巻1 藤と紫

 

その6.末摘花       (ヒカル 17歳~18歳) 

 

1.ヒカル・ゲンジ、十六夜にムーランの姫宮のハープを聞く

 

 何度ともなく考えても、今もなお心残りな夕顔がはかなかい露のようにに先立ってしまった無念を、死後四か月あまりが過ぎても、忘れ去ることができません。

 左大臣邸の御方やメイヤン夫人の両人とも、自意識が強すぎて、気色ばって他の女性の存在を許さない堅苦しさがありますので、夕顔の気楽で親しみやすかった情愛に似るものがなく、夕顔を恋しく追慕しています。

「どうにかして、重々しい身分の女性ではなく、とても可憐な人柄で、気兼ねをしなくてすむような人を見つけてみたいものだ」と懲りもせずに思い続けています。

 

 少しでも由緒や魅力があると聞えてくる女性については漏れなく耳に留めて、「もしかしたら」と思い寄ることができそうな気配がある辺りへは、手短な手紙を送ってほのめかしてみます。その誘いになびかず、無視するような者はあまりいそうもないというのも、まったく目新しさがありません。そうかと言って、無愛想で気が強い女性はたとえようもなく情愛が薄く温か味にも欠け、あまりに身の程を弁えないようでいながら、それを押し通すことができずに、つまるところはつまらぬ男と身を固めてしまうこともありますので、話をかけたまま中途になっている女性も多くありました。

 

 折々には、あの空蝉を妬ましく思い出します。義理の娘である軒端の荻へも、差支えがない程度の手紙を送って驚かせてしまうこともあったようです。ポンセ(Poncé sur Le Loir)の邸の火影の下でチェッカー(西洋碁)の盤を挟んで笑いはじけていた軒端の荻の姿を、あのままでもう一度見てみたい気もします。大概において、ヒカルの君は一度でも関係を持った女性を忘れ捨ててしまうことはありませんでした。

 

 ヴィエルゾン(Vierzon)の乳母といって、コンスタンの母ヴァンドーム(Vendôme)の乳母に次いで、大事に思っている人の娘で「大輔(たゆう)の女官」と呼ばれるエディットいう者が王宮勤めをしていました。父は王族の血筋を引く、官位五位の兵部の大輔でした。ひどく色好みの若い女官でしたが、ヒカルが召し使う時もありました。母は今はラ・ロシェル(La Rochelle)の知事の妻となっていて、現地に下っていましたので、父親の邸を実家として王宮に通っていました。

 

 桐壺汪の父王の腹違いの弟である故コンピエーニュ(Compiègne)親王が晩年にもうけて、甘やかすほど可愛がっていた末娘が、父宮がこの世を去った後、一人残されて心細く暮らしている、という話を何かのついでにエディットがヒカルに語りますと、「気の毒なことだ」と気に留めて、その人となりを尋ねます。

 

「心ばえや容貌とか、詳しくは存じません。内気で、人見知りをされる御方ですけど、どうかした宵などに、衝立越しに語り合うことはあります。ハープを一番の友にされているようです」と話しますと、「ハープと詩と酒は『三つの友』と昔の詩人も歌っている。女性だから酒だけは『友』としてもらっては困るが」と冗談を言いつつ、「一度、そのハープを私に聞かせてくれないか。父のコンピエーニュ宮はその方面での造詣が深かった、と聞いているから、娘の姫宮も普通のお手並みではないだろう」と催促します。

「さして、お聞きになるほどのことはありませんでしょう」と話題を変えようとすると、「ひどくもったいぶるではないか。この頃の、月がほのかに霞んでいる朧月の晩に、そっと聞いてみることにしよう。お前もその邸に退っていてくれ」と熱を入れてきます。

 

「面倒なことになってしまった」とエディットは戸惑いましたが、王宮がわりにのんびりしている晩冬でしたので、エディットはムーラン(Moulins)の姫君の邸に下がって行きました。

 父親の兵部の大輔はコンピエーニュ親王が健在だった頃から、執事を担当していました。邸内には住み込まずに、時々、事務処理をしに通っていました。エディットは父の邸を里としながらも、継母と折り合いが悪い事から、ムーランはアンボワーズから距離が離れているものの、邸内にある離れを息抜の場所に使っていました。

 

 昨夜の満月よりも少し遅れて、ためらいがちに出て来た十六夜の月がアリエール(Alliers)川の流れを照らす風情を楽しみながら、ヒカルはムーラン(Moulins)の街に入りました。

 ロワール川の支流であるアリエール川の河畔にあるムーランは十四世紀以来、フランス王家から分派したブルボン公国の首都でした。ブルボン公国は北部はオイル語系、南部はオック語系を話す、北部フランスと南部フランスの境をなす立地でしたが、フランス王国に付随しながらも、ある程度の自治権を保有していました。

 

 公国の主であるムーラン公の母がブルゴーニュ公家の公女の出自であったこともあって、北のルネサンスと称されるフランドル地方の美術や音楽が早くから紹介され、フランドル出身の画家「ムーランの先生」が活躍していました。

 ムーラン公の正后が桐壺王の姉であったことから、ムーラン公夫妻は桐壺王が一人前に育つまで約十二年間ほど、アンボワーズの王宮で摂政役を担っていましたが、桐壺王の第一次イタリア遠征の後は役割を終えて本拠のムーランに戻りました。夫妻はフランドル文化に加えて、イタリアの最新文化も導入したことから、小公国の首都ではあるものの、北と南のルネサンス文化が花を咲かせていました。

 

 ヒカルはエディットがいる邸の離れを訪ねましたが、エディットは「困ってしまいましたね。物の音が澄み冴える夜のようではありませんから」と躊躇します。

「まあ、それも仕方ない。邸の内に入って、ほんの一声でも弾き歌いされるように勧めてくれ。空しく帰るのはつまらないから」と望みますので、取り散らかした離れに貴人を待たせて出て行くのは「後ろめたく、かたじけない」と気になりながら、邸内に入ります。

 

 姫君はよろい戸をまだ閉めないままで、梅の花が匂う庭を眺めながら、ぼんやりしていました。エディットは「丁度よい折りだ」と感じて、「こうした宵にはハープの音色が冴え渡ることと思える夜の気配に誘われて参りました。こちらにはいつも心慌しくして出入りをしておりますので、ご自慢のハープの音色を聞かせていただけないことに口惜しい思いをしておりました」とそれとなくハープの演奏をせがみます。

「貴女のような音知りの御方の前ではね。王宮に出入りされている人にお聞かせするほどのものではありません」と姫君は謙遜しながらも、侍女にハープを持ってくるように指示しますので、かえってはっとしながら、「ヒカル殿は、どのようにお聞きになられるのか」とエディットは胸がどきどきしてきました。

 

 姫宮はほのかにハープを掻き鳴らしましたが、ヒカルはそれなりに面白く聞きました。とりたてて深みがある上手さではありませんが、ハープの音は他の楽器とは趣が異なるものなので、聞き難いとは感じません。「ひどく荒れ果てた寂しい場所に、戦場でならした勇猛な騎士だった父宮が、古風に重々しく育てられた名残りもない程になってしまった生活に、どんなに苦労をされていることだろう。昔の物語でも、こういった場所にこそ、美麗な佳人が出現してくるものだ」と期待が膨らんで、「思い切って言い寄ってみようか」とも思いますが、「ぶしつけのように思われてしまっても、と気恥ずかしさも手伝ってためらってしまいます。

 

 エディットは機転が利く人でしたから、「あまり長くお聞かせしない方が」と思い立って、「空が曇りがちになってきて、月が隠れてしまうようになってまいりました。私の客人がやって来る頃となりました。離れにおりませんと、わざと避けたように思われてしまいます。またの機会にゆっくりと聞かせていただきましょう。さあ、よろい戸を閉めてしまいましょう」と、切りがよいところで弾くのを止めさせて、離れに戻って来ました。

「中途半端で止めてしまったではないか。あれでは判断がつきかねないではないか。残念だ」とヒカルはこぼしましたが、「それでも気配は良い感じだった」と興味をもったようです。

「同じことなら、もっと近い所で立ち聞きをさせてくれ」と催促しますが、「奥床しく、はっきりしない程度で」と思いますので、「いや、それはいかがなものでございましょう。お気の毒な暮しをされて、気が滅入っておられますので、男の方を紹介するのは気が咎めます」とエディットは拒みました。

「それも確かに一理はある。身も知らぬ男と女が急に睦まじい仲になるというのは、身分の低い者の間での話なのだから」などと、王族に属す姫君を不憫にも思います。

 

「でもまあ、私の気持ちをそれとなく、ほのめかしておいておくれ」と言い含めます。どこかに約束をした御方があるのでしょうか、そっと邸を去ることにしました。

「王さまが『貴方さまが真面目すぎる』と心配なされていらっしゃるような折々がありますよ。このようなお忍び歩きのやつれたお姿をご覧になったことがないからでしょう」とエディットが皮肉りますと、ヒカルは引き返して来て、笑いながら「自分のことは棚に上げて、他人事のように咎めてはいけないぞ。この程度のことを浮気っぽい振る舞いというなら、お前がしていることはもっとひどいだろうに」と言い返しました。

 自分のことをひどく好き者のように思い込んでいるのか、ヒカルが折々につけて、そう言いますのが「恥かしいこと」とエディットは受け取って、言い返すことができません。

 

 

2.頭中将アントワン、ヒカルを尾行。アンジェ城の侍女アメリーの恋

 

「寝室の方へ行ったら、ひょっとして女性達の気配を聞けるかもしれない」と思い立って、息を殺して立ち居出ました。

 アカシアの板を編みこんだ区切り用の透垣が朽ちかけていましたが、わずかに残っている辺りの物陰に立ち寄りますと、そこにひっそりと佇んでいる男がいました。

 

「誰だろう。姫君に懸想している色男なのだろう」と思って、暗い陰の方に立ち隠れて、様子をうかがうと、なんと男は頭中将アントワンでした。二人は昨夕、王宮から一緒に退出したのですが、ヒカルが乗った馬車はアンジェの方向に進まず、シュノンソーにも向いそうでもないことを訝しく思ったアントワンは、自分も行くべき所があったものの、「どこに行こうとしているのだろう」と馬で馬車を追跡してきたのでした。アントワンは貧相な馬に乗って、気にも留められない狩猟姿で追って来ましたので、ヒカルは気付きませんでした。

 どういうわけか、ヒカルが思いもしなかった邸に入っていきましたので、合点が行かないうちに、ハープの音色が聞えてきましたので、耳を傾けながら「そのうち出て来るだろう」と予測しながら、待ちかまえていたのでした。

 

 ヒカルはその男が誰とも識別できず、「自分だと悟られないように」と抜き足で立ち去ろうとしましたが、男がふいに近寄ってきて、「人をはぐらかせようとしたのが憎たらしいので、追って来たのですよ」。

(歌)一緒に王宮を退出しましたが あなたはどこへいらっしゃるのか 行く先が分からない 十六夜の月夜

と嫌みを言うのが癪にさわりましたが、男がアントワンだと気付くと、少しおかしな気持ちになりました。「人が思いも寄らないことをなさいますね」と憎らしくなります。

(返歌)十六夜の月影は どこの里をも あまねく照らしますが その月が隠れる山の端まで 詮索する者がいるだろうか

「こんな風に、あなたも始終、私に後をつけられたら、どうしますか。困るでしょう」と言い返しました。

「本音で言いますが、こういう忍び歩きは、よい随身を連れて行くか行かないかで、成否が決まるものなのですよ。これからは私を随身としなさい。身をやつしての一人歩きは、間違いが起こりがちですからね」とやり返して、ヒカルを諌めます。

 

 こんな場面を見つけられてしまって、得意がっているアントワンを恨めしく思いますが、あの夕顔の児の撫子の消息をアントワンが尋ねあぐんでいることが、自分の大きな手柄として内心では誇りにしていました。

 それぞれ約束した場所はあったのですが、照れ臭くなって、別々に別れずに、ヒカルの馬車に乗って、面白い具合に雲に隠れた月夜に笛を吹きあいながら、ジャンヌ・ダルクも立ち寄ったムーランの街中のホテルに入りました。

 

 二人は翌朝、アンジェに向いました。夕刻、アンジェ城に着いて、先払いの者に声を立てさせずに、そっと城内に入り、人が見ていない廊下で上着などを着替え、そ知らぬ顔をして、今、到着したかのように自室で笛を吹きすさんでいると、いつものようにそれを聞き逃さない左大臣がフルートを携えてやって来ました。

 ヒカルはフルートも得意でしたから、とても面白く吹きました。フルートと合奏させようと左大臣はハープシコード(後代のピアノ)を召し寄せて、侍女たちの中でこの方面に嗜みがある侍女たちに弾かせます。

 

 リュートが上手な侍女のアメリーは、アントワンが思いを寄せたのを拒んでしまい、たまにしか訪れないヒカルのお気持ちの有り難さに素直に身を許していました。そのことは自然に知れ渡ってしまい、アントワン兄妹の母である大宮などが快く思わなくなったので、何となく居心地が悪く、心も重く味気なさそうに物陰の柱に寄りかかっています。ヒカルを見ることができない所へ移り離れてしまうのは、さすがに心細くて、思い悩んでいます。

 アメリーはアンジェ城での勤めをやめて、左大臣邸を去ることを決めていましたが、ヒカルはほとぼりが冷める頃、内密でシュノンソーに引き取ることを約束しました。

 

 

3.ヒカルと頭中将アントワンの競争。ヒカル、姫宮に面接

 

 ヒカルとアントワンは、昨夜のムーランのハープの音色を思い出して、あのみすぼらしかった住まいの様子も様変わりがしていて、それなりに興味深かったと思い起こしています。

「空想を膨らましてみると、ああいった邸で年月を重ねて住んでいる、とても可愛く美しい人に見初めてしまってとても心苦しくなり、我を忘れてのぼせ上がってしまうと、世間で物議をかもすことになって、困ったことになるだろう」とアントワンは思いました。「ヒカルがああやって身を入れて通っているのだから、このままで済んでしまうことはないだろう」と妬ましくも、危なかしいようにも思えました。

 

 その後、ヒカルからもアントワンからも手紙を姫宮に手紙を送ったことでしょうが、どちらにも返信はありません。

 アントワンはそれが気になりじれったくなって、「あまりにも愛想がなさすぎる。あのような荒れ果てた邸に住んでいるような人は、物の哀れを知っていて、はかない草木や空の様子を眺めるにしても、心に触れる情緒を感じて、手紙を書いて寄こすべきであろう。いくら重い身分だからと言って、ここまで引っ込み思案で消極的なのは、面白くなく反感も抱いてしまう」といらいらするのでした。

 

 ヒカルとアントワンは、例のように隠し立てをしない間柄でしたから、「あなたの方には返信があったでしょうか。私も試みに、ほのめかしの手紙を送ってみましたが、何も言って来ずにそのままになっている」とアントワンが憂い顔で尋ねますので、「そうか、アントワンも言い寄ってみたのか」とヒカルは微笑んで、「さあ、どうでしょう。返事が来たとしても、見てみたいとも別段思いませんから、返信を見たかどうかは分かりませんね」ととぼけて、軽くいなします。

「それなら、私は分け隔てをされてしまったのだ」とアントワンは思い込んで、恨めしくなりました。

 ヒカルはムーランの姫宮をさほど深くは心にかけておらず、相手の情愛のなさに興ざめしていたのですが、こうやってアントワンも言い寄っているのだから、結局のところ、言葉数が多くて、口が巧みな方になびいていくのだろう。その時、女がしたり顔で、先に言い寄った男を見放してやった、という態度を示したなら嬉しい気はしない」と競争心が湧いて、エディットに真面目に仲介を頼み込みました。

 

「あの姫宮は妙によそよそしくて、手紙を送っても逃げるようにしている感触がひどく腹にすえかねている。私のことをきっと、浮気っぽい男と疑っているのだろう。こう見えても私は変り易い性癖を持ってはいやしない。相手の女の心に辛抱する気がなくて、思いもしなかった結果になると、自然と私が捨ててしまったようになってしまうだけなのだ。心持ちがのどやかで、親や兄弟がうるさく干渉せず、親しみやすい性格の人であったなら、どんなに可愛く感じて、好きになってしまうことだろう」と切り出しました。

「いえいえ、そのような愛され方をされるお相手にはとてもなれそうにない御方と存じます。とにかく、ただはにかむだけで、引っ込み思案なところは世間に例がないほどの御方ですから」とエディットは自分が見ているままの様子を説明します。

「器用ぶって、才走った性格ではないのだろう。それでも、あどけなくておっとりしているのなら、可愛げがある」と、あの夕顔を忘れ去ることができないヒカルが答えました。 

 

 春になって熱病を患い、その後は、人には言うことができない藤壺への物思いにとらわれて、気苦労が絶えないままに、春と夏が過ぎていきました。

 九月初め、静かな気持ちになって思い続けても、あのブルジュ(Bourges)の明け方の洗濯場の布を打つ棒や槌の音が耳についてうるさかったことさえ、恋しく思い出しています。 ムーランの姫宮には、しばしば便りを送りますが、今もなお、返信がありません。世間知らずのようで腹立たしく、「根負けしてしまったと、このままで引き下がりはしないぞ」と意地が強まって、エディットを責めたてます。

 

「一体、どういうことなのだ。これまで、こんな事を経験したことはない。不愉快だ」と愚痴りますと、エディットは「とてもお気の毒」と同情して、「私は何も『お二人は不似合いなご縁』とは申し上げておりません。ただあまりに内気すぎる御方ですので、はにかんでしまって、男の方への返信に手が出せないのだろう、と察しております」と言い訳します。

「そんなに世馴れしていない人なのか。物事をまだ思い知らない若い頃とか、親がうるさくて自分の思い通りにできない人なら、そのように恥かしがってしまうことももっともだ。しかし親がおらず、独り身で心細く暮らしているのだから、それなりの思慮分別をお持ちのはずだ。私も何となく手持ちぶたさで心細い気がするので、同じ気持でお答えしてくれたなら、私の願いは叶う心地がする。何も世間並みの色恋沙汰をしたいというのではない。ただあの荒れ果てた邸のベランダに佇んで、話をしてみたい、ということなのだ。あの姫君ははっきりしないところがあって、合点が行かない気がするから、姫宮の許しがなくとも、何とか段取りを作ってくれないか。気がせいて、けしからぬ行為をしてしまうことは断じてないから」などと説得していきます。

 

 このところ、世間の様々な女性の噂話を何気なく聞きながら、耳に留め置いておく、という癖がヒカルについていたのですが、宿直で手持ち無沙汰の宵の退屈しのぎに「こんな御方がおりますよ」と話しただけなのに、ここまで気に留めてしつこく頼んでくるので、エディットは気が重くなります。姫君の様子を考慮してみると、とてもヒカル殿と似つかわしいとは思えません。うっかり仲立ちをしてしまうと、姫君が憂き目を見ることになる」などと気になりますが、ヒカル殿がこんなに熱心に切り出されていることを聞いて上げないのも意地が悪いように感じます。

 

 コンピエーニュ卿は名立たる騎士として高名でした。フランス軍のブルゴーニュ・フランドル公国への侵攻で大役を果たし、ムーラン公夫妻の摂政に歯向かって起こされた道化戦争でも真っ先に夫妻支持を表明して夫妻を支えました。

 その功績に報いる意味もあって、摂政役を終えたムーラン公夫妻はコンピエーニュ卿をムーランに招き入れ、広大な敷地と邸宅を与えました。コンピエーニュ卿はムーランに移り住みましたが、ブルボン公国が敵国のフランドル文化を摂取していた上に、イタリアの文化まで公夫妻が取り入れだしていることに憤慨してしまいました。「戦いに勝った国が負けた国の文化を取り入れるとは何事か」と、フランスの伝統騎士道を誇るコンピエーニュ卿にとっては堪え難いことでした。

 それ以来、ムーラン公夫妻とコンピエーニュ卿との関係は絶縁状態となり、時の流れと共にコンピエーニュ卿は忘れられた存在となっていき、末娘を残してひっそりと世を去りました。

 

 父宮がまだ健在でおられた頃でも「時世に取り残された所」となって、訪れる人もいなかったのですが、まして今は雑草を踏み分けて訪れる人は絶えていました。そんな中で、こうして世にも珍しいほど輝いている御方から恋文が来たのですから、生半可な若い侍女などもひどくにこにこして、「さあ、ご返事をお書きなさいませ」としきりに勧めますが、呆れるばかりの内気で引っ込み思案の姫宮は手紙を読んでみようともしません。

 エディットは「こうなったら、都合がよい機会に、物越しに話をさせることにしよう。それで気に入られなければ、そのまま終わりとすればよいだけの話だ。逆にご縁があって、一時的にせよ、ヒカル殿が通われるようになったとしても、それを咎める人は誰もいないことだし」など色恋にあだっぽく、気が早い性格のエディットはそう考えて、父親にも「こんな事が」と報告もしませんでした。

 

 九月七日、待ち遠しい月が、宵が過ぎるまでまだ出ず、星の光りだけがきらめく中、松の梢を吹く風の音を聞きながら姫宮は心細くなって、父宮が在世中の昔のことを語りながら泣いていたりします。「丁度よい折りだ」とエディットは感じて、ヒカルに連絡をしたのでしょう、この春先のようにヒカルは大層忍んで、姫宮の屋敷を訪れました。

 姫宮はようやく昇りかけてきた月が、朽ちかけた細木編みの垣根を照らすのを物寂しそうに打ち眺めていました。ハープを勧められて、ほのかに掻き鳴らしていましたが、その音色はまんざらでもありません。「もう少し親しみやすく、当世風の感じを添えてみたなら」と遊び慣れているエディットには、じれったい思いがします。

 

 人目がない場所ですから、ヒカルは気軽に邸内に入り、エディットを呼び出しました。

 

 エディットはたった今知った、という驚き顔で「大変困ってしまいました。あの御方が訪ねてお越しになりました。前々からいつも、ご返信がないことを恨んでおられてまして、『そんなことは私の一存では何もできませんよ』と突き放しておりましたところ、『自分で気持ちを伝えることにする』とおっしゃっております。どうご返事をいたしましょうか。並大抵のお気持ちではお越しにならない御方ですから、どうしようか心苦しい限りです。物越しからでもお話しをされますことをお考えください」と姫宮を説得します。

「そんな恥かしいことを」と姫君は顔を赤らめて、「どう人と話してよいのか、私は分かりませんから」と奥の方へ引っ込んで行く様子が非常に初々しく見えます。

 エディットは笑いながら「そんなに子供っぽい振る舞いをなさるのは心苦しい限りです。どんなに身分が高い御方でも、親が健在でお世話を充分にされている間は子供っぽくされるのも道理と言えますが、こんな心細い生活をされておられながら、いまだに世間を恐がっておいでになるのは間違っておりますよ」と教え諭します。

 

 さすがに、人の言うことに強くは反対しない性分ですから、「返答はせずに、ただ聞くだけでよい、ということなら、よろい戸越しで」と姫君は言い返しました。

「幾らなんでも、相手をベランダに立たせてよろい戸越しで、というのは失礼すぎます」とあまりに非常識な答えに呆れてしまいます。

「強引で軽はずみな振る舞いをなさることはありませんから」などと上手い具合に言い聞かせて、一室を数枚の厚手の布を縫い合わせて二間に仕切った片側に姫宮を案内します。布の縫い目がしっかり閉じてあるかを確認して、姫宮の座席をしつらえます。姫君はきまりが悪い思いをする上に、布地を挟んでいるものの、このような御方と対話をする仕方など夢にも思い知りません。ただエディットが言う事を「そういうものなのだろう」と任せています。

 

 乳母のような老侍女たちはすでに自室に引きこもって、うつらうつらとしていた頃です。若い侍女二、三人だけは、世にも高名なお姿を拝ましていただきたくて、胸を時めかせていました。侍女たちが晴着の服に着替えさせて身作りをしますが、本人自身はさほどに嬉しそうでもありません。

 ヒカルの方は、相も変らぬ美男子ぶりを目立たないように配慮した気配が逆に優雅さを増していて、「こんなに立派なお姿を見せ栄えもしない人たちにお見せするのはお気の毒だ」とエディットに思わせるほどでした。女君はただ単におっとりされておられるだけなので、「出過ぎたことをされる心配がないのが安心」とエディットは考えていました。その一方では、「自分がヒカル殿から責め立てられて、苦し紛れに手引きをしてしまったがために、姫君に心苦しい物思いをさせてしまいはしないか」などという、不安も抱いていました。

 

 反対側の間に案内されたヒカルの方は、これまでの姫宮の反応を思い返してみて、「洒落っ気を出して気取った当世風の女と違って、こよなく奥床しい人だろう」と思い続けていました。

 すると若い侍女たちに後押しをされて姫宮が厚布の前の座席についた気配がして、かすかに衣服にしみた香りの匂いが漂って来てます。

「期待した通りの、おおらかな女のようだ」とヒカルは胸を躍らせました。

 

 布地を挟んで、ヒカルは春先から思いを寄せていた胸中を如才なく語らいますが、手紙の返事すらしない相手からの返答は全くありません。「やるせないことだ。どうしたら良いのだろう」とヒカルは溜息をつきました。

(歌)何度 あなたの沈黙に 負けてしまったことでしょう ものを言うな とおっしゃらないことが  

       せめてもの救いです

「せめて、お付き合いが可能か否か、はっきりとおっしゃってください。どっちつかずでは苦しいだけです」と仰せになります。

 女君の後で聞いていた乳母の娘で侍従スザンヌと呼ばれている、才気走った若い女が「とてももどかしい」と見かねて、姫君の脇に寄って姫君らしい声で返歌をしました。

(返歌)論議終了の 鐘を鳴らして お付き合いを拒みますことは さすがに辛いので 

    お答えをいたしかねております うまく説明はできませんが

若々しい声で、とりたてて重々しくはありませんでしたが、代理の者ではないように歌いましたので、

「貴女にしては甘ったらしく馴れ馴れしい声だな」とヒカルは感じたものの、相手が初めて言葉を発したのが嬉しくなって、「あまりの珍しさに、かえって私の口が塞がって言葉に窮してしまいますよ」と昂ぶります。

 

(歌)何も言わないのは 口に出して言うよりも勝っていることを ご承知されておられるのでしょうが

   やはり ずっと押し黙っておられるのは 辛いことです

 ヒカルは中味はないにせよ、関心を引くようなこと、真面目なことをあれこれと話し続けるのですが、何の手ごたえもありません。

「こんな態度を男にとるのは、普通とは違った特別な考えを持っている人なのだからか」といまいましく、しびれを切らして、やおら、仕切りの厚布の縫い目をびりびりと割き破って、姫君がいる側に入ってしまいました。

 

 ヒカルの背後の物陰で様子を覗(うかが)っていたエディットは「まあ、あんまりなことを。まんまと人を油断させておいて」と姫君を気の毒に思いながら、何も気付かなかった振りをして、離れに逃げ込んでいきました。

 姫君の側についていた若い侍女たちは「世に類ない御方」という評判を聞いていたためか、ヒカルの無礼な行為を咎めることもせず、大袈裟に騒ぎ立てることもありません。啞然としながら、思いも寄らない出来事に何の心の準備もない姫宮を案じるだけでした。

 

 姫君は薄暗い中を奥の寝室に入っていこうとしますが、それを追ってヒカルも寝室に入ってしまいました。姫君本人は、ただただ我にもあらぬ思いで、恥かしく身がつまされると思う外はないようです。

「最初のうちはこうした恥じらいが可愛いのだ。昔風にかしずかれて育って、まだ世間を知らない人なのだから」と大目に見ながら、閨で一緒に寝ようとするものの、相手はわなわなと震えるだけで、あらがうこともなく、ただ棒のように横たわっているだけです。いくら優しい言葉をかけ、なだめすかしても、何の反応もありません。これまでの経験と違って腑に落ちない奇妙なところがあって、うまく同衾することもできません。

 

 荒れ果てた邸にひっそりと住む佳人として、夕顔、空蝉や軒端の荻のように身分は低いが、それなりの個性と魅力がある女性であるか、あるいは身分は高いがアンジェの御方やメイヤン夫人のように気位が高く堅苦しい貴婦人ではなく、まだ未熟だが自分なりに育て上げてみたくなる女性であるか、どちらの形にしても良い方向で夢想していたヒカルの思いは、あっけなく崩れてしまいました。父宮や侍女たちに甘やかされてきたせいか、あまりに内気で子供のまま大人になってしまっただけの愚鈍な女性にすぎなかったことに気付きました。これでは愛情が湧いて来るはずはありません。

 

 ひどく失望したヒカルは、まだ夜が深いうちに屋敷を去ることにしました。エディットは寝床にふしながらも「どうなることやら」とまんじりともせずに、じっと聞き耳をたてていましたが、「知った風をしてはならない」と判断して、「お見送りを」と声をかけることもしませんでした。

 ヒカルは忍び足で屋敷の門を出ました。初夜の翌日に女を再訪するのが決まりですが、ヒカルは再訪する気も、手紙すら送る気もなくなって、シュノンソーに戻っていきました。

 

 翌日の夕暮れ時にシュノンソーに戻ったヒカルはベッドに臥しながら、しきりに「世の中は思い通りにはいかないものだ」と思い続けて、軽くはない相手の身分を考えると、今さら打ち捨ててしまうことが心苦しく感じます。朝になっても、思い乱れたままベッドから起き上がらないままでいますと、アントワンが訪ねてきました。

「えらい朝寝坊ですね。何かわけありの気がしますよ」と言うので、ベッドから起き上がって、「気楽な独り寝の身ですから、つい朝寝坊をしてしまいました。王宮から来られたのですか」と問いますと、「そうですよ。パリへの御幸(みゆき)が発表されて、今日にでも祝宴でも楽人や舞人が決定する、という内示がありましたので、貴方にもお伝えしようと思って参って来たのです。すぐに王宮に戻らねば」とせわしげにしています。

「それなら、私もご一緒して王宮に参ります」と、スープと固パン、果物の朝食を一緒にとって、ヒカルの馬車は用意されていたのですが、アントワンと同じ馬車に乗り込みます。アントワンは「まだ寝むたそうですね」と皮肉を言いたつつ、「隠し事が多いようだね」と恨みっぽく話しを続けます。

 

 その日は、決定事項の発表が多く、反乱を起こしたイタリアのジェノヴァへの援軍派遣も神聖ローマ帝国やベネチア共和国など諸外国の駐在大使たちには漏れないように、内密に発表されましたので、王宮内はざわめきが絶えず、ヒカルも王宮に留まることにしました。さすがに「ムーランに手紙を送らねば」と思い出しましたが、もう夕方になっていて、雨が降り出して、億劫でもありますので、わざわざムーランまで出掛けてみようとは思わなかったようです。

 

 初夜の翌日の再訪も、手紙すらもなく、姫宮邸では、ただただ待ち侘びているだけでした。エディットも「姫君はとてもおいたわしいご様子なのに」といたたまれない思いをします。姫君自身は恥かしかったことだけを心の中で思い続けていました。

 ようやく翌朝、ヒカルの手紙が届きましたが、姫君は「訪れがないことを咎めようとも何とも分別がつかないままでします。

(歌)夕霧が晴れて あなたが打ち解けた気配を まだ見ないうちに さらにうっとうしさを増す 

   宵の雨が降ってきました

「いつ雲が晴れてくれることでしょうか。待ち遠しいことです」と書いてありました。

 

 お越しにはならない様子に、侍女たちは胸が潰れる思いでした。「それでも、ご返信をお書きなさい」と皆が勧めるのですが、一昨夜の出来事で頭が混乱したままの姫君は、型どおりの歌すらも作ることができません。「このままでは夜が更けてしまいますから」と侍従スザンヌが言いながら、例のように教えます。

(返歌)雨雲の夜に 月を待ちわびている里をおもいやってください 私と同じ気持ちで 

    眺めているのではないにしても

 侍女たちから口々に責め立てられて、ようやく姫君は書き出しました。年数を経て灰色がかった、古めいた紫色の紙に、さすがに力強い文字で、上と下の天地をきちんと揃えた一時代前の書風で書いていました。

 

 姫宮からの返信を受け取ったヒカルは、読む気も起こらず打ち捨てておきましたが、それでも「相手はどう思っているのだろうか」と思いやって、気にはなりました。

「こうした場合を『悔しい結末となってしまった』などと表現するのであろうか。そうは言っても、今さら、どうにもならない。こうなったら、自分が末長く面倒を見て上げよう」と覚悟を固めました。

 ムーランの邸の方では、そんなヒカルの決意を知りませんので、音信がないのをひどく嘆いていました。

 

 夜に入ってから、左大臣が王宮を退出するのに誘われて、一緒にアンジェ城へ向いました。ジェノヴァ遠征には桐壺王は加わらず、主力は過去にナポリ王国支配の歴史を持ち、国際情勢の駆け引きも熟知しているアンジュー公家に一任されましたので、アンジェ城内は御幸に加えてジェノヴァ遠征の準備で慌しくなると同時に緊迫感が高まっていました。

 王宮でも、諸外国の外交官やスパイたちに知られないように、遠征の準備は密かに進んでいましたが、その動きを擬装するべく、御幸への準備がことさらに仰々しく賑やかに煽られています。配下の高官、宮廷人や軍人が多く集まって、各人が担当する舞いなどを稽古することが日課となって、日が過ぎていきます。稽古をする楽器の音も平常よりもかしがましく、いずれも負けじとばかり競い合います。いつもの遊びごとと違って真剣で、フリュートやクラリネットなどを甲高く吹き上げ、下級職が担当する大太鼓もベランダに運び込んで、自ら打ち鳴らして興じています。

 

 ヒカルも御幸の騒動に、巻き込まれて多忙となります。どうしても逢いたい女性の所には暇を盗んで通いますが、ムーランの姫宮については定かではなく、ムーランの方では、それでもと思いつつ、待ちくたびれているうちに九月が終っていきます。

 十月に入って、御幸に向けた予行演習など、騒ぎが続く中、エディットが王宮に出仕してきました。「ムーランの姫宮はどうされている」などとヒカルはエディットに尋ねましたので、気にかけてはいるようです。

 エディットはヒカルを待ちわびている様子を説明して、「こうまで見離されてしまうお気持ちでは姫に仕える者たちさえ、心苦しい思いをしてしまいます」などと、泣かんばかりに愚痴ります。

 さすがにヒカルも、「『自分に悪い思いをさせない程度で打ち止めにしよう』というエディットの思惑を自ら打ち壊してしまって、心にもなく不快にさせてしまった」とすまなく思いました。

 

 姫宮自身は何も語りもせず、塞ぎ込んでしまっている様子を思いやってみると、いたわしくもなりますので、「この頃は暇がないほどだから、致し方がない」と言い訳をしながら、「いや、あの御方はあまりに物事を理解されていないから、こらしめてやろう、とも思っていたのだ」と苦笑いをします。

 その様子が若くて秀麗なので、なんだかエディットも心がなごむ心地がして、「何のかやと言っても、人に恨まれても仕方がない年頃であるし、思いやりが少なく身勝手な行動をするのはもっともなこと」と納得します。

 

 それでもヒカルは御幸の準備の合い間をぬって、数回はムーランに通いました。

 

 

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