その4早蕨(春のアスパラガスとクレソン)      カオル 二十三歳)

 

1.尊師のアスパラガスとクレソンの贈呈

(歌)日の光が 藪にも隔てなく照らすのか 古びた里にも 花が咲いた

といった歌のように、春の光りを眺めるにつけても、「どうやって、ここまで生き永らえてこれたのだろう」とマドレーヌは夢のようにばかり思っていました。季節が移り変わる折々に応じて、花の色も鳥の鳴き声も同じ気持ちで朝夕に見聞きしつつ、ちょっとした歌作りでも、上の句と下の句を姉妹で詠みかわしながら、心細い世の中の憂いや辛さも、互いに語り合うことが慰みの一つとなっていました。

 姉が亡くなった今は、面白いことも悲しいことでも分かってくれる人もいないままま、一人暗い気分で暮らしながら、父卿が亡くなった時の悲しみよりも少し勝った悲しみで、姉が恋しい侘しさにいます。「これからどうしたら良いのだろう」と、日が暮れるのも気付かずに思い惑っていますが、この世に留まっているうちは定められた命なのが浅ましいことです。

 修道院の導師から、「年が改まってから、どうされていますか。祈祷はたゆみなく勤めております。今は貴女お一人のことを心配して祈っております」などとの手紙を添えて、アスパラガスやクレソンを風流な籠に入れて、「これは雑役人が私どもに供養してくれた初摘みです」と贈って来ました。字はひどく悪筆で、添えられていた歌はわざとらしく、一字一字引き離して書いてありました。

(歌)毎年春になると あなた方にと申して クレソンを摘んで差し上げたことですから 今年もその慣例を忘れずに 

   差し上げる初物です

「マドレーヌ様に読んで差し上げて下さい」と書いてありました。

「一所懸命に思いをめぐらせて詠んだのだろう」とマドレーヌは感じて、この歌の心遣いに深く哀れみを汲み取って、「いい加減にそうとは思ってはいないと判断できる言葉を、心が引かれるように好ましげに書き尽くす人が書いた文章よりも、ひどく目に留まり涙がこぼれて、侍女に返歌を書かせました。

(歌)亡き父君の形見と思って 摘んでくださった山のクレソンも 姉君までが亡くなってしまった今年の春は 

   誰に見てもらったら良いのでしょうか

 

 使いの者にはお礼の品を授けました。今が女盛りで、色つやもあふれている人が様々な物思いで少し思やつれしているのが、とても優美でなめかしい風情を増していて、亡き姉に似た印象を与えます。姉妹が一緒に並んでいた折は、それぞれの特徴があって、どうやっても似ているようには見えなかったのですが、そんなことを忘れさせるほど「ふと姉君ではないか」と思わせるほど、似通っています。そうしたマドレーヌを見ながら、侍女たちは「カオル中納言はせめて遺骸を留めておくことが出来たなら、と朝夕に恋しがっていらっしゃる」、「同じことなら、姉と似ている妹さんとのご縁がなかったのでしょうか」と口惜しがっていました。

 カオルとマドレーヌは、コンフランの邸にいる恋人に出逢うために通って来るカオルの家来を通じて、お互いの様子を承知していました。「カオル中納言はジュヌヴィエーヴへの尽きない思いで、今年に入ってからも涙ぐんでおられる」とマドレーヌは聞いて、「姉への思いは軽い情の浅さではなかったのだ」と今になって、いっそう哀れみ深い思いをしていました。

 

 

2.カオルとニオイとの歌の贈答

 ニオイ卿はコンフランへ通うことが、いよいよ気詰まりで容易ではないので、「パリに迎え入れよう」と決心していました。

 二世紀余りぶりに奪還したカレーをめぐるイングランドの新女王との話し合いや、イタリア諸国の支配に関するスペインとの交渉など、物騒がしい時期が一段落したので、カオル中納言は「心中にたまっている思いを他の誰かと語り合いたい」と思案に暮れながら、ニオイ兵部卿の邸を訪ねました。もの静かな夕暮時で、ニオイ卿は端近くに出て、風情がある戸外を眺めていました。スピネットを弾き鳴らしながら、例のお気に入りの梅の香りを賞美していると、カオルはその梅の下枝を折って近寄って来ると、とても艶っぽく見事に匂うので、ニオイ卿は早春の夕べ時の来訪に興を催しました。

(歌)この紅梅は これを折って来た あなたの心に似通った花と言うのだろうか 外には十分に咲き出さずに 

   内に匂いを包んでいるというのは

とニオイ卿が詠んだので、カオルが返歌を詠みました。

(返歌)何の気なしに眺めている者に 言いがかりをつけられる花の枝だったなら 用心して折ればよかった

「何とも煩わしいことだね」と冗談を交わし合える、とても親しい二人の間柄でした。

 細々とした話に入ります。まずニオイ卿が「どうしていたのか」と尋ねました。カオル中納言が、過ぎ去った日々が飽きることがないほど悲しかったこと、その時から今日まで、ジュヌヴィエーヴへの思いが絶えないこと、折々につけての思い出を悲しくも面白くも、泣いたり笑ったりといった風に話すのを聞いていると、ましてひどく繊細な感情を持ち、涙もろい癖があるニオイ卿は他人のことでありながらも、涙に濡れた袖をしぼるようになって、頼みがいのある受け答えをしつつ聞き入っていました。

 

 空の様子までがまた、いかにも悲しみを知った顔で霞渡っていました。夜になると、激しく吹き始めた風の様子はまだ冬めいていて、とても寒くなり、灯火も消えたまま、初春の闇は理由も分からない心もとなさでした。お互いに話を途中で止めることもなく、どんなに尽きない話でも存分に済ますこともないうちに、夜が更けて行きました。

「世の中に類例を見つけるのが難しい精神的な愛に留まった、ということだが、いくら何でもそれだけではないだろうに」とニオイ卿が問うのは、分別がない自分の癖からでしょうか。とは言ってもニオイ卿は物事を心得ているので、カオルの悲歎にくれる心中を覚ませようと慰めたり、また悲しみを忘れさすように、様々に語りかける様子が巧みで、宥めていくので、カオルは心に鬱積している気が滅入っていることを少しずつ話して行くうちに、少しずつすっきりして来て、心が晴れて行く気持ちがしました。

 ニオイ卿も近々マドレーヌをパリに引き取ろうとしていることなどを話すので、「それはとても嬉しいことだ。ニオイ卿とマドレーヌの仲を取り持ったのは、何だか『自分の過ち』と思い込んでいた。忘れることが出来ないジュヌヴィエーヴの形見としては、マドレーヌ以外には存在しないので、何事につけても世話をすべき人と思って来た。もしニオイ卿にとっては「具合が悪い話だ」と感じるだろうが、あのジュヌヴィエーヴが『妹を他人とは思わないで欲しい』とマドレーヌを自分に譲ろうとする心構えについて、若干は触れたものの、マドレーヌと「仮寝の寝床」めいて過ごした、あの夜については話さずにいました。

心中では「こんなに慰め難いジュヌヴィエーヴの形見として、ニオイ卿がしたように自分こそがマドレーヌを扱ってあげるべきであった」とカオルは口惜しさを段々と募らせていました。しかし、今はもう仕方がないことなので、「いつもこんな風に思ってばかりいると、あってはならない衝動が起きてしまう。そんなことは誰にとっても味気なく、みっともないことなのだ」と思い直します。「とにかく、パリに移るにつけても、本当に後見できる者は他に誰がいるだろうか」と考えて、引っ越しの準備や手配に気をつかっていました。

コンフランでも器量が良い若い侍女や童女などを探し出し、邸内の侍女たちは満足げに浮足立っていますが、マドレーヌは「いよいよこの邸が荒れ果てていくのか」とひどく心細くなって、ため息ばかりをついていました。そうと言っても、あれこれ強情を張ってここに立てこもってみても、ニオイ卿が「浅くない契りを結んだのに、この邸に住み続けていると、関係が切れてしまうことになる」と恨んでしまうのも少しだけでももっともなことなので、「どうしたら良いのだろうか」と思い迷っていました。

 

引っ越しは四月の初め頃のことになり、その日が近づいて来るままに、「木々の花のつぼみが膨らんでいくのも心残りで、(歌)春の霞が立つのを 見捨てていく雁は 花のない里に 住みつけるのだろうか といった歌のように、行き先は自分の家ではなく、旅の宿りのようなものなので、「どんなに落ち着かずに、人から笑われてしまうこともあるだろう」と、あれこれつつましく、一心に思いながら暮らしていました。 

喪服を着るのも九十日間と定められていて、喪服を脱ぎ捨てになる際の儀式があっさりすぎる心地がします。 母君の顔は記憶に残っていないので、恋しいとは思えませんが、母代わりになってくれた姉のために、色濃い服喪をずっと着続けていよう」と心に決めていました。とは言っても、さすがにそんなことも出来ないので、言いようもなく限りない悲しみに包まれています。儀式に向けて、カオル中納言が馬車や前駆を務める人々、占星学者などを手配しました。

(歌)月日の立つのはあっけないものです あなたが喪服を裁ち縫いさせ お召しになった、と思う間に春になって 

   花やかな常の服に着換えをする時が来ました

とカオルは、この歌のように春の花の色々に合わせた美しい衣裳も贈りました。パリへの移動に関わる人たちに被ける品々も、大袈裟ではないものの、それぞれの身分に相応する物を考慮しながら、沢山届けました。

「何かにつけて昔を忘れない親切な志は有難いことです」、「兄弟などでも中々、ここまで出来ないことです」などと侍女たちはマドレーヌに話しています。際立って美しくもない老いた侍女たちの身にとっては、カオルのような人物をしみじみ有難く感じています。若い侍女たちは、「カオル様は時々マドレーヌ様と親しくされていたのに、マドレーヌ様がこれっきりと余所に行かれてしまうと、寂しくなることでしょう」、「マドレーヌ様もどんなにカオル様を恋しく思われることでしょう」と話していました。

 

 

3.カオル、マドレーヌのパリ入り前日に山荘を訪問

 カオルはマドレーヌが明日パリに発っていく早朝に、自ら邸を訪ねました。いつもの客間に入ってから、「ジュヌヴィエーヴが健在だったなら、今頃はお互いの遠慮がなくなって、ニオイ卿より先にジュヌヴィエーヴをランブイエ城に迎えることになっていただろうに」などと、元気でいた頃の様子や話す趣などを思い出しながら、「ジュヌヴィエーヴは、さすがに自分を避けようと期待はずれなことで困らせよう、とまではしなかったのに、自分の気の弱さから妙に気兼ねをしてしまい、隔たったままで終わってしまった」と胸が痛く、ジュヌヴィエーヴを忍び続けました。

 姉妹を垣間見たカーテンの穴を思い出して、近寄って穴を覗いてみたものの、物が置かれていて何も見えません。カーテンの向こう側では侍女たちが亡きジュヌヴィエーヴを思い出しながら、ひそひそと涙を流していました。ましてマドレーヌは涙を川のように流していて、明日の出発を考えることも出来ずに、ぼんやりとうち臥していました。

「訪ねてこれなかった間も、何ということもなく気が晴れない思いをしていましたが、片端でもじっくりと話をしていただいて、私を慰めていただきたいものです。例のように、どっちつかずの話で突き放してはいけませんよ。さもないと別の知らない世界にやって来た気がしてしまいます」とカオルが話します。マドレーヌは「無愛想だ、と思われたくはないが、そうは言っても、今の気分はいつものようではなく、取り乱している。失礼な返答をしてしまうのが気がかりだ」と当惑していましたが、「それではお気の毒です」と侍女たちがあれこれ諫めるので、カーテンの端口で対面しました。

 

 カオルは相手が気恥ずかしくなるくらい優雅な物静かさで、周りが「しばらくのうちに立派になられた」と驚くほど香り高く、人とは違った仕草をしているので、「まあ、何と結構なお方なのでしょう」とばかり見えます。マドレーヌは面影が去らない姉のことすら思い出して、しみじみとカオルを見ていました。

「あれこれ尽きない話がありますが、今日は祝福すべき日なので、不吉な言葉は控えますが」と言いつつ、「パリの移られる場所の近くに私の小邸があるので、夜中につけ暁につけ、しっくりと親しい者同士で、どういった折りにつけ、よそよそしく思われずに相談して下さったなら、この世に生きている限りは色々と話を聞いて承っていこうと考えておりますが、どう思われるでしょうか。人の心というのは様々なものですから、私の思いは迷惑なのかもと独り決めをしかねています」とカオルが尋ねました。

「コンフランのこの邸を離れたくない、といった気持ちは深くありますが、貴方が『自分のパリの小邸の近くに』と話されるにつけても、様々に思い乱れてしまって、何と返答したら良いのか分かりません」と答える言葉の所々は言い濁しています。「こらえようもなく悲しいこと」と感じ入っている様子がジュヌヴィエーヴにとても似通っているように思えるので、「自分の誤判断断のせいで、マドレーヌを他人のものにさせてしまった」と思うと、非常に口惜しくなってしまいましたが、今となっては何の甲斐もありません。それでも、マドレーヌと一緒に過ごした、あの一夜のことは少しも触れずに、「そんなことは忘れてしまった」と見えるほど、平静なように振舞っていました。

 前庭の紅梅の色も香りもなつかしく思われ、黒歌鳥すら見過ごしづらそうに鳴きながら飛んでいるのが、(歌)月が違ったのでしょうか 今年の春は 過ぎ去った年の春ではありません 私だけが昔のままで 他はすっかり変わってしまったのではないでしょうか と懐旧の思いに惑い合う二人の会話は、折りが折りだけにしんみりとしたものでした。

 風がさっと吹き込んで来ると、花の香りも客人がかもし出す匂いも、(歌)五月を待って咲く オレンジの花の香りを嗅ぐと 昔の人の袖の香りがする とオレンジの花ではないものの、亡き姉がいた頃を思い出させる糸口になります。

「姉は手持ち無沙汰な生活を紛らわせるためにも、世の中の憂いを慰めるためにも、この紅梅を賞美していたものを」と胸がいっぱいになって、マドレーヌが詠みました。

(歌)私が都のパリへ行ってしまったなら 見る人もいまいと思い迷っている山里に 亡き姉君を思い出させるような 

   紅梅の匂いがします

言うともなく、小声で口ずさんでいるのが、たえだえに聞えて来るので、カオルは懐かしそうに返歌を詠みました。

(歌)私がかってちょっと袂を触れたことのあるこの梅は 昔に変わらぬ匂いがするが 根こそぎ移されていく先は 

   私の宿とは違うのだ

 カオルは堪えられない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数は多くはありません。

「これからもまたこんな風にして、何事にもよらず話しをさせてもらいましょう」などと話して、その場を立ちましたが、そのついでに、マドレーヌのパリ入りに際して心得ておくべきことを侍女たちに指示しました。邸の留守番役として、あのヒゲ面の男などが残ることになっているので、邸の近くにある自分の領地の者に面倒を見るように命じるなど、邸に残る人たちのことをも誠実に取り決めました。

 

 ベネディクトは「マドレーヌ様のお供をしてパリに上がろうとは思ってもおりません。長生きをするのもひどく辛いことだと思いますし、世間の人もこの年寄りを厭わしく思うことでしょうから、今はもう、この世に存在する者として人に知られたくありません」と修道女の姿に変えていましたが、カオルは強いて呼び出して、その姿に哀れみを催しました。昔話を語らせた後、「この邸には時々やって来るつもりだ。この邸には頼りとする者がいなくなって心細くなることだろうが、こうやって残ってくれるのは本当にしみじみ嬉しいことだ」と言い終えることなく、涙を浮かべました。

(歌)池のクレソンは 世を疎んでいるのに 憎いことに長生きをしてしまっている といった歌のように、自分でも嫌になってしまうほど長生きをしているのは辛いことです。ジュヌヴィエーヴ様が一体どういうお積もりで命を捨てられてしまったのかが恨めしく、(歌)大方の人が 自分自身の辛く悲しいことで 一様に世の中を恨んでしまう と、この世のすべてに思い沈んでしまっているのは、どんなにか罪深いことなのか」とベネディクトは修道女になった思いをしんみりと話しました。

 愚痴っぽい説明でしたが、カオルはとても上手に言い慰めました。美しかった昔の名残の長髪を短く切って、額つきなどの様子が変わったせいで、少し若くなったように見えて、それなりに優美な印象でした。ジュヌヴィエーヴへの恋しさが募ってしまい、「なぜベネディクトのように、修道女にさせて上げなかったのだろうか。そうだったなら、命が延びていたかも知れないし、それでこそイエス・キリストの道を心深く語り合えたことだろうに」とカオルは並一通りではない思いがして、この老いたベネディクトまでが羨ましくなって、身を隠している衝立を少し引きはずして、親しみ深く細やかに話をしました。紛れもなくボケ始めている様子でしたが、何気なく話す気配や仕草はまんざらでもなく、それ相当の人であったことが窺えます。

(歌)何事につけても 年寄りが涙の川に身を投げているなら ジュヌヴィエーヴ様に遅れた悲しみも薄らぎます 

とベネディクトは泣き顔で詠みました。

「そんなことをするのはひどく罪深いことになってしまう。天国に至る川に着いて、身を投げて深い底に沈んでしまうのはつまらないことです。この世はすべて空しいものだ、と悟るのが一番良いことなのです」とカオルが諭しました。

(歌)身を投げることが出来るような 深い涙の川に沈んだとしても 恋しくなる折々ごとに 亡き人のことを思い出して

   忘れることはできないだろう とカオルは詠みました。

「どんな時が来れば、少しは心が慰むことが出来るだろうか」とカオルは果てもない気持ちがしました。帰って行く気にもならず、ぽつねんと物思いをしているうちに日が暮れてしまいましたが、「不用意に泊まってしまうと、あらぬ疑いを受けてしまいかねない」と気になってしまったので、パリに戻ることにしました。

 

 

4.マドレーヌ、ヴァンセンヌ邸に移る

 ベネディクトはカオルが話したことや様子を人々に話しましたが、ひとしお慰めようもなく涙にくれていました。侍女たちが皆、縫物や何かに夢中になっていたり、老いて醜くなった自分の姿も分からずに身繕いをしているのを見ながら、ベネディクトはいよいよ修道女の身になったことを自覚しました。

(歌)多くの人々が皆 出立の支度を急いで 着物の袖を裁ったり縫ったりしている時に 自分は一人涙に袖を濡らしながら 

   打ち萎れている修道女の身になっています

と、ベネディクトが悲しげに詠むと、マドレーヌが返歌をしました。

(歌)泣いて打ち萎れている修道女のそなたとは また別に 私は私で これからニオイ卿の許へ引き取られて行くものの 

   波に漂うような不安な気がして やはり涙に袖を濡らしています

「パリへ行ったとしても、どうせ末長くは住みつけそうにもないと思うので、ここに戻って来るようになるでしょう。そうなれば、またあなたと対面できることになります。しばらくの間でも、対面出来なくなって心細い思いをさせてしまうのは心もとないことですが、修道女の姿になった人でも、必ずしも一途に引き籠ってばかりいる必要もありません。やはり普通のことと考えて、時々はパリの私の所に尋ねて来て下さい」と大層親しみ深く話しました。

 

 マドレーヌは姉が使っていた、しかるべき調度類などすべてをベネディクトに残しておくことにしました。「こうやって、他の人より深く沈み込んでいる様子を見ると、あなたと姉とはずっと昔から、よくよくの縁があったのではないか、と思うと親身に悲しくなってしまいます」とマドレーヌが話すと、ベネディクトはいよいよ童女のように恋い慕って泣くように、気持ちを押さえることも出来ずに、涙でむせんでいました。

 邸内はすべてきれいに掃き清められ、色々なものが片付けられて、幾つかの馬車が寄せられました。前駆を務める者には官位四位や五位の上官が非常に多くいました。ニオイ卿は自分自身もとても迎えに来たかったのですが、そうなると大袈裟になって、かえって具合が悪くなってしまうので、じっと我慢をしながら待ち遠しくしていました。カオル中納言からも手伝いの人たちを数多く寄越していました。大体のことはニオイ卿が手はずを決めていましたが、内々の細々した世話はもっぱらカオルが手落ちがないように気を配っていました。

「もう日が暮れてしまいますから」と室内からも戸外からも急き立てるので、マドレーヌは心も慌ただしくなって、「一体、どこへ行くのだろうか」と思うと、「不安で悲しいこと」とだけ感じていますが、馬車に一緒に乗る副侍女長が詠みました。

(歌)生き永らえておられたこそ こんなに嬉しい時に出逢いました もしセーヌ川に身を投げておられたら

とにこにこ顔なので、「ベネディクトの心境とはあまりに違っている」と情けない思いがしました。

(歌)お亡くなりになった ジュヌヴィエーヴ様への恋しさも忘れはいたしませんが マドレーヌ様が都へお移りになるという今日は   

   何はおいても まず満悦を覚えます

ともう一人の侍女が詠みました。二人とも古くから仕えている侍女で、亡き姉に心を寄せていたのですが、今はこんな風に考えを切り替えて、姉を忌む言葉を慎んでいるようにしているので、マドレーヌは「薄情な世の中なのだ」と感じて、何も言わずにいました。

 

 丘陵の坂道がはるばると続く様子を馬車から眺めてみると、「ニオイ卿が時たまにしか通って来ないことが辛いと思っていたが、なるほどと納得できる」と少しは思い知りました。明るく射し出ている七日目の月影に霞が面白くかかっていくのを眺めながら、遠路に馴れないマドレーヌは苦しくなってしまいました。

(歌)空を眺めていると 丘陵の端から上って行く月も この世に留まりかねて また丘陵の端へ入って行く 私もそれと同じように 

   結局は都に住みかねて 再び山里へ戻るかも知れない

「勝手の違う所に住んで、結局はどうなってしまうのだろうか」と不安で、これからの行く末を案じながら、「これまでの苦労は何ほどのものではなかったのだ」と過去を取り返したくなりました。

 宵が過ぎた時分にヴァンセンヌの邸に到着しました。これまで見たこともないような、まばゆい心地がします。

(歌)この邸は なるほどなるほど お金持ちのものだ 三棟も四棟も連なった御殿だ といった歌のような邸に馬車が乗り入れると、「今か今か」と待ちわびていたニオイ卿が自ら馬車に近づいて、自分の手でマドレーヌを降ろしました。マドレーヌの部屋の飾りつけなどは最善を尽くしていて、侍女向けの部屋に至るまで配慮が行き届いているのが、はっきりと分かるほど、全く申し分がないものでした。「どれほどの扱い方をされるのだろう」と皆が注目していた有様は、こうした遇し方ではっきり定まったので、「並一通りではないご執心なのだ」と、世間の人も心憎い思いで驚きました。

 カオル中納言はその月の二十日過ぎの時分に、改装が終ったランブイエ城に移る予定で、このところランブイエ城に滞在して、完成ぶりを確認していましたが、この日はアルフォールヴィルの小邸に行って、「マドレーヌのパリ入りの気配を見てみよう」と夜が更けるまで待っていました。お供につけた家来たちが戻って来て、パリ入りの様子を報告しました。ニオイ卿が本心で並々ではない扱いをしていることを聞いて嬉しくなるものの、我ながら馬鹿らしいほど胸が潰れて、「取り返せるものならば」と返す返す独り言が出てしまいました。

(歌)実際に契り交わしたわけではないが 自分こそマドレーヌと仮初に共寝をした仲だった と妬ましさに、愚痴を言いたくもなりました。

 

 

5.夕霧、カオルを第六女フローラの婿にと願う。カオルのマドレーヌ訪問

 夕霧左大臣は第六女フローラを「今月中にニオイ卿と婚約をさせよう」と決めていましたが、こうした具合に思いもしなかった女性を「フローラより先に」と言わんばかりに手厚く迎え入れて、フローラとは離れるようにしているのを「非常に不愉快なことだ」と感じていました。

 それを聞いたニオイ卿は気の毒になって、時々フローラに手紙を送りました。結婚を間近にして実施する、大人の衣を初めて着る成人式を延期すると世間から笑われてしまうので、夕霧はその月の二十日余り過ぎに式を挙げさせました。カオルは腹違いの弟であることから、「同じ血縁同士での結婚は珍しいものであるが、あのカオル中納言を他の氏族に譲ってしまうのは口惜しいことであるし、フローラの婿になってもらったらどうだろうか。近頃、長い間内密に恋していた人を亡くして、心細く侘しい日々を送っているようだから」と思い寄って、しかるべき人を通じて探りを入れてみました。ところが、カオルは「ジュヌヴィエーヴの死により、世の中のはかなさを眼の前で見たので、非常に気が滅入って自分の身まで忌まわしく思うので、何としても結婚話には気が進まない」と関心がないようでした。

 その報告を聞いた夕霧は「どうしてこの中納言すら、気がないようにすげない返事をするのだろうか」と恨めしくなりましたが、「カオルとは親しい間柄ではあるが、とても敬服できる人柄だから」と強いてフローラとの縁組を進めることはせずにいました。

 

 カオルは花盛りの頃、アルフォールヴィルの第八卿の旧邸に咲く桜を見ながら、(歌)荒れ果てた邸のチャービル(ういきょうぜり。Cerfeuil des Prés)の白い花 遠慮もせずに風の吹くままに散っている といった歌を思い起こすと胸に余って、その歌を呟きながらニオイ卿の邸を訪ねました。ニオイ卿はこのところ、大概は邸に居座ってマドレーヌと睦まじく暮らしていたので、「もう心配はいらないのだ」と安心したものの、例の何となくただではいられない気持ちが添うのも奇妙なことです。それでも本心ではマドレーヌが愛おしく、「平穏に過ごしてほしい」と思いました。

 カオルはニオイ卿とあれこれ話を交わしましたが、「夕刻には王宮へ行かなければ」とニオイ卿が馬車の支度をさせ、お供をする人々が大勢集まって来たので、マドレーヌの間に行きました。マドレーヌはあのコンフランの寂しげな気配と引き変わって、内カーテンの中で奥床しく暮らしていました。内カーテン越しに愛らしい童女の姿がちらほらと見えるので、声をかけて取次ぎを頼むと、敷物が出されて、コンフラン時代からカオルを知っている侍女でしょうか、出て来てマドレーヌの返事を伝えました。

「朝と夕刻の隔てもないくらいの近くに住んでいながら、『さしたる用事もなくお邪魔してしまうのは馴れ馴れしすぎると咎められてしまう』と遠慮していましたが、その間に世の中がすっかり変わってしまったような気がします。前庭の木々の梢も霞を隔てて見えるにつけても、身に染みることが多くあります」とカオルが話しながら打ち沈んでいる気配は気の毒なようでした。

 

 マドレーヌも「確かに姉が生きていたなら、それとなく行き来をしてお互いに花の色や鳥の声を折々に鑑賞しながら、少しは気が晴れ晴れとこの世を過ごせたことだろうに」などと思い起こすと、ずっと籠り続けたコンフランの住まいにいた時の心細さよりも、姉を失ったことが物足りなく、悲しみや口惜しさが募ってしまいました。

 侍女たちも「世間並みによそよそしく扱われてはいけませんよ」、「今こそ、限りないご親切な志のほどを理解されていることを知らせようとしている気持ちをはっきりとカオル様にお見せしなければ」と話しますが、マドレーヌは人伝えではなく、自分の感謝の意を言い出してしまうのに気が引けて、ためらっていると、「これから外出する」と言ってニオイ卿が挨拶にやって来ました。とても清らかに身づくろいをして、身じまいも見甲斐がある姿でした。

「カオル中納言がこちらにやって来ている」と見て取って、「どうしてよそよそしく内カーテンの外に座らせているのです。あなた方姉妹に『あまりに怪しい』と思えるほど、親しく面倒を見てくれたのだから。私としては差し出がましいと気が揉めることもあるが、さすがにあまりにひどく隔てを置いてしまうのは罪になってしまうよ。もっと近くに呼んで、昔話を語り合いなさい」などと話しますが、「そうは言っても、あまりに気を許してしまうのも、どういったものだろうか。疑わしい下心があるようにも見えるからね」と言い直したりするので、マドレーヌは当惑してしまいます。

 自分自身でも「憐れみ深さを認知しているカオル様の気持ちを、今さらいい加減にするべきではないし、カオル様が思い、話されているように、自分が亡き姉の代わりになって、『こういった気持ちでいます』といったことを見ていただきたい」と思うものの、その一方ではさすがに夫のニオイ卿が私とカオル様の様子を心中穏やかでないように、とやかく言うので、マドレーヌは苦しい思いでいました。

 

 

6.スペイン王国との戦争終結と安梨王の事故死

 カオルがジュヌヴィエーヴの死とマドレーヌとニオイ卿の婚姻に振り回されているうちに、フランス、スペイン、イングランドの三王国の間で大きな変化が起きていました。

 スペイン王国のフェリペ二世は、メアリー・チューダー女王の病死によりイングランド王国の女王となったエリザベス一世に、幾度となく結婚を申し入れましたが、冷ややかに拒まれてしまうだけでした。エリザベス一世との結婚を諦めたフェリペ二世は、フランス王国との接近に方向を切り替えました。

「敵対して来たフランスと友好関係に持ち込んで、エリザベス一世やプロテスタント勢力を封じ込んで行こう。そのためにはフランス王国と婚姻関係を結んでも構わない」。

 フェリペ二世からの和平交渉の申し入れに対し、戦費と軍事関連の財政負担に苦慮していた安梨王が快諾したことから、四月にカトー・カンブレジ(Cateau-Cambrésis)平和条約が成立しました。これにより、桐壺王が六十五年前にイタリアに侵攻して始まった神聖ローマ帝国との長期に渡る戦争に終止符が打たれました。加えて、フェリペ二世の再婚相手として安梨王の第一王女エリザベトが選ばれ、スペイン王国の王妃として迎え入れられることになりました。

 これにより、表面的にはフランスとスペインのカトリック同盟が、エリザベス一世の即位後、プロテスタントに復帰したイングランド王国や他国を含めたプロテスタント勢力に圧力をかける体制が成立した印象を与えました。とは言うものの、安梨王はフランス国内では、カトリックとプロテスタントを並立させていく方針でした。

 

 六月末、安梨王は第一王女エリザベトとフェリペ二世の婚姻を祝う祝賀会を開催しました。安梨王は自ら馬上槍試合に名乗り出ましたが、不運なことに相手となった王族警護隊(Garde Ecossaise)の青年の槍が安梨王の眼に突き刺さってしまい、十日後に急死してしまいました。

 九月にフィリップ王太子が新王に即位し、メアリー・スチュアートが女王となりましたが、新王が病弱なこともあって、大后となったサン・ブリュー王妃が摂政役になりました。新王の即位で、俄然精力を増したのが、ロラン右大臣でした。メアリー・スチュアート新女王は姪、新王の貴婦人に娘イヴェットがいることから、ロランは新王の外戚と言える存在となりました。

 これに対抗するように、プロテスタント派は、冷泉院のフォンテーヌブロー城に集まる人々が増して行きました。安梨王を槍で刺した青年の父がスコットワンド王国の出自であったことから、「メアリー・スチュアートを王妃にするための陰謀だった」との噂が巷に広がりましたが、プロテスタント派が流したものでしょう。

 

 

     著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata