その37.横笛         ヒカル 満四十八歳

 

1.柏木の一周忌。朱雀院の心労。カオルの美と夕霧の疑い

 

 権大納言の柏木があっけなく死んだ悲しさを、惜しんでも惜しみ足りずに恋偲ぶ人が多くいました。ヒカルも総じて、世間で人望が高い人物が亡くなるのを惜しむ気持ちを持っていますが、まして柏木は朝夕に親しく出入りする者の中でも、特に目をかけていましたから、例の一件を思い出すことはあるものの、どういうわけか考え深いことが多く、何かにつけて偲んでいて、一周忌のミサでも特別に誦経などをさせました。

 何も知らない顔の若君のあどけない様子を見るにつけても、さすがにたまらなく不憫になって、心の中で追善供養をして銀貨百枚を布施したりしました。事情を知らないアントワンは恐縮しながら喜んで、お礼を言上しました。

 夕霧大将も色々な形で多くの供養をしました。ミサなどの世話を取り仕切って、手厚く務めあげました。あのル・リヴォ城の落葉上に対しても、故人を偲ぶ思いが深いことから見舞ったりしました。柏木の弟たちよりも勝る志に対して、「こうまでしてくれるとは思いも寄らなかった」と柏木の両親は喜んでいました。世間の人望が死後も高いのを見て、両親はただもう残念で惜しいことだ、といつまでも思い焦がれていました。

 

 修道院に住む朱雀院は第二王女がこうした具合に体裁の悪い境遇となって、所在なさげにしているし、第三王女の山桜上も世俗の世界と縁遠くなってしまったことから、あれこれ物足りない思いでいたものの、「俗世間のことに煩わされることはない」と堪えていました。修道をしている間でも「第三王女は私と同じ道を励んでいることであろう」と思いやって、山桜上が修道女になってからは、ちょっとしたことにつけても絶えず便りを送るようになっていました。

「ロヨーモン修道院近くの畑から引き抜いたアスパラガスや近辺の山林から採った山菜などは、いかにもイール・ド・フランス北部産らしい風情があるから送ってみる」といった情愛細やかな文面の端に、「春の野山は霞がかって心もとないものだが、深い心をこめて掘り出させたものをしるしばかりに送ります。

(歌)世俗と別れて入って行った道は 私より遅くとも 同じ所をめざしてください

「修道の道は難しいものですよ」と書いてあるのを、山桜上が涙ぐんで読んでいると、ヒカルが訪れて来ました。

 

「いつもと違って、手元近くに封書が置いてある。さて何だろう」とヒカルが封書を取ってみると、朱雀院からの手紙でした。読んでみると、とてもしみじみした文面でした。「私の命も今日か明日かといった心地がするものの、対面できるのもままならない」などと細やかに書いてありました。

 この「同じ所」に連れ添って、という言葉は取り立ててどうということもない聖職者らしい言葉遣いですが、「確かに朱雀院はそう感じているのであろう。私までが疎略な扱いをしているように見せてしまったので、ますます気掛かりな思いが増しているのだとすると、まことに申し訳ないことだ」とヒカルは思いました。

 

 山桜上は丁寧に返信を書いて、使いの者には青鈍色の綾一揃いを賜りました。書き損じた紙が内カーテンの端からちらっと見えたので、ヒカルが取ってみると、頼りなさげな筆跡でした。

(歌)憂いに満ちた浮世とは 違う場所に住みたくて 山奥の修道院を思いやっております

「貴女のことを心配されている様子なのに、この『違う場所』を求めているというのは、嫌味があって不快にさせてしまいますよ」とヒカルが話しますが、山桜上は今はヒカルの顔をまともに合わせることはありません。大層美しい可愛らしい額の髪や目鼻立ちの美しさが、まるで子供のように見えて、たとえようもなくいじらしく見えるにつけても、「なぜ、こんな修道女の姿になってしまったのか」と罪悪感をこうむってしまいそうな魅惑を感じるので、内カーテンを隔ててはいるものの、そうひどく離れてうとうとしくはならないように、ほどよい相手をしました。

 

 若君は乳母のところで寝ていましたが、起きて這い出して来て、ヒカルの袖を引っ張ってまとわりつく様子がとても可愛く見えます。白い薄めの下着の上に着た、イタリア製の小さな模様を散らした紅梅色の服の裾をとても長く引きずり、無造作に服を背中の方に押しやって、胸をはだけている恰好は幼児にはよくあることですが、大層愛らしくすんなりとして、柳を削り取ったように見えます。頭髪はつゆ草の汁で特別に染め上げたように、つやつやした印象を与え、口つきは美しい赤みを帯び、目元は穏やかで立派な薫りをたたえているなど、やはり亡き柏木の面影が偲ばれます。

それでも柏木はこの児のように一際抜きん出た清らかさはなかったので、一体どうしたことなのでしょう。母親の山桜上にも似ていませんし、今のうちから気品があり、堂々としている点は常人と違う気配があって、ヒカルは「鏡に映る自分の顔と似ていないこともない」と感じたりもしました。

 

 若君は何とか立ち上がってよちよち歩きをし出すようになりました。何が入っているのか分からないままに、アスパラガスを盛った包みに近寄って、包みを開けてアスパラガスを掻き散らしたり、口に入れてから投げ出したりするので、ヒカルは「ああ、何て無作法な。行儀が悪い子だ。すぐに片付けなさい。口が悪い侍女が『食い物にすぐに眼をつけてしまう』と言い触らしてしまうからね」と言って笑いました。

 ヒカルは若君を抱き上げて、「君の目つきには、ただならない気配があるね。小さい子をあまり多くは見ていないせいか、このくらいの時分はただあどけないだけだと思っていたが、今のうちからひどく様子が違っているのは気になるところだ。この城には王女も住んでいるのだから、このまま大きくなっていくと、誰にとっても面倒なことが起きてしまうかもしれない。残念なことにこういった子供たちが成長していく先まで見届けることができるだろうか。

(歌)花の盛りに巡り逢えるのは 自分の寿命次第なのだ

といった気持ちになってしまう」と若君を見守りながら話しかけたので、「何とまあ、縁起でもないことをおっしゃいます」と侍女たちが言い返しました。

 

歯が生えかける頃なので、若君は食いちぎろうとアスパラガスをぎゅっと握りしめて、よだれを垂らしながらむさぼっているのを見て、ヒカルは「何てひねくれた色男なのだろう」

(歌)あの不快な事件は 忘れられないが この子は可愛くて捨て難い

と、アスパラガスを引き離しながら話しかけましたが、若君には何のことか理解もできず、ただにこにこ笑いながらヒカルの膝から下りて、動き出しました。月日が経っていくうちにつれて、この若君が美しく気味悪いまでにすくすく育っていけば、あんな嫌な事件など、すべて忘れ去ってしまいそうでした。

「こういった愛すべき子が生まれて来る宿命があったから、ああいった思いがけない事件が起きたのだろうか。柏木にとっても山桜上にとっても、逃れられない約束事だったのだろう」とヒカルは思い直しました。自分自身の運命にも、やはり不満な点が多くありました。関わった数多くの婦人たちの中でも、山桜上は素性に不十分な点はなく、人柄も物足りないところもなく過ごしていたのに、思いがけなくこんな修道女姿を見るようになってしまったことを考えるにつけても、過去に柏木と犯した罪が許しがたく、今なお無念な思いでいました。

 

 

2.夕霧の落葉上訪問と合奏。柏木遺愛の横笛

 

 夕霧大将は、柏木が臨終の間際に言い残した一言をひとり胸の中で思い出しては、「どういったことがあったのか」となんとか尋ねてみたく、父の様子を窺ってはいるのですが、うすうす推察していることもありますから、かえって先走って尋ねてしまうのも具合が悪く、「どういった機会に詳しい経緯を聞かせてもらい、こちらからも柏木が苦悶していた様子も伝えたい」と常に思っていました。

 

 物寂しい秋の夕暮れに、夕霧大将は落葉上を思いやって、ル・リヴォ城を訪れました。くつろいだもの静かな中で、ハープなどを弾いていたようです。迎えた側はきちんと片付ける余裕もないので、南の控えの間に夕霧を案内しました。端の方にいた侍女たちがそっと奥の方に入っていく気配がはっきりと分かり、侍女たちの衣ずれの音と辺りに漂う香の匂いも薫り高く、心憎い気分になりました。

 いつものように、ル・リヴォ夫人が相手になって、柏木の生前の話などを語り合いました。自邸のアゼイ・ル・リドー城は明け暮れ人の出入りが繁く物騒がしく、まだ幼い子供たちががやがや集まっているのに馴れている夕霧にとっては、静かすぎてしんみりとしてしまいました。

 

 ル・リヴォ城は以前よりも荒れた感じがしますが、上品に気高く暮らしていて、前庭の花々が、小鳥の音がざわめく野辺のように咲き乱れている夕映えを夕霧は見渡しました。脇に置いてあったハープを引き寄せて、高い音調の律音に調整してみると、とてもよく弾きこまれていて、人の移り香が染み込んでいるので、心が惹かれる感じがしました。

「こうした場所に居合わせて慎みもなく振る舞える好色な男なら、自制も出来ずに見苦しい素振りを見せて、あってはならない浮名を立ててしまうものだ」を思い続けながら、夕霧はハープを搔き鳴らしましたが、このハープは柏木がいつも弾いていたものでした。風情がある曲の面白い一節を少し弾いてから、「なつかしいことですが、あの人はめったにない素晴らしい音色で搔き鳴らしていましたね。その音色がこのハープにも籠っているのでしょう。落葉上に一曲聴かせていただいて、それを確かめてみたいものです」と夕霧は願い出ました。

 

「夫が亡くなった後は、昔の小さい頃に習ったものですら、思い出せないようになっています。朱雀院の面前で王女たちがそれぞれハープを披露した折りにも、『第二王女は音楽の分野では気にかかってしまう才能がある』と評されたほどでしたが、今では別人のようにぼんやり過ごしているだけで、(歌)荒涼とした茅原の小笹のように 世の中から浮いてしまった妻だと 思い乱れている のような様子でおります」と夫人がこぼしました。

「落葉上のお気持ちは紛れもない亡き夫への思いやりでしょう。(歌)恋しいことにも限りがある世の中だから 年がたっていくにつれ 物思いもしなくなっていく といった歌もありますから」とため息をついて夕霧がハープを脇に寄せますと、夫人が「そのハープに亡き人の音色が籠っている、とおっしゃるなら、その音色を私どもも聞き分けることができるように、ハープを掻き鳴らせてください。うっとうしく沈み込んでいる私たちの耳だけでも、晴れ晴れとさせてください」と夫人は促しました。

「それよりも夫と妻の絆の緒にこそ、格別な音色が籠っているはずです。それをこそ是非とも披露していただければ」と言って、夕霧はハープをカーテンの近くに寄せましたが、落葉上がすぐさま承諾するはずもありませんので、夕霧は強いて請うことはしないでいました。

 

 月が上がって曇りのない空に、雌雄の雁が互いの翼をうち交わして寄り添いながらも、列から離れずに飛んでいく声を落葉上も羨ましく聞いていたのでしょう、風が肌寒いもの悲しさに誘われて、チェンバロを大層ほのかに弾き鳴らしました。奥深い音色でしたから、夕霧は一層心が引かれて、ますます落葉上への思いが募ったので、リュートを借りて、とてもなつかしげのある音色で「夫への恋想い」を弾き始めました。

「胸中を推察しているようで恐縮ですが、一緒に合奏していただければ」とカーテンの内にいる落葉上にしきりに催促しますが、落葉上はまして合奏をするなど気が引けて、ただしみじみとした思いにふけっていました。

(歌)言葉に出しておっしゃらないのは おっしゃる以上に 深いお気持ちなのだと 

   その慎み深い態度から よき理解できます

と夕霧が詠むと、「夫への恋想い」の終りの部分を少しばかり弾きました。

(歌)貴方が深い夜に弾かれる 曲の悲しみは 私にも分かりますが ハープの他の楽器では 

   何も申し上げることはできません

 

チェンバロは満ち足りないと感じるほどおっとりした音柄ですが、柏木と契りを交わした落葉上が心をこめて弾き伝えると、同じ調べと言っても悲しさの凄みが籠っていますが、一部分を弾き鳴らして止めてしまったので、夕霧は恨めしい思いになりました。

「私の色好みな気持ちを何やかやと弾き散らしてお見せしてしまいました。秋の夜が更けてまで居座ってしまうと、故人が咎めることもありましょうから、今夜はこのあたりでお暇をさせていただきます。また改めて気持ちを入れ替えて伺いますので、ハープなどの調子を変えずに待っていてください。気持ちが変って弾き違えてしまうこともある世の中なので、気掛かりです」などと、直接にではありませんが、落葉上への思いを匂わせてから、立ち去ろうとしました。

 

「今宵の貴方の色好みな風雅を故人もきっと許されることでしょう。とりとめもない昔話に紛らわせて、

(歌)糸で紐を編むように あちらこちらに気持ちを動かされたとしても 

   貴方に逢うことができなければ 何を生き甲斐にすべきでしょうか

といった気持ちもして、残り多いことです」と言いながら、ル・リヴォ夫人は贈物に横笛を添えて差し出しました。

「この横笛には本当に由緒がある、と伝えられています。こういった蓬や雑草が生い茂った邸に埋もれているのはもったいない物です。前駆の者の声と張り合いながら吹いていただいて、遠くからお聞きしたいものです」と伝えました。

「私には立派過ぎて似つかわしくないお伴ですが」と夕霧が返答して手に取ってみると、まさに柏木が生涯、肌身離さず愛用していたものでした。柏木自身、「自分でもこの笛の本当の音色を出すことはできないが、大事にしてくれる人に伝えたいものだ」と常々公言していたことを思い出したので、柏木が遺したハープよりも一段と哀れみが増して、試しに吹き鳴らしてみました。

 

 十二律の第十音を主音にして半ばまで吹いた後、「故人を偲んでハープを独りで弾いた罪をともかく許してくださいましたが、その上にこの横笛とは晴れがましい限りです」と礼を述べて、城を去ろうとするとル・リヴォ夫人が詠みました。

(歌)涙の露にまみれた こんな雑草の邸に 柏木が在世当時の秋と変らない 

   小鳥の声をいただきたいものです

 すぐに夕霧が返歌を詠みました。

(歌)横笛の音色は 特に昔と変わりはありませんが 故人を悼む私の音は 

   尽きることはありません

 夕霧は去り難くなって、ためらっているうちに夜が大層更けて行きました。

 

 

 

           著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata