その5.若紫     (ヒカル 17歳) 

 

5.藤壺の里下りと密会と妊娠

 藤壺の宮が病を患ってしまい、実家のオルレアンに退出しました。同じ頃、イタリアのジェノヴァ共和国でフランス支配に対する反乱が発生した、との急報が入り、王宮は騒然となりました。王様が第二回目のイタリア遠征をしてミラノ共和国を打ち破って支配下に置いた際に、ジェノヴァ共和国もフランスの手中に入っていました。それ以来、約六年間は目立った騒動は発生していませんでした。

 藤壺の里帰りに加えて、ジェノヴァ対策で気を揉まれている王様の様子を同情しつつも、横目で見ながら、「今がまさに好機到来だ」と浮き足立って御方を憧れ惑いつつ、ヒカルはいかなる愛人の所へも忍んで行くことはありません。昼の間は王宮かシュノンソーでぼんやりと物思いに耽り、夕暮れが近付くとオルレアンへ急いで、付き人ブランシュを追いまわして、藤壺との密会を迫ります。

 

 ブランシュがどのように手引きをしたのかは定かではありませんが、とうとう出逢いを果たせたのですが、現実とは思えない苦しさです。

 藤壺は「浅ましかった」いつぞやの過失を思い出すだけでも、一生忘れることができない悩みの種となって、「あれきりで止めにしよう」と深く心に誓っていましたのに、またしても情けないことになってしまったのが悲しくて、やるせないような様子です。優しい魅力があって、と言って打ち解けているわけでもありません。奥床しく恥じたようにしている嗜みなどが、やはり他の女性には似ない優れたものなので、「どうして一点だけでも欠点をお持ちではないのだろう」とかえって辛くなってしまう程、思いがつのってしまいます。積もる思いの数々を語り尽くすことができません。夜が明けることのない暗所でずっと一緒に過していたいのですが、生憎と夜は短く、出逢わなかった方がましと思えるほどでした。

 

(歌)たまたま お眼にかかることができましても 再びお会いできる夜は なさそうでございます

   今夜の夢の中にいたまま このまま消えてしまいたい我が身です

と、涙でむせ返るヒカルに、藤壺はさすがに不憫な気持ちを抱いてしまいます。

(返歌)あなたは 夢と言われましたが この上もなく辛い私の身を たとえ永久に覚めない夢だとしても 

    後の世の語り草として 人が伝えはしないでしょうか

 藤壺が思い乱れている様子は、誠にもっともなことで、畏れ多いことです。

 閨の外にブランシュがヒカルの上着などを持って参りました。

 

 シュノンソーに戻ったヒカルは、泣き寝をしながら、ずっとベットに臥しています。手紙を送りましても、例のように「ご覧にはなりません」というブランシュの返事が戻ってくるだけなのも、いつもながら辛くとても恨めしく、王宮にも参上せずに二、三日、引きこもっていました。すると「またまた、どうした」と王さまが案じているとのことなので、恐ろしい思いをします。

 

 藤壺も「なんて私は心憂い身なのだろう」と思い嘆いて、病が一層ひどくなり、「早く王宮に戻って来なさい」との勅使はしきりにありますが、その気にもなりません。実際に気分が尋常ではないようなので、「どういうわけなのだろう」と考えてみると、月の生理が二回続けてなかったことにふと気付いて、情けなくなって「ひょっとしたら」と思い乱れます。夏の蒸し暑さもあって、起き上がることもできません。

 

 ヒカルとの密会から丸二か月が過ぎますと、妊娠したことがはっきり分かるようになって、侍女たちも気付いてきたようなので、浅ましい宿命に啞然としてしまいます。人々はヒカルとの密事など思いも寄らぬことで、ご懐妊は里に下る前のことと考えて、「この月になるまで、どうして王さまに奏上されなかったのか」と驚き合います。

 冷静に考えてみても、妊娠はヒカルとの密事によるものと分かります。湯船での入浴でも身近に仕えて藤壺の様子をすべて把握している乳母の娘ポーレットは「おかしい」、ブランシュは「まさか、あの密会で」と感じることがありましたが、お互いに口に出して話し合うべき事柄ではありません。逃れ難い藤壺の宿命をブランシュは「浅ましいこと」と茫然としてしまいます。

 王宮には「病に加えて、物の怪が紛れ込んでおりましたので、懐妊の兆候を見逃しておりました」と理由づけて奏上しました。誰も皆、そう信じて疑いもしませんでした。王さまはなおさらのこと、藤壺を不憫に思って、「王宮にすぐに上がるように」と絶え間がない程、勅使を寄こしますので、藤壺は空恐ろしくなって、煩悶をする間もありません。

 

 ヒカルも、おどろどろしい奇怪な夢を見ましたので、夢判断をする者を呼んで夢解きをさせますと、思いもかけなかった筋の結果が出ました。

「ご幸運の中に、凶事が交じっておりまして、慎むべきこともございます」との判定でした。煩わしくなって「話した夢は自分が見た夢ではない、他の人が見た夢を判定してもらったのだ。この夢が現実のものになるまで、誰にも言ってはならない」と釘を刺しました。

 心中では「どういう事なのだろう」と自問をしていましたが、藤壺の懐妊の知らせを聞いて「もしかして、夢判断の話はこの事だったのか」と合点が行きました。そうなると無性に藤壺に逢いたくなってブランシュに、言葉の限りを尽くして藤壺との逢瀬をせがみますが、ブランシュにとってはなおさらのこと煩わしく、工面をしてまで藤壺に会わせようとする気も起きません。

 藤壺からはたまさかに、ほんの一行ほどの返信があったのですが、それも絶えてしまいました。

 

 九月に入ってから、藤壺は王宮に上がりました。久しぶりのことで、まして懐妊の身となったので、ご寵愛ぶりに限りはありません。お腹が少しふっくらしてきて、つわりに悩まされているのか面やつれをしていますが、これはこれでまた、比類するものがない美しさでした。

 

 王さまは例のように、明け暮れ、藤壺の室に通われて、もう管弦の遊びが面白い季節になっていましたから、ヒカルもひっきりなしに呼び出されて、ハープやフリュートなど、あれこれおさせになります。

 ヒカルは藤壺への思慕やお腹の児のことなどを必死に押し隠そうとしながらも、時々、その気持ちが漏れ出てしまうのを、藤壺はそれとなく見やりながら、さすがに身を切られる事どもをせつなく思い続けます。

 

 

6.尼君の帰京、ヒカルに若紫を託す、尼君の他界

 

 ル・ピュイの尼君は幾分持ち直して、夏の間にロワールに戻っていました。その屋敷の場所をつきとめて、時々、手紙を送りました。その返信はいつも同じ内容ですが、それももっともなことでした。

 ここ数か月は、過去にまさる物思いで、他のことは考えることができないほどで過ぎて行きました。秋風が吹き始めた頃、一塩心細さが増して、歎息をつきます。掘出し物かと期待していたムーラン(Moulins)の姫君との初夜に失望し、藤壺にも会えない寂しさを紛らわせようと、さるお忍び所への訪問を思い立ちました。

 

 場所はアンドル(Indre)川のパリュオー(Pallhau sur Indre)にありました。時雨が降り注ぐ中、途中のロッシュ(Loches)の街に入りました。ロッシュは中世以来の城砦都市で、ことに桐壺王の祖父王がパリからロワールへ王室を疎開させてから、王室都市として重要度を増していました。アンドル川を見下ろす高台に「王さまの館(Logis Royal)」、「サントゥルス(Saint Ours)教会」、威風堂々とした長方形の主塔(Donjon)が続いています。

  王さまの館は、祖父王と寵姫アニエスが愛を育んだ場所でした。王さまの館を見上げながら、夕顔との最後の夜となったムアン(Mehun sur Yèvre)の古城とアニエスの亡霊を思い出しました。「夕顔の死から一年が経ったのに、私の身はいまだにアニエスの亡霊にとりつかれているのではないだろうか」と不安にかられます。

 主塔は桐壺王の父王の時代から、重要人物の留置所となっており、桐壺王がミラノ攻略の後、捕虜として連れ帰って来たスフォルツァ家のミラノ公が幽閉されている場所でした。それに気付いたヒカルは、ミラノに下った空蝉を思い起こしました。ジェノヴァの反乱がミラノへ飛び火してしまったら、空蝉も危険にさらされてしまうかもしれない。

 

 夕顔と空蝉への回顧にふけっていますと、馬に乗ったコンスタンが馬車の窓に寄って来て、「あそこがル・ピュイの尼君のお屋敷でございます」と木立が鬱蒼として木暗くなっている荒れた屋敷を指しました。

「先日、何かの所用でロッシュに来たついでに訪ねてみますと、『尼君がひどく弱っておりまして、どうしてよいかも分かりません』と侍女たちがこぼしておりました」と話しました。

「それは気の毒なことだ。お見舞いに上がるべきだったのにどうしてその時、教えてくれなかったのだ。ちょっと様子を聞いて来てくれ」と申しますので、コンスタンは従者の一人を中に入れて案内をさせます。

 

「わざわざヒカル・ゲンジ殿がお立ち寄りになられた」と従者に口上させた後、コンスタンが邸内に入って「ご主人自ら、お見舞いに参りました」と言いますので、邸内の皆が驚いてしまいます。

「困りましたね。このところ、すっかり衰弱されてしまって、ご対面などお出来にはなれないでしょう」とこぼすものの、「このままお帰し申しますのも畏れ多いことですから」と相談し合って、南向きの縁座敷を片付けて、ヒカルを招きいれました。

「誠にむさ苦しい所でございますが、せめてご訪問のお礼をと思いまして。何の用意もなく、こんな鬱陶しいお座敷で恐縮でございます」と侍女が挨拶します。

 確かに勝手が違う、不馴れな場所に来た、とヒカルも感じました。

 

「いつもお見舞いに伺おうと思いながらも、送り甲斐がないご返事ばかりを頂戴しますので、気後れがしておりました。ご病気が重くなっておられることも、承ってはおりませんでしたので」などと挨拶します。

「身体の具合が悪いのは、いつものことですが、もういよいよの間際になって来たようです。かたじけなくもお見舞いに立ち寄って下さいましたものの、私自身が直接、お目にかかることができないのが残念でございます。おっしゃっていただいているお話の件ですが、万が一でも、思し召しがお変りにならないようでしたら、頑是ない時期が過ぎましてから、必ず女性方の一人にお加えください。まだ覚束ない孫の先行きが心細く見えますのが、往生への道の妨げになるとも思われます」などと侍女に伝えています。

 

 尼君が臥している部屋はごく近くですので、不安そうな声がたえだえに聞えてきます。

「本当にかたじけないことでございます。孫もせめて、ご挨拶ができます年頃になっていたなら、よいのですが」と続けています。

 ヒカルは尼君の伝言を哀れに聞いて、「どうして浅い思いで、こうまで女好きめいたお願いをいたしましょうか。どういう約束事なのか、初めてお孫さまをお見かけした時から、可愛く思い続けておりますのは不思議な程で、この世の出来事とは覚えません」などと言って、「これまでは、頼み甲斐がない心地ばかりしておりましたが、あのあどけない御方のお声を、一言でも聞かせていただけますなら」と言いますと、「いえいえ、お姫さまは何もご存知ないご様子ですし、すでにお寝みになっております」と答えている折も折り、向うから近寄って来る足音がして、「お祖母さま、ル・ピュイの僧坊にいらしたヒカル・ゲンジさまがお越しになっておりますよ。なぜお会いになりませんの」と話しかけています。

 

 侍女たちは「まずいことに」と困惑して、「お静かに」に諭しています。

「だって、お祖母さまは『あの御方のお姿を拝見したら、気持ちが悪いのが直った』とおっしゃっていましたから」と、さも気が利いた事を言ったと思っています。

「中々、面白いことを言うな」と聞いていましたが、侍女たちが苦々しく恥じているようなので、聞かなかったふりをして、丁重なお見舞いの言葉を述べて屋敷を去りました。

 

「本当に、言う甲斐もない程の子供にすぎない。けれども、上手く教え込んでいったなら」と思います。次の日に、大層細やかにお見舞いの手紙を送ります。例のごとく、小さく結んだ文を付けました。 

(歌)幼い鶴の 一声に惹かされて 葦の間を漕ぎ進める小舟が 行きあぐねてしまうように

   いわけない児の声を聞いてから 私も進退に悩んでいます

「いつもと同じ人に宛てて」と、わざわざ子供でも読めるように書いています。その筆跡がとても見事なので、「このまま姫君の習字のお手本にされたら」と侍女たちが言い合います。

 

 少納言セリーヌが返信を書きました。

「お問い合わせになりました御方は、今日でさえ危ないようでございますので、ル・ピュイへ皆で移動するところでございます。このようなお心のこもったお見舞いのお礼は、あの世から申し上げましょう」と修道女の気持ちを伝えました。

「悲しいことだ」とヒカルは嘆きます。初秋の夕暮れは、まして胸中では休む間もなく、恋焦がれるあの御方に思いをはせて、せめて、あの御方と縁故がある童女を尋ねていってみたい気持ちが増していったことでしょう。「消えていく はかない露の身」と尼君が歌ったル・ピュイの夕暮れを思い出して、「恋しくはあるが、引き取ってみると見劣りがしてしまうのではないか」とさすがに危ぶみもするのでした。

(歌)紫草のようなあの御方と 同じ血縁の根に続いて生えた 野辺の若草を いつになったら 

   手に摘んでみることができるだろう

 

 王さまは十二月初旬のパリへの御幸(みゆき)とジェノヴァへの支援軍派遣を決めました。表向きは王室のパリへの復帰とジェノヴァ支援軍の成功を願う「パリ市入城」でしたが、本音は実業家や大商人が牛耳るパリ議会から、ジェノヴァ遠征の資金援助を要請することにありました。

 パリへの御幸に向けて、舞楽には高貴な家の子供、高官や王宮人どもなど、その方面に心得がある者が、皆、選ばれました。王族たちや大臣を始めとして、それぞれの技芸の稽古を行いますので王宮は賑やかとなり、ヒカルも多忙になりました。

 

 忙しさに紛れて、ル・ピュイへ移った尼君へお見舞いの手紙を久しく送らなかったことを思い出して、十月中旬にル・ピュイにわざわざ使いを遣りました。すると司教だけが返信をしてきました。

「先月の末、妹はとうとう空しく世を去ってしまいました。これも人の世の宿世と申すものの、悲しみに包まれております」などとあるのを読んで、世の中のはかなさをしみじみと実感します。

「故人が気掛かりにしていたあの若紫はどうしていることだろう。子供心にさぞかし祖母を恋しがっていることだろう。自分の母親が先立ったことなどを、まだ満二歳にも達しない歳だったので記憶にはないのですが、それなりに思い浮かべて、手厚くお弔いを申し上げました。セリーヌから行き届いた返信がありました。

 

 十一月に入って、「喪に服すことなどが終って、ロッシュの屋敷に戻って来られた」と聞きましたので、数日後、時間が空いた晩に、ご自身で屋敷を訪れました。

 凄いほど荒れた場所になっていて、侍女などの数も減ったようで「まだ幼い人は、どんなにか恐がっていることだろう」と心配になります。例のお座敷に通されました。セリーヌが衝立を隔てて、臨終の有様などを涙ながらに語り続けますので、何とはなしに、ヒカルももらい泣きをして袖を濡らします。

 

「前々から若君を父宮にお渡ししようという話はありましたが、亡くなられた母上が正妻の方からひどく辛いお扱いを受けました。若君は全くの子供というわけでなく、と言って、しっかりした人付き合いがまだお出来にならない、中途半端なお歳ですから、大勢の子ども達がいる中に入ってしまうと、侮られてしまうのではないか、などと亡くなられた尼君が始終、心配しておりました。宮様のお内の様子を聞きますと、尼君が心配されたことも、あながち取り越し苦労ではないようでございます。貴方様からかたじけなくも、仮初のお言葉を頂戴いたしますと、後々のお扱いは分からないにせよ、ただただ嬉しく有り難く存じ上げます。とは申しますものの、少しも釣り合った所がなく、実際の年齢よりも子供じみておりますので、歯がゆく感じている次第です」と語り続けます。

 

「そんなことは気にしておりません。繰り返してお願いいたしております私の心のほどをどうして無視されるのですか。そうした言う甲斐がない程の幼い有様が可愛く思えてならないのも、深い契りがあるからなのだと、我ながらごく自然に思い知っております。やはり、人を仲介してではなく、直接、若君と話すことはできないでしょうか」。

 

(歌)若君に お目にかかることが難しいと言われても 葦若の浦に打ち寄せる波のように 

   このまま 立ち返ってしまうような者ではありません

私を見くびらないで欲しい」と珍しく声を荒げますと、「それはもう、本当にもったいないことと存じております」。

 

(返歌)言い寄られる 貴方のお心内を よく知らないで 葦若の浦でなびく玉藻のように

    貴方のお言葉に なび揺れてしまうのは 軽率でございます

困ったことです」と返答するセリーヌの物馴れた対応に、ヒカルは少し気分を取り直しました。

人知れず 私は何事も気がせいているものの 越え難い関所であることよと、古い歌を誦しているヒカルの美声を若い侍女たちはしみじみと聞き惚れています。

 

 姫君は尼を慕って泣き臥していましたが、遊び仲間の童女たちが「上着を着た御方が来られていますよ。宮様がおいでになられたのでしょう」と話しますので、起き出して「セリーヌさん、上着を着られた方はどこにおられます。父宮がお越しになったの」としゃべりながら寄って来る声を、ヒカルは愛らしく感じます。

「父宮ではありませんが、お疎まれになられなくてもよい者です。こちらへいらっしゃい」とヒカルが声をかけますと、「いつぞやの高貴な御方だ」とさすがに気付いて、「まずいことを言ってしまった」と恥じらって、セリーヌに擦り寄り「ねえ、あっちへ行きましょう。眠たいだもの」と言います。

「今さら、どうして遠慮をなさるのです。私の膝の上でお寝みなさい。もっと近くに寄りなさい」と誘います。

 

 セリーヌは「お話し申し上げましたでしょうに。まだ世の中を知らない児ですから」と言いながら、ヒカルの方に近づけますと、若君は無心のまま座ります。

 ヒカルが衝立の脇から手を差し出して探ってみますと、柔らかな服の上に髪がつやつやとかかり、ふさふさとした端がヒカルの手に触れて、その美しさの様が思いやられます。

 ヒカルが姫君の手をつかみますと、馴れない男がこんなに近くに寄って来たのが恐くなって、「寝ようとしていますのに」と言いながら、無理に手を引っ込めてしまいます。その隙にヒカルは衝立をすべり越えて、「もう貴女は私がお世話をする方なのですよ。お嫌いになってはいけませんよ」と仰せます。

 セリーヌは「まあ、あんまりな。滅相もないことをされます。どのようにお話をされても、何の効果はありませんのに」と声をあげながら、困惑しています。

「いくら何でも、この姫君をどうしようとする積りはありません。ただ私の世に類がない志のほどを見定めて欲しいのです」と言い訳します。

 

 戸外は霰(あられ)が降り荒れて、ものすごい夜となっています。

「こんなに女性だけの少人数で、夜を心細くお過ごしになるとは」とヒカルは涙声になって、このままうち捨てて帰り難い気持ちになりました。

「よろい戸を閉め切って下さい。ひどく物恐ろしい夜になってしまいましたから、私が宿直人になってお守りいたしましょう。皆さんも近くに寄って来なさい」と大層馴れきったように、姫君を抱いて閨の中に入ってしまいました。

「何とまあ、思いもしないことを」と、侍女たちは誰も誰も、呆れてしまいます。

 

 セリーヌは「困ってしまう。どうしましょう」と気を揉みながら、普通の闖入者と違って事を荒立て騒ぐこともできませんので、溜息をつきながら、閨のカーテン越しに控えています。

 姫君はとても恐がって「どうなることか」とわなないています。とても美しい肌が寒さで鳥肌をたているのを愛らしく感じて、ショールで押し包んであげます。そんなことをしている自分の気持ちが幾らか変にも感じるものの、しんみりと話しかけます。

「是非とも私の所にいらっしゃいな。面白い絵などが沢山あって、人形遊びもできる所ですよ」と童女の気に入りそうなことを話す気配がひどく優しげなので、幼心でも、そうひどく怖じけることもなくなりましたが、さすがに気味が悪いのか、もじもじしながら臥しています。

 

 一晩中、風が吹き荒れました。

「本当にヒカル様がおられなかったら、どんなに心細かったことでしょう」、「同じことなら、お二人の年齢が釣り合っておられましたらねえ」と侍女たちが囁き合っています。それでもセリーヌは心配で、閨の近くに待機しています。

 風が少し吹き止んだのを見て、まだ夜が深いうちに屋敷を去ることにしましたが、本当に愛人の許を去っていくような顔つきをしています。

「姫君のお気の毒なご様子を見受けましたから、今はもう、片時の間も心配でなりません。若君を明け暮れお眺めすることができる自邸にお引き取りしましょう。こんな荒れた所にいたら、物怖じをされてしまうだけですから」と言いますと、「父宮も引き取りに来られると申されております。尼君の五十日祭が過ぎてから、とおっしゃっております」との返事です。

 

「確かに宮邸も頼りとなる筋合いですが、これまで別々に暮らしてこられたのだから、親密さという点では、こちらと同じです。そう疎々しくお考えにならないで下さい。まだ幼いと申されても、今から一緒に暮らす分には問題はないでしょう。浅くはない私の志は父宮より勝っておりますよ」と、姫君の髪をそっと撫でた後、後ろ髪を引かれる思いでロッシュの屋敷を去りました。

 

 霧が深くたれこめた空はいつもと違った風情で、霜も真っ白に降りています。本当の恋の忍び歩きに相応しい朝帰りの風景だな、と思うと、身体が火照ってきて、無性に女の肌が恋しくなってしまいました。帰り道にごく忍んで通う女の邸があるのを思い出して、従者に邸の門を叩かせましたが、聞きつけた者はいないようです。仕方なく、お供の中の声がよい者に歌わせました。

(歌)朝ぼらけの空に 霧が立ち込めて 辺りの見分けがつかない頃でも 貴女の門の前は 

   素通りができかねます

 繰り返し二度ほど歌わせますと、ようやく気が利いていそうな下女が出てきました。

(返歌)霧が立ち込めた 生垣の前に お止まりになって 素通りがしにくいと思し召すなら

    草の扉には 何の戸締りもしてございませんよ

そう歌って、中に引っ込んでいきました。

 

 それきり誰も出て来ません。身体の火照りも冷えていました。このまま立ち去って行くのは風情がないようですが、空がどんどん開けて行きますので、きまりが悪くなって、そのままシュノンソーに戻りました。

 あの可愛らしかった姫君の面影が恋しく、独り笑みをしながら就寝しました。日が高くなってから起床して、若紫に手紙を書こうとしましたが、普通の懸想文とは勝手が違いますので、筆を休め休めしながら、思案します。手紙に面白い絵などを添えて送りました。

 

 

7.父兵部卿の紫上邸訪問

 ヒカルがロッシュの屋敷から朝帰りをしたその日、父宮が屋敷にやって来ました。以前よりも邸内はずっと荒れ勝って、広くて古ぼけた屋敷にごく少人数で淋しそうに暮らしているのをご覧になって、「幼い児がこんな荒れ果てた所に、しばらくの間でも、どうして過すことができましょう。やはりヴィルサヴァン(Villesavin)の自邸へ引き取ろう。窮屈なことは何もありませんよ。乳母にも部屋をあてがうので、そこに住めばよいだろう。若い娘たちが何人もいるから、姫君も一緒になって遊んでいれば、とても仲良くやって行けるでしょう」などと仰せます。

 姫君を近くに呼び寄せますと、衣服にヒカルの移り香が深くなまめかしく染み付いていますので、「いい匂いだね。だけれどもドレスはくたびれていますね」とにがにがしく可哀想に思います。

「『病がちな年寄りの側にいつも一緒にいるのではなく、ヴィルサヴァンに来られて娘たちと馴染んで下さい』などと亡くなった尼君にお願いしたのだけれども、妙に避けておられて、自邸の者どもも気を悪くしていました。尼君が亡くなられて、まだ間もない時期に連れて行くのは心苦しい気がするが」などと言います。

「そんなに急ぐことはありません。心細くとも、当分の間は、こうしてこの屋敷におられた方がよろしいのでは。もう少し、物心がお分りになられる時分に移られた方が良いのでは」と少納言セリーヌが言い返します。

「夜になく昼になく、ずっと故人を恋焦がれておりまして、ちょっとしたものも召上がりません」。

 

 確かに姫君は面痩せをしていましたが、かえって品がよく美しく見えます。

「亡くなった人をどうして、そんなに思い慕われるのですか。もう今はこの世におられない御方の事を考えても仕方ありませんのに。父の私がついているではありませんか」。

 父宮は若君を諭して、日が暮れてから帰ります。それを見て姫君はとても心細くなって泣きますので、宮も涙をこぼして、「そんなに思いつめてはいけませんよ。今日、明日にでも移れるようにしますから」と返す返す宥めすかしてから、ロッシュを去りました。

 父宮が去った後、姫君は慰めようがないほど一層泣きじゃくります。自分の行く先がどうなるか、ということまで心配するのではなく、ただ始終離れる折りがなく、まつわりついていた祖母が今は亡き人になってしまった」と思うのが悲しく、まだ子供の心地なりに胸が塞がって、いつものように遊ぼうともしません。それでも、昼間は何とか心は紛れていましたが、夕暮れになると、ひどく滅入りこんでしまいます。これではこの先、どうやって過されていくのだろう、と乳母も慰めあぐんで涙を流します。

 

 ヒカルの御殿からコンスタンが差し向けられて来ました。

「本来は私が参るべきなのですが、王宮から呼び出しがありまして心苦しい限りですが、姫君のことが気になります」と伝えて、宿直人としてコンスタンを寄こしたわけです。

「味気ないことですね。戯れであったにせよ、ご縁ができた翌日はご本人が訪れるべきなのに。最初からこの有様では」と、昨夜を男女の仲の初夜であったと見なしている侍女の一人がこぼします。

「宮様がこのことをお聞きになりましたら、お付きの者どもの落度だ、とお叱りになられましょう」、「ねえ、お姫さま、何かのついでに、うっかりとこのことを父宮に話さないで下さいね」と姫君に諭しますが、それがどういうことか分からないようなのも、困ったことです。 

 セリーヌはコンスタンに切実な懸念を打ち明けます。

「これから数年が経ちまして、そうなる運命から逃れられないご縁でありましたなら良いのですが。でもただ今のところは、どうしても似つかわしくない間柄だと見受けられますのに、姫君を引き取りたい、という理解し難い思いを言われるのは、どういうお気持ちからなのでしょうか。合点がいかずに気を揉んでおります。

 本日も父宮が訪れて来ました。『よく気をつけて、面倒を見てくれ。うっかり油断をしてはなりませんよ』と注文をつけられますのも煩わしくて仕方ありません。それでなくとも昨夜のヒカル様の御振る舞いが思い起こされますのに」などと告げながらも、「コンスタンも昨夜の一件をいわくありげに思いはしないか」などと気を回して、ひどく嘆くことはできません。

 昨夜はヒカルのお供をせず、ロッシュに来なかったコンスタンは「昨晩、姫君とヒカル殿の間に何があったのだろう」と腑に落ちません。

 シュノンソーに戻ったコンスタンは、ロッシュの様子などを報告しました。ヒカルは申し訳ない気持ちがしますが、そうは言っても、恋人面をして自身でロッシュに通って行くのも、さすがにはしたない心地がして、「軽率で風変わりな行為だ」と世間に漏れ伝えられてしまうだろう、などと憚られますので、「こうなったら、シュノンソーに迎え入れよう」と腹を決めました。

 

 度々、手紙を送り、日が暮れる頃に、いつも通りにコンスタンを宿直に行かせます。

 コンスタンはその日は「やむをえない用事などがありましてお訪ねできませんが、不誠実なこととお思いでしょうか」とのヒカルの手紙を携えて夕刻前にロッシュを訪れました。すると「父宮から『急なことだが、明日、迎えに行く』という知らせがありましたので、慌しくなっております。長年住み慣れた蓬(よもぎ)の里を離れて行きますのは、さすがに心細いことです。侍女たちもばたばたしております」とセリーヌは言葉少なに説明して、コンスタンをろくに相手にもしません。

 侍女たちが縫い物をしたり、何やかやと仕度を急いでいる気配を見て、慌ててコンスタンはアンジェに向いました。

 

 

8.源氏、若紫を二条院に移す

 

 ヒカルは左大臣邸を訪れていましたが、女君はいつものように、すぐには対面しようともしません。面倒だな、と思いながら、リュートを掻き鳴らして

ピカルディー地方は 田造りに忙しいのに 一体どなたをお目当てに 山を越え 野を越え 雨夜の中を わざわざ来られたのですか

と、民謡を大層艶っぽい声で口ずさんでいました。

 そこへコンスタンが息せき切って到着しましたので、すぐに召し出して話を聞きました。「しかじか、こうこうで」と話を聞いて、口惜しい思いをします。

「姫君が父宮邸に移ってしまうと、わざわざ引き取りに上がるというのは、好色すぎることになる。『幼い児を盗み出していった』という非難も受けてしまう。しばらくの間は人にも口固めをして、先んじてシュノンソーに引き取ってしまおう」と思い立って、「早朝にロッシュに出掛けていくから、馬車の用意をさせて、随身を一人か二人、仕度させておいてくれ」とコンスタンに命じますと、コンスタンはそれを受けて、その場を退がります。

 

 ヒカルと女君は寝室に入りました。

「どうしたらよいだろうか。世間に聞えてしまうと『物好きな色男』という噂がたってしまう。あの児がせめて物が分かる年頃で、心が通い合った仲であるなら、「それもそうだろう」と認知するのが世の常である。父宮に尋ねだされでもしたなら、不体裁できまりが悪くなってしまう」と思い迷いますが、この機会を逃してしまったら、とても悔しい思いをするだろうと気が変って、すぐにロッシュに向うことにしました。

 女君は例の如く、無愛想に打ち解けずにいます。

「シュノンソーの方に、どうしても処理をしなければならない事を思い出しました。直に戻って来ますから」と言ってそっと寝室を出ましたので、侍っている人々も気付きませんでした。

 自室に戻ったヒカルは手早く上着などを着替え、コンスタンだけを馬に乗せて、馬車でアンジェを発ちました。

 

 アンジェからソーミュールを右折してシノンを経て、ロッシュに暁の前に到着しました。屋敷の門を叩かせますと、何気なしに下男が門を開けました。そのまま馬車を邸内に引き入れさせます。コンスタンがよろい戸を揺らしながら、咳をしますと、セリーヌが聞きつけて出て来ました。

「ヒカル殿がここにおいでになっています」とコンスタンが言いますと、「姫君はお寝みになっております。どうしてこんなに夜がまだ深い時にお越しになられたのですか」と、セリーヌはどこからかの朝帰りのついでに立ち寄ったものだと解釈しています。

「父宮邸へ姫君が移られるということなので、その前に一声、お話しをしたいと思いまして」と、馬車から降りたヒカルが言いますと、「どういうお話しでございましょう。ご期待に沿うようなご挨拶はお出来にはなりませんよ」と笑いながら答えます。 

 ヒカルが室内に入ろうとしますので、セリーヌはひどく当惑して、「不恰好な年寄りたちが行儀悪く臥しておりますので」と止めようとします。

「姫君はまだお目覚めではないのですね。私が起こしてさしあげましょう。こんな素敵な朝霧を知らずに寝ていてよいものでしょうか」と言いながら強引に寝室に入って行きますので、誰も「あれあれ」と驚きながらも、制止することができません。

 姫君は何も知らずにに寝入っていましたが、ヒカルが抱いて起こしますと、驚いて「父宮が迎えに来られたのだ」と解釈しています。寝癖で乱れた髪を掻き揚げ、撫で付けたりしながら「さあ、行きましょう。宮様のお使いで私が参りました」という声を聞いて、「父宮ではなかったのだ」と呆れて、恐ろしいように思っているようなので、「いやですね。私も宮様と同じ人間ですよ。魔人などではありませんよ」と若君を抱いて寝室を出ますと、コンスタンもセリーヌも「どうなされます」と啞然とします。

「ここへは始終やって来れないのが心もとないので、『もっと気安い所にお迎えしよう』と言っていたではないか。父宮邸へつれなく移られてしまったら、なおさらのこと、お便りするのも難しくなるからね。誰か一人付いていらっしゃい」と仰せになります。

 セリーヌは気が気でなく、「今日はなりません。宮様がお迎えに来られた際に、何と説明をしたらよいのでしょう。自然と年月を経まして、本当にご一緒になるご縁がありますなら、どのようにもなりましょう。姫君はまだまだ何も分からない年頃ですから、仕える私どもの責任になってしまいます」と説得しようとしますが、「承知している。後から誰かが来ればよい」と答えながら、ヒカルは馬車を寄させて、姫君を抱いたまま馬車に乗り込みました。

 セリーヌたちはあまりのことに「どうされるのでしょう」とうろたえています。若君も「奇妙なこと」と感じて泣きじゃくります。

 セリーヌはヒカルを制止する手立てもないので、仕方なく室内に入り、昨夜縫った若君のドレスを手に取り、自分も着替えをして馬車に乗りました。

 

 シュノンソーはわりに近いので、まだ夜が明けないうちに到着して、西館に馬車を寄せました。ヒカルは姫君を軽々と抱いて馬車から降りました。

「何だか、まだ夢を見ているようです。私はどうしたらよいでしょう」とセリーヌが降りるのをためらっていますと、「それはご自分でお決めなさい。ご本人はお引き取りしたのだから、ロッシュに戻りたいのなら送らせましょう」ときっぱりと言いますので、仕方なくセリーヌも馬車から降りました。あまりに急な変りように胸の動悸が静まりません。

「父宮は何とお責めになることだろう。姫君はどう成り果てて行く運命なのだろう。とにもかくにも、頼みとすべき母や祖母に先立たれてしまったことがひどくお可哀想なこと、と考えると涙が止まりませんが、姫君がヒカルに迎えられた吉日でもあるので、さすがに縁起が悪いと涙を堪えています。

 西館は普段は誰も住んでいませんから、きちんとした閨(ねや)などの準備もありません。ヒカルはコンスタンを呼んで、 衝立や屏風などをしかるべき場所に配置させます。閨を仕切るカーテンを引き下ろし、座敷なども、ちょっとばかり繕えば形がつくようになっていましたので、本館である東館に夜具を取りにやらせて、若君と一緒に寝所に入りました。

 若君はとても恐がって「自分をどうなさるのだろう」と震えておりますが、さすがに声を立てて泣くことはありません。

「私はセリーヌの側で寝たいのです」と言う声が、とても子供っぽく聞えます。

「今はもう、そういう風に乳母の側で寝るものではありませんよ」と教え諭しますと、ひどく困って、泣きながら寝につきました。

 

 セリーヌは寝入ることもできず、ぼう然としたまま起きています。夜が明けて行くにつれて、戸外を見渡しますと、御殿の造り様や室内の飾りつけは言うに及ばない立派さで、庭に敷かれた白砂も玉石を重ねたように見えて、自分も晴れがましい心地になりますが、我が身の貧弱さを顧みると、きまりが悪くなってしまいます。

 西館には侍女たちは侍っておりません。さほど親しくない客人などが訪れた際に、時たま使用するだけなので、下男や番人の男達だけが室外で控えています。

「どなたか、女人をお迎えしたようだ」とうすうす聞きつけた邸内の人たちは、「どなたなのでしょう。並大抵の人ではないだろう」と囁き合っています。

 ヒカルは洗顔や朝食などを西館で済ませます。日が高くなってから起床して、「侍女たちがいないと不便であろうから、夕方になってから、しかるべき人たちをロッシュから召し寄せなさい」とセリーヌに指示をした後、東館の女童を呼びにいかせます。「小さい児だけが来るように」との仰せなので、大層可愛げな四人が西館にやってきました。 

 ヒカルはショールにくるまったままで寝入っていた若君を揺り起こして、「そんなに沈んだ顔はしてはいけませんよ。 いい加減な者であったなら、このように親切にはしませんよ。女性というものは気立てが柔和なのがよいのですよ」などと、もう躾を教え始めています。

 姫君の姿・形は遠目で見ていた時よりもずっと美しく清らかでした。優しく語りかけながら、面白そうな絵や玩具などを東館に取りに行かせて、色々な物を見せて気に入るようなことをして機嫌をとります。ようやく起き上がりましたが、故尼の喪中なので、薄鼠色がやや濃い目で、着古して萎えた服を重ね着しています。無邪気に笑みを浮かべるようになるのがとても美しく、ヒカルもつられてうち笑みながら、姫君を見つめています。

 

 ヒカルが本館に出掛けたので、姫君は寝室から広間に出て、庭の木立や池の方を眺めます。霜枯れの前庭が絵に描いたように面白く、身も知らない黒衣の官位四位や赤衣の五位の男達が入り交じって、忙しそうに出入りしています。「なるほど、面白い所だ」と納得します。屏風や壁に掛けられたタピストリーの絵を見ながら、気を紛らわせているのが愛おしく見えます。

 ヒカルは二、三日、王宮には上がらず、若姫をなつけようと話し相手をします。「そのまま綴じてお手本帳にしましょうね」と言いながら、手習いの文字や絵を様々に書き描いては、お見せになります。非常に立派に書き描きまとめていきます。

(歌)まだ訪れたことはないものの ドルドーニュの野と聞くと 溜息がでてしまうのは そこに紫草が 

   生えているからです

と紫の紙に書いた筆付きがよくできた一枚を姫君が手にとって眺めています。その紙には少し小さい文字で、別の歌が書かれていました。

(歌)根は見えないが ドルドーニュの野の露にまみれる 紫草に ゆかりがある貴女を 可愛いと思います 

   まだ枕を共にして寝てはいませんが

「さあ、貴女も書いてご覧なさい」と催促しますと、「まだ上手くは書けませんの」とヒカルを見上げる顔が何気なく美しいので、思わず微笑んで「上手くないからを言って、さっぱり書かないのはいけませんよ。私が教えて上げましょう」と言いますと、身体をすぼめて書こうとする手つきや筆の持ち方が子供っぽいのですが、ただ一途に可愛いと感じるのが、自分でも不思議に思います。

「書き損なってしまった」と恥かしそうに隠した紙を見てみます。

(歌)あなたは 草のゆかりと おっしゃいましたが 何で可愛がって下さるのか そのわけが分からないから 

   気にかかります 一体私は どんなゆかりがあるのでしょう

と、ごく子供じみていますが、この先の上達が予想できるようにふっくらと書いてあります。亡くなった尼君の筆跡に似ています。「現代風の手本を習わせたなら、もっと上達するだろう」と思います。

 人形遊びでも、わざわざ屋根付きの家を作らせて一緒に遊んだりして、憂さ晴らしをするのにこの上もない相手でした。

 

 ロッシュの屋敷に留まった人たちは、父宮が引き取りに来て、所在を尋ねたものの、答えようがなく、困り果ててしまいます。「しばらくの間は人には知らせるな」とヒカル君が厳命し、セリーヌも同意していますので、固く口止めされていました。

「どこへ行かれたのか、行方を知りません。セリーヌがどこかにお連れしてお隠しされたようです」とだけ、わずかに報告するだけです。父宮は落胆して、「亡くなった尼君も、姫君がヴィルサヴァンに移ることを非常に嫌がっていたから、セリーヌが出過ぎた心配りをして、すんなりと私に渡してしまうのは『都合が悪いから』と面と向っては言わずに、自分の判断でどこかに連れ出して行ったのだろう」と泣く泣く帰って行きました。「もし居所が分ったら、知らせてくれ」と仰せになりますのも、侍女たちには煩わしいことです。

 父宮はル・ピュイの司教へも居所を尋ねてみますが、なしのつぶてでした。今さらながら惜しまれる顔・形などを恋しがり、悲嘆に暮れました。宮の正妻の御方も、姫君の母親を憎いと思っていた感情はもう消えていて、姫君を自分の思い通りに養育しようと楽しみにしていましたので、当てが外れて口惜しがりました。

 

 シュノンソーの西館には、段々と侍女たちが移って来ました。遊び相手の女童や稚児たちは、ロッシュから来た者はヒカルの君、東館から来た者は若紫を珍しそうに見ながら、二人が揃った目新しさもあって、屈託なく一緒になって遊びます。

 若姫はヒカルが外出した夕暮れなどには、故尼君を恋焦がれて泣くこともありましたが、父宮はさほどには思い出しません。元々、父宮にあまり出会うことなく暮すことに馴れていましたので、今はただ、第二の父に睦まじくまとい付いています。

 外出からヒカルが戻ると、真っ先に出迎えて、なつかしげに色々な話をして、ヒカルの懐に抱かれても少しもきまり悪くも恥かしいとも思いません。そういった所はとても可愛らしい仕草なのです。

 相手の女性に小賢しい気持ちがあって、何やかやと面倒な話になってくると、男の方は「自分の気持ちと違う点が出て来たのではないか」と不安を感じるようになり、女も男を恨みがちに見るようになって、自然と意外な揉め事が出て来てしまうものなのですが、若紫はそんな恐れがない遊び相手なのです。

 実の娘でも、もう十一歳になれば、そう心安く振舞ったり、夜も同じ寝室で寝起きすることもできにくいものなのですが、これはまことに風変わりな秘蔵娘である」とヒカルは感じて入っているようです。

 

 

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