その4竹河      (カオル 14歳~21

 

3.左近中将コリニー等の懐旧とヒゲ黒の長女ソフィーの院参決定   (カオル 15歳)

 四月に入り、咲く桜があれば、空を覆うほど散り乱れる桜もあるものの、大概は桜の花が盛りになっている頃、いつものどかに暮らしている邸では、退屈さを紛らわすことは他にはなく、花見で端近くに出ても人目に触れる心配もないようです。

 その頃、姉妹は十七、八歳くらいでしょうか、姿形も気立てもそれぞれに優れていました。ことに長女ソフィーは際立って美しく、気品があり華やかさもあるので、臣下の人に嫁がせるのは相応しくないように見えます。桜色のドレスの下に、福寿草色などの時節に合った色合いの中着を重ねて、裾のあたりまで愛敬が零れ落ちるように見えますし、身のこなしも上品で美しいので、見る側が気圧されるような感じすらありました。

 一方の次女ドロテーは薄紅梅のドレスに、しなやかにかかる髪が柳の糸のように見えます。背が高くすらりとして、みずみずしく澄み切った様子で、分別がありそうな重々しい様子は、姉よりも勝っていますが、「華やかで美しい気配は、姉の方が格段にすぐれている」と誰もが感じていました。

 

 チェスを打とうと、差し向かいになった二人の髪の生え際、垂れかかっている具合も大変見所がありました、審判役に三男のセバスチャンが側についていましたが、長男コリニーと次男フェルナンが覗いて、「チェスの審判役を任されるとは、セバスチャンも気に入れられたものだ」と大人ぶった態度で見物し出したので、侍女たちは急いで居ずまいを正しました。

「王宮勤めが忙しくなってしまい、妹たちのお守り役をセバスチャンに奪われてしまった。心外なことだ」とコリニーがこぼすと、フェルナンが「私のような辨官は、まして王宮での仕事が多く、手を抜かせられないでいるから、妹たちの世話まで手がまわらないし」と続けました。

 兄たちに囲まれて、チェスを打ちかけたまま、恥ずかしそうにしている二人の姫君は、とても美しい感じです。  

「王宮の中を歩いていても、父大臣がいてくれたなら、と思うことが多くあるのだが」などと、コリニーは涙ぐみながらソフィーとドロテーを見ていました。二十七、八歳になっていて、すっかり分別がついていましたから、二人の妹の様子を見ながら、「亡き父が望んでいたように、どうやって妹たちを貴婦人として王宮に上げられるだろうか」と考えていました。

 

 前庭の花の木々の中でも匂いが勝って見事な、ボールガール城から移植した桜の枝を折らせて、「他のものには似ていませんね」などと姉妹がもてあそんでいるのをコリニーは見ながら、「二人が幼かった時分に、この花は私のものです、いいえ私のものです、と言い争っているのを父上が見て、『これは姉ソフィーのものだ』とおっしゃったが、母上は『妹ドロテーのものです』と言われた。そして二人は泣き騒ぐまではしなかったが、不平顔でいたのを覚えていますか」と話した後、「この桜も老木になったことにつけても、過ぎ去った歳月を思い出すと、数多くの人に先立たれてしまったので、自分の悲しみもきりがない」などと泣いたり笑ったりしながら話し続けましたが、いつもよりのんびりとしていました。近頃、婿入りをして、今は落ち着いてもいられない状況ですから、自分の実家に戻った今日は花に心を引かれながら、ゆっくりしていました。

 

 玉鬘はこのように大人に成長した子供たちの母となっていますが、四十七歳くらいの歳のわりにはまだ若々しく綺麗で、まだまだ盛りの美貌に見えました。冷泉院は依然として、玉鬘の面影が今もなお心に掛かって「パヴィアでの敗戦で捕虜になっていなかったなら、貴婦人として迎えていただろうに」になどと、昔の玉鬘を恋しく思い出しながら、「何かにかこつけて」と思案をめぐらせ、玉鬘の姫君を貴婦人として迎えることを熱心に申し入れて来ました。

 子供たちが勢ぞろいした場で、玉鬘はこの件について相談しました。

「やはり、栄えないない印象がします。すべて物事は時勢に乗ってこそ、世間の人も納得するものです」、「確かに冷泉院の様子は世に類ないように見えますが、盛りが過ぎてしまった感じがします」、「ハープや笛の調べ、花や鳥の色や音色も時期にかなってこそ、人の耳にも止まるものです」、「むしろフィリップ王太子の許に上げたらどうでしょう」と息子たちは口々に反論しました。

「王太子はどんなものでしょう。もうすでに夕霧大臣の長女アリアンという、打ち捨ててはおけない方が上がっていて、並ぶ者が誰もいないように寵愛されていますし、スコットランドから来られたメアリー・スチュアートの存在も無視できません、その中に中途半端に立ち交らわせてしまうのは、心配でもあり、人にも笑われてしまうので、気がひけます。父上が健在なら、行く末の運命は分からないとしても、差しあたっては何の引け目もなしに取り計らってくれたことでしょうに」などと玉鬘が答えたので、皆しんみりとしてしまいました。

 

 コリニー中将たちが立ち去った後、姉妹は打ちかけていたチェスを再開しました。幼い頃から言い争ってきた桜の木を賭け物にして、「三番勝負で一番勝ち越した方が桜の持ち主になりましょうね」と戯れ合っているうちに、暗くなって来たので、端近くに寄ってチェスを続けました。侍女たちもカーテンを開け放して、自分側の姫君が勝つように念じながら見入っていました。

 ちょうどその時、例のフレデリク少将がセバスチャンの部屋に来ていました。セバスチャンが姉妹のチェスの審判役として部屋を出て行った後、辺りの人気も少なくなり、廊下のドアが開いているのに気づいて、そっと寄って行って姫君のいる部屋を覗きました。

「こんな嬉しい機会を見つけたのは、キリストが姿を現した世にめぐり合わせたようなものだ」という思いがするのは他愛もない恋心というものです。

 夕暮の霞に紛れてはっきりとはしませんが、じっと見つめていると、桜色のドレスの色も模様も恋しいソフィーのものだ、と見分けがつきました。本当に、(歌)衣を桜色で深く染めてみよう 桜が散った後の形見として といったように眺めていたいほど、魅力が多く見えるので、こうした女性が他の男のものになってしまうのがやりきれなくなります。

 

 若い侍女たちがくつろいでいる姿が、夕映えに映えて美しく見えました。右方のドロテーが勝ったので、「右が勝った時に奏されるフランドル風の音色が遅いですね」などとはしゃいでいる侍女もいました。「元々、あの桜の木は右方に味方していて、西側の部屋の近くにあったのに、左方のものだと言い張ったので、長年の争いになってしまったのですよ」と右方のドロテーの侍女が心地よさそうにはやしたてていました。

 フレデリクには何のことか理解は出来ませんが、「興味深い」と話に割り込んでみたい気はするものの、「打ち解けている折りに、そんなことをしてしまうのは印象がよくない」と考えて、邸を去りました。そうしたことがあった後は、「またこのような機会がないものか」と物陰に隠れながら、邸内をうろうろして、様子を窺っていました。

 

 姉妹は桜の木の取り合いをしながら、毎日を過ごしていました。風が激しく吹いている夕暮れ時、花が乱れ散っていくのがとても残念で惜しいので、負け方になったソフィーが詠みました。

(歌)桜のせいで 風が吹く度に 気が揉めてしまう 私のことを思ってくれない花だと知りながら

 ソフィー方の侍女カリンが同情して詠みました。

(歌)咲いたかと思うと すぐに散ってしまう花ですから 負けても深く恨むことはありません

 すると勝ち方の右のドロテーが返しました。

(歌)風が吹いて散っていくのは  普通のことですが 枝ごとそっくりこちらの木になった花を 

   平気で見ることはできないでしょうね

 ドロテー側の侍女アデルが続きました。

(歌)こちらに味方して 池の水際に落ちた桜の花よ 水の泡となっても こちらに流れ寄ってくださいね

勝ち方の童女が庭に下りて花の木の下を歩き回り、散った花びらを沢山集めて来て詠みました。

(歌)大空の風に吹かれて散った桜の花 自分たちのものだと思って 搔き集めて来ました

 これに答えて、左方のソフィーの童女が詠みました。

(歌)桜の花の色香を散らせまいとしても すっかり包み込んでしまうほど 大きな袖などないでしょうに

「心が狭いように見えますよ」などと言い返しました。

 

 そうこうしているうちに、何となく月日が過ぎていく中、玉鬘は娘二人の将来を案じながら、あれこれと思いをはせていました。冷泉院からは毎日のように催促がありました。アンジェリク貴婦人からも「姉妹なのに私のことを疎んじているのでしょうか。院は私が間に入って邪魔をしているのだろう、ととても憎らしそうに話していますが、冗談にしても辛いことです。同じことなら、なるべく近いうちに決心して下さい」などと本気で伝えてきます。

「やはりこうなるべき縁があるのだろう。ここまで強く言われるのも、かたじけないことだし」と玉鬘は決断しました。持参する調度類はヒゲ黒が存命中に色々と準備をしていましたから、付き添う侍女たちの衣装とか、ちょっとした細々な準備を急ぎました。

 この話を知ったフレデリクは死ぬほど悶え死ぬほど詰めて、母の雲井雁に「どうにかして欲しい」と責め立てるので、雲井雁も思い悩んでしまいました。

「こうしたさしでがましいことをお願いするのも、我が子を思う見苦しい愚かな闇の迷いでございます。親心がお分かりでしたら、どうかお察しくださって、当人を安心させてくだされば」と痛々しく訴えて来ました。

「困ったことだ」と玉鬘は溜息をつきながら、「どうしたらよいものか、自分でも決めかねていたのですが、冷泉院からむやみやたらと申し入れがありましたので、私も困ってしまいました。息子さんに本当に愛情をお持ちなら、この度は我慢していただきたく。いずれお気持ちが慰められることもありましょうし、世間の評価も波風が立つことはないでしょう」などと返信したのは、「この件が落ち着いたら、妹のドロテーをフレデリクに」と考えているからでしょう。

 

 玉鬘は「二人を同時に嫁がせるのはあまりに得意顔に見えるだろうし、フレデリクもまだ官位なども低いことだし」と考えていますが、フレデリクは今さらソフィーへの思いを妹に移すことは出来ません。先日、ソフィーを隙見した後はその面影が恋しく、「いつか良い機会にでも」と思っていたのに、望みが叶わなかったので、この上もなく思い嘆きました。

「どうせ何の甲斐もないだろうが、せめて話を聞いてもらおう」とフレデリクは例のようにセバスチャンの部屋を訪れると、カオルの手紙を読んでいました。セバスチャンが慌てて隠そうとしたので、フレデリクは「さては」と感じて手紙を奪い取ろうとしましたが、「何か秘密があるように思われても」とセバスチャンは強いて隠そうともしませんでした。

 カオルの手紙は何ということもなく、ただ男女関係のつれなさを恨めしそうにほのめかしているだけでした。

(歌)私の思いにつれなくて 過ぎていく月日を数えながら 物恨めしい春の暮となってしまった

「なるほど、恨み言を語るとしても、こういったように緩やかに体裁よく詠む人もいるのだ。自分が人に笑われてしまうほど無我夢中になってしまったことを、この邸の人たちも慣れっこになってしまい、侮られてしまうようになったのだ」と思うと、胸が痛くなってセバスチャンには何も話しもせずに、いつも仲介役を頼んでいる侍女のジュリーの部屋に行こうとしたものの、「例によって何の甲斐もありはしないのに」と溜息をつきました。カオルからの手紙の返信の相談でセバスチャンが母親の部屋に向かったのを見るだけで、とても腹が立って苛ついてしまいます。まだ若いだけに、一途にむしゃくしゃしていました。

 

 ジュリーの部屋でもフレデリクは見苦しいほど恨み嘆くので、仲介役もあまり冗談も言い辛く、気の毒に思いながらも返事も出来ずにいました。フレデリクは姉妹がチェスを打っていた光景を隙見した、あの夕暮のことも話し出しました。

「せめてあのくらいの夢だけでも、もう一度見てみたいものだ。ああ、これから何を頼みにして生きて行けば良いのだろう。こうやって君と話したりするのも残り少ないことになってしまった。(歌)嬉しい思い出だったら 忘れることもあるだろうに あの人の薄情さの辛さが 長く消えない 恋の形見になった といった歌は本当のことだった」と真顔で言ったりしました。

「同情はいたしますが、何とも慰める言葉もありませんよ。玉鬘様が貴方の気持ちを慰めようと、妹のドロテー様を差し上げようとされているのに、貴方には嬉しいと思っている様子は露ほどもありません。なるほど、その夕暮の隙見で、ソフィー様への生憎な思慕が募ったのは無理もないこととは思いますが、隙見をされたことを知られたら、なんというけしからぬ心持ちの人なのだろう、と反感を抱くことでしょう。お気の毒と思っていた私の気持ちも消えてしまいました。とても油断できないお方なんですね」とジュリーは向かい火を焚きつけました。

 

「ええい、もうどうなろうと構いはしない。もはやこれっきりの命なのだから、恐いものはなくなってしまった。それにしても、あの時ソフィー様が負けてしまったのは気の毒だった。寛大にも私を側に招き入れてくれていたなら、目配せをして勝たせてあげたのに」とフレデリクが言い返しました。

(歌)いやもう何としたことか 私のような数にも入らない者が どうにも出来ないことは 

   勝負に負けまいとする心持ちなのに

とフレデリクが詠むと、ジュリーが吹き出してしまいました。

(歌)それは無理というものです 勝負事は強い方が勝つものなのに 貴方の気持ち一つでどうなりましょう

とのジュリーの返歌はフレデリクにとっては辛いことでした。

(歌)可哀想と思って 手を貸してください 生きるも死ぬも 貴女次第の我が身と思うなら

とフレデリクは泣いたり笑ったりしながら、ジュリーと一晩中語り明かしました。

 

 

4.ソフィーの院参、安梨王・カオル・蔵人少将フレデリクの未練    (カオル 15歳)

 翌日はもう五月に入って、フレデリクの兄弟たちは王宮に上がるために慌ただしくしていましたが、フレデリクだけは一人滅入り込んで物思いに沈んでいるので、母の雲井雁も涙ぐみながら見ていました。父の夕霧大臣も「冷泉院の懇望がったようだから、何があろうと一通りでは聞き入れてはくれないだろうと思ってはいたが、悔しいことに玉鬘と対面したついでに、フレデリクとの縁組を切り出さないでしまった。自分が是非とも、と頼み込んでいたなら、まさか否とは言えなかっただろうに」と悔やんでいました。

 そうした両親の心配の中で、フレデリクは自分の心境を詠んでいました。

(歌)桜の花を見ながら 春を暮らしたが 今日からは 繁った木の下で 途方にくれながら 

   うろうろすることだろう

 

玉鬘邸では誰彼となく上級の侍女たちが、ソフィーに求愛した人たちが気の毒だったことを語り合っている中で、ジュリーが「フレデリク少将が『生き死にをしてしまう』と話した時の様子は、口先だけでなくて、お気の毒なほどでした」などと話すのを、玉鬘も「不憫なことだ」と聞いていました。

「夕霧大臣や雲井雁の思いを念頭に入れて、『そんなにソフィーのことで深く恨んでいるのなら』と代わりに妹ドロテーを差し上げようと考えているのに、ソフィーが冷泉院に上がることを邪魔しようと考えているのは、目にあまることだ。亡くなった夫が『どんなに立派な人物であっても、ソフィーは決して臣下とは縁組をさせてはいけない』と決めていたことだし、ソフィーを冷泉院に差し上げたとしても、これから先の光明も見えないのに」と玉鬘が思っているところに、フレデリクが詠んだ歌が取り次がれたので、皆は「可哀想に」と感じました。

 ジュリーがフレデリクの歌への返歌を詠みました。

(歌)空を眺めているふりをして 花に心を奪われていたと 今日初めて知りました

「まあ、何て気の毒なことを詠んでしまうのですか。冗談事にしてしまったと思われてしまいます」などと批判する者もいますが、ジュリーは面倒ぐさがって詠み直しもしません。

 

ソフィーは五月九日にフォンテーヌブロー城に上がりました。夕霧右大臣は馬車やお供の人々を大勢付けました。雲井雁は「恨めしいことだ」と思っているものの、「玉鬘とは長年それほど懇意にはしてこなかったのに、今回の件で頻繁に手紙をやり取りするようになっていたので、ふっつりと途絶えてしまうのもおかしいことだ」と考えて、祝い品として結構な女衣装を沢山贈りました。

添えられた手紙には「妙に気が抜けたようになってしまっている息子の世話に振り回されて、今回の件は知らずにおりました。こちらにお知らせ下さらなかったことは他人行儀な、と思っております」と書いてありました。冷静なようでいても、恨みをほのめかしているのを、玉鬘は「困ったことだ」と感じました。

夕霧からも手紙がありました。「私自身も参るべきだと思っておりましたが、戦略会議などがありますので、代わりに息子たちを『雑用にでも』として遣ります。遠慮をせずに使ってください」と書いていて、エレーヌの息子の五男ジョセフ源少将、雲井雁の息子の六男シモンを寄越したので、玉鬘は「情け深いお方だ」と喜びました。

ロラン大納言もお供の人々向けの馬車を提供して来ました。夫人は故ヒゲ黒大臣の娘である真木柱ですから、ロランと真木柱のどちらの関係から見ても、玉鬘家と親しい付き合いをすべきなのですが、そうというわけでもありません。やはり実母から父親を奪った玉鬘への憎しみが消えてはいないのでしょうか。それでも真木柱と同腹の弟ベンジャミン中納言は自らの意思でやって来て、異腹の弟コリニー中将、フェルナン弁の君たちと一緒に手伝いをしました。皆は「ヒゲ黒太政大臣が存命されていたなら」と何かにつけて嘆いていました。

 

 フレデリクは例のジュリーに恨みを綿々と書き尽くした手紙を送りました。

「今はもうこれ限りと諦めた命もそうは言ってもがさすがに悲しくてなりません。ソフィー様から『可哀想と思っております』とだけでも、一言おっしゃって下さるなら、その言葉に引き留められて、今しばらくは生き永らえることができましょう」。

 ジュリーがフレデリクの手紙を持って居間に行くと、ソフィーとドロテーがうち語らいながら、別れを惜しんでいました。これまで夜も昼も一緒にいて、中ドアだけを隔てた西と東の部屋に住んでいるのさえもどかしく感じて、互いに行き来をしてきたのに、離れ離れになってしまうことを悲しんでいました。ことにこの日はとりわけきらびやかに着飾っている様子が何とも美しい。

 

 姉妹は亡き父が語っていたことを思い出しては、物悲しさに浸っていましたが、ソフィーはフレデリクの手紙を手に取って読んでみました。

「あちらでは、夕霧大臣も雲井雁もしっかりされていて、何の不足もないようなのに、どうしてこんな取るに足らないことを考えたり言ったりするのだろう」と不思議に感じながら、「『もうこれ限り』と書いているのは本当だろうか」と思って、手紙の端に詠みました。

(歌)無常な世の中での 「あわれ」という一言は どういう人に向けて いうべきなのでしょうか

「縁起でもないことだとぼんやり認識するだけです」と書いて、「こういった風に返信してください」と言って渡すと、ジュリーは書き直しもせずにそのままでフレデリクに送ってしまいました。

受け取ったフレデリクはこの上もない貴重な筆跡に狂喜しながらも、もうこれが最後のやり取りかと思うと涙が止まりません。すぐに折り返し、(歌)私がこのまま恋死にしてしまい 誰のせいだと問われたら 貴女が世の中は無常なものと言い放ったところで 貴女以外の誰でもありません との歌を引用して、いかにも恨みがましい返信をしました。

(歌)生きているこの世での死は 思い通りには行きません 貴女の「あわれ」という一言を聞かずに 

   諦めることが出来ましょうか

と詠んで、「私の墓に『あわれ』というお言葉をかけて下さる気持ちをお持ちだと思いますので、一途に死を急いでおります」などと書いてありました、それを読んだソフィーは「うかつな返歌を詠んでしまった。ジュリーは書き変えをしないで、私が書いたものをそのまま渡してしまったのだ、と苦々しく思って、その後はジュリーと話もしなくなりました。

   

フォンテーヌブロー城に従っていく侍女と女童は見栄えが良い者ばかりを揃えました。大方の儀式などは王宮に貴婦人として上がる時のものと違った所はありませんでした。付き添った玉鬘は、まずアンジェリク貴婦人の間に行って挨拶をしました。

夜が更けてからソフィーは冷泉院の寝室に入りました。秋好妃やアンジェリクなどの貴婦人たちは皆、年月を経て年配になった中で、とても美しく十八歳の若盛りで見所があるソフィーを見て、四十四歳になる冷泉院の心は一通りではなく、花やかにときめきました。譲位した後、普通人のような気持ちで気安く暮らして来た様子で、本当に申し分ない容姿でした、ただ「玉鬘がしばらくの間はソフィーの付き添いで留まってくれるだろう」と期待していたのに、さっさと城を退出してしまったのが残念で、心残りになっていました。

 

同じ城に住むカオルを冷泉院は明け暮れ、側に呼び出していて、まるで桐壷王がまだ幼いヒカルを寵愛したことに劣らない扱いぶりでした。カオルは城に住む婦人達の誰とも分け隔てなく振る舞いながら、馴れ親しんでいました。新たに上がって来たソフィーに対しても、好意を寄せているように振る舞いながら、内心では「自分のことをどのように見ているのだろう」といった気持ちを抱いていました。

あるしめやかな気分の夕暮れ時、カオルはセバスチャンと連れ立って城内を歩いていると、五葉の松の木に藤の花がとても面白く咲きかかっているのを見たので、池のほとりの石の上に苔を敷いて眺めていました。カオルははっきりとではないものの、ソフィーを取り損ねた恨みをほのめかしながら話しました。

(歌)手にとって 自分のものにできていたならなあ あの姫のような藤の花の 松よりは勝った色を 

   空しく眺めるだけだ

と詠みながら藤の花を見上げている様子が妙に寂しそうなので、気の毒に感じたセバスチャンは、自分の本心とは違ってしまったことを釈明しました。

(歌)紫の色は 弟の私と似通ってはいるものの あの藤の花を 

   私が思っていた通りには出来ませんでした

 セバスチャンは真面目な性格でしたから、カオルに同情していました。カオルはソフィーに対して、思い乱れるほどは打ち込んではいなかったのですが、「残念だった」とは感じていました。

 

 あのフレデリク少将は本気で「自分はどうしたら良いのだろうか」と間違いをしでかしかねないほど、自分の心を抑え難い気持ちでいました。これまでソフィーに言い寄って来た男たちの中には妹のドロテーに鞍替えする者もいました。玉鬘は雲井雁からの苦言もあった手前もあるので、「ドロテーではどうだろうか」と考えて、フレデリクにほのめかしたものの、ふっつりと音沙汰がなくなっていました。夕霧大臣の息子たちはフォンテーヌブロー城に以前と同じように訪れていましたが、フレデリクはソフィーが上がった後はほとんど姿を見せなくなりました。まれに城内の詰め所に顔を出しても、つまらなさそうにすぐに退出してしまいます。

 王宮の安梨王も「亡くなったヒゲ黒大臣が娘を王宮に上げようと特別に望んでいたのに、それとは違った場所に差し出した、というのはどうしたことなのだろう」と思って、ソフィーの兄コリニー中将を呼んで説明させました。

 

「安梨王のご機嫌が芳しくありません。ですから、かねてから世間の心証も悪い方向に傾いてしまう、と忠告していたのに。母上の判断は私とは異なってしまい、ソフィーを冷泉院に差し出すことを決めたので、私もとやかく言わずにおりましたが、安梨王からこういった苦情を頂戴してしまい、私どもの身のためにも困ったことになってしまいました」とコリニーは不愉快そうに告げました。

「私としても、そう急に思い立ったわけではありません。前々から冷泉院から一途な申し入れがありましたし、後継人がいない身で王宮に貴婦人として上げたところで、中途半端にみじめな思いをするだけなので、今は気楽そうに生活されておられる冷泉院にお任せした方が良いと考えたわけです。『それは良くないことだ』と思ったなら、どなたも率直に忠告してくれたら良かったのに、今になってぶり返されてしまい、夕霧右大臣も『間違っていた』という風に話されているのは辛いことです。これも過去からの宿命というものでしょう」と玉鬘は穏やかに釈明しました。

 するとコリニーに次男フェルマンも加わって、「過去からの宿命と申されても、目には見えないものですから、王さまがそのように話された際に、『過去からの約束事ですから』とどうやって釈明できるでしょうか。『王宮のサン・ブリュー王妃に遠慮してしまう』と言われても、冷泉院の所にもソフィーの叔母に当たるアンジェリク貴婦人がいて、後見役やら何やかやと援けてくれると母上は思っておられるようですが、そういうわけにも行かないでしょう。まあ、どうなるか、様子を見守っていきましょう。しかしよく考えてみると、王宮にはサン・ブリュー王妃がおられるからと言っても、他の人が貴婦人として上がっていないわけでもありません。貴婦人として王宮に上がることは、それ自体が一族にとって安心できることだと、昔から関心が高いことなのです。アンジェリク貴婦人とちょっとした行き違いが生じてしまって、感情を害されてしまうと、世間でも色々と取り沙汰しましょう」と二人がまくしたてるので、玉鬘は困り果ててしまいました。

 

 そうした中で、冷泉院のソフィーへの限りない愛情は月日が経過して行くほど増して行き、八月に早くも懐妊しました。熱い最中につわりで苦しそうにしている姿も美しく、確かに様々な男たちがうるさいほど言い寄ったのももっともなことです。「これだけの女性をどうしておざなりに見過ごすことが出来るだろうか」と思えるほどです。

 ソフィー貴婦人を慰めようと毎日のようにフォンテーヌブロー城での管絃の遊宴が催され、カオルも冷泉院の側に呼ばれました。自然とハープの音色などが耳に入ります。梅の花が盛りになった頃に玉鬘邸を訪れて、流行り歌「梅が枝」を口ずさんでいると、それに合わせてハープを弾いたジュリーも、こうした遊宴にはいつも呼び出されて弾いていました。その音色を聴いて、弾き手が誰かに気付いたカオルはあの「梅が枝」の夜を思い出して、平静ではいられませんでした。

 

 

      著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata