その4宿木      カオル 二十四歳 

1.病弱のフィリップ新王とメアリー・スチュアート王妃

 安梨王の急死で王位を継承したフィリップ王は、生まれついてから病弱な体質でした。まだ二十歳にも達していないメアリー王妃が献身的に支えようとしていますが、治世を行うには体力的に無理なことから、大后となったサン・ブリュー前王妃が正式に摂政として、安梨王の意志を継いでいくことになりました。

 新王の誕生で、一段と勢力を高めたのは、イングランド王国からカレー奪還を成し遂げて、一躍国民的英雄となった、真木柱の夫ロラン大将兼右大臣でした。ロラン右大臣はメアリー・スチュアートの叔父で、加えて長女イヴェットはフィリップ王の貴婦人として王宮入りをしているので、新王夫妻の外戚として、揺るぎない実権を握りました。カレーを奪還したロラン大将を熱狂的に迎え入れたパリ市民の大半からの支持も一層強固になりました。これを見定めてなのか、真木柱の二人の実弟バンジャマンとジルはロラン右大臣との関係を深めて行きます。

 王室へは、フィリップ王が可愛がっている末っ子の妹マルゲリート(マルゴ)やロランと真木柱の一人息子ロベールが遊びにやって来るようになりましたが、そのうちマルゲリートとロベールの間に初恋の情愛が芽生えていました。

 摂政役のサン・ブリュー大后にとっての悩みの種は、安梨王のカトリック派とプロテスタント派を並立させていく政策に対して、ロラン一族は熱烈なカトリック派で、プロテスタント派に排他的であり、パリ市民もロラン一族に追従していることでした。可能な限りロラン右大臣の勢いを和らげる狙いもあって、大后は腹違いの兄である夕霧左大臣との関係を強めていきました。

 

 スイスのジュネーブで神権政治を実行しているジャン・カルヴァンがフランスに送り込んだカルヴァン派の影響もあってか、パリ、ルーアン、オルレアンなどのフランス北部の都市部の謹厳に商工業に従事する中産階級の間に共鳴者が増えていき、カルヴァン派の組織化が進んでいます。その上、南部では北部を上回る支持を、貴族階級も含めた幅広い僧から集めるようになり、蛍兵部卿の息子コンデの主導でプロテスタント派の拠点になって来たフォンテーヌブロー城に集まる、南部からのカルヴァン派の数が増していきました。

 皮肉なことに、黒ヒゲと正夫人の間の二人の息子バンジャマンとジルはカトリック派、玉鬘との三人の息子コリニー、フェルナン、セバスチャンはプロテスタント派となったことから、巷の人は「黒ヒゲを挟んだ真木柱と玉鬘の対抗意識はますます募って行くだろう」と興味津々と噂話に花を咲かせました。

 

2.藤壺女御他界、第二王女ジョセフィンの婿にカオルを注目

 その頃、藤壺と呼ばれた安梨王の貴婦人は、故左大臣の娘でした。安梨王がまだ王太子だった時分に、他の誰よりも先に貴婦人として上がったので、安梨王は睦ましく愛しい者として、特別な存在として遇していました。しかし、それが表向きになることもなく、歳月が過ぎていました。サン・ブリュー王妃は沢山の王子や王女を産み、各人とも成長して行きましたが、藤壺は子宝には恵まれず、ただ一人、第二王女ジョセフィンだけをもうけていました。

「とても悔しいことに自分の人生は、人に押し負かされてしまった、と思い嘆く代わりに、せめてジョセフィンだけは、何とかゆくゆく胸が晴れる、立派な存在にしてあげよう」と、大切に育てました。

 ジョセフィンは容姿もとても美しかったので、安梨王は愛おしく思っているものの、第一王女エリザベトを類ないもののように大事に育てているので、世間での評判は及ぶべくものではありません。しかし、実際の有様はほとんどエリザベトに劣ることはありません。藤壺の父大臣の勢いの名残がまださして衰えていなかったので、さほど気になることもなく、仕える侍女たちの容姿やなりふりを始めとして、季節に応じてうまく整えて、当世風に風趣深い暮らしをさせていました。

 十四歳になった年、「成人となった衣装を着させよう」と、春から余念なく準備を急いで、実家に保管されていた宝物なども、「こうした機会にこそ」と探し出して立派なものに仕上げましたが、夏ごろになって藤壺は物の怪に取りつかれてしまい、あっけなく亡くなってしまいました。安梨王も「言う甲斐もなく悔しいことだ」と思い嘆きました。気立て、情愛や親し安さを持った貴婦人でしたから、王宮人も「ひどく寂しいことになってしまう」と、死を惜しんでいました。さほど地位が高くもない女官などまで堪えることができない者はいません。

 

 まして、まだ若い気持ちのままのジョセフィが心細く悲しく滅入っているのを安梨王は聞いて、可哀想に感じて、死後四十九日頃の供養が過ぎた頃に、内々にジョセフィンを自室に呼んだり、日ごとにジョセフィンの部屋を訪れて、目をかけました。黒い喪服でやつれている様がとても可愛らしく、高貴な気配が増したように見えます。仕草もよく大人びていて、母の藤壺よりも今少し、物事に動じない重々しい気配が勝っているので、「心配することはない」と安梨王は見ているものの、実際には「母方と言っても、後見役に頼める叔父などのような人はいない。わずかに大蔵卿とか建物管理長官などがいるが、藤壺とは異腹でしかない。ことさら世間から尊重されてもおらず、重い身分でもない者を頼もしい人物として世間に出ていくのは、若い女性にとっては心苦しいことが多く、可哀そうなことだ」と安梨王は思うようにいかないもどかしさで面白くありません。

 前庭の菊が成熟して盛んに咲いている頃、空の景色もしんみりと時雨れている中、安梨王はまずジョセフィンの部屋に渡って、昔のことなどを話しますが、返答などもおっとりとあどけなくするので、愛らしく感じました。このような有り様のジョセフィンを見知ってくれる人なら、引き立ててくれないわけはない。朱雀院が姫君をヴィランドリー城のヒカル殿に譲られた折りの決意などを思い出してみると、しばらくの間は「さて、どうされたものか。他のやり方もありそうなのに」と話す者どももいた。しかし生まれてきた息子のカオル中納言が、人より違った有様で、ああやって何くれとなく母の山桜上の世話をしているから、昔の頃の評判が衰えずに、高貴な様子で生活されているではないか。そうでなかったら、心外なことが起きたりして、人から軽んじられてしまうだろう、と考え続けていますが、「ともかく自分の在世中に縁づけてしまおう」と思いやっているうちに、母上の世話と同じようにしてくれそうなカオル中納言以外に適切な人物は」いません。

「確かにカオル殿なら、王族の子息たちと並べ較べても何事においても引けを取ることはない。以前から思っている女性がいたとしても、外聞が悪い混じり合いはしないであろうし、又あったとしても、結局のところ、本妻なしではいられないのだから。他の女性との話が決まらない先に、そんな風にジョセフィンとの縁組をほのめかしてみよう」などと、折々思っていました。

 

 安梨王はジョセフィンとチェスなどをして、日が暮れて行きます。時雨が情趣深く降る中で、菊の花にも夕映えがしているのを一瞥しながら、人を呼んで、「今のところ、殿上に誰と誰がいるのか」と問うと、「二人の親王とカオル中納言がおります」と答えました。

「カオル中納言をこちらに呼んでくれ」と命じて、カオルが入室して来ました。こうやって特別に召し出されるだけあって、遠くから薫ってくる匂いを始めとして、人とは異なった様子を見せています。

「今日の時雨は、いつもより殊にのどかな感じがするが、管弦の遊びなどは出来ないから、ひどく退屈している。いたずらに時が過ぎていくのを紛らわす戯れには、これが一番良い」と安梨王はチェス盤を召し寄せて、カオルを対局の相手としました。いつもこうしたように王様の近くに呼ばれることにカオルは馴れているので、「今日もそういうことか」と思っていると、「良い賭物があるのだが、軽々しくは渡せない。他に何かあるか」と安梨王が告げる気配をカオルはどう感じ取ったのでしょうか。ひどく気配りをしながら、相手をしました。

 チェスを打ってみると、王様は三番のうち二番負けてしまいました。

「悔しいな。それでは今日は賭物として、この花の一枝をかわそう」と言うので、カオルはその言葉に答えるように階段を下りて、趣がある菊の枝を折って来ました。

(歌)普通の家の垣根に匂う花であるなら 思いのままに折ってみることができますが

とのカオルの歌には浅くはない気配が感じられます。

(返歌)霜に耐えきれずに 草花が枯れてしまう園の菊ではあるが 霜の後でもあせずに美しく見える    と王様が返しました。

 こうしたように、安梨王は折々ジョセフィンとの婚姻をほのめかしていますが、カオルは他人事ではないと聞いてはいるものの、例のようにぐずぐずした癖があるので、すぐに飛びつこうとは思いません。

「やはり、結婚は自分の本意ではない。これまでも、あれこれ可愛い人たちとの結婚話はあったものの、うまく聞き流して年月が経っている。聖の世界に入った者が今更、俗世界に戻って行くような心地だ」と思うのも妙な性分です。「ジョセフィンに格別に思いを寄せる人もいることだろうに」との思いがするものの、「王様の貴婦人の娘ということなら」とも思う心中は身の程知らずというものです。

 

3.夕霧のニオイ懇望。サン・ブリュー王妃のニオイ卿への教示とマドレーヌの煩悶

 そんな王様とカオルのやり取りを夕霧左大臣はちらっと聞いて、「そうであっても六女のフローラをカオル殿へと考えている。真心を込めて頼みこんでみたら、渋々であっても、しまいには否とは言い切れないだろうと考えていたのに、思いも寄らぬことが出て来てしまった」と妬ましく感じていましたが、「それなら、ニオイ兵部卿が正式ではないにしろ、折々、フローラに興味ある手紙を送って来ることが絶えない。とにかく、本気ではない戯れであっても、それ相応に心をとめてくれるようなこともあるだろう。水がこぼれるほど相手が打ち込んでくれたとしても、普通の男に嫁がせると、やはり、ひどく世間体も悪く、物足りない心地がしてしまう」との思いに至りました。

「王様ですら、自分の娘が不安な行く末になってしまうことを案じて、娘の婿を探し求める時代なのですから、まして並みの臣下の妻として盛りが過ぎてしまうのは不快なことです」と安梨王に難癖をつけるように言って、サン・ブリュー王妃にも本気で愚痴をこぼすことが度重なるので、王妃も聞き疲れて、ニオイ卿に忠告しました。

「気の毒なことですが、左大臣がああして、それ相応に思い立ってから、しばらく経ちます。それなのに、意地悪く、逃げてしまっているのは情がないようです。王家の親王たちはしっかりした後見人がいるかいないかで、どのようにもなるものなのです。王様も王位後継者について懸念されておられます。臣下であれば、本妻として定まった女性が出来ると、他の女性と心を分かち合うことは難しくなります。とは言っても、夕霧大臣などは、とても真面目そうに見えながら、雲井雁と落葉上のどちらからとも恨みを受けないようにされています。まして私の要望が叶った場合は、愛人を多く持たれても差し支えはありません」などと、いつになく話を言い続けて、そうした方が良いという風に諭します。

 ニオイ卿も気持ちとしては、元々フローラを嫌っているわけでもないので、「何もそう無理やりに断ることはない」といったように夕霧左大臣の耳に届くようにしています。ただニオイ卿にとっては、婿になって夕霧邸の堅苦しい雰囲気に閉じ込められ、これまで気ままに振舞ってこれたのに、窮屈な生活になってしまうことが困ったことなので、気が進まずにいました。

「それでも左大臣にあまり恨まれてしまうのも不快なことだ」などと、段々と気弱になっているようです。とは言っても、女好きのニオイ卿ですから、あのロラン右大臣の継娘クロードへの思いも絶えません。花・紅葉の折りにつけても、フローラとクロードのどちらも、もっと知りたい思いでいました。

 そうした中で、四月にスペイン王国との平和条約が成立して王宮も世間も一息が付いたのも束の間、七月に安梨王が馬上槍試合で眼に槍が突き刺さって不慮の死を遂げ、フィリップ王太子が王位を継ぐ、といった大きな変化が続いたことから、ニオイ卿とフローラ、カオルとジョセフィンとの結婚話は中断の状態となりました。

 

 そのうち、年が改まりました。第二王女ジョセフィンはすでに成人式を済ませているので、カオルとの結婚に何の遠慮がありましょう。

「安梨王の意思を引き継いだサン・ブリュー大后も『そう願い出てくれたら』と心待ちにされています」と告げる人々もいるので、カオルは「あまり知らず顔でいるのもひねくれたようで、失礼でもある」などと思い起こして、ジョセフィンにしかるべき便りを送って、愛情をほのめかす折々もありますが、どうしてサン・ブリュー大后が不似合いのように扱うでしょうか。

「婚姻の日取りなどが定められた」と人づてに聞くと、カオル自身、大后の心境を理解できるものの、内心ではなおも、物足りないままで亡くなってしまったジュヌヴィエーヴへの悲しみだけを忘れようもなく思っているので、「ああ本当に、あれほどまで深い因縁があった人が、どうしてなのか、ああやって夫婦の契りを許さずに死んでしまったのか」と納得できずに思い出しています。

「身分が低い女性であっても、ジュヌヴィエーヴの面影に少しでも似通っているなら、心も留まることだろうに。その昔にあったと伝わる『香を焚く煙の中に亡き愛妻がほのかに出現した』といった話のように、今一度、ジュヌヴィエーヴを逢い見ることができないものか」とだけが頭に浮かんで、高貴なジョセフィンとの縁組のことは、「そのうち、いつかは」などと、急ぐ気持ちはありません。

 

 一方、夕霧左大臣はニオイ卿とフローラの結婚を急いで、「八月あたりに式を」と申し入れていました。ヴァンセンヌ邸のマドレーヌはそれを聞くにつけても、「やっぱりね。どうしてニオイ卿と添い遂げることなど出来るだろうか。『自分は数にも入らない者であるから、必ず人に笑われてしまう、情けない事が出てくるだろう』との思いを重ねながら、今日まで過ごして来た。『浮気っぽい性格』だとは聞いていたので、あてにならない人と思いながらも、間近では特に情がないようにも見えず、しみじみと深い約束をしてくれるのに、急に態度を変えてしまったなら、どうして心を穏やかにしていられるだろうか。平民の男女の間柄のように、全く名残がなくなってしまうことはないにしても、これからはどんなに苦労が多いことだろう。やはり自分は不運に生まれた身なのだから、遂には山里へ舞い戻るべきなのだ」と思うと、「すぐに行方をくらませてしまうよりも、私の帰りを待っている山里の人たちにひどく笑われてしまっても」と、返す返す、亡き父の第八卿が言い残したことと違って、草の生える山荘を出てしまった軽々しさを恥ずかしくも辛くも思い知りました。

「亡き姉君はうわべではとても気楽そうで、何となく頼りなさそうなに、何事につけても考えたり話したりしていたが、心の底はこの上もなく重厚で物事に動じない人だった。カオル中納言は今でも姉を忘れることが出来ずに嘆き続けておられるが、もし存命していたなら、今の私のような思いをすることもあったかも知れない。『どうかして、そうはなるまい』ととても深く思い行ったので、あれやこれやとカオル様から遠ざかると考えて、『姿を変えて修道女になろう』としたのではないか。存命していたなら、必ずそうされたことだろう。今から思うと、何という重々しい心構えだったのだろう。亡き父も姉君も私のことを『何ともこの上もない軽率さだ』と恥ずかしく悲しいことだ」と思いますが、「何の甲斐もないことだから、こんな気分を見せないように」と耐え忍びつつ、フローラとの結婚話など聞いてもいないようにして過ごしました。

 ニオイ卿はいつもよりも優しくしんみりと起き臥し契り語りながら、今に限らず、長い人生の間の契りを約束します。じっと辛抱して来たせいか、この頃から、いつもと違って悩ましくなることがありました。ひどく苦しがることなどはないものの、普段よりも食欲がなく、ベッドに横になってばかりいるので、ニオイ卿はまだそうした人の有様など、よく見知らないため、「まだ寒さが厳しい時分なので、弱っているのだろう」と感じていました。さすがに「変だ」と不審に思うこともあって、「さて、どうしたことか。妊娠した人がこういった風になるのだが」などと話す折りもありますが、マドレーヌはとても恥ずかしく、さりげなく振舞っていて、出すぎて口に出す侍女もいないので、確かなことは誰も分かりません。

 その頃になると、「婚儀はこの日になった」などと、外から耳に入って来ます。ニオイ卿は「隠しておこう」とまではないものの、言い出すのが心苦しく感じて、話を切り出さずにいますが、マドレーヌはそんなことでも情けなく思っています。

「内密にしておくことでもなく、世間のすべて知っていることを具体的に話してくれないとは」とマドレーヌにとって、どうして残念で悲しくてならないことがありましょう。

 ニオイ卿はマドレーヌをコンフランから引き取った後は、特別な用件がなければ、王宮に出廷しても夜に泊まることは特にしないでいて、あちらこちらへの外泊などもせずにいましたが、「急に状況が変わってしまうと、何と思うだろうか」との心苦しさを紛らわそうと、この頃は時々、宿直と称して王宮に泊まったりしながら、事前に馴れてもらおうとしていましたが、マドレーヌはただ薄情なようにばかり思い込んでいました。

 

4.アンボワーズ陰謀事件。冷泉院のカオル中納言への依頼

(アンボワーズ陰謀事件)

 三月に入り、フィリップ王とメアリー王妃は、静養を兼ねて「フランスの庭」と呼ばれるロワール渓谷の周遊と花々の鑑賞を楽しみに、ルーブル宮殿を発ってロワールに入りました。警護役にはロラン大将兼右大臣に仕える兵士たちが付きました。

 王夫妻一行がアンボワーズ城に到着した後、密告があったのか、フランス南部のカルヴァン派の不平貴族たちが結束して、カトリック強硬派のロラン右大臣を排除する目的で、フィリップ王を誘拐しようとしている陰謀が明るみになりました、激怒したロランは、サン・ブリュー大后や夕霧左大臣の意向も無視して、カルヴァン派を根こそぎ弾圧していくことを命じました。処刑の対象となったカルヴァン派の数は千人を超えるほどになり、死刑となった者は城のバルコニーや城壁に、腐り落ちていくまで吊るされたことから、城内だけでなく、街中が死臭に包まれました。

 あまりの残酷さに激怒したカルヴァン派はカトリック派への攻撃性を強め、ユグノー(Huguenot)と呼ばれるようになりました。ロラン大将兼右大臣は引き続きユグノーへの弾圧を継続し、迫害されたユグノーの一部はイングランド王国やドイツのプロテスタント系諸国へ逃亡して行きますが、穏健的な立場に立つコンデにも「陰謀の黒幕」といった嫌疑がかけられました。

 

(冷泉院のカオル中納言への願いと期待)

 陰謀事件からしばらくしたある日、冷泉院はフォンテーヌ森のラルシャン(Larchant)巡りにカオルを誘って、お供を数騎だけ連れてフォンテーヌブロー城を出ました。

「冷泉院は『カオルも含めた自分たちも、アンボワーズ事件の黒幕の一味だ』との嫌疑をかけられることを避けるために、巡礼の聖地であるサン・マチュラン(Saint Mathurin)大教会堂(Basilique)詣でをするのだろう」と思いながら付いて行きましたが、冷泉院はラルシャンの街を通り過ぎて森の中に入り、ダム・ジュアンの岩山(Rocher de Dame-Jouanne)に上って行きました。

 岩山の頂上からはラルシャンの街並みと大教会堂をくっきりと見張らせます。

「あの大教会堂こそ、桐壺王と私たちの父ヒカル様の母君である桐壺貴婦人が出逢った場所だ。この岩山に案内したのは、この眺めを見ながら、貴殿への願いと期待を伝えておきたいからだ」。

「ただ今、『私たちの父ヒカル様』と申されましたが、貴方の父は桐壷王で、ヒカル様は腹違いの兄弟のはずですが」といぶかしげにカオルが問うと、「いや、私の実の父はヒカル様なのだ」と躊躇もせずに答えたので、カオルは驚愕してしまいました。

「誰もが私が桐壷王の王子と信じ込んで疑わないが、私は桐壷王の貴婦人藤壺女院とヒカル様との間で生まれた『不義の子』なのだ。この事実を教えてくれたのは、藤壺女院の祈祷の担当者でおられた尊師で、真実を知っているのは、尊師と女院の付き人だったブランシュだけだ」。

「実は私も『不義の子』なのです。私はヒカル様と山桜上の子ではなく、実の父は亡くなった柏木様なのです」とカオルが告白すると、今度は冷泉院が驚愕しました。

 一呼吸も二呼吸も沈黙が続いた後、「二人とも『罪の子』なのだな」と冷泉院は苦笑しました。「それだから山桜上はあの若さで修道女になられたのか」と合点がいったようでしたが、二人の間には、人には語れない重荷を背負った者同士を思いやる糸がつながったようでした。

「このところ、私の先行きは長くはないとの思いをしている。そういうわけだから、ソフィーとの間に生まれた息子セザールの後見役になって欲しいのだ。セザールがあわよくばフランス王になってくれたら、と夢見ている。ヒカル様は自分の子孫が王位を継承していって欲しい希望を抱いていたことも、私の夢の一因だ。サン・ブリュー大后の長男フィリップが王に、次男マルクが王太子となったが、ヒカル様の男子直系の孫はセザールだけなのだからだ。

 フォンテーヌブロー城はカトリック強硬派に対抗するプロテスタント派の拠点になってしまった感は否めないが、過激性が強いカルヴァン派は避けるべきだと考えている。あくまでヒカル様や第八卿も深い影響を受けた、エラスムスやデタルプ先生が進めたユマニズムの精神をセザールにも受け継いで欲しいのだが、セザールを後見できる者は貴殿の他には見当たらないのだ」と、冷泉院は晩年に生まれた愛息の将来をカオルに託しました。

 

.カオルの失意とマドレーヌの後悔、寂しい心同士の接近

 カオル中納言はニオイ卿とフローラの婚姻話の様子を耳にしながら、「マドレーヌはとても気の毒だ」とずっと思っていて、「浮気っぽいニオイ卿のことだから、マドレーヌを『愛しい』と思いながらも、目新しいフローラに必ず気持ちが移ってしまうだろう。フローラには大層手堅い父親がついていて、油断なく眼を光らせて、数か月にも渡って縛りつけるので、マドレーヌがニオイ卿を待つ夜が多くなってしまうのは可哀そうなことだ」と思い寄るにつけても、「不愉快なことだ。なぜ自分はマドレーヌを譲ってしまったのだろう。亡くなった姉のジュヌヴィエーヴに心を奪われてしまった後は、世俗的な思いから離れて、澄み渡った方へと進もうという気持ちに濁りが生じてしまい、ただただジュヌヴィエーヴのことをあれやこれやと思いながらも、『相手が心を許さないうちは手出しをしない』という、初心の本意に背くのではないか』とさすがに憚ってしまった。

 ただ何とかして、『気の毒だ』と思ってくれ、打ち解けてくれる様子を見たいものだ』と、これから先に予想されそうなことばかり思い続けてしまった。相手は自分と同じ気持ちではない応対をしながらも、さすがに『一概に突き放そうとはしない』といった思いを見せるのが慰みになっていた。そのうち、『自分と同じ身ですから』と言い出して、私の本意ではない妹の方に差し向けようとしたのが、妬く恨めしくなって、そうしたことから、『ジュヌヴィエーヴの意向を変えてみよう』と考えて、『急いで妹とニオイ卿との取り持ちをしよう』と、むやみに女々しい物狂いじみて二人で歩き、計略してニオイ卿をコンフランに案内した」といったことを思い出して、「何でおかしな心境をしていたのだろう」と悔しくなりました。

「それにしても、ニオイ卿もその時の様子を思い出しているなら、少しは気兼ねするだろうに」と思いますが、「いやいや、今はもう、その時のことなど少しも口に出すことはないだろう。やはり、浮気な方向に進み、移り気になりやすい男は、女に対してだけでなく、誰に対しても頼もしげがない軽薄な態度をしてしまうのだろう」などと、ニオイ卿を憎らしく思います。それと言うのも、自分が本当にあまりに生一本に一方に思い込んでしまう性癖なので、他人のすることをひどくこの上もなく、もどかしく見ているのでしょう。

 

「空しくジュヌヴィエーヴを失ってしまった後は、自分の思いとしては、王様の『娘を嫁がせる』との思し召しも嬉しくはない。『マドレーヌを迎えていたならば』と思う気持ちが、月日に添えて募っていくのも、単純に『あのジュヌヴィエーヴの肉親だから』と考えるから、思いが離れ難いのだろう。姉妹という仲であっても、二人は限りなく慕い合っていて、臨終の間際には『後に残る妹を私と同じと思って下さい』と言って、『他に考えていることはありません。私があんなように取り図ったのに、私の願いと違ってしまったことだけが悔しく恨めしく、その思いがこの世に残ってしまいます』とまで話したのに。今頃は魂が空を翔けながら、こんなことになってしまって、『ひどく辛い』と見ていることだろう」などと、独り寝をする夜な夜な、ちょっとした風の音でも眼が覚めてしまい、これまでのこと、これから先のこと、マドレーヌのことなど、味気ない世の中を思いめぐらしています。

 一時の気晴らしに言葉をかけたり、側近くで使い慣れている侍女達の中には、自然に憎からず思う者もいますけれども、真面目に心が留まる者がいないというのは、さばさばしたものです。それというのも、あの姉妹に劣らない身分の者でも、時世の流れで零落して心細い住まいで暮らしているのを捜し出されて、母の山桜上に仕えている者なども多くいますが、「『今こそ、世を背いて遁世しようとする時に、取り立ててこの人こそは、と心が留まる妨げになるようなことなく生きて行くのだ』と思う心深さなのに、何とまあ、感心できない連想をするとは、自分の心でありながら、ねぢけている」などと、いつもより一層、まどろむことも出来ずに夜を明かした朝、霧のはざまに色とりどりの花々が面白く見え渡る中に、朝顔がはかなげに混じっているのが、特に眼に留まる心地がしました。

「夜が明ける間に咲いて」とか、無常の世の中になぞえられているのが心苦しいことです。戸も閉めずに、ほんの仮寝でうち臥して夜を明かしたので、朝顔の花が開くところを、ただ一人で眺めました。

 人を呼んで、「ヴァンセンヌの邸に行こうと思うが、あまり仰々しくない馬車を出してくれ」と命じると、「ニオイ卿は王宮に上がっています。昨夜、馬車をヴァンセンヌに戻しています」と答えます。

「とにかく、マドレーヌ様が病まれているので、お見舞いに行くのだ。今日は私も王宮に上がる日だから、日がたけないうちに」と言って着衣をしました。

 外に出ようと階段を下りて、花の中に混じっていく様子は、ことさら優雅でなまめかしい衣服を着てはいないものの、不思議と、ただ見るだけで清新で恥ずかしくなるほど優美なので、ひどく気色だった色好みの男たちに較べるもなく、ごく自然に美しく見えます。

 朝顔の花を引き寄せると、露がしたたり落ちます。

(歌)露が消えない早朝の間だけ 色の命をつないでいる花なのだ 

「はかないことだ」と独り言を言いながら、朝顔を折ってみます。色っぽいチューリップには眼も留めずに出掛けました。

 

 夜が明けきって行くにつれて、霧が立ち乱れていく空に風情があるのに、「侍女たちはだらしなく朝寝をしているのだろう。正門の戸などを叩いて、声を上げるのは気恥ずかしいものだ。あまりに朝早く来てしまった」と思いながら、付き人を呼んで中門の開いている所から覗かせてみると、「戸などはすべて開けてあるようです。侍女たちの気配などもします」と報告します。カオルは馬車を降りて、霧に紛れて体裁よく邸の中に入って行くのを、侍女たちは「ニオイ卿の忍び歩きからお帰りになられたのだろう」と思っていますが、露で湿った香りが例のようにとりわけ匂って来るので、「やはり素晴らしいお方ですね」、「取り澄ましておられるのが憎いですね」などと、若い侍女たちはわけもなく話し合っています。侍女たちが驚いた顔もせずに、しなやかに衣擦れの音をさせながら、敷物を差し出すなどをする様子はとても感じが良いのです。

「『ここでお待ち下さい』と案内されるのは、人並みの扱いを受けている気持ちはするが、こういったカーテンの前で隔てられてしまうのは嘆かわしいことなので、しばしば伺うのをしかねているのだが」とカオルが愚痴ると、「そうとなれば」、「どうしたら良いでしょうか」と侍女たちが相談し合っています。

「私のような古くからの馴染みは、奥に入った北面などの隠れた場所こそ、当たり前の休息場所なのだ。でもマドレーヌ様の意向であるなら、不服を言うわけにはいかないね」と言いながら、壁に寄り添っていると、いつもの侍女たちは「やはり」、「あそこまで」などとマドレーヌをせき立てます。

 カオルは元々はしゃいで荒っぽいことなどはしない人柄でいて、その上、物静かに振舞っているので、マドレーヌは今ではようやく、直々に対話することを遠慮する気持ちも少しづつ薄らいで、親しみを感じるようになっています。

 

 マドレーヌが悩ましい様子をしているので、 「どうされましたか」などとカオルが尋ねますが、はきはきした返答をしないでいます。いつもより沈んでいる気配の心苦しさを愛おしく推し量って、世の中のしかるべき事などを細々と、兄妹であるかのように、教えたり慰めたりします。声などが「姉と取り立てて似ている」との感じはしないものの、不思議なくらい、「姉と生き写しだ」と思うと、人目は見苦しくあろうとも、カオルはカーテンを引き上げ、差し向かいで話しながら、悩ましげにしている姿を見たいと思いながら、「やはり、世の中に物思いをしない人はありえないのだ」と思い知りました。

「自分は、一人前に際立った出世は出来ないとしても、心に思い悩むことがあって、嘆かわしい身を悩むようになることなく、この世を過ごしていける」と思って来たのに、自分から求めて悲しい目に出逢い、馬鹿らしい悔しい思いもして、あれこれ穏やかではない心境になってしまっているのは興ざめなことです。官位などと言って、昇進を望んで気をもんで思い嘆く人よりも、私の方が今少し、罪の深さが勝っています」などと言いながら、折って来た朝顔の花を開いた扇に置いて見やっていますが、段々と赤みを帯びていく色合いが中々趣があるように見えるので、それをそうっとカーテンの中に差し入れました。

(歌)白露のような姉君が 自分になぞらえて見て欲しい と契りを望んだ 朝顔のような妹君よ

 わざとらしくではなく、「露を落とさずに持ってきましたよ」と、愛らしく見える朝顔を置くと、露をつけたまま萎んでいく気配でした。

(歌)露が消えない間に枯れてしまった 朝顔の花のようにはかない姉に 遅れてしまった露のような私の方が はかなさは勝っています

「露は誰にかかっているのでしょう」とひどく小声になった言葉を続けずに、カオルの歌の意図を打ち消す様子は、「やはり姉ととてもよく似ている」と思うと、どうしても悲しくなりました。

 

「秋の空は今少し物思いが増していきます。先日、物無沙汰を紛らわすためにもと思って、コンフランに出掛けてみました。邸の庭も垣根もまことに荒れ果てていて、とても耐え難いほどでした。ヒカル様が亡くなった後、二三年ほどは、隠棲されていたロカマドゥール(Rocamadour)も、本邸だったヴィランドリー城も、訪れる人は心を落ち着かせるすべもなくなってしまいました。

 ヴィランドリー城におられた人たちは、身分が上の者も下の者も、思慮が浅い人はおりませんでした。集められた婦人達も皆、あちらこちらに別れ散っていき、各々、世間と離れた生活をされました。取るに足らない侍女などは言うまでもなく、ましてや心を落ち着かせるすべもなく、どうしたらよいか分からない気持ちにまかせて、山や林の中に入っていったり、思いも寄らない田舎者になってしまうなど、哀れに迷い散ってしまう者が多くおりました。こうした中で、ヴィランドリー城もすっかり荒れ果て、忘れ草が生えてしまったものの、夕霧左大臣が移り住んで、子息たちなども大勢住むようになってから、以前に戻ったようになりました。

 そうしたように、この世に類のない悲しみと見ていたことでも、『年月が経てば思いが目覚める折りが出てくるものだ』と実見すると、『悲嘆というものは本当に限りがあるものだ』と感じます。もっともそうと言いながらも、あのヒカル様が亡くなった時の悲しみは、私がまだ幼少だった頃なので、それほどには心に染みることはありませんでした。それに較べると、今回のジュヌヴィエーヴを失った悪夢こそ、悲しみを薄めるすべはないと思っています。同じ世の無常な悲しみとは言うものの、『罪障の深さはジュヌヴィエーヴの方が勝っているのだろう』と、そんなことすら心苦しいものです」と言って、涙を流す様子には、ジュヌヴィエーヴへの思いがとても深そうに見えます。

 亡くなった姉を思い慕っていない人であっても、姉への思いを嘆くカオルの様子を見ると、何となく心を動かさずにはいられませんが、まして自分もニオイ卿との行く末を心細く思い乱れていることもあって、いつにもまして姉の面影が恋しく、悲しく思っている状態でもあったので、マドレーヌはカオルの様子に一層涙をもよおして、ものを言うことも出来ません。お互いに堪えかねている気配の中で、二人は「とても悲しいことだ」と思い合いました。

 

「(歌)山里は人との出逢いが少なく寂しいものだが 世間の中に入って行くと 思い通りに行かず住みにくいものだ などと人が誦しているのを、コンフランに住んでいた頃は、そういったように思い比べてみる気持ちもなく過ごしていました。でも今となっては、何とか静かな山里で暮らしたいと思っていますが、さすがにそうは行かないので、コンフランにいるベネディクトが羨ましくなっています。父の三回忌が行われる二十日過ぎには、あの近くの教会の鐘の音も聞きたいと思っていますので、『内密に連れて行ってもらいたい』とお願いしようと考えていたところです」とマドレーヌが話します。

「『山荘を荒らさないように』と思われても、無理なことです。気軽に出掛けられる男でさえ、行ったり来たりするのが容易ではない荒れた坂道なのですから、気にはなりながらも月日が立ってしまうばかりです。故第八卿の忌日のことは、あの高僧にしかるべき旨をすべて頼んでいます。コンフランの山荘は尊いキリスト様に譲ることにしましょう。山荘に行ってみる度に心惑いが絶えないのはつまらないことなので、『罪障が消滅するようにした方が良い』と思っているのですが、さて、どう判断されますか。ともかく、貴女様の思い定めに従いますが、どうされたいのかを話して下さい。何事も疎からずに打ち明けていただくのが、私の本意ですから」などと、真面目な事どもを話しました。

「聖書やキリスト様なども自分で供養すべきものだ。父卿の三回忌にかこつけて、そっとコンフランに籠ってしまおう」との思いに傾いている気配なので、「とんでもない。やはり何事もゆったりした気持ちで考えていて下さい」などと諭します。

 

 日が高く上がって、侍女達が寄り集まって来たので、あまり長居をしてしまうのは、訳ありげなようなので、部屋から出て行くことにしましたが、「どこに伺っても、カーテンの外で扱われるのに慣れてはいないので、中途半端な心地がしています。では又、お目にかかりましょう」と部屋を出ました。「どうして自分がいない折りにやって来たのか」とニオイ卿が疑うのが煩わしいので、侍っている政務長官を呼んで、「ニオイ卿は昨夜、王宮を退出されたと聞いたので、こちらに訪ねて来たが、あられなかったので口惜しいことだ。王宮へ行ってみようか」とカオルが言うと、政務長官が「今日は退出いたしますでしょう」と答えるので、「それでは夕方にでも戻って来よう」と言って、ヴァンセンヌの邸を出ました。

 やはり、マドレーヌの気配や有様を見聞きする度ごとに、「どうしてジュヌヴィエーヴの希望を思い違いして、思慮が足りなかったのだ」と後悔の念が募って、「自分はどうして厄介な性分をしているのだろう」と思い返しています。カオルはジュヌヴィエーヴの没後はずっと精進を続けて、ひとしお勤行だけをしつつ、明かし暮らしていました。

 母の山桜上は今でもとても若く、おっとりしていて、気楽な気持ちでいますが、カオルのこうした様子に気付いて、「ひょっとしたら、気になっている縁起でもない方向に行ってしまうのではないか」と思って、「あと幾年もしたら、この世にはいない私です。私が永らえている間は、せめて生き甲斐がある様子でいて下さい。修道女の身になっている私ですから、貴方が世の中を思い捨ててしまうのを妨げることは出来ないものの、もし出家するようなことがあったら、私は生き甲斐がない気がするあまり、さらに罪を作ってしまいます」と話すのがかたじけなく、愛おしいので、カオルはあらゆる思いを消して、母上の前では何の物思いもしていないように振舞っていました。

 

 

 

               著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata