巻49 宿木

 

6.ニオイ卿と夕霧の第六女フローラの婚姻、マドレーヌの煩悶  (カオル 二十四歳)

 夕霧左大臣はモンモランシー(Mont Morency)の東館を磨き立て、限りなく万端の調度を整えて、ニオイ卿の訪れを待ち受けていました。十六夜(いざよい)の月がようやく上がりかけても、訪れがないので、じれったくなって、「この縁組に大して気乗りしていないようだし、どうなることか」と不安になって、迎えの者をルーブル宮に行かせると、「ニオイ卿は夕方、王宮を退出されて、ヴァンセンヌ邸に戻ったようです」との報告を受けました。恋しい女性を住まわせている、というのは面白くないが、今夜を逃してしまうと、物笑いになってしまうので、(歌)大空の月でさえ 私どもの宿に上がって照らしてくれているのに お待ちしている宵が過ぎても お越し下さいませんね といった歌を託して、長男アンドレをヴァンセンヌ邸に行かせました。

 ニオイ卿は「今から夕霧邸に向かうといった仕草を、中途半端にマドレーヌに見せないようにしよう。心苦しいことだから」と、まず王宮に行って、マドレーヌに手紙を送りましたが、どんな返信があったのでしょうか。やはりマドレーヌが可哀そうに思ったのか、こっそりヴァンセンヌ邸に戻ってしまいました。可愛らしいマドレーヌの姿を見捨てて、邸を出て行く気持ちがしません。マドレーヌが愛おしく、何やかやと約束をしつつ、慰さめかねながら一緒に月を眺めました。

 マドレーヌはこのところ、あれこれ思いに耽ることが多いのですが、「何とか顔色には出さないように」と、何かにつけても辛抱して過ごしていることから、聞き咎められないように、おっとりとしているのが、とてもいじらしく見えます。

 アンドレの来訪を聞き、夕霧が託した歌を読んで、さすがにフローラが気の毒になったので、ニオイ卿は夕霧邸に向かうことにしました。

「すぐに戻って来ますよ。一人で月を眺めてはいけないよ。私の心が上の空になって、とても切なくなってしまうから」と言って、気恥ずかしいので物陰から本館に行きました。

 マドレーヌはニオイ卿の後ろ姿を見送りながら、何とも思ってはいないつもりでしたが、ただ涙で枕が浮いていく心地がして、「あって欲しくないのは人の心なのだ」と我ながら思い知りました。

「自分は幼い時から姉君と共に悲しい身の上だったのだが、世の中を思い諦めているようにも見える父宮一人を頼みにして、あの山里のコンフランに長年住んでいた。ただいつともなく、所在ない物寂しさはあったものの、今のように心に染みて、この世が辛いものだと思い知ることはなかった。母に続いて、父と姉の死という浅ましい出来事を考えていると、『私もまた、この世に留まって、片時も後に残っているとも思えず、父と姉が恋しく悲しいといった類はないだろう』と思っていた。

 ところが私だけは寿命が長く、今まで生き永らえて、人々が思っていたよりは、一人前の人間として見られるようになった。『この状態が長続きする』とは思ってはいないが、ニオイ卿と逢っている限りは、憎めない心遣いや振舞いをされるので、私もようやく思い悩むことが薄らいで、生き永らえてこれた。しかし、ここにきて、たとえようも出来ない辛い出来事が起きてしまい、卿との縁は『これ限りだ』と思うようになってしまった。そうであっても、『本当に亡くなってしまった父や姉とは違って、時々は卿に逢うことが出来る』と思うべきなのだが、今夜、こうして私を見捨てて外出していくのが辛く、過去のこともこれから先のことも、何もかもが分からなくなってしまい、たまらない心細さが込みあがって来るのは、自分の心ながら慰めようもなく、情けないことだ。それでも私が生き永らえていれば、卿の心が戻って来ることもあるだろう」と自分を慰めようとしているものの、卿が「一人で月を眺めてはいけないよ」と忠告した月が、冴え冴えと昇って行くのを見ながら、夜が更けていくままに、様々なことを思い乱れてしまいます。

 コンフランの荒々しい川風に較べると、松風の吹く音も大層のどかで、親しみやすい住まいではあるものの、いつもと違って椎の葉の音より劣っているように感じます。

(歌)コンフランの山荘の松の木も これほど身にこたえる秋風は吹かなかった

マドレーヌはコンフランの住まいの侘しい生活を忘れてしまったのでしょうか。

 老いた侍女などは「もう奥に入って下さい。一人で月を眺めるのは不吉なことだと申します。それにまあ、ちょっとした果物すらお食べにならないとは、一体、どうされました」、「ああ、見苦しいこと。姉君が他界される前に何も食べられなかった不吉な思い出もあるのに」、「何とも耐え難いことです」などと話しています。

 若い侍女たちが「辛い世の中ですね」と溜息ををついて、「それにしても、卿のなされ方というのは」、「いくらなんでもお二人の仲が、いい加減なままで終わってしまうことはないでしょうが」、「何と言っても、本当に深く思い合った同士の仲は未練が残るものですから」などと言い合っているのを、色々と聞き辛く感じて、「今は、何としてでも、何も言わないでおこう。ただこのまま成り行きを見守っていよう」と考えるのは、「ニオイ卿について、人にはあれこれ言わせない。自分一人で恨んでいよう」というつもりだからでしょうか。

「それにしても、カオル中納言様とは」、「あれほどまでに心を打つ情が深いのに」などと、古くから仕えている侍女たちが言い交して、「人の宿命というのは不思議なものですね」と言い合っていました。

 

 一方のニオイ卿はマドレーヌに対してひどく心苦しい思いをしながらも、根が艶っぽい性分でもあるので、「待ちわびている夕霧親子に、立派だと感心されるように」と心づくろいして、何とも言えない香をたきしめた気配は言いようもありません。待ち受けている夕霧邸の有様も、とても風趣に富んでいました。

「フローラは大層な小柄で弱々しいところなどはなく、ほどよく成人している印象を与えるが、人柄はどうなのだろうか。派手で目立ちがりやで、心映えも物柔らかさがなく、得意がっているのではないか。そうであったなら、嫌気がさしてしまう」などと懸念していましたが、そうした気配はフローラにはなかったようです。粗略に扱う思いはしませんでした。

 秋の夜でしたが、夜更けにやって来たので、直に夜が明けました。ヴァンセンヌ邸に戻っても、すぐにはマドレーヌの部屋には行かず、しばらくの間は自室に籠って、一寝入りしてからフローラ宛ての手紙を書きました。仕えている侍女たちは、「あのご様子だと、そう悪くはなかったのでしょう」とつつき合っていました。「マドレーヌ様こそ、気の毒です。世間をあます所なく歩く性分ですから」、「マドレーヌ様が自然に圧倒されてしまうこともありえます」などと、普通の奉公人ではなく、皆、馴れ親しんだ侍女たちでしたから、不安そうに話す者もいて、皆、なおさら悔しそうにしていました。

 ニオイ卿はフローラからの返事も、「自室で受け取ろう」との思いでいたものの、「一夜を空けたのは気がかりだが、いつもの隔てと違ったので、どうしていただろうか」と気苦しくなって、急いでマドレーヌの部屋に行きました。寝起きの乱れた姿がとても見事で見所があります。横に臥しているのが不具合なのか、少し起き上がりますが、眼の周りを赤くした顔の色艶など、今朝も愛らしさがとても勝っています。ニオイ卿はわけもなく涙ぐんで、しばらくマドレーヌをじっと見つめるので、マドレーヌは恥ずかしく感じてうつむいてしまいますが、髪形や髪飾りの具合がやはり中々のものです。

 何となくきまりが悪く、照れ隠しなのか、ニオイ卿は昨夜の夕霧邸でのことなどはおくびにも出しません。「どうして、こういつも悩ましそうにしているのだろう。『暑い時期だけのこと』とか話していたので、そのうち元気になるだろうと、涼しくなるのを待っていたが、いまだに晴れやかにならないのは困ったことだ。色々と祈祷などもさせているのに、どうしたことか、一向に効果が出てこない。そうであっても、祈祷はまだまだ続けた方が良いだろう。際立った修道士がいないものか。何とか言う修道士に夜居を務めてもらった方がよかったのだが」などと真面目くさって話しますが、こういった口達者なところは好きになれません。全く返答をしないでいるのも嫌なので、マドレーヌは、「コンフランに住んでいた頃から、奇妙なことに、人とは違ってこうした折りがありましたが、自然と直りましたから」と答えました。

「ひどくあっさりしたものだね」とニオイ卿は笑って、「馴染みやすく、愛嬌のある点では、マドレーヌに並ぶ者はいない」との思いはするものの、その反面、すぐに慕わしくなったフローラの顔が浮かんでくるのは、フローラへの執心も一通りではない、ということでしょう。それでもマドレーヌと面を向けている間は、情愛が変わることはなく、「後々の世まで」との誓いなどは尽きません。そうしたことを聞くにつけても、「本当にこの世は短いものですが、そんな命を待つ間でも、つれない仕打ちを見せるものでしょうか。せめて、『後々の世まで』だけでも違わないようにと願うので、やはり『性懲りもないこと』はして欲しくありません」と言って、一生懸命に涙を堪えようとしますが、今日ばかりは耐え忍ぶことが出来なくなったのか、泣いてしまいました。

 

 日頃から、何とかして「心中の思いを見せないように」とあれこれ紛らわせるように努めていましたが、多くの思いが胸に集まってしまい、そんなにも包み隠すことが出来なくなって、涙がここぼれ出てしまったのをすぐには止めることが出来ないのが、「とても恥ずかしく侘しい」と思ってか、顔をすっかり背けてしまいました。

 ニオイ卿はマドレーヌの顔をこちらに向かせて、「いつも私が話すのを聞いてくれる、しおらしい人と見ていたが、やはり何かを隠そうとする気持ちを持っていたのだね。そうでなければ、一夜のうちに心変わりをしてしまったのだろうか」と言って、自分の袖でマドレーヌの涙をぬぐってあげました。「一夜のうちの心変わりと言われるのは、自分がそうだからこそ、そう推察されるのですね」とマドレーヌは少しばかり微笑みました。

「まあ、あなたは何と言う子供じみたことを言うのです。本当に一点たりとも、やましいところはないのだから、心配はいらない。心変わりをしていたなら、どのように言いつくろったところで、明らかなことは分かってしまう。世の中の道理を全く思い知っていないことは可愛らしいことだが、まあ私の身になって、思いめぐらして下さい。『本当に辛いのは、我が身を心のままに出来ない』といった状態なのですよ。もし私が思い通りに出来る世になったら、人より勝っているあなたへの志のほどを知らせたい『ある事』があるのです。軽々しく口に出すべきことではないことなので、せめて長生きをして欲しい」と弁明がましく話していると、夕霧邸に送った使いがしたたかに酔って戻って来ました。

 マドレーヌに対して少しは差し控えるべき場面である事も忘れて、公然と邸の南面に使いを呼び入れました。使いの者はもの珍しい数々の祝い品に埋もれていたので、人々は「なるほど、そういうことか」と気付いています。「それにしても、いつの間に急ぎの手紙を書いたのでしょうか」とマドレーヌの侍女たちの心中は穏やかではありません。

 フローラとの婚姻を強いて隠すべきでもないものの、やはりだしぬけに見せつけるのはマドレーヌに気の毒なので、「使いの者がもう少し気配りをしていてくれたなら」ときまりがわりのですが、今はなすすべきもなく、侍女を通じて返信を受け取りました。

「同じことなら、マドレーヌには隔てをしない態度で貫こう」と思いながら返信を開けると、「フローラに継母の落葉上が書いたもの」と分かって、今少し安堵して手紙を置きました。代筆の手紙ではあったものの、マドレーヌにとってはきがかりになる返信でした。

「差し出がましいことをしますのは心苦しく、フローラに自分で書くように勧めましたが、とても悩ましげにしております。

(歌)継娘のような女郎花(おみなえし)が 朝露に萎れているのは どういったお扱いをされた名残なのでしょう と上品な見事な字で書いてありました。

「恨みがましい口調なのが煩わしい。正直な話、まだ当分はフローラと過ごすつもりだったが、予想外のことになってしまったようだ」とニオイ卿は呟きました。「妻として二人はいないのが当然なこと」と考え馴れている普通人であったなら、こうした場合の本妻の恨めしさは同情できますが、王族であることを考えると、そういうわけには行きません。どうせいつかはこうなることは明らかです。王族たちの中でも、ニオイ卿は気性が特別のように世間の人も承知しているので、女性を幾人も幾人も持ったとしても、非難する者はおらず、マドレーヌを気の毒と思う人はいない、ということでしょう。それどころか、これほどまでに大切にされて、一通りではない寵愛を受けているのを考えると、「幸せな女性だ」と人々は話しています。

 本人としては、これまであまりに可愛がってもらうことに馴れてしまっていたところに、急に中途半端になってしまったことが嘆かわしいことでした。「昔の物語を読んでいると、『どうして男女の仲に深い苦労をするのだろう』と他人事のように不思議に感じていたが、自分の身に降りかかってみると、確かに辛いものだったのだ」と何のことかを理解しました。

 

 ニオイ卿はいつもより、しんみりと打ち解けたように振舞いながら、「全く物を食べないのは身体にとても悪いことだ」などと言って、由緒ある菓子を取り寄せたり、しかるべき料理人を呼んで、格別な調理をさせて食べさせようとしますが、手をつけようともしないので、「見るに忍びない」と嘆きながら、日が暮れた夕刻には自室に戻って行きました。

 涼しい風が吹き出して、空の風情も趣がある頃なので、目新しいものに飛びつきやすい性格のニオイ卿はひとしお艶っぽい気分になりますが、心配が絶えないマドレーヌの心中は、あれこれ忍び難い思いが多く浮かびました。ムクドリの鳴く声で、コンフランの山影が恋しくなりました。

(歌)コンフランにいた頃は 普通に聞いていた ムクドリの声が 恨めしく聞える 秋の暮れ

 ニオイ卿は今夜は、まだ更けないうちに夕霧邸に向かいました。先導する付き人の声が遠くになっていくにつれて、涙が流れていくのを、「我ながら見苦しいことだ」とマドレーヌは思い聞きながら、ベッドに打ち臥しています。こうした間柄になった当初から、色々と思いをさせられた様子を思い出すと、やるせない気分になります。

「身重になったものの、これからどうなってしまうのだろう。皆、早死にをしてしまう一族だから、『こうした折りに、はかなく死んでしまうのだろう』と思うと、命は惜しくはないが、哀しくもあり、さらにお腹に宿った子のためには、罪深いことになってしまう」などと、まどろむことがないまま、一夜を思い明かしました。

 

 

7.三日夜の宴とカオルの供人の愚痴、カオルと侍女マチルド

 フローラとの婚姻後の三日目、「サン・ブリュー大后の調子が悪いようだ」と聞いて、ニオイ卿はルーブル宮に行きました。誰も誰もが王宮に集まりましたが、「ちょっとした風邪をひかれただけで、大したことはない」との報告を受けて、まず夕霧左大臣が昼頃、王宮を出ました。左大臣はカオル中納言を誘って、同じ馬車に乗せて、モンモランシーの自邸に戻りました。

「三日目の夜の儀式をどんなにか贅沢を尽くして実施しよう」と左大臣は考えているようですが、物事には限りがあります。一度はフローラとの縁組を検討したカオルへは気が引けますが、自分の側に立ってくれるのにふさわしい人物は他にはおらず、今夜の祝いを引き立ててくれる格別な存在は、やはりカオル中納言なのです。

 いつもと違って、カオルは急に夕霧邸に招かれたのですが、ニオイ卿がフローラを娶ったのが口惜しいとも思ってはいないようで、何やかやと左大臣に合わせてフローラの世話をするので、夕霧は心の内では、「小憎らしい」と感じていました。

 宵が少し過ぎた時分に、婿君が到着しました。主殿の南の外縁の東に寄った場所に婿君の席が設けられます。八台の脚台、慣例の皿などは立派に贅が尽くされ、さらに小さめの台二つに、先端を巻き込んだ皿などを当世風に配置して、祝い菓子が置かれていますが、こうした珍しくもないことまで書き留めておくのは気詰まりなことです。

 左大臣が宴席に現れて、「夜が大層深まって来たから」と侍女を通じてニオイ卿の登場を促すのですが、ニオイ卿はフローラの部屋で戯れているのか、すぐには現れません。雲井雁の兄弟二人などが相伴していると、ようやく現れたニオイ卿に、皆、見甲斐がある心地がしました。主人役となった夕霧の長男アンドレが盃を手にして各人に回って行きます。二度、三度と酒杯が回ります。カオル中納言が酒杯をしきりにニオイ卿に勧めると、卿は少し微笑みました。「夕霧邸は窮屈な所だ」と自分にはふさわしくないとの思いをカオルに話したことを思い出したからでしょう。しかしカオルはそれに気が付かないふりをして、真顔でいました。

 

 カオルは東殿に行って、ニオイ卿のお供たちをねぎらいました。評判が良い王宮人が大勢いました。官位四位の六人には女性向けの衣装に細長ドレスを添え、五位の住人には三重がさねのイタリア製ドレスを授けましたが、スカートのベルトでは、位に応じた差をつけていました。六位の四人には綾の細長ドレス、ロング・スカートなどを授けました。こうした褒美には限界があることが物足りなく思っているので、色合いや仕立てなどに工夫をさせていました。取次役や護衛などにも、先例を乱すほど盛大な物にしていました。確かにこういった花やかな品々は見る甲斐があり、物語などでは真っ先に言い立てることでしょうが、その夜の祝宴は詳しく語り尽くせないほどでした。

 カオル中納言のお供の中に、あまり印象がよくない者が交じっていたようで、カオル一行がランブイエ城に戻ると、ため息をつきながら、「うちのご主人はどうして素直に左大臣の婿にならなかったのだろう」、「まだ独り暮らしでおられるのは味気ないことだ」と中門の脇で呟いているのをカオルが聞きつけて、「おかしなことを言っている」と思いました。大方、「自分たちは夜が更けて眠たくなっているのに、ニオイ卿のお供どもは結構なもてなしを受け、心地よく酔いつぶれて寝ているのだろう」と羨ましがっているのでしょう。

 カオルは自室に入ってベッドに入りながら、「婿となるのはきまりが悪いものだ。参列者はいずれも親しい間柄の人たちだったが、仰々しい親が出て来て、赤々と灯火がかかげられた中で、誰彼となく勧める酒杯を受けながら、ニオイ卿は見た目が感じの良い振舞いをしていた」と好意的に思い出していました。

「確かに、自分にも可愛い娘がいたなら、ニオイ卿を除くと、王宮にすら差し出すことはないだろう」と思いながら、「誰も誰もが『ニオイ卿に差し出そう』と願う娘がいたとしても、『やはりカオル中納言の方が望ましい』とあれこれ口癖にしているのを聞くと、自分もまんざら評判は悪くはないのだろう。それと言うのも、あまり世間づきあいをしない、年寄りじみと男なのに、一体どこが良いのだろう」と得意にもなりました。

「安梨王が申し入れた第二王女ジョセフィンとの縁談話が万が一でも本当だとしても、何となく億劫なので、どうしたものか。光栄な話ではあるが、自分にはどんなものだろう。亡きジュヌヴィエーヴとよく似ているのなら、嬉しいのだが」と思い浮かべるのは、さすがにその気がないわけでもなさそうです。

 

 例のように寝入ることが出来ず、所在ないので、他の侍女たちより少し目をかけている母君の侍女マチルドの部屋に行って、その夜を明かしました。ところが、夜が明け過ぎたといって、誰も咎めるわけでもないのに、辛そうに急いで起きてしまったので、マチルドは普通ではないと思ったことでしょう。

(歌)世間がおしなべて許しはしない 川の堰を超えて馴染んだのに 嫌われたとしたら 私の顔が立ちません

(返歌)川の堰は 上から見ると深くはないように見えるが 人目を忍んで通う気持ちが 絶えることはない

 カオルが愛情は「深い」と言ったとしても、あてにはなりませんが、「上から見ると深くはない」という言葉に、マチルドは満足できなかったことでしょう。カオルは板戸を押し開けて、「ほら、この空を見てごらん。この空の風情を知らぬ顔で寝ていられだろうか。風流人の真似をしているのでなく、近頃はひどく夜を明かし難くなっている。夜な夜なの寝覚めでは、この世や先の世までが思いやられて、物寂しいものなのだ」などと言い紛らして、マチルドの部屋を出ました。

 特に女性の心を引く言い方はしないものの、様子が優雅に見えるからなのか、「情けがない」などと人から思われることはなく、間に合わせの戯れ言をかけてもらった人は、「せめて間近で拝みたい」と考えたのか、世を捨てている山桜上に仕えてみようと、無理につてを求めて、ランブイエ城での奉公に集まっていますが、それなりに身につまされる事が多かったことでしょう。

 

 ニオイ卿はフローラの様子を昼間の明るさで見るにつけても、愛しさが増していきます。身体つきもちょうど頃合いで、姿もこぎれいで、髪の垂れ具合や頭つきなど、普通とは違って、「何て見事な」と見えます。肌の色合いは驚くほどつややかで、品位がある気高い顔の目元は恥ずかしげな落ち着きがあって、すべて何から何まで備わっていて、「器量良し」と言われても不足はありません。年齢は二十歳を一つか二つ越えています。まだ子供というわけでもなく、申し分ない成長ぶりで、新鮮な「今が盛りの花」に見えます。手をかけて養育されたので、不十分な所はなく、親としては本当にうっとりと見やってしまうことでしょう。とは言うものの、人当たりの柔和さ、愛想の良さ、いじらしさの点では、ニオイ卿はまずマドレーヌを思い起こしています。

 フローラは応対なども、はにかみはしながらも割にはきはきしていて、すべての点で見所が多く、利発そうに見えます。若く美しい侍女が三十人ばかり、女童が六人いて、一通りではありません。ニオイ卿が例のように端正なものに見馴れているのを考慮してなのか、服装などもがらっと変えて、並外れているほど趣向を凝らしています。雲井雁の娘アリアンをフィリップ王太子に差し上げた時よりも、夕霧が今回の縁組に特に気を使ったのは、ニオイ卿の人柄や声望からなのでしょう。

 

 

8.ニオイ卿の薄情と、失意のマドレーヌにカオルの恋情つのる

 こうしてニオイ卿はヴァンセンヌ邸に気軽に戻らなくなりました。軽い身分の身ではないので、昼の間に思うままに出掛けることは出来ず、次第に夕霧邸の南館に住みついて、日が暮れるとフローラと出会うことはあっても、ヴァンセンヌ邸へは遠のいています。

 マドレーヌはニオイ卿が待ち遠しくなるのが折々にあるのを、「こうなってしまうことだろう」と思ってはいたものの、現に「こうであって欲しい情愛の名残もなくなってしまった。本当に心ある者なら、とるに足らない身を考えずに、世の中に立ち交わることはなかったのだ」と、返す返すコンフランを出て行ったことが夢のように感じて、悔しく悲しくなります。

「やはり、何とかしてひそかにコンフランに戻ってみよう。ニオイ卿にすっかり背いてしまうというわけではなく、しばらく気晴らしをしてみたい。ニオイ卿に憎体をつくのではないならば、不都合なことはないだろう」などと、一心に思案を重ねて、気恥ずかしいもののカオルに手紙を書きました。

「先日の父の追悼ミサについては、修道士が伝えてくれたので、詳しく知りました。カオル様のこうした父に対する名残へのご配慮がなかったなら、どんなに父を愛おしく思ったことか、感謝の念に堪えられません。差支えがなかったなら、私自らお礼を言いたいのですが」と、 厚紙に体裁ぶらずに、真剣に書き留めているのがとても見事でした。

 亡き第八卿の命日に追悼のことなど、カオルが尊く営んだことを喜んでいる様子を、仰々しく書いてはいないものの、本当にカオルの好意を思い知ったのでしょう。いつもなら、カオルからの手紙への返信ですら、気を許すことなく遠慮がちで、はきはきと書き続けることがないのに、「私自ら」とまで書いているのが珍しく、嬉しさに胸がときめいたことでしょう。ニオイ卿が目新しいフローラに心を移して、マドレーヌを構ってあげていないのを、とても心苦しく察しているので、マドレーヌをとても可哀そうに感じながら、格別なこともない手紙を繰り返し繰り返し見入っていました。

 カオルの返信には、「手紙を受け取りました。追悼ミサの日は聖(ひじり)のような心境でした。ことさらに報告をしなかったのは、そうした方が良いと感じる頃合いだったからです。『父に対する名残』との言葉がありましたが、第八卿への私の思いが少し浅いように感じて、恨めしい思いになりました。詳しいことは今度伺った際に。敬具」と、ごわごわした白い色紙に真面目に書いてありました。

 

 というわけで、翌日の夕刻、カオルはヴァンセンヌ邸に行きました。マドレーヌを人知れず慕う心も加わっているので、わけもない身支度にも気をつかい、しなやかな服装をいやが上にも焚きしめているのは、あまりに気味が悪くなるほどです。使い馴らした黄色がかった淡紅色の扇の移り香までが、たとえようもなく匂っています。

 マドレーヌもコンフランでのカオルとの怪しかった一夜のことなどを思い出す折々がないわけではないので、誠実でしみじみとした人柄で、ニオイ卿とは似てもいない仕草を見るにつけ、「カオル様と連れ添っていたなら」くらいは思ったりしたことでしょう。まだ若いという歳でもなく、ニオイ卿の心構えと思い比べると、何事においてもカオルの方が勝っていることを思い知ったのか、いつも物越しで隔てているのが気の毒になって、「情けを知らない女のように感じているのだろう」などと思ったのか、この日はカーテンの内に入れて、カーテンの側に布製の衝立を添えて、自分は少し奥に引き込んで対面しました。

「正式に呼ばれたわけではありませんが、いつになく逢ってみたいと書かれた嬉しさに、すぐにでもうかがいたかったのですが、『昨日はニオイ卿がおられる』と聞いたので、『折が悪い』と感じて、今日になりました。でもまあ、数年来の物思いの証しがようやく実現したというのか、隔てが少しは薄らいで、カーテンの内に入れてくれましたね。珍しいことに」とカオルが告げるので、マドレーヌはやはりとても恥ずかしくなって、何と言い出したらよいのか、分からない気になりました。

「先日の父の追悼ミサのお世話をして下さった模様を嬉しく聞いたのですが、例のように気がふさいで過ごしながら、『どうやって感謝の念を片端にでもお伝えできるか』と悩みながら手紙を書きました」とひどく控え目に話す声が、奥まった辺りから切れ切れにかすかに聞こえてきます。じれったくなったカオルは「お声がとても遠いです。真面目に相談し合いたい世間的な話もありますから」と話すと。「そういうことなら」と思ったのか、少し近寄って来る気配がするので、ふっと胸をときめかせました。さりげなく、とても落ち着いたようにして、「ニオイ卿の心づかいは意外に浅かったようですね」と思わせようとしたり、嫌気が出るようにしたり、あるいは慰めたりと、しんみりした様子で話しました。

 

 マドレーヌはニオイ卿への恨めしさなどは口に出すべきではないので、ただ「世の中は辛いものですね」などと思わせるように、言葉少なに紛らわしつつ、「ちょっとだけでもコンフランの山里へ行かせて欲しい」との思いをとても正直に話しました。

「それだけは私の一存でお受けすることは出来ません。やはり卿に素直に話されて、卿の顔色に従って下さい。さもないと、少しでも思い違いが生じて、『軽率なことだ』と思わせてしまい、とても具合が悪いことになります。そうした心配さえなかったなら、コンフランへの送り迎えを引き受けても、何の憚りもありません。私が間違いのない、人とは違った気性であることは卿もすべて承知していますから」などと答えながら、何かの折りになると、マドレーヌを譲ってしまった悔しさを忘れることが出来ません。「たとえようがないほど、取り返したい」といった気配をほのめかしながら、次第に暗くなって行くまで、カーテンの内に居続けました。

 さすがに煩わしくなったマドレーヌが「それでは気分が悪くなりましたから、いずれ又、何事も気分がさわやかな時に」と言って、奥に引き込もうとする気配に、カオルはとても口惜しくなりました。

「それにしても、コンフランへはいつ頃と思われているのでしょうか。沿道の雑草がひどく茂っているので、少し刈り取らせておこうと思うので」と、機嫌を取るように聞いてみると、ちょっと立ち止まって、「この月はもう過ぎていますから、月始めの頃と思っています。ただ、こっそりと忍んで行くのが良いでしょう。卿のお許しをもらうといった、何か大袈裟にするほどのことは」と話す声に、「姉に似て、何て可愛い声なのだ」といつもに増して、あの頃を思い出してたまらなくなり、寄りかかっていた柱の側のカーテンの下から、そっと手を伸ばして、マドレーヌの袖をつかみました。

「まさか。何て情けないことを」と思うものの、何かを口に出せましょうか。ものも言わずに奥に引き込もうとすると、それに付いてとても馴れ馴れしい顔をしながら、半身をカーテンの内側に入れて、マドレーヌに寄り添いました。

「そうということではなかったのでしょうか。『こっそりと忍んで行く』なら差支えがないように思えて嬉しかったのですが、聞き違いだったのか否かを聞きたいのです。そうよそよそしくされるべきではありません。情けないそぶりをされていますが」と恨みますが、マドレーヌは返答をする気持ちもしないで、思わずカオルが憎くなるものの、強いて思い鎮めて「思いもしなかったお心ですね。侍女たちがどう思うのでしょう。呆れ果てます」とたしなめて、泣きそうにしています。

 少しはもっともなことだ、と気の毒になるものの、「この程度の過失をどう感じるのですか。これぐらいの対面なら、いつぞやの一夜を思い出して下さい。亡くなったジュヌヴィエーヴの許しもあったのですから、このようにひどい扱いをされるのは中々情けないことです。浮気っぽい、目に余る料簡はないので安心していなさい」と落ち着いているようにしながらも、何か月も悔しさを堪え通していた心の内が苦しいまでになって行く様子を、しんみりと話し続けます。

 マドレーヌはカオルを許す気持ちはないものの、「どうしたら良いのか分からない。とんでもないことを」といった思いでした。気心を知らない人よりも、かえって恥ずかしく気に入らないので泣いてしまいましたが、「どうされました。子供じみていますね」と言いながら、言い尽くせないほど可愛くいじらしく、慎み深く恥ずかしげにしている気配が、コンフランで見た頃よりも、この上なく成熟した大人になったのを眼にすると、「真底、余所の人にしてしまって、こうやってやるせない思いをしているのだ」と悔しくなって、音を放って泣かずにはいられませんでした。

 マドレーヌのお側に仕えている侍女が二人ばかりいましたが、見知らぬ男が入って来たなら、「これはどうしたことでしょう」と駆け寄って来るでしょうが、以前から親しく聞え交わしている間柄でしたから、「何か事情があるのだろう」と思って、きまり悪いので素知らぬ風にして、その場を退いていたのはマドレーヌには気の毒でした。

 カオルはマドレーヌをニオイ卿に譲ってしまったことを後悔する気持ちを制しかねて、どうにも我慢しにくいところではあるものの、あの時ですら、めったにない殊勝な性格でしたから、今夜もやはり思いのままの行動はしないでいました。まあ、こうした話の詳細は書き記さないでおきます。

 

 このまま帰ってしまっては何の甲斐もないものの、人目についてしまう不都合を考慮して、あれこれ考え直して、邸を去ることにしました。「まだ夜中だと思っていたが、明け方近くになっている。誰かに見咎められてしまうのでは、と気がもめるのはマドレーヌに迷惑をかけないためだ。悩ましそうにしていると聞いていたのは、妊娠したからだった。非常に恥ずかしいと思っているようだった、妊娠中につける腰の帯を見てしまうと、心配になって思い留まってしまったが、これもいつもの不甲斐ない性格のせいだ」と思います。

「思いやりがないことをしてしまうのは、なおさら自分の本意ではない。また、一時的な心の乱れに任せて、強引な振る舞いをしたなら、気安く出逢うことが出来なくなる。分別なく忍び逢おうと気をもんだりしても、マドレーヌをあれこれ悩ませるだけだ」などと自重はするものの、そんなことでも自分の思いを堰き止めることが出来ず、今になっても恋しくてやるせない思いでした。こうなると、とても逢わずにいられない思いになってしまうのは、返す返すも生憎な心境です。

 マドレーヌは以前よりも痩せていましたが、上品で可憐な気配が消え失せたとは思えず、自分の身にぴったり合った心地がするので、それ以外のことは、何も思いつくことはありません。コンフランへ戻りたがっているのだから、「望み通りに連れて行けば良い」と思うものの、「どうして卿がそんなことを許すだろうか。そうかと言って、内密に連れて行くのはやはり不都合だ。どのようにしたら、世間体も見苦しくなく、願いを叶えてあげることが出来るだろう」などと心がさまよったまま眠りにつきました。

 まだ明けきらない暗い朝、カオルはマドレーヌ宛の手紙を書きました、

(歌)空しく戻って行った道の霧に濡れながら コンフランのあの夜を思い出す 秋の空

お気持ちのつれなさの理由が分からない辛さだけが。他には何とも言えません、とあります。

「返信をしないと、侍女がいつもと違うと咎めてしまう」と心苦しくなったマドレーヌは、「お手紙は拝見しました。気分がすぐれないので、これにて」とだけ返信を書いたので、「あまりに短すぎる」とカオルは物足らず、美しかった気配ばかりを恋しく思い出していました。

 マドレーヌは少しは世間が分かって来たのか、カオルの行動を「驚くほどどうしようもないことを」と思いながら、それほど不愛想にはしないで、とても心配りが行き届いた、恥ずかしそうにする気配も添えて、何となく優しく言いなだめながら、巧みにカオルを送り出した手際などを思い出すと、恨めしくも悲しく、様々な思いがのしかかって来て、侘しい思いになります。

 マドレーヌがどんな点でも、以前より大層勝っているように思い出しながら、「どうかして、ニオイ卿に捨てられてしまうことになったら、私を頼みにすることになるであろう。そうなっても、世間には親しくは見えないようにしつつ、人目を忍んで逢うのに、これ以上の人はいないであろう。これこそ自分の愛情の終着点に違いない」と、ただ、このことばかりをじっと思っている、というのはけしからぬ心持です。表向きは心深そうに、賢そうにしていますが、男と言うものは情けないものなのです。亡きジュヌヴィエーヴへの悲しみを嘆くのは仕方ありませんが、ここまで苦しいことはなかったのです。今回は何かにつけて、思いを巡らせていました。

「ニオイ卿は今日、マドレーヌ様にお逢いしたようです」と侍女が話すのを聞くと、後見役としての気持ちは失って、胸がつぶれて、たまらなくニオイ卿が羨ましくなってしまいます。