その4総角(あげまき、みずら)      (カオル 二十二歳

 

6.ジュヌヴィエーヴの重態、カオルの看病下に他界

 

 十二月下旬になると、「ジュヌヴィエーブ様は少しお加減がよくなっております」との報告を受けたものの、王宮では引き続きイングランドの新女王とスペインのフェリペ二世の動向などをめぐって騒がしさが続いているので、カオルは五、六日は使いも送れないでいましたが、急に「どうしているだろう」と気になって、あれこれと多い用事を放り出してコンフランへ行きました。

「回復するまで祈祷を」と指示していましたが、「大分よくなりました」ということで、導師ですら修道院に戻っていました。侍女はいたって少なく、例のベネディクトが出て来て容態を報告しました。

「どこが悪いということはなく、ものすごく苦しいというわけでもありませんが、一向に食事を召し上がりません。元々、人とは違ってひ弱な体質でおられる上に、あのニオイ卿と妹との結婚話が持ち上がった後は一塩心配事が増した様子で、ちょっとした果物や菓子類さえ召し上がらないようになって、衰弱がひどく、もはや見込みがあるようには見えません。私などは苦労続きの身で長生きをして来ましたので、こうした様子を拝見していると、まずは私の方が先に死なせていただきたいと存じております」と言い終えずに涙を流している様子はもっともなことです。

「そうなっては困る。どうしてここまで悪いと知らせてくれなかったのだ。このところフォンテーヌブロー城でも王宮でもイングランドとスペインの動向に加えてプロテスタント派とカトリック派の対立など、所用が多くて多忙になっていたから、ずっと気にかかりながら訪れることが出来ずにいた」と言って、寝室に入りました。

 

 枕もとに近寄って話しかけますが、ジュヌヴィエーブは声も出せなくなってしまったのか、答えることも出来ません。「こんなに重くなるまで、誰も誰もが知らせてくれなかったのが辛く思うし、もう甲斐もないことだ」と恨みながら、例の導師や世間一般に効験があると言われている限りの人を大勢招き、「明日から祈祷や読経を始めて下さい」と依頼しました。さらに多数の部下を呼んだので、夕刻には上級・下級の人々が賑やかに集まって、邸は心細さの名残が消え、頼もしげな空気になりました。

 日が暮れると侍女たちは「いつもの客間に」と言って、野菜スープなどを差し上げようとしましたが、「せめて近くにいて看病していたい」と答えて、南の控えの間は聖職者の座席だったので、東面のもう少し病床の近い所に屏風などを立てさせて座りました。マドレーヌは「困ったことだ」と思っていましたが、侍女たちは皆、カオルと姉の仲は「やはり一通りの間柄ではないのだから」と思って、よそよそしく隔てようとはしないでいました。

 

 カオルは午後六時からの祈祷を始めさせて、不断に聖典を読ませました。美声の者十二人が尊い声で続けました。南の間に灯火を灯して、内側は暗い中、カオルは内カーテンを引き上げ、少し中へ入り込んで病床を見ると、老侍女が二、三人付き添っていました。マドレーヌはカオルを避けて物陰に隠れていたので付き添いは少なく、ジュヌヴィエーブは心細そうに臥していました。

「どうにかして声だけでも聞かせてくれませんか」と手を取って、声を強めて語り掛けますと、「心中ではお越しが分かっていながら、ものを言うのがとても苦しいのです。この頃はお越しにならないので、もうお目にかからないままに死んでしまうのではないかと、残念に思っておりました」とやっとの声で囁きましたので、「こんなにまで待ってくれていたのに見舞いに来れなかったとは」とカオルはしゃくり上げて、おいおいと泣いてしまいました。

 額に触れてみると、少し熱を帯びていました。「どういった罪の報いを受けてしまったのだろう。人を歎かせてしまう、こんな病になって」とジュヌヴィエーブの耳に口を押し当てて、あれこれ多くのことを話すと、うるさいとも恥ずかしいとも感じたのか、袖で顔を隠してしまいました。一塩いつもよりぐったりと弱々しく臥しているのを見て、「このまま空しく死なせてしまったなら、どんな気持ちがするだろうか」と胸が張り裂けてしまう思いがしました。

 

 マドレーヌに向けて「毎日の看病で、さぞかし心労のことでしょう。せめて今夜だけでもゆっくり休んで下さい。私が当直人として付き添うから」と話すと、マドレーヌは後ろめたい気がするものの、「姉と何か話したいこともあるのだろう」と思って少し退きました。面と向かって、というわけではないものの、近くへ寄って顔を覗いてみると、ジュヌヴィエーブはとてもきまりが悪く恥ずかしいものの、「こうなる宿縁があったのだろう」と思いつつ、「あのもう一人の人物に見較べると、カオル様は穏やかで、無茶なこともしない有難い人だ」と思い知りました。「私が亡くなった後の思い出が、強情で思いやりのない女だった、とは思われたくない」と素っ気なくあしらうことをしないでいました。

 

 カオルは一晩中、側に付き添い、侍女たちに指図して薬湯などを飲ませたりしましたが、少しでも飲もうとする気配もありません。「大変なことになった。どうやって命を引き止めたらよいのか」と言いようもなく思い悩みました。間断ない聖典読みの十二人が夜明けに交代して続けられる声が大層尊く響きます。夜中は眠っていた導師も、ふと眼を覚まして、ギリシャ語の聖典を読み始めました。年老いたしわがれ声でしたが、実に功徳がありそうに頼もしく聞えました。「今夜の様子はいかがですか」とジュヌヴィエーブに問うたついでに、導師は物故した第八卿のことなどを話し出しました。

「今頃は、どのような世界におられるのでしょうか。やはり天国におられると想像しておりましたが、先日の夢に第八卿が現れました。世俗人の姿をしていまして、『世の中を深く厭わしい所と信じ込んでいたので、何の執着もなかったのだが、少しばかり案じることがあって、心が乱れてしまっている。もうしばらくは願っている所へ行けないだろうと思うと、とても悔しい。何とか天国へ行ける手立てをして欲しい』とはっきりと申されました。しかし、差し当たって何をすべきなのか思い浮かばないまま、出来る範囲内で修行中の僧たち五、六人に幾つかの祈祷をさせました。さらに思うところがあったので、不断の遊行もさせております」などと話すので、カオルもひどく涙を流しました。

 病の苦しさの中で、導師の話を聞きながら、父卿が天国へ行くのさえを妨げている罪を感じて、ジュヌヴィエーブはますます消え入りたい思いにかられました。「何とかまだ天国への道をさまよっておられる所へ行って、同じ所へ同道したい」と思いながら臥していました。

 

 導師は言葉少なに座を立ちました。不断の遊行をしていた修行僧は、近くの町々からパリまで歩き回っていましたが、夜明けの冷たい風を避けようと、導師の行き先を尋ねて、山荘の中門の辺りにやって来て、尊い供養文の終わりの句をしみじみと唱えています。客人のカオルもキリストの道に通じていましたから、たまらずに哀れみを催していました。姉の容態をひどく案じて、マドレーヌが奥の方の内カーテンの背後に近寄って来た気配に気付いて、カオルは居ずまいを正して、「不断の遊行の声をどのように聞きましたか。重々しい祈祷では行わないことですが、尊いことですね」と声を掛けました。

(歌)霜が冷たく凍った 水際の千鳥が 堪えかねて鳴く声が悲しい 明け方だ

とカオルは普通の会話のように詠みました。マドレーヌはつれないニオイ卿の気配に似ているので、ニオイ卿が詠んだのかと思い較べながらも、直々には答え辛かったのでベネディクトに取次ぎをさせました。

(歌)明け方の霜をうち払いながら鳴く千鳥も 悲しんでおられる人の心を 

   分かっているのでしょうか

と、マドレーヌには不似合いな代役だったものの、ベネディクトは気品を失わずに返歌を詠みました。

 

「こうしたちょっとしたやり取りでも、姉の方なら遠慮がちながら、懐かしみを感じさせるように取りなすものだが、ジュヌヴィエーブと死に別れることになってしまったなら、どんな悲しい気持ちがするのだろうか」とカオルは思い続けました。導師の夢に現れた亡き第八卿の様子を思い合わせると、「空の中をさ迷いながら、姉妹のいたわしい有様をどのように見ているのだろうか」とカオルは推察して、卿が籠ったモーブイソン修道院でも読経をさせました。さらに方々に祈祷の使者を出しました。王宮にも私邸にも不在の旨を連絡して、祀りだの悪霊払いだの、あれこれ思い至らないことなく手を尽くしますが、物の怪の祟りによる病でもないので、何の効験もありません。

 病人自らが「どうぞ無事に回復させて下さい」と神に祈るのならともかく、「やはりこの機会にどうにかして死んでしまいたい。カオル様がこうやって付き添い、まるで夫婦のようにしていることから、今さら離れることも出来ない。そうかと言って、今見せている並一通りではない愛情も、後になってみるとお互いに見劣りがして、嫌な思いをしてしまうと憂慮すべき羽目に陥ってしまう。もし死ねないのであれば、病にかこつけて修道女に姿を変えることにしよう。そうなってからこそ、お互いに長い友愛を見出すことになる」と思い染みて、「どんなことになろうとも、この信念を貫こう」と覚悟していましたが、そんな気丈なことはカオルに打ち明けずにいました。

 ただジュヌヴィエーブは妹に「病はいよいよ治らない気がします。『修道女になって戒律を受けたら、その効験で命が伸びるかもしれない』と聞いたことがあるので、そのように導師に伝えて下さい」と話すので、皆は泣き騒いで「とんでもないことです。これほど心を痛めておられるカオル中納言様もどれほど落胆されてしまうことか」と不都合なことに思って、頼りにしているカオルに報告もしないので、残念な思いがしました。

 

 こうしたようにカオルがコンフランに籠っているのを次第に聞きつけて、わざわざ慰問にやって来る人もいました。ジュヌヴィエーブへの思いを察している部下や職員は「おろそかには出来ない」とあちらこちらで様々な祈祷をさせました。

 カオルは「今日はクリスマスの日だ」とパリを思い起こしました。風が激しく吹き、雪がすさまじく降り荒れました。「パリはこれほどひどい天候ではないだろうに」と自ら招いたことではないものの心細くなって、「このまま、他人関係のままで終わってしまう宿命だったのか」と思うと辛くなりますが、「それを恨むべきでもなく、親しみがある可憐な状態に戻ってもらい、ただしばらくでもいつもの様子を眼の前に見ながら、心中のあれこれを語り合えたら」と思い続けながら戸外を眺めてみると、雪空の中、光りもささず暮れ果てていました。

(歌)かき曇り 日の光りも見えない奥山で 心を暗くしている 今日この頃だ

と詠みましたが、こうやってカオルが側に付き添っているのを誰もが頼みにしていました。カオルは病床の近くにいましたが、激しい風が内カーテンなどを吹き上げたので、マドレーヌは奥に引き込みました。見苦しい老侍女たちもきまり悪くなって離れてしまいましたが、その隙に病床のすぐ近くに寄って、「気分はいかがですか。思い残すことなく祈っている甲斐もなく、もう声すら聞くことが出来なくなってしまい、何ともやりきれません。私を後に残すことになったら本当に辛いことだ」と泣く泣く話しました。

 

 すでに意識もおぼろげになっている様子でしたが、カオルの気配を察して袖で器用に顔を隠していました。「少しでも加減が良い折りがありましたら、お話ししたいこともありますが、ただもう消えて行くような気持ちばかりになっているのは口惜しいことです」ととても悲しい思いをしている気配を見せるので、いよいよ涙の堰を止められません。「不吉なことだ、と心細い思いをしているのを見せないように」と堪えてはいるものの、泣き声を立ててしまいました。

「この上もなく愛しているのに、どういった宿縁で辛いことが多いまま、別れてしまうことになってしまうのだろうか。少しでも欠点を見せてくれるなら、恋しい思いを冷ますきっかけになるのだが」と見守っていますが、痛々しいながらもますます美しく愛らしく見えます。腕なども非常に細くなって、影のように弱々しいのですが、肌の色艶は変わらず、白く美しく頼りなげで、白い柔らかな夜着の姿で掛布団を下に押しやっているのは、胴の部分をはずした女児人形を寝かせたような印象を与えます。髪は煩わしいほどでもなく、枕からこぼれた辺りがつやつやと見事で愛らしいので、「これだけの女性がどうなってしまうのだろうか。この世のものでなくなってしまうのか」と思うと、限りなく惜しくなりました。

 

 長い間、病臥していて身なりを何も整えていないものの、気取って着飾り練り歩く女性より数段も勝っているので、仔細に見ているとカオルの魂も抜け出してしまいそうです。「どうしても私をうち捨てていくのなら、私ももはやこの世に留まるべきでもない。もし自分の命が思うように行かずに生き永らえたとしても、深い山に籠ってしまうだろう。ただとても心苦しいことは、妹さんがたった一人の心細い状態でこの世に残ってしまうことです」と、何とか答えさせようとしてマドレーヌについて触れると、顔を隠している袖を少し引き直して、「こうしたようにはかない命で終わってしまう予感がありましたのに、私のことを思いやりがない女だと思われてしまったのは仕方がないことです。その代わりにこの世に留まる妹を私と同じと思って上げて下さい」とそれとなく話しました。

「その通りにしていただけますなら、安心して死んで行けますのに、このことだけが恨めしいことで、この世に未練が残ってしまいそうです」とささやきました。

「何というのか、私はひどく悲しい思いをするように生まれついた身なのでしょう。私にとっては何としても、貴女以外の他の女性と夫婦になる気がなかったので、貴女の要望に従わなかったのです。けれども妹さんについて心配することはありません」などと慰めますが、ジュヌヴィエーブはとても苦しそうにするので、祈祷をする尊師たちを呼び寄せて、色々と効験の実績がある僧に絞って祈祷をさせました。自分自身も心を込めてキリストに祈りました。

 

「この世をことさらに厭んで離れなさい」と勧めるキリスト様などがこうまでひどい悲しみを仕向けているのでしょうか。見ているうちに草木が枯れて行くように息を引き取ったのは何ともいたわしいことでした。死を引き止めることも出来ず、カオルは地団太を踏んで悔やみながら、周りの人から見苦しいと見られても頓着する気もありません。

「いよいよこれ限り」と見て取ったマドレーヌが「私も姉に遅れまい」と泣き惑っているのも道理でした。正体もなくしているマドレーヌを見て、例の賢ぶった侍女たちは「もはや今はとても忌まわしいことですから」と言って、別室へ連れて行きました。

 カオル中納言は「そうは言っても、まさかこんなことはありえない。夢ではないのか」と思い直して、灯火を近付けて改めてジュヌヴィエーブを見てみると、袖で隠していた顔はまるですやすやと寝ているようで、何も変わったところもなく美しい姿で臥していました。「このまま虫の抜け殻のようにしてでも、このままにしておきたい」とカオルは思い惑いました。

 

 僧が臨終の作法をしようと髪を掻き上げると、さっと匂った芳香が生きていた時のままでした。「まあ何という懐かしい香りであろうか。どういった点でこの人に少しでも欠点があると思って、悲しみを薄めることが出来るだろうか。この人の死が私を本当にこの世の中を思い捨てさせるための方便であるとして、もっと恐ろしい死に顔を見せてくれるなら、せめて別れの悲しさが冷めるような箇所を示して欲しい」とキリストに祈りますが、どうしても胸を鎮めようがないのは仕方ないことでした。

「とにかく埋葬だけはきちんとしなければ」と考えて、何やかやと葬送の手順をするのも情ないことでした。埋葬はモーブイソン修道院の父卿の墓の隣で行われました。カオルは空を歩くようにふらふらとしながら、遺体の魂が空を上って行くのを見届けることも出来ないまま、「もう仕方がないことだ」と悄然として山荘に戻りました。

 山荘では忌中に籠っている僧たちの数も多いので、心細さも少しは紛れるのですが、マドレーヌは姉にすら先立たれてしまった不孝な女として世間から見られてしまうのが恥ずかしく、自分の不幸せに思い沈んでいて、生きている人に見えないほどでした。ニオイ卿からも忌問の品々を沢山送って来ましたが「何としても辛いことです」と姉がニオイ卿を恨み続けて、そのまま逝ってしまったことを思うと、誠につれない人との縁にすぎません。

 カオル中納言は今回のように、世の中の辛さを身に染みるにつけても、「修道の道に入る本意を果たそう」と考えるものの、ランブイエ城の母が思っていることも気にかかりますし、マドレーヌの行く末の心細さについても煩悶してしまいます。

「ジュヌヴィエーブが希望していたように、姉の形見として妹を娶ってもよかったのかもしれない。姉が妹を自分の分身と考えて欲しいと言うものの、自分としては恋の相手を姉から妹へ移す気にはなれなかった。けれどもマドレーヌがこんなに悲しみの物思いに浸ることになってしまうのであったなら、お互いに話し相手になって、尽きない悲しみを慰め合うように、行き来をするようにした方がよかったのではないか」などと思っていました。

 

 カオルが一時的にもパリに行くことはなく、憂いに沈みながらコンフランの山荘に籠っているので、世間の人も「並々ならない愛情を持っていたのだ」と察して、王宮を始めとして忌問の使いが多くありました。

 そうこうするうちに没後の日々が過ぎて行きます。七日ごとの追悼儀式などもいかめしくさせ、一通りではない供養を行いますが、自分は故人の夫ではないことから、喪服を着るわけにはいきませんが、故人に親しく仕えた侍女たちが非常に黒い喪服に着替えているのをちらっと見ながら詠みました。

(歌)赤い血の涙を落して悲しんでも 形見の喪服の黒色で染められないのは 甲斐がないことだ

常人が着る色の絹の服が、溶けない氷のようにつやつやと光っている上を、一塩涙で濡らしながら、物思いに沈んでいる姿は。とても艶っぽく清らかでした。そんなカオルを侍女たちが覗きながら、「言う甲斐もないジュヌヴィエーブ様の死は仕方ないこととして、いつもお目にかかっていたカオル様がもうこれっきりとお越しにならなくなるのは残念なことです」、「思い通りには行かない運勢をお持ちですね」、「これほど深い志を見せられたのに、姉妹のどちらともにもご縁がなかったとは」と泣き合っていました。

 カオルはマドレーヌに対して、「亡くなった人の形見と見なして、今後は何事でも相談相手になろうと考えています。他人のように余所々々しく思わないで欲しい」と告げますが、マドレーヌは「何に付けても不幸な身なのだ」と気恥ずかしく気おくれがして、カオルと対面して話そうとはしないでいました。カオルの方では「妹は際立って美しく、姉よりも今少し無邪気でおっとりとした気高さがあるが、懐かしみが漂う気立ては姉より劣っている」と何かにつけて感じていました。

 

 雪が空をかき曇らせて降る日、カオルは一日中物思いに沈んでいましたが、一月初旬の夜の月が曇りなく射しだして来たので、鎧戸を開けさせて外を覗いてみると、近くの教会から「今日も暮れていく」といった、かすかな響きが耳に入りました。

(歌)遅れてはならぬと 西の空を行く月を慕って 私も西方の国に行きたい 

   永久には留まってはいられない この世なのだから

 風が大変激しく吹いて来たので、窓を閉めさせますが、四方の木々を鏡のように映した川の汀の氷を月光が照らし出していました。「都の住まいをどんなに際限なく磨き上げても、とてもこうまでにはなるまい」と思いました。「亡き人がわずかでも蘇ってくれたなら、この光景を一緒に眺め合えただろうに」と思い続けていると、胸がはり裂ける心地になります。

(歌)亡き人を恋詫びて 苦しさのあまり 死ぬ薬が欲しい いっそのこと 

   薬草がある雪山に分け入って 姿を消してしまいたい

 四句からなる供養文の半分を教えたという悪霊が出て来てくれないものか。出現したら、残りの半分を教えてもらい、その代償として我が身を悪霊の口に投げ入れよう」といった、怪しげな道心を思ったりしました。

 

 カオルは侍女たちを近くに呼び出して、雑談をさせて聞いていました。その様子などが申し分なく思慮深く見えるので、若い侍女たちは深く心にとまって、「ご立派なこと」と感じていました。年取った侍女たちはただただ口惜しく、故人の不幸を悲しんでいました。「故人の容態が重くなったのは、ただあのニオイ卿の情ない態度に失望されて、『世間の人の物笑いになってしまった』と思い詰めてしまったからです」、「さすがに妹様にはそこまで思い詰めていると気取られないように、とご自分の胸一つで世の中を悲観し続けたので、ちょっとした果物や菓子すら口にしないようになって、衰弱が重なって行きました」、「上辺では別段、大袈裟に深い心配をされているように振る舞いませんでしたが、内心では何事につけても限りなく気をまわしておられました」、「亡くなった父卿の誡めに背くことになってしまった、とわけもなく妹さんの身の上を心配したのが、悩みの始まりでした」とカオルに告げて、時々話していたことを思い出しながら、際限なく涙にくれました。

「自分の計らいが原因で味気ない心配をさせてしまったのだ」と自分が犯した過ちを取り返したいと、この世のすべてが辛くなって、一心に聖典を誦しながら、まどろむことなく夜を明かします。

 

 すると、まだ夜が深く、雪の気配もひどく寒そうに見える中、大勢の人声と馬の声が聞こえて来ました。「一体、誰がこんな真夜中に雪を掻き分けてやって来たのだろう」と高僧たちも驚いていると、狩りの衣服に身をやつしたニオイ卿がびしょ濡れで邸に入って来ました。ドアを叩く様子を聞いて、「さてはあの人が」と気付いたカオルは奥の方に入って隠れました。

 まだ忌中の日数は残っていましたが、心配でたまらなくなったニオイ卿が、一晩中雪に難儀しながら訪ねて来たわけです。マドレーヌはこれまでの辛さも忘れてしまうほどでしたが、対面する気持ちにはなれないでいます。「亡き姉に煩悶をさせてしまったことが面目ないのに、生きている間に姉の苦しみをなくすことが出来なかった。今から後、 ニオイ卿が心を改めてくれたとしても、もはや何の甲斐もないことだ」と思い染みていました。それでも誰も誰もがあれこれと道理を説いて説得するので、物越しで対話をすることにして、ニオイ卿がこのところの無沙汰を弁解するのをしんみりと聞いていました。しかし、生きているのかいないのか分からない様子で、「姉の死に遅れてはならない」と感じられる気配に、ニオイ卿は胸を痛めて、「本当に心配でたまらない」と感じ入っていました。「今日はどうなったとしても」と我が身を捨てて、泊まって行くことにしました。「せめて物を離れてではなく」としきりにせがみますが、「もう少し人心地がつくようになりましたら」と冷ややかな返事をするだけでした。

 

 奥に隠れていたカオルはそんな様子を聞いて、しかるべき侍女を呼んで「ニオイ卿の気持ちに対して、愛情が浅いような応対をしている。確かにこのところのニオイ卿の心外な仕打ちの罪を不快に感じているのはもっともなことだが、せめて可愛さを失わないように応対すべきです。ニオイ卿はこうした冷ややかな扱いには経験がないので、さぞかし困惑した思いでいるだろう」と侍女を介して助言をしますが、カオルの忠告にますます恥じ入ったマドレーヌは何も答えずにいました。

 ニオイ卿は「まあ何という浅はかな情けなさなのだろう。約束したことを全く忘れてしまったのですか」と一通りではない歎きをしながら、時が過ぎて行きました。

 夜の一層吹き荒れる風の音の中で、「自分のせいだ」と涙を浮かべて臥しているので、さすがにマドレーヌは気の毒になって、例のように物を隔てて対話をしました。ニオイ卿は(歌)無数の教会が耳馴れてしまうほど 数々の誓いを立てたのだから といった歌を引き合いに出して末長い愛情を約束するものの、「口先だけは何て上手なことを言うのだろう」と不快になります。それでも一向に訪ねて来てくれないつれなさよりも、必死に人の心を和らげようとする様子に、「やはり一概に疎んでいることも出来ない」とじっとニオイ卿の話を聞いていました。

(歌)これまでの仕打ちを思い出してみると 頼りにならないことが分かるので 

   どうして将来まで当てに出来ましょう

と、ほのかに詠むと、ニオイ卿はますます気持ちがふさんで、気が気ではなくなってしまいました。

(返歌)行く末が短いものと思っているなら せめて眼の前の今だけでも 

    私の言葉を聞き入れて欲しい

「何事もあっという間に過ぎて行く世の中だから、罪作りな邪推はせずに」と色々宥めるものの、「気分がすぐれないので」と言って、奥に引っ込んでしまいました。

 ニオイ卿は侍女たちの手前も体裁が悪いまま、夜を明かしました。マドレーヌが恨むのも無理もないことでしたが、「あまりに不愛想すぎる」と辛い涙が落ちてきます。「ましてやマドレーヌはどれほどたまらない思いでいたのだろうか」と色々と気の毒であったことを思い知りました。

 

 カオル中納言が主人顔をして邸に住みついて、侍女や使用人を気軽に呼んだり使っていたり、大勢の者に朝食の準備をさせているのを、ニオイ卿は感慨深いとも興味深いとも見ていました。カオルがとても青白く痩せ細り、何かに心を奪われたようにぼんやりしているのを、「心苦しいことだ」と感じて、心を込めて慰問しました。

 ジュヌヴィエーブの生前の様子を今さら話しても甲斐がないことですが、「ニオイ卿にあれこれ聞いて欲しい」とカオルは思いながらも、そんなことを口に出してしまうと意気地がなく、愚痴っぽく見えてしまうのが気が引けるので、あまり話さないでいました。ひたすら泣いてばかりいながら日数が過ぎたので、顔つきが変わっていたものの、見苦しくはなく、ますます清楚に艶やかに見えるので、ニオイ卿は「女であったなら、きっとカオルに心移りをしてしまうだろう。マドレーヌも例外ではないだろう」と自身のけしからぬ勘繰りが出てきましたし、なんとなく気がかりになって、「どうしたら世間から非難も恨みもかわずにマドレーヌをパリに移そうか」を考えました。

「マドレーヌからこんな冷淡な扱いを受けたことが王宮あたりにでも耳に入ったら、まことに具合が悪いことになってしまう」と思い嘆いたニオイ卿は「今日のところはパリに帰ろう」と思いました。それでも引き続き、並一通りではない言葉を投げ尽くしますが、マドレーヌは(歌)つれない人に相手にされないことが どれほど苦しいことかを 思い知らせよう といった気持ちを分かってもらいたいとの思いで、打ち解けた素振りを見せないでいました。

 

 一月はこうした山里でなくとも空模様はいつもとは違いますが、ましてコンフランでは荒れない日もなく雪が降り積もって行くのを眺めながら、物思いに沈みながら暮らしている心境は夢のようでしたが、追悼儀式はきちんとさせました。ニオイ卿からも聖典など度を超すまでの見舞い品を送って来ました。「新しい年に入っても、そうやって歎き続けるのですか」とカオルがぼんやりとコンフランに閉じ籠っているのを心配する便りがあちらこちらからあるので、「もう引き上げねば」と思いながらも、新たな悲しみを覚えます。

 カオルがここしばらく山荘に滞在していたことから、自然と出入りする人が多かったのがなくなってしまうことを侘しがっている侍女たちは、ジュヌヴィエーブが亡くなった当座の悲しかった騒ぎよりも、静まり返った今の方がたまらない思いをしていました。「時折り風情ありげに訪れてこられた年頃よりも」、「じっと静かに過ごしておられた今日この頃の様子や気配が親しみ安く情け深くて、ちょっとした風流事でも真面目な方面でも、思いやりが多い人柄でした」、「もうこれ限りでお目にかかれなくなるなんて」と涙に暮れていました。

 ニオイ卿からは「やはり、コンフランを訪ねることは非常に難しいことを考慮して、近いうちにマドレーヌをパリに迎える計画を立てている」と手紙で知らせて来ました。ニオイ卿とマドレーヌの関係を聞き知ったサン・ブリュー王妃は「カオル中納言までもが並々ならず心を奪われた、ということは確かに並みの姉妹とは誰もが思わないだろう」と不憫に感じたようで、「ルーブル宮の西館に引き取って、時々通うようにしたら良いのでは」と提案しました。「ということは姉のエリザベト王女の侍女にでも、と考えておられるのだろう」と思いながら、近くで逢えるようになるのが嬉しいことをマドレーヌに伝えました。

「そういうことになったらしい」と知ったカオルは、「ランブイエ城の修復工事が完成したら、姉を迎えようと思っていたから、せめて姉の形見として妹を移そうと考えていたのに」と思い返すと、身につまされる思いになりました。「マドレーヌの心がカオルに移るのではないか」とのニオイ卿の懸念はカオルにはありえないことでしたし、カオルはただ「マドレーヌをすべてに渡って後見出来るのは、自分の外に誰がいるのだろうか」と思っていただけでした。

 

 

7.エリザベス一世の即位とフランスへの波紋

 

(メアリー女王の死とエリザベス一世の即位)

 十三歳年下の夫君フェリペ二世がスペインの王位継承で母国に戻った後、フランス侵攻の拠点として二世紀あまりに渡って必守してきたカレーをフランス王国に奪い返されて、メアリー・チューダー女王はイングランドの人々を失望させました。その痛手の上に、病の床についた女王は死の予感をしながらも、死の前日まで腹違いの妹でプロテスタント派に属すエリザベス一世に王位を譲ることを拒んでいました。

 メアリーとエリザベス一世の父ヘンリー八世はスペイン王家出身のカザリン王妃との離婚と、貴族ではあるものの、王族には属さない虹バラとの再婚をローマ教皇が認可しなかったため、カトリックの総本山であるローマ教会と決別して、勝手にプロテスタント派としてイングランド教会を創始してしまいました。以来、跡継ぎのエドワード六世の時代まで二十年間、イングランド教会の下で国内のカトリック派は圧力を受け続けました。母がスペイン王家の出自であり、政略結婚をしたフェリペ二世もスペイン王家であることからメアリー王女は六年間の治世中、カトリック派の復活を必死に進めたこともあり、エリザベス一世の即位により、プロテスタント派とカトリック派の勢力争いが激しくなっていくのは火を見るよりも明らかでした。

 

(フランス王国とスコットランド王国がエリザベス一世の即位に横やり)

 エリザベス一世の即位に対して、反意を見せたのはフランスとスコットランドの両王国でした。スコットランドの王位継承者であり、フランスのフィリップ王太子と結婚したメアリー・スチュアートこそ、イギリス王国の正当な王位継承者であると主張しました。根拠は、メアリー・スチュアートの父であるスコットランド国王ジェームス五世の母がヘンリー八世の実姉であることから、王族としての血筋はエリザベス一世より勝っていることによります。

ジェームス五世王の王妃で、夫君が戦死した後、摂政を担っているシャルロットはアンジュ公国の血筋を引くアントワン太政大臣の長女でロランの妹でした。夫君の死後、スコットランドでもカトリック派とプロテスタント派の抗争が激化し王位継承者である幼いメアリーが両派の政争に巻き込まれてしまうことを恐れたシャルロットはメアリーをフランス王室に預けることを決め、メアリーの叔父となるロランがフランスでの後見役となりました。カトリックの伝統を誇る旧アンジュ公国の頭目であるロランはカレー奪還の功績により、世間の人々から英雄視されていたことも背景にして、カトリック派とプロテスタント派の両立を基本政策としている安梨王や王室への影響力を増していました。ロランたちの目論見どおり、メアリー・スチュアートがイングランド王国の継承者となるなら、フィリップ王太子夫妻がフランスとスコットランドにイングランドを加えた三王国を統治することになります。

 

(秋好后とエリザベス一世の交信)

 二十五歳のエリザベス一世の即位をフランス国内で心から喜んだ一人は、冷泉院の正后である秋好后でした。三十八年前の「金布の野」でヘンリー八世がエリザベス一世の母である虹バラのフランス王室への留学をヒカルに頼み込んだ際、ヒカルは虹バラを秋好后付きの見習い女官に据えました。兄弟姉妹がいない秋好后は虹バラを妹のように可愛がり、虹バラは秋好后を通じてフランス流の王宮文化に触れて行きました。ハンプトン宮殿での条約締結に向けて、ヒカルがイングランド入りした際の通訳として二十五歳で帰国するまで、五年余りの間、秋好后との親交を深めていました。

虹バラのヘンリー八世との結婚と女王戴冠、女児出産の歓喜の後、死刑へと暗転した驚きなどを思い出しながら、秋好后はフランドル訛りの流暢なフランス語を操ったこと、絹のようなきめ細かな白い肌、気が強いものの陽気な性格で笑顔を絶やさなかったことなど、自邸に滞在中の虹バラの生活ぶりを詳しく綴り、虹バラが好んだ名香などを添えてイングランドに送りました。

 すると間もないうちにエリザベス一世から感謝の意を込めた返信がバラの挿し木を添えて届きました。即位間もなく先行きも不安な闇の中で、自分とほぼ同じ年齢の頃の実母の様子を伝えてくれた秋好后からの手紙は大きな励みになったことが文面から読み取ることが出来ました。

 

(フォンテーヌブロー城がプロテスタント派のたまり場に)

 秋好后はエリザベス一世との交信を内密にしていましたが、好奇心が旺盛な侍女たちを通じて世間に広がって行きました。王宮にも伝わりましたが、安梨王は「敵対関係にあるイングランドの新女王との交流は刺激的過ぎる」と危んだものの、「冷泉院との関係が悪くなっても」と小耳にはさんだ程度で聞き流していました。

しばらくして、故蛍兵部卿の長男コンデがフォンテーヌブロー城を訪れて、冷泉院に面会しました。コンデは時候の挨拶や雑談をした後、「院は譲位をされた後、フォンテーヌブロー城をフランス絵画興隆のメッカとされましたが、それに続いてフランスの高尚なユマニズムの流れを受け継ぐ場所とされてはいかがでしょうか、と考える次第です」と切り出しました。内心では「第一王女ジゼルへの関心を抱いての訪問に違いない」と思い込んでいた冷泉院はコンデの提案に驚きましたが、コンデは話を続けました。

「エラスムスに触発される形でデタルプ先生たちが進めたフランスのユマニズムはヒカル様にも深い影響を受けたことは周知の話ですが、院もデタルプ先生の最後の弟子として知られるモーブイソン修道院の導師から指導を受けられたことも承知しております。現在、イングランド、オランダ、ドイツなど近隣諸国でカトリック派とプロテスタント派の対立が宗教の教学を越えて、政治・社会的な問題へと高まっています。こうした中、安梨王は両派の並立の方針を貫かれておりますが、忘れかけられているユマニズムの原点を深堀りしていく場所を設けることは近隣諸国への両派並立の模範となりましょうし、安梨王への援護射撃にもなりましょう」。

コンデの本音はフォンテーヌブロー城をプロテスタント派の拠点の一つにすることにありましたが、そこまで深読みをしないまま、冷泉院は城内に「ユマニズム学習室」を開くことに同意しました。すると秋好后とエリザベス一世の親交の噂を聞きつけたプロテスタント派が学習室に集まって来るようになりました。その中には玉鬘の息子でソフィー貴婦人の兄であるコリニーとフェルナンも混じっていて、ソフィー貴婦人の部屋にも訪ねるようになったので、「二人はあれほどソフィーが冷泉院に嫁ぐのに反対し、第二王女エルザと第一王子セザールが誕生した後も、ソフィーに冷ややかだったのに」と玉鬘は失笑してしまいました。

 

(真木柱の玉鬘への怨念)

「セザールは顔だけでなく仕草もヒカル様によく似ている」と秋好后は自分の孫のように可愛がり出していて、それとなく冷たくしていたソフィー貴婦人との仲も睦まじくなっていましたが、それを聞いた冷泉院は「秋好后も自分の出生の秘密を知っていたのか」とヒヤッとしました。

フォンテーヌブロー城がセザールを中心に若やいで来ているのを横目で見ながら、アンジェリクは「おまけにやたらとプロテスタント派の来訪が増え出している」と面白くなく、ますます疎外感を強めたこともあって、兄のロラン一家が住むムードン城を訪ねる機会が増えました。(歌)今はこの邸を離れて行きますが幼い頃から親しんで来た 真木の柱は私を忘れないでください と詠んだ真木柱は少女の頃から「父を奪った女」と玉鬘を心底憎んでいた上に、自分を冷たくあしらった前夫の蛍兵部卿の一人息子コンデの行動を聞いてアンジェリクへの同情が高まり、二人は親密さを増して行きました。

 

 

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