巻49 宿木

 

12.宿木の歌唱和。カオル、紅葉をマドレーヌに贈る    (カオル 二十四歳)

 翌日、「パリに戻るから」と言って、カオルは昨夜、後に届けて来た絹布・綿布などといった物を導師に贈りました。ベネディクトにも贈りましたが、「修道士たちやベネディクトの使用人たちへの必要品」と言って、布地のようなものまで取り寄せて贈りました。心細い山荘住まいですが、こうしたカオルの来訪が途切れず、贈り物をするので、ベネディクトは身分のわりには見苦しくはない静かな生活をしています。

 木枯らしが耐え難いほど抜き通して、葉が残っている梢もなく、散った紅葉が散り敷いている地面を踏み分けた足跡も見えないのを見渡しながら、すぐに去ろうとはしないでいます。とても趣がある深山木に寄生している蔦の色が、まだ色をあせずに残っているのを見て、「せめてこの蔦の紅葉だけでもマドレーヌへの土産として」と思って、蔦の葉を少し引き取らせて、持ち帰りました。

(歌その昔 この山荘に泊まった思い出がなかったら この宿木の下で旅寝をするのは どんなに寂しいことだろうか

と独り誦していると、ベネディクトが返歌をしました。

(返歌)荒れ果てた朽木のような私が住む山荘を 宿木のある邸と覚えておられるにつけても 

    ジュヌヴィエーヴ様がおられないのが悲しいことです

 あくまで古風な詠み方ですが、理由がないわけではないので、ほんの少しでも慰めになると思いました。

 

 都に戻ってマドレーヌに蔦の紅葉を届けると、ニオイ卿がマドレーヌの部屋にいました。「ランブイエ城のお方からです」と取次ぎが何気なく持って来たので、マドレーヌは「例の忍び難いことなのだろう」と当惑してしまいますが、隠すわけにはいきません。

 カオルからの手紙には「この頃はどうやってお暮らしですか。コンフランの山荘に行って来ましたが、セーヌ川のひどい朝霧に惑ってしまいました。その話はいずれ直々に話すことにします。山荘の本殿を礼拝堂に改築することを導師に申しつけました。お許しをいただいた上で、本殿を他の場所へ移すことも出来ます。しかるべき指示をベネディクトに伝えて下さい」などと書いてありました。

「よくもあっさりした書き方をしている手紙だね。おそらく私がいるのを誰かから聞いていたのだろう」とニオイ卿が話しますが、確かにそんなことが少しはあったのかも知れません。マドレーヌは意味深なことを書いていなかったので、ニオイ卿が無闇にそんな風に話すのを、「分別がない」と感じて恨んでいる様子は、どんな罪でも許してしまう可愛らしさがありました。

「返信を書きなさい。私は見ないでいるから」とニオイ卿は背を向けました。その言葉に甘えて返信を書かないのも奇妙に思えるので、「コンフランに行かれたとは羨ましいことです。山荘の本殿は『そうしたようにしたら良いのでは』と思っていました。わざわざ高山を求めるよりも、あの山荘が荒れ果ててしまわないように、と考えていましたので、礼拝堂に改築するというのは一通りのことではありません」と書きました。

「ということは、二人の関係はそれほど咎めだてをすることもない親密さにすぎないのか」とニオイ卿は思いながらも、自分が浮気っぽい性分なので、「何かいわくがありそうだ」と心中は穏やかではありません。

 枯れ果てた前庭の中で、ススキの穂が枯れた花々の中から手を差し出して招いているように見えるのに心が引かれます。まだ穂を出し始めたばかりで、露の玉を貫こうと頼りなげに靡いている様子など、いつものことですが、夕風が吹くとやはりしみじみとします。

(歌)ススキの穂のように 物思いをしているのが顔色に出ているよ 露に濡れて湿っぽい あの人からの手紙が度々あるからね

 ニオイ卿は親しみやすい普段着を着て、リュートを弾きました。高音と低音の幅が広い調子の搔き合わせをしみじみと弾くので、マドレーヌも深く心にとまって、拗ねてばかりもいきません。小ぶりの衝立の端の方から肘掛けに寄りかかって、ほんの少し顔を覗かせているのが好ましく可愛らしいのです。

(歌秋も終わりになった野原の景色も 風にそよめくススキを見れば分かります

大方の人が 自分自身の辛く悲しさで 一様に世の中を恨んでしまう」といった歌を誦しながら涙ぐみますが、さすがに恥ずかしくなって、扇で顔を隠して紛らわせています。ニオイ卿はマドレーヌの心中を察して、いじらしく感じながら、「こうだからこそ、カオルもきっぱり思い切ることが出来ないのだ」と二人の仲を疑って、いわくありげに恨んでいました。

 

 菊の花がまだ色を変えずにいる中で、特別に手入れをさせたものは、かえって遅咲きになっていました。その中でもどうしたことか、一本がとても見事に色づいているのを選んで、折ってこさせました。「私は花の中で ただこの菊だけを愛するというわけではない」といった歌を誦した後、「その昔、某の王子がこの花を愛でた夕方のことだった。天人が空を飛翔して来て、リュートの技を教えた、という言い伝えがあるが、今は天人がやって来ることもなく、何事も浅はかな世になってしまっているのは嘆かわしいことだ」と言ってリュートを置きました。

「残り惜しい」と思ったのか、「今の人の心こそ、浅はかなものでしょうが、昔から伝えられている手法がどれほど変わることがありえましょうか」とマドレーヌは自分では覚束ない技を知りたそうにしました。「そういうことなら、一人で弾くのは張り合いがないから、合奏をしてみよう」と人を呼んでチェンバロを取り寄せて、マドレーヌに弾かせようとしました。

 ところが、「昔は教えてくれる父卿がいたものの、私は本格的に学ぼうとはしなかった」と引き気味になって、手も触れようとしないでいます。「このぐらいのことでも隔てをしてしまうのは残念だ。近頃出逢っているフローラとは、まだ本当には打ち解けているわけではないが、まだ未熟な初めての経験でも隠そうとはしない。あのカオル中納言すら。『女性というのは、すべてにおいて物柔らかで、素直なのが良いのだ』と言っているではないか。やはりあの人にはこんな具合に隠そうとはしないのだろう。この上もなく睦まじい仲なのだから」などと、本気になって恨むので、マドレーヌは溜息をつきながらも少しは演奏しました。

 ニオイ卿はリュートの弦を緩めて長調に合わせました。掻き合わせでは爪音が面白く聞えました。ニオイ卿は「ブルターニュの海」を歌いましたが、間違いなく歌声が気高いので、侍女たちは物陰に近寄って、にこにこしながら聞いていました。

「マドレーヌ様とフローラ様のお二人に気持ちがあるのは辛いことですが」、「ご身分から言えば、それも当たり前のことです。やはり私たちのマドレーヌ様は幸せな人と申すべきでしょう」、「あの頃の住まいでは、こうしたご身分の人との交際など出来そうにもなかったのに」、「そのコンフランにまた帰りたそうに思って話されているのは、とても情けないことですね」などと、老侍女たちが無遠慮に話しているのを、若い侍女たちは「あれまあ、気をつけて下さい」と制しています。

 

 ニオイ卿は「ハープなどもマドレーヌに教えながら、「心身を清めるため」と称して、ヴァンセンヌ邸に三、四日引き籠っていましたが、夕霧左大臣はそれを恨めしく思って、王宮を退出した後、そのままヴァンセンヌ邸を訪れました。ニオイ卿は「いかにも大袈裟な様子をして、何しにおいでになられたのだろう」とぶつぶつ言いながら、本殿に戻って対面しました。

 夕霧は「別段、特に用事はありませんが、久しくこの邸を見ずにいたので、なつかしくなって」と昔の話を少しした後、すぐにニオイ卿を引き連れて自邸に向かいました。息子たちやその他の上官や王宮人など多くの人々が付き従っていく威勢がある仰々しさを見るにつけても、マドレーヌ側の人々にとっては、張り合うことも出来ないので、気が滅入ってしまいました。

 侍女たちは一行を覗き込みながら、「本当にどっしりした大臣なこと」、「あんなにまで、どちらがと言うこともない、若い盛りの美麗なお子さんたちが揃っていても、左大臣に似たような方はいませんね」、「まあ、何てご立派な」と言っている者もいました。また、「あんなにまでうち捨ててはおけないご様子で」、「わざわざ大臣自身が迎えに来られるとは憎らしいことです。フローラ様とのことで、気が揉める世の中ですね」などと嘆く者もいました。

 マドレーヌ自身も「これからのことを考えてみると、あの花やかなフローラ様と肩を並べることなど出来るはずはない。自分のとるに足らない身を思ってみると」と一層心細くなって、「やはりコンフランで気楽に籠って行くのが、見た目にも感じが良いのだ」とますます、意を強めました。 

 

 

13.フィリップ王と冷泉院の死  

 十二月五日、かねてから病弱だったフィリップ王が、メアリー・スチュアート王妃らの懸命な介護も空しく、帰らぬ人となりました。安梨王とサン・ブリュー大后の次男マルク王太子の新王即位が内定しましたが、衝撃を最も受けたのは、メアリー王妃の叔父として、外戚の位置を固めていたロラン右大臣兼左大将でした。ロラン右大臣はイギリス王国からのカレー奪還に成功して以来、ことにカトリック派からの支持が圧倒的に厚く、ことに首都パリでの人気は絶大でした。

 フィリップ王の崩御の後、急浮上したのが、カレー奪還以降、ロラン右大臣の後塵を拝して来た夕霧右大臣兼元帥でした。新王妃となるシャンタルは夕霧の第二女君であり、加えて夕霧はサン・ブリュー大后の腹違いの兄でしたから、亡き安梨王のカトリック派とプロテスタント派の共存政策を継続するサン・ブリュー大后にとっては格好の相談相手でした。二人は早速、ロラン右大臣やカトリック派が五月のアンボワーズ陰謀事件の蔭の黒幕と決めつけられて、十月に逮捕されていた蛍兵部卿の息子コンデを釈放しました。

 カオルにとっての衝撃はフィリップ王崩御の数日後の冷泉院の他界にありました。アンボワーズ陰謀事件の後、冷泉院がカオルをフォンテーヌブロー森のダム・ジュアン岩山に誘って、愛息セザールの将来を託したことを思い起こして、「あの頃から、死を予感していたのだ」と合点がいきました。

 冷泉院はセザールの母である愛后ソフィー貴婦人にも、カオルに伝えた遺言を漏らしていたのか、しばらくしてカオルをフォンテーヌブロー城に招きましたが、ソフィーの母である玉鬘も同席していました。二人はセザールの後見役になってくれることをカオルに懇願しましたが、そこにソフィーの兄弟コリニー、フェルナン、セバスチャンの三人が割り込んで来て、「いずれセザールを国王にしようではないか」と言い出す始末でした。マドレーヌへの恋慕と同時に、コンフランの山荘の改築に集中していたいカオルにとっては、新しい課題が課せられてしまった戸惑いで、すぐには即答が出来ずにいました。

 

 

14マドレーヌの若君誕生と産養。カオルが権大納言に昇進  (カオル 二十五歳)

 波乱含みとなった年が明けました。一月末あたりからマドレーヌはいつもと違う苦しみで悩んでいますが、ニオイ卿はまだ経験がないことなので、「どうなるのか」と心配して、祈りなどを別々の所でさせていましたが、さらに新たに付け加えました。

 とてもひどく苦しんでいるので、サン・ブリュー大后からも見舞いがありました。マドレーヌと一緒になって三年目に入っていますが、ニオイ卿一人だけはそれほどまで愛情を注いでいるのに、大方の世間は重きをなす后として見なしてはいませんでした。しかし今になって大后の見舞いを聞いて驚き、どちらもどちらもが見舞いをしました。

 カオル中納言はニオイ卿の心配に劣らず、「どうしているか」と心を痛めて、心苦しく気が咎めるのですが、限度を越えない程度の見舞いはするものの、あまり頻繁には見舞いに行かず、我慢をしながら祈りなどをさせました。

 その一方で、安梨王の第二王女ジョセフィンの成人の儀がちょうどこの頃となり、世間の話題になっていました。サン・ブリュー大后は亡き安梨王の気持ちを汲んで、万端のことを一人で急いで用意したので、実母の藤壺愛后の後見はないものの、立派なものに見えます。亡くなった藤壺愛后が準備していたことは申すまでもなく、王宮の調度所やしかるべき知事たちなどからも色々と奉仕する品々に限りはありません。大后は成人の儀の後、すぐにカオルと縁組をする手順にしたので、婿となる側も気配りをしなければならない頃なのですが、カオルはそうしたことに身も入らず、ただマドレーヌのことばかりを案じていました。

 

 二月の始め頃に、人事修正ということで、カオルは権大納言に昇格して、右大将との兼任になりました。左大将を兼任していたロラン右大臣が双方を辞任して、地方行政担当の大納言となったための人事でしたが、「やはりフィリップ王崩御の影響もあるのか」と勘繰る人もいました。

 カオルは昇進の喜びを示すお礼参りであちらこちらを廻った後、ヴァンセンヌ邸にも行きました。マドレーヌがひどく苦しんでいるので、ニオイ卿が滞在していると知って、訪れたわけです。「修道士などが集まっていて、非常に都合が悪いのだが」とニオイ卿は驚いたものの、本殿に戻って鮮やかな正装に着替えて、威儀を正してから階段を下りて、昇進のお礼の拝礼と返礼の儀礼を行いましたが、その様子はとりどりに立派でした。

「引き続いて、役人たちに俸禄を授与する饗宴の場に行きましょう」とカオルが誘いましたが、マドレーヌが苦しがっているので、ニオイ卿はためらっていました。

 饗宴は「左大臣の大饗宴の時のように」ということで、夕霧邸で行われました。相伴役をする王族や高官たちが、夕霧の大饗宴の時に劣らず、ひどく騒々しくなるまで集まりました。結局、ニオイ卿も出席しましたが、マドレーヌのことで気が揉めるので、饗宴が終わらないうちに急いで帰ってしまったので、フローラは「とても物足りない。呆れてしまうほどひどい」と愚痴っていました。マドレーヌは身分的にはフローラに劣っているわけではありませんが、目下の権勢の花やかさに思い上がって、我を張ってしまう振る舞いもすることでしょう。

 やっとのこと、その明け方に男児が誕生したので、ニオイ卿も心配した甲斐があったと嬉しくなりました。カオル大将も昇進した喜びに加えて嬉しく思いました。昨夜ニオイ卿が無理して饗宴に出席してくれたお礼に加えて、出産の祝いも兼ねてヴァンセンヌ邸に立ち寄りました。こうやってニオイ卿が邸に籠っていることから、お祝いに参上して来る人はいません。

 

 出産の三日目の祝宴はただ普通の内々で済ませましたが、五日目の夜の祝宴にはカオル大将から使用人への慰労品が五十個、金銭や祝いパンなどは通常通りに、産婦に向けては脚付き盆が三十個、赤子用の五枚重ねで縫い合わせた産着とおしめなどを、あまり大袈裟にならないように控え目に贈りました。それでも仔細に見ると、意識して親しみをこめた心映えが見えます。ニオイ卿の前にも沈香の若木を使った膳十二、一本脚の食台には丸い菓子を盛っています。侍女の前にも脚付き台は言うまでもなく、檜の薄板を使った箱三十に様々に手を尽くした料理が入れてあります。それでもことさらに仰々しくは人目に見えないようにしています。

 七日目の祝宴の夜にはサン・ブリュー大后からの出産祝いがあったので、邸を訪れる人が多くいました。大后付きの一等官を始めとして、王宮人や上官が数知れず訪れました。マルク新王も出産の話を聞いて、「弟卿が初めて父親になったのだから、祝わなければ」と王子誕生で王さまが授ける剣を贈りました。

 九日目の祝宴でも、夕霧左大臣から祝儀が贈られました。夕霧は面白くはない思いがしたものの、ニオイ卿に対する思い入れがあるので、息子たちを送って何のこだわりがないように祝いました。マドレーヌ自身は何か月もの間、フローラに対する心配事が絶えず、気分がすぐれないまま心細い思いを続けていましたが、こうした晴れがましく目新しいことが重なったので、少しは慰められることもあったでしょう。

 カオル大将にとってみれば、「こうしたように母親になってしまうと、自分に対する思いは遠のいてしまうだろう。ニオイ卿のマドレーヌへの愛情も一通りのものではなくなってしまう」と思うと、口惜しくはありますが、当初の二人の計らいを考え直してみると、嬉しくにもなりました。

 

  

15第二王女ジョセフィンの成人の儀とカオルとの婚姻、三日夜の宴

 同じ二月の二十日過ぎの頃、第二王女ジョセフィンの成人の儀が行われ、翌日にはカオルの婿入りがありました。その日の夜のことは秘かになされたようです。

「世の中の評判になるほど、安梨王が大切にお世話をされていましたが」、「臣下と一緒にされるというのは可哀そうに見えます」、「たとえ王宮の許しがあったにせよ、カオル大将がこんなにも急ぐのは、どうしてなのでしょう」と難癖をつける侍女達もいましたが、サン・ブリュー大后は思い立ったことは思い切りよく済ませてしまう性分なので、「同じことなら、今までに例がないくらいにして上げよう」と判断されたのでしょう。王女と結婚する臣下は昔も今も多くいましたが、臣下の者が一般にしているように、まだ若い盛りの年頃なのに婿取りを急ぐのは例が少ないことです。

 夕霧左大臣も「世間の評判も運勢も良い、珍しい人だね。私の父のヒカル殿すら朱雀院が歳を取って、『いよいよ修道の道に入ろうか』という間際になって、カオルの母上を譲り受けたのだから。まして私も誰もが許されない人を拾ったようなものだからね」と言うと、落葉上は「本当にそうだ」と思い起こして恥ずかしくなり、返答もしないでいました。

 

 婚姻三日目の夜は、財務卿を始め、ジョセフィンのお世話をして来た人や職員に訓示がなされ、内々ながらもカオルの護衛、お供達や下級役人にまで、俸禄が授与されました。その辺のことは個人同士の婚姻と同じようなものでした。

 それから後は、王宮のジョセフィンの部屋に人目を避けて通いましたが、やはり心中では忘れ難いジュヌヴィエーヴのことだけが頭に浮かんで、昼間はランブイエ城で起きたり寝たりして暮らし、日が暮れると急いで王宮に行きました。こうした女通いは馴れていないので、ひどく億劫で苦しく、自邸のランブイエ城に引き取ることにしました。母の山桜上は嬉しいことだと喜んで、自分が住んでいる本殿を譲ろうと告げました。「それはあまりに恐れ多い」とカオルは恐縮して、礼拝堂との間に回廊を続けて、ジョセフィンの間を造らせました。山桜上は西面に移り、東面は先年の火事で焼けた後、立派で望ましい新築をしていたので、一層磨き立てて、ジョセフィン用に細々と飾り付けました。

 王宮もこうした心遣いを聞いたものの、婚姻から間もないうちに打ち解けて、婿側の邸に移るのはどうしたものか、と感じたようです。やはり王女と言っても、自分の子を思い迷う安梨王の親心は普通の人と同じということでしょうし、それを承知しているのか、サン・ブリュー大后から山桜上に宛てた手紙でも、この点を尋ねていました。亡き朱雀院がとりわけ山桜上のことを気にかけていたので、ヒカルの娘である大后は山桜上が世を背いて修道女になってからも、安梨王と共に山桜上への配慮は衰えず、世に背く以前と同様に特別な気遣いをしていました。

 こういったサン・ブリュー大后や母上といった高貴な方々がお互いに世話を焼き、もてはやしているのは光栄なことなのですが、どうしたわけか、カオルは心中では嬉しいとも思わず、やはりどうかすると遠方に目を向けながらコンフランに礼拝堂を造ることを急がせました。

 

 ニオイ卿の若君トマス(Thomas)の生誕五十日になった日、カオルは五十の数の祝い菓子の支度に身を入れて、果物籠や檜の薄板の折り箱の中身まで目を通しながら、「ありきたりの物ではないように」と思い立って、沈香・インド産の堅木・白銀・黄金など、それぞれの道に通じた工芸家たちを多く集めて作らせたので、工芸家たちは「誰にも負けない物を」と様々な品々を作りました。

 カオルはニオイ卿が滞在していない隙に、自身でマドレーヌを尋ねました。心なしかマドレーヌは今までよりも重々しい高貴な気配すら加わっているように見えました、マドレーヌは「今となってはいくら何でも、面倒なことだった懸想事などの思い違いは消えていることだろう」と思って、気軽に対面しました。

 ところがカオルは以前と変わらない気配で真っ先に涙ぐみました。「心にもない女性と結婚をして、改めて世の中は思い通りにいかないものだと痛感して、思い乱れているばかりです」と率直に自分の思いを嘆き訴えました。

「何という興覚めなことを話すのでしょう。誰かが聞いて、ほんの少しでも自然と漏れ聞かれてしまったら」と返答はしたものの、「これほどめでたい縁組にも慰められずに、亡き姉を忘れ難く思っている情愛の深いこと」と心に染みて思い聞きながら、カオルのジュヌヴィエーヴへの思いがいい加減なものではないことを思い知りました。

「姉君が存命していたなら」と残念に思い出していますが、「それにしても、姉は今の自分の有り様と同じように、不満を抱くことはせずに不運を嘆いていたのだろう。何事も物の数には入らない状態でいるなら、世間では一人前の立派な者とは見られない、と考えたからこそ、『カオル様には身を任せない』と考えてきっぱりとした決心をしていたのだろう」とひとしお並々ではなく、姉を思い出していました。

 カオルが若君をしきりに見たがっているので、恥ずかしいものの、「どうして隠し立てをする必要があるだろうか。道理に合わない無茶な懸想をして来る一点については恨まれても仕方ないものの、その他の点ではカオル様の要望に背かないようにしよう」と考えて、ともかく自分自身は返答をしないながらも、乳母に抱かせてカーテンの外にいるカオルに差し出しました。

 言うまでもなく、感じが悪いわけはありません。素晴らしいと思われるほど色白で美しく、高い声を出したり笑ったりする顔を見ると、「自分の子であったなら」と羨ましく、世俗への思いが離れ難くなったことでしょう。けれども「言う甲斐もなく亡くなったジュヌヴィエーヴが世間並みに自分の妻になって、このような子を残していてくれたなら」との思いだけが頭に浮かんだものの、近頃晴れがましい婚姻を結んだ第二王女ジョセフィンに「いつかは自分の子を産んでくれたら」などと思いも寄らないというのも、どうしようもない心持ちです。このように女々しく、ひねくれた人柄のように記さなければならないとは、困ったことです。とは言っても、「安梨王がそのような偏った不十分な人物を勘定高く、婿として親しく接したはずはないでしょう。誠実な点での心構えこそが見苦しくないと判断されてのこと」と推察すべきでしょう。

 カオルはまだこんなに幼い子を見せてくれたのが嬉しくなりました。二人はいつもより細やかに会話をするうちに日が暮れて行きました。気安く夜を更かせていくことができないのが苦しいことですが、溜息をつきながら邸を出ました。

「心が引かれる人の匂いを残されて」、「『先ほど梅の花を折り取ったので 私の袖はこんなに良い匂いがする 梅が咲いていると思ってであろうか ここに黒歌鳥が鳴いている』といった歌のように、黒歌鳥も尋ねて来るでしょう」と気を遣う若い侍女もいました。

 

 

16.藤花の宴、カオルへの王さまの酒杯ロラン大納言の羨望

「夏になると王宮からランブイエ城への方角は塞がるようになる」ということで、五月一日頃、昇天祭の時期が来る前に、ジョセフィンは王宮からランブイエ城に移ることになりました。その前日、サン・ブリュー大后とマルク王は藤壺の間で惜別の宴を開くことにしました。南側の縁側に椅子が並べられました。公儀の儀式で、ジョセフィンの主催ではありません。上官、王宮人への饗応などの手配は内務局が担当しました。

 左大臣の夕霧、地方行政監督の大納言ロラン、真木柱の弟バンジャマン、玉鬘の長男コリニー、王族からはニオイ卿、ピュイ・ドゥ・ドーム卿などが出席しました。南の庭の藤の花の下に王宮人の席が設けられています。本殿の東に楽隊の人々が呼ばれ、日が暮れて行く中で、明るい調子の曲が演奏されました。

 出席者の演奏に向けて、ジョセフィン側からハープや笛などが差し出されると、夕霧左大臣を始めとしてマルク王の面前に集まりました。亡きヒカルが自分で書いて山桜上に渡したハープ用の楽譜二冊を五葉の松の枝につけたのを夕霧がカオルから受け取って、マルク王に披露しました。次々にハープ、チェンバロ、リュート、フランス式ハープなども披露されましたが、すべて朱雀院が残した楽器でした。笛は夕霧からカオルに伝わった亡き柏木の形見でしたが、「二つとない音色だ」と安梨王が称賛していたので、「今日のような花やかな折りを除くと、再びこれほど際立って見栄えがする機会はないだろう」とカオルが取り出したのです。

 夕霧左大臣にはフランス式ハープ、ニオイ卿はリュートなど、とりどりに渡されました。カオル大将は今日こそはと、世の中に存在しないほどの音色の限りを尽くして柏木の笛を吹き立てました、王宮人の中で歌唱に秀でた者が呼ばれて、とても楽しいものになりました。

 ジョセフィン側から団子菓子が差し出されました。沈香の折り箱が四つ、長い脚がついたインド産の香木の器、濃淡の藤色の布には藤の枝を縫い付けていました。白銀の容器、ガラスの盃、酒を注ぐデカンタは紺色でした。コリニーが世話役を務めました。マルク王が盃を勧めるのが度々、夕霧大臣になるのは都合が悪く、さらに王族たちの中に適当な者もいないので、王杯はカオル大将に譲られました。カオルはいったんは辞退しましたが、マルク王の顔をうかがいながら、杯をささげて「頂戴いたします」と発する声使いや振舞いは、いつもの公的な作法にすぎないものの、人とは違って見えるのは、今日はひとしお見届けようとする人たちの思いまでが加わっていたからでしょうか。身分の高い王族や大臣などが王杯を賜るのは喜ばしいことです。まして第二王女の婿として厚遇される思いやりは一通りではなく珍しいものですが、身分の違いから末席に戻って行くのは気の毒に見えました。

 

 そうした中で、ロラン大納言は「自分こそこうした名誉を授かるはずだったのだが。いまいましいことだ」と感じていました。というのは、ロラン大納言はかってジョセフィンの母に思いをかけていて、安梨王の愛后として王宮に上がった後も、なおも思い諦めきれないように手紙を送ったりしていました。そしてついにはジョセフィンを手中にしたいとの気持ちも付け加わって、ジョセフィンの後見役を望んでいることを藤壺愛后に申し入れましたが、それが安梨王の耳に伝わることもなかったので、ずっと面白くない思いでいました。

「確かに人柄から将来をとりわけ約束されているのだろうが、どうして時の王さまがああやって大袈裟なほど、婿君扱いをされたのだろうか。その上、あろうことか王宮の奥にある寝室に近い辺りまで、臣下の身分の者に気を許して、果ては宴や何やらともてはやしたのだろうか」などと、今は亡き安梨王をひどく非難しながらも、さすがに藤の宴の様子を見たかったので出席したのですが、心中では腹を立てていました。

 

 暗くなると、松の細棒に油を塗った棒燭を灯して、出席者は祝いの歌を詠みました。小机に近寄って、詠んだ歌を書いた紙を置いていく様子は各人ともしたり顔に見えますが、例のように「いかにも陳腐で古めかしい歌ばかりだった」ことが思いやれるので、必ずしも各人の歌を無闇に紹介するのはしないでおきます。上流の地位が高いと言っても、詠み口に特別なものは見えないものの、藤の花の宴の証しとして、一つか二つは紹介します。以下は、カオル大将が庭に下りて、王さまの髪飾りとして、藤の枝を折って献じた際の歌です。

カオル(歌)王さまの髪飾り用に折ろうと思って 藤の花の高い枝に手をかけました

と得意げに詠んでいるのは憎いことです。

マルク王(歌)この藤はいつまでも美しく匂う花である 今日も見飽きることのない色をしている

(歌)王さまに献じるために折った 髪飾りの藤の花は 紫の雲にも劣らない景色です

ロラン(歌)王宮の奥にまで入り込んだ藤の花は 尋常の色香とは思えない

 この最後の歌は腹を立てているロラン大納言が詠んだものと見受けられます。多少の聞き違いはあるにせよ、いずれの歌も特に興味を引くものではありませんが、ロラン大納言の歌から、ロランの心中がうかがえます。

 ロランの真意は、カトリック派対プロテスタント派の対立の中で、サン・ブリュー大后とマルク王の胸中を探ることでした。ことに大后と夕霧左大臣がフィリップ前王の死後、即座にプロテスタント派のリーダー役と見なされるコンデを釈放したこと、プロテスタント派の牙城となったフォンテーヌブロー城との結び付きが強いカオルや玉鬘の息子コリニーの様子を探ることにあり、妻真木柱の弟でカトリック派のバンジャマンにも監視役を頼んでいました。

 

 夜が更けるにつれ、宴遊はますます楽しいものになりました。カオル大将は流行歌「ああ尊いことよ」を歌いましたが、その声は限りなく見事なものでした。カオルの歌に張り合うように、ロラン大納言もかっての美声を見せながらも、何となく気が晴れない様子で歌いました。童児の夕霧左大臣の七男が横笛を吹きましたが、とても見事だったので、マルク王が衣装を授けました。夕霧が庭に下りて、舞踏を披露しました。明け方近くになって、マルク王が退席しましたが、上官や王族たちには俸禄が授与されました。王宮人や楽隊の人々にはジョセフィン側から身分に応じた品々が贈られました。

 翌日の夜、ジョセフィンは王宮からランブイエ城に移りました。その儀式は格別なものでした。マルク王は自分付きの侍女たちに見送りをさせました。ジョセフィンは小屋根付きの馬車に乗りました。小屋根のない小板張りの馬車三台、枇榔の葉で編んだ黄金飾りの馬車六台、ただの枇榔の葉で編んだ飾りの馬車二十台、竹や檜の皮を張った馬車二台、侍女三十人、童女と下仕えが八人ずつ付き添いました。カオル側の迎えの女性用の馬車十二台にはランブイエ城の女官や侍女が乗っていました。見送りの高官・王宮人・官位六位の者などは言うまでもなく贅を尽くした装いをしていました。

 カオルがジョセフィンを引き取って、安心して打ち解けて見てみると、とても愛らしい様子です。小柄で物静かで、これと言った欠点に見えるところもないので、「自分の運勢は残念なものではなかったのだ」と得意になってしまうものの、どうして亡きジュヌヴィエーヴを忘れ去ることが出来ましょう。今なお忘れてしまう折りはなく、恋しくばかり感じます。

「ジュヌヴィエーヴへの思いはこの世俗の世界にいては慰めようがない。自分が世俗を離れて修道士になってこそ、不思議なほど不運に終わったジュヌヴィエーヴとの契りを『何かの報いであろう』と悟ってこそ、諦めがつくのだろう」と思いながら、コンフランの礼拝堂を急いで完成させることだけに心を打ちこみました。

 

 

17.カオル、コンフランを訪れて浮舟を覗き見る

 ジャンヌ・ダルク祭や昇天祭など騒がしい時期が過ぎた五月末、カオルは例のコンフランに出掛けました。建造中の堂を検分して、しかるべき注意点を指示しました。朽木を自称するベネディクトが不憫なので部屋に行こうとすると、仰々しくはない女性用の馬車一台が、腰に矢入れを負った南仏の男たちが数名、下人も数多く引き連れて、威勢よく近づいて来るのが見えました。

「田舎じみた一行だな」と見やりながら山荘に入りましたが、馬車の先導役がまだ立ち騒いでいる間に、その一行も山荘を目指していることが分かりました。お供の人たちががやがや言っているのを制して、「あの一行は何者なのか」と尋ねさせると、南仏なまりの者が「ピュイ・ドゥ・ドーム前知事の娘さんがシャルトル詣でをした帰り道です。往きもここにお泊りになりました」と答えたので、「ああ、そうだ。話に聞いていた人なのだ」と思い起こして、お供の人々を別の場所に隠して、「早く馬車をこちらに入れなさい。この邸にもう一人、泊り客がいますが、北面の方におられます」と言わせました。

 カオルのお供の人々も皆、旅姿でものものしい出で立ちをしている者はいませんが、それでも女性の一行は貴人の気配が分かったのか、面倒なことだと思いながら、馬を遠ざけて恐縮しています。女性が乗った馬車は回廊の西端に寄せました。建造中の堂は外装が出来上がったばかりで、まだ内装は手つかずのままでカーテンもかかっていません。戸で閉め切っている二間を隔てている間仕切りの隙間から覗き見をしました。着ずれがする上着を脱いで、平服とズボンだけにしました。

 

 馬車の女性はすぐには下りずに、ベネディクトに言付けをしています。「何だかやんごとない貴人がおられるようですが、どなたでしょうか」と尋ねているのでしょう。カオルは馬車の主が誰かと聞いた後、「決して馬車の女性に自分が来ているとは告げるな」と口止めをしていたので、ベネディクトを始め皆が心得ていて、「早く下りて下さい。客人はおられますが、あちらの部屋ですから」と話しています。

 まず若い侍女が下りて、カーテンを打ち上げます。この侍女は馬車を先導する男たちの風体と違って、物馴れていて見苦しくありません。続いてもう一人、年を取った侍女が下りて「早く」と告げると、「何だか誰かに見られている心地がします」と言う声が、かすかにですが、とても上品に聞えました。

「いつものことですね。建造中のこの堂は前々から戸で閉め切っています。一体どこから見られてしまうのでしょう」と心得顔に言います。ようやく慎重に下りて来るのを見ると、頭の様子や容姿はほっそりしていて、上品なところはジュヌヴィエーヴをとてもよく思い出させます。扇でずっと顔を隠しているので、素顔を見れないのがじれったく、胸がどきどきしながら見続けました。

 車台が高く、下りる部分が低くなっています。侍女たちはわけなく下りましたが、恐そうにためらいながら、ゆっくりと下りて、部屋の中に入って行きました。

 

 袖が広い長服の下に、撫子風の細長ドレス、初夏らしい色の小ぶりの上着を着ています。カオルが覗いている間仕切りの前に屏風が置かれましたが低めだったので、立っているカオルからは中が残らず見下ろせました。姫君は間仕切りの方が心配になったのか、逆向きになって、ものに寄り添って臥しています。

「姫君は随分苦しそうにされていましたね。オワーズ(Oise)川の渡し舟も今日は本当に恐ろしかったですね」、「この二月は川の水が少なくてよかったのですが。それでも南仏への道を思うと、パリへの道はどこでも恐いことはありませんね」などと、二人の侍女は「苦しかった」とは感じなかったように話していました。姫君は何も言わずに臥しています。腕を差し出していますが、丸々とした愛らしさは、知事の娘などとは思えない、本当に気品がありました。

 カオルは次第に腰が痛くなるまで立ちすくんで見続けて、「人がいる気配がしないように」となおもじっとしていましたが、「まあ、香ばしい匂いですね。とんでもない香りがします。ベネディクト様が焚いておられるのでしょうか」と若い侍女が言うと、もう一人の老いた侍女が「確かに結構な香りですね。やはり都の人は優雅で当世風ですね。姫君の母上も香の道に並みではなく長けておられると思っていましたが、南仏ではこうした匂いがする焚き物の調合は出来ませんね。ここの住まいはとてもささやかなものですが、ベネディクト様の衣服は望ましいもので、鈍色や青色と言っても、とても気品があり、美しいものですね」と褒めています。

 

 ベネディクトの部屋の方から縁側を通って童女がやって来て、「薬湯などを召し上がれ」と折り箱などを幾つも差し入れました。侍女は果物を取り出して、「さあ、これなどお食べなさい」と言って、姫君を起こそうとしますが、目を覚まさないので、二人の侍女は栗か何かをぽりぽりと食べ出しましたが、そんな音を聞いたこともない気がしたカオルは心苦しくなって、後ずさりをしてしまいましたが、また姫君が見たくなって、なおも仕切りに戻って覗き続けました。

 この姫君より身分の高い人々、サン・ブリュー大后を始めとして、あちらこちらで器量が良い女性や高貴な女性を見飽きるほど見馴れているので、取り分けて目も心も留まらず、あまりにも人に非難されてしまう心構えでいました。それなのに、今回はどれほど勝っているとも見えない女性でしたが、こうやって立ち去り難く、無闇と恋しい思いをしてしまうのは、とても不思議な気分でした。

 ベネディクトはカオルの部屋にも侍女を挨拶に行かせましたが、「ご気分がすぐれないと言われて、今はお休みになっています」とお供の人々が気配りをして伝えました。ベネディクトは「この姫君に逢ってみたいと話しておられたので、この機会に女君と話してみたいと思いながら、日を過ごしておられるのだろう」と思っていたのですが、カオルがこうしたように覗いていたとは知らずにいました。

 例のカオルの荘園の留守番役たちが差し出した、檜の薄板箱や何やかやをカオルはベネディクトに差し入れしました。ベネディクトは南仏の人々に分けて食べさせたりするなど、色々なもてなしを指示してから、身じまいを整えて女君の部屋を尋ねました。女君の老侍女が褒めた衣服は確かにとてもこざっぱりしていて、見た目もいまだに由緒ありげでさっぱりとしています。

「昨日のうちにご到着されるとお待ちしておりました。今日も日がたけてからのお着きというのは、どうされましたのでしょうか」とベネディクトが言うと、老侍女は「なぜだか奇妙なことに苦しそうにしていたので、昨日はシャルトルからの途中で泊まりました。今朝も際限もなく出発をためらっておりました」などと答えながら、女君を起こすとようやく起き上がりました。側にベネディクトがいるのに気が付いて、恥じらいながら横を向いた恰好がカオルからははっきりと見えました。

 

 本当に非常に品格のある目元や髪の生え具合のあたりは、ジュヌヴィエーヴをしみじみと見たことはなかったものの、この人を見るにつけても、ただ「ジュヌヴィエーヴだ」と思い出してしまって、例のように涙が落ちました。ベネディクトの問いに答える、ちょっとした声や気配はかすかではありますが、マドレーヌにも大層よく似ているように見えます。

「素晴らしい人だ。ここまでジュヌヴィエーヴの面影を伝えている女性を今まで探し求めずに過ごしていたのだ。この姫君より、もっと身分の低い血筋の者であっても、これだけジュヌヴィエーヴに似通っている人を見てしまうと、いい加減に思うことが出来ない気がする。言うまでもなく、第八卿に認知されなかったとしても、確かに第八卿の子に違いない」と見なすと、限りなくいたわしく嬉しい思いがしました。

「今すぐにでも近寄って、『まだこの世に生き永らえていたのですね』と言って、慰めてあげたくなる。その昔、西方の海中にある霊山の島に使いを行かせて、わずかに亡き愛后の髪飾りだけを受け取った、と伝わる王さまはやはりそれだけでは気が晴れなかったことだろう。それに対して、この女性はジュヌヴィエーヴと別人ではあるものの、心を慰めてくれるに足りる様子をしている」と思うのは、この女性と将来の縁があったからでしょうか。ベネディクトは女君と少し話をしただけで、すぐに部屋を出ました。先刻、二人の侍女が不審に感じた香りから、「カオル様が近くで覗かれている」と気付いたので、女君と打ち解けた話をしなかったのでしょう。

 

 日も暮れて来たので、カオルはそっと間仕切りを離れて、衣服を着替えてから、いつも呼び出しをするドア口にベネディクトを呼び出して、姫君の様子などを尋ねました。

「ちょうど折がよく、一行と来合わせたのは嬉しいことだ。以前に頼んでおいたことはどうなったのか」と問います。

「あのようにおっしゃられた後、よい機会があったらと待っていたのですが、昨年は過ぎてしまいました。この二月になって、シャルトル詣での際に女君と対面しました。母君にカオル様のご意向をほのめかしましたが、『そんな有り難いお方の身代わりになるというのは心苦しいことです』と申しておりました。たまたまその頃は『ご婚姻をされて、落ち着かれてはおられない』と聞いたので、都合が悪いと気兼ねして、そのようなことをお知らせしませんでした。

 その後、今月になって再度、シャルトル詣でをされて、今日はその帰り道に寄られたわけです。シャルトル往復の中宿りにここに立ち寄って親睦をされるのは、ただ過去の第八卿の気配を慕っての理由からです。今回は母君に差支えがあって、姫君お一人の旅になりましたので、『カオル様がお見えになっている』などとは話さないようにしております」とベネディクトが説明しました。

「田舎じみた人たちに私の目立たない出歩きを見せてはならないと思って、口止めをさせておいたが、どうなっていることだろうか。すでに下人どもが私の存在を話していることだろう。さて、どうしたら良いものか。女君一人ということなら、かえって気安いものだ。『こうして巡り合ったのも、将来の縁が深いからであろう』とカオルが告げると、「出し抜けに、いつからそんな縁が出来ていたのでしょうか」とベネディクトは失笑して、「それなら、そうと伝えて来ましょう」と奥に入りました。

(歌)森鳩の姿だけでなく 声までもあの人に似通っているので 木々の繁みをかきわけて 今日ここに尋ねて来た

と、カオルがただ口ずさむように誦しているのを、ベネディクトは女君の部屋に入って、そのままを伝えました。

 

 

                  著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata