その26.常夏          (ヒカル35歳)

 

1.内大臣の息子たちの来訪、ジェノヴァのヒヤシンス君の噂

 

 非常に暑い日、ヒカルは大池に面する東のテラスへ行って涼んでいました。息子の中将も従っています。親しくしている王宮人の多くも追従していて、ロワール川の川かます(Brochet)や支流で捕れたパーチ(Perche)といったものを目の前で調理しています。例のように内大臣の息子たちが中将の居場所を捜し出して合流しました。

「何となく退屈して眠たくもあったので、皆、よい時に来てくれた」と言いながら、ヒカルは白ワインを酌み交わします。冷水を取り寄せて皆は思い思いに冷たいスープなどを賑やかに味わいます。風はとてもよく吹き通し、陽ものどかです。曇りもない空に西日が傾く頃になっても、小鳥の声などもひどく暑苦しく聞えます。

 

「今日のこの暑さでは水辺にいても何の役にも立たない。不作法だが許してもらうよ」とヒカルは横になりました。

「こんなに暑いと管弦の遊びなどにも興がわかないから、どうやって時間を過したらよいか困ってしまう。王宮勤めをする若い者たちもこの暑さに堪え難い思いだろう。王宮ではプルポワン(上着)を脱ぐことができないからね。せめてここではゆっくりつつろいで、近頃の世間の出来事で、少し珍しい眠気がさめるような話を聞かせてくれないか。何となく年寄りじみてきた心地がして、世間のことも疎くなって来ているからね」などと話しますが、南フランスのプロヴァンス地方を窺っている神聖ローマ帝国軍の動向を除くと、珍しいこととして耳に入れる話題もないので、皆、恐縮したように欄干に背中を押し付けながら黙り込んでいます。

 

「どこから聞き出したのかは分からないが、最近、内大臣がイタリア辺りで生ませた娘を尋ね出して、世話をしている、という噂をしている者がいるが、その話は本当なのかね」と内大臣の次男の弁少将ロランに問いました。

「仰々しく話すことでもありませんが、先月、父上が夢占いをさせた話を公けにしたのですが、それを伝え聞いた娘が『私こそ、聞いていただくべき仔細があります』と名乗り出ました。兄のアンジェの中将がそれを聞きつけて、『本当にそうなのなら、確かな証拠があるのか』と調査をしたようです。ですが、私は詳しいことは知りません。実際、このところ世間の語り草になって取り沙汰されていますが、自然と一族の不名誉なことになってしまうようです」とロランは口ごもってしまいました。

 

 内大臣アントワンの落とし児と頼って来た「ヒヤシンス」と呼ばれる娘は、十八年前のパリでの「紅葉の宴」の後、ジェノヴァの反乱鎮圧でフランス軍に加わったアントワンがジェノヴァ駐留中に恋仲になった女性が生んだ娘でした。その女性の父は東方正教会のキリスト教徒でしたが、古くからヴェネツィア共和国と対立してきたジェノヴァ共和国駐在のオスマントルコ帝国大使を務めてしました。母親は父に従ってジェノヴァだけでなく、イスタンブールなど各地を点々としましたが、ヒヤシンスの幼い頃から家庭教師をつけてフランス語を学ばせていました。ヒヤシンスが十四歳を過ぎた頃から、あまたのイスラム教徒が求婚して来ましたが、母親はかたくなに拒み続け、「自分の死後は、父のアントワンを頼っていくように」と言い残して病死していました。ヒヤシンスという名の由来はオスマン・トルコ帝国の代表的な花であるヒヤシンスの球根を土産としてどっさり携えてロワールにやって来たからでした。

 

「やはり本当のことだったのだな」と確認したヒカルは、「内大臣は大勢の子供たちがいるのに、その列から遅れた雁まで強いて捜し出す、というのは欲張りですな。私の方こそ、子供の数が少ないのだから、そうした由縁がある者を捜し出してみたいものだが、名乗り出るのが億劫だと考えているのか、ついぞそんな話を受けたことがない。それにしても、その娘の話は根拠がないことではないだろう。若い頃の内大臣はだらしのない忍び歩きをしていたからね。底が清くはない水に宿る月影が曇らないわけはない」と言いながら一笑しました。

 息子の中将はすでにその娘の事情を詳しく聞いていたのでしょう、さりげなく聞き流しています。ロランと三男の藤の侍従フェリックス(Félixは「ひどく人聞きが悪いことだ」と思っていました。

 

「息子さんよ。そうした落葉を拾ってみたらどうだろう。外聞が悪い評判を後世に残すより、お前の思い人と同じ姉妹で慰めるとしても、何の悪いことがあろうか」と息子をからかいます。

 ヒカルとアントワンは上辺はとても仲が良いように見えますが、こういった恋愛ごとでは昔から何かと隙間風が吹いたりします。まして自分の息子をひどく恥かしい目に合わせて困らせた辛さに立腹していますので、「こちらが内大臣を憎んでいることを漏れ聞いてくれるなら」と期待していました。

 アントワンがその娘を引き取った話を聞くにつけても、「玉鬘をアントワンに見せたなら、間違いなく軽くは扱ってはならない者として大事にするだろうか。アントワンは物の判断が大胆で、価値があるか否かをすぐに見極めてしまう人物である。善し悪しがはっきりしていて、褒めちぎるか貶しすぎるかの点で、人とは違っているので、玉鬘に逢わせたらどんな反応を示すだろう」と考えたりします。事前に知らせないまま、玉鬘を不意に差し出したとしても、軽んじることはないだろうが、それまではしっかり養育しておこう」などと思っています。

 

 日が暮れ出す夕刻に吹く風がとても涼しいので、若い人々は帰りづらい様子です。

「皆、気楽にくつろいで涼んでいきなさい。そろそろ私も若い人たちに入ると厭われてしまう歳になってしまった」と言いながら、夏の町の西の対に行こうとすると、若い連中も皆、ヒカルに付いて来ました。黄昏時で辺りがほの暗いので、皆、王宮用の同じプルポワンを着ているため、誰か誰とも見分けがつきません。

 

 ヒカルは玉鬘に「少し、外の方に出ていらっしゃい」と声をかけて、小声で「内大臣の息子のロランやフェリックスたちを連れて来ましたよ。貴女に逢いたくて、とても飛んで来たそうにしているのに、息子の中将がひどく真面目一方な性格なので、連れてこようとしなかったのは思いやりに欠けますね。私に付いて来た連中は皆、貴女への恋心がなくはないようですよ。つまらない身分の娘でも、親の家にいるうちは、身のほど相応に好奇心を持たれるものです。この邸の評判は、内幕がごたごたしている割に、実質以上に花やかだ、と買いかぶっているようです。

 この城には色々な女性たちが住んでいますが、好意を抱いて言い寄ると言うのはさすがに不似合いです。でも貴女という人がいますからね。こういった若者たちの志しの深さや浅さを何とか見てみたいものだ、などと徒然の心寂しい気持ちの折りなどに願っていたのですが、ようやくその望みが叶う気がします」などとひそひそと囁きました。

 

 前庭の花は雑多な草花を乱雑に入り混ぜるのではなく、美しい色合いの地中海種や北フランス種の撫子を揃えて、木片を低く目が粗く結んで垣根にして廻らせています。夕映えの中に咲き乱れる有り様はたとえようもなく美しく見えます。若者たちは皆、垣根に立ち止まりますが、思いのままに折り取ることができないまま、飽きもせずに佇んでいます。

「中々、教養がある人たちですね。心遣いなどもそろぞれに感じが良い。まして長男のアンジェの右中将は少し落ち着きがあって、奥床しさで勝っているように見えます。どうですか、あの人から便りがありますか。あまりぞんざいに扱わない方が良いですよ」などと玉鬘に話しました。

 

 こうした立派な貴公子たちの中にいても、息子の中将の君は勝れて美しく、みやびやかに見えます。

「内大臣が息子の中将を嫌っているのは納得できない。混じりけがない純粋なアンジュ公国の中に王族の血筋が混じり込むのは見苦しい、ということなのかな」とヒカルが言いますと、玉鬘は「流行り歌『我が家』では我が家は 見事な掛け物を飾り立てている 大君さまも婿さまもお越しください 酒の肴は何といたしましょうと歌って、婿を歓迎しているではありませんか」と口を挟みました。

「いや、その歌にある酒の肴は何といたしましょうのように息子をもてなして欲しい、と願っているわけではない。ただ幼い同士が契り合った胸の思いが晴れてもいないのに、幾年も二人の仲を隔ててしまう魂胆が恨めしいのだ。まだ身分が低いから、世間の外聞が悪いからと考えているのなら、知らぬ顔で私に任せてくれたら悪いようにはしないのに」と玉鬘の前でこぼします。

 それを聞いた玉鬘は「そうなのか。太政大臣と内大臣は内心では確執し合っている間柄なのだ」と感じとって、「こういうことだったら、父に会うことがいつのことになるやら」と悲しくなりました。

 

 

2.帝国軍のプロヴァンス地方侵入。ヒカル、玉鬘へのヴィエル(Viell。ハーディガーディHurdy   Gurdy)教授と煩悶

 

 七月七日、懸念していた事態が現実になってしまいました。神聖ローマ帝国側に寝返ったシャルル・ブルボン元帥が帝国軍を率いてプロヴァンス地方に侵入し、ローヌ川を目指して一気に西下しています。アンボワーズ王城では冷泉王を囲んだ緊急会議が繰り返されますが、当然、太政大臣と内大臣も対抗策に忙殺されました。

 

 フランス軍の立て直しと対抗案がまとまり、一区切りがついた晩、ヒカルは気分転換をしようと、玉鬘を訪れました。

 月も出ない頃なので、燈籠を灯させましたが、「なんだか灯火が近過ぎて暑苦しい」と人を呼んで、「篝火を一台、ここへ」と命じました。良さそうなヴィエル(Viell。ハーディガーディ)があったので、引き寄せて弾き鳴らしてみると、十二音のうちの奇数音で調律されていて、音色もよく響きますので、少し弾いてみました。

「こういった楽器演奏にはあまり関心がないのか、と常日頃、見下していましたよ。秋の月の光りが涼しい頃に、部屋の奥に引き籠らずに夜鳥に合わせて弾き合わせるのにヴィエルは親しみがあって花やかな楽器です。別段、仰々しい調子もなく気楽に弾けますが、何と言ってもそのままで他の多くの楽器の音や拍子とうまく合わせることができる、非常に賢い楽器です。フランス式ヴィエルという名は大したこともない印象を与えますが、実際は無限とも言える深みを与えます。諸外国の楽器を広くは知らない女性向きに作られたのだ、と思います。

 同じ習うなら身を入れて、他の楽器と掻き合わせをしながら習得しなさい。さしたる奥義といったものはありませんが、逆に本当に弾きこなすことは難しいものです。今時なら、内大臣に肩を並べる人はいないでしょう。それでも誰が弾いても、ほんのちょっとした弾きならし奏法の音色でも、あらゆる楽器の音色が籠もっていて、言いようもなく響き渡りますよ」と説明しました。

 

 玉鬘は以前、父の内大臣がフランス式ヴィエルの名手であることをちらっと耳にしたことがあり、「何とかして父の演奏を聞けないものか」と思っていたので、ヒカルの話が気になりました。

「この辺りで何かの管弦の遊びがあるのでしたら、是非、内大臣の音色を聞かせていただけますなら。フランス式ヴィエルは片田舎に住む者でも習っている者が大勢いますので、普通に誰もが弾けるものと思っていましたが、そうなると上手な人が弾く音色は格別なのでしょうね」と、父親の演奏を聴いてみたい気もあるせいなのか、熱心に尋ねました。

 

「そうだね。ゴロワ(Gaulois)・ヴィエルという通称は低俗なように聞えるが、王宮での遊園でも、真っ先にゴロワ・ヴィエルの弾き手が呼ばれるのは、他の国については知らないが、我が国ではゴロワ・ヴィエルを楽器の祖の一つとして見なしているからでしょう。ですから第一人者と見なされる貴女の父上から直接習うことになったら、格別ですね。でも、父上が何かの折りにこの城にくることはあるものの、秘手を惜しまずゴロワ・ヴィエルを隠さずに弾き鳴らすことを期待するのは難しいでしょうね。なぜなら、物の名手はいずれの道でもそう安々と手の内をすべて披露しようとはしませんから。とは言っても、いずれ父上の演奏を聴くことができるでしょう」と言いながら、少し調べを奏でますが、類もない上手さで花やかな興趣がありました。

 

「父上はこれよりも勝る音色を奏でるのだろうか」と父への恋しさが一塩加わって、玉鬘はますます「いつになったら、父上がくつろいで弾くのを聴くことができるだろう」と思いをはせました。

 ヒカルは

(歌)セーヌ川の瀬のせせらぎを聞きながら 柔らかな手枕をして 貴女と寝る夜などはありません

   貴女の父は立派な人なのだから

と流行り歌をなつかしげに歌いましたが、曲中の「父は立派な人」の箇所では少し笑いながら、何気なく弾き鳴らす音色が言いようもなく面白く聞えます。

 

「さあ、弾いてみなさい。芸事は人前を恥かしがっていてはいけません。ただイタリアの楽曲『夫への恋想い』だけはきまりが悪くて、心の内に秘めて弾かないようにする人もいます。その他の曲は何によらず恥かしがらずに合奏するのが良いのです」と熱心に合奏を勧めますが、モンペリエの片田舎で、都生れの王族出身を名乗る年老いた女性に習った程度でしたから、「誤りもあろう」ときまりが悪く、手を触れようとはしません。

 

「もうしばらく弾き続けてくれたら、聞き覚えることもできるかもしれない」と落ち着かないまま、「もっと聴いておきたい」とただ願うばかりに、ヒカルの近くにすり寄ってしまいました。

「どういう風が吹き添うと、これほど響き渡るのでしょうか」と首をかしげる姿が大層美しげに火影に浮かび上がりました。

「私の思いを真剣に聞いてくれない人には、身に沁みる風も吹き添うものですよ」とヒカルは笑いながら、演奏を止めてしまいましたので、玉鬘は「また言い寄って来られるのか」と不愉快な思いをしました。

 

 侍女たちが近くに侍っていますので、さすがにヒカルはいつもの戯れごとを言い出すことはなく、「あの若者たちは撫子を充分に鑑賞することもできずに立ち去ってしまったね。何とか内大臣にもこの花園を見せたいものだ。人の命はいつまでも続かない無常な世の中だから、すぐにでも実行しなければいけない。内大臣がその昔、何かのついでに貴女のことを話し出されたことがあるのが、まるで今のことのような気がする」と少しばかり話して去って行きますが、切なそうでした。

(歌)撫子のように いつも美しい貴女を見ると 内大臣も貴女の母を尋ねてみたくなるでしょう

「そうなると、貴女の母上と私の関わりの説明が面倒になるので、心苦しくも貴女をここに引き籠りさせざるをえないのです」と話しますと、

(返歌)山里の垣根に囲まれた 家に生まれた撫子の その母を誰が尋ねて来るものでしょう

と、玉鬘が涙を浮かべながら、心細げに答える様子が本当に優しげで若々しい。

 

 その返歌を聞いたヒカルは思わず、流行り歌「来ることがなかったら」を誦して、玉鬘への募る思いで一層苦しくなって、抑え難い衝動を覚えました。玉鬘の許に通うことがあまりに度重なると、人目について咎められてしまいますので、心を鬼にして間隔を置きますが、しかるべき用件をこしらえては手紙を絶やすことはありません。プロヴァンス地方に侵入した帝国軍対策に向けた、度重なる会議の間も含めて、明け暮れ、玉鬘のことだけが気になっています。

「どうしてこんな不相応な恋をして、心の休まらな物思いをしてしまうのだろう。煩悶などせずに、心の赴くままに行動してしまうと、世間の人からの非難はまぬかれないだろう。自分が軽薄さのそしりを受けてしまうのは仕方がないとしても、相手にとっては気の毒なことになる。玉鬘に限りない愛情がある、と言っても、紫の上に対する思いと並立させることは、自分自身、ありえないことと自覚している。

 そうなるとその他の夫人たちと同列に扱うことになるが、どれほどの見栄えがするであろうか。自分一人が人より格別な存在であったとしても、他の夫人たちの末席に置いたとしたら、何の名誉にもならないし、あまりぱっとしない官位三位の納言くらいの身分の唯一の夫人となるよりも劣ってしまうことになるのは自分でもよく分かるし、気の毒だ。いっそのこと蛍兵部卿かヒゲ黒大将にでも許してしまおうか。そちらに迎えられて、私の側から離れていけば、玉鬘への恋心も諦めがつくだろう」と消極的な考えですが、「そうした方が良いかな」と思う折りもありました。

 

 とは言うものの、玉鬘の住まいを訪れてその姿を見ると、ことにこの頃ではヴィエルを教えることを口実にして、近くに寄って馴れなれしくしています。玉鬘も始めのうちは「薄気味悪く、疎ましい」と感じていましたが、次第に「そうは言っても、応対が穏やかで、やましい気持ちはないようだ」と段々と慣れて来て、さしてよそよそしくしなくなっています。あまり打ち解けすぎない程度で、しかるべき返答も取り交わしていきますので、知らず知らずのうちに愛想よく、色香も勝っていき、ヒカルはなおのこと、「このままで見過ごすことはできない」と思い直しています。

「それなら、ここに住まわせたままで婿を迎えて、世話を焼いたらどうだろうか。何かの折りにでも、こっそりと忍び合いをして、対話をするのを慰みにしてみようか。まだ男を知らない処女であることが煩わしく、心苦しいことではあるが、自然と夫が見る眼が厳しくとも、相手もこちらの心を承知して、夫に対する申し訳なさがないのなら、周りの眼がうるさくとも熱心に言い寄って行くことを邪魔されることもあるまい。

 

(歌)アヴァロワール山(Mont des Avaloirs)が 端山・茂山と繁っていても 人は山中へ踏み入って行く 

   人目はうるさいけれど だからと言って 恋へ踏み入れることに 障害となりはしないのだ

と歌にも詠まれているし」と思いついたりしますが、何ともけしからぬ考えです。

 そうなってしまうと、ますます心を鎮めることができずに、思いが募って苦しくなってしまうでしょう。あれやこれやと、いい加減に思い諦めることができない、世にも珍しい面倒な間柄となっています。

 

 

                著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata