地を仕切る五男神の母神となります。オオヒルメは蒜山(ひるぜん)に住み、毎日、東から上り、西に下り、夜は蒜山で眠ります。太陽が勢いを落とす冬至の季節になると、中国山地や津山盆地では、太陽神オオヒルメの復活を祈る祭りが繰り広げられます。あちこちの村から機織り乙女たちが集まり、盛大なの舞いをする祭りが名物でした。

 

(ムスビ族の東進と土着勢力との融合)

 富族の発生から約1世紀が過ぎた弥生中期後半に入る(前50年頃)と、奴国など北部九州の国々は人口飽和となったことから、ムスビ族の一部が日本海、瀬戸内海、九州東南部へと移住していきます。これに伴って、人だけでなく、舶来品、鉄素材、鉄製武器や鉄製農工具なども瀬戸内海と日本海ルートで東へと流通し始めました。

 吉備の吉井川に入ったムスビ族はコゴトムスビ系のアメノコヤネ、タカミムスビ系のアメノフトダマを信奉する部族が主体でしたが、最新の技術と先進文化を携えていたため、吉井川流域の富族や瀬戸内海沿岸地域のオオヤマツミ族など土着の人々に歓迎されます。ことに北部九州で確立した祭祀儀式を伝えるコゴトムスビ系は富族の一部と融合して、祭祀の神アメノコヤネ、武神タケミカヅチ、剣神フツヌシの3神を祀る中臣族となります。

 

(荒ぶ集団の闖入)

 吉備の吉井川辺りから良質の磁鉄鉱が産出するらしい。噂は奴国、伊都国から伽邪地方にまで広がりました。一攫千金を夢見る荒くれ者が宗像族が操る船に乗って、吉井川に押し寄せ、支流の吉野川と分岐する中流の周匝(すさい)の港に続々と集まってきました。時ならぬゴールドラッシュで、荒ぶ者たちの数は数千人にのぼります。

 荒ぶ者たちは磁鉄鉱を求めて奥地にまで踏み込んで、荒らしまわったため、地元の住民との軋轢を生みます。富族や中国山地の五部族は荒ぶ者たちは銅と錫の産地を奪いに来たと警戒しますが、銅剣よりも鋭利で頑丈な鉄剣を持つ荒ぶ集団に太刀打つことはできません。

 

(美作からの荒ぶ集団の追放)

 困り果てた富族や五部族は中臣族とアメノフトダマを信奉する忌部族に泣きついて、仲裁を懇請します。中臣族と忌部族は荒ぶ者を運んできた宗像族を仲間に引き入れ、荒ぶ者たちに今後、美作には足を踏み入れないことを約束させて美作から放逐します。

 

(高天原神話の成立)

 荒ぶ者たちが去った後、津山盆地では新しい高天原神話が創作されていきます。

 

 母イザナミが死んだ後、泣いてばかりいた嵐神は母が住む根国に行く前に、天の姉オオヒルメに暇乞いをしようと天に上っていきますと、大地が騒鳴します。

 弟が高天原を乗っ取りに来た、と思い込んだオオヒルメは武装して弟を迎えます。

「私はただ暇乞いをしようと高天原に来ました。乗っ取る気はどうからありません」

しかしオオヒルメの疑いははれません。

「それならウケイ(誓い)をして、私が潔白なことを証明しましょう。私の持ち物から男子が生まれたら、私には高天原を乗っ取ろうとする野心がある。女子が生まれたら野心はありません」

 

 オオヒルメが嵐神の剣を受け取って、がりがりと噛み砕いて噴出すと宗像三女神、嵐神がオオヒルメの首飾りを受け取って、がりがりと噛み砕いて噴出すと五男神が誕生しました。

「そらみたことか。私は潔白だった」

 増長したスサノオは高天原を荒らしまわります。恐れをなしたオオヒルメは天の石屋戸に逃げ込み、中に閉じこもってしまったため、世界中が真っ暗になってしまいます。

 

 八百万の神は天の安の河原に集まり、解決策を模索します。タカムスビの子神オモヒカネの発案で常世の長鳴鳥を集めて、夜明けが来たと鳴かせますが、効果はありません。そこでイシコリドメに銅鏡、タマオヤに数珠を造らせます。アメノフトダマが太いミテグラ(太御幣)をかざし、アメノコヤネが祝詞(のりと)を宣じます。

 機織りの女神アメノウズメが肌もあらわに神がかりの踊りを乱舞すると、八百万の神々が大爆笑します。太陽神はいぶかしく思って、天の石屋戸を少し開けます。アメノコヤネとアメノフトダマが即座に鏡を取り出して太陽神に見せますと、もっとよく見ようと太陽神は身を乗り出します。

 隠れていたタヂカラヲがさっと太陽神の手をとり外界に引き出します。アメノフトダマがすかさず太陽神の後に縄を張って、「これより内側には戻らないでください」と宣言します。

 太陽神が外に戻ったお蔭で、世界は光りを取り戻します。スサノオは置戸を背負わされ、ヒゲを切られ、髪や手足の爪を抜かれて、高天原から放逐されます。

 

 

3.スサノオ神話   (ブログ「中臣氏と吉備邪馬台国」 [5]参照)

(ヤマタノオロチ神話)

 荒び者たちは美作の各地から上陸地の吉井川中流の周匝(すさい)へ戻っていきます。

「この高原にはいやに蛇が多いな」。旭川の上流から周匝に戻るために吉備高原を横切る山道を歩きながら、荒び者の群れを仕切る首領が閉口しながら、誰にでもなく呟きます。藪を切り開きながら山道を進みたびに子蛇が逃げていきます。

 川を横切ろうとすると、上流から機織りに使う梭(ひ)が流れてきます。「上流に集落があるようだ」。

                                            (注:推定地は是里から滝山川周辺)

 集落にさしかかると、首領が佩(は)く剣に恐れをなして隠れるどころか、初老の男が駆け寄ってきました。「荒ぶの方と存じますが、どうか恐ろしい大蛇(おろち)を退治してください」とすがってきます。話を聞くと、毎年、大蛇が集落を襲い、乙女を呑み込んでいく、ということです。

「大将、蛇退治なんぞ、好物の酒を飲ませればちょろいもんですよ」と配下の一人がしたり顔で吹聴します。試しに桶に酒を充たして放置してみると、藪から続々と大小の蛇が桶に群がってきます。

「人食い大蛇(おろち)はこんなちっぽけな蛇ではありません。頭はつあり、胴は檜の大木の太さで、身の丈は峰から谷を越えて隣の峰に達するほどです」。

 

 「まさか、そんな巨大な大蛇がいるものか」と半信半疑ながら、首領たちはつの酒舟に酒を並々と注ぎ、藪の中に潜みます。明け方に、大地を揺るがしながら大蛇が登場します。話にたがわず、身震いどころか腰が抜けてしまうほどの巨大さです。大蛇は酒舟の酒を飲み干し、酔って熟睡します。気を持ち直した首領が一気に斬りつけると、大蛇はうねりながら大量の血を噴出します。尾まで斬り進むと、カチンと金属音がします。切り裂いてみると鉄剣が出てきました。尾から出現した剣は行方知らずになっていた富族の首領の持ち物でした。

 集落の人たちは大喜びです。噂が瞬く間に広がり、荒び者は一転して英雄になります。神(高。こう)ノ峰を中心に上山宮、血洗いの滝、宗形神社、石上布都魂神社とヤマタノオロチ退治にまつわる聖地が定まり、スサノオ神話が創作されていきます。

 

(大土地王オオナムチの誕生)   

 周匝(すさい)に集まってきた荒び者の一部は宗像族の船に乗って北部九州に戻っていきましたが、戻ってもあてがない者たちは周匝に留まります。

「留まったところで、何をしたらよいものか。あてがない」と半島の伽邪地方からやってきた流れ者が、ぼんやり吉井川を眺めながら、洛東川流域に広がる水田風景を思い出します。

「そうだ、水田だ。大将、吉井川流域の原野を開墾してみたらどうでしょう」。

 早速、宗像海人にも協力を頼んで、鋤、鍬、斧、鎌の鉄製の農機具をかき集めます。吉井川周辺の荒地から大中の石を取り除き、でこぼこを平らにして畦で囲みます。少し上流に石を運んで堰をもうけて水溜まりを作り、そこから灌漑用水を引いていくと、目標どおり水田ができました。翌春、米の苗を植えると、秋に見事な収穫があり、地元の農民たちを狂喜させます。

 

 荒ぶ者たちは吉井川、旭川、高梁川など大中河川周辺の微高地を水田に変貌させていき、各地でスサノオ(スサの男達)族、スサ族と畏敬されるようになります。

 スサノオ族の首領は大土地王となり、土着勢力のオオヤマツミ族から二人の后を迎えます。一人はクシイナダヒメ(奇稲田姫。オオヤマツミの孫娘)、カミオオイチヒメ(神太市姫。オオヤマツミの娘)です。クシイナダヒメの子孫は開墾する水田に沿って面状に広がり、数代を経て各所で大土地王(オオナムチ)が誕生します。カミオオイチヒメの子孫は瀬戸内海、ことに東部沿いの海に面した商業都市へと点状に広がっていきます。

 

 世代を重ねるにつれて、スサノオ族は中国山地を越えて伯耆・東出雲、山側の美作と海側の備前から西播磨以東へ伸張し、周匝(すさい)の宗家を中心に、備前(拠点は下市)、美作(同、津山)、西播磨(同、龍野)、伯耆・東出雲(同、淀江)、備北(同、三次)のグループへと拡散し、防御を主体とする砦(とりで)として第1次高地性集落が見晴らしが良い高地に設置されていきます。

 宗家に直属する形で、中臣族のうち、アメノコヤネを祀る卜部(うらべ)は祭祀を、武神タケミカヅチと剣神フツヌシを祀る部族は護衛役を担うようになります。

 グループの象徴として分銅型土製品が発案され、ペンダント状に首から吊るしたり、祭り用の仮面につけられます。銅鐸や縄文時代の土鈴(どれい)に替わって、青銅製の金色の鈴が普及していきます。

 

 吉井川流域を発信源とした新しい文化が躍動していく時代の到来です。

 

 

4.西出雲王国制覇

 1世紀半ばの頃、周匝(すさい)にある宗家に各地方の代表が集まってきました。

 

 伯耆・東出雲の代表が口を切ります。「淀江に本格的な港を築き、妻木晩田(むきばんだ)の丘陵地に高地性集落を整備したが、カムムスビを祀る西出雲の神門(かんど)王国に邪魔をされて、計画どおりに進まず困っている」。

 伯耆勢力はイザナミ黄泉路神話と同じルートで東出雲の意宇(おう)郡までは順調に勢力を伸ばしましたが、大原郡と出雲郡以西は簸の川下流と神門湾を拠点とする神門王国に西進を阻まれ、美作への窓口となる淀江港の北部九州諸国との交易も神門王国に邪魔をされて発展が遅れていました。

「実は我々も神門王国に邪魔をされている。三次盆地で米が大量に生産できるようになったので、江の川を下って江津から米をムスビの国々に輸出したい。運搬を担う宗像族も興味を示しているが、神門王国が横槍を入れている、と宗像族もこぼしている。いっそのこと、 三次から西出雲に攻め込んでみたい気持ちだ」

「三次王がおっしゃるように、この際、神門王国に攻め込んでしまったらどうだろう」と宗家の長が口をはさみます。「しかし神門王国は強力だ」「美作と備前・備中も支援すれば、兵力で圧倒できるのではないか」

 

 宗家の発言がはずみをつける形になって、神門王国制覇の計画がその場ですんなりと決まっていきました。攻撃開始は稲の収穫が一段落し、雪が積もりだす前の晩秋から初冬にかけてが選ばれました。

 伯耆・東出雲勢力は宍道郷から出雲郡の健部郷に進み、仏経山を挟んで神門王国と対峙します。三次勢力は三次盆地から赤名の峠を越えて飯石郡に入り、来島郷で二手に分かれます。一方は須佐川(神門川)・波多川沿い、もう一方は三屋(三刀屋川)から本流の簸の川に出て対岸の神原郷に至り、伯耆・東出雲勢と合流します。

 決戦は仏経山を境にして、まず出雲郷が激戦地となりますが、神門王国軍も強靭で一進一退が続きます。均衡が破れたのは、雪が降り始めた頃、吉備勢の援軍が美作と備中から到着してからです。神門軍はじりじりと後退して、簸の川を渡り主戦場は塩冶郷となり、加えて神門川側からの攻撃が加わって、神門王国は吉備勢に下りました。

 

 西出雲を守る神は土着のヤツカミズオミズノと北部九州から来たカミムスビが共生していましたが、そこにスサノオが加わり、神門湾を守る出雲大社の神はヤツカミズオミズノからスサノオ系のオオナムチに替わります。

 神門王国から没収した銅剣と銅鐸が呪禁の意味合いも兼ねて仏経山近くの荒神谷と加茂岩倉に埋葬されます。荒神谷では銅剣358本などが一括埋納され、加茂岩倉では銅鐸39個が埋葬され、出雲でも銅鐸の祭りが終焉します。

 吉備勢力による出雲制覇の事業は完遂した後、三次の首領が西出雲に遷り、三次盆地で発生した四隅突出墳丘墓が出雲でも一般化していきます。

 

 

第3章 吉備邪馬台国とオオモノヌシ 

 

1.吉備邪馬台国の誕生

 吉備勢力が西出雲王国を破って、出雲制覇を成し遂げた後、備前、播磨、伯耆、西出雲のオオナムチ(大土地王)はそれぞれ国王としての独立性を強めていきます。周匝(すさい)の宗家はスサノオ族の象徴として、太陽神オオヒルメと自族の祖神スサノオを祀る祭祀を仕切り、各国は収穫物の一部を宗家に上納します。

 備前のオオナムチである下市王が治める地域は備前から西に向かって大型農地の開墾事業に邁進し、気がつくと備後の芦田川にまで到達していました。

 

 西出雲統治のごたごたが片付いた翌々年、新生神門王国の初代王となった三次王が支援の御礼に下市王を訪ねました。三次王は西出雲から三次盆地に出た後、南に下って瀬戸内海側の芦田川に出て、神市から新市まで山陽道を上がってきましたので、下市王国の発展ぶりをつぶさに見聞していました。

「お蔭さまで、神門王国を手中にすることができました。貴国の援けがなかったら、こう着状態のまま、歳月が流れてしまうところでした。ことに貴国の農民兵の実力には感心しました。弓矢のやじりは鉄でも青銅でもなく、鋭利さが欠ける石のサヌカイトにすぎませんが、強弓で射ると鉄や青銅以上の衝撃を敵に与えることを再認識しました。貴国のご領地が芦田川まで進んでおりますが、このまま西に向かって行かれたら、筑紫の奴国制覇も夢ではありませんね」。

 三次・神門王の話の半分はお世辞にすぎないだろうが、自国の農民兵への評価が高いことに新市王に思わずにんまりしました。農民兵を本格的な戦いに使ったのは初めてでしたが、期待した以上の実力を示してくれたようです。

 

「ところで、安芸の太田川をご存知でしょうか」。「名前は聞いたことはあるが、行ったことはない」。

「太田川の河口は深い入り海となっております。そこに港を開発して中継貿易国を造られたら、いかがでしょうか?」。

「なぜだ」。

「入り江の奥に可部という郷がありますが、そこから峠を越えると江の川に出ます。江の川を下っていくと、三次盆地を経て石見国の江津で日本海に出ます。瀬戸内海から日本海に出る交易路は備後の芦田川、備中の高梁川、備前の旭川を経由するつのルートがありますが、いずれも険峻な中国山地を越える必要があります。これに対し、可部から江の川に至る峠は険峻ではなく、一跨ぎという容易さです」。

「しかし我が国は農民兵の数は確かに多いが、単独で一国を建国するにはまだ力不足だ。貴国も協力してくれるのか」。

「もちろんです。宗像族と伊予のオオヤマツミ族も抱き込みましょう。瀬戸内海の西端の豊前と関門海峡までスサノオ族の領域が広がり、奴国と伊都国は目前となります。勢いに乗じて奴国と伊都国を押さえると、鉄が半島から思い通りに入手できるようになります。出雲が日本海、吉備が瀬戸内海の主となる時代の到来です」と意気軒昂で出雲に戻っていきました。

 

 出雲王が去った後、新市王はじっくりと考え込みました。

 開墾地と領地の拡張には鉄の農機具がのどから手が出るほど必要なことは重々承知している。 ところが半島からの鉄素材や鉄器の輸入は奴国と伊都国が牛耳っており、価格も思い通りにしている。両国を支配下に置けば、鉄を安く自由に入手できるようになる。奴国と伊都国は遠い西国と思っていたが、関門海峡まで勢力を伸ばせば、すぐ間近だ、と三次王が言う。

 新市王は備前、備中、備後から筑紫まで勢力が伸びていく図式を思い浮かべました。まず瀬戸内海の中央部を固める。そのためには讃岐を傘下に加える。その後、安芸へと駒を進めていくなら、瀬戸内海の覇権を握ることができる。そして一気に奴国と伊都国に攻め込む。新市王は初めて九州から近畿地方に至る倭国(西日本)の盟主となる大望を抱きました。

 

 

2.オオモノヌシの讃岐と美作の併合   

 新市王は慎重居士すぎる、覇気に欠けると陰口を叩かれるほど、温厚な性格でした。逆に言うなら、調整能力に秀でていて、根回しも大事なことを承知していました。

 まずは、宗家の長に相談してみよう。下市王が備前の国を拡大していく意向を伝えますと、長はもろ手をあげて、賛成します。スサノオ族の領地が増えれば、上納も増えることも抜け目なく計算に入れていたのかもしれません。

 

(讃岐の併合)

「それにはまず讃岐と組まねばなりますまい」。

「それは私にまかせなさい。私が讃岐の忌部族にかけあってみよう」と新市王の第一の懸念はあっさり解決します。

 宗家と讃岐の忌部族の長とは冬至の天石屋戸の儀式を共同して実施し、縁戚関係もあったので旧知の仲でした。讃岐は忌部族の本家が治め、サヌカイトの産地、塩、麻、木綿(ゆう)の生産で栄えていました。しかし忌中族の分家にあたる阿波が吉野川流域の大規模開墾で、 麻、木綿に加えて米の生産を飛躍的に高め、おまけに山中から水銀朱が産出するようになって、阿波勢が本家の讃岐を呑み込んでしまう懸念も出てきました。吉備と結べば阿波勢への牽制となる上に、 出雲、伯耆など日本海側との交易も増えるし、温厚な下市王は信用できる。そうした背景もあって讃岐の忌部族の長は吉備宗家の申し入れに躊躇なく同意しました。国内の部族も吉備から米が安定供給されることから吉備との合併に異論はありませんでした。

 

(美作の併合)

 美作との併合は讃岐よりも面倒となり、合併に至るまでに数年がかかりました。津山盆地は富族の本拠地でしたが、スサ・オオナムチ族の発展に伴う形で、警護役として播磨から東に進むグループ、中国山地を越えて伯耆、因幡、東出雲へ進むグループ、吉井川中流の中臣族に合流するグループの3グループに分散し、美作全体を治める首長は不在でした。

 宗家の祭祀と警護の双方を担う中臣族が美作でも有力になりつつありましたが、富族の一部に中臣族の肥大化を嫌う動きがあり、播磨、伯耆、吉備のグループが三つ巴で勢力争いを始める危惧もありました。宗家にとっては、三つ巴の内紛へと悪い方向で進んでいく前に、吉備を大国化させた方が足元が固まり、スサノオ族の繁栄に適っていると、時間をかけて説得していきます。併合によって備前の海岸線や島々で生産される塩の入手がたやすくなる利点も強調されて、美作の風は備前勢力との合併に傾斜していきました。

 

(オオモノヌシの誕生)

 戦い、内紛をせずに二国併合を果たした下市王は吉備邪馬台国の初代王となり、拠点を新市から吉備中山西麓の吉備津へ遷し、東山の小高い丘に王宮を構えました。吉備津は旭川と高梁川の間にある穴海に面しており、防備上、安全な地でした。

 瀬戸内海の中央部を本州と四国の両側から包み込んだ吉備邪馬台国は瀬戸内海の覇者としての道を歩みだしました。1世紀後半に入った、60年代半ばの頃でした。第1次高地性集落、分銅型土製品、スサノオ神話が歩調を合わせて西へと浸透を始め、初代王は瀬戸内海の盟主として、いつしかオオモノヌシ(オオモノヌシ)と称賛されるようになります。日本海の出雲勢力も合流すれば、奴国と伊都国の制覇も無謀な妄想と無視できなくなりました。後漢に遣使を派遣して冊封体制に参画した奴国王の吉備への警戒は決して杞憂ではなかったようです。

 

 次は太田川河口への進出だ。そのためには 筑紫の宗像族、伊予のオオヤマツミ族の了解と協力が必要だ。オオモノヌシは次の段階へ駒を進めていきます。

 

 

3.安芸投馬国の首都建設   

 オオモノヌシと称えられるようになった初代王は安芸の太田川河口の入り海に大規模な港湾都市を建設する構想を筑紫の宗像族と伊予のオオヤマツミ族に持ちかけます。

 相談を受けた宗像族とオオヤマツミ族はためらいなく賛同します。共に太田川河口に良港ができるメリットがあったからです。

 

 宮島から太田川をはさんで、上流から西条へと進む瀬野川の間は、宮内に御手洗川、平良(へら)に可愛川、五日市に八幡川、太田川を過ぎて府中に府中大川と川沿いに点々と村落が点在していましたが、いずれも中小河川で長距離を運行する大中型の舟では川幅が狭く、水位も低すぎました。大河川の太田川は出口にあたる右岸の牛田と左岸の長束(ながつか)の間は両側とも高台でせばまっていて、その奥が細長い入り海となっていました。このため荒波や高潮を回避するには港の適地でしたが、雨季や台風が襲来すると増水した太田川の水が牛田と長束でとどこおり、入り海の水があふれて洪水となり、毎年、大きな被害を与えていました。水位が充分にある入り海の洪水対策がなされて港として開発されるなら、筑紫の不弥国と瀬戸内海の長距離輸送を担う宗像海人にとっては、船の修繕もでき、海人がゆっくり休養できる施設もできます。

 伊予に本拠地を置くオオヤマツミ族は元々、西部本州と四国を挟んだ瀬戸内海地域に拡散していた土着の民でしたから、瀬戸内海の諸島と沿岸を熟知していました。入り海から江の川を経由して四国西部、九州東南部と日本海地域を結ぶ交易が増えることは願ってもないことでした。

 

 どちらも一点だけ気がかりとなったことは、両族とも筑紫の銅戈(か)・銅矛(ほこ)文化圏にも属していましたので、吉備と連帯を組みながらも奴国との関係も均衡させていくことでした。

 60年代半ばを過ぎた初冬から、入り海の港湾開発工事が始まりました。土木員として備後、備中、備前、讃岐の農民が送り込まれます。農閑期に入った農民は工事に徴用される見返りに納税が免除となります。洪水対策として水面より数十メートル高い斜面が開削され、段々状の平地があちこちに誕生していきます。工房や集落が、右岸では戸坂(へさか)、口田(くでん)など、左岸は入り海に沿った祇園と古市、入り海に注ぐ安川に沿った大町、緑井、毘沙門台、伴郷に造られていきます。

 宗像族は伊都国や奴国から豊前や長門、周防に散らばった工人、オオヤマツミ族は舟の扱いに熟知した瀬戸内海西部の島々の漁民を集めてきます。

 入り海最奥に位置する可部から根谷川を進むと上流の根之谷の標高は135メートル、曲がり坂を越えると同268メートルの上根に出て、上根から支流の簸川を10数キロメートル下ると江の川本流に出ます。太田川水系と江の川水系の標高の違いは約百メートルにすぎません。このルートの整備は出雲・三次国の農民が担当しました。

 

 港湾都市の中心部は武田山北麓の大町と古市となり、右岸、左岸、可部の間を多くの舟が往来するようになります。国王に相当する官僚は吉備邪馬台国の役人から選ばれ、伴の地名から投馬国と名付けられます。

 備後の芦田川から西は山岳部が連続して大きな沖積平野が少ないこともあり、カミオオイチヒメ(神太市姫)を祖神とするオオトシ系商人が海沿いに移住しながら、入り海にも居住地をもうけます。奴国から行方知らずになっていた干刀も第一陣として宗像族から招かれた工人たちの群れに、日本人妻子と一緒に混じっていました。その頃には日本語をかなり話すようになっていました。

 

 

4.吉備邪馬台国圏の拡大   

 驚いたことに、初代王オオモノヌシが跡継ぎの王子を伴って建造中の入り海を訪問してきました。慎重派のオオモノヌシは自分の目で確認をしたかったのでしょう。

 入り海の水深は確かに深いことを確認した後、実地に可部から上根まで歩いてみて、出雲・三次王の言葉に誤りがなかったことを見聞します。芦田川ルートは河口から三次盆地に行くまでに険峻な峠を幾つか越えねばならず、高梁川ルートでは新見から、旭川ルートでは勝山からそれぞれ標高千メートル級の峠を越える必要がありました。

「吉備からは遠いが、瀬戸内海と日本海を結ぶ交易が活況を呈していくのは間違いはない」。

 

 初代王は投馬国の入り海と伯耆の淀江を結びつけながら、両方を吉備の外港として、どのように活用していくか、思いをめぐらせます。

 オオモノヌシは伽邪地方の工人がいると聞いて、干刀を呼び出します。

「伽邪地方から伊都国までの道筋はどうなっている?」。

「私がいた国は洛東江の河口にありましたが、そこから船で対馬国、壱岐国と島伝いに対馬海峡を越えて末盧国に到着し、陸路で伊都国に入ります。対馬海峡は荒海でよく遭難します」。

「対馬国と壱岐国、伽邪地方は誰が支配しているのか」。 

「対馬国と壱岐国は倭人が治めています。伽邪地方には干9国がありましたが半島の西南から襲ってきた氏族に敗れてしまいました。私も含めて干から多くの民が倭国に亡命してきました」。

「奴国は漢から金印をもらって、冊封体制に入ったと聞くが、どういうことなのか」。

「中国との交易がしやすくなった、いざとなったら漢の兵力が援けてくれるの点でしょう。但し荒海の対馬海峡を乗り越えてまで漢が援けに来ることはありえないことでしょう」。

 オオモノヌシは干刀から奴国の様子もつぶさに聞きます。

 

 吉備に戻る船上で、初代王は「奴国は工人の数はあまるほど存在するが、兵士は予想よりずっと少ないようだ。伊都国は船乗りの数は多いが、兵士は少ないようだ。これだったら、奴国と伊都国を攻め落とすことができそうだ」と王子に語ります。

「我が先祖のスサノオ族は筑紫からやってきた。筑紫の奴国と伊都国が達成できない倭国(西日本)の覇権を吉備が握り、漢と手を結ぶ」。

「盟主となる吉備は対馬から瀬戸内海までを治める。出雲は日本海、伊予は豊予海峡(速吸瀬戸)以南、阿波が鳴門海峡から太平洋と棲み分けていく」。

 

 投馬国の首都建設事業は順調に進んでいきます。入り海が吉備邪馬台国西進の前線基地となり、第一次高地性集落が西へと広がっていきます。瀬戸内海東部では富族がオオトシ系商人の警備役となりましたが、西部では軍事系の中臣族が警備役となりました。中臣氏の指揮下で農民兵に加えて、常備兵の数が増えていきます。

 周防では島田川、佐波(さば)川と椹野(ふしの)川へと拠点を広げた後、伊予のオオヤマツミ族が案内役となって、周防灘を挟んだ豊前の宇佐に近い山国川(中津市と吉富町)に拠点を造ることに成功して、とうとう九州の地に足を踏み入れました。

 

 オオモノヌシと称えられるようになった吉備邪馬台国の初代王は60年代末に亡くなります。跡を継いだ代目は初代の意思を引き継いで西進策をさらに進めます。遂に関門海峡を越えて、宗像族の本拠地である響灘まで勢力を伸ばし、奴国は間近となってきました。

 宗像族とオオヤマツミ族の双方とも、吉備膨張のメリットを受けましたが、そろそろ、奴国を選ぶか、吉備を選ぶか。両者の間をうまく泳ぐか、態度をはっきり固める必要が出てきました。

 最終的に両族は吉備側に未来をかけることを密約して、奴国に気づかれないように注意しながら、吉備側へ比重を移していきます。それに伴い、奴国対策で吉備勢力の西への最前線となった本拠地の宗像の防御が必要となりました。

 

 

 第4章 日向のイハレビコ(神武兄弟)と吉備・出雲連合の奴国・伊都国制覇     70年代 

                     (参照:補遺2「中臣氏と吉備邪馬台国」 [6])

1.日向から遠賀川へ

 比重を奴国から吉備に移す判断を下した宗像族は地理的にも微妙な立場にありました。宗像族の根拠地は響灘と玄界灘を分ける神湊岬の手前に位置する釣川流域にあり、神湊岬から西は奴国の影響が強い不弥国の領域となっていました。福岡湾に浮かぶ志賀島は朝鮮半島との交易を担う安曇族の根拠地となっており、不弥国の津屋崎から青柳川に至る地区が半島や奴国など西からの物資と宗像族が運ぶ東からの物資が交換される港街になっていました。

 宗像族の根拠地にいきなり吉備の常備兵が駐屯するのは、不弥国と奴国に刺激を与えすぎます。代りとなる警備役が必要となりました。

「警護役なら日向王国のヒコイツセ(彦五瀬)族がぴったりです」と伊予のオオヤマツミ族が推薦します。

 

 日向灘の都農(つの)から西都にかけてを本拠地とする日向王国の支配者であるヒコイツセ一族はウサツヒコと同じく、タカミムスビ族に発しています。ヒコイツセの曾祖父にあたるホノニニギが豊前の英彦山(ひこざん)山麓からオオヤマツミの助けで日向に移住して王国を建国し、オオヤマツミ族の王女コノハナノサクヤヒメ(木花佐久夜毘賣)を后に迎えて以来、伊予と日向の友好関係が続いていました。

 ヒコイツセたちの四代目の世代になると、南部の隼人族との混血化が進み大柄で精悍な体つきになっていました。ところが日向は火山性の荒地が多くて水田造りが難しい地域で、経済的には貧乏国となっていました。

 

 その年は大型の台風が日向と伊予西部を襲い、王国の一ッ瀬川と大淀川が氾濫し、大被害が出ていましたので、オオヤマツミ族はヒコイツセ達の窮状を察していました。案の定、「1年か2年、響灘の宗像族の警護役をしないか。報酬は吉備国が保証し、豊前の山国川経由で米を日向まで配送する」という誘いに飛びついてきました。それだけ国内の財政が逼迫していました。

 秋が暮れる頃、ヒコイツセは国の統治を弟のイナヒ(稲氷)とミケヌノ(御毛沼)とに託して、宇佐に向けて船出しました。四人兄弟の末弟であるイハレビコ(伊波禮毘古)もまだ幼い息子タギシミミ(當藝志美美)を伴って参加します。 いとこも含めた一族と兵卒っを含めた総勢人ばかりがが五艘に乗船しました。

 宇佐は筑紫と伊予、豊後と日向を結ぶ中継地として繁栄していました。国王ウサツヒコの王宮に宗像族、オオヤマツミ族、山国川の中臣族の代表が勢ぞろいしました。一堂は九州北部や瀬戸内海の住民よりも体格が大きく、屈強な一行を見て、これなら警備役にふさわしい、と合格点を与えます。

 

 警備の拠点は神湊と釣川から東寄りに若干距離が離れた遠賀川河口の岡の湊となりました。遠賀川の上流には鞍手国、穂波国、鎌国があり、これらの諸国に対する防備の意味合いも含んでいました。警備の範囲は遠賀川から東の関門海峡の入り口までで、船の操作に磨きがかかっていきます。

 ヒコイツセたちが驚いたことは、故郷の日向よりはるかに物が豊富で豊かなことでした。鉄や青銅製品がふんだんにあるだけでなく、階層化が進んでいて絹の着物をまとった羽振りがよい商人や女性も多く、一行は女性が飾るかんざしに見とれます。魚介類も対馬暖流が流れる響灘の方が日向灘よりも多彩でした。

 

 吉備の二代目は父王の意思を次いで、焦らず慎重にことを進めます。奴国も後漢から金印を下賜された王を継いだ息子の代になっていましたが、奴国は後漢の冊封体制に入っているため、干刀の意見と異なり前漢か前漢の意を受けた半島勢力が援軍を送ってくる恐れも予想できたので、満を持していきます。

 宗像族を中にはさんで、吉備・出雲側と不弥国・奴国側とで微妙な駆け引きが始まりました。一方の持ち札は鉄、他方の持ち札は米でした。一方が鉄の価格を上げると、他方は米の価格を上げるか、米の販売を止めます。奴国と吉備国の嫌がらせの応酬が続きますが、抜け道もありました。遠賀川上流の 鞍手国、穂波国、鎌国に米を安定供給する代わりに、同地域経由で奴国の言い値よりも安く鉄を入手できるようになり、上流の国々が河口を攻めてくる懸念も消えました。次第に吉備の常備兵体制が整備され、出雲国も兵士を送り込むようになり、関門海峡から岡の湊周辺には吉備の常備兵、出雲の兵士が多く滞在するようになります。

 

 

2.吉備・出雲連合の奴国攻撃と金印の隠匿

 吉備王は「倭国の覇権を握る」という初代王オオモノヌシの遺言に答えるかのように、着々と手をうっていました。太田川河口に位置する投馬国の首都を足掛かりとして、周防、長門、豊前に点の拠点を固めていきます。干刀など投馬国に流入してきた工人たちから、奴国の状況を把握していましたから、いつ、奴国に攻め入ってもおかしくない状況にありました。

「吉備の王さまはなぜ奴国への攻め入りを躊躇しているのだろう」。

 孫も生まれ、老いに入った干刀は息子たちにこぼします。半島南部の干地方からの亡命者たちは投馬国に集まっていましたが、干刀が一団の頭になっていました。「目が黒いうちに干国の再興を実現したいものだ」と干刀はいまだに夢を追っていました。青年期に入りつつある孫の世代に祖国復興の思いを伝えます。

 

 吉備王は慎重の上にも慎重でした。懸念は前漢や半島からの援軍の到来でした。それに加えて、志賀島の安曇(あずみ)族の動向も心配でした。半島との交易を担う安曇族が伊都国、壱岐国、対馬国の海人と結束して反撃してくる恐れもあったからです。不弥国以東の交易を担っている宗像族もそこまでは詳しくは把握できません。

 本格的な戦争を回避して、響灘からの延長として那珂川河口にも拠点を設ける打診を奴国王にしましたが、言下に拒否されました。

「奴国攻撃の拠点となる遠賀川河口も日向の警護役の参入で防御体制が整った。残された道は奴国への攻撃しかないようだ」と吉備王は腹を固めました。

「いよいよ、時が熟した」と密使を送りました。

 攻撃開始をいつにするか。最後は宗像族の判断に委ねられました。

 

 響灘に吉備と出雲の兵士が増強され、宗像(胸肩)国と不弥国の国境が緊張してきた情報は奴国王にも伝わります。

「先代王の心配が現実味を帯びてきた。先代王の予言は当たった」と酒宴の席で若い兵士の中に混じっていた奴国の老将が呟きます。

「楽浪郡と後漢に使者を送り、支援兵の派遣を求めるべきだ」という声も上がってきました。

 その一方で、王に取り入り、媚びる者もいました。前109年に前漢の武帝が半島の植民地化して以来、倭国の盟主国を維持してきた誇りもありました。

「我が国はほぼ世紀にわたって倭国の盟主の座を保ってきました。後漢の後ろ盾である金印もあります。東方の新興勢力に負けるはずはありません」という慢心も根強くありました。

 

 若き王は豪放磊落な性格ではなく、 頼りなさげな印象を与えます。真面目な、小利口なタイプでした。酒には弱いが女好きで、数多くの后を侍らせていました。国が順風な場合は欠点にはなりませんが、波乱の時代には不向きでした。遣使の派遣も、経費がかかることから、もう少し危機感がつのってからと決断を先延ばしにしていました。

 後漢の冊封体制に入ってから、後漢や半島との交易が一層増大し、奴国は加工産業を主体とする中継貿易国、伊都国は半島との窓口としてますます繁栄していました。しかし奴国には弱みがありました。耕地が少ないことから米など農産物の収穫が少なく東国からの輸入に依存せざるをえません。水銀朱も含め半島への輸出品も、加工品を除くと自国の産出ではありません。人口が飽和化して、優秀な工人たちが他国へ流れていく悩みもあります。

 

 吉備国王から奴国を流れる那珂川に拠点を置きたいとの申し入れがありましたが、倭国の盟主としてのプライドもあって断りました。出雲に密使を送って友好条約を結び、出雲と吉備を分断させてみたら、という提案も出ましたが、具体化までには至りません。

 奴国王も手をこまねいていた訳ではありません。奴国は兵力増強のために有明海沿いの筑後と肥前の傭兵を増やしました。経費捻出のため、米が値上がって伊都国などが文句をつけてくるのを承知で、輸出入の税金や港の通行税を引き上げます。

 奴国王はようやく楽浪郡に使者を派遣しました。その頃、後漢は光武帝の孫の章帝(治世7588年)の時代となっていましたが、班超が西域で活動を始め、西域の領土を拡げている最中でした。章帝の宮廷の視線は西域に移っていたこともあって、残念なことに奴国からの使者に対する楽浪郡の対応はつれないものでした。

 

 いざの時を見越して、奴国王は半島とを行き来する船乗り集団である安曇族の本拠地である沖合いの志賀島に金印の隠匿を命じます。志賀島の安曇族は兵士としても強靭ですから、吉備が真っ先に襲う恐れは低く、伊都国との対岸でもありますから、万が一、伊都国に逃避した後でも回収できます。金印の隠匿を知る安曇族はごくわずかでした。

 伊都国に兵士の援軍を要請しましたが、反応が鈍く、奴国王を焦らせます。伊都国の思惑は奴国とは違っていました。商人の国である伊都国は先行きを計算高く見ていました。阿波国の水銀朱や吉備と出雲産の米も壱岐国と対馬国等への交易品として貴重でした。 直接、吉備王国と手を組むなら、不弥国と奴国の港の通行税を省くことができて得策、という現実的な判断をしていました。伊都国は負けが確実な奴国に加勢する気持ちは毛頭もありませんでした。

 

 

3.奴国の敗退

 侵攻の時期の判断を任された宗像族は、工人の助手として奴国に潜伏させているスパイからの知らせを待ちわびていました。ようやくスパイが戻ってきて、奴国の最新の様子を報告しました。

 報告を整理してみると、上層部は緊張度を強めているが、奴国王の焦りは一般人には伝わっておらず、緊迫感が欠如している。筑後や肥前から集めた傭兵は約束よりも手当てが低いことに不満で、常備兵との関係がしっくりしていない。吉備や出雲の米の入手が難しくなった伊都国、壱岐国、対馬国とも隙間風が流れている、などでした。

 噂では、後漢の朝廷は西域に気をとられて、半島への関心は薄らいでいる。半島を管轄する楽浪郡も高句麗対策に振り回されていて、倭国の騒動までは手が回らない状況下にあるようだ、とスパイが伝えます。この噂を信用するなら、懸念している前漢や半島からの援軍の到来はなさそうです。

 

 「時期到来」との宗像族の知らせが吉備陣営に伝達されました。吉備と出雲の混成軍は陸と海から一斉攻撃をかけました。

 陸からの攻撃は不弥国側に奴国からの助っ人も加わっていたため、前進にてこずります。水軍も不弥国の湊に攻め込みしたが、不弥国の海人の抵抗にあって苦戦します。沖合いに安曇族の船団が現れて、船団との戦いになります。安曇族の船は宗像・吉備側よりも大型でしたが、船数で勝る吉備・出雲側が機動力を駆使して安曇族の船を撃沈できました。安曇族の船の後続攻撃は到来せず、勢いに乗った水軍は上陸に成功します。てこずっている陸軍を背後から支援する形となって不弥国軍は壊滅します。

 吉備・出雲軍は奴国と国境の宇美にまで一気に進撃します。奴国とは国境で小競り合いとなりますがそれ以上は踏み込むことができません。

 

 その頃、農閑期に入って駆り出された農民兵を主体に構成された別働隊は遠賀川を上り、直方を経由して飯塚に至っていました。遠賀川沿いの諸国は吉備から米の安定供給を保証される見返りに鉄製品の密輸ですでに吉備国と友好関係を結んでいましたから、自ら吉備勢に加勢することはありませんでしたが、通過を黙認します。別働隊は飯塚から竹の尾山、大根地山の東麓を大回りして朝倉街道に入り、裏手から奴国に侵入しました。

 裏手を守っていたのは傭兵でした。奴国の常備兵は鉄剣を持ち、鉄矢じりもふんだんに用意していましたが、傭兵の武器は銅製の矛や矢じりにすぎません。吉備の農民兵の武器も石剣とサヌカイト製の石やじりでしたが、傭兵の矛や矢じりに対して充分な効果がありました。士気に劣る傭兵の群れは総崩れとなります。奴国の誤算は頼みの伊都国からの援軍はなかったことでしたが、奴国軍は前後を吉備・出雲軍に挟まれてひとたまりもなく首都が陥落します。奴国軍を陣頭指揮していた奴国王は流れ矢にあたって憤死しました。奴国王の后や子供達は筑後や肥前に逃げ延びていきます。船団は安曇族の本拠地の志賀島に攻め込みますが、どこかに逃亡したのか団の姿はありません。

 

 奴国の祖神である夫婦神は東端の若杉山と西端の飯盛山に祀られていましたが、吉備は倭国の盟主となった証しとして若杉山にイザナギ(太祖神社)、飯盛山にイザナミ(飯盛神社)を祀りました。

 

 

4.伊都国の恭順

 「さあ、次は伊都国だ」と、吉備と出雲の兵士が勇みだっていると、意外にも伊都国の方から白旗をあげてきました。当初はだまし討ちではないかと警戒していましたが、使者の話を聞いていると、間違いはないようです。

 半信半疑のうちに週間ほどが経過して、伊都国の王さま自らが数名の家来だけを連れて、奴国にやってきました。応対した大将に「吉備側に服従するが、王国は残して欲しい。私が人質となって吉備王に会いに吉備へ行ってもかまわない」とまで申します。

 

 吉備の大将は予想しなかった成り行きに判断ができず、首都に伝令を送ります。数週間で伝令が戻り、「筑紫はまだ危険だろうから、周防の佐波川辺りなら、吉備国王自身が出向いても構わない」という返答でした。

 吉備国王は佐波川の河口で伊都国王を接見しました。中年を過ぎた伊都国王は恰幅がよく、舶来品の絹の派手な衣裳と装飾を身に着けています。少し若めの吉備王も絹製の衣を羽織ってはいましたが倭製で、下着は麻製で伊都国王と並ぶと明らかに見劣りしましたが、新興国の溌剌さと精悍さがにじみ出ていました。

10年ほど前から、時代は奴国から貴国へ移っていく予感がしておりました」と襟を正した伊都国王が切り出します。

「倭国の盟主の座は奴国から吉備に替わったことは末盧国、壱岐国、対馬国、伽邪国、後漢の楽浪郡に伝えましょう。あえて吉備の王さまに直々にお会いしたかったのは、奴国を征服された後、楽浪郡に至る交易路をどうするおつもりかを伺いたかったからです。奴国と同様に、我が伊都国も含めて武力で征していくお考えでしょうか」。

 

 吉備王は返答につまりました。奴国の制覇が優先事項で、次の一手に考えが及んでいませんでした。奴国を征すれば、あとは自然と道が開けていく、といった程度の軽い気持ちでした。確かに伊都国、末盧国、壱岐国、対馬国、伽邪国と飛び石伝いに攻めて行くには周到な準備と月日が必要でした。吉備だけでなく宗像族も荒波の対馬暖流を乗り切るだけの船も操縦術も持ち合わせてはいないことに初めて気づきました。対馬暖流の荒波のすごさも想像できません。

「我が国には200年以上に及ぶ半島との交易の歴史と蓄積があります。壱岐国、対馬国とのつながりが深く、言葉が違う伽邪国や楽浪郡の役人や交易者とを仲介する通訳も多数おります。我が国を潰すことは得策ではありません。私が吉備王にお願いしたいことは、我が王家と王国の継続、我が国だけでなく壱岐国と対馬国も含めた米の安定供給、の2点でございます」とゆっくりした口調で説いていきます。

「しかし我が国には半島の干国時代の亡命者の末裔もいて、干諸国の復活を願っている」。

「干諸国はもはや遠い昔の話です」。

 

 しばらく沈黙が続きます。吉備国は伊都国王の単刀直入な申し入に驚きながら、1つ、1つ、頭の中を整理していきます。確かに海を隔てた半島との間の交易国を飛び石伝いに攻めていくことは至難の技である。伊都国の申し入れはそれを見越してのことだろうが、どこかに落とし穴があるかもしれない。

 次第に、とりあえずは伊都国を踏み台として活用していくことが得策ではなかろうか、という気持に傾いていきました。

 長い沈黙の後、吉備王が宣言しました。

「貴国の王子の后は吉備から迎えることを確約する、貴国だけでなく各国に監視役を置く、の2点を受諾するなら、貴殿の申し入れに同意しよう」。

 

 異論のない伊都国は安堵のため息をもらしました。

「ところで、後漢の金印は見つかりましたか?」 

「金印というと?」 

 吉備国王は金印の存在も価値も知らす、伊都国王から聞いて初めて金印の重要さを知りました。金印はどこに隠匿されたのだろう。金印の居所探しが二人の王さまの課題になりました。

 

 

第五章 イハレビコ(神武天皇)の大和葛(狗奴)国建国

 

.投馬国建設の警備役

 吉備王国は奴国の制覇に成功しましたが、逆に兵士が手薄となった投馬国では海賊の跋扈などで、治安が悪化していました。吉備王国と宗像族は響灘の警護で期待以上の力量を示した日向勢に投馬国の警備を託すことを決め、ヒコイツセ一行は岡の湊での滞在を切り上げて投馬国に移動していきます。

 ヒコイツセ一行は宮島を過ぎて、宮内の御手洗川に到着します。一息をつけた後、ヒコイツセは入り海の古市にある投馬国王の屋敷を訪れました。投馬国王は吉備王国の高官が宗像族とオオヤマツミ族の了解を得て着任していました。

「退治にてこずっているのは、大物ではなく、雑魚のような小規模の群れで、海や山から神出鬼没で現れる盗賊たちだ」。

 

 急速に発展した投馬国の中心部は人口も急増していましたが、各地から子悪党の流れ者も入り込み、瀬戸内海の小島に潜む海賊や太田川上流の山中を根城とする山賊と結託して盗みを働いている、ということです。警備役としてオオヤマツミ族に属す伊予のクメ(久米)族がいましたが、通行税をごまかす子悪党集団もいたりして、手に負えない状況でした。

  警備範囲は宮島から瀬野川までとなり、府中に拠点を構えました。当初は盗賊とのイタチゴッコが続きましたが、響灘で舟の操縦を磨いていたことが役立ち、加えて火の山や鬼ヶ城山に設置した狼煙(のろし)が効果てき面で、その数は減少していきました。

 

 気候が温和な瀬戸内海での生活も気に入りました。望郷の思いにかられることがありましたが、使者を半年に一度の割合で日向と往復させ、お互いの情報を交換していました。仕送りの米は無事に届いているが、台風の後の翌年から日照りと旱魃が続き、米は他国の商人と雑穀と交換して、雑穀で何とかしのいでいる、という暗いニュースです。

 滞在は3年目になりましたが、もう少し財力がたまってから日向に戻ろう、という腹積もりをした頃、吉備邪馬台国の首都警備の誘いがありました。奴国まで支配領域が広がった吉備王国は、兵力を西に送り込む必要が増したことから、首都の警備を任せる代役が必要になっていました。報酬は増額にされるということでヒコイツセは誘いに同意しました。

 

 

.吉備の首都の警備役

 吉備の警備は首都圏に当たる高梁川、穴海、旭川、吉井川だけでなく、備中の笠岡沖の高島以西と広範囲を任されました。日向からの人は数名を除き健在で、伊予のクメ族等も含めて警護人は200人に膨れ、吉井川河口の入り江の奥に拠点が置かれました。

 ヒコイツセとイハレビコは吉備の沖積平野を見て、その豊かさと大規模な水田の群れに驚きました。少し上流に大規模な堰をもうけ、そこから灌漑用水を原野に引いていく技術も間近で見聞しました。吉備に来てよかった。日向の一ッ瀬川と大淀川流域を開墾して同じような水田群を造ることが二人の夢となりました。

 

 その頃、吉備王国は軍事費がかさばってきたこともあり、恭順した伊都国を通じて高価な交易品であることを知った水銀朱に着目していました。水銀朱の主要な産地は阿波の山中でしたが、時々、河内湾と紀の川から良質の水銀朱が吉備の商人や宗像族の手に入ります。どうやら大和の山中に大きな鉱山があるようです。

 ある日、「大和の水銀朱鉱山を探し出し、瀬戸内海に至る交易路を切り開いてみないか?」と吉備の重鎮から大和行きを打診されました。相談した宗像族もすでに耳にしていた様子で、大乗り気で大和行きを勧めます。

 

 

.大和の水銀朱交易路開拓の使命

(河内行き)

  日向を出て丸5 年が過ぎ、吉備滞在は3年目に入っていました。大和の水銀朱交易路の開拓は半年もあれば具体化できるだろう、という話です。ヒコイツセ達の実力を見込んでの誘いでしたから、報酬は断るのがおかしいほどの額でした。腹を固めたヒコイツセは「大和入りで資金を増やして故郷に錦を飾ろう」とイハレビコ達に宣告します。

 冬を迎えた頃、一行は吉備の港を出発しました。集団は総勢300人に膨れ、15艘の船に分乗します。先頭の船に乗りこんだ水先案内人は播磨の明石出身のサヲネツヒコ(槁根津日子)でした。浪速の難波岬を過ぎて河内湾に入り、順調に日下(くさか)の白肩津に到着しました。

 

 登美(とみ)国の者が迎えに来ているはずでしたが、白肩の港は不気味に静まり返っていました。物陰から誰かが様子をうかがっている気配もあります。生駒山の北麓を支配する登美王国は、吉備のスサノオの后神カミオオイチヒメの子神であるオオトシ系商人が瀬戸内海東部の沿岸沿いに進んだ際に、警護役として同伴した富族の流れが建国した国でしたので、吉備には友好的なはずです。

「おかしい。何か、手違いがあったのだろう」。

 

 ヒコイツセは生駒山を越えた大和側にあるという登美王国の首都をめざすことにしました。河内湾沿いに大和川河口まで進んだ後、竜田をめざして川沿いに上っていきます。大和の国境にさしかかる辺りから大和川は急峻な流れとなり、難所続きでこれ以上は先に進めなくなってしまいます。案内役のサヲネツヒコも陸の地勢には疎く、一行は途方にくれました。

「日下に戻って仕切りなおしだ。生駒山越えに切り替えよう」と戻りかけると、、不意に孔舎衛(くさえ)の坂で登美国の将軍ナガスネビコ(那賀須泥毘古)の一団が襲ってきました。一行が散り尻になる中で、ヒコイツセは泰然としてナガスネビコと相対します。

「私どもの来訪は吉備国からの知らせでご存知のはずです」。

「そんな話は聞いてはおらん。登美国を乗っ取りに来たに違いない」。

 

 放たれた矢がヒコイツセの腕に刺さります。毒矢でした。ナガスネビコの兵士たちに追われながら、ヒコイツセたちはほうほうのていで白肩の津に逃げ帰り、船に飛び移り、何とか沖合いに出ることができました。

 一行は紀ノ川へと南下することにしましたが、毒がヒコイツセの身体を冒していきます。もがき苦しむヒコイツセを乗せた船は血沼(ちぬ)海を経由して、紀の川河口の男の水門(をのみなと)に到着しましたが、ヒコイツセは息を引き取りました。

 

(紀伊半島)

 ヒコイツセの死を悲しむ余裕もなく、名草(なくさ)邑の名草戸畔(とべ)が一行に襲撃してきましたが、イハレビコを先頭に激戦を征して名草戸畔を打ち破ります。

 鼃山(かまやま)に兄の棺を葬りながら、イハレビコは行く末を思案します。このまま吉備に戻ろうか、あるいは水銀朱探しを続行するか。むざむざと吉備に戻るのは恥となるし、約束された報酬もふいになる。兄の仇をとる必要もある。追い詰められたイハレビコはいちかばちかの勝負に賭けることを決めました。

 

 土地の住民の話では、水銀朱の産地は紀ノ川上流の吉野の宇陀野という所らしいことが判明します。しかし紀ノ川中流の橋本に強力な王国があって、イハレビコ軍を敵対視するのは明らか、ということです。軍勢も300人をはるかに越える千人以上にのぼるということです。宇陀野に入る最短コースは紀伊半島の反対側にある熊野村から、という情報も耳に入りました。

 「知り合いが熊野川河口の新宮におります。 タカクラジ(高倉下)と申しますが、まず新宮に行って、より詳しい情報を集めてはいかがでしょう」。

  サヲネツヒコの助言に従って紀伊半島を迂回して熊野の新宮に入ります。新宮は瀬戸内海と伊勢湾を結ぶ中継交易港として小規模な都市国家となっており、 タカクラジが主となっていました。一行は タカクラジに快く迎えられ、一息つくことができました。イハレビコは神倉山(天磐盾)に登り、沖合いの黒潮を見つめながら、黒潮が流れて来るはるか南方の故郷を偲びます。

 

「熊野村から宇陀野に入るなど、どだい無茶な話です。山越えの前に、土民のニシキトベ(丹敷戸畔)に殲滅されてしまいますよ」。

  タカクラジは熊野村経由を言下に否定しましたが、意固地になったイハレビコは熊野村行きを強行します。丹敷浦に着くとタカクラジの懸念どおり、丹敷戸畔が攻撃してきましたが、難なく撃退できました。吉野をめざして山道を進んでいくと鬱蒼とした密林になっていきます。突然、身の丈が倍もある大きなツキノワグマが襲ってきました。辺りに毒気が充満して、皆、気を失ってしまいます。

 イハレビコが目覚めるとタカクラジの配下に介抱されていました。意気消沈した一行が新宮に戻ると、タカクラジが朗報を持って待ち受けていました。

「吉備から武器がどっさりと送られてきましたよ」と真新しい太刀(横刀)をイハレビコに手渡します。

 

 イハレビコたちが熊野村に向かった後、無謀さを心配したタカクラジは吉備王国に援軍を派遣するように急使を送りました。するとすぐに吉備から反応があり、武器を積んだ船が新宮に到着しました。同船した吉備の使いの話では、吉備王国の軍事を担う中臣氏が「兵士は送れないが、武器をふんだんに送れ」との指示を下した、ということです。

「吉野入りは紀ノ川上流の吉野川経由が無難です」。

 タカクラジは十津川沿いの山中に住む樵(きこり)集団と交渉して、吉備から送られてきた武器の一部を供与する見返りに吉野までの道案内役を頼み込み、案内役としてヤタガラス(八咫烏)が選ばれました。

 

(宇陀野をめざして)

 ヤタガラスは遠望ができるように二本の竹馬に乗り、長棒を巧みに操ってバランスを保ちますので、三本脚をした人間のように見えます。ヤタガラスの案内で、無事に吉野川河畔の五條に出ました。ここから風の森峠を登ると、大和盆地に入ると聞きましたが、土賊に加えてナガスネビコとの戦闘も予想されます。まず、水銀朱の産地をおさえることが先決と宇陀野をめざして吉野川の上流へと進んでいきます。道中で鵜飼のニヘモツの子、尾をたれた狼の毛皮をはおった井氷鹿(いひか)、洞窟に住む石押分(いはおしつく)の子に出会いますが、ヤタガラスを信用して親切に道を教えてくれます。

 遂に宇陀野にたどり着きました。宇陀野の支配者はエウカシ(兄宇迦斯)とオトウカシ(弟宇迦斯)の兄弟でした。 兄は一行を討とうとして兵卒を集めようとしますが、集まりません。そこで大殿に押機を置き、中に入ると圧死する仕掛けをしました。弟から仕掛けを聞いた道臣(大伴連の祖)と大久米(久米直の祖)がエウカシを問い詰め押機に追いやって圧死させます。

 

 待望の水銀朱鉱山が見つかりました。辰砂を捏ねていくと飴状になり、器にして丹生川の淵に投げ入れると、魚が浮いてきて口をぱくぱくさせます。

「水銀朱に間違いない」。

 イハレビコが感涙にむせび泣いたのは申すまでもありません。

 

(大和入り)

 オトウカシの話から、宇陀野から大和盆地入り口の磯城に至る峠は土ぐもヤソタケル(八十建)が守り、磯城には磯城王国があり、水銀朱の流れは大和川沿いに河内湾に至るコースと南葛城地方の風の森峠を下って五條に至るコースのつに分かれることが判明しました。

 忍坂(おさか)の大室にヤソタケルを饗宴に招き、宴たけなわにさしかかったところで、一網打尽に斬り殺します。女坂(めさか)、男坂(をさか)、墨坂に陣取る八十建を征した後、磯城王国に入ります。磯城王国もエシキ(兄師木)とオトシキ(弟師木)の兄弟が治めていました。弟はイハレビコに恭順しましたが、兄は戦いを挑んできました。

 

 磯城軍を破った後、大和盆地に入りましたが、宿敵のナガスネビコ軍が待ち受けていました。日下で襲ってきた軍勢を上回る大軍でした。さすがのイハレビコもたじろぎ、死を覚悟します。

 小競り合いが続き決着がつかない或る夜半、登見国のニギハヤヒ(邇藝速日)王がお供を連れて秘かに陣営を訪れて来ました。 富族の証しである天羽羽矢(あまのはや)と歩靫(かちゆき)をイハレビコに差し出しました。

「吉備から貴方どもを案じる使者が来て初めて気づきましたが、お越しになる伝達はナガスネビコが握りつぶしてしまったようです。私はナガスネビコの妹トミヤビメ(登美夜毘売)を后にして王子ウマシマヂ(宇摩志麻遅)を跡継ぎにしておりますが、内偵するとナガスネビコが私どもを差し置いて、登美国の乗っ取りを企んでいることが判明しました。ナガスネビコを暗殺して、貴方の使命である水銀朱交易路の実現に協力しましょう」。

 ニギハヤヒの意見もあって南葛城地方に出て風の森峠を下るコースが選ばれました。登美国の加勢もあって、ニヒキトベ(新城戸畔)、コセノハフリ(居勢祝)、イノハフリ(猪祝)の三土ぐも、高尾張の土ぐもも難なく退治して、南葛城地方を征しました。

 

(葛国建国)

 余勢を駆ってイハレビコ軍の一部が風の森峠を下って吉野川河畔の五條に出て、中流に陣取る橋本の族を破り、紀ノ川河口まで進軍し、水銀朱の交易ルートが確立しました。そこで阿波の忌部族、宗像族とオオトシ族が水銀朱を受け取る手はずが整いました。

 イハレビコは掖上(わきがみ)の本馬山に登り、眼下の葛城川流域を見やります。葛城山と金剛山の連峰は二匹のトンボがからみあったように見えます。連峰から幾つもの小川が流れ、水が豊富で肥沃な土地でした。春になると吉備の足守川、旭川や吉井川の土手にニョキニョキと芽を出す黄色い蕨(わらび)の光景を思い出しました。

「ここに春がやってくるのが楽しみだ」。

 

 イハレビコの故郷への思いは長兄ヒコイツセとは違っていました。故郷には兄二人がいて、日向に戻ったところで自分は王にはなれず、兄弟間で争いとなる。ここに留まって自分の王国を築いた方が得策だ。

 イハレビコが打ちたてた国は葛(くず)の名産地として知られていたことから葛国と呼ばれるようになりました。イハレビコを大和に送り込んだ吉備は「黄の蕨の国」が訛って「きび」と呼ばれるようになりました。

  

 

.吉備王の反応

 イハレビコが水銀朱交易路の開拓に成功した知らせを受けた吉備王は阿波に次ぐ新しい水銀朱産地が確保できて、ご満悦でした。大和行きを後押しした宗像族も得意顔でした。

 ヒコイツセ一行が大和に向けて旅立った後、穴海の警護は伊予、讃岐、阿波の四国勢が受け持ちましたが、より人数が必要となり、いかに日向勢が兵士・警備役として勝っていたかが語り草になっていました。イハレビコの兄ヒコイツセが討ち死にしたことを知った吉備王は一行が本拠地にしていた吉井川の水門の奥にヒコイツセを祀る聖域(安仁あに神社)を造る指示を出しました。

 

 水銀朱の需要が高まったのは、57年の奴国の後漢への遣使がきっかけでした。半島からの要請が増えて貴重な輸出品となり、阿波に継ぐ新しい産地の開発が生じていました。まだ金や銀の産出の仕方を知らない時代でしたが、水銀朱は金と同じ価値がありました。

 吉備王が喜んだ理由は「これで凶作となっても兵士たちに手当てが払える貯えができた」ことにありましたが、次第にそれ以上の価値をもたらしたことが明らかになります。大和の水銀朱鉱山は吉備王国が期待した以上の産出量だっただけでなく高品質だったからです。

 

 葛国を建国したイハレビコは磯城国から后を迎えて姻戚関係を結び、宇陀野からの交易ルートを万全にします。水銀朱は宇陀野から磯城国に入った後、二つのコースに分かれました。磯城から南葛城の葛国に入り、風の森峠から紀ノ川コースが主要街道でしたが、登見国経由も第の街道として栄えていきます。最短は大和川(初瀬川)を河内湾まで舟で下っていくことでしたが、大和川は大和盆地と河内への境が急流の難所となっていました。ことに台風や長雨で水かさが増すと危険でしたから、登見国を経由した陸路の方が無難でした。河内湾から吉備へは紀ノ川ルートよりも近くてすみますし、宗像族やオオトシ族の交易人にとって水銀朱を吉備に輸送する場合は登美国の上前を差し引いても輸送コストが安く済むメリットもありました。

 

 水銀朱は河内湾から吉備へ、紀ノ川河口から鳴門海峡を越えて讃岐に至り、輸出品として筑紫へと運ばれていきましたが、吉備王国が交易路をおさえたことになります。日向のイハレビコの大和入りと水銀朱鉱山の確保ははからずも、吉備の富の拡大と奴国の滅亡につながり、倭国の中心部が筑紫から瀬戸内海中部へと東に移っていく決定的な要因になりました。

 

 

弟6章 帥升の後漢への遣使  107

 

1.吉備国王は帥升へ

 吉備・出雲連合が奴国を支配下に置いた後、倭国の中心は筑紫から瀬戸内海中央部の吉備と讃岐に移行していき、時代は弥生中期から後期へと替わります。

 

 吉備王国の黄金時代の始まりです。吉備国王は伊都国王との約束を違えず、伊都王家は継続し、跡継ぎの王子の后として吉備王の弟の娘が伊都国に輿入れします。

 

 真っ先にやるべきことは新生奴国の編成と方向を固めることでした。奴国は王家が断絶しましたが、王家を支持する不満分子はまだ残っている可能性があります。まず奴国の弱体化の意味合いも含めて、工人を吉備、出雲、豊前、周防、伊予、讃岐など各地に移住させますが、吉備より東に位置する諸国も奴国の技術者を奪い合いします。一箇所に奴国の工人たちが集中すると、その国が強国となる危惧があるため、吉備国は兼ね合いを調整することが悩みとなりました。奴国の勢いは衰え、人口は最盛期の半分に減少します。奴国の名目の王には、吉備国の家臣を王に据えることを避け、伊都国の推薦者を置きました。

 

 後漢が倭国に介入してくる気配はありませんでした。章帝(治世7588年)から和帝(治世88105年)に替わりましたが、西域都護の班超の活躍もあって宮廷の眼は西域に傾いていました。97年には班超は部下の甘英をローマ(大秦)国交を開く目的でローマに派遣し、甘英はパルティア王国の西の国境に位置するペルシャ湾岸にまで到達しました。

 

 金官伽邪国は、すでに干国時代は遠い昔の話となっていましたが、倭国の成り行きを静観している様子です。

 

 末盧国は壱岐国へ渡る距離が最短であることから港の機能は存続するものの、伊都国の属国扱いとなります。これにより伊都国は奴国と末盧国にも影響力を持つようになり、奴国・伊都国時代よりも勢いを増しましたが、吉備王国は諸国を監視する大卒の本部を伊都国に配置することにより、間接的に吉備が伊都国を支配する形となりました。また伊都国の勢力を牽制する意味もあって、奴国の東隣の不弥国の王には胸肩国の息がかかった人物を据えました。

 

 残るは壱岐国と対馬国の懐柔でした。壱岐国は元々、前漢の武帝が前109年に半島を植民地化した後、伊都国から移住した住民を中心に前82年頃に大規模な環濠集落の首都を造成した国でしたから、伊都国からの呼びかけで新体制にすぐに従いました。問題は対馬国でした。対馬国は伊都国など本土よりも半島に近く、米や穀物類も吉備や出雲産よりも伽邪地方産を安く入手できました。ほとんどが山地で平地が少なく、半島と本土を結ぶ中継貿易国として存続していましたから、吉備支配の新体制で仲介手数料が減少してしまう恐れを警戒していました。

 

 吉備国王は90年代半ばに死に、オオモノヌシの三代目にあたる帥升(すいしょう)が即位しました。それから数年して伊都国王がなくなり、井原鑓溝(いはらやりみぞ)に手厚く葬られた。伊都国王が入った甕棺には、大量の水銀朱がまかれ、銅鏡が21面、大型の巴銅器、鉄製刀類や鉄板などが副葬され、その模様を吉備の役人が見守って本国に報告します。

 

 後漢の光武帝が奴国に賜わった金印はとうとう見つかりませんでしたが、両王の死後、奴国の金印の存在は忘れらていきます。

 

 

2.倭国の支配体制

 吉備王国代目の帥升にとって最初の問題は対馬国対策でした。対馬国は表面的には吉備に友好関係を装いましたが、吉備の監視役である卑奴母離(ひなもり)の常駐を拒みました。あくまで独立性を継続したかったからです。伊都国と壱岐国が説得を試みますが、首を縦に振りません。数年間もたついた後、伽邪地方が大雨に襲われ、金官伽邪国を流れる洛東江流域も大洪水となりました。米の輸入が止まったことから、ようやく対馬国も吉備・出雲の内地から来る米の大事さに気づき、卑奴母離の常駐を認めるようになりました。

 

 伊都国が半島と本土を結ぶ交易の要となり、爾支(ぬし)の下に吉備から派遣される泄謨觚(しまこ)柄渠觚(へきこ)が配置され、各国を監視する大卒の本部も伊都国に置かれます。半島から到着する荷物の確認も伊都国の港で実施されるようになります。

 壱岐(一大国)と対馬国には卑狗(ひこ)の下に卑奴母離(ひなもり)、奴国は伊都国の息がかかったし馬觚(しまこ)の下に卑奴母離(ひなもり)、不弥国は宗像族の息がかかった多模(たぼ)の下に卑奴母離(ひなもり)が置かれます。

 

 関門海峡から吉備に至るつの交易ルートも整備されます。主要ルートは関門海峡を過ぎてから瀬戸内海の本州沿岸に沿って進む不弥国―投馬(伴)国―吉備津ルートで、投馬(伴)国が管轄します。知事と副知事の役割を果たす弥弥(みみ)と弥弥那利(みみなり)は吉備王国から派遣されます。

 つ目のルートは日本海コースで、石見国―出雲国―伯耆の淀江(妻木晩田)―出雲街道―美作に至るコースで出雲王国が統括します。宗像族の交易船は淀江まで行き交うようになります。

 つ目のルートは関門海峡から宇佐―姫島を経て、伊予から瀬戸内海の四国側を進むルートで、伊予のオオヤマツミ族が管轄します。

 

 吉備から東の諸国も、鉄の交易ルートを押さえた吉備に従属せざるをえなくなります。瀬戸内海は大和と阿波からの水銀朱が西に向かい、鉄製品が西から東に進み、大中小の船が行き交います。吉備・讃岐王国を宗像族、出雲王国と伊予王国の勢力が鼎立する体制が整いました。伊都国から鉄器や鉄素材の輸入が増え、各国で開墾が活発化し、その勢いは東日本へとつながっていきます。

 

 春を迎えた頃、伊都国王は里帰りを喜ぶ后と壱岐国の代表を伴って、帥升に接見する目的で吉備津を訪れます。

 

 伊都国王は関門海峡を越えて瀬戸内海に入ると、大小の島々の美しい光景に歓声をあげます。帥升の従姉妹にあたる后は備後の芦田川を過ぎた後、船上から黄色い蕨の群落が見えると歓声をあげます。

「なぜ、歓声をあげるのか」。

「黄色い蕨は吉備の象徴なのです。群落を見ると吉備に戻ってきた実感がわきます」。

 

 高梁川の入り口に位置する酒津の湊を過ぎると原津、上東の湊は舟と雑踏であふれ、足守川の沖合いにも中小の舟の群れが上げ潮になって足守川の水位が上がるのを待機しています。吉備国の首都にはどこから、これだけの人が集まるのかと伊都国の一行がたまげるほど、商人、兵士、農民、下民などでごったがえしでした。その繁栄ぶりを間近に見て、吉備側に恭順した父王の判断は正解だったことを確認しました。吉備に歯向かっていたら、奴国・伊都国時代よりも勢力が増大し、吉備王国の右腕になることはなかったことでしょう。

 

 足守川を眼下に見る王宮の丘に上がり、帥升に謁見しました。帥升は伊都国王と年齢もほぼ同じくらいで、従姉妹も伊都国王の后として同席しましたから、すぐに打ち解けました。

 

 帥升は筑紫から瀬戸内海を制覇するという、祖父オオモノヌシの夢を実現し、対馬問題も片付いて半島から吉備までの交易ルートが固まったことから、自信にあふれていました。

「諸国は鉄製品や鉄鋌(てってい)を幾らでも欲しがっている。どんどん輸入して欲しい」。

「それには倭国からの輸出品を増やす必要があります。ことに水銀朱、真珠、ヒスイ、倭絹、干しアワビと干しナマコです」。

「それよりいっそのこと、半島の金官伽邪国に攻め込んでみたら、とも考えるが」。

「それは無謀でしょう。半島に攻め込むには最低限千人の兵士が必要ですが、そこまでの兵士を運ぶ船の数がありません。軍事経費も膨大にのぼるでしょう」と伊都国は反論します。

「それよりも、57年以来とだえている後漢へ遣使を送って、鉄の輸入枠を増やす交渉をした方が賢明でしょう」。

 

 

3.後漢への遣使

「奴国が後漢に遣使を送って金印を授与された話は父王から聞いたことがあるが、どういうことなのか?」

 伊都国王は帥升が半島諸国や後漢についての知識がほとんどないことに驚きましたが、半世紀ほど前に奴国が後漢に遣使を送って金印を賜わったことが倭国の盟主の座を内外に確証したことにつながったこと、後漢の冊封体制に入るということはどういうことか、などを丁寧に説明します。前漢との交易がさらに活発化すれば、吉備王国の収益が増えることも力説します。

 

 帥升も遣使を送る気持ちに傾いたようです。

「遣使を送るとしたら、後漢の王さまへのみやげには何が必要だろうか」。

「吉備の実力は奴国を凌ぎ、支配地域も奴国よりはるかに広域で、数多くの国を傘下に置いていることを誇示できるようなものが良いでしょう」。

「誇示するにはどういう手があるだろう」。

「東西南北から集めた捕虜や奴婢を生口(せいこう)として後漢の王さまに献上するのも一案です」。

 

 その頃、後漢では和帝(治世88年~105年)が崩御し、生後わずか100日だった殤帝(治世105年~106年)に替わりましたが、王交代の間隙をついたのか、復興した高句麗が105年に遼東半島を犯し、北東地域がきな臭くなってきました。高句麗に接する玄莬郡も高句麗に侵されて縮小を余儀なくされ、106年に第2玄莬郡の首都は洛陽側に後退した撫順に移されます。西域に偏っていた宮廷の視線も東北部と半島に向けざるをえなくなりました。

 

 元々、病弱だった殤帝は治世2年にも満たずに106年に亡くなり、安帝(治世106年~125年)が即位しました。安帝政権は玄莬郡と楽浪郡に多数の兵士が送り込みます。

 同じ106年、 楽浪郡の使いが金官伽邪国の重臣をお伴に連れて伊都国を訪れました。使いは倭国の新しい盟主となった吉備邪馬台国が洛陽の宮廷に遣使を派遣することを要請します。はからずも伊都国王が予想した展開になりました。

 楽浪郡からの申し入れを伊都国王は急使を使って帥升に伝えますが、すでに後漢への遣使の意味と重要性の説明を受けていた帥升は即座に遣使派遣を承諾します。

 

 か月後、遣使一行が吉備から到着しました。後漢に献じる生口の数は160人にも上っています。

「エッ!! 生口に160人も!!」。

 さすがに伊都国王もその数の多さにたまげました。捕虜や奴婢を生口として後漢の王さまに献上するのも一案です、と確かに吉備国王に助言したのは間違いはないが、せいぜい30人くらいだろうと想定していました。自分の説明を拡大解釈してしまったのだろうが、吉備国王はよほど張り切っているのだろう。吉備の一行の話しによると、吉備国王は傘下の国々に国内の郡数に応じて前漢の王さまに献じる奴婢を差し出すように命じた、とのことです。生口160人だけで20人乗りの船で最低艘が必要となりますが、帥升の意思に従わざるをえません。

 

 おまけに吉備の一行に補佐役として伊都国と末盧国の高官が同道する予定でしたが、出雲国も代表を送ると言ってきました。となると対抗上、伊予国も送ると言いだし、胸肩国、壱岐国、対馬国と芋づる式に派遣者の数が増えていきました。

「これでは遣使というより、物見遊山の大名旅行だ」。

 最終的に役人や引率者・乗組員が140人、生口が160人、合計300人が乗った15艘の船団となりました。

 

 末盧国の湊を出発した生口は縄で縛られて逃亡できないようにされてはいましたが、道中では元気溌剌でにこにこしています。それぞれの出身地の歌謡を歌いあっています。差し出した国の国王が後漢行きの目的を勘違いして伝えたのか、あるいは、どうせ自国にいて奴婢に甘んじるよりも新天地へ行った方がましと前向きに考えている者が多いのでしょうか。漢という巨大な国には極楽があると信じ込んでいる者もいましたし、「俺は洛陽の博打の王さまになるのだ」と豪語する博打好きが高じて奴婢の身分に転落した男もいました。縄で縛らなくとも逃亡の恐れはないようなほどです。

「あのな、生口とは奴婢とか奴隷、捕虜と言う意味だから、本来は悲壮感で皆、しゅんとしているはずだろうが」と引率者の方が愚痴りたくなるほどでした。

 

 天候に恵まれたこともあって、船団は金官伽邪国を経て楽浪郡に無事に到着しました。楽浪郡から洛陽までは陸路となります。後漢の兵士が帯同して、洛陽へは役人側が50人、生口は160人のままの陣容となりましたが、後漢の兵士たちも、こんな陽気な生口は初めてだ、と呆れ顔でした。

 洛陽に着いて、遣使一行は安帝に拝謁することができました。帥升が倭国の盟主として認知され、遣使は成功しました。

 

 

4.三代目帥升から六代目の楯築王へ

 洛陽から戻ってきた遣使は帥升と面会します。洛陽や安帝の謁見の様子を聞いて、さらに期待した以上のみやげ物の多さにご満悦でした。

「献上した生口たちはどのように処遇されたのか」。

「彼らのその後は分かりませんが、陽気でしたたかな連中ですから、異国の地でも立派に生き抜いていくでしょう」。

 

 か月後、諸国の王さまや国内の豪族を招いて、遣使の帰国を祝う盛大な祝賀宴が開かれました。新築された高殿に遣使一行が持ち帰った数々の品々が陳列されます。

 杉の匂いがまだきついほど残る高殿に入ると、鉄剣、小刀の武器類、鎧(よろい)、大中の銅鏡が20面ほど、ガラス玉や硬玉の数珠、赤漆の木工品、金色に輝く金銅製器具、異様な形の土器、毛織物の絨毯、錦の布、茜(あかね)色や濃紺の布地などが燭台の明かりの中で輝きを放っています。各国の王たちは見たこともない豪華絢爛の品々に驚嘆の声をあげますが、とりわけ銅鏡を欲しがりました。

 

 帥升は吉備から投馬国、伊都国、金官国を経由して後漢の楽浪郡に至る交易路を確立し、初代王オオモノヌシが掲げた「倭国(西日本)の覇権を吉備が握り、漢と手を結ぶ」という目標を具体化させました。後漢は衰微期に入っていきますが、吉備邪馬台国は伊都国から瀬戸内海、出雲は日本海、阿波は太平洋と棲み分けながら、全盛時代に向かって歩みだします。

 

  伊都国の儀式も参考にしながら、大国にふさわしい国王即位や葬礼の儀式などが整えられていきます。吉備津には少しづつ伽邪地方の交易人も在住するようになりました。漢字の読み書きができる者はごく数人にすぎませんでしたが、中国の民間道教の影響も入りだします。

 吉備邪馬台国は帥升の死後、四代、五代を経て六代の楯築王の時代に絶頂期に達し、その後、倭国大乱の時代に入ります。三国志・魏志倭人伝は「その国、元亦、男子を以て王となす。とどまること780年、倭国乱れ、相攻伐すること年を経たり」と伝えますが、「107年の帥升の遣使」から数えて780年間、男王が続いた後、倭国が乱れ、相攻め合う攻防が幾年か続いた、と解釈できます。

 

 

             第一編 「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇」  ―完―

 

 

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