巻49 宿木

 

9.カオルの移り香に、ニオイ卿、マドレーヌを詰問   (カオル 二十四歳)

 ニオイ卿はしばらくヴァンセンヌ邸にご無沙汰しているのを、自分自身恨めしく思って、急にヴァンセンヌに戻りました。

 マドレーヌは「疎ましく思っている様子は、何とか見せないようにしよう。『コンフランに行こう』と思い立ったのに、頼みにしている人が浅ましい料簡を起こしている」ように見えるので、世の中はとても厄介なものだ」と感じています。「やはり辛いことが多い身の上なので、ただ消え失せない程度に成り行きに任せて平静にしていよう」と判断して、ひどく可愛らしく、見ていて気持ちが良いように振舞うので、ニオイ卿はひとしお愛おしく嬉しく思って、このところのご無沙汰をなどのお詫びを際限もなく言い続けました。

 お腹も少し膨らんで、カオルに対して恥ずかしいと思っているようだった腰帯が引き結ばれている様子がいじらしく、まだ妊娠中の女性を間近に見たことがなかったので、珍しくさえ思いました。しばらくの間、堅苦しい夕霧邸に暮らしていたので、ヴァンセンヌ邸は万事が気楽で、懐かしく感じるままに、一通りでない事どもを尽きないまでに約束します。

 それを聞くにつけても、マドレーヌは「男という者はこういったように口先だけは巧みなのだ」と、昨夜の強引だったカオルの気配を思い出して、数年来、「優しい気立ての人だ」と思って来たが、こうした色恋沙汰の面では「カオル様を受け入れるわけにはいかない」と思うにつけても、行く末を約束してくれるニオイ卿の言葉も、「さて、どうであろうか」と当てにはならないものの、少しは耳にとまりました。「それにしても、呆れかえるほど油断をさせて、カーテンの内に入って来るとは。姉とは清い関係で過ぎたことなどを話す心遣いは確かに感心するが、やはりカオル様には打ち解けない方が良い」などと、いよいよ用心する気になりました。

 

 ニオイ卿が久しく顔を見せてくれなかった時は、物恐ろしい気がしていました。口に出して言うことはありませんが、これまでよりは少し甘えるように振舞うので、ニオイ卿は「一層限りなく愛おしい」と感じました。ところが、カオルの移り香が大層深く浸み込んでいました。ありふれた香をたきしめたものと違い、香の道に精通しているので、はっきりとカオルの匂いと分かり、「怪しいことだ」と咎め出しました。「どういうことだ」と尋ねますが、「意外なこと」とは言えないので、何とも答えようもなく、「とても困ったことだ」とマドレーヌは当惑してしまいました。

「そういうことか。きっとこんなことが起きるだろう。『カオル中納言が何とも思っているはずがない』とずっと予想はして来たが」とニオイ卿は胸騒ぎがしました。実際は、マドレーヌは衣服を脱ぎかえていたのに、奇妙なことにカオルの匂いがひどく身体に染みついていたのです。

「ということは、カオルに何もかも許してしまったのだね」とあれこれ聞き辛いことを尋ね続けるので、マドレーヌは辛く苦しく、身の置き所がありません。

「私はとりわけあなたを愛しく思っていたのに、『我こそ先に』とこんな具合に私に背いてしまうとは、どういったことなのだ。そんな料簡を引き起こすほど、私は不在をしていたのだろうか。思いのほか、情けないことだね」と、ここではすべてをそのまま伝えることが出来ない程、いたたまれずに話しますが、マドレーヌが何とも答えないので、なおさら妬ましくなりました。

(歌)私を差し置いて また別の人と馴れ馴れしくした あなたの袖の移り香を 私の身に染みこませながら恨んでいる

 ニオイ卿があまりにひどく責め続ける中、マドレーヌは返すべき言葉もなく、「どうしてそんなことを」と詠みました。

(返歌)あなたと私は 見馴れ知った仲と信じていたのに 移り香のことぐらいで 疎遠になってしまうのですか

と泣いている様子が限りなくいじらしいので、「こういうことだから、カオルも惹かれてしまうのだ」とひどく不愉快になって、自分もはらはらと涙をこぼすというのは、さすがに艶っぽい性格だからでしょうか。本当にどんな過ちがあったとしても、一途に愛憎を尽かすことが出来ない、あどけなく可哀想なところがマドレーヌにはあるので、恨み通すことが出来ずに、いい加減に話すのを止めたり、逆に宥めたりしました。

 

 翌日は朝遅くまでゆっくり眠って、洗顔も朝食もマドレーヌの部屋で済ませました。夕霧邸のあれほど輝くスペインやイタリア製の錦や綾を裁ち重ねた衣服を見馴れてしまった眼で見ると、マドレーヌの部屋は普段から見馴れた懐かしい感じがして、着ならした衣服を着た侍女も交じっているのを静かに見廻していました。

 マドレーヌはしなやかな薄色の服に紫みのある紅色の細長ドレスを重ねて、しどけない様子をしています。万事につけ、とても麗しく大袈裟なほど飾り立てているフローラの衣装とあれこれ思い較べても、何となく劣ってしるようにも思えません。親しみが持てる美しさも、ニオイ卿の並々でない愛情によって引き立っているのでしょう。丸く愛らしく太っていますが、妊娠で少しほっそりとしてきたものの、色肌はいよいよ白くなって、上品で愛らしいのです。

 ニオイ卿はああいった移り香など、はっきりとはしないことがあった時でも、愛嬌があっていじらしいところなどが、やはり人よりとても勝っていると思っています。「兄弟でもない男が側近くに出入りして、何かにつけ自然と声や気配を聞き見馴れてしまったら、どうしてそのままにしておくことだろうか。必ず思い寄って行くに違いない」と、自分の抜け目ない性分から思い知っているので、常に用心して、「何か明白な証拠となる手紙などがあるだろうか」とそこいらの棚や小櫃などのような物をさりげなく見やっていましたが、そういったものは見つかりません。カオルからの手紙は生真面目に短く書いてあるので、マドレーヌはただ、さりげなく別の物と取り混ぜていたのですが、「怪しい。やはりそんなことはないはずなのだが」と疑っていて、昨日の移り香の件があったので、今日も心中穏やかでないことは当然なことでした。

「あのカオルの気配も、心ある女なら、『素晴らしい』と惹きつけられてしまうように思えるから、どうしてマドレーヌもはねのけてしまうだろうか。二人は良い間柄だから、互いに思い交わしているのではないか」と思いやると、やるせなく腹立たしくなります。

 やはり、マドレーヌのことで気がもめるので、本日もヴァンセンヌ邸を出ることはありません。夕霧邸に二度、三度と手紙を送るので、「伝えたい話が、いつの間に積っているのでしょう」と呟く老いた侍女もいました。

 

 

10.カオル、マドレーヌの侍女に衣料贈与。カオルの恋にマドレーヌ懊悩

 カオル中納言は、そんな具合にニオイ卿がマドレーヌの部屋に籠っているのを聞くと、面白くない思いがします。「耐え難いことに、自分は愚かな思いをしてしまった。『心配は入らない』と思い計らって上げたのに、ああした思いを起こしてしまうとは」と強いて自分の行動を思い返して、「そうと言うものの、ニオイ卿はマドレーヌを見捨ててはいなかった」と嬉しくもありました。「侍女たちの気配などを思い起こすと、よれよれの着古した服装をしていたな」と思いやりました。

 そこで、母の山桜上の間に行って、「何かちょっとした有り合わせの衣装などがありますか。使い道があるので」と話すと、「来月の追悼ミサ用に準備している白い布などがあるはずです。まだ染めさせることなどはさせていないので、急いでさせましょう」と答えました。

「いえ、そこまで大袈裟にする必要はありません。持ち合わせのもので構いません」とカオルは言って、衣装室などに問い合わせて、あるに任せて、数多くの女性用衣服や小ぎれいな細長ドレス、白い練り絹布を集め、それに絹や綾の布地を取り揃えました。マドレーヌ本人向けの品としては、光沢を出すために打った模様が格別な紅色の絹布や白い綾布を多数重ねて揃えましたが、スカート類がないのは妊娠中だからでしょうか。それでも、両側を紐で結ぶスカートを一つ加えました。

(歌)他の人との縁を 紐で結んでしまったあなたを 一途に恨んでおります

 カオルは取り揃えた品々を、親しくしている年取った副侍女長の許に贈りました。

「とりあえず贈ります。見苦しい物ばかりですが、それなりに処理して下さい」といったメモを添え、マドレーヌ用の品は、目立たないように箱に包み込んでいました。

 副侍女長は品々をマドレーヌに見せることはなく、前々からカオルからの心づけはいつものことで馴れているので、無理に気取った返信をするほどでもなく、「どうしたものか」などと困りもせずに、適当に侍女たちに配ったので、各人はそれぞれ裁ち縫いをしました。マドレーヌのお側近くに仕える若い侍女たちは、とりわけ身綺麗にする必要があります。ひどくよれよれに着古した姿をした下仕えの侍女たちは、裏地付きの白い服など、地味なものになりましたが、見た目は中々、感じが良くなりました。カオルを除くと、誰がどんなことでも世話をしてあげる人がいたでしょうか。

 ニオイ卿は並大抵ではない愛情をもって、何事でも「どのようにして上げたら」と気を配っているものの、こうした細々した内輪のことまで、どうして気が付くでしょうか。限りなく王子として人々にかしずかれて育ったので、世の中の不均衡な侘しさが、どういったものかが分からないのも当然です。

「世の中は優美で風情があり、花の露をもて遊ぶのもそぞろ寒いものだ、と感じながら過ごすべきものだ」と苦労知らずに考えているせいか、思いをかけているマドレーヌのためならば、と折りにつけ自ら真面目なことにまで面倒を見てあげるのは、めったにない珍しいことなので、「何てまあ」と陰口をたたく乳母などもいました。

 女童の中に時々、ぱっとしない身なりをした者が交じっているのが恥ずかしく、マドレーヌは「中途半端な住まいだな」と人知れず懸念することがないわけではありません。まして最近は「評判が高いフローラ邸の花やかさに較べると、ニオイ卿に仕える人々は『私の住まいは人並みではない』と見定めているのだろう」との思い乱れも加わって嘆いています。

 

 カオル中納言はそうしたマドレーヌの胸中をとてもよく察していたので、「あまり付き合いのない人なら見苦しく煩わしく感じる、有り合わせのものを贈ったのは、マドレーヌを侮ったわけではなく、わざわざ仰々しく新しく仕立てさせると、かえってそんなことまで、と見咎める人も出て来るに違いない」と考えていました。そこで今回は、改めて見た目に感じが良い衣服を作らせたり、マドレーヌの上着を織らせ、絹綾の生地を添えて贈ったりしました。

 本来ならば、このカオルもニオイ卿に劣らず、特別にかしずかれているので、みっともない程思い上がったり、世の中の俗事には関わらない、高貴な性格になるのが当然ですが、第八卿の里住みの有様を見始めた頃から、「寂しい所でのいたわしさは特別なものだ」と心苦しく感じて、当たり前の世の中に思いをはせて、深い情愛を学んでいました。「とても心残りな人の教えだ」というものでした。

 そうしたことから、「やはり、どうすれば心配がいらない、思慮分別のある者でいようか」という思いには従うことが出来ず、マドレーヌのことが気にかかって苦しいので、以前よりも手紙を細々と、どうかすると、忍ぶにあまる気配を見せながら書いて来るので、マドレーヌは「とても思い悩んでしまうことが、我が身につきまとうようになってしまった」と思い嘆いていました。

「全く知らない人であるなら、『何という馬鹿げたことを』とたしなめて、突き放してしまうのはたやすいのですが、以前から特別な頼もしい人として親しんで来たのに、今更、仲を悪くしてしまうと、かえって人目が悪くなってしまう。さすがにカオル様の浅はかでもない心持ちや優しい様子を知らないわけではない。そうと言うものの、カオル様と心を交わした顔をするのは慎むべきなので、一体どうしたら良いのだろう」とあれこれ思い乱れています。

 仕える人々も、少しは相談になってくれる甲斐がありそうな若い者たちは皆、新参の者ばかりで、気心が分かっている人たちというと、コンフランから付いて来た侍女たちだけでした。マドレーヌは親身になって打ち解けて話し合える人がいないままに、亡き姉を思い出さない時はありません。「姉さえ存命していたなら、カオル様もこうした料簡を起こしたりはしない」ととても悲しく、ニオイ卿がつれなくなった心配を嘆くより、カオルの行動をとても苦しく感じていました。

 

 カオルはどうにも堪え切れなくなって、ニオイ卿が不在の物静かな夕暮れ時、マドレーヌを尋ねました。マドレーヌの部屋の端近くに敷物が差し出されましたが、「ひどく気分がすぐれないので、お逢いできません」と侍女を介して伝えたので、ひどく辛くて涙が落ちそうになりますが、人目についてしまうので、強いて紛らわして、「お加減が悪い時は、見知らぬ修道士などですら、お側に控えます。せめて医者の類だと思って、カーテンの内に侍らしてくれないものでしょうか。こうした侍女の取次ぎを通しての話では、何の甲斐もない気がします」と話して、ひどく不機嫌そうにしていると、先夜の様子を承知していた侍女たちは、「本当ですね」、「カーテンの外では見苦しいものです」

とカーテンを動かして、夜間の修道士が座る席に案内しました。

 マドレーヌは確かに気分が苦しいのですが、そこまで侍女たちが言うのだから、「際立って無愛想にするのもどうしたものか」と気が引けてしまい、気は晴れないものの、少し進み出て、カオルと対面しました。

 とてもか細い声で、時々話をする気配に、ジュヌヴィエーヴが病気になり始めた頃をまず思い出して、不吉で悲しく、目の前が暗くなる心地がして、急にはものを言うことが出来ず、カオルはためらいつつ話しました。あまりに奥の方にマドレーヌが引っ込んでいるのがとても辛いので、カーテンの下から衝立を少し押し入れて、例の馴れ馴れしげに近寄って行きます。マドレーヌは非常に苦しくなって、「耐え難いこと」と感じたので、少将の君と呼ばれる侍女を間近に呼んで、「胸が痛いので、しばらくここを押さえて下さい」と話すのを聞いて、「胸は押さえるほど苦しくなってしまいますよ」とカオルは溜息をつきながら、居ずまいを直しますが、本当に心は穏やかではありません。

「どういうわけで、こういつも加減が悪いと思われるのでしょう。初めての妊娠について人に聞いてみると、『少しの間は気分がすぐれないが、しばらくたてば、また良くなるものだ』と教えてくれました。初めてのことなので、意識過剰になっているのでしょう」とカオルが言うと、マドレーヌはとても恥ずかしくなって、「こうして胸が痛むのはいつものことです。亡き姉もそんな風でした。『長生きが出来ない人にはこうした病がある』と人も申しております」と返答しました。

「確かに、誰もが千年もの長生きをする松ではない世の中だ」とカオルは思うと、大層愛おしく可哀想そうになったので、側に呼ばれている少将の君が聞いているのも気にせずに、冗談めかした話を選びながら、マドレーヌだけには分かるように、以前から募っていることを、側にいる人には一向に気が付かれないように、体裁よく言いつくろったので、少将の君は「本当に有難い心遣いをお持ちだ」と感心しながら聞いていました。

 

 そうした中でも、カオルは何かにつけてもジュヌヴィエーヴのことを変わらず思っていました。

「私は幼い頃から、世の中を思い捨てて独身を貫いていく決心をしていました。しかし、そうなる運命だったのでしょうか、ジュヌヴィエーヴから疎まれながらも、一通りではなく思い詰めてしまったので、私の本意であった聖(ひじり)心もさすがに違ってしまいました。ジュヌヴィエーヴの死を慰めようと、あちらこちらの女性に通って、彼女たちの様子を見ていたら気が紛れることもあろうか、と思い寄る折々はありましたが、やはりどうしてもほかの女性に靡くことはありませんでした。

 あれこれと思い煩いましたが、あなたに強く心が傾いていたわけではないので、『好色めいたように思われはしないか』と気恥ずかしいのですが、あってはならない思いを私にかけて下されば、思いの外、素晴らしいことです。ただこういう風にして、時々私の思っていることを話したり聞いたりして、お互いに隔てなくお付き合いが出来たら、誰が咎めたりしましょうか。普通の男とは違っている私の性格を非難する者は誰もおりませんので、心配はいらないと思って下さい」と恨んだり泣いたりしながら話しました。

「あなたのことを疑っていましたら、こんなに『怪しい』と思われてしまうほどの近さで対話をするでしょうか。久しい間、何やかやの折りにつけ、ご好意を見知っていますから、とりわけ頼もしい人と感じておりますし、今は私の方から驚かせてしまうようなお願いをしています」とマドレーヌが言うと、「そんなことがあったとは思ってもおりません。随分と賢明な見方をされていますね。今回の急なコンフラン行きにせめて使って上げようとでも思われているからでしょうか。それはつまり『本当の私の気持ちを承知されているからだ』と愚かにも思ってしまいます」などと言って、なおも恨めしそうにしていますが、侍女たちも聞いているので、思いのままに話し続けることは出来ません。

 カオルが外の方を眺めてみると、ようやく日が暮れて来て、小鳥のさえずりばかりが紛れなく、林の方は小暗くなって何の識別も出来なくなっています。しんみりした様子でものに寄りかかっていますが、カーテンの奥では「煩わしいこと」と感じています。

(歌)もう恋の思いを耐え忍ぶ気力も失せてしまった せめて声を立てて泣こう といった歌をカオルは小声で誦して、「どうしたら良いか途方にくれてしまう。辺りをはばからずに泣ける里に行ってしまいたい。コンフランの山里あたりに、わざわざ教会を建てなくとも、亡きジュヌヴィエーヴの人像を作り、絵にも描いて勤行をしていこうと思っています」と話すと、「「そのお気持ちは素晴らしいことです。『清め』に近い人像こそ、姉への思いやりが愛おしいものになります。絵の方は画家への報酬次第で良くも悪くもなるので、気になりますが」と答えたので、「そうですね、彫刻家にせよ画家にせよ、どうして私の希望を叶えるものを作れましょうか。近頃、あまりの巧妙さに天から花を降らせた彫刻家もいたとのことですが、そういった普通でもない人がいてくれたなら」とあれやこれやとジュヌヴィエーヴが忘れられない模様に溜息をつく様子が深いことが気の毒になったのか、マドレーヌが少し近寄って来ました。

 

「人像の話が出たついでに、思いも寄らない不思議なことを思い出しました」と話す気配がいつもより親しげだったので、身に染みて嬉しくなったカオルは「どうしたことですか」と言いながら、布の衝立の下からマドレーヌの手をつかみました。面倒くさい思いがしたマドレーヌは「どうにかして、こういった気持ちを止めて、穏やかに接したい」と思いながら、側にいる侍女に気取られてしまうのが不快なので、さりげなくもてなしました。

「久しい間、生きているとも知らなかった人が、この夏頃、遠方からやって来て、尋ねて来ました。疎遠にする気持ちは持ちませんでしたが、『ぶしつけに何もそう睦まじくするつもりはない』と思っていたのですが、先日、娘さんを連れて来ました。その娘さんが不思議なまで姉の気配に似ていたので、懐かしい思いになりました。姉の形見などと思って話したところ、『いえいえ、少しも似てはいません』とその人を見た侍女たちもいましたが、それほどでもない人が、どうしてそう似ているのでしょうか」と話したので、「夢物語ではないのか」とまでカオルは聞き入りました。

「それ相当のわけがあるからこそ、そのように睦まじくなりたいのでしょう。なぜ今まで、その娘さんのことをほのめかしてくれなかったのですか」と問うと、「そうですねえ。その由縁も『どういうことだったのか』と私も分からないのです。亡き父は後に残された私たちが落ちぶれてさ迷うようになりはしないか、とそのことだけを心配していました。姉が死んだ後、私一人になってから、あれこれ思い当たることがありましたが、またその上に面白くもないことが加わってしまって、人の噂に上ってしまったら、本当に困ったことになります」と話す気配から、「第八卿が内緒に契った女性との間に隠し子を残していったのだろう」とカオルは察しました。

「ジュヌヴィエーヴに似ていた」とマドレーヌが話した箇所に耳が留まったカオルは、「同じことなら、それだけでなく、もっと詳しく話して下さい」と知りたそうにしますが、さすがにきまりが悪いのか、細かいことは話さずにいました。

「その人を尋ねたい、とのお気持ちがあるなら、『あの辺り』と教えることは出来ますが、細かいことは知りません。それにあまり隠さずに言ってしまうと、幻滅されてしまうかも知れません」と話します。

「ジュヌヴィエーヴの魂の居場所を尋ねて、海の中にまで思いの限り進んで行くべきところですが、そこまでしようとは思いません。それでも、こうやってジュヌヴィエーヴの死を慰めるすべもなく過ごしているよりは、その人を見た方が良いと考えます。ジュヌヴィエーヴの人像を飾るほどなら、その人をあのコンフランの山里に人像の代りに住んでもらったら良いわけです。やはり、確かなことを話して下さい」と一途に責め立てました。

「そうですね。父が自分の子だと認めもしなかった人のことを、こうまで漏らしてしまうのは、口が軽いようですが、『姉の化身を造ってくれる彫刻家を見つけないと』と言われるのが気の毒になって、話してしまったのですが」とマドレーヌは一息つきました。

「実は大変遠い南仏に長年暮らしておりました。それを母上がとても可哀想に思って、無理を承知で尋ねて来ました。中途半端な返答をしましたが、今度はその娘さんを連れてやって来ました。私はその人にちらっと逢っただけすが、総じて思っていたよりは見苦しくないように見えました。母上は『この人をどう扱ったらよいのか』と嘆いていましたから、姉の人像代わりになってもらうのは良いことですね。と申しても、そこまで進まないことでしょうが」と続けました。

 

「上辺ではさりげなく振舞いながら、『うるさく言い寄って来るカオルから、うまく逃れる手段はないものか』と考えた上での話だ」と見え透いているのは辛いことですが、カオルはその人のことが気になってしまいました。

「『あってはならない事』と私を深くたしなめつつも、露骨に恥じをかかせるような扱いをしないのは、私の気持ちを理解しているからだ」と思うと胸がときめいてしまいます。夜が大層更けて来たので、カーテンの内側では、侍女たちの手前も都合が悪く感じて、カオルが油断している隙に奥に引っ込んでしまいました。

「それも道理のことだ」とカオルは返す返す思いはするものの、やはり非常に恨めしく悔しくて、恋しさを思い鎮めることが出来ない心地がして、涙をこぼすのは体裁が悪いことでした。あれこれ思い乱れがしますが、一途に浅はかな振舞いをしてしまうと、やはり自分にとってもとんでもないことになってしまうので、ぐっと我慢をして、いつもより溜息をつきながら邸を去りました。

「こんな風に思い詰めてしまうと、どうなることだろう。これからも苦しいに違いない。どうすれば世間からの非難が出ないようにしながら、これほどマドレーヌを思う望みが叶えられるだろうか」などと、自分自身は恋の道に踏み込んだことがないせいか、自分にとっても相手にとっても穏やかではないことを、むやみやたらと思いながら、夜を明かしました。

「『ジュヌヴィエーヴに似ている』とマドレーヌが話した人を、どうして『ジュヌヴィエーヴの実物』として見ることが出来るだろうか。母親の身分は知れているから、言い寄るのは難しくはないようだが、その人が自分の真意ではなければ、面倒なことになってしまう」と、やはりその人への気持ちはわいてきません。

 

 

11.カオル、ベネディクトに寝殿改築を語り、浮舟の話を聞く

 久しくコンフランの邸を訪れずにいると、大層ジュヌヴィエーヴの面影が遠のいてしまう心地がして、漠然と心細くなってしまうので、十月二十日過ぎの頃に、コンフランに出掛けました。ひどく激しい風が木の葉を吹き払っていて、とても寂しく荒々しいセーヌ川の流れの音が番人となっていて、人影も見えません。見るよりもまず、心が暗くなって、限りなく悲しくなります。修道女のベネディクトを呼ぶと。仕切り口に青鈍色の衝立を差し出して出てきました。

「とても恐れ多いことですが、以前にも増して見苦しい姿をしていますので、気が引けています」と直々には出ないでいます。

「どんなに寂しく暮らしているのだろう、と思いやっていたが、あなたの他には分かってくれる人もいない話を聞いてもらおうとやって来た。本当に月日が経つのは早いものだ」とカオルが目にいっぱいの涙を浮かべるので、老いたベネディクトはまして涙を堪え切れずにいます。

「『妹様の身の上のことで、わけもなく心配されておられた頃の空だな』と思いますと、いつということはない中でも、秋の風は身に染みて辛い思いがします。亡き姉君が案じていらしたことがはっきりと分かる有様をうっすらと耳にするにつけても、あれやこれやと」とベネディクトが語りました。

「そうであっても、生き永らえていたなら、立ち直ることもある。ニオイ卿のことについてジュヌヴィエーヴが味気ない思いをしていたのは、私の過失であるように感じて悲しくなる。最近ニオイ卿が夕霧邸のフローラと縁組をしたのも、世間にありがちなことです。それでもマドレーヌが気がかりになっているように見える。ただ何と言っても、空しい空に昇って行くのは誰もが逃れられない宿命だが、後に取り残されてしまうのは、何としてもたまらないことだ」とカオルは又、涙を流しました。

 

 カオルは導師を呼んで、ジュヌヴィエーヴの追悼ミサの日の聖典やキリスト様のことなどの指示をしました。「さて、私が時々、ここに訪ねて来る度に、昔を偲んで甲斐もなく悲しみに掻き暮れてしまうのはつまらないことだ。この邸の本殿を取り壊して、あのモウブイソン修道院の傍らに礼拝堂を建てようと考えている。同じことなら早めに工事を始めたい」と言って、幾つかの堂、回廊や宿泊所など、しかるべきことを描いて指示をするので。「大変尊い事です」と導師は感心しました。

「亡き第八卿が自分の住まいとして思いをこめて造られた本殿を取り壊してしまうのは情けがないようだが、卿の本来の志は功徳をする方向に進めようとされていた。しかし、後に残される姉妹のことを思いやって、そこまでは出来ずにおられた。この邸は今はニオイ卿の妻となったマドレーヌの所有となっているので、ニオイ卿の所有とも言えるようになった。となると、ここをこのまま教会にしてしまうと、都合が悪いことになる。わたしとしても、身勝手にそのようには出来ないが、この場所の様子もあまりに川面に近く、人目にも付きやすいから、やはり本殿を取り壊して、別の形に造り替えようと思うのだが」などと告げました。

「あれやこれやと、とても賢明で尊い心がけです。その昔、ある人が子の死んだことを悲しんで、屍を包んで、長い年月、首にかけていましたが、キリスト様を手掛かりとして、屍の袋を捨てて、ついに聖の道に入った、という逸話があります。この本殿をこのままにしておいて、亡きジュヌヴィエーヴ様を愁傷されるというのは、全くもってのほかのことです。礼拝堂になされた方が後の世に向けて善行となることでしょう。早速、工事に取り掛からせましょう。占星学者が選んだ日を知らせていただき、心得のある建築家を二、三人選んでいただけましたら、細かいことはキリスト様が定められた作法通りに造らせましょう」と約束しました。

 カオルは何やかやと手筈を決めて、自分の荘園の人たちを呼んで、「今回の件は導師の指示に従ってくれ」と話しましたが、あっけなく日が暮れたので、その夜は山荘に泊まることにしました。

 

「この本殿は今回が見納めになる」と思って、あちらこちらを巡り歩きましたが、キリスト像などすべての物はモウブイソン修道院に移していたので、残っているのはベネディクトの勤行の道具だけでした。ベネディクトはとても心細げに住んでいるようなので、「可哀想なことだ。どうやって過ごしているのであろう」と思いました。

「この邸の本殿は建て替えることにした。それが出来上がるまでは、あちらの回廊の間に住んで下さい。都のパリにいるマドレーヌに渡したい物などがあれば、私の荘園の者を呼んで、しかるべきように言いつけてくれ」など、必要なことを指示しました。

 他の場所にいたなら、これほど老いた者を構って上げることはないのですが、夜になってからも自分の側近くに寝かせて、昔の話などをさせました。側で聞いている人もいないので、ベネディクトは安心してカオルの実父の柏木中納言の有様も、大層細やかに話しました。

「『今はもう』と臨終になりました時に、愛すべきあなた様のお姿を見たがっていた様子などが思い浮かんできます。こうやって、思いもしなかった晩年になってカオル様にお目にかかったというのは、柏木様の存命中に親しく仕えさせていただいた効験が自然と現れたのだと、嬉しくも悲しくも思い知りました。情けなくも長生きをしてしまいましたが、こうした様々のことを見たり、思い知ったのは本当に恥ずかしく心苦しいものです。マドレーヌ様から『時々は都に上って来て欲しい。様子がはっきりしないまま、コンフランに引きこもっているのは、私を見限ってしまったのではないでしょうか』と話される折々もありますが、はばかりのある修道女の身なので、キリスト様の他には拝見したいと思う人はおられなくなっています」などと話しました。

 さらに又、亡きジュヌヴィエーヴのことも、際限もなく生前の様子を語りました。「何かの折りには何を」と言いながら、花々や紅葉を見ては、はかなげに詠んだ歌などを、声を震わせながら不釣り合いでもないように口にするので、「おっとりとして言葉少なの中で、愛らしい人柄であった」とだけ、ひどく感慨にふけりました。

「マドレーヌは姉より今少し当世風でいて、心を許していない人にはそっけない応対をしているのに、私に対してはそれほど情が深くはないように見せないでいるのは、どう考えているからなのか」などと姉と妹を心中で思い較べていました。

 

 そうした話のついでに、あの人像の女性について切り出しました。

「さあ、その人がこの頃、パリにいるかどうかは知りません。その女性については人づてに聞いただけの話です。故第八卿はまだこの山里に住み始める前、本妻の方が亡くなってから間もない頃、中将の君として奉公していました上級の侍女で、気立てなどもそう悪くはない者に秘かに情をかけていましたが、それを知る人もいないまま、女の子を産みました。第八卿は「もっともなことだ」と身に覚えがあるものの、遁世を考えている身では足手まといで煩わしく、目障りのように思って、もうその侍女とは逢わないようにしました。わけもなく、そうしたことに懲りてしまい、やがて聖のような生活に入ってしまったのを、中将の君は中途半端に感じて、奉公を止めてしまいました。

 その後、中将の君はアヴェイロン(Aveyron)知事の妻となって下って行きましたが、先年、パリに戻って来て、女の子が無事に育っている旨をコンフランの邸にもそれとなく知らせたのですが、それを聞いた第八卿は「そうした報告を受ける必要はない」とはねつけてしまったので、『せっかく育て上げた甲斐がない』と中将の君は嘆いてしまいました。そして又、夫が今度はピュイ・ドゥ・ドーム(Puy de Dôme)の知事になって下って行き、近頃まで音沙汰がなかったのですが、今年の春にパリに上がって来た後、マドレーヌ様を尋ねていった、との噂をちらっと聞きました。娘さんは二十歳ほどになっているようです。中将の君は『大層美しく成人したのが愛おしくも悲しいこと』と一時はマドレーヌ様に宛てて手紙を書き続けていたようです」と話しました。

 その女性について詳しく聞き留めたカオルは、「ということは、マドレーヌの話は本当のことだった。是非とも見てみたいものだ」という気持ちになりました。

「ジュヌヴィエーヴの面影に少しでも似ている人がいたら、見知らぬ国までにも尋ねて行きたい気持ちがしている。第八卿がたとえ自分の子に数えていなかったとしても、それに近い人物、ということだ。わざわざでなくとも、このコンフラン辺りを訪れる折りがあったら、そのついでは『私が是非とも逢ってみたい』と話していた、と伝えて欲しい」とだけベネディクトに話しました。

 

「母の中将の君は亡き正夫人の姪の方なので、私とも親族の間柄です。その当時は別々の所に奉公していたので、あまり親しくお付き合いをしたことはありません。先日、パリの副侍女長から消息がありまして、「その女性は『どうにかして、第八卿の墓参りをしたい』と話しているとのことなので、そのつもりでいて下さいなどと伝えて来ましたが、まだこちらへわざわざやって来る音沙汰はありません。いずれ、そうした折りがありましたら、カオル様の伝言などを伝えましょう」とベネディクトが答えました。