伊勢神宮の地を選んだヤマトヒメ(倭姫)の再評価

   ――伊勢神宮は東西が統一された日本国誕生を象徴する記念碑――

         参照:邪馬台国吉備・狗奴国大和説 

                    補遺2.No.3大和の日本統一に関わった氏族

 箸墓と日本国誕生物語 その五とその六

            謎の四世紀解読 「景行朝の爛熟」「第二王朝の誕生」

 

 大和国の祖神であるアマテラスを祀る地を選んだヤマトヒメ(倭姫。父は第十一代垂仁天皇)は、欠史八代に次いで神功皇后と武内宿禰まで神話上の人物と位置付けられてしまった影響もあって、伊勢神宮内宮の別宮十社の一社「倭姫社」に祀られてはいるものの、一般的には忘れられてしまった存在になってしまった感が強い印象があります。

 しかしヤマトヒメは実在した人物であり、伊勢神宮の地の選択に加えて、第二王朝である応神朝成立の影の立役者であることも忘れることができません。

 以下、この二点《1》伊勢神宮は日本国誕生を象徴する記念碑  《2》ヤマトヒメは第二王朝誕生の影の立役者 について、「大和の東国制覇の五段階」も含めて記します。

 

《1》伊勢神宮は「日本国誕生を象徴する記念碑」

 

なぜ大和国の祖神であるアマテラスが伊勢地方に祀られたのか、の理由の一つとして、「元々、伊勢地方に太陽神信仰が存在したから」という説がありますが、私は「西と東の倭国が初めて統合されて日本国が誕生したことを象徴する地であるから」と考えています。

 伊勢に隣接する志摩地方に太陽神ワカヒルメ(稚日女)信仰は認めらますが、アマテラスの正式名であるアマテラス・オオヒルメは大和の祖神アマテラスと太陽神オオヒルメが三世紀末の崇神天皇から垂仁天皇にかけての時代に合体化されたものであり、日本列島の太陽神信仰は吉備の蒜山、薩摩の枚聞岳(枚聞神社)、志摩(伊雑宮のワカヒルメ)など、縄文時代から列島の各地に存在したのではないか、と感じています。ちなみに伊予のオオヤマツミ(大山祇)などの大山信仰も、縄文時代から日本各地に存在していたようです。

 

 

1.アマテラスを祀る地を探索したトヨスキイリヒメとヤマトヒメの相違点

 

1)トヨスキイリヒメは大和国が西の倭国の盟主の座を象徴する場所を探した

                ――時期は西暦280年前後――

 トヨスキイリヒメ(豊鉏入日売)は紀伊吉備丹波の三地域を巡っています。時期は第十代崇神天皇が北陸、東国、丹波・丹後と西道に四道将軍を送り、丹後王国を制覇した後と想定できます。

紀伊では名草山の奈久佐浜宮、吉備では名方浜宮と穴門山神社(真備と川上町高山市)、丹波は大江山地の与佐宮に滞在した伝承がありますが、その目的には、西の倭国の東端に位置する大和国が、西日本(倭国)の盟主であることを象徴する場所を探した意味合いがあります。紀伊は阿波と瀬戸内海に目を向けており、阿波、吉備、丹後の三国とも大和が直接対決で破った強国でした。

しかし模索中に関東平野を掌握して東国支配が現実性を増し、トヨスキイリヒメの兄トヨキイリヒコ(豊木入日子)が下野の宇都宮に遣られ、西倭国と東倭国が統合された「大倭国」が成立する可能性が出て来たことから、西日本にだけ焦点を置いたトヨスキイリヒメのミッションは中断された、と推定できます。

 

(2)ヤマトヒメは東西統合を象徴する場所として、東国への玄関口に的を絞った

                ――時期は西暦320年代半ば――

 ヤマトヒメの巡行地を追っていくと、東西倭国の統合を象徴する場所として、大和から東国に至る東山道東海道海路の三つの玄関口にあたる場所を模索したことが分かります。この中で東海道は富士山麓の三島から御殿場、足柄に至る区間が富士山の噴火による熔岩で埋め尽くされて通行不能となっていたため、三島が最終地点となっていました。折から垂仁天皇の大事業として、瀬戸内海西部の大三島諸島周辺から徴発された人々(三島大社)による三島から足柄に至る作業が進行していました。

 ヤマトヒメは宇陀、名張、伊賀(穴穂宮、柘植宮)を経て、東国だけでなく越三国の北陸地方への入り口であることも念頭に入れていたのか、まず東山道(後の中山道)に入って近江国の琵琶湖東部(坂田宮)、美濃国の瑞穂市(伊久良河宮)に進みました。

 その後、尾張国の一宮(中嶋宮)から南下して木曽川を越えて伊勢国に入り、東海道の玄関口に当たる桑名(野代宮)に入ります。この地に決めることもできましたが、「一応、海路での入り口も見ておこう」と、亀山(鈴鹿奈具波志忍山宮)、松阪(飯野高宮)を経て、宮川と五十鈴川に下っていくと、河口の港地域は船乗りや乗船を待つ人々で賑わっていました。

「やはりこの地が適切だ」とヤマトヒメは大和の祖神を祀る地を五十鈴川の地に決めました。この地区は大和盆地から海路で行く際の出発地点でしたし、嵐や時化の恐れもあるものの、黒潮に乗れば東海道や東山道よりも速く東国に到着します。大和国の東国制覇の突破口を開いた意富氏とタケカシマ(建借馬)一行も、東国支配の統括者となったトヨキイリヒコも五十鈴川河口から、下総と常陸の境となる水道に向けて出立して行きました。水道を挟む鹿島と香取は大和の東国支配の窓口として、重要な場所となっていました。なぜ最初の三大神宮が伊勢神宮に加えて東国の鹿島神宮と香取神宮であるのか、という疑問もこれで理解できます。  

 同時進行の形で進められている日本神話の編纂作業では大和の祖神アマテラスと太陽神オオヒルメを合体化することが内定しており、五十鈴川地域は太平洋から太陽が昇って来る地でもあったことから、朝廷の人々も納得しました。

 

2.大和朝廷の関東平野進出の五段階

   ――関東平野支配の実質的な入り口は鹿島と香取を結ぶ水道だった――

(関東平野進出の五段階)

第一段階 尾張氏と物部氏の関東平野進出の試み

       ――第八代孝元天皇・第九代開化天皇時代  西暦230年~260年頃――

 大和の東国進出の試みは、第七代孝霊天皇による阿波国制覇の影響で、黒潮に乗って房総半島の南端(安房)に逃亡した阿波国からの集団を追う形で、尾張氏と三河・遠江の物部氏が上総に進出したことに始まりました。しかし下総と武蔵の土着部族の勢力が強いことから、北進を阻まれてしまいました。

遺跡:千葉県市原市の初期前方後円墳群

   千葉県木更津市初期前方後方墳群

 

第二段階 四道将軍の一人タケヌナカハワケは関東平野の西端を通過したに過ぎなかった   

        ――西暦275年頃――

 腹違いの叔父タケハニヤス(建波邇安。母は河内アマツヒコネ族)の反乱を鎮圧した後、第十代崇神天皇は丹波・丹後に腹違いの弟ヒコイマス(日子坐)、北陸に義父オオビコ(大毘古)、東国にオオビコの息子タケヌナカハワケ(建沼河別)を派遣して、東日本進出に着手しました。オオビコとタケヌナカハワケは会津で再会を果たしました。しかしタケヌナカハワケは東山道から碓氷峠を越えた後、広大な関東平野には入らず、西端の那須道を進んで会津に進んだだけで、関東平野は手つかずのままでした。

神社:(岩城)伊佐須美神社

国造:那須国

 

第三段階 意富氏とタケカシマの常陸・下野・上野、信濃への進出  

――西暦270年代末――

 大和による本格的な関東平野への進出は下総と常陸の境となる水道から内海(現在の霞ケ浦)に入ったことにあり、常陸国風土記の行方(なめかた)郡のタケカシマ(建借馬)による国栖(くず。土着民)制圧の逸話に描写されています。

 私の想像では、吉備邪馬台国の最後の女王であったトトビモモソヒメ(自説ではトヨ・台与)が「吉備が大和に敗れたのは、海からの攻撃だった」と崇神天応に述懐したことがヒントになった、と見なしています。

意富氏とタケカシマは筑波の内海(榎浦流海、信太流海、佐我流海)を征した後、上野(群馬県)経由で信濃の上田へ、下野(栃木県)経由で陸奥地方の阿武隈川へと進みましたが、関東平野の中心部の武蔵と下総への進出は阻まれました。

神社:茨城県 鹿島神宮、千葉県 香取神宮

国造:意富氏:(下総)印波国 (信濃)科野国

   建借馬:(常陸)仲国

 

第四段階 タケヌナカハワケとアマツヒコネ族の筑紫刀禰の東西移動とトヨスキイリビコの東国入り      

        ――西暦283年頃――

 崇神天皇は義父であるオオビコと義弟のタケヌナカハワケ親子が外戚として力を蓄え、北陸と東国の実権を握られることを危惧しました。また同族の崇神天皇の腹違いの叔父タケハニヤスビコの没落で勢力が衰えたものの、安芸、周防、長門と筑紫に居座っているアマツヒコネ(天津彦根)族と配下のアメノユツヒコ(天湯津彦)族が西日本での勢いを増していることも気にかかりました。

 一計を図った崇神天皇はタケヌナカハワケを筑紫国に、筑紫刀禰を筆頭にするアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族を東国に移し、これに合わせて東国を治める総帥として息子のトヨキイリビコを関東平野と陸奥の中間点に位置する下野に送り込む、という大胆な一石三鳥策を実践しました。

 アマツヒコネ族は常陸の茨城国を拠点に武蔵、相模、下総、上総の一部を占拠しましたが、武蔵の大部分には攻め入ことができずにいました。アメノユツヒコ族は陸奥地方を席巻していきました。

タケヌナカハワケ)

国造:筑紫国

(アマツヒコネ族)

国造:(相模)師長国、(武蔵)胸刺国、(上総)須恵国、馬来田国、(常陸)筑波国、茨城国、道口岐閉国、(陸奥)道奥菊多、岩城国

(アメノユツヒコ族)

国造:(陸奥)阿尺国、思太国、伊久国、染羽国

(トヨキイリヒコ)

神社:宇都宮二荒山神社

国造:上毛野国、下毛野国、(陸奥)浮田国

 

第五段階 出雲族の武蔵と陸奥への侵攻  

――西暦285年頃――

 本州西部で最後まで独立を保っていた西出雲王国は吉備の吉備若彦が南と東から、筑紫に移動したタケヌナカハワケが西から攻め込んで、崇神天皇の軍門に下りました。敗れた西出雲の住人の一部は東国と大和盆地に送り込まれました。大和盆地では首都の警備役を任されて、応神朝時代の薩摩隼人の先例となりました。東国では常陸から武蔵と下総に攻め入り、とうとう武蔵と下総も大和の勢力下に入り、崇神天皇の日本統一事業は完結しました。

出雲のスサノオ系と忌部系 

神社:(武蔵)氷川神社、(鶴見川・出雲忌部系)杉山神社

国造:祖先は出雲臣 (武蔵)旡邪志国 (下総)下海上国 (上総)上海上国、伊甚国、菊麻国 (安房)阿波国

アヂスキタカヒコネ系  大和に徴発された出雲族と連動

神社:都々古別神社、石都々古別神社  (葛城国)高鴨神社、鴨都波神社

 

 

《2》ヤマトヒメは第二王朝誕生の影の立役者

 なぜヤマトヒメが第二王朝である応神朝誕生の影の立役者なのか、奇妙に感じる方、理解に苦しむ方も存在すると思いますが、カギは神功皇后が筑紫の香椎宮、長門の豊浦宮と摂津で祀ったアマテラス、ワカヒルメ、コトシロヌシ(事代主)と住吉神の四者にあります。

 

(神功皇后とヤマトヒメ・アマテラス)

仲哀天皇の死後、香椎宮、豊浦宮と務庫水門で現れた神々(日本書紀)

―アマテラス(伊勢神宮)    広田神社

―ワカヒルメ(志摩の海人)  生田神社

―コトシロヌシ(事代主)(大和盆地の警護役)      長田神社

―住吉三神(瀬戸内海東端の海人) 本住吉(摂津)

 

 四神のうち、ヤマトヒメと直接的な関わりがあるのは、伊勢神宮のアマテラスと志摩の海人の神ワカヒルメ、摂津の海人の神の住吉三神です。出雲の神コトシロヌシは一見すると不可解な印象を与えますが、崇神天皇末期に首都圏の大和盆地の警護役となった出雲人の守護神と見なすと納得できます。

 

(第二王朝の成立へのヤマトヒメの関りを年別で追っていくと)

大胆過ぎて賛否両論があるでしょうが、私なりの推論を年別に記しながら、ヤマトヒメと第二王朝である応神朝始動との関りを記してみます。

 

西暦年(但し推定年)

325  ヤマトヒメの伊勢神宮選定

330  崇神天皇の崩御、景行天皇即位

――景行天皇はヲウスを煙たがり、妹のヤマトヒメがヲウスをかばった――

景行天皇(オホタラシヒコ‐ヲシロワケ大足彦忍代別)は最初の后オホイラツメ(播磨稲日大郎女)が生んだオホウス(大碓)とヲウス(小碓)の双子の兄弟のうち、小賢しいが憎めないオホウスを可愛がり、強健なヲウスとはそりが合わないのか、煙たがっていました。反対に妹ヤマトヒメはヲウスに王位継承の素質があると、子供の頃から可愛がりました。妹を牽制する意味もあってか、景行天皇は自分の娘であるイホノヒメミコ(五百野皇女)を伊勢神宮の斎宮に任命したりもしました。

335年~

――ヲウスの熊襲征伐――

九州西南部の熊襲が反乱の動きを見せたことから、景行天皇はヲウスに熊襲討伐を

命じましたたが、何を思ってなのか、ヤマトヒメはヲウスに女衣装を渡しました。ヲウスはその衣装で女装して、熊襲の首領(トロシカヤ取石鹿文)を殺しましたが、その当時は、大和政権の支配は熊襲・隼人の中心部までは及んではおらず、高原町、小林市、えびの市の霧島山麓の北側を通過して、人吉市に抜けただけでした。

340年~

――ヲウスの横死――

景行天皇は東の辺境の地の蝦夷制圧もヲウスに命じました。「本来なら蝦夷退治はオホウスに命じるべきなのに、父王は私が討ち死にすれば良いと思っているのだ」と不服に感じながらも、ヲウスはヤマトヒメが託した草薙剣を携えて東国に向かいました。無事に蝦夷退治に終えて尾張に戻ったヲウスは、美濃の伊吹山の荒ぶる神退治に出向きましたが山の冷気に襲われて病を患い、伊勢の亀山で横死をしてしまいました。

ヲウスを次の王にと期待していた周囲はヲウスの死を悼みながら、落とし児のタラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)に期待をかけました。

345年~

――ヲウスの遺児タラシナカツヒコ――

ヲウスの遺児タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)が叔父の彦人大兄の娘と結婚

し、カゴサカ(麛坂)とオシクマ(忍熊)兄弟が誕生しましたが、タラシナカツヒコにとっては父と同じ期待がかけられていることが重荷でした。

――稚足彦(ワカタラシヒコ。成務天皇)を皇太子に――

景行天皇はヤサカノイリビメ(八坂入媛)が生んだ王子ワカタラシヒコを後継者に指名すると同時に、皇子55人、皇女26人のうち、70人あまりを各国の国造、県主、郡長、別(わけ)に降下させる政策を公表して、先行例として神櫛王を讃岐の国造にしました。

これに対して大和と周辺だけでなく、各地の国造や豪族が反発しましたし、後継王はヲウスの息子タラシナカツヒコにすべき、との声も出ました。いたたまれなくなった景行天皇は加勢を求めて東国に行き、上総に入りましたが、常陸の意富氏等の意向により下総から先に進むことができずに、しぶしぶ都に戻りました。

346年~  百済の成立(近肖古王)

――タラシナカツヒコの筑紫行き――

タラシナカツヒコは父と同様の期待を周囲からかけられていることが重荷になっていたこともあり、新妻に迎えたオキナガタラシヒメ(気息足媛。神功皇后)を伴って北陸の敦賀に向かい、敦賀の県主にでもなって定住する心積みでいました。

しばらくして、自分の屯倉の視察で神功を敦賀に残して、淡路島に行きました。視察を終えて、伊勢のヤマトヒメに挨拶をしてから、敦賀に戻ろうと紀伊道を進んでいると、東国から大和に戻って来た景行天皇の使いから、新羅と組んで反抗してきた有明海勢力の鎮圧に筑紫に遠征する命令を受けました。

「目ざわりとなったタラシナカツヒコを父ヲウスと同様に、辺境の地に送って死に至らしめようとの魂胆だ」と気付いたヤマトヒメは護衛として、ワカヒルメを信奉する志摩海人をつけました。摂津の住吉海人もタラシナカツヒコに合流して、筑紫遠征に出立しました。

350~ 

――長門の豊浦で足止めとなったタラシナカツヒコ――

長門の豊浦に到着して、敦賀から日本海経由でやって来た神功と合流しましたが、

そこで足止めを食ってしまい、筑紫に向かうことが出来ない状況に陥ってしまいました。原因は、筑紫の中心部(那の川)に新羅から武器などの支援を受けた有明海勢力を主体にした造反勢力が跋扈していたことでした。

崇神天皇の政治的判断により、筑紫国の国造がアマツヒコネ族からタケヌナカハワケと阿部氏一族に交代してから、地元勢力との関係に支障が生じ始め、さらにタケヌナカハワケの死後、軋轢が激しくなり、そこに大和中央政権に不満を抱いた有明海勢力が入り込んだわけでした。長門と那の川の間に本拠地がある宗像海人も騒動に巻き込まれていたのか、タラシナカツヒコたちを見て見ぬふりをしていました。

逆に、新羅と有明海勢力の結びつきを懸念している遠賀川河口の岡県主のワニ(熊鰐)と伊都国の県主のイトテ(五十迹手))の尽力で、一行は那の川手前の香椎に入ることが出来ました。

353  

――景行天皇が近江の大津・高穴穂宮への遷都と崩御――

都では景行天皇への反対勢力が強まった結果、景行天皇は近江へ遷都の形で逃げ込まざるをえなくなってしまいました。失意の中、しばらくして崩御してしまいました。

355年  

――ワカタラシヒコの即位と武内宿禰の離反――

新王に即位したワカタラシヒコ(成務天皇)は武内宿禰を大臣に抜擢しました。父

王の遺言にそって兄弟姉妹の諸国への降下を継続しようとしましたが、各国の豪族が反発に右往左往してしまいます。優柔不断なワカタラシヒコは王として不適格と見限った武内宿禰らが成務天皇を見限り、タラシナカツヒコを王に擁立しようと、筑紫へ下って行きました。

 動揺した成務天皇は兄弟姉妹の各国への降下を中断して、崇神・垂仁天皇時代の国造体制の継続と、自身に子供がいなかったことから、タラシナカツヒコが大和に残していた息子のカゴサカとオシクマ兄弟も後継者の候補としましたが、時すでに遅し、といった状況でした。

 武内宿禰たちは筑紫の情勢を把握しましたし、筑紫の国造の安倍氏一族たちも武内大臣ら朝廷の主要人物の到来で、仲哀側になびいていきました。

356  新羅が辰韓諸国を統一(奈勿王)

357  

――仲哀天皇の戦死と半島の洛東江襲撃――

香椎宮では有明海勢力を攻めるか、新羅の洛東江の港を攻めるかで、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)は板挟みになっていました。

母方が新羅の台頭に押されて辰韓諸国から亡命して来た者たちが主体となっている但馬国の一族であることから、半島の事情に詳しい后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)は「有明海勢力の背後にいる新羅勢力を叩くのが肝心なこと」と夫の説得を試みたものの、「目前の大海を見回しても新羅の国など見えもしない」と意固地になった仲哀はがむしゃらに有明海勢力の征伐に出てしまいました。

ところが仲哀は出鼻の戦で重傷を負って香椎宮に戻って来ました。神功の妊娠を知らされた後、傷が悪化して仲哀は他界してしまいます。遺骸を長門の豊浦宮に送った後、神功が神の宣託を得る祭祀をすると、「伊勢のアマテラスコトシロヌシ住吉三神の三者を祀れ」との神託がでました。

この神託は「伊勢のヤマトヒメ、大和を警護する出雲人と摂津の海人を味方に引き込んで、近江勢力を倒して大和入りをしなさい」という意味だ、と悟った神功と武内は、即座に志摩海人を使者にして、伊勢のヤマトヒメと和邇(わに)氏の武振熊(たけふるくま)等の大和盆地内の近江反対勢力に神託を伝えました。

358  

――ヤマトヒメの調整と武内軍の洛東国急襲――

志摩海人から連絡を受けたヤマトヒメはすぐに大和へ赴き、和邇氏など近江勢力反対派や出雲警護隊の代表者などを集めて、「仲哀の死と神功が仲哀の子を身ごもっていること」を公表した後、「伊勢神宮のアマテラスの下に一致団結してくれ、筑紫から神功一行を迎え入れてくれるなら、各国の国造・郡長は現状のままで維持される」ことを確約しました。この声明は口コミでまたたくまに東国や北陸などの豪族に伝わりました。

 筑紫では、吉備臣鴨別が肥前、筑前と筑後の有明海勢力を叩いた後、志賀島の海人

の案内で洛東江の港を急襲して、新羅と有明海を結ぶ糸の分断に成功しました。

――近江朝軍との戦いとヤマトヒメとの面会――

神功がホムタ(誉田)王子(応神天皇)を出産した後、神功・武内一行は瀬戸内海を東上して、近江軍が舟を横に結んで明石と淡路島を結んだ防御線と突破しました。務古(武庫)の水門で託宣を受けて。アマテラスを広田、ワカヒルメを生田、コトシロヌシを長田、住吉三神を本住吉に祀りました。

 近江軍が失望したのは美濃を除き東の勢力が支援要請に応じなかったことでした。讃岐の神櫛王軍は明石海峡で遮られ、日向の豊国別皇子は支援には遠方すぎました。

359  

武内・和邇武振熊軍は宇治の戦で近江軍を粉砕し、成務天皇は幽閉されました。大和入りした神功はヤマトヒメと面会して、ヲウスの孫、仲哀の遺児であるホムタ王子を披露し、ヤマトヒメの承諾を得て神功皇后の摂政時代が始まりました。

筑紫地方と本州・瀬戸内海を結ぶ海路の主役である宗像海人は近江側に加担そたことから神功皇后の摂政時代は無視されました。宗像氏が復活するのは半島への航路で沖ノ島ルートを確立させた後のことになります。

360  

――伊勢神宮の権威確立――

神功皇后はヤマトヒメとの約束を守って伊勢神宮の権威付けが固まり、応神朝の最高位の神社となりました。近江朝が継続していたなら、伊勢神宮のここまでの権威付けはありえなかったことでしょう。

 

 その後、新羅の伸長を恐れる弁韓諸国と百済からの切望もあって、日本軍の半島進出が本格化しました。

364 百済が日本への遣使を図る。   

367 百済の使者が日本に至る。

369 倭軍の出兵。半島南部(弁韓地方の一部)を勢力下に置く。

391 倭軍出兵。百済・新羅を破る(好太王碑)。