その30.藤袴(薄紫の蘭の花)                                      ヒカル 36歳)

 

1.大混乱のアンボワーズ王宮

 

 大混乱となったアンボワーズ王宮にカール五世の特任大使が訪れ、冷泉王の無事を伝えましたので、王宮の誰もが胸をなでおろしました。ところが特任大使は「冷泉王はニース近郊のヴィルフランシュ(Villefranche-sur-Mer)港からスペインに移送された」と告げるだけで、幽閉先の場所は明らかにしませんでした。

 続いて特任大使は冷泉王の釈放に対して、法外な身代金、見返りとして安梨王太子を捕虜としてスペインへ、フランス側はブルゴーニュ地方やアルトワ地方などの領地を帝国側に譲渡、イタリア半島への野望を断念する、などとてつもない条件をつきつけてきました。アンボワーズ王宮とスペインのトレド王宮との煩雑な折衝が始まり、両国の外交官がせわしなく行き来し始めました。

 

 太政大臣ヒカルと内大臣アントワンは公的な交渉とは別個に、私的な人脈で関連諸国と交渉していくことを話し合いました。

 まずヒカルはカール五世の育ての親であるネーデルランドの白菊総督に冷泉王の早期釈放を訴える私信を出すことにしました。イングランドのヘンリー八世には虹バラを通じてフランスとの友好関係を求め、オスマン・トルコのスレイマン一世にはヒヤシンスを通じてオーストリア侵攻をそそのかすことにしました。黒ヒゲ大将とローマ教皇は同じメディチ家出自でしたから、ヒゲ黒経由で帝国への圧力を依頼することも決めましたし、ユマニスト人脈を通じてドイツの農民戦争を煽って帝国内を撹乱する戦略もヒカルは考えました。

 

 驚いたことにヒカルが手紙を送った数日後に、白菊総督から速攻で返信がありました。手紙を読むと、パヴィアの戦地で指揮を取るラノワ筆頭顧問からすでに詳細な報告書を受け取って、状況を性格に把握している模様です。

 内容は冷徹で威圧的なものでした。

「帝国軍が冷泉王を殺さずに済ませたことを有り難く思いなさい。甥のカール五世はオーストリア、ドイツ、ネーデルランドを含む神聖ローマ帝国皇帝であり、且つスペイン国王でもあり、もはや九世紀のシャルマーニュ大帝を凌ぐ西ヨーロッパの覇者であります。新大陸の領地を含めると、太陽が沈まない国がない大王です。いまやフランスなど相手にもならず、甥がフランス王国を飲み込むのは間近でしょう」。

 

 

2.玉鬘、女官長出仕中断の苦悩

 

 世間の人も捕虜の身となっている冷泉王の安否を心配していますが、玉鬘は、誰もが女官長として王宮勤めをすることを勧められてきたものの、どうしたら良いものか」と考え直しています。

「親同様と思ってもよいヒカル様ですら、迂闊に気を許すことができない世の中である。まして王宮勤めになって、王さまに言い寄られるような、思いがけない不都合が生じてしまったなら、秋好王妃も貴婦人の方々も私を警戒するようになって、立つ瀬がなくなってしまう。自分は孤児のように育ち、内大臣と太政大臣のどちら側からも深く思いやってもらえるほどでもない。ヒカル様にお世話になりだしたのはごく最近のことであるし、私の幸運を羨んで嘲笑してやろう、と機会をうかがっている人たちも多い。何かにつけ、安穏としてはいられないことばかりだ」と、もはや分別ができない年頃でもないのに、あれこれと思い悩んで人知れず歎いています。

 

「何やかや言っても、ヴィランドリー城でお世話になっているのも悪くはない。けれど太政大臣のお気の持ちようが厄介で好きになれない。何かのついでに太政大臣の手から離れて、世間の邪推は間違っていた、と身の潔白を示すことができないものか。実の父である内大臣も、太政大臣の思惑に遠慮されて、強引にでも私を引き取ってくれる、と言ったきっぱりした態度をとってくれそうにもない。いずれにせよ、外聞が悪いほどどっちつかずの状況なので、自分も悩んでしまうし、人からもあれこれ騒がれてしまう身なのだ」と、つい最近、私を実の父と引き合わせてくれた後は、もう何の遠慮もしなくなった太政大臣の態度を加味しつつ、誰にも打ち明けられないまま、憂えていました。

 こうした場合に、充分ではないにしても、ほんの一部分でも漏らすことができる母もいません。ヴランドリー城にもソーミュール城にも立派で麗しい婦人たちがいますが、「ああだ、こうだ」と内々の相談をするわけにも行きません。つくづく世間の人たちとは違う自分の身の上を振り返りながら、窓辺に出て、夕暮れの空景色をしんみりと眺めている姿は味わい深いものでした。

 

 

3.夕霧、ヒカルの使いで玉鬘訪問。蘭花にて求愛

 

 アンジェの大宮が三月に他界してから、玉鬘は喪服の薄い鈍色のドレスを着ていましたが、しっとりと身体にびったりでした。いつもと違う色合いでしたが、すらりとした細身な姿は一層花やかに見えますので、お側に仕える侍女たちが微笑んでいます。すると同じ鈍色ですが、今少し濃い目な上着を着た夕霧中将が訪ねて来ました。服喪で帽子に黒のバンドを巻いている姿もまた、非常に艶っぽい清さでした。

 夕霧は玉鬘がヴィランドリー城に来た当初から、誠意を持って好意を示していましたので、遠ざけるようなよそよそしいもてなしはしません。姉弟の関係ではなかったことを知られたから、と態度をがらりと変えてしまうのも嫌なので、これまで通り内カーテンに衝立を添えて、侍女を介さずに対面しました。

 

 今日はヒカルの使いとして、王宮からの伝達を伝えに来ました。玉鬘の返答はおっとりとしていましたが、とても感じよく話しますので、その気配が上品で情感も深いのです。夕霧は「あの大嵐の朝に目撃した面影が心にかかって恋しい思いがしたのに、姉に対して不快であると考えて、諦めたことがある。今は姉ではないのが分かったのだから」と素直な恋心が湧き上がっていました。

「王宮勤めを始めたら、王さまは玉鬘を並の女官として扱うことはないだろう。お互いに見所がある組み合わせだから、何か艶めいた面倒なことが必ず起きるだろう」と思うと、気が気でなくなって胸が塞がる思いがします。

 それでも上辺はさりげなく、真面目な顔をして、「父が『他人には聞かせないように』と言われたことを話そうと思いますが、どういたしましょう」と意味ありげに言うので、側に侍っていた人たちは少し後ろへ下って、衝立の後ろなどで横を向いて聞いていないふりをしました。

 

 夕霧は嘘の伝言をもっともらしく細々と話し出しました。「王さまの思召しは戦地に向う前から尋常ではないようでしたので、そのつもりでいらっしゃい」などといった作り話です。

 玉鬘はそれに答えることもなく、溜息をついている様子がひっそりした美しさでしたから、夕霧は心が引かれて押さえきれなくなりました。

「『喪服は百五十日後にあたる今月中に脱ぐことになるが、八月は十三日以外は吉の日がない。十三日にロワール川の除服のミサに行きなさい』と父が申しております。私もお供として参ろうと思っております」と伝えました。

「ご一緒くださると、事が仰々しいことになってしまいます。なるべく人目に立たないように行った方が良いと思います」と玉鬘が返答しましたが、「自分がなぜ大宮の喪服を着ているかの詳細が世間の人に広く知られないように」とのヒカルに対する気遣いはさすがに思慮深いものでした。

 

「貴女と大宮との関係を世間に漏らしたくない、と遠慮されるのは杞憂ですよ。私としては恋しくてならない祖母の形見ですから、脱ぎ捨ててしまうのは辛い気がします。貴女がなぜヴィランドリー城に来られるようになったのかの経緯はまだ理解しておりませんが、不思議にも二人は同じ祖母を持っていたのです。同じ色の喪服を着ていなければ、私も真相を知らずじまいになっていたことでしょう」と夕霧が続けました。

「何事も分別がつかない私ですから、どういった事情でこちらに来たのか、の筋道は分かりませんが、こうした鈍色の服を着ていると、わけもなく物悲しくなってしまいます」といつもより沈んでいる様子を夕霧は大層愛らしく美しく感じました。

「このついでに」と思い込んで来たのでしょうか、携えて来た見事に開いた藤の袴のような薄紫の蘭の花を内カーテンの端から差し入れました。

 

「この花を貴女もご覧になる由縁があるのですよ」と言いつつ蘭の枝を手離さずにいると、それに気付かない玉鬘が蘭を取ろうとしたしたので、玉鬘の袖をぐいと引いてみました。

(歌)貴女と同じ野で 露に濡れて萎れている 蘭の花です せめて少しでも 哀れな言葉をかけてください

「『東路の道の果てにあるブルゴーニュの 縁結び占い用の留め金ではないが ほんの少しでもご縁があるだろう』とも歌われています」と夕霧は恋心を訴えました。

 残念なことに玉鬘は心が引かれず、疎ましく感じたようです。そうっと奥に引き下がりながら、

(返歌)はるばると訪ねて来られたのに 私がはるか離れた野辺の露であったなら 薄紫のご縁とは 

    とってつけのお言葉でしょう

と詠んだ後、「そのような話を聞き交わすような深いご縁がありますでしょうか、いかかでしょう」と答えました。

 

 夕霧は少し笑って、「縁が浅いのか深いのかは、ご自分で判断してくだされば、と考えます。真面目な話し、王宮へお上がりになることは存じているものの、抑え切れない私の心中を何とか知っていただきたいのです。こんな告白をしてしまうと、かえって疎ましく思われるでしょうが、やりきれなさを一途に閉じ込めていました。

「『これほど思い悩んだのだから 今はどうなっても同じこと ロワール川の標識ではないが 身を滅ぼしてでも 貴女に逢いたい思いです』といった歌のように思い詰めております。

 柏木中将の気持ちをご存知でしょうか。つい最近までは他人事と考えておりましたが、自分の身になってみると、みっともないものの辛いことだと思い知りました。柏木中将は今はもう冷静になって、しかも貴女とは離れることができない姉弟の間柄と分かって、思い慰めている様子を見ると、とても羨ましくも憎らしくも感じます。せめて私のことを『哀れな者』とでも思いやってください」などと細々あれこれと語り続けましたが、笑い種になりますから書かずにおきます。

 

 未来の女官長は段々と奥に引き込みながら、「面倒なことを」と感じているようです。夕霧は「せっかくの機会だから」と今少し自分の恋情を漏らしてみたかったのですが、とうとう「妙に気分が悪くなって」と玉鬘が部屋から出て行ってしまったので、夕霧は深い溜息をつきながら立ち去りました。

 

 

4.夕霧復命し、ヒカルと玉鬘の噂す

 

「中途半端な打ち明けをしてしまった」と夕霧は悔みながら、「そういえば、玉鬘よりもう少し身に沁みて美しいと思った紫上の様子を、今のような内カーテン越しにかすかな肉声だけでも、何かの機会に聞いてみたいものだ」と穏やかならぬことを思いながら、南の町へ行きますと、父のヒカルがすぐに出て来ましたので、玉鬘の言葉を伝えました。

 

「ということは『王宮仕えは渋々承諾した』と億劫に思っているのだろうか。蛍兵部卿など恋に練達した人がしみじみした情愛を尽くして口説いているから、そうした方に心が惹かれている、と思うと気の毒になる。けれどシャンボール城への行幸の行列で冷泉王を拝見されてから、『大層ご立派な御方だ』と感じ入った様子だった。若い女性なら、ちらっとでも王さまをご覧になれば、まさか王宮仕えを嫌がる者はいないだろうと考えて、玉鬘に勤めを勧めたのだが」とヒカルが話しました。

「そうはおっしゃいますが、あの方の人柄だと、どちらの方向に向かったら一番適っているのでしょうか。王宮には秋好王妃がああして並ぶ者などいない存在ですし、アンジェリク貴婦人も格別に覚えがめでたいようですから、いくら玉鬘が王さまに気に入れられたとしても、お二人に立ち並んでいくことはありえません。蛍兵部卿がとても熱心に結婚を望んでおられるのに、特別に貴婦人としてでなくとも、女官長として王宮に上げる、という意地悪い計らいをされる、というのは兄弟としての間柄が損なわれてしまわないか、と私は思うのですが」と夕霧はまだ十五歳のくせに大人びた意見を述べました。

 

「確かに難しいことだ。私の一存で決めれはしない人なのに、ヒゲ黒大将まで私を恨んでいるそうだ。一人の女性の色々と気の毒な様子を見過ごすことができずに、縁組をさせて人の恨みを負ってしまうのは軽率な行為とも言える。玉鬘の実母が私に悲しげに言い残した言葉を忘れ去ることができず、山里で心細く暮らしていると聞き、『実父の内大臣がどうしても聞き入れてくれそうにもない』と憂えているのが気の毒になって、こちらに引き取ったわけだ。ところが私が大事にしているのを聞いて、あの内大臣も実の娘として、それ相応の扱いをするようになったのだ」と都合が良い具合に説明しました。

「玉鬘の人柄は弟の妻として申し分ない。弟も今風なあでやかな容姿である上に、賢明で過失などしそうにもないから、夫婦仲もうまく進むだろう。とは言うものの、玉鬘は王宮仕えをしても充分な資質を備えている。『美貌で上品な可愛さがある上に、公務にも暗いところがない有能な女性を』と王さまが常々望んでいる条件にはずれてもいない」とヒカルが続けました。

 

 父の本心を知りたい夕霧は「この二年半ほど、玉鬘の養育をこの城でしているお志を世間の人は変な風に噂しています。ヒゲ黒大将が実の父である内大臣に玉鬘を所望された際にも、内大臣はそのような意味合いのことを答えたようですよ」と探りを入れてみました。

 ヒカルは一笑して、「どなたもどなたも、とんでもないことを言うね。王宮仕えにせよ、なにごとにせよ、単にあちらさんが心を許して『こうしよう』と思われたように従っているだけだよ。女には『父、夫、息子の順に従う』という三従の道があるのだから、実の父でもない私がそれを破って自分勝手にするなどはありえないことだ」と言い訳しました。

 

 それでも夕霧は食い下がります。

「内大臣が『ヴィランドリー城には立派な婦人方が揃っているから、新たにその中に入れるのは都合が悪い。捨てる気持ち半分で誰かに譲って、常時出仕する必要がない役職を与えて、自分のものとして手許に取り込んでおこうと考えているのは、中々賢明で、才覚のあるやり方だ』と苦笑している」といった話しを確かに人づてに聞いていますよ」と改まった調子で問い詰めます。

 ヒカルは内大臣はそこまで考えているのか」と思うと、困惑というより憐れみを感じてしまいました。「アントワンはひどく憎げな邪推をされている。気が廻りすぎる人の癖なのだろう。いずれにせよ、じきに自然と明白になるよ。それにしても浅はかな想像をするね」と笑いました。

 

 きっぱりとした顔つきでしたが、夕霧の疑惑は晴れません。ヒカルも内心では「やはりそうなのか。人がそう邪推する筋道に落ち込んでしまうのは非常に悔しいし、事がねじれてしまう。何としても内大臣に自分の潔白さをみせつけなければ」と考えるものの、「確かに表向きは王宮仕えの風にしながら、はっきりしない曖昧な状態に玉鬘を置いておく、という自分の内心をアントワンは見透かしてしまったのだ」と薄気味悪くも思いました。

 

 

 

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