その4紅梅  

    

1.地方行政大納言ロランと後妻の真木柱及び三人の姫君    (カオル十九歳まで)

 神聖ローマ帝国との第四次戦役で、帝国側に組みしたイングランドが占拠したブローニュ奪還の結果を残して軍人としての評価をあげ夕霧元帥のライバルと世間から見なされるようになった地方行政担当のロラン大納言は故アントワン太政大臣の次男です。亡くなった柏木のすぐ下の弟ですが、子供の頃から武道に秀でていて、華やかな性格を持っていて、年月と共に軍人として出世街道を昇り、今では権限も増し、世間からの信望も高まっていました。

 正夫人となった女性は二人いて、最初の正夫人が他界した後、二人目の正夫人となった女性は、最後に太政大臣に上り詰めた黒ヒゲの娘で、生まれ育った自分の館から去らざるをえなくなった際に、(歌)今はこの邸を離れて行きますが 幼い頃から親しんで来た 真木の柱は 私を忘れないでください と詠んだ真木柱でした。祖父の式部卿が故蛍兵部卿に縁づかせましたが、蛍兵部卿が亡くなった後、ロランがひそかに通うようになり、月日が経つうちに公然とした仲になっていました。

 

 王宮のパリへの復帰に伴い、ロランはパリ西南部のムードン(Meudon)城に真木柱たちと移り住んでいました。子供は最初の正夫人が産んだ二人の女君イヴェット(Yvette)とエステル(Estelle)だけでしたが、それだけでは寂しいということで、神や聖人に祈って、男児のロベール(Robert)が誕生しました。

 真木柱には故蛍兵部卿の忘れ形見として、女君クロード(Claude)がいましたが、ロランは連れ子のクロードも分け隔てはしないで、自分の娘二人と同じように可愛がっています。それぞれの女君に仕える侍女の中には意地の悪い者もいて、時には妙に事がこしれてしまう場合もありますが、極めて明朗で当世風に快活な真木柱は、無難にとりなして、自分が辛く感じてしまうことも荒立てずに聞き流すように心がけているので、世間に聞き苦しいことも起こらずに、平穏に暮らしていました。

 

 順々に成長していく三人の女君に、ロランは成人となる裳着の式を実施しました。ムードン城に七つの部屋を広く大きく増築して、南面にイヴェット、西面にエステル、東面に真木柱の連れ子クロードを住まわせていました。父卿がいないクロードは気の毒なようではありますが、曾祖父の式部卿、祖父の黒ヒゲ太政大臣や父蛍兵部卿など、あちらこちらからの遺産の分配が多くあるので、内々の儀式や普段の生活なども心憎いほど気高い扱いを受けていて、貴女として申し分がない状況でした。

 妙齢の三人の女性がこういった具合に大事にされている評判が広がるにつれ、次々と言い寄る人たちが多く、王宮の安梨王やフィリップ王太子からも誘いの意向がありました。

「とは言っても、安梨王にはサン・ブリュー后がおられ、何ほどの者が貴婦人として上がったところで、サン・ブリュー后の勢いに並び立つことは出来ないであろう。それでも最初から諦めて卑下してしまっては何の甲斐もない。フィリップ王太子にも左大臣に昇進した夕霧元帥の長女アリアンがしっかりと付いているし、スコットランドから王宮入りして来た姪のメアリー・スチュアート王女も王妃候補として順調に成長しているから、張り合っていくのは難しいことだろう。しかし、そうとばかり言ってもいられない。人並み以上になって欲しいと願う娘の王室仕えを諦めてしまうのは本意がないことだし、メアリー王女を支える役割も果たしてくれるだろう」とロランは決意して、イヴェットをフィリップ王太子の貴婦人として王宮に上げることにしました。アリアンの父の夕霧元帥への対抗意識もあったのでしょう。イヴェットは十七か十八歳で、気品にあふれた印象を与えます。

 

 続く次女のエステルは上品で優美で落ち着きのある様子は姉よりも勝っていて、魅力もあるので、「常人に嫁がせるのはもったいないし、気が進まない。ニオイ兵部卿が所望してくれたなら」などとロランは思っています。

 ニオイ卿はロランの若君ロベールを王宮で見つけた時は、側に呼んで可愛がっていました。ロベールは利発そうで、将来が期待できる目つきや顔付きをした少年でした。

「弟に会っているだけでは物足りない、とロラン大納言に伝えておくれ」などとニオイ卿が話すので、その通りを父に話すと、「出来が良い子は、王室仕えをさせて他の女性に蹴落とされてしまうより、ニオイ卿こそに嫁がせたいものだ。精一杯かしずいてお世話をしたら、長生きをされるような様子をニオイ卿は見せている」と話はするものの、とりあえずはイヴェットがフィリップ王太子の許に上げることをロランは急ぎました。

 

「アンジュ公家を守る聖人の思し召しが実現して、イヴェットないしメアリー王女が女王の座を勝ち得てくれたなら、亡くなった父アントワンが姉アンジェリクを冷泉院の王妃にさせることが出来なかったことに、胸を痛めたままで終わってしまったことへの慰めになるだろう」と心の中で祈りながら、イヴェットを上げましたが、付き添った侍女たちから「王太子も喜んで迎え入れました」との報告がありました。

「それでも新しい環境に馴れないうちは、しっかりした後見役がいないと、どうなることやら」とロランは心配になって、義母の真木柱を一緒に付き添わせました。ロランの期待通りに真木柱はよく面倒を見ながら後見役をこなしています。

 

ムードン城は急に寂しくなった感じがします。西面に住むエステルは一緒に暮らしていた姉が去って一人になったため、ひどく寂しそうにしていたものの、東面のクロードとはお互いによそよそしくはせずに、夜は一緒に寝ることもありました。姉妹は色々の稽古事やちょっとした遊戯もクロードを師匠のように思って、習ったり遊んだりしていました。クロードは並々ならぬ内気な性格で、実母の真木柱にすらきちんと面と向かって話すこともありません。とは言っても、そう極端に病的な人見知りをするわけではなく、愛敬もある点では人よりも勝っていました。

「こうした具合に、イヴェットの王宮入りやエステルの縁談のことばかりを思い急いでいるのも気の毒だ」とロランは感じて、「クロードについても、どんな縁組をさせたいのかを判断して、私に相談しなさい。連れ子といえども、二人の娘と同じように面倒を見てあげたいのだから」と真木柱に話しますが、「クロードはそうした世間並みの結婚などを思い立つ気配などは持ち合わせていないようですから、生半可に縁組をさせてしまうのは可哀想です。本人の運命に任せて、私が生きている限りは面倒を見ます。私が死んだ後はどうなるのか、心もとない気持ちもありますが、世に背いて修道女になる道もありますし、人に笑われるような間違いもせずに、自分自身で生きていくことでしょう」と真木柱は涙を浮かべながら、非の打ちどころがないクロードの性質を話しました。

 

ロランとしては実の娘も継娘も分け隔てはしない父親らしく振る舞っていますが、「一度は姿形を見てみたい」との気持ちが高まって、「私から隠れるようにしているのは困ったことだ」と恨みながら、「ひょっとしたら見えるかもしれない」とクロードの間を覗いてみることもありますが、絶対にと言えるほど、影すら見せることはありません。

「母上が留守をしている間は、私が代役として参って来ているのですよ。そうよそよそしく分け隔てをする気配は情けないことです」などと語りかけながら、内カーテンの前に座っていると、かすかに返答してくる声や気配などの品の良さから、容姿もさぞかしのことだろうと察しています。

「自分は実の娘二人を誰にも引けは取らない、と自慢に思っているが、王族の子であるクロードにはとても勝てないのではないか。だからこそ、人の多い王宮は煩わしいことになるのだ。『自分の娘は類ない』と思い込んでいても、それに勝る女性も自然と存在する、ということなのだろう」などと、ますますクロードのことが気掛かりになって、話しかけました。

 

「このところ、軍の遠征などで何かと忙しくしていたので、久しい間、リュートやハープの音色を聴くこともなかった。西面にいるエステルはリュートの稽古に打ち込んでいるが、貴女のように上達したい積りなのだろう。リュートというのは中途半端な修得では、聞きにくい楽器です。同じことなら、十分に念を入れてエステルに教えてあげてください。

 この年寄りはとりたてて習得した楽器はないが、かって管絃の遊宴が盛んだった時期に遊宴に参加したお蔭であろうか、どんな楽器にでも音色の上手下手を聞き分ける程度の弁えは心得ている。貴女はあまり大っぴらに弾くことはないが、時々耳にするリュートの音色は、あの当時を思い起こしてくれる。

亡くなったヒカル様から伝授された方々の中で、今でも生き残っておられる方は夕霧左大臣でしょうか。カオル中納言とニオイ卿の二人は、どのようなことでも昔の人に劣らないほどの天性で器用にこなしているが、とりわけ音楽には熱心です。それでも手づかいや少ししなやかな撥(ピック)音などは夕霧大臣には及ばないと感じているが、貴女のリュートの音色こそ、大臣とよく似ている。リュートというのは、押し手を静かにするのを上手とすると

されているが、柱(じゅう。カポタスト)を据えた時に撥音の様子が変って、優美に聞こえる貴女の音色は、女性が弾くリュートして、中々興味深いものだ。さあ、合奏をしてみよう。リュートを持って参れ」と侍女に命じました。

クロードに仕える侍女たちの多くはロランに対して隠れようともしていませんが、年が若い上級の侍女たちの幾人かは「姿をお見せしたくない」ときまり悪がって奥に引っ込んだままなので、「お側に仕えている者まで、こんな仕打ちをするとはけしからんことだ」と腹を立てていました。

 

 

2.ロラン大納言、ニオイ卿に紅梅を贈る   (カオル 二十歳)

 その時、王宮に上がるロベールが宿直姿で挨拶にやって来ました。正装した童児の髪を結った姿よりも可愛く見えて、「ひどく美しい」とロランは感じました。

 ロランは王太子の貴婦人として王宮に上がり、麗景殿に住むようになったイヴェットへの言付けをしました。

「貴女のお世話は妻に任せて、今夜も私が会いに行くことが出来ない。遠征の疲れが出たのか、気分がすぐれないから、と伝えてくれ」と言った後、「笛を少し吹いてみなさい。

王さまの遊宴の合奏に召し出されて、未熟すぎると困るからね」と微笑みながら雙調(第六音調)で吹かせました。   

大層見事に吹いたので、ロランは「さして悪くもなく上達しているのは、こちらのクロードの所で、ごく自然に合わせてもらっているせいなのだろう。是非ともロベールと搔き合わせてみなさい」とクロードに強いるので、クロードは「困ったことだ」といった気配を見せながらも、爪弾きで笛とうまく合わせながら、ほんの少しばかりリュートを搔き鳴らしました。ロランも軍人らしい太く低い物馴れた音色で口笛を吹きました。

 

クロードの住まいの東の軒端近くに、紅梅がとても趣深く匂っているのをロランは見て、「庭先の梅が風趣ありげに咲いているね。ニオイ兵部卿は今、ルーブル宮におられるそうだ。一枝、折って来なさい。(歌)君以外に 誰に見せようか梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る といった歌もあるからな」と言った後に続けました。

「何と申しても、あのヒカル様がいわゆる盛りの大将でおられた頃、私は今のロベールのような童児で、この子のように始終、親しくお仕えさせていただいたことを、歳月が立っていくほど懐かしく恋しくなっている。近頃の世間の人はヒカル様のお孫にあたる王子たちを特別な人のように見なし、実際、王子たちは誰からも愛されるような人柄をお持ちだが、ヒカル様を思い出すと、ちょっとしたことでもヒカル様には及ばないように感じられるのは、あの時分に『またとなく類のない人物』と思い込んでいたせいなのだろうか。

私のような普通の人間でもヒカル様を思い出すと、たまらなく悲しくなるのだから、ヒカル様の近くにいて、今でも生き残っておられる方々なら、『ありきたりに長生きをしたところで』と味気ない思いをされていることだろう」と語っていると、しんみり考え込んでしまい、うち萎れてしまいました。もう堪えることができなくなったからでしょうか、ロベールに梅の花を折らせて、急いでルーブル宮に行かせることにしました。

 

「昔のことを思い出しても仕方がない。あの恋しいお方の形見としてはニオイ卿こそが筆頭者だろう。イエス・キリストが隠れた後の名残として、弟子の一人が光りを放ったのを見て、キリスト様が再び現れたのか、と驚いた賢い聖者がいた、というが、闇に迷う悲しみを晴らす機会として、失礼ながら挨拶文を添えておこう、と思い至りました。

(歌)心があって 風が匂わす園の梅に 早速 黒歌鳥が来ないことがありましょうか

と紅色の紙に若々しく書いて、ロベールの懐紙の中に入れ、押したたんでロベールに手渡しました。ロベールは子供心にもニオイ卿と親しくなりたいと思っていたので、喜んでルーブル宮へ急ぎました。

 

 

3.ニオイ卿、クロードを慕い、ロベールを手なずける   (カオル 二十歳)

 ニオイ卿はたまたまサン・ブリュー后の間から宿直所に向かうところでした。大勢の王宮人がお供をしている中にロベールを見つけました。

「昨日はどうして早く退出したのか。今日はいつ参ったのか」と尋ねると、ロベールは「昨日はあまりに早く退出したのが心残りになって、兵部卿はまだ王宮におられると人が言うので、急いで参りました」と子供らしいものの、なれなれしい口調で答えました。

「王宮でなくとも、もっと気楽なヴァンセンヌ城にも時々遊びにおいで。若い連中が何と言うこともなく集まって来る場所だからね」と告げました。ニオイ卿はロベール一人だけを呼んで話しを始めたので、他の人たちは遠慮して近づくこともなく遠のいていったので、ひっそり静かになりました。

 

「最近、フィリップ王太子からはあまりお呼びがないようだね。以前は頻繁にお呼びになって、お側から離さないようにしていたようだったが、貴婦人として上がった姉のイヴェットに寵愛を奪われてしまい、体裁が悪いだろう」とからかうと、「お側から離してくださらず困っていました。でもこちらのお側なら」と言いかけて黙ってしまったので、「ムードン城の姉君は私のことを一人前でもない、と敬遠しているようだね。確かにそれももっともなことだが、私の心中は穏やかではない。かっての兵部卿の娘さんで、私と同じ王族の血筋である東の姫君と呼ばれる人に、『お互いに相思相愛の間柄になって欲しい』とこっそり伝えてくれないか」とニオイ卿が話したので、「ちょうど良い機会だ」とロベールが例の紅梅の花を差し出すと、にっこり笑って「悪口を言ってしまった後にもらってしまうようになったな」と言いながら、紅梅をじっくりと見つめました。枝ぶりも花弁の大きさも良く、色も香りも尋常ではありません。

「園に咲く紅梅は紅色にこだわって、香りは白い梅に劣っていると言うが、この紅梅は賢いことに色も香りも揃って咲いているな」と気に入ったようで、差し出した甲斐があったように賞美していました。

「ロベールは今夜、王宮で宿直するのだろう。このまま私の所に泊まって行けばよい」と手放しません。花も恥ずかしく思うぐらい香ばしいニオイ卿の側近くに寝かせてもらうので、ロベールはまたとなく嬉しく、心が引かれる思いでした。

「この花の主人は、どうして王太子の貴婦人として上がらなかったのだろう」とニオイ卿が問うので、ロベールは「さあ、私には分かりません。(歌)もったいないくらいの月と梅の花の美しさ 同じことなら 情緒を理解する人に 見せてあげたいものだなあ と父上が口にしているのを聞いたことがありますが」と答えました。

「ロラン大納言の腹積もりでは、自分の娘のエステルの方を、と考えているのだろう」とニオイ卿は耳にはさみ、そう察してもいますが、自分が思う気持ちは格別に別の女性なので、ロランの挨拶文への返信をはきはきと書く気がしないでいます。

 

 翌朝、ロベールが退出する際に、あっさりと書いた返信を渡しました。

(歌)花の香りに誘われそうな身であったなら 風の便りをやり過ごすことがありましょうか

 ついでに「もう、これからは年寄りたちにはそうとは知らせずに、こっそり手紙のやり取りを仲介してくれるのだよ」と繰り返し話しました。

 ロベールも東面のクロードのことを大切に親しく思う気持ちを抱いていました。エステルの方は時々、顔を見せて普通の姉弟のようにしていますが、子供心に重々しく申し分がない気立てのクロードに好感を持っていて、「生き甲斐のある境遇になってもらいたい」と望んでいました。フィリップ王太子の貴婦人に上がったイヴェットを両親が花やかにお世話をしているのを見るにつけて、イヴェットは長姉だから当たり前のことだ、と感じながらも、クロードに対する両親の配慮が物足らず、気の毒なので、「せめてこのニオイ卿と縁組をされたなら」と思っていたので、紅梅の使いをしたことが嬉しかったわけです。

 

 ロベールはニオイ卿から預かった返信を父に見せました。

「こちらを焦らせるような内容だな。あまりに好色すぎる方向に度が過ぎているのを、私どもが感心していないのを耳にして、夕霧右大臣や私などに対して、ひどく取り澄まして真面目そうにしているのがおかしい。浮気者の資格を十分に備えている有様なのに、無理して真面目人間らしくするのは、面白みがない」などと悪口を言いながら、今日も王宮に上がる息子に歌を託しました。

(歌)もともと妙なる匂いを備えておられる 貴方の袖に触れると 花も素晴らしい評価を得ることでしょう

というのは物好きすぎるでしょうか。恐れ多いことながら」と真面目に詠んでいました。

「ということは、ムードン城への出入りを許す積もりがあるのか」と、ニオイ卿はさすがに胸をときめかせまて、返歌を詠みました。

(歌)姫君の花の香りを 匂わせている宿を訪ねていったら 好色な者のように 人が咎めるのではないでしょうか

といった、やはり胸の内を明かさない返歌にロランは物足りない思いでした。

 

 

4.真木柱が王宮から戻ってから    (カオル 二十歳~二十三歳)

 王宮でイヴェットの面倒を見ていた真木柱がムードン城に戻って来て、王宮の模様を話しました。その際に「ロベールが先夜、王宮に宿直をして、翌朝、フィリップ王太子に挨拶に参りました。大層良い匂いをしているのを、周りの者は別に気にもしませんでしたが、王太子はすぐに感づいて、『ニオイ兵部卿の側にいたようだね。そんなわけで私の所には寄り付かなくなった、ということだ』とむっとされて、嫌味を言われたのが興味深いことでした。こちらから、何かニオイ卿に手紙を送ったのですか」と話しました。

「その通りだ。梅の花を好んでおられる御方だから、東面の軒端に咲く紅梅が今を盛りと咲いている風情がただならないので、一枝折って差し上げたのだ。兵部卿の移り香は本当に格別だね。王室に出入りしている女性などでも、あそこまでうまく焚き染められない。対照的にカオル中納言はそうした風に焚き染めなどしないのに、本人自体が放つ芳香は世の中にないほどだ。不思議な過去の因縁で、そういった果報を受けたのかどうかを知りたいものだ。

それにしても、同じ花というものの、梅の花は生まれつき高い香りを持っているのは大したものだね」などと花を引き合いに出しながら、まずはニオイ卿について触れました。

 

 東面に住むクロードは物の分別が出来る大人になっているので、どのようなことでも見知っていて、ニオイ卿が好意を寄せている噂を聞いていないわけではないのですが、「縁づいて世間並な普通の生活をしても、今さら」と達観していました。世間の男も、ロランが勢力を増していることもあって、イヴェットに続いて西面のエステルに言い寄って来る者が多く、華やかな雰囲気でしたが、クロードの方は何事につけてもひっそりと引き籠っています。

 そうしたクロードをニオイ卿は自分にふさわしい女性のように伝え聞いていて、「何とかして」と心底思い込んでいます。いつもロベールを呼び寄せて、クロードに宛てた手紙をこっそり言付けています。ところがロラン大納言はやはりニオイ卿とエステルとの縁組を熱心に望んでいて、「そういったように思い立って、申し入れをしてくれたなら」と気配を窺いながら心待ちにしています。

 真木柱はそんな様子を気の毒に見ています。「ニオイ卿も見当違いをされてしまって、思い寄っても承知しそうにもない方にかりそめにせよ言葉を尽くしたところで、甲斐がないのに」と思い話していました。その言葉通り、クロードからはちょっとした返信もないので、「負けてたまるか」とニオイ卿はクロードへの思いを断念することは出来ません。

 

 そうした中、教皇領への侵攻を進める在イタリアのスペイン軍に拘束されたローマ教皇の救出に向けて、ロランがイタリアへ遠征して行き、スペイン王国との第六次戦役が始まったので、ムードン城のエステルとクロードとのニオイ卿の関りは沙汰やみになってしまった感がありました。

 留守を預かる真木柱は「どうしたら良いものか。ニオイ卿の様子を見ていると、先行きの運勢も有望なように見えるし」とクロードとの結婚を思い寄る時もありました。とは言ってもニオイ卿はひどく多情な性格で、ひそかに通う女性が多くいます。

「確か冷泉院の姫君ジゼルにご執心との話を聞いたことがあるし、新たなところでは、桐壷王の王子である第八卿の姫君にも浅からぬ志を寄せて、足繫く通っている、との噂も聞くし、夕霧左大臣も落葉上の養女になった第六女君フローラとの縁組を希望しているようだ。そんな頼りがいがない移り気な人物では、躊躇してしまう」と本心では二人の結婚を諦めてはいるものの、ニオイ卿がクロードに送って来る手紙に返信をしないのは恐れ多いこともあって、時たまにはおせっかいながら、クロードにさし代わって返信をしています。

 

 

             著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata