その12.サン・マロ    (ヒカル 25歳~26歳)

 

8.メイヤン夫人への好意復活と、花散里邸修理

 

 そう言えば、慌しさに紛れて書き漏らしてしましたが、ガイヨン城で枢機卿が気にかけていたランスのメイヤン夫人にも使いを遣りました。折り返し、あちらから使いを立てて近況を知らせて来ました。浅くはない過去の事などを書き連ねていました。言葉の使い方、筆跡などは、人より典雅で嗜みの深さが見えます。

「とても現実とは思えないお住まいの様子を承りますと、明けきらない夜に感じる心惑いのように感じます。とは言うものの、ご逗留はそれほど長い年月にはならない、と推察します。私の方は罪深い身ですから、再びお逢いできるのは遠い先のことになりましょう。

(歌)塩山から垂れ落ちる雫のように 涙を落としながら暮らしておられる サン・マロの浦から

   シャンパーニュのブドウ畑で雑草を刈っている 我が身を思いやってください

あれこれと不安な思いが多い世情です。この先はどうなることになるやら」と長々と書いてありました。

(歌)ランスを流れる ヴスル(Vesle)川の湿地で 菜摘みをしても 何の生きがいもない 我が身です

 ヒカルからの手紙を受け取って、しんみりとヒカルの不運を案じながら、筆を置き置き呻吟しながら書いたのでしょう。白いイタリア産の紙四、五枚に書き続けて、インクの濃淡から気持ちが伝わってきます。

 

「一頃はこの御方に思いを寄せていたが、あの物怪の一件以来、いとましく思い込むようになった。夫人も気を腐らせたことから、別れることになったのだ」と思い起こして、今になって「気の毒に、済まない目に合わせてしまった」と振り返っていた、そんな折りの返信でしたので、可哀想に感じます。使いの者にまで親しみがわいて、二、三日引き留めてランスの話などをさせて聞いています。まだ年若でしたが、気骨がある侍所の者でした。さほど広くはない、侘び住まいでしたから、こんな身分が低い者でも、自然と間近に接することが出来、ヒカルの様子や容貌を「とてもご立派だ」と若侍は感涙します。

 メイヤン夫人への返事に書く文言は何となく想像できます。

「このように世の中を離れる身となると分っていたなら、貴女とご一緒すればよかったものを」などと、所在なく心淋しいままに歌を詠みました。

(歌)サン・マロで 辛い思いをして海草を刈るよりも  ランスのヴスル川の川波を漕ぐ舟に

   相乗りした方がよかったものを

(歌)漁師が積み上げる投げ木の中で 歎きの涙を落としながら いつまでサン・マロの浦で 暮らしていくのだろう

「お目にかかれるのがいつの日か分かりませんが、限りなく悲しい心地がします」とありました。

 

 こんな具合に、どの人にも細々と手紙を書き交わします。リヨンの花散里の二人からも、悲しみの思いのままに書き綴って来ました。手紙を読みながら、それぞれの心中を察していくと、面白くも物珍しい心地がして、一つ一つの手紙を打ち眺めながら自らを慰め、その一方では物思いを催したりします。

(歌)荒まさっていく 軒下の忍ぶ草を眺めながら 涙が露のように しげく袖にかかってしまいます

と詠んだ手紙を読んで、「確かに雑草の外に後見をする者はいないから」と思いやります。「長雨で土塀の所々が崩れて」などと書いてありましたので、「リヨンに近い荘園の者などを召集して修繕をさせるように」とシュンノンソーの事務方に命じました。

 

 

9.朱雀王、朧月夜の涙を疑

 

 女官長の朧月夜は、ヒカルとの情事が発覚した後、謹慎の身となって王宮には上がらず、実家のジアン城に閉じこもり、世間の物笑いを恥ながらひどく萎れていました。 父の太政大臣がとても可愛がっていましたから、しきりに紫陽花王太后に懇願し、朱雀王にもお許しを奏上して、「格式が高い貴婦人ではなく、単なる公務を務める女官の身にすぎませんから」と見直しをしてもらうように努めました。王太后はただただ、不倫の相手であるヒカル憎さで朧月夜にも謹慎の処分を下しただけでしたから、説得に折れて許すことにしましたので、女官長のまま王宮に再び上がることになりました。それでも朧月夜は依然として心に沁みこんだ御方の事ばかり恋しく思い続けていました。

 

 七月に入ってから王宮に上がりましたが、朱雀王は少年の頃から思いを寄せていましたので、人のそしりも気にせずに、王室のすぐ側に伺候させます。何かにつけ怨みつらみを述べながらも、一方ではしんみりと口説いていきます。王さまは容貌も姿形も非常に優美で清らかなのですが、朧月夜の胸中はヒカルとの思い出だけで満たされている、というのは畏れ多いことです。

 管弦の遊びのついでに朱雀王は「あの人がいなくなって、とても寂しいだろうね。私でもそうなのだから、まして他にもそう思っている人は多いことだろう。何事につけても、光りを失った心地がする」と言いながら、「兄に関しては、亡くなられた桐壺院が遺言に残された御心とは違うようになってしまった。そのうち罰を受けることになるだろう」と涙ぐみますので、朧月夜もさすがに堪えることができません。

「世の中というものは、生きていたところで、味気ないものだと思い知ってみると、長生きをするようには思われない。もしそうなったら、貴女はどう思ってくれますか。あの方との別れほどにも思いやってくれないのは妬ましいことです。

 

(歌)恋焦がれて死んでしまったら 後はどうしようもない 生きている日にこそ 貴女に逢いたいと思うのだ

という歌は、本当につまらない人間が言い残したものなのだろうね」と懐かしげにしみじみとした様子で、朧月夜への思いを語っていきますので、朧月夜は思わずぼろぼろと涙をこぼしてしまいます。

「それごらん。その涙は誰のために流しているのだろう」と王さまが皮肉りますが、朧月夜は次第に王さまの優しさに心が動かされて、とうとう朱雀王に身を許してしまいました。

「私はこれまで子供に恵まれていないのが物足りない。故院が言い残されたように弟の冷泉王太子を後継ぎにしようとは思っているものの、都合が悪いことがあれこれ出て来て、気の毒なのだ」などと、自分の思いとは別に政治を取り仕切って行く人々がいて、若い心なりに人を押し切って行く強さに欠けていますので、「困ったことだ」と思い悩むことが多いようです。

 それでも子供が欲しい願いが通じたのか、ほどなくしてメディチ家出自のアヤメ貴婦人の懐妊を知りました。

 

 

10.心尽くしの秋風と仲秋の月に感慨無量

 

 サン・マロでは一塩気を揉ませる秋風が吹き出して、海から少し離れていますが、

(歌)サン・マロの浦風が 港を吹き越えて 旅人の袂も 涼しくなってきた

と、小押韻派の詩人が詠んだ浦波が夜間になるととても間近に聞えて、またとなく淋しく感じてしまうのは、こうした土地柄での秋だからなのでしょう。

 御前に侍っている人はまばらで、皆眠り込んでいますが、一人目が冴えて枕から頭をもたげながら四方の風音を聞いていると、波がひたひたと押し寄せて来るような心地がして、自分でも気づかないままに涙を落として、涙で枕が浮いてしまうほどになります。ハープを少し掻き鳴らしますが、我ながら、もの凄い響きがしますので、弾くのを止めてしまいます。

(歌)ロワールを恋わびて泣く声に 似ている浦波は 思い慕う方角から 風が吹いて来るからだろうか 

と、歌いますと、周りにいる人々が驚いて目を覚まし、その凄惨な歌声に堪えきれずに起き上がり、訳もなく鼻をかんでいます。

 

「お付きの者たちは、本当にどのように思っているのだろう。自分一人のために親や兄弟がいて片時も離れ難く、愛着がある家と別れて、こんな漂泊の身になっている」と思うと申し訳ない気持ちになって、「自分がこんなに思い沈んでいる様子を見せてしまうと、なおさら心細く思ってしまうだろう」と気遣います。昼の間は何くれと冗談を言って気を紛らわし、退屈しのぎに色々な紙を選んで素描や水彩画を描きます。珍しいイタリア産の綾布などに様々な絵を描いて、屏風に貼らせて眺めてみるととても面白く見所があります。ロワールにいた頃は人々が語り聞かす海や山の有様を何となく想像しているだけでしたが、今は海を間近に見ながら描きますので、確かに想像では及ばない磯の佇まいを、他に類がないほど、書き溜めていきます。

「近頃の名手と言われるジャン・クルエ(Jean Clouet)やムーラン先生の弟子などを呼んで彩色をさせたいものだ」とお付きの人たちは残念がっています。ヒカルのご機嫌が良く、親しめる様子に、昨今の積もった物思いを忘れて、お側近くに仕えることを嬉しく感じて、いつも四、五人はつきっきりで控えています。

 

 前庭に秋の花が色々と咲き乱れ、風情がある夕暮れに海が見渡せる回廊に出て、佇んでいる姿は物凄いほど美しく、こんな場所柄ですとましてやこの世のものとは見えません。白い綾織のシャツとなよなよした薄紫色のズボンの上に藍がかった長衣を羽織って、無造作に帯を締めたくつろいだ姿で、「キリストのお弟子」と名乗って、聖書をゆっくりと読んでいるのが、何とも言えないほど優雅に聞えます。

 沖合いを幾つもの舟が聞き慣れない地元の民謡を歌いながら漕いで行くのも聞えます。舟影がかすかで、小さい鳥が浮んでいるようにしか見えないのが頼りない気がします。雁が列をなして啼く声が舟の梶の音と紛らわしく、うち眺めていると涙が零れてきます。涙を掻き払う手が黒い数珠に映える美しさを見ていると、故郷の恋人を恋しがっているお付きの人たちも慰められます。

 

(歌)初雁は 恋しい人の仲間なのだろうか 旅の空を飛んで行く声が 悲しく聞える  

と詠みますと、お付きの者たちもそれに続きます。

(オリヴィエ)雁はあの頃の友達ではなかったのに 雁の声を聞くと それからそれへと 昔のことを思い出す

(コンスタン)自分から 故郷を捨てて啼く雁を 人ごとのように思っていた

(ステファン)故郷を離れて 旅の空にいる雁も 仲間にはぐれないでいれば 心も慰められましょう

「仲間にはぐれてしまったら、どんな気持ちになるだろう」と呟きます。

 ステファンの父は副公使として後妻の空蝉を伴ってミラノに赴任していましたが、フランス軍がミラノ公国を失ってロワールに戻った後、オート・ガロンヌ(Haute Garonne)県知事に任命されてトゥールーズ(Toulouse)に下りました。ステファンは父に同行を誘われたものの、父たちには付いて行かずに、ヒカルに従いました。心中では思い煩うこともあるでしょうが、上辺では元気よく、何でもないように振舞って、屈託なく立ち回っています。

 

 月がとても花やかに射し出でて、「今夜は十五夜だったのだ」と思い出して、王宮での管弦の遊びが恋しくなり、「ロワールの方々も眺めていることだろう」と思いを馳せあがら、月の顔ばかりを見守っています。「はるか彼方にいる 旧友の気持ち」とよく知られた詩を吟じているのを聞いていると、お付きの人たちは涙がとまりません。

 藤壺の宮が

(歌)王宮にできてしまった 幾つもの霧に隔てられて 見えなくなってしまった 雲の上の桐壺王の時代の月を 

   はるかに懐かしんでいます

と詠んだ去年の秋が言いようもなく恋しく、折々のことを思い出すと、「ああ」と声を立てて泣いてしまいます。「夜が更けてまいりました」という声が聞えますが、すぐには寝室には入りません。

(歌)月の都は はるか遠くにあるが まためぐり逢える月を眺めていると しばらくの間でも 慰められる

 ヒカルがジュアールから戻って王宮に上がったあの夜、朱雀王がとてもなつかしげに管弦の遊びなど昔物語をした有様が、桐壺院によく似ていたのを恋しく思い出します。無罪の罪で遠地に流された、高名な大臣が王から恩賜された衣服は今も持ち続けている」と詠んだ歌口ずさみながら寝室に入りました。実際、ヒカルも桐壺王から賜わった衣服を身辺から放さず側に置いていました。

(歌)辛いとだけ一途に思わずに 私の涙は 恋しさと辛さの左右の袖を 濡らしている

 

 

11.アキテーヌ州知事と舞姫モニク、ネーデルランド総督の白菊がヒカルに消息

 

 その頃、ボルドーのアキテーヌ州知事一族が上がって来ました。おびただしいほど一族の人数が多く、女どもも大勢いて面倒なことから、女性たちは船で上がっています。男たちは陸を進んで、時々、船と合流して浦伝いに名所巡りをしながら来たのですが、サン・マロは他の地よりも風光明媚で心が惹かれる上に、「ヒカル大将が当地に逗留されている」と聞いて、色めいた若い女性たちは船の中にいながらも、恥かしそうにそわそわしています。ましてヒカルが情けをかけたことがある舞姫のモニクは綱手に引かれて船が港に入ったのに、上陸できないと知って口惜しく思います。風に乗ってハープの音が遠くから聞えて来ますので、所柄と言い、ヒカルの人柄と言い、ハープの音の淋しさと言い、色々なことが一つになって、風流を解する者は皆、涙を流します。

 

 州知事がヒカルに挨拶状を差し上げました。

「ボルドーから上がって来て、ロワールに着いてから早々にご挨拶に参上して、都のお話を承りたい、と考えておりました。まさかこちらにご逗留とは思いがけないことでございます。このまま素通りしてしまうのは申し訳なく、悲しいことです。懇意にしている人々がモン・サン・ミシェル詣でを兼ねて大勢出迎えに来ておりまして、ごたごた言う窮屈な連中ですので、ご遠慮申すべきだと判断しまして、お伺いに上がりません。改めて参上させていただきます」などと知らせます。

 代って息子のジロンド(Gironde)県知事を寄こしました。息子はヒカルが官位六位の財務官に推薦して引き立てた男でしたから、「まったく悲しく辛いことに」と心中では歎いているのですが、どこで誰が見ているかも知れないので、長居はしません。

「ロワールを離れた後、昔から親しかった人たちと出会うことも難しくなっているのに、こうしてわざわざ立ち寄ってくれて」とヒカルは礼を述べます。州知事への返信も同じような内容でした。

 県知事は泣く泣く船に戻って、住まいの有様を物語りますと、州知事を始めとして、出迎えに来た人たちも縁起が悪いと思われるほど、一緒になって泣きます。

 

 モニクはあれこれ工面をして手紙を差し上げます。

(歌)ハープの音に引き止められた 綱手縄のように ゆらゆらと揺れる 私の心をお察しでしょうか

「貴方のハープの音色が色めいて聞えますのを咎めないでください」と書いてあるので、ヒカルは思わず微笑んでしまいます。若い娘の恥かしげな思いが伝わってきます。

 五節からの手紙にヒカルは返答しました。

(返歌)本当に私を思う心があって 引き綱のように揺れ動いているなら サン・マロの港を 

    素通りするはずはないだろうに

「こんな所で漁をするようになるとは思いも寄らなかった」とありました。

 モニクは遠地に流された大臣が「栄えるのも朽ちるのも 春が来て秋へと移り変わるのと同じようなものだから 時が変わるのを驚くことはない」と詠んだ詩を思い出して、大臣と今のヒカルを重ね合わせて、このままここに留まってヒカル殿のお側にいたいと思うのでした。

 

 アキテーヌ州知事一行が港を離れていった翌朝、「今、港に入って来た船はスペイン船のようだな」と回廊から物珍しげに港を見やっているお付きの者達の声で目を覚ましました。フランスと敵対する神聖同盟の一員であるスペインの商船がサン・マロに入港するのはめったにないことでした。

 しばらくして、邸の玄関先でコンスタンが見知らぬ者と押し問答する声が聞えて来ました。どうやらヒカルとの直々の面会を求めているようです。玄関先に出てみますと、一人の船乗りが立っていました。下級の船乗りの姿にやつしてはおりますが、騎士の風格と知性が滲み出ており、ただ者ではない印象を与えます。

「さる御方からの便りを持って参りました。ご返信は無用とのことですが、確かに受領したご署名だけをいただきたく」と一礼して、封書を差し出しました。話す言葉はフランス語でしたが、なまりからフランドル地方の者であることが分りました。敵国の人間と気付かれないように船乗りに変装したのでしょう。

 

 署名をして、封書を見るとネーデルランド総督の印が押されています。何とも言えない香りに思わずはっとしてしまいした。幾度となく夢に浮んできた香りが漂っています。この匂いこそ、私が幼い頃から追い求めてきた匂いだ。あの白菊皇女の匂いだったのか。ヒカルはムーラン公后の御殿で見た淋しげな少女の肖像画が思い浮べました。

 返信を書くまで男を待たせておこうとしましたが、いつも間にか男は姿を消していました。奥に入り、封書を開けてみると、手紙は流麗なフランス語で書かれていました。

 

「十三歳で貴方とお別れしてから、フランドルからスペイン、サヴォワと流転をいたしました後、ようやく母国に戻りました。スペインでは夫の病死と流産、サヴォワでも再婚した夫の急死、母国に戻ったら兄の病死、と不運の荒波をかいくぐって参りました。その後は父皇帝の意向でネーデルランドを治める総督となり、兄がスペイン(アラゴン)王女との間にもうけた甥と姪たちの面倒を見ながら多忙な日々を送っておりました。ようやく兄の長男が成人式を迎える十四歳になって、一段落がつきました。ヒカルの君は荒波の季節を迎えられていると人づてに耳にしております。お辛い毎日とお察ししますが、そのうち都に戻られて、私の良き宿敵になられることでしょう。その時が来るのを楽しみにしております」。

 

 ヒカルは改めて手紙から漂う匂いを嗅いでみます。藤壺、紫の君、メイヤン未亡人など数多くの女性とは異なる、亡き母の匂いのような気がします。

「敵国にいながら、私の流浪をご存知、というのはロワールかどこかに内通者がいるからだろう。それにしても私が『白菊皇女の宿敵になる』とはどういう意味だろう」と不思議に感じになりながら港に目をやると、スペイン船らしき船が船出をし始めています。スペインとネーデルランドを行き来している商船で、先刻の男も乗っているのでしょう。

 

 

12.サン・ブリューの修道僧一家

 

 月日が過ぎていくにつれて、ロワールでは朱雀王を始めとして、ヒカルを恋しく思う折節が多くありました。とりわけ八歳の冷泉王太子はいつもヒカルを思い出しては、ひそかに忍び泣きをしています。それを見る乳母、まして付き人ブランシュはこの上もなく可哀想に感じます。修道女の宮は王太子の先行きを悲観している上に、ヒカル大将もこうして流浪の身となってしまったことをひどく思い歎いていました。

 

 ヒカルの腹違いの兄弟たちや親しくしていた高官たちは、初めの頃は尋ねて来たり、心に沁みる詩文をヒカルと取り交わすこともありましたが、ヒカルが作るラテン語の詩文が世評で持てはやされたりしますので、それを聞きつけた紫陽花王太后が苦言を呈します。

「王室から譴責されて処分を受けた者は、常人のように勝手きままに生活することはできなはずです。風流な家に住みながら、世情を批判したり、『鹿のことを馬だ』と歪んだことを言う人物に追従するとは」と悪口を言ったりしますので、「しっぺ返しを受けると煩わしくなる」とそれ以降はヒカルに消息をかわす者はいなくなりました。

 

 シュノンソーの紫上は時が経過しても気分が晴れる折りはありません。東の本館でヒカルに仕えていた人々は皆、西館の紫上に仕えるようになった当初は、「さほどの御方でもないだろう」とたかを食っていましたが、馴れ親しんでいくうちに心が引かれる魅力があり、誠実な人柄の上に思いやりも深いことに敬服して、お暇を申し出る者もいません。身分が高い者にはほんの少しでもちらっと顔を合わせることもあり、実際に面会をした者は「数多い女性たちの中でも、格別に愛されているのも一理ある」と納得します。

 

 ヒカルの方はサン・マロ住まいが長くなるにつれ、じっと堪えながら過して行くことに辛さを覚えます。「自分の身一つだけでも思いもしなかった宿命と思える、こんな住まいに、果たして女君と一緒に暮らすことができるだろうか」と思い直したりします。ロワールとはそれほど遠地ではないのですが、色々と風俗が違い、今までは知る由もなかった下人の者達の生業を間近に見るようになって、今の境涯が情けなくも、もったいなくも思えます。時々、近くで煙が立つのを、「話に聞いている、漁師が塩作りで焚く煙なのだろう」と思い込んでいたのですが、住まいの後の丘で燻製作りで柴で魚を燻しているのでした。

 珍しく感じて歌を詠みました。  

(歌)里人が小屋で柴を焚いている光景を見るにつけ こんな光景を眺めるために 恋しいロワールの人たちが 

   しばしば訪ねて来て欲しいものだ

 

 冬に入って、雪が吹き荒れてぞっとするほど物凄い空模様を眺めながら、ハープを弾きすさんで、オリヴィエに歌を歌わせ、コンスタンに横笛を吹かせて気分転換をします。心にまかせてしみじみと弾いていると、二人は歌と横笛を止めて、涙を拭い合っています。

 ローマ皇帝が蛮族に遣ったローマの貴女を思いやって、「その女の胸中はどんなだったのであろう。自分が思いをかける女性がそうやって遠くへ放たれてしまったなら」などと思うと、同じ事が自分にも起こりそうなことを不吉に感じながら、霜が降った後の夢と吟じます。月がとても明くる射し込んで、はかない旅先の座敷の奥まで素通しとなり、寝所からでも深い夜空が見渡せます。

 沈んでいく月影が寒々と見えますので、「単に西に行くだけで、島流しではない」など、独り言を漏らしながら歌を詠みます。

(歌)私はどの方角に迷い込んで行くのだろう 月に見られているのが恥かしい

と歌っていると、例のように眠れないまま暁の空になって、千鳥が身に沁む声で啼きます。

(歌)明け方に 友と呼び交わしている 千鳥の声を聞くと 独り身の寝覚めの床にいても 心強くなる

 夜が深まってから手洗い所へ行って水で手を清めた後、聖書の一節を唱えるのを見ていると、お付きの人々は珍しくも尊く感じ入って、ヒカルを見離すことはなく、仮初にもロワールの家に戻りたい気がしません。

 

 サン・ブリュー(Saint Brieuc)の浦は舟ですとほんの一跨ぎの所ですから、オリヴィエはル・ピュイ・アン・ヴレイでヒカルに話したことがある在俗修道僧の娘を思い出して、恋文を送ってみましたが、返事もありません。ただ父親の入道から「お話したいことがある。ちょっとお逢いしたい」との申し入れがありました。「どうせ求婚を受け入れてくれない家を訪ねたところで、空しく帰る後姿は間が抜けている」と気が塞いでしまい行かずにいました。

 

 修道僧は「自分は道化戦争でもブルターニュ公国に組みした者でもあるし、公国内ではそれだけの尊敬を受けるはず」と自尊心が高かったのですが、紫陽花王妃が王太后になってからは現知事一族だけに敬意が表されるようになった僻み心もあってか、オリヴィエからの求婚に相手をしないままに年月が経っていました。

「ヒカル君がサン・マロに逗留された」と聞いて、娘の母君に話しました。

桐壺愛后がお生みになったヒカル君は、公けの罪を受けてサン・マロにやって来られた、ということだ。私の娘と宿縁があって、こうした思いがけない事が起きたのだ。この機会に何とかして娘をヒカル君に差し上げよう」と妻に告げます。

「そんなとんでもないことを。都の人の話を聞くと、高貴な身分の愛人を大勢お持ちで、なおもその上、朱雀王が思いを寄せている女性ともこっそりと情を結んでしまって、これほど騒がれてしまうような御方が、まさかこんな田舎育ちの娘など、お眼に留めることはありませんよ」と妻が答えます。

 

 修道僧は立腹して、「お前は何も分かっていない。私の考えと違っている。そのつもりで心構えをしておきなさい。いずれ、こちらにも来ていただくから」と真顔で言いますのが見苦しいほどです。そして邸内をまばゆいほどに飾り立てて、娘を大切にしています。

「どんなにご立派な方でいらしても、罪を受けて流されて来られた方に、初婚の娘を縁付かせようとするのですか。向こう様が心に留めてくれた、というわけでもないし、冗談でもありえませんよ」と妻は相手にしませんが、修道僧は悔しながら、ぶつぶつ呟いています。

 

「罪を受けてしまうことは諸外国でも我が国の王家でも、ヒカル殿のように世に秀でて、何事にも人より抜きん出ている御方には必ずあることなのだ。あの御方をどなたと思っている。亡くなられた母君の父、次席大臣であった子爵は私と同じヴァンドームの名族の出自で、私の叔父にあたる。叔父は自分の娘が抜群に評判が高かったことから、王宮勤めに出したのだが、運よく王さまの寵愛を受けて、肩を並べる者もいない程までになった。残念なことに人の妬みが重すぎて亡くなってしまったが、幸いあの御方を残されたのは大変めでたいことなのだ。娘という者は志を高く持つべきなのだ。あの御方は娘と『またいとこ』にあたるわけだし、私がこんな田舎者に落ちぶれたとしても、お見捨てにはしないだろう」と言い張ります。

 

 その娘は器量はすぐれて美しい、というわけではありませんが、優しく上品で気立てが良いところなどは高貴な身分な者に劣りません。高貴な身分の出ながら挫折をした父を持つ自分の境遇をわきまえていて、「どうせ高貴な御方は自分をものの数にも思いはしないであろう。そうかと言って、県知事など官位五位以下の者には分相応と言われても、嫁ぐことはしまい。長生きをして両親に死に別れたなら、修道女になっても、海の底に沈んでもよい」などと覚悟していました。

 父親の入道は仰々しく大事に扱って、年に二度はモン・サン・ミシェルに参詣させ、人知れず神の霊験を心待ちにしていました。

 

 

13.三位中将アントワンのサン・マロ訪問

 

 年が改まり、サン・マロでも段々と日が長くなって手持ち無沙汰を感じる時間が増えてきます。昨年植えた若木の桜がちらほらと咲き染めだして、空模様が春らしくのどかな中、様々なことを思い出して、涙を浮かべる折りが多くありました。

 四月初め頃のことでした。昨年、ロワールと別れをした時に、別れが心苦しかった人々の有様がとても恋しくなります。アンボワーズ城の南館の桜はそろそろ満開になる頃だろう。桐壺院が在世中の、あの桜の宴では故院の機嫌も良く、朱雀王も花やかで優雅でいて、詩作会で私が作った詩を口ずさんでくれたことを思い出します。

(歌)いつというわけではなく 王宮の人たちが恋しいのだが 桜の花をかざして楽しんだ あの日が 今日も巡って来た

 

 ヒカルが暇を持て余していると、今は宰相に昇進したアンジェの三位中将アントワンがふいに訪れて来ました。人柄が良く、一応、今を時めく太政大臣の娘婿ですから、世間の人々も重く見ているのですが、本人は世の中が悲しく味気なく、何かの折にはヒカルが恋しくなりますので、「表沙汰になって罪に問われてしまっても構わない」と覚悟したのか、急に尋ねて来たようです。

 ヒカルを一目見てなつかしさと嬉しさで涙をこぼします。住まいの有様は話しに聞くイングランド南部めいています。絵に描いたような風景で、小板で編んだ垣根を廻らせて、石の階段、松の柱と簡素ですが、物珍しい風情があります。

 

 ヒカルは里人のように一般人に許されている黄ばんだ薄紅色の下着に濃いねずみ色の普段着とズボンという質素ないでたちで、殊更に田舎者らしく振舞っているのも、見るからに微笑ましく、清らかな印象を与えます。使用している調度品などは間に合わせの物で、客間から寝室が残らず見透かせます。チェッカー(西洋碁。Dames)・双六盤、調度類や石はじき台なども田舎風の粗雑な作りで、祈祷用の道具が置いてあるのは、勧業を勤めていたからのようです。食卓の用具などもブルターニュ風で興趣があります。

 

 地元の漁師が漁ってきた貝類を届けて来ましたので、客間に呼び出して話をします。海辺で暮らす歳月について問いますと、あれこれと不安な身の上話や心配ごとをこぼします。とりとめもない話を聞いていると「心の苦労は身分の上下に関係なく、自分たちと同じだな」と哀れに感じたりします。衣服などを授けますと、「生きてきた甲斐があった」と喜んでいるようです。近い所に馬を並べていて、向こうに見える倉か納屋から、えん麦などを取り出して飼料にしているのをアントワンは珍しそうに見やります。

 

「無理を押してサン・マロまでやって来たのは、是非とも耳に入れておきたい話があるからだ。できたら、舟で沖合いに出て話をしたい」と小声でアントワンが耳打ちします。

 人には漏れてはいけない、並々ではない案件だ、と直感したヒカルは、地元の漁師を避けてコンスタンに舟を漕がせて、沖合いに出ました。アントワンもコンスタンがいつも忍び歩きのお供をするヒカルの忠実な部下で、口が固いことを知っていましたから、気を許して話を切り出しました。

 

「実は枢機卿が調整役となって、イタリア侵攻の企てが具体化してきた。枢機卿は、神聖同盟が分裂した今が好機だ、と判断されている。気まぐれなイングランド王がフランスに攻撃をしかけてくる気配も今のところはない。枢機卿は太政大臣一派には失望されており、『やはり左大臣一派を頼りにするしかない』と密かに父に接近して来た。都合よく、というわけでもないが、太政大臣が病に臥せるようになったこともあり、賛同者がすぐに集まって来た。

 計画は太政大臣も紫陽花王太后も蚊帳の外に置かれている。肝心の朱雀王は太政大臣と紫陽花王太后に振り回されていることに日頃から不満にお持ちの上、今年初めにアヤメ貴婦人が男児を出産されて跡取りもできたことから、自分の意思で政局を進めたい意向を強めている。先日、暇つぶしに朱雀王が狩猟に出掛けた折り、取り巻きの眼を盗んで枢機卿が接近して、イタリア侵攻の同意を得ることが出来、一挙に挙兵が進みだした。侵攻はこの秋の予定だが、その先行役として私がリヨンへ行って、下準備をすることになった。というわけで、貴方に別れを告げに来た」。

 

 舟から戻って来た二人は流行り歌「球蹴り」を少し歌い、最近のロワールの話に泣いたり笑ったりします。

「五歳になった若君がまだ世の中のことを知らずに無邪気でいるだけなのを心配して、左大臣が始終、思い歎いていますよ」とアントワンが話しますとさすがに堪え難い思いをします。積もる話は尽きることはありませんが、中々、その片端すら書き伝えることはできません。終夜、寝に付くこともなく、詩を作りながら夜を明かしていきます。そうは言うものの、世間に知られてしまうのを気遣って、急いで去らなければなりません。何とも中途半端です。

 

 二人は別れの盃を交わしながら、「酔の悲しみ、涙がそそぐ春の盃」と一緒に吟じます。それを見守るお供の人たちも皆、涙を流します。それぞれのお供の人たちもしばしの別れを惜しんでいるようです。

(歌)いつの春になったら 故郷を見ることができるだろう 故郷に戻る雁が 羨ましい

とヒカルが詠みますと、宰相アントワンは立ち去っていく気がしないで、返歌を詠みます。

(返歌)充分に話し尽くすことができないまま 貴殿の仮住まいを立ち去っていきますが 

    花の都に到る道に迷ってしまいそうです

 アントワンはロワールから携えて来た、心の籠もったロワールの土産などを趣向をこらして贈りますと、主人の君は「誠にかたじけない贈り物の返礼に」と言いながら黒馬を差し上げました。

「この馬にまたがって、イタリアの戦場を駆け巡ってください。『どうして、こんな馬を』と思われるかも知れませんが、アルプスの風に当たって嘶くこともありましょう」などと話します。世に稀な駿馬のようでした。

「これを私の形見と思って偲んでください」とアントワンは名品である見事な笛を差し出しました。それ以外は、他人が知って咎めるような物は二人とも避けました。

 

 日がようやく上がって来て、帰りを急ぐアントワンが後を振り返りながら去っていく姿を見送る光景は辛そうでした。

「いつ又、お目にかかることができるでしょう。でもこのままでおられることはないでしょう」とアントワンが申しますと、ヒカルが答えます。

(歌)雲の近くを飛び交う鶴も 空から見ていて欲しい 私は春の日のように 曇りがない身であることを

「いずれはロワールに戻れると当てにしているものの、一度罪を蒙った者は昔の賢人でも簡単には世間に戻って人と交わることは難しいようですから、何があったとしても再びロワールの都を見ることが出来るようになるとは思ってもいません」と自嘲しますと、宰相が返歌をしました。

(返歌)かって翼を並べた友を 恋しく思いながら 頼りない雲井で 独りで泣いています

「失礼と思われるほど、親しくさせていただいた頃が『特別なことだったのだ』と悔しく思う折りが多くあります」としんみりと話しながら去って行った後は、一層悲しみが増して、寂しい思いを募らせながら暮らしていきます。

 

 

14.天変の突発

 

 四月十四日になって、「漁師たちが今日は高潮となる恐れがあると懸念しております。こういう日は、心に悩みを持つ者は祈祷をするべきです」と小賢しい男が知ったかぶりで話しますので、海の様子にも気が引かれて浜辺へ出掛けました。飾り幕だけを引き廻らせて、公国内を巡廻している占い師を呼んで、祈祷をさせます。

 占い師が災厄を乗り移らせた紙の人形(ひとがた)を小舟に乗せて、沖に流しているのを眺めていると、我が身と重ね合わせとなってしまいます。

(歌)あの人形のように 私も身も知らぬ大海原に流れて来て 一方ならず 悲しい思いをしている

と詠んでいる姿は、晴れ晴れとした広い場所でしたから、たとえようもなく美しく見えます。

 

 海面の波がうららかに静まりかえっています。地平線の彼方まで眺めながら、過去・未来のことを考え続けます。

(歌)私はこれと言った罪を犯したわけでもないのだから 数多くの聖人たちも 哀れんでくれるだろう

と歌い終わった時、急に風が吹き出して、空が暗くなっていきます。

 人々は祈祷の儀式を終了できないまま、騒ぎ立てます。肘笠雨とかいう激しいにわか雨が降り出して、土砂降りになりましたので、皆、邸に戻ろうとしますが、傘を取る余裕もありません。まさかこんな天気になるとは予想だにしていませんでしたが、強風が何もかも吹き飛ばしていきます。波がひどく荒々しく立ってきて、人々は足が地につかないほど逃げ惑います。海面は掛け布団を拡げたように膨れながら光っていて、雷鳴が轟きます。

 

 人々は雷が落ちてきそうな心地がしながら、辛うじて邸に戻って来て、「これまでこんな目に出遭ったことがない」、「風などが吹いてくれば空模様が分かるものだが、珍しいほどの気まぐれさだ」と戸惑っています。雷は止まずになおも盛んに鳴ります。当たったらどんな所でも突き通してしまうような雨がばらばらと落ちてきます。

「こうやって、世の中は終末に向って行くのか」と皆は心細くなってうろたえていますが、ヒカルは落ち着いて聖書を読んでいます。日が暮れた頃、雷が少し鳴り止みました。風は夜になっても吹いていますが、幸いなことに祈祷をした効力があったのでしょう。

「嵐がもう少し続いたなら、波に引き込まれて海中に呑まれてしまうところだった」、「これが高潮というものなのだろう。あっという間に人命が奪われてしまう、と聞いてはいたが、こんなことはこれまで経験したことがない」と言い合っています。

 

 明け方になって、ようやく皆が寝につきました。ヒカルもしばらくウトウトしましたが、夢の中で何者とも分からない人物がやって来て「王さまのお召しがあるのに、どうしてお越しにならないのですか」と辺りを訪ね歩いていますので、驚いて目を覚ましました。

 

「海底にいるポセイドンは美しい人間に心が惹かれる、というから、さては魅入られてしまったのか」と思うと、とても薄気味悪くなって、この住まいにじっとしているのが堪え難くなります。

 

 

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