大和天動説(大和が邪馬台国)と大和地動説(大和が狗奴国)の相違点

                               

         ーーー日本の「歴史時代」の始まりは、四世紀末からではなく、奴国の金印の紀元57年からーーー

 

      以下、大和邪馬台国説と大和狗奴国説の相違点、日本の「歴史時代の始まり」を整理してみました。

 

 大和天動説は「邪馬台国九州説」にせよ、「大和」を中心軸に置きます。

神武天皇即位は紀元前660年説」では四世紀後半の神功皇后以前が「神話時代」、以後が「歴史時代」となります。

神功皇后の実在も否定する「闕(欠)史八代説」では神功皇后以後の応神天皇ないし仁徳天皇以後が「歴史時代となります。

 大和地動説は、紀元57年の「奴国の金印」の後、吉備邪馬台国連合が北部九州の奴国・伊都国を制覇して瀬戸内海の吉備と日本海の出雲を主体とした弥生時代後期が始まり、三世紀後半に大和(狗奴国、葛国)が吉備邪馬台国を制圧した後、一挙に東西倭国(日本国)の統一を初めて実現した、という構図で、日本の「歴史時代」は一世紀の「奴国の金印」から、となります。

 

  項目

 

 関連書

 

 

 

 

 

 

 

 第一王朝と

 神功皇后

 の実在性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大和の

 主要氏族

 

 

 

吉備の特殊壺・特殊器台

の河内湾への

搬入

 

     大和天動説

 

隋書(公表は636年頃)

―「邪馬台国は大和〔邪靡堆)を明記。

日本書紀(公表は720年)

―神功皇后紀39年、40年と43年に卑弥呼、

 66年に台与の朝献を挿入して、あたかも

 神功皇后と120年前の卑弥呼・台与が

 同一人物であるかを示唆。

 

―五世紀初頭から渡来人系学者が来日して、漢

 字文字を伝える以前が「神話時代」、以後が

 「歴史時代」と区分した結果、

 神功皇后以前の各王は実在しなかった神話上

 の人物(人間神)と位置づけられた。

―日本書紀の歴代天皇年譜を鵜呑みにすると、

 神武天皇の即位は縄文時代の紀元前660年、

 欠史八代説では存在が否定される。

 

 

 

 

 

 

 

 

―意富氏、尾張氏、和邇氏、吉備氏、阿部氏、 

 天津彦根(アマツヒコネ)族など第一王朝の

 主要氏族にほぼ無関心。また日本神話と神々

 にも無関心だが、可能な限り、起源は朝鮮半

 島か中国にあることを模索。

 

―吉備勢力が特殊壺・特殊器台を引っさげて

 河内湾経由で大和入り。

 但し、搬入した吉備の主体者は不明。

 

 

     大和地動説

 

古事記(公表は712年)及び

 風土記(713年に撰上の詔)

ー両書とも邪馬台国、卑弥呼、台与の記載は皆無

 これは日本側は三国志・魏志倭人伝が明記した

 「邪馬台国」の名を知らず、「大和が邪馬台 

 国」とする伝承も存在していなかったことを示

 している。

 

―狗奴国(葛国)ないし大和国王として実在。

―西暦70年代前半に吉備・出雲連合が奴国・伊都

 国を攻撃する際に日向のヒコイツセ・イハレビ

 コ集団が警護役として遠賀川河口に駐在。

ー奴国の金印は半島とを結ぶ外洋航海集団「安曇

 族」が預かり、本拠地の志賀島に隠匿。

―吉備邪馬台国が奴国・伊都国を制覇して倭国(西日本)の盟主となった後、日向集団は投馬(伴)国の広島湾、吉備穴海の警護役を務める。

―水銀朱が重要な輸出品と気付いた吉備邪馬台国

 が集団に水銀朱の産地である宇陀野の確保を依

 頼。艱難辛苦の後、イハレビコは宇陀野ー磯城

 ―御所市―吉野川ー瀬戸内海を結ぶ水銀朱交易

 路を確立し、御所市を中心とした南葛城地方に

 葛国(狗奴国)を建国。

 

―第一王朝の主要氏族の全国の分布(国造本紀な

 ど)を考察していくと、葛国を前身とする大和

 王国の東西日本統一までの過程を把握できる。

 

 

 

―天下取りを狙う崇神天皇の叔父タケハニヤスの

 指示で、水軍の河内アマツヒコネ族が搬入。

 母方が河内アマツヒコネ族出自のタケハニヤス

 の本拠地は河内湾の八尾市。