日本上古代史 補遺1.

 

補遺No.1 「投馬国・広島湾説」  第一考

 

              協力:広畠饒治(ひろはた じょうじ)氏(広島市安佐北区 在住)

 

《その1≫投馬国の所在地候補

 中国の三国志・魏志倭人伝が、北部九州の不弥国から邪馬台国との間にあった、と伝える投馬国は広島市にあったとする説は、まだごく少数の人が提唱しているにすぎず、地元の広島市でも一笑にふす方々が大半、といった状況です。

 

三国志・魏志倭人伝の投馬国の紹介文

「東行して不弥国に至るには百里。官を多模(たぼ)、副官を卑奴母離(ひなもり)という。千余家あり。  南(東)、投馬国に至るには、水行二十日。官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という。五万余戸ばかりあり。  南(東)、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月なり。」

 

 北部九州の不弥国から投馬国まで海路二十日、投馬国から邪馬台国まで海路十日ですから、3分の23分の1の割合となります。不弥国からの方角を「南」ではなく「東」に置き換えて、この比率にそって類推すると、投馬国の所在地は、「邪馬台国大和説」では備後の福山市の鞆(とも)、備前の岡山市、讃岐の高松市周辺が候補地となりますが、「邪馬台国吉備説」では、広島湾説が最も有力となります。

 

 魏志倭人伝の記述の中で、「水行十日、陸行一月」をどう読むか、で所在地も変わってきます。

1.「水行で行くなら十日、陸行で行くなら一月」と読むと、広島湾

2.「水行十日の後、陸行一月」と読むと、出雲市

3.「水行十日の後、陸行一日(月は日の誤写と見なす)」と読むと、広島湾か松山市

が投馬国の候補地となります。

 

 おそらく、不弥国から吉備邪馬台国に至るには、出雲市、広島湾、松山市経由の3つのルートがあり、潮の流れ、季節の変動などに応じて、使い分けたのでしょう。

 出雲市説ですと、西出雲から島根半島沖合いを経て伯耆の淀江(妻木晩田遺跡)まで船で、淀江から日野川を上がり、旭川を下るルートになりますが、出雲市から淀江まで約72キロメートルなので、通常なら三~四日で到着し、水行十日は長すぎる印象を与えます。さらに中国山地を陸路で越えるわけですから、重い荷物ですとかなりの難行となります。陸行よりも水行の方が大量の物を輸送できること、日本海よりも瀬戸内海の方が穏やかなことも考慮に入れると、広島湾か松山市のどちらかが有利となります。

 広島湾説では、関門海峡を越えた後、長門、周防と沿岸伝いに広島湾まで進んで行きますが、問題点は広島湾周辺には小規模な弥生遺跡は多くあるものの、一国の首都にふさわしい大規模遺跡は発見されていないことです。

 松山市説では、関門海峡から南下して宇佐に至り、宇佐から海路、松山市を経て吉備に進みます。広島湾は大きく窪んでいるため、距離的には松山市経由でもほぼ同じとなり、松山市には文京遺跡など首都にふさわしい大規模遺跡があります。

 

 安芸の神さまは弥生時代後期以来、宮島の厳島神社で祀られている宗像三女神で決まり、と思い込んでいたのですが、宮島の元々の神さまは大元神社で祀られているオオヤマツミだった、とする説もあるようです。オオヤマツミは伊予の神さまですから、松山市に首都を置く伊予王国が広島湾まで勢力下におさめていた可能性もあります。

 

 

《その2》安芸の神武天皇伝説

 

 投馬国広島湾説を支えるもう1つの材料は、神武天皇伝説の存在です。神武天皇伝説は出雲市や松山市には存在しませんが、府中町の埃宮(えのみや。多家神社)に加えて、宮島に近い廿日市市の宮内、太田川中流域の可部(かべ)町にも神武伝説が残されているそうです。

 自説では、水田耕作に不適な火山灰地が多く、貧乏国だった日向を治めていたヒコイツセとイワレビコ(神武天皇)兄弟は宗像海士族の仲介で、弥生中期の末、西日本に勢力を拡大していた吉備邪馬台国に警護役として雇用され、部下を引き連れて響灘の遠賀川河口(岡の湊)に滞在し、数年後、安芸の太田川地域に移動します。

 弥生中期末にすでに不弥国(津屋崎)―遠賀川―広島湾―備前は海路の主要幹線だった、と考えられますし、4か所にある神武伝説も神武一行が警護役だったとすると、理にかないます。

 

(安芸の神武伝説の地)

1.府中町の埃宮

  :神武兄弟が滞在した場所。但し、正確な場所は不明。

2.宮内天王社

  :宮島に近く神武天皇が立ち寄った伝説がある。

3.可部(かべ)の帆待川

  :帆待川が太田川に合流する地点に船を泊めて、貴船山(船山)に登った伝説。可部は古代の入江(安佐湾ないし可部 

   湾)の最深部にあたり、根の谷川―八千代町―江(ごう)の川―三次―出雲へと続く交易路の湊(港)であったようで  

   す。

   神武集団が警護役として巡回した光景を連想できます。

4.安川流域の火の山(標高488メートル)

  :安川南岸に武田山と並ぶ火の山で神武天皇が狼煙(のろし)を上げた伝説。狼煙は三條川にのぞむ鬼ヶ城山(標高  

  737メートル)と交信していました。

 

 広島湾説が最も有力だが、松山市説も捨てがたいと決めかねている状況が続いていました。そうこうしているうちに、広島市安佐北区在住で私より年長のいとこでおられる広畠饒治(ひろはた じょうじ)氏から「太田川の支流の安川(やすかわ)に「伴(とも)」という地名があり、古代は安川流域は「伴郡」と呼ばれていた、という連絡がありました。これで「投馬国広島湾説は前進できる」と直感しました。

 

 

《その3》広島湾の遺跡と分布

 

 201111月の岡山市吉備津彦神社での講演の後、今回は可能性があるか否かの下調べで、わずか2日間ですが、饒治氏と奥さまのご案内で広島市の太田川周辺を訪れました。

 

 広島駅からJR芸備線に乗り、矢賀駅を過ぎてトンネルを越えて太田川流域に入ると、信じられない光景が飛び込んできました。太田川流域は山や丘陵が迫っていますが、尾根の中腹にまで真新しい住宅街が細長い帯状にびっしりと広がっています。広島県以外の方にはほとんど知られていないでしょうが、広島市の副都心とも呼ばれる太田川西岸の安佐南区と東岸の安佐北区は超モダンな街並みに変貌していました。 

 

 ご夫妻のお話では、1970年代から山林だった丘陵地の団地開発が進み、広島市中心部と結ぶ広島高速交通アストラムラインが開通しました。その開発中に西願寺山墳墓群、恵下(えげ)山遺跡など弥生時代後期の数々の遺跡が発見されました。古代は可部まで海だったのことで、その証しとして随所に貝塚があり、土中から牡蠣やハマグリの貝殻が見つかります。可部の神武天皇の帆待川伝説は作り話ではなく、本当だったようです。

 

 太田川流域を中心にした広島湾地域の主要遺跡は以下のようになります。

広島湾の地域別主な遺跡

       ※ 主な資料は「日本古代遺跡 9巻 26。広島」(保育社)です。

1.五日市町の八幡川流域(佐伯区)

  弥生遺跡の密集度が高い地域です。八幡川の下流域は海中だったようで、尾根上に集落があります。

浄安寺遺跡(弥生後期)

石内地区の標高110メートルの丘陵上に分布する弥生集落。尾根上に多数の竪穴住居跡や住居跡状の遺構、掘立柱建物、 土壙、広場などが検出されています。住居跡は尾根上に位置し、一辺78メートルと大型で銅鏃や勾玉をもつものと、斜面に長屋状に続く一辺5メートル前後の小型のものに分かれています。尾根上の中心部には、共通の場としての広場と掘立柱建物が検出されており、中心的役割を果たした集落と考えられています。工房(工場)を中心に工房で働く親方と徒弟の住居が広がっているような情景が思い浮かびます。

 

2.安川上中流域と伴(とも)

 五日市町と安川の太田川合流地点の中間地域に位置しています。大きな遺跡は発見されていませんが、オオトシを祀る大歳神社や大和系のアマツヒコネを祀る岡崎神社があります。

 

3.安川が太田川に合流する太田川西岸(安佐南区)

 安川下流の北岸の丘陵に毘沙門台遺跡、恵木(えぎ)遺跡、神宮山古墳などがあり、太田川西岸の武田山の東斜面に、長う子(ね)遺跡、芳ヶ谷遺跡、太谷遺跡、池の内遺跡、南斜面に 5世紀から6世紀にかけての古墳群などがあります。

 

毘沙門台遺跡(弥生後期)

標高160メートルの高所尾根上に、70軒以上の竪穴住居跡と180基を越す土壙が検出されています。

長う子(ね)遺跡(弥生後期)

特定の住居跡の周辺に多量の土器や分銅形土製品、銅鏃、ガラス玉、磨製石剣などが一括して投棄されており、住居などの廃絶に伴って祭祀がいとなまれたと考えられています。 

 古墳は、佐東町緑井(毘沙門台から太田川寄り)付近、祇園町山本(武田山南麓)付近に集中しています。

神宮山古墳(四世紀代) 

径約15メートルの円墳で、竪穴式石室三基が確認されています。北約二キロメートルに宇那木山古墳、西約500メートルに白山一号墳があります。

祇園町山本付近には三王原古墳、池ノ内二号墳、空長古墳群など、5世紀から6世紀にかけての古墳群があります。 

 

4.可部(安佐北区)

大毛寺川、根の谷川、三條(みささ)川が太田川にそそぐ地域ですが、古代の入り海を囲む高台に弥生遺跡や古墳が数多く存在します。根の谷川に沿って八千代町へ進むと江の川に出会って三次に至ります。

 

緒延八幡神社

江戸時代に平形銅剣(吉備・讃岐系?)7本が発見された、との記録があります。

可部古墳群

九品寺古墳群、城ヶ平古墳群、上ヶ原古墳群、原迫古墳群、青古墳群、給人原古墳群の6古墳群83基が群集。ほどんどが横穴式石室をもつ小円墳。6世紀後半から7世紀前半。

 

5.太田川東岸(安佐北区)

下深川(しもふかわ)から玖村(くむら)、矢口、戸坂(へさか)に至る太田川東岸一帯は、弥生集落の多い所として知られています。中でも高陽ニュータウン地区では恵下山遺跡群など多数の集落跡、墳墓、古墳、中世の山城跡などが調査されています。

恵下山(えげさん)遺跡群(弥生後期)

太田川を見下ろす標高5075メートルの尾根上に、弥生後期の竪穴住居跡13軒、住居跡状遺構2、土壙(どこう)25基などが検出されています。竪穴住居12軒に土壙と広場を持つ小グループが集合して1つの集落を構成した、と考えられています。

恵下山遺跡群の東につながる恵下、寺迫(てらさこ)、西山、北山の各遺跡、および諸木(もろき)川をはさんで対岸の山手、大井の両遺跡などでも、それぞれ複数の竪穴住居跡と土壙が検出されています。

西山遺跡(弥生後期)

広島湾や太田川下流域一帯を見渡せる茶磨山(標高61メートル)山上にあり、広島湾を代表する高地性集落。頂上付近の3か所と南東に伸びる尾根上の2か所の計5か所で、後期の集落に伴うものとされる貝塚が確認されている。巴形銅器、弥生後期の土器、鉄製工具。銅鏃(ぞく)、多量の鉄器、石器類が出土しています。

 太田川東岸の古墳は、西願寺墳墓群に見られる弥生時代の土壙墓群から竪穴式石室、そして明瞭な墳丘を持つ弘住三号墳へと形を整えていき、中小田一号墳の段階で、畿内の影響を受けた古墳として完成します。この後、前方後円墳の弘住一号墳へと続き、中小田二号墳、弘住二号墳、そして横穴式石室の導入される湯釜古墳、平野古墳へと系統的に推移していったことがうかがえる。

西願寺(さいがんじ)墳墓群(弥生後期~古墳前期)

太田川に面した標高3070メートルの丘陵上にある。A地点(共同墓地)からC地点の後、D地点へと三段階の変遷が見られます。

A地点:細尾根に直行した 土壙墓42基からなる墳墓群。

B地点:古墳前半期の古墳二基、 土壙墓一基、壺棺一基、積石遺構などからなります。

C地点:標高約40メートルの尾根上を溝で区切って、17×12メートルの墓域とし、内部に 土壙墓14基、竪穴式石室4基を近接したり重複したりして設置しています。埋葬施設の上面には川原石を円形に並べています。竪穴式は上端が開く特異な形をなし、蓋石はありません。鉄斧と供献用と思われる壺、高杯(たかつき)、器台が一括して出土しました。

D地点:丘陵先端部に10×20メートルの平坦面を削りだし、竪穴式石室2基、箱式石棺一基を並べたています。一号石室の周囲の区画には、四隅に突出部があったことも観察されています。一、二号石室とも、内部から鉄製の工具、武器が出土していますがが、とくに、一号石室の鋳造鉄斧は朝鮮半島からの将来品と考えられています。

E地点:竪穴式石室一基、 土壙墓一基が検出されました。

 

弘住(こうずみ)古墳群(古墳前期)

前方後円墳を含む五基の古墳群。西願寺墳墓群との類似性などから、発生期の古墳と考えられています。

一号墳は全長40メートルの前方後円墳で、太田川流域では最大の規模。墳丘に葺石があります。

二号墳は礫床をもつ古墳で滑石製臼玉、ガラス製小玉などが多量に出土しました。

三号墳は東西に造り出し状の突出部をもつ不定形な墳丘に、割り石や河原石を用いた竪穴式石室を埋葬施設としています。石室内から剣、大型鏃、鏃、刀子、斧などの鉄製品が、石室上から供献用の土器類が出土しています。

中小田古墳群(古墳前期)

前方後円墳一基、帆立貝形古墳一基を含む十基からなる4世紀後半から5世紀後半にかけての代表的な古墳群。一号墳は全長30メートルで、4世紀後半の古墳とされています。

湯釜古墳

中小田古墳群の南。全長28メートルの前方後方墳で、古式の横穴古墳。近くに平野古墳、上小田古墳がありました。

 

6.府中町から瀬野川へ

中山貝塚(縄文晩期~弥生中期後半)

太田川下流域最大の貝塚。芸備線矢賀駅と戸坂駅の中間、低丘陵の先端部にあります。縄文晩期から弥生中期後半の遺跡で、広島地域の弥生磯城土器編年の基準となっています。標高約10メートルにある貝塚は、縄文晩期から弥生前期の海岸線に接していました。

太田川下流域の弥生遺跡を特徴付づける、弥生後期のいわゆる高地性集落とは、その立地をまったく異にしています。

畳谷遺跡(弥生後期)

温品(ぬくしな)川沿いの、広島湾を見下ろす標高約110メートルの丘陵尾根上にあります。竪穴住居跡13軒、土壙(どこう)19基、壺棺墓1基、小貝塚3か所が出土しています。

木ノ宗(きのむね)山遺跡(弥生中期後半)

木の宗山(標高413メートル)の南斜面中腹にある烏帽子岩の前から、銅鐸・銅剣・銅戈(どうか)が一括して発見されました。

矢野町の絵下谷(えげたに)川

細形銅剣(出雲系?)の茎(なかご)部を採集。

瀬野川の成岡遺跡

弥生後期の集落跡と古墳時代初頭の古墳3基。

 

 

《その4》太田川の下流域は可部まで奥深く続く入り海(安佐湾ないし可部湾)だった

 

 遺跡の分布を整理していくと、太田川の下流域は可部まで奥深く入り込んだ入り海だったようです。入り海の東岸は安佐北区、西側は安佐南区ですので「安佐湾ないし可部湾」と名づけることもできますが、 (図1)に見るように古代遺跡は入り海の周りを囲むように位置しています。 

 入り海と広島湾の境は東岸は牛田新町、西岸は長束(ながつか)辺りですが、双方とも入り海を塞ぐように突き出しています。このため、入り海は荒波を回避する良港となりますが、広島湾への出入り口がせばまっているため、洪水や高潮の際は太田川や三條(みささ)川などの支流からの濁流があふれ、水位が上昇して低地は浸水します。入り海を囲む弥生遺跡が低地を避けて丘陵地に造られているのは、その理由によるものでしょう。古墳時代に入ってもこの傾向が続きます。

 広島市の現在の中心部はまだ海底でしたから、古代の山陽道は、宮島→五日市→八幡川→安川(伴郡)→入り海(安佐湾)を舟で渡る→戸坂(へさか)→府中町→瀬野川へと続いていたようです。投馬国はこの街道沿いに5万余戸が存在していたことになります。

 興味深い点は、入り海(安佐湾)を囲む弥生遺跡のほとんどが弥生後期以降に限られ、縄文晩期から弥生中期後半まで続いた中山貝塚などとの連続性が見られないことです。このことは入り海周辺は弥生後期になって人工的に開発され、高地性集落があちこちに造られた、ということになります。

  

 

《その5》広島湾投馬国は中継貿易王国だった

 

 太田川流域を訪れる前の悩みは、投馬国の具体的なイメージが全く浮かんでこなかったことでした。

 魏志倭人伝の投馬国の紹介は「 官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という。五万余戸ばかりあり」のわずか二行にすぎません。古事記と日本書記では投馬国に関する記述は影も形もなく、広島湾投馬国の面影を伝える描写があったかも知れない安芸国風土記は、残念ながら現存していません。

 どうすれば、投馬国であったと実証できるのだろうか。可部と五日市の2か所にある「鬼ヶ城山」は吉備津の鬼城山、備中の鬼ヶ嶽温泉、備後の神辺町の鬼伝説、三次の鬼が城山と連動しているようですから、大和軍侵攻に対峙するレジスタンスが吉備に次いで投馬国でも存在したとも考えられます。となると2つの鬼ヶ城山の間にある地域、即ち八幡川から安川、入り海(安佐湾ないし可部湾)の間に投馬国の中心部があったのではないか、と仮定できます。

 今回、短期間ですが実際に太田川流域を訪れてみて、おぼろげながら広島湾投馬国の具体的なイメージがわいてきました。

 

(弥生中期末から人工的に造られた中継貿易王国)

  饒治氏から頂戴した資料の中に、以下の一節がありました。

 

『広島湾をめぐる丘陵上には、弥生時代後期を中心とする多くの「高地性集落」がある。それぞれは23軒の住居からなる小さな「ムラ」で、この村が青銅器や玉類をもつ中心的集落の周りに集まって、小単位のグループをつくり、それらが広島湾を媒体としてさらに大きなグループとなって、地域を構成していた。国家発生以前の集団関係をしめす状況として注目されている。』

 この一節では太田川流域を中心とする丘陵上の遺跡群は「国家発生以前の状況」ということになりますが、私は商業・産業を主体にした中継貿易国家の状況を示している、と解釈します。

 広島湾投馬国は大中規模の平野部、水田と環濠集落を持つ農村型国家ではなく、瀬戸内海の東西を結ぶ交易路と伊予(松山市)と備後(三次市)・出雲・石見の南北を結ぶ交易路が交差する十字路の役割を果たす交易・加工産業国だったのではなかろうか、と推測します。

 

 浄安遺跡、恵下山遺跡や西山遺跡は、銅、鉄や玉類の製品を加工する集団が住み、作業場を中心に親方や工人、徒弟の住居があったイメージを与えます。こうした職人集団の製造・居住地が入り海(安佐湾)の周りや安川と八幡川の丘陵部に点在し、入り海では東西南北からやってきた交易商人や荷運び人、工人が舟で行きかっていた情景が浮かんできます。

 この交易国の建設が始まった時期を弥生中期末頃とすると、神武兄弟が部下を率いて警備役として広島湾に滞在し、火の山で狼煙をあげたという伝説も史実としての妥当性が出てきます。

 

 

《その6》太田川流域の神さま

 

 広島湾投馬国が人工的に造成された中継貿易王国だったとすると、弥生時代中期末以降に王国を建国した主体者は何者か、という問いが出てきます。

 それを探っていく糸口の一つは、平安時代に編纂された延喜式に紹介されている古社の歴史(由緒)です。日本の歴史は王朝貴族社会から武家社会への移行、ことに戦国時代により分断されていますが、弥生時代後半から平安時代までは一本の糸でつながっています。弥生時代後期頃に蒔かれたタネが平安時代中ごろに頂点に達し、世界に誇る大河小説「源氏物語」が誕生した、と私は考えています。ですから古社の歴史と祭神を掘り下げていくと、考古学的発見物からでは推し量れない世界も見えてきます。

 

 投馬国は太田川河口周辺ではなかったろうか、と思いついて以来、私は太田川西岸の武田山南麓にある祇園町に注目していました。「祇園」と言うと疫病退治の神さまとしてのスサノオを祀る京都の八坂神社につながりますが、スサノオの根源地は出雲ではなく、吉井川と旭川が流れる美作から備前辺りと考えられますから、吉備邪馬台国との関連も出てきます。調べてみると、祇園町にある安神社の祭神はスサノオでした。祇園町辺りが投馬国の中心地ではなかったのか、とする思いが強まっていきます。

 現地にお住まいの饒治氏に祇園町や伴周辺の神社と祭神の調査をお願いしたところ、安川の「伴」を中心とした半径約10キロメートル圏内に、オオトシ(大歳、大年)のみを祀る神社5社、スサノオのみを祀る神社7社、オオトシとスサノオを祀る神社4社、オオトシと他の神を祀る神社8社、の約32社があり、また伴にある岡崎神社では大和系のアマツヒコネ(アマテラスの玉から生まれた五男神の一神)が祀られている、という返信がありました。確かにスサノオ信仰があるようですが、主に播磨から東側に分布するスサノオの子神オオトシも出現したことは予想外でした。

 

 安神社から投馬国・広島湾説を裏づける何かが見つかるかもしれない、と期待しながら安神社を訪れてみました。

 由緒書きを読むと、祇園社とも呼ばれる安神社は、元は武田山(銀山)の麓の松尾山(現在の祇園中学校)にあって、安芸の国鎮護の神として国司から厚く敬われていた。1299年、平員家が武田氏の銀山城を襲った際に炎上し、その後、現在地に再建された、ということです。

 どうやら、安神社は奈良時代か平安時代初期に始まった祇園信仰を勧請した神社で、弥生時代後期に起源があるようではなさそうです。

 

 眼前にそびえる秀美な三角錐の形をしている武田山は阿波の大麻山に似ており、明らかに神が住まれる聖山(神奈備山)ですが、祀られている神さまがスサノオであるのか別の神さまなのか、はっきりしないため、武田山の神さまを探ることも今後の課題となりました。

 

 

《その7》投馬国建国の主体者は何者か

 

 頭の中を仕切り直していくうちに、スサノオに代わってオオトシの存在が大きくなってきました。

 

 スサノオはイナダヒメ(稲田姫)とカミオオイチヒメ(神大市姫)を后としますが、オオヤマツミはイナダヒメの祖父、カミオオイチヒメの父にあたります。オオトシはカミオオイチヒメの息子神で、姫路市から神戸市、播磨から摂津にかけての分布が濃く、三人の后から誕生した子孫神は近畿地方に幅広く分布しています(「邪馬台国吉備説 神話篇」P.122参照)

 このことからオオトシは播磨から東の近畿系の神さまと判断していたため、伴周辺からオオトシを祀る神社が多く出現して戸惑ったわけです。しかしカミオオイチヒメは名が示すように「大市の神さま」で、父神オオヤマツミの根源地は安芸の対岸の伊予ですから、広島湾の交易国家を守る神さまがオオトシであっても違和感はありません。

 

 となると、投馬国は吉備勢力か伊予勢力の影響下で誕生したのかもしれません。きっすいの土着勢力が王国にまで成長していったことも考えられますが、弥生時代中期後半に栄えた中山貝塚や木の宗山遺跡と入り海周辺の高地性集落とは立地が異なり、連続性もないようです。弥生中期末から後期初めにかけて、入り海周辺の高地性集落群は外部勢力によって人工的に造成されていった、と考えた方が論理的に適うようです。

 安川周辺ではスサノオとオオトシ、宮島では北部九州の宗像三女神と伊予のオオヤマツミの信仰が残っていることを考慮していくと、吉備邪馬台国の膨張に沿って、弥生中期後半から後期前半(前1世紀後半~1世紀)にかけて、吉備と讃岐を中心点として瀬戸内海の東西に増大していく「第1次高地性集落」と分銅形土製品の分布に連動しているのかも知れない、とする推察に至りました。

 

 吉備勢力の膨張時、瀬戸内海地域ではオオトシを信奉する勢力が主導権を持ち、主に海岸線の高台に高地性集落を造成していった。広島湾の奥に広がる入り海地域は良港として開発され、宗像族と伊予オオヤマツミ族も交易の利点も兼ねて造成に参加していった。現代のニュータウン開発に先駆ける約1,900年前に、同じ丘陵地でニュータウン開発が行われていたわけです。

 魏志倭人伝では、対馬、壱岐、奴国と不弥国には副官として遠隔地の国境を防ぐ軍人ヒナモリ(卑奴母離)が配置されていますが、投馬国の統治者は官がミミ(弥弥)、副官はミミナリ(弥弥那利)ですから、宗像族と伊予王国の合意の下に、吉備邪馬台国から派遣された県知事と副知事のような存在だった印象を持ちます。

 

 

《その8》投馬国の中心部はどこに

 

 投馬国の統治者が県知事のような立場だったとすると、本国との兼ね合いから、本国を凌ぐ王宮や墳丘墓を造ることができませんので、大規模な王宮跡や全長50メートル前後の大型弥生墳丘墓が発見される可能性は低いかも知れません。

 投馬国の中心部あるいは統治者が居住した場所はどこでしょうか。現段階では私は①武田山北麓の安川が太田川に合流する地域(大町と緑井)、②安川の中流の沼田町伴地域、の2か所を候補地に挙げています。

 

武田山北麓の安川が太田川に合流する地域(大町、古市と緑井)

 長う子(ね)遺跡や毘沙門台遺跡があります。入り海の対岸には西願寺遺跡がありますが、古墳発生期と見られる、東西に造り出し状の突出部を持つ不定形な墳丘をもつ弘住古墳三号墳が気になります。遠望すると、武田山北麓の尾根に大型弥生墳丘墓が眠っているような匂いもします。

安川の中流の沼田町伴地域

 安川中流の伴周辺からはまだ大中規模の遺跡は発見されていませんが、五日市町と入り海の中間地点にあり、双方を統括しやすい地点です。オオトシ信仰が濃い地域に、大和系のアマツヒコネを祀る岡崎神社があるのが気になります。アマテラス五男神のアマツヒコネは三重県桑名市の多度大社の祭神、滋賀県野洲市の御上(みかみ)神社の祭神は子神アメノミカゲで、尾張氏のアメノホアカリと同様に、大和の勢力拡大と連動していまし、河内アマツヒコネ族は大和水軍の筆頭格でした。。岡崎神社辺りにミミの王宮(官邸)があり、大和軍が投馬国を征服した後に大和の神を祀った可能性があります。

 

 太田川流域へは、少なくともあと二回は訪問して、識者にお話をうかがいながら、現地をじっくりと現地を歩かねばならないと思っておりますが、投馬国広島湾説にご関心をお持ちの皆さまからのご教示をお待ちしています。

 

 

                     (投馬国・広島湾説  第一考   ―了―)

 

 

 

補遺No.2. 「中臣氏と吉備邪馬台国」

   (参照 「広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第4章 吉備邪馬台国の歴史)

 

[概況]

 今回のブログ連載は、中臣氏に絞り込んで、「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」に沿いながら、大和が東西日本を統一して「大倭国」が誕生していくまでの歴史を整理してみます。

 

 中臣氏は「吉備邪馬台国の重鎮だった」のではないか、とする自説は、これまで、単行本「邪馬台国吉備説 神話篇」やブログ「広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説」、小説版「箸墓物語」などの各所で触れてきました。今回は、古事記、日本書記、風土記、国造本義などの文献に登場する中臣氏につながる神々や人物の箇所を抜き出しながら、追跡してみます。 

 中臣氏で特筆できることは、イザナギ・イザナミから始まる古代日本の黎明期の神話時代から奈良・平安時代まで途切れることなく、何らかの形で登場してきた氏族、ということです。

 

 中臣氏の氏神は祭祀神アメノコヤネ(天児屋)、軍神タケミカヅチ(建御雷、武甕槌)、剣神フツヌシ(経津主、建布都)の3神で、人物としては常陸国風土記に登場するタケカシマ(建鹿島)、垂仁朝の五大夫の一人となるオオカシマ(大鹿島)、占いをするクカヌシ(探湯主)、時代が下って飛鳥時代の中臣鎌子などが挙げられます。

 

 ところが、奇妙なことに中臣氏は、天皇系譜に属する氏族(尾張氏、意富氏、和邇氏、阿倍氏等)、神武天皇に随伴した氏族(大伴氏、久米氏、アメノホヒ族、アマツヒコネ族等)、大和土着の氏族(物部氏、穂積氏等)のいずれにも属しません。根源地も出自も不明確ですが、軍事では出雲の国譲りで活躍し、大倭(大和)の祭祀も忌部氏と共に司るようになっています。

 忌部氏の出自は阿波か讃岐ではっきりしていますので、中臣氏も外部から大和入りして、土着勢力と融和したと見なすこともできます。これに沿うと、「2世紀末の倭国大乱の後、吉備、阿波など西部勢力が大和に入り、土着勢力と融合して邪馬台国を打ち立て、ヒミコを女王に擁立した」説を裏づける根拠となりますが、この説はあくまで「欠史八代説」を正論として引き出されたものにすぎず、「欠史八代説」が誤りであり、神武天皇から第九代開化天皇まで実在したことが実証されると水泡に帰します。

 

 日本神話の核と言える「イザナギ・イザナミ神話」や「天の石屋戸神話」には中臣系と忌部系の神々が登場しますが大和系の神々は太陽神としてのアマテラスが登場するだけにすぎません。この点から見ても、邪馬台国と大和は別々の地方に存在した、別個の国であったと判断することができます。

 

 その一方、三国志・魏志倭人伝では、中臣氏と思われる氏族が登場します。

「邪馬台(壹)国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月なり。官に伊支馬(いくめ)あり。次を弥馬升(うましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかし)と言い、次を奴佳鞮(なかと。「中臣」か「中跡」の説がある)と言う。」

 「奴佳鞮」が「中臣」であったとするなら、中臣氏は邪馬台国の氏族であり、中臣氏の根源地がはっきりすれば、邪馬台国の所在地も明らかになるわけです。ですから、中臣氏の出身地が吉備であることを実証できれば、邪馬台国は吉備だったことになります。

 

 ところが中臣氏の神々の分布は複雑です。

 タケミカヅチとフツヌシはイザナギ・イザナミ神話に登場しますが、その舞台風景から発祥地は中国山地から産出されるされる銅と錫を使った青銅産業が盛んだった吉備の津山盆地地域を連想でき、近くの赤磐市にフツヌシを祀る石上布都魂神社もあります。アメノコヤネの根源地も美作から備前を流れる吉井川流域を推定できます。

 神社の祭神から見ると、武神タケミカヅチは常陸国の鹿島神宮、剣神フツヌシは下総国の香取神宮、祭祀神アメノコヤネは河内国の枚岡神社が根源地で、奈良時代に創建された春日神社は3神を祀り、フツヌシは奈良県の石上神社の祭神でもあります。これから判断すると、タケミカヅチは茨城県、フツヌシは千葉県と奈良県、アメノコヤネは大阪府が根源地となります。

 

 吉備の津山盆地と吉井川が、関東地方や河内、大和とどのようにつながっているか。これが邪馬台国の所在地と、弥生後期・終末期の「倭国」から古墳時代早期・前期の「大倭国」に移行していく謎を解読していく鍵の1つと私は確信しています。

 

(考古学主体となってしまった古代史研究への疑問)

 日本の古代史研究は、文献学が「欠史八代説」という誤った想定が足かせとなって先に進むことができなくなってしまったことも一因となって、1990年頃を境に、主体は文献学から考古学へと移行し、今日では、考古学的な見地や発見物だけから、古代史を解明できると思い込んでしまわれた方が多くなってしまったような気がします。

 

 問題は、考古学的な見地や発見物からだけで、日本文化・社会の曙時代を解明できるか否か、にありますが、常識に沿って考えてみると、「解明できない」という答えになります。

 古代史研究においての考古学は、企業で例えるなら 技術研究部門に相当すると言えます。測定器を使用したり、他の出土物や他の地域と比較検討しながら、出土物の時代を技術的に実証しながら割り出していく部門です。しかし企業は技術部門だけで成立しえるものではなく、製造、営業、総務、経理などの他の部門の機能も含めて、初めて成立します。

 

 この図式は、国家や社会組織にもあてはまります。「文献(古事記、日本書記、風土記、古語拾遺、国造本紀など)」や、延喜式以前から存在する「神社の歴史(由緒)や伝承」は迷信あるいは後世の意図的な造作と軽視するのではなく、考古学的な発見がそれらとどのようにつながり、関連し合っているのかを追っていくのが、本道です。神話に登場する神さまの発祥地探しや神社に祀られている神さまの分布を比較分析していく手法は、非科学的な迷信に首をつっこむ邪道であると判断されている方々の頭の中の方が、非科学的である場合もありえます。

 

 ここ数年、考古学会の主流派にあたる先生方が「纒向(まきむく)邪馬台国首都説」を提唱されていますが、文献や神話・神社史にある程度精通しているなら、この説は「欠史八代説」という誤説にもとずいた見当違いの推論にすぎないことが歴然です。ところが新聞・テレビ・大手出版社など、いわゆるマスコミの記者・編集者のほとんどが、考古学専攻の方々になってしまったのでしょうか、したり顔で公表される「纒向首都説」に振り回されておられるだけで、この誤りを指摘する記事・コメントを拝見したことがほとんどありません。「原発は絶対に安全です」と主張しないと、原発業界の中で生活ができない雰囲気になってしまったことが、東日本大震災時の誤判断につながり被害が拡大してしまいましたが、それに似たような雰囲気が古代史研究の世界を覆っているように感じます。

 

 「国外在住者に何が分かるか」と、ガラパゴス諸島的な排他性の強い意見もあるでしょうが、ここ10数年のインターネットの発展の恩恵により、国外にいても資料収集が格段にしやすくなりました。澱んだ社会に住んでいるより、外から俯瞰した方が、正確な把握ができる場合もあります。

         参照自説の要旨邪馬台国大和説は渡来系漢籍学者の想定にすぎなかった

 日本に帰国した際に集中的に全国を歩き回っていますが、国内は殻の中に閉じこもってしまう傾向が強まっているように歩きながら感じることが懸念となっています。

 世間の風や流れにさからう形になっていますが、道のりは長くとも、「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」を様々な角度から検証していきながら、理解者を一人、一人、増やしていくしかない、と気を新たにしています。

  

 

[1]呉越族の到来    (弥生前期前半:前473年~前300年頃)

    (参照 「広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 

          第3章 俗説・風説の検証3-(2)1、第4章 吉備邪馬台国の歴史)

 

1.本格的な弥生時代は華中文化の直接渡来で始まった

             (弥生前期前半:前473年~前300年頃)

 約1万年間続いた縄文時代から弥生時代への移行が、西暦何年頃から始まったか、については諸説があり、結論は出ていない状況です。

 1990年代頃までは弥生前期は前300年から前100年、中期は前100年から100年、後期は100年から300年と、200年単位で前期、中期、後期が区切られていました。その後、前期の前に早期が加わり、開始時期がどんどん早まっていきます。2003年には北部九州では前1000年頃から早期ないし前期が始まった、とする大胆な説も発表されています。

 

 陸稲は縄文時代後半には伝来しており、水稲耕作も前1000年説は行きすぎとしても、かなり古い時期から朝鮮半島から伝わっていて、弥生時代早期が始まったことは間違いがないようです。しかし本格的な弥生時代が始まる前期前半は、環濠集落の形態等の各種要素を総覧してみると、朝鮮半島からよりも、中国の華中にあたる揚子江(長江)下流域(江蘇省と浙江省)の影響が濃厚で、弥生時代の本格的な幕開けは華中の沿岸地域の住民が日本列島に直接渡来して伝えた、と推定できます。これにもとづいて、弥生早期の開始時期は差し置くとして、弥生前期は「前473年~前180年頃」、中期は「前180年~75年頃」、後期は「75190年頃」、終末期は「190年~266年頃」、を一応の目安と私はして います。

 

2.華中文化(呉越族)であることの裏づけ

 弥生文化の基調である環濠集落、高床式住居、ジャポニカ米、石包丁、餅、こうじ酒、なれずし、亀甲・鹿骨を使った骨占い、鵜飼、歌垣などは、湖南省、貴州省、雲南省など中国南部やインドシナ半島に広がる百越文化と類似性を持つことは周知の事実です。風貌や体格を見ても多くの日本人が百越民族と似ていますし、イザナギ・イザナミの国生み神話も百越文化圏や南太平洋に浮かぶミクロネシア諸島等に残る神話と似ている点が指摘されています。

 

 金属は青銅器と鉄器がほぼ同時期に伝わりますが、青銅器生産技術が発展します。鉄の精錬技術は中国では戦国時代に伝わりますが、一般化するのは前漢時代からです。日本列島に到来した華中の住人は青銅の製造・加工技術は持っていたが、鉄の精錬技術はまだ知らなかったことになります。

 家畜は鶏と豚が伝来します。牛と水牛は重すぎて舟には乗せることができなかったのでしょう。ちなみに犬は縄文時代から存在し、猫は奈良時代の伝来です。 鵜飼は雲南省などにも存在しますが、日本では海鵜、雲南省では川鵜を使用する違いがあります。

 養蚕と絹織物は、布目順朗氏(京都工芸繊維大学名誉教授)の「絹の東伝」を参照にしますと、弥生中期の弥生絹は華中系で、 弥生後期に華中系は駆逐されて、華北・楽浪系になります。弥生前期前半に華中の呉越族が養蚕と絹織物を伝えたことを実証する出土物はまだ出現していませんが、中国での養蚕はすでに前4000年以上も前から存在していたことも考慮しますと、呉越族が華中系の技術を伝えた可能性も充分にあります。

 

3.呉と越の滅亡で発生したボート・ピープルの移住 

 どうして華北、満州、朝鮮半島南部ではなく、華中から海路で直接、弥生文化が到来してきたかを考えていくと、呉と越の滅亡で発生したボートピープルの集団が思い浮かびます。

 江蘇省と浙江省北部の沿岸から沖合いに出て、陽が上る東に向けてまっすぐ進むと対馬暖流にぶつかり、後は流れが速い対馬暖流に乗って五島列島、対馬、壱岐、九州北部、さらに日本海沿岸に到着します。

 呉越族の到来は、呉(江蘇省)の滅亡(前473 年)、越(浙江省)の滅亡(前334年)ないし衰亡をきっかけとした二段階に分かれますが、前5世紀から前4世紀の百数十年とかなり長い間にわたっている、と私は想定しています。

 

(呉のボート・ピープルの到着先は済州島、朝鮮半島南部と九州北部)

 510年に江蘇省を地盤にした呉と浙江省を地盤とした越の間で戦争が始まります。当初は呉が優勢で、前494年に呉王・夫差が越王・勾踐を大破しますが、その時、夫差が勾踐の首をはねなかったことが、呉の滅亡につながっていきます。敗北した勾踐は苦い肝(きも)をなめることで屈辱を忘れないようにしながら国力を回復させ、前473年に宿敵の夫差を破り、呉は滅亡します。

 この時、江蘇省沿岸地域に住む呉の住民は村が敵に襲われるか、先行きにみきりをつけて舟で沖合いに逃れ、ボートピープルとなって済州島、朝鮮半島南西部、対馬、壱岐、九州北西部や北部沿岸にたどり着きます。逃亡は一度期ではなく、さみだれ式で、みきりをつけて船出した場合、準備期間がありますから、かなりの資材や植物、家畜を舟に積むことができます。

 

(越のボート・ピープルの到着先は本州)

 呉が敗れた後、越は呉の領土(江蘇省)へも進出し、前380年には首都を呉の故地に移します。次第に西の楚との争いが強まり、一説では前334年に楚が越を滅ぼした説があり、別の説では前329年に楚の威王が越王・無彊を破った後、越は衰亡していきます。楚の脅威は、越が呉を破った時よりも激しく、大量の越人の逃亡・亡命があったようです。揚子江河口地域の江蘇省と 浙江省の住民は舟で沖に出て、対馬暖流に乗ります。揚子江から南の住民は、南方の諸島か、西南の山岳地帯へと逃れ、百越となります。

 北部九州に流れ着いた越族は、呉からのボートピープルに較べて、件数、人数とも多かったこともあり、すでに呉族が定住していた北部九州沿岸地域への上陸を諦め、対馬暖流の流れに乗って日本海を北上するか、関門海峡を抜けて瀬戸内海に入り、東端の淡路島までに達します。その流れは紀伊半島を越えて、伊勢湾に至った可能性もあります。

 

4.魏の来訪者が瀬戸内海諸島と琉球諸島とを混同した理由

 弥生中期に入ると、中国の華北の影響が強まった朝鮮半島からの文化が流入しますが、呉族と越族の違いが、銅矛圏と銅鐸圏の違いなど、九州と近畿地方の文化の相違につながる、と考えることもできます。

 弥生終末期になって、魏や帯方郡の使者や商人が朝鮮半島と倭国の間を行き来するようになりますが、海人(漁師)の風貌や潜水、フンドシ、入れ墨が華中や華南の風俗とよく似ていることに驚きます。さらなる驚きは、北部九州から関門海峡を抜けて、瀬戸内海を東に進むほど、華中南方の風俗が強まっていくことでした。瀬戸内海を東に向かっているはずなのに不可解でしたが、東ではなく南に向かっているのだろうと思い込んだ人もいたことが、瀬戸内海諸島と琉球諸島の混同につながった気がします。

 

 

[2]イザナギ・イザナミ神話の誕生・拡散と富(とみ)族の勃興 

                 (弥生前期後半:前300年~前180年頃)

      (参照広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第4章 吉備邪馬台国の歴史)

 

1.イザナギ・イザナミ神話の誕生

 

 瀬戸内海の東端に位置する淡路島周辺にたどりついた越族は、葦が生えた中小河川の流域を開拓して村と水田を作りながら、幾世代をかけて国生み神話を創作していきます。銅鐸の起源は牛の首につけた鈴で、登場は前200年前後と言われていますが、重すぎて舟には乗せることができなかった牛の思い出の鈴の金属音が土着の縄文人も引きつけたことから、イザナギ・イザナミ神話の誕生と合わせて祭祀用に発展していきます。

 

 イザナギ・イザナミが登場する前に登場する独神クニノトコタチ(大地)、クニノサツチ(土)、トヨクムネ(稲の豊饒)、ウマシアシカビヒコヂや、カップル神ウヒヂニ・スヒヂニ(泥)、ツノグヒ・イククヒ(杭)、オオトノヂ・オオトマベ(殿)、オモダル・カシコネから、越族が葦原から村を作っていく姿が連想できます。古事記や日本書記第4書ではアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビも登場するため、頭が混乱してしまいますが、3神は大和支配が固まった後に挿入するか入れ替えられたものと判断するとすっきりします。

 最後のカップルとしてイザナギ・イザナミが登場します。天の神々が「漂う国を修理し、固めよ」と詔をして、イザナギ・イザナミに天の沼矛(ぬぼこ)を授けます。2神が天の浮橋に立って、沼矛をさし下ろしてかき混ぜると、しずくからおのころ島が誕生します。おのころ島に降り立った2神は夫婦となりますが、女性が先に誘ったことから蛭子が生まれ、やりなおして男性が先に誘うと、淡路島、四国の順で日本列島が誕生します。次に自然の神々を生んでいき、太陽神オオヒルメ(アマテラス)、月神ツキヨミ、海(嵐)神サスノオの三貴神の誕生も誕生します。

 

 三貴神は、日本書記本文では自然の神々と一緒にイザナギの死の前に誕生し、古事記ではイザナギが黄泉路から戻った後の禊で誕生します。どちらが本来の筋書きだったか見解が分かれますが、古事記では禊で3貴神が誕生する前に4世紀後半の神功皇后時代に台頭した安曇族と住吉神の神々が登場しますので、応神朝の時代に編集されたものとと見られます。自然の神々と合わせて誕生する日本書記本文の方がより自然で素直な筋書き、という印象を与えます。

 

 イザナミは火の神ホノカグツチを生んだ時、陰部を焼かれて亡くなり、紀伊半島の熊野市の花の窟から黒潮のかなたの海中にある根国に送られます。

 国生み神話は、おのころ島創造神話がポリネシアを中心にしたメラネシアやミクロネシアに、天の御柱を廻る儀礼や蛭子が生まれる伝承などが中国南部から東南アジアに存在することから、越族系の渡来者がもたらしたことは確実でしょう。

 

 淡路島周辺にたどりついた越族の初代と二代目が語る故郷の思い出や伝承が三代目以降に語り継がれていき、土着の縄文人と融合しながら、国生み神話が形成されていきます。越からのボートピープルが淡路島周辺に辿り着いたのが前334年頃で、1世代を20年平均で計算すると6世代後は120年後の前214年頃になり、越文化と縄文文化が融合して発酵していく時間として妥当な期間と言えます。

 

2.イザナギ・イザナミ神話の発祥地は淡路島周辺

 どうして発祥地が淡路島周辺だ、といえるのか。神話だから、実際の具体的な場所は不明でも当然である、筑紫(九州)とする見方もありえる、という意見もあります。

 

 淡路島周辺以外のイザナギ・イザナミの関連地を調べていくと、近江に多賀大社、筑紫に太祖神社と飯森神社、富山県に雄山神社、茨城県に筑波山神社がありますがいずれも単発的です。

 これに対し、淡路島には幽宮(かくれみや)の伊奘諾神宮、豊饒な農地が多い南あわじ市にはおのころ島神社があります。おのころ島の候補地は南端に浮かぶ沼島(ぬしま)が最有力ですが、おのころ島に続いて淡路島と四国が誕生することも発祥地が淡路島周辺であることを裏づけます。イザナギは流れが速い海峡を避けて流れがゆるやかな場所で禊をした場所も明石海峡、鳴門海峡と友ヶ島水道の可能性が高く、対岸の紀伊半島には熊野川河口に熊野速玉神社、熊野市に花の窟(いわや)神社があり、阿波にもうっすらとですが吉井川流域にイザナギ・イザナミの面影が残っています。

 

 次に密集度が高いのは、美作・中国山地と出雲地域です。美作に那岐山・諾(なぎ)神社、日咩坂鐘乳穴(ひめさかかなちあな)神社、備後の庄原市と伯耆の安来市の2か所に比婆山、東出雲に神魂(かもす)神社、揖屋神社・黄泉比良坂(よもつひらさか)、西出雲に黄泉の国への入り口とされる猪目(いのめ)洞窟があります。このことから、発生地の淡路島から美作を経て出雲に至るルートがイザナギ・イザナミ神話ルートであると言えます。

 

3.イザナギ・イザナミ神話の拡散

 イザナギ・イザナミ神話は銅鐸と水稲文化と共に淡路島周辺から東は近江、西は中国山地へと内陸部に広がっていきます。中国山地ルートに較べて、近江ルートはあまり発展が見られませんが、加賀国(石川県)の一の宮、白山比咩咩神社が祀るククリヒメ(菊理媛)はそのなごりではないか、という気がしています。

 

 イザナミが亡くなった後、怒ったイザナギがホノカグツチを斬って誕生する話や黄泉路に行ってイザナミに出会って逃げ帰る話はどうなったのか、イザナミが葬られた地は紀伊半島の花の窟ではなく、中国山地の比婆山ではないか、と疑問を抱く方もおられるでしょう。

 古事記でイザナギが十拳剣(とかちつるぎ。タケミカヅチの父神イツノオハバリ)でホノカグツチの首を斬る場面を読むと、剣の先についた血が湯津石村に流れて3神、剣の元についた血からミカハヤヒ、ヒハヤヒ、タケミカヅチ(またはタケフツ)の3神、剣の柄(つか)についた血から2神が生まれます。以上の8神は剣(刀)から生まれた神です。その後、イザナギは黄泉の国に入り、待ちくたびれて火をともしてみると、イザナギの死体に蛆(うじ)がたかっています。驚いたイザナギは地上に逃げ帰りますが、黄泉醜女(よもつしこめ)とイザナミが追ってきます。

 

 この風景を思い浮かべてみると、発生地は青銅ないし鉄製の剣が製造され、陰湿な黄泉路への入り口(鍾乳洞)がある地域ということになります。イザナミの死後の国は海の彼方の根国ではなく、黄泉の国に変化しています。これに適った場所を探していくと、 瀬戸内海と出雲を結ぶ間にあり、鍾乳洞が多い中国山地に接する津山盆地が候補に挙がってきます。

 イザナギが腰に帯びた十拳剣も含め、鋳造された剣は青銅製か鉄製かは分かりませんが、中国山地は花崗岩が風化してできた砂鉄だけでなく、青銅の原料となる銅と錫(すず)も産出したことから、津山盆地が素材の集積地と加工地となったようです。これは、イシコリドメを祀る中山神社、剣神フツヌシとヤマタノオロチの尾から出現した草薙剣に関わる石上布都魂(いそのかみふつのみたま)神社の存在からも裏づけられます。津山盆地で水稲だけでなく、養蚕と倭文(しどり。絹と麻の交織物)など絹織りも発展します。

 

 イザナギがホノカグツチを斬って神々が生まれる場面とイザナミの黄泉の国神話は津山盆地で発展した後、伯耆・東出雲と備後北部の2方向に伝わった、と想定すると比婆山が伯耆国境と備後北部の2か所にある理由も明確となります。

 

4.津山盆地での富族の勃興

 果たして、弥生前期末から中期初めに、津山盆地周辺で中国山地の銅と錫を使った青銅器の鋳造があったか否か、すでに板状の鉄素材から鉄剣を作りだす技術が存在したか否かは、残念ながら発掘物から実証できていませんが、武神と剣神が誕生した頃は銅剣だったが、後に鉄剣が伝わって物語が脚色されていったことも考えられます。

 

 津山盆地が青銅機器の製造地、絹織物の生産地として経済的に発展していく過程で、津山盆地周辺を統括する武人として武神タケミカヅチと剣神フツヌシを氏族神とする「富(とみ)族」が成長していきます。

 「富族」の名は初耳の方が多いと思いますが、津山盆地を流れる吉井川流域に「富」がつく地名が多いことが「富族」の名残ではなかろうか、と推定しています。上流に富村(とみそん。現・鏡野町)や富西谷、富東谷、富仲間があり、たたら製鉄の地として知られます。中流に万富、斎富、徳富、福富、富田、富岡、下流に大富、富崎、他の地域に富谷、倉富、福富などがあります。私が調べた限りでは「富」がつく地名がこれほど密集している地域は吉井川流域以外は、日本国内で見当たりません。

 下流に「大富(おおとみ)」の地名があるなら、中流に「中富(なかとみ)」の地名があったとしても、おかしくはありません。富族は津山盆地から東にも伸張していった、と想定すると、河内から大和にかけての生駒山北麓を拠点とした物部氏の「登美(とみ)」王国との関連も出てきます。

 

 

[3]北部九州のムスビ族の興隆と拡散 

       (弥生中期前半:前180年~前100年頃)

    参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第4章 吉備邪馬台国の歴史)

 

1.朝鮮半島の変化

 弥生前期は中国の揚子江下流域の呉越族の渡来により始まりましたが、弥生中期に入ると対馬、壱岐、北部九州を窓口として朝鮮半島と中国北東部の影響が強まっていきます。

 影響が強まった理由は前221年に秦の始皇帝が中国を統一したことがきっかけです。秦の始皇帝は北部朝鮮に隣接する山東半島の斉、遼東半島の燕も支配下に置いたことから、東方への関心や影響が強まります。不老不死の仙薬を求めて船出した徐福伝説もその一例です。

 始皇帝が前210年に他界した後、秦の圧制に不満を抱いていた各地の豪族や民衆が蜂起し、その中から出た楚の項羽が秦を滅亡させますが、同じ楚の農民出身の劉邦が項羽を破り、秦に替わる前漢を前202年に始めます。この動乱の中で、秦政権のお先棒をかついでいた斉や燕、趙にいた官僚、豪族や武人は朝鮮半島に逃げ込みますが、その数は数万人にのぼると伝えられています。

 

 前195年、燕王が前漢に背いて匈奴に降伏したことから、燕王に仕えていた衛満は自分にも危険が迫ったため北部朝鮮を支配していた箕(き)氏朝鮮に逃亡します。箕氏朝鮮の箕準王に取り入った衛満は中国との国境地帯に亡命者コロニーをまとめあげ、策略で準王を追い出してわずか1年弱で衛氏朝鮮を建国します。韓族が住む南部朝鮮へと逃げ込んだ亡命者は秦の末裔を自称しながら、後の辰国の母体を作っていきますが、衛氏朝鮮は南部朝鮮地域も服属させていきます。

 86年を経た前109年、東西南北で領土拡大を進めた前漢の第七代武帝は、北部の匈奴を破った後、東部の朝鮮半島に攻め込んで衛氏朝鮮を滅ぼし、玄菟郡、楽浪郡、真番郡、臨屯郡の4郡を設けます。半島西南部に設置された真番郡は前82年と、わずか27年後に消滅し、半島南西部の馬韓に50余国、南端部の弁韓に12国、南東部の辰韓に12国が勃興していきますが、亡命者集団が築いた辰国が前漢から真番郡を引き継いで三韓地域を統括した、と私は推定しています。

 

2.北部九州の発展と倭族

 秦の中国統一、北部朝鮮での衛氏朝鮮の成立、南部朝鮮での辰国の母体の誕生、さらに前漢の武帝の朝鮮植民地化により、中国北東部の影響は対馬暖流を越えた対馬、壱岐、北部九州へも大きな影響を及ぼし、半島との交易が飛躍的に発展していきます。

 対馬、壱岐、北部九州の住民は「倭族」、「倭人」と呼ばれ、次第に日本列島全体をさして倭国と呼ばれるようになります。

 

 中国商人は伽邪地方を拠点に中国人が好む干しアワビやナマコ、真珠、ヒスイ、水銀朱などを輸入します。半島からの輸入品は銅鏡、青銅器、鉄器、絹織物などの舶来品が移入します。養蚕と織物も高度な技術が北部九州に伝わり、高殿の建築や井戸の掘削技術なども伝わります。馬韓、弁韓地方の国の勃興に連動して、対馬国、壱岐国に次いで、北部九州の沿岸に沿って末盧(まつろ国)、伊都国、早良国、奴国、粕国、宗像国、崗国(遠賀川)、聞国と国が誕生して行き、倭国の中心部を形成します。

 伊都国が国際貿易の窓口、奴国が産業都市として倭族の中心。宗像国は本州を結ぶ交易の役割分担が確立します。舶来品は伊都国に入り、奴国で加工され、宗像国から各地に輸送される。

 

 通常なら、国同士の争いから強国が抜け出して統一していくのが普通ですが、北部九州では1国が統一する方向には進みませんでした。その理由は、北部九州は山岳部が多く、平野部が少ないため、大規模農業が発展せず、戦争の際に兵士となる農民が少なかったことによります。経済発展に伴い、北部九州では人口が増加していきますが、次第に新天地を求めて九州東南、日本海、瀬戸内海地域へと流出するようになりますが、先端文化と技術を帯同する倭族は各地の首長たちから歓迎されます。

 

3.倭族が信奉したムスビの神々

 確証はまだつかみきれていませんが、北部九州の倭族はタカミムスビ、カミムスビに代表される「ムスビ」の神々を信奉しており、ムスビの神々の根源地は対馬から奴国に至る北部九州ではないか、と私は推測しています。このことから倭族=ムスビ族と見なしています。

 ムスビ(産巣日、産魂、産霊)は「ムス」は「ウムス(産むす)の「ウ」が取れたものとされ、「自然に生成する」、「天地・万物を生成・発展させる霊的な働き」という意味合いを持っています。古事記では造化三神としてアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビがイザナギ・イザナミより先に登場しますが、イザナギ・イザナミ神話は弥生前期に淡路島周辺で、ムスビの神々は弥生中期前半に北部九州で発生したもので、系統が異なります。両者が大和政権の日本統一後に融合されたことから、日本神話が複雑になったと考えると、もつれた糸がほぐれていきます。

 

 ムスビの神々として、タカミムスビ(高御産巣日)、 カミムスビ(神産巣日)、コゴトムスビ(興台産巣日)、ワクムスビ(和久産巣日)などが挙げられます。タカミムスビとカミムスビは対をなしていて、男女神、荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)、兄弟神、父子神など諸説があります。

タカミムスビ(高御産巣日)

  :アマテラス神話の主役。娘神がアマテラスの長男アメノオシホミミと結婚し、ホノニニギを産みます。忌部系のアメノフトダ

   マ、オモイカネの父神でもあります。

カミムスビ(神産巣日)

  :出雲風土記に頻繁に登場します。

コゴトムスビ(興台産巣日)

  :中臣系の神で、ツハヤムスビ(津速産霊)―イチタマ(市千魂)―コゴトムスビ(コトムスビ)―アメノコヤネの系譜です。ツ

   ハヤムスビは古事記と日本書紀には登場しませんが、忌部氏系の古語拾遺では、アメノミナカヌシが始原神、タカミム

   スビが長男、ツハヤムスビが次男、カミムスビが三男として天中に存在した、と伝えます。

ワクムスビ(和久産巣日)

  :火に焼かれたイザナミの小水からミツハノメと一緒に誕生し、丹波の元伊勢籠神社の祭神から伊勢神宮外宮に勧請さ

   れるトヨウケの母神です。イザナギ・イザナミ神話で登場しますが、カミムスビと同じ日本海の流れに沿って丹後半島に

   伝わった可能性も考えられます。

タマツメムスビ(玉積産日)、イクムスビ(生産日)、タルムスビ(足産日)

  :宮中八神のうち五神タカミムスビ、カミムスビ、タマツメムスビ(玉積産日)、イクムスビ(生産日)、タルムスビ(足産日)とし

   て知られますが、詳細は不明です。

 

4.倭族とムスビの神々の拡散

 参考までに、国造本紀でムスビ系氏族の国造の分布を一覧してみます。時代は前180~前100年頃と3世紀後半~4世紀前半との違いがありますが、北部九州の倭族がムスビの神々と先端技術を携えて西日本各地に拡散していった痕跡をうっすらと残しています。

 

タカミムスビ系:対馬、宇佐、阿波、大和葛城、武蔵国秩父。

   宇佐国造と葛城国造は神武東遷に関連します。知々夫国造は大和による日本統一後の設定でしょう。粟国造はタカ

   ミムスビはアメノフトダマの父神であることに関連するようです。

津嶋縣直:(長崎県対馬)(神武朝)初代はタカミムスビ5世孫・建彌己己。対馬市に高御魂(たかみむすび)神社があります。但し古事記では津嶋縣直の祖はアメノホヒ系になっています。

宇佐国造:(大分県宇佐)(神武朝)初代はタカミムスビの孫・宇佐都彦。神武東遷で登場。

粟国造:(徳島県)(崇神朝)初代はタカミムスビの9世孫・千波足尼。

葛城国造:(奈良県葛城)(神武朝)初代はタカミムスビの5世孫・剣根(つるぎね)。

知々夫国造:(埼玉県秩父)(崇神朝)初代はタカミムスビの子神オモイカネの10世孫・知知夫彦。

 

カミムスビ系:葛津、石見、淡道、紀伊

   カミムスビは出雲系のイメージが強く、なぜ淡路島と紀伊が出てくるかは不明ですが、神祝(かむほおり)はカミムスビと

   同神とする説をとると、愛媛県、岡山県、淡路島、和歌山県とつながります。

葛津国造:(佐賀県。鹿島市・嬉野市)(成務朝)紀直の同祖。初代は大名茅彦の子・若彦。

石見国造:(島根県西部)(崇神朝)紀伊国造の同祖。初代は蔭佐奈朝の子・大屋古。

淡道国造:(兵庫県淡路島)(仁徳朝)初代はカミムスビの9世孫・矢口足尼。

紀伊国造:(和歌山県)(神武朝)初代はカミムスビの5世孫・天道根。

 

神祝(かむほおり)系:天草、阿武、久味、吉備中懸、大伯

   古事記や日本書記には登場しませんが、カミムスビと同神とする説があります。

天草国造:(熊本県天草)(成務朝)初代は神祝の13世孫・建嶋松。

阿武国造:(山口県萩市)(景行朝)初代は神祝の10世孫・味波波。

久味国造:(愛媛県松山市・東温市)(応神朝)初代は神祝の13世孫・伊與主。

吉備中縣国造:(岡山県伊原市)(崇神朝)初代は神祝の10世孫・明石彦。

大伯国造:(岡山県瀬戸内市・岡山市・備前市)(応神朝)初代は神祝の7世孫・佐紀足尼。

 

5.吉備のアメノコヤネと讃岐・阿波のアメノフトダマ

 筑紫から瀬戸内海に入ったムスビ系のうち、備前の吉井川に入ったムスビ族は、コゴトムスビ(興台産巣日)系とタカミムスビの子神アメノフトダマ系の2グループだったようです。 

 コゴトムスビ系は初代のツハヤムスビ(津速産霊)―イチタマ(市千魂)―コゴトムスビ(コトムスビ)と続き、四代目がアメノコヤネとなりますが、神の言葉を仲介する役割を果たしています。 

 アメノフトダマを信奉する忌部系は奴国の工人、技術者だったのではないか、と仮定すると、忌部系は讃岐・阿波から出雲に移住したのではなく、北部九州の奴国から日本海と瀬戸内海の各地に拡散したことが分かります。吉井川支流の吉野川の上流に粟倉の地名は忌部系との関係を匂わせます。阿波の吉野川、紀ノ川上流の吉野川も忌部系につながるようです。

 

 吉井川を上ったムスビ族は富族と遭遇しますが、太陽信仰が厚い旭川上流の中国山地の首長たちが銅鏡に垂涎します。コゴトムスビ系は支流の吉野川と合流する吉井川中流にある周匝(すさい)地域に定着し、富族と融合して祭神アメノコヤネ、武神タケミカヅチと剣神フツヌシの3神を祀る中臣(中富)氏が誕生します。

 

 

[4]天石屋戸神話の舞台

            (弥生中期半ば:前100~前50年頃)

     参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第4章 吉備邪馬台国の歴史)

 

1.アマテラスとスサノオのウケイ(誓約)の対決

 イザナギとイザナミが生んだ日神オオヒルメ、月神ツキヨミ、嵐神スサノオの3貴神のうち、オオヒルメとツキヨミは天界の昼と夜を司る神として天に送られますが、スサノオは泣いてばかりいます。業を煮やしたイザナギは海の彼方にある根国行きをスサノオに命じます。スサノオは根国に行く前に姉オオヒルメに暇乞いをしようと思い立ち、天に上ります。

 暗雲が天に向かってくるのを見た日神は武装してスサノオを待ち受けます。スサノオは「私はただ暇乞いの挨拶に上ってきただけ」と釈明しますが、日神の猜疑は溶けません。「それなら、ウケイ(誓約)をして、身の潔白を証明しましょう」とのスサノオの申し入れで二神はウケイをします。

 

 ウケイ篇の古事記、日本書記の本文と第1書~第3書の内容は、スサノオの潔白を証明するのは女子か男子の誕生のどちらか、剣から女子、玉から男子が誕生するのかその逆か、両神が噛み砕く剣と玉の保有者はどちらか、で微妙な違いがあります。書紀第3書と書紀・天石屋戸第3では誕生する男神はイザナギの剣についた血からミカハヤヒ、タケミカヅチと誕生するヒノハヤヒ(熯速日)を加えて6神となっており、オリジナルの筋が異なる伝承者の都合によって変化したことが物語っています。

古事記

  :日神がスサノオの剣を噛み砕くと宗像三女神、次にスサノオが日神の玉の緒を噛み砕くと五男神が生まれます。スサノオの剣から生まれた子が女神だったことから、スサノオの潔白が証明され、勝ち誇ったスサノオは狼藉を働きます。

書紀本文

  :スサノオは「私が生む子が女神なら邪心があり、男神なら潔白だ」と宣言します。日神がスサノオの剣を噛み砕くと宗像三女神、続いてスサノオが日神の玉の緒を噛み砕くと五男神が生まれます。日神は「五男神は私の玉の緒から生まれたから私の子、三女神はあなたの剣から生まれたからあなたの子」と宣言します。

書紀第1

  :ウケイを受け入れた日神は「あなたが潔白なら、あなたが生む子は男神に違いない」と宣言します。日神は自分がはいた剣を噛み砕くと三女神、スサノオが自分につけた玉の緒を噛み砕くと五男神が生まれます。日神はスサノオの潔白を認め、自らが生んだ三女神を筑紫に降臨させます。

書紀第2

  :スサノオが天に昇るろうとした時、ハカルタマ(羽明玉)が日神に献上する勾玉を手渡します。スサノオは「私が生む子が女神なら邪心があり、男神なら潔白だ」と宣言します。日神がスサノオが献上した勾玉を噛み砕くと三女神が、スサノオが日神が渡した剣を噛み砕くと五男神が生まれます。

書紀第3

  :日神は「あなたに邪心がないなら、男神が生まれる。男神なら私の子として天原を治めさせよう」と宣言します。日神が自分がはいた剣を噛み砕くと三女神が、スサノオが自分につけた玉の緒を噛み砕くと六男神(ヒノハヤヒが追加)が生まれます。日神はスサノオの潔白を知り、六男神を日神の子として天原を治めさせ、自らが生んだ三女神を宇佐嶋(沖ノ島)に降臨させます。

書紀・天石屋戸第3

  :追放されたスサノオは風雨の中をさまよった後、姉に会いに再び天に上ります。「もし私に邪心があるなら、私が生む子は女神である。その場合、女神を葦原中国へ下したまえ。潔白であるなら、男神が生まれる。その場合、男神に天上を治めさせたまえ」とスサノオが宣言します。スサノオは自分の玉の緒を噛み砕いて六男神を生んだ。「私が清い心で生んだ男神を姉にたてまつる」と宣言して、地上に戻ります。

 

 古事記では「スサノオは日神の玉の緒から五男神を生みますが、日神が生んだ三女神は自分の剣から生まれたから、我が身は潔白」と勝ち誇る筋は、まわりくどい表現になっています。五男神の第一神が 正哉吾勝速日(まさかあかちはやひ)天忍穂根(あまのおしほね)とあるように、書紀と同様に 古事記でも「男神が生まれたから、潔白」であったのを、古事記編纂時の持統天皇と公表時の元明天皇が女性だったことから、女性天皇を意識して「子神が女神だから潔白」に調整した可能性はあります。

 ウケイで誕生する三女神は筑紫を地盤にする海人の宗像族、五男神はオメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネなど大和の日本統一に関わる大和系譜の神々ですが、「アマテラス対出雲のスサノオ」の図式は大和の日本統一後、300年頃の政治的な状況にそって脚色されたものと考える自説では、吉備邪馬台国系の男神が大和系男神に入れ替えられたと解釈します。その裏づけの1つは、六男神に津山盆地が発祥の地と推定できるヒノハヤヒが登場することです。

 

2.天石屋戸神話の登場神と舞台

 ウケイ篇に較べると、スサノオの狼藉に恐れをなして天石屋戸に逃げ込んだ日神を外界に呼び戻す神話は古事記、日本書記(本文と第1~第3書)ともほぼ同じ筋書きとなっています。

 

 儀式に登場する神々を見ると、大和系のタカミムスビとオモイカネ、中臣系のアメノコヤネ、忌部系 のアメノフトダマ、機織女を連想させるアメノウズメ、鏡造りのイシコリドメ、玉造りのタマオヤ、アメノタヂカラヲとアメノイワトワケとなっています。これに日神とスサノオが生む宗像三女神と五男神を加え、後世の意図的な脚色を考慮しながら、舞台となった地域を探していくと、九州でも出雲でも大和でもなく、舞台は旭川と吉井川の2河川の流域、高天原は蒜山高原、発生の中心は武神タケミカヅチと剣神フツヌシが誕生し、ムスビの神も上ってきた津山盆地ではなかったか、とする説に至ります。

 

(津山盆地周辺の神社)

アメノコヤネ:高田神社(津山市上横野)

イシコリドメ:中山神社(美作国一ノ宮。津山市東一ノ宮)

アメノウズメ(別名オオミヤノヒメ):綾部神社(津山市綾部)、大美弥神社(鏡野町香々美)

アメノフトダマとタマオヤ(玉・勾玉造り)は忌部系ですが、吉井川の支流の吉野川の上流の粟倉村は忌部氏の存在を裏づけます。

アメノイワトワケ:天石門別神社(美作市滝宮)

宗像三女神:宗形神社(赤磐市是里)。スサノオがヤマタノオロチを斬った剣を洗った「血洗いの滝」のすぐ近くの山中にある延喜式以前から存在する古社。

 

(蒜山高原の神社)

 地元の岡山県でも支持者はごく少数ですが、高天原の有力候補である旭川の水源地である蒜山高原を見てみます。

日留(ひるが)神社(蒜山中岳の中腹にある「昼の祠」)、茅部(かやべ)神社(アマテラス。近くに天石屋戸がある)、徳山神社(アメノコヤネ、アメノフトダマ、アメノタヂカラヲ)、建部神社(アメノウズメ)、福田神社(スサノオ)、長田神社(スサノオ)。

 

 高天原は想像の場所であるから、特定の場所が存在する必要はない、とする意見もあるでしょう。中臣系と忌部系が中心になっている理由は、持統天皇と娘で古事記が公表された時期の女性天皇である元明天皇の時代に中臣氏が太祝詞主(ふとのりとごと)、忌部氏が太御幣(ふとみてぐら)を担当していたことに由来する、とする古事記成立頃の飛鳥時代末の影響とする説があります。しかし過去半世紀、欠史八代説と同様に、何でも飛鳥時代の宮廷の創作と判断することが先端的と見なす傾向が行き過ぎたきらいがあります。大和文化の前に、西日本ですでに吉備を中心に神道・祭祀体系が成立しており、ヒミコの時代の3世紀前半に天石屋戸神話の骨格は出来上がっていたと考えても違和感はありません。

 

3.中国山地の太陽信仰

 蒜山高原=高天原説を確認するために、中国山地を俯瞰していくと、高天原候補地は山陽側の各地域に存在しますが、出雲地方など日本海側には存在しないことが分かります。

 

1.蒜山高原(美作・備前)

  :「ひる」は太陽を意味する「昼」と解釈できる。伯耆と東出雲にも近い。風景的にも蒜山三山に日神が住み、眼下の蒜山高原に八百万(やおおろず)の神々が住んだとしても不思議ではない。

2.穴門山神社(備中)

  :高梁市川上町高山市。祭神はアマテラスとウカノミタマ(稲荷神)で御神窟と呼ばれる洞窟がある。元伊勢の名方浜宮の候補の一つ。

3.大土山(備後)

  :三次盆地に近く、天孫降臨伝説がある高天原の大岩の丘がある。江の川に接し、大田川支流の三條(みささ)川上流に位置する。

4.天磐門別神社(安芸):北広島市大朝町。江の川の水源に近い。

 

 中国山地には縄文時代から太陽信仰が存在したようでもあり、天石屋戸神話と似た神話は中国南部からアッサム(岡正雄説)、東南アジア(大林太良説)でも知られますから、弥生文化をもたらした越族がイザナギ・イザナミ神話と同様に、日本に伝えた可能性もあります。

 

天石屋戸神話の成立過程

 天石屋戸神話は、 日の御子(みこ)としての天皇霊の復活更新を祝った呪儀として、新嘗(にいなめ)祭の前日に行われる鎮魂(みたふり)祭として伝わっています。新嘗祭は西暦以降後は現在の勤労感謝の祝日である1123日に制定されましたが、旧暦では太陽の光熱が衰える冬至の頃、旧暦11月の中の寅日(旧暦118日頃、西暦1221日頃)にあたります。

 

 1つの可能性として、秋の台風襲来(農業神に対する暴風雨神の暴行)―太陽の衰え―太陽の復活、という冬至祭の儀式が、元々、中国山地の各地方に存在した。これに津山盆地にムスビ族が入って格式化され、その後、スサノオとヤマタノオロチ伝説が加わった、と見ることができます。

 銅と錫の産地である中国山地の太陽族と彼らを守る津山盆地の富族。ここに北部九州からムスビ族、次に鉄鉱資源を求めてスサノオ族が入り、鉄・銅資源をめぐる争乱が太陽族・富族とスサノオ族との間で発生し、ムスビ族とスサノオ族を舟で運んできた宗像族と中臣族と忌部族が一緒に仲裁して、スサノオ族が津山盆地から下っていった。この騒動を儀式化したのが、日神とスサノオのウケイと天石屋戸神話の原形になった、という荒筋を私は浮かべています。

 

 すると、スサノオ族とは何者か、という質問が出てきます。

 

 

[5]吉備スサノオ王国の誕生と勃興 

              (前5075年頃)

     参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第4章 吉備邪馬台国の歴史)

 

1.スサノオの降臨地は吉井川中流の高(神)ノ峰

 スサノオ神話で不可解なことは、悪業で高天原を放逐されたスサノオが地上に降臨すると一転して国土開発の善良な神となることです。また、以下のような種々の疑問点が浮かんできます。

 

ヤマタノオロチを退治して、尾から出現した草薙の剣をなぜ放逐された天神ないし日神に献上したのか。

古事記、日本書記本文と第1書では降臨地は出雲の簸の川上流の鳥髪(船通山)になっているが、書紀第2書では江の

  川と推定できる安芸の可愛(え)の川上、同第4書では息子神イソタケルを伴って新羅国、と降臨地は必ずしも出雲では

  ない。出雲風土記にもスサノオが出雲に降臨する話は登場しない。

書紀第3書の「スサノオの韓鋤(からさひ)の剣は吉備の神部の許にある。出雲の簸の川上の山これなり」は論理的に合

  いません。吉備の神部を赤磐市にある石上布都魂(いそのかみふつのみたま)神社とするなら、江戸時代まで旭川も「簸

  川」と呼ばれていた説にもとづいて、「吉備の旭川の川上」とするのが正しいと感じる。

スサノオの舅となるオオヤマツと后となるカミオオイチヒメは瀬戸内海系の神で、出雲や日本海側では見当たらない。

 

 前稿[4]で紹介したように、高天原が旭川水源の蒜山高原、天石屋戸神話の発祥地が津山盆地であるとすると、スサノオの降臨地は津山盆地から吉井川を少し下った、美作と備前の境にある高(神こう)ノ峯でないだろうか、とする結論に至ります。神ノ峯周辺には、上山宮、血洗の滝、宗形神社、石上布魂神社などスサノオ関連の神社が多く、周佐(すさ)と周匝(すさい)、八神(ねりがみ)の地名もあります。大蛇ヤマタノオロチの生息地は神ノ峯と石上布魂神社の間にある吉備高原ではなかろうか、と推定します。

 

(古事記・日本書記のスサノオの降臨とヤマタノオロチ篇)

古事記

  :スサノオは出雲の肥の河上、鳥髪(船通山)に降臨します。箸あるいは梭(ひ)が上流から流れてきて、オオヤマツミの

   子アシナヅチ、妻テナヅチ、娘クシナダヒメと出会います。夫妻には娘が8人いましたが、毎年、高志(こし)のヤマタノ

   オロチが来て、娘を食べていき、今がその時期と嘆きます。

  「私は日神の弟で天から降りてきた。ヤマタノオロチを退治したら、娘を娶る」と約束します。

   酒舟を用意した後、ヤマタノオロチが飲み干して酔って寝入った隙に、刀で斬りこみます。尾を斬ると刀の刃が欠けま 

   す。怪しいと尾を刺し引くと、草薙の太刀が出現し、日神に献上します。

   出雲の須賀に到って宮を造り、アシナヅチを稲田宮主スガノヤツミミと名づけます。

書紀本文

  :スサノオは出雲の簸の川上に降臨し、アシナヅチ親子に出会います。スサノオはクシイナダヒメを櫛に化成して髪に挿

   し、酒に酔ったヤマタノオロチを斬り、草薙の剣を天神に献上します。須賀に宮を建ててクシイナダヒメを結ばれ、オオ

   ナムチが生まれます。アシナヅチ・テナヅチを稲田宮主にした後、根国に行きます。

書紀第1

  :スサノオはスサノヤツミミの娘イナダヒメをめとり、スガノコヤマヌシ-ミナサルヒコヤシマシノを生み、5世孫がオオクニヌシ

   となります。

書紀第2

  :スサノオは安芸国の可愛(え)の川上に降臨します。アシナヅテナヅと妻イナダミヤヌシ-スサノヤツミミに出会います。草

   薙の剣は熱田神宮、オロチを斬った剣「蛇(おろち)の麁正(あらまさ)」は石上(天理市の石上か備前の石上)にありま

   す。娘マカミフルクシイナダヒメを出雲の簸の川上に遷して娶り、6世孫がオオアナムチとなります。

書紀第3

  :草薙の剣は以前はスサノオの許にあったが、今は尾張国にある。スサノオの剣は韓鋤(からさひ)の剣は吉備の神部の

   許にある。出雲の簸の川上の山これなり(但し吉備の旭川も江戸時代まで斐川と呼ばれていた)。

書紀第4

  :スサノオは息子イソタケルを帥いて新羅国に降臨し、曽尸茂梨(そしもり。古代朝鮮語で王都)に在住した後、埴土で舟

   を造って出雲国の簸の川上の鳥上の峯に到ります。スサノオは人を呑み込むオロチ(大蛇)を天蠅斫(あまのははきり)

   剣で斬ります。尾から出現した草薙剣を、5世孫アメノフキネ(天之冬衣、天之葺根)を通じて天に献上します。イソタケ

   ルは降臨する際に樹木の種を持参し、筑紫から始めて大八州に蒔いて青山にします。

書紀第5

  :スサノオは「韓郷(からくに)の嶋には金銀がある」と語ります。スサノオのヒゲから杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛か

   ら楠が生えます。木種を蒔いたイソタケル、オオヤツヒメ、ツマツヒメは紀伊国に渡ります。スサノオは熊成峯(朝鮮にも

   ある)から根国に入ります。

書紀第6

  :スサノオの子神はすべてで181神。オオナムチとスクナビコナ(タカミムスビの子)は力を合わせて天下を造ります(国土

   開墾神)。スクナビコナは熊野の御崎から常世郷に行き、その後、オオナムチは一人で各地を廻り出雲国に至ります。

 

2.スサノオ族の誕生と吉備スサノオ王国の膨張

 109年、前漢の武帝が朝鮮半島を植民地化して、半島南端まで中国文化が浸透してくるようになります。武帝が採用した政策は国の財政基盤として鉄と塩を専売化し、各地の大河川周辺の微高地の原野を開墾して農地を増やしていくことでした。この動きは約半世紀後の前50年頃には朝鮮半島南端の伽邪地方にまで波及していきます。

 

 ある時、伽邪地方で対馬海峡を越えた倭国に磁鉄鉱の産地がある、という噂が飛び交います。鉄資源を求めた荒(すさ)び者たちは北部九州に渡りますが、そこでも磁鉄鉱の噂話が飛び交っていました。磁鉄鉱はどうやら、瀬戸内海の中央に位置する吉井川流域から産出するようです。

 一攫千金を夢見る倭人の荒び者も加わって、宗像海人があやつる舟に乗って、吉井川流域に荒び者が大挙して押し寄せます。宗像海人の紹介とあって、中臣氏を筆頭に地元勢は上陸を許可します。磁鉄鉱は確かに産出するようです。吉井川中流の周匝(すさい)を基地として、荒ぶ者たちは津山盆地からさらに上流へ、中国山地へと進んでいきます。しかし各地を荒らしまわったことから、中国産地の銅と錫の利権を握る富族と太陽族との軋轢が生じます。

 

 そこで中臣氏と忌部氏が仲裁役となります。荒ぶ者たちも磁鉄鉱は確かにあるが、鉱脈は期待したほどの規模ではないことが分かったこともあり、仲裁に応じて周匝に引き返してきます。一部は北部九州に戻りましたが、伽邪地方で河川流域の微高地の開墾を経験した者がいて、吉井川周辺の原野の開墾を手がけると、わずか数年で広大な水田が誕生します。警戒されていた荒び者たちは一転して原野の開墾集団として歓迎されていきます。

 周匝(すさい)を拠点にした開墾集団は「スサの男達」(スサノオ)と呼ばれるようになり、吉井川と旭川に次いで備中の高梁川、備後の芦田川、中国山地を越えて伯耆の日野川、東は播磨の揖保川へと開墾地を拡げていきます。この動きに乗って、富族も東に勢力を伸ばしていき、河内の生駒山北麓に登美(とみ)国を建国します。忌部族は讃岐、阿波へと拡がっていきます。

 集団を率いる首領は大土地王となり、豊かな財力を背景に中臣族も含めた地元勢力も組み込んでいき、スサ王国の基盤が確立します。スサノオ神話が冬至儀式と結合して、天石屋戸神話が成立します。吉備を中心とした地域は米の大生産地になり、北部九州へも輸出していきます。 兵士にもなる農民の数も増え、北部九州と財力と勢いで逆転していくようになります。

 

 弥生中期後葉に入り、吉備勢力は西出雲へ進攻します。東出雲へは伯耆からの延長で原野の開墾ですでに進出していましたが、西出雲のは出雲の祖神ヤツカミズオミズノと北部九州から渡来したカミムスビを祀る王国が存在していました。吉備勢力は備後の三次盆地から西出雲に入り、簸の川で東出雲のスサノオ族と合流して、西出雲王国を破ります。風土記に登場するスサノオは東出雲では平和的ですが、西出雲では攻撃的な性格を示していることもそれを物語っています。銅剣の荒神谷遺跡と銅鐸の加茂岩倉遺跡は、征服者側の吉備勢力が西出雲王国の武器と銅鐸を埋葬したものでしょう。

 

3.スサノオの2后神

 吉備王国の動きをスサノオの二人の后の系譜を追ってみます。クシイナダヒメは伊予を根源地とするオオヤマツミの孫、カミオオイチヒメは娘と、オオヤマツミとの結びつきが強い点が注目されます。

 

(1)クシイナダヒメ系

 オオヤマツミの子神アシナヅチ(妻テナヅチ)の娘クシイナダヒメはヤシマジヌミ(八島士奴美)を生み、四代後の五代目としてオオナムチ(大穴牟遅。大土地王の意)が生まれます。オオナムチはオオモノヌシ、オオクニヌシ、アシハラシコヲ、ヤチホコ、ウツシクニタマの5神と同一神となります。

 別々の神々が集合した、とする説がありますが、大土地開墾神オオナムチが吉備でオオモノヌシ、出雲でオオクニヌシ、西播磨でアシハラシコヲ、稲羽・越でヤチホコと呼ばれるようになった、と私は想定しています。

(2)カミオオイチヒメ系

 オオヤマツミの娘神ですが、オオトシ(大年、大歳)とウカノミタマ(稲荷神)をもうけ、オオトシはカガヨヒメ、アメノシルカルミヅヒメ、イヌヒメの3后から数多くの神々をもうけます。

 オオトシを祀る神社を神社検索サイトで探してみると、岡山県では見当たりませんが、瀬戸内海東部では西播磨の姫路市から加古川市、神戸市西部にかけて密度が高く分布しています。瀬戸内海西部では備後の福山市、次いで呉市、広島市西部、廿日市市、大竹市、山口県の岩国市に多く存在します。また福山市から枝分かれして三次市から出雲市、太田市、江の川河口の江津市に多く、東出雲以東は見当たりません。

 

 クシイナダヒメ系譜は国土開墾に沿って内陸部から膨張し、カミオオイチヒメ系譜は瀬戸内海と江の川の交易路に沿って拡がった印象を与えます。

 

 

[6] 神武東征 

        (弥生中期末~後期初め:70年代~80年代)

    参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説  第5章 大和狗奴国の歴史 )

 

 過去半世紀の間、初代天皇の神武天皇は神話上の人物、第二代から第九代天皇は飛鳥時代に宮中で創作された架空の人物とする「欠史八代説」を正論として、邪馬台国も含めた古代日本史が語られてきました。また邪馬台国九州説では九州勢力の大和入りを伝える根拠の1つとして神武東征が挙げられたり、日本書記の暦年を鵜呑みにした神武天皇2600年説を説明される神社もいまだに存在します。

 これに対し、まだまだ同調者はごくわずかにすぎませんが、日向と大和の間に吉備邪馬台国が存在したと想定すると、神武兄弟の日向旅立ちから大和入りは史実として論理的に適うこともあって、神武天皇から第九代天皇まで狗奴国王として実在したことを2002年に出版した「邪馬台国吉備・岡山説から見る 古代日本の成立」(神無書房)以来、一貫して主張してきました。

 中臣氏と神武天皇との関わりは、豊前の宇佐と紀伊の新宮市の2か所で登場します。

 

1.日向の神武兄弟

 アマテラスを祖とする神武天皇系譜はタカミムスビとの関わり合いが濃く、[3]で述べた「ムスビの神」の東進と直結しており、東部九州を南下していったタカミムスビ族に属します。

 その例証としてアメノオシホミミの后はタカミムスビの娘神ヨロヅハタヒメ(万幡姫)、宇佐の宇佐津彦(国造)はタカミムスビの孫神、神武兄弟と同族と見られる葛城国造の剣根(つるぎね)はタカミムスビの5世孫、など豊前から日向にかけてはタカミムスビとのつながりが深いことが挙げられます。

 

 豊前の英彦山(ひこさん)の神(英彦山神社)はアマテラスの子神、ホノニニギの父神であるアメノオシホミミであることから、一族の祖が定着した場所は英彦山麓だったように推測します。数世代を経て、アマテラスのモデルとなった女性が首長だった時代(前40年頃)に、孫のホノニニギが伊予のオオヤマツミ族の支援を得て、日向に移住します。日向で最初に落ち着いた先は日向国一ノ宮の都農(つのう)神社辺りでしょう。

 オオヤマツミはスサノオ神話とホノニニギ神話の双方に登場する唯一の重要神ですが、吉備邪馬台国と神武一族との関係を仲介した神々の一神とも言えます。

 

2.高千穂峰と霧島山の2つの降臨地 

 ホノニニギが建国した王国はホノニニギ―ヒコホホデミ(日子穂穂手見)またはホヲリ(火遠理)―ウガヤフキアエズ―長兄ヒコイツセ(彦五瀬)と四男イハレビコ(伊波禮毘古=神武天皇)の4代が延岡市から宮崎市に至る日向北部で発展します。

 ホノニニギの后はコノハナノサクヤヒメ(木花開邪姫)またはカムアタツヒ(神阿都比賣)ですが、これはコノハナノサクヤヒメ系伝承に隼人神話のカムアタツヒ伝承が合体されたことによります。

 

(コノハナノサクヤヒメ系伝承)

 降臨したホノニニギはオオヤマツミの娘イハナガヒメ(磐長姫)とコノハナノサクヤヒメ姉妹と出会い、姉イハナガヒメは岩のように不細工で、妹は花のような美女だったため、姉を遠ざけ妹を娶ります。これにより人間の寿命は岩のような永遠性を失い、花のようにはかないものとなります。

 この筋書きが原形です。ホノニニギの降臨地は日向北部の高千穂峰、生まれた息子の一人がヒコホホデミです。

(カムアタツヒメ系伝承)

 カムアタツヒメを后としてホデリ(海幸彦)、ホスセリ(隼人の祖)、ホヲリ(山幸彦)の3男が生まれ、山幸彦・海幸彦と海神の娘トヨタメヒメ(豊玉毘賣)の隼人神話が語られます。

 アタツヒメは薩摩国阿多郡との関連を示しており、鹿児島神宮、ホノニニギの御陵・可愛山陵(えのさんりょう)がある新田神社(川内市)など、舞台は鹿児島県西部となり、ホノニニギの降臨地は霧島山です。

 大和政権が熊襲地方(鹿児島県、熊本県と宮崎県南部)を支配下に置くのは4世紀後半から始まる応神朝の時代です。 国造本紀では薩摩国と大隅国の鹿児島県2国の初代は他国より遅い仁徳朝で、履中天皇の時代に刺領巾(さしひれ)という名の隼人が登場します。

 熊襲懐柔策としてコノハナノサクヤヒメとカムアタツヒメを合体させたことになりますが、その時期は飛鳥朝も考えられますが、日本書記の別書が多いことから枝分かれした時期は飛鳥朝よりも古く、応神朝後半の頃と推定できます。

 

3.日向から宇佐を経由して遠賀川へ

 日本書記では神武天皇紀から別書がなくなり、古事記には存在しない暦年が始まります。

 

 神武一行はまず豊後と豊前の境にある宇佐に立ち寄ります。宇佐は宇佐津彦がタカミムスビの子孫、宇佐神宮は奥宮の神が宗像神であるように八幡信仰以前は宗像神が主神だった、中臣族アメノタネコ(天種子)に出会う、などタカミムスビ、宗像族、中臣族の接点となっており、筑紫からオオヤマツミ族の伊予を結ぶ交易路の中継地でもあります。

 アメノタネコはアメノコヤネの孫アメノオシクモ(天押雲)の子です。アメノタネコが登場することから中臣氏は九州の出自(豊前中津の中臣村)と見る説もありますが、すでに吉備邪馬台国の勢力が豊前の宇佐まで到達していた、と私は考えます。

 神武一行は宇佐から関門海峡を越え西行して遠賀川河口の岡の湊に向います。これは邪馬台国九州説の東遷説では不可解な行動です。初めから大和への東遷を計画しているなら、あえて関門海峡を越える必要はないからです。

 神武兄弟が日向を旅立った理由は宗像族から遠賀川河口での警備役を依頼されたからだと私は考えます。 西出雲王国支配も一段落し、すでに吉備邪馬台国圏の勢力は奴国に近づいていました。吉備邪馬台国側に傾いた宗像族は沖ノ島を経由する半島貿易にも色気をもっていました。奴国、伊都国の西の勢力だけでなく、遠賀川上流の穂波国・鎌国(直方市・田川市)の攻撃の警護も兼ねるとすると、遠賀川河口は最適地でした。

 

4.安芸の埃(えの)宮

 古事記では、岡の湊に1年、安芸の埃(えの)宮(府中町)に7年滞在します。

 

 なぜ安芸の府中町が登場するのか諸説があります。おそらく私が最初の提唱者となりますが、吉備(スサノオ族、中臣族)、筑紫の宗像族、伊予のオオヤマツミ族の手による中継貿易国として建国中の投馬国の警護役として抜擢された、と推定します。スサノオ系譜のオオトシを祀る神社が多く分布し、宮島には筑紫の宗像女神と伊予のオオヤマツミが祀られてることがその裏づけです。

 広島市安佐北区と安佐南区に挟まれた入り海周辺は弥生後期に突然のように集落が増えます。吉備勢力が西出雲まで傘下におさめたことにより、東西を結ぶ瀬戸内海交易に加えて、伊予から入り海、江の川経由で日本海に至る南北交易も発展し、入り海周辺が投馬国の首都となります。

            参照:補遺1-1 投馬国・広島湾説)

 神武一行は安佐湾と東広島市に至る瀬野川河口を警護した、と考えると両者の中間に位置する府中町は滞在地として妥当です。

 

5.吉備の高島

 神武一行は古事記では8年、吉備の高島に滞在します。これは投馬国の中心部の警護の実績が評価され、邪馬台国の首都への出入り口の警護を任されたことを示しています。警護は周匝(すさい)に至る吉井川、新市に至る砂川、吉備津に至る旭川と穴海が対象でした。

 神武一行の滞在地と伝えられる安仁(あに)神社は吉井川河口の水門(みなと)の奥にあり、旭川と吉備津への入り口に浮かぶ高島へは舟で通ったことになります。

 

6.大和入り

 この頃、吉備邪馬台国は、出雲勢力も加わって奴国、伊都国を支配下に置きます。奴国の工人・技術者は吉備邪馬台国圏(出雲、阿波を含む)に流出し、奴国は衰退に向かいます。伊都国王家は朝鮮半島との交易の歴史とノウハウを蓄積していたことから傀儡王国として残ります。

 朝鮮半島への輸出品として水銀朱の需要が高まり、阿波産の水銀朱だけでは不足しました。河内湾と紀ノ川経由でも水銀朱が搬入されることから、紀ノ川上流の東吉野に有望な水銀朱(辰砂)鉱山があるらしいことが予想され、水銀朱交易路の開拓が神武兄弟に託されます。

 

 神武一行は吉備出身の富族の流れをくむ生駒山北麓にある登美国を頼って河内湾の日下(東大阪市)に上陸します。吉備国からの伝達を通じて登美国の歓待を受けると期待していましたが、登美国の乗っ取りをたくらんでいたナガスネビコ(長髄彦)の存在が計算違いでした。ナガスネビコは一行を不意打ちして、兄ヒコイツセが深手を負います。

 和歌山市へと下ったイハレビコ一行は亡くなった兄を竈山(かまやま)に葬ります。土着勢力を破りますが、紀ノ川中流の橋本辺りに強族がいて紀ノ川を上ることはできす、紀伊半島をさらに南下します。新宮に到着した後、宇陀野への直線コースにあたる熊野市から宇陀野へと進軍しますが悪霊(大熊)に襲われ、一行は失神します。

 

 ここで宇佐のアメノタネコに次いで、中臣氏の神タケミカヅチが登場します。天のアマテラスとタカミムスビはタケミカヅチを呼び出し、「汝が葦原中国を言向けたはずなのに、葦原中国はまだ騒々しい。降臨して平穏にして来なさい」と命じます。タケミカヅチは「私が降臨するほどでもあるまい」と代りに横刀(フツヌシ)を一行の庇護者のタカクラジ(高倉下)の元に送ります。出雲の国譲り神話は大和の日本統一後に創作された、と考える自説に沿うと、アマテラスとタカミムスビは吉備邪馬台国の朝廷に置き換えられ、朝廷の指示を受けた中臣氏は支援の兵士は送らなかったが、武器だけを送ったことになります。吉備の朝廷は、その一方で、登美国にどういう経緯になったのかを問い合わせます。

 

7.葛(狗奴)国建国

 一行は十津川経由で五條に出て東吉野を越えて、宇陀野で水銀朱の産地を確保します。東吉野は険峻なため、大和盆地を経由する交易路を選択します。

 大和盆地に入った一行は再びナガスネビコの攻撃にされされますが、陰謀に気づいたニギハヤヒ王はナガスネビコを殺し、吉備の富族の流れを組む証し(天津瑞)として天羽羽矢と歩靫(かちゆき)を示して支援を公約します。

 

 南葛城地方へと進出した一行は紀ノ川中流の強族も破り、宇陀野から南葛城地方、風の森峠を下って吉野川から紀ノ川河口に至る交易路を確保して、イハレビコは80年代に葛国を建国します。

 

 

[7] 吉備邪馬台国を盟主とする倭国(西日本) 

            (弥生後期・終末期:75年~266年頃)

     参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第4章 吉備邪馬台国の歴史、

          小説版「箸墓と日本国誕生物語――女王トヨと崇神天皇――」)

 

1.吉備邪馬台国を盟主とする倭国の誕生

 50年頃にスサノオ族が吉井川中流域で誕生した後、約100年後の50年頃にスサノオ王国の土台が固まり、東出雲と三次盆地の2方向から西出雲王国の攻略に成功します。筑紫の奴国は57年に後漢の光武帝に朝貢しますが、吉備勢力の膨張を懸念したためであったことも連想できます。

 スサノオ王国は周匝(すさい)の宗家の下に吉備国、西播磨国、伯耆国、出雲国に分立し、四国では讃岐の忌部族と縁戚関係を通じて結ばれます。

 吉備国は直轄地が備後まで西に拡がったこともあり、首都は赤磐市下市(しもいち)を経て足守川河口の吉備津へ遷り、吉備4国と讃岐(副首都)から構成される吉備邪馬台国王国が正式に誕生します。

 

 吉備邪馬台国の勢力はさらに西進していきます。筑紫の宗像族と伊予のオオヤマツミ族の協力を得て安芸に投馬国を建国、豊前に続いて筑紫へと進み、出雲国など姉妹国の支援もあって1世紀末までに奴国と伊都国を手中にして、倭国(西日本)の盟主の座を獲得します。

 倭国の領域は北部・東部九州から近畿地方の山城・大和までで、分銅型土製品と第1次高地性集落(砦)の分布と共通します。弥生中期半ばに備前南部で発生した分銅型土製品はスサノオ系、宗像系、オオヤマツミ系の3者の間で普及しますが後期後半に消滅します。これはスサノオ族に属す証しを示す必要がなくなったためか、それに替わる祈り製品が登場したことによるものでしょう。

 

 後漢書では107年に倭の国王帥升(すいしょう)等が後漢の安帝に生口160人を献じますが、帥升は吉備邪馬台国の初代か2代目王である可能性もあります。

 

 

2.首都の街の構成

 吉備邪馬台国の首都となった吉備津の風景を思いめぐらしてみます。

足守川右岸 

古代の足守川河口は現在の新幹線の架橋下辺りから数百メートル東に位置する「川入」でした。

王宮当初は川入から東山に進み足守川や楯築遺跡を眺望できる丘に真如院と並んで存在し、吉備武彦(たけひこ)が住んだ場所と伝えられる新宮だったと推定します。楯築王の時代に吉備津神社の丘に豪壮な王宮が建造されます。吉備津神社本殿は外陣と内陣に分かれていますが、内陣はヒミコとトヨが居住した面影を伝えている印象を与えます。

官庁地域吉備中山西麓の東山と宮内でしょう。ですから魏との交易を実証する封泥が出土するのは、東山か宮内辺りと予告しておきます。商業地区に接する場所に納税品や交易品を保管する高殿がありました。

商業(市場)・住居地区は惣爪から加茂に至る一帯です。上げ潮で水深が上がると、河口沖で待ち構えていた小舟群が足守川を一斉に上がって、荷揚げでごった返した光景が目に浮かびます。

足守川左岸は港跡が発見された上東遺跡から王墓の丘に至る地域に衛星都市としての集落がありました。そこから楯築遺跡を含む丘陵が続きますが、新庄下の向場の丘陵が集団墓地だったようです。偶然にも現在も黒住教の霊園があります。

吉備中山の東北辛川―楢津―首部―笹ヶ瀬―津島へと続く海岸線となっていました。吉備津彦神社周辺が吉備津の副港で、吉備津彦神社の大きな池はその名残と言われています。

鬼城山の山麓地域は高梁川の支流が流れ、足守川と合流する肥沃な地帯でした。

 

 

3.絶頂から倭国大乱へ

 魏志倭人伝は「その国、もと男子を以って王となす。とどまること780年、倭国が乱れ相攻伐すること年を経たり。一女子を共立して王となし、名づけてヒミコと云う」と記します。

 一世代の治世を平均20年とすると、第3代か第4代となる楯築王の時代が絶頂期となります。楯築王は生存中に楯築墳丘墓を築造していた可能性もあります。

 

倭国大乱

 楯築王は小柄でしたが精力絶倫、しかし残念ながら複数の后から子供が生まれませんでした。倭国大乱には諸説がありますが、自説は楯築王の死後、楯築王の甥である出雲国王が吉備邪馬台国の王権を主張。これに備前、讃岐、播磨、阿波勢力が反発、南北対立が激化して倭国大乱が始まった、とする筋書きです。

 最後は周匝の宗家のヒミコが女王に就任して大乱は終息しますが、それを不服とする出雲国王は倭国の盟主の象徴である特殊壺・器台(立坂型)を吉備から運び、盟主であることを誇示するかのように、西谷墳丘墓(第2号墓と第3号墓)に2代にわたって飾り立てます。

 

(楯築弥生墳丘墓ヒミコ説)

 楯築遺跡はヒミコの墓とする意見は根強くあります。楯築遺跡に近い団地造成地から弥生時代の大量の骨が出土したが、秘かにトラックで搬送された、という噂話を故久保幸三聞いたことがあります。楯築王の殉死者の骨だった可能性はあるでしょう。

 楯築墳丘墓ヒミコ説の源は、吉備の古代祭祀研究家として高名な薬師寺慎一氏が1995年に発行された「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」(吉備人出版)にあるように感じます。ことに楯築遺跡の発掘を総括された近藤義郎氏(岡山大学名誉教授)が序文で「まず楯築を三世紀における倭の最大の墓、さればそこに葬られた首長は倭の最強最大の有力者、それは卑弥呼であろうかと力説する」と述べておられることです。薬師寺氏ご本人は本文で記紀や風土記に登場する首長は女性が多く、楯築墳丘墓から出土した歯は女性のものらしいことから、ヒミコに匹敵する女性首長の墓と類推されています。

 

 近藤氏とは吉備説第1作目を制作中の2001年に墳丘墓の図の転載許可をお願いするなどで、3回ほど手紙の往復をしました。近藤氏は楯築遺跡の成立年代に非常に慎重で、その頃は弥生後期、200250年頃と発表されていましたから、ヒミコの墓説も違和感はありませんでした。 

 その後、楯築の特殊器台より若干遅れると判断されている出雲の西谷墳丘墓は200年前後の築造であることがはっきりしたこともあり、楯築遺跡の成立は200年以前となり、楯築墳丘墓ヒミコ説は遠のきました。

 

4.ヒミコ(治世190年頃~247年) 

 ヒミコの治世は約57年間と長期に及びます。イギリスのエリザベス1世の治世は1558年~1603年の45年間ですが即位は25歳ですから、ヒミコが1316歳で即位したとするとありえる話です。

 時代は弥生終末期に入り、出雲と阿波の独立性が強まるなど、倭国の盟主としての地位が揺らいでいきます。中国東北部の公孫氏が204年に楽浪郡の南に帯方郡を造り、朝鮮半島南部への統制と交易を強めて、帯方郡との倭国との交易が本格化したことがヒミコ体制の窮地を救います。

 

 伽邪国・帯方郡からの船は水深が深く外洋船が停泊できる倉敷市の酒津か原津に到着します。原津から坂を上っていくと、山手村(2005年から総社市)に入り、備中国分寺跡から高塚へと続きます。高塚から鬼城山麓の阿曽にかけてが半島人の居住地と考えると、伽邪国の船乗りたちは「山手」の先が吉備王国の中心部と推測しても、違和感はありません。

 半島の海人が「yamataiai」を「エ」ではなく「アイ」と発音して、山手を「ヤマテ」ではなく「ヤマタイ」と発音した可能性があります。魏志倭人伝の描写の下敷きになった帯方郡の役人の報告は足守小学校辺りから王宮を遠望したものでしょう。

 

(ヒミコの時代の官僚機構)

 魏志倭人伝では「官に、伊支馬(いくめ)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかし)、奴佳鞮(なかと)があり」と記されていますが、 中臣と読める奴佳鞮は第4位に位置しています。中臣氏は祭祀と軍事の双方を担った官僚と類推しています。

 

 さらに男弟、大率、大倭、大夫を紹介しています。男弟は官房長官、ヒミコの秘書役のような存在ですが、内密の夫だった可能性もあります。大率は内務大臣でしょうが、一大率は伊都国に治所を置いて常駐し、邪馬台国から西(北)の諸国を監察した、とありますから、伊都国から吉備邪馬台国の間の諸国を監視した警視総監のような存在でした。大倭は通商・税務大臣、大夫は外務大臣ですが、難升米(なしめ)と伊声耆掖邪狗(いしきややく)の2人が登場します。 難升米は魏の明帝に気に入られましたからおそらく帰化人で漢語を話せたようです。伊声耆掖邪狗は吉備はえぬきの役人の印象を受けます。

 

(ヒミコの墓は鯉喰神社弥生墳丘墓)

 2002年に出版した吉備説第一作「邪馬台国岡山・吉備説から見る 古代日本の成立」で鯉喰神社弥生墳丘墓がヒミコの墓であろう、と発表して以来、一貫して同説を主張しています。

 理由は楯築遺跡の埋葬者(首長)の次の王とされること、ウラ(温羅)伝説との縁が深いことです。殉死の墓は矢部の鯉喰神社の並びにある賓宝寺あたりと見当をつけていましたが、現在は新庄下の向場の丘陵のどこかではないか、と想像しています。

 

5.トヨの時代(治世248年~266年)

 トヨは248年頃女王に就任して、266年まで約18年間、政権を持ちこたえます。

 日本書記神功紀66年、晋の起居の注に、武帝の泰初2年(266年)10月に倭の女王が通訳を介して貢献した、と記されていますが、ヒミコの魏への遣使の先例にならって、魏から晋(西晋)への政権交替後、即座に使者を派遣したことになります。しかし魏とは違って、晋は呉の陥落は間近だったことから、倭国と邪馬台国に興味を持っていませんでした。

 

6.大和(狗奴国)の膨張

 吉備邪馬台国と宗像族の要請を受けて、水銀朱交易路を切り開いた神武天皇が南葛城地方に建国した葛(狗奴)国は倭国大乱の頃から肥大化を始め、最後に吉備邪馬台国を破ります。

 

第五代孝昭天皇(治世推定170195年頃)

  :2世紀末の倭国大乱の頃、伊勢、美濃、尾張の3国を征服。大和葛(狗奴)国の膨張が始まる。

第六代孝安天皇(同195215年頃)

  :大和盆地全域を支配下に置いた後、河内と淡路島を支配。阿波王国との対立が激化。庄内式土器の登場。

第七代孝霊天皇(同215年~239年頃)

  :阿波を征服した後、近江、越前、丹波(但し丹後王国を除く)、摂津を支配。

第八代孝元天皇(同239247年頃)

  :東播磨まで支配下に置いた後、吉備邪馬台国を攻撃したが、こう着状態となる。

第九代開化天皇(同247267年頃)

  :266年のトヨの晋への朝貢の後、吉備邪馬台国征服に成功。

 

7.吉備邪馬台国の敗北とトヨの命運

 吉備邪馬台国の敗北は岡山人の心情として認めたくない方々が多いように感じますが、ブログ「大和の日本統一に関わった氏族」で触れたように、吉備津彦兄弟、山陽道のアマツヒコネとアマノユツヒコ、伯耆・出雲のアメノホヒの存在から見ても大和が吉備を破ったことは明らかです。

 この様子は小説版「箸墓と日本国誕生物語」の冒頭で詳しく描きましたが、吉備津の王宮が陥落する前にトヨは故郷の讃岐の田村神社に逃れた後、大和軍の管理下で人質兼開化天皇の后候補(本人は気がつかなかったが)として大和入りします。

 ウラ(温羅)は張政に伴って帯方郡から来日し、張政の離日後を託された将軍と想定していますが、鬼城山にたてこもって抵抗した後に戦死、弟のオニ(王丹)がゲリラ隊を仕切っていきます。

 

 

[8]中臣氏の復活と大倭(大和)(東西日本)の成立

            (崇神朝:270年代~290年代)

     参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第5章 大和狗奴国の歴史、第6章 大和の東西日本の統一)

 

1.邪馬台国吉備説の3つの方向

 邪馬台国所在地論争は大和か九州かのナイーフなマンネリ状況から、いつ頃脱皮していくのか、予測はできませんが、歩みは遅くとも少しづつ吉備説支持者が増えてきていることは事実です。

 

 ところが吉備説は必ずしも意見が一致しているわけではなく、(1)吉備を主力とした西部勢力の大和入り(2)大和が吉備を破った後吉備文化を吸収(3)吉備と大和が手打ち、の3つの方向で意見が分かれているようです。

 

(1)吉備を主力とした西部勢力の大和入り

 吉備勢力が他の西部勢力と共に大和に進出して、邪馬台国を纒向に建国したか、後期邪馬台国を大和に遷した、とする説です。その時期が2世紀末の倭国大乱の後ですと、吉備にいたヒミコが大和入りしたことになって箸墓ヒミコ説につながります。3世紀後半のトヨの時代に大和に遷った説では箸墓トヨ説となります。

 その根拠は吉備で発生した特殊壺・器台と吉備型甕(かめ)が大和に移動していることにあります。吉備型甕は弥生終末期3世紀頃の米の炊飯に使用された甕です。器壁の厚さは極限まで薄く仕上げられ、当時の土器の中では最先端の技術を示しており、他の地域の模範になり、3世紀前半に大和盆地に登場した庄内式土器も吉備型甕から派生したと判断されています。

 

 考古学的な視点にのみ限ると、大和川河口の八尾市を経由して吉備勢力が纒向に入ったと言い切ることは可能ですが、果たしてそれが正しいか否かを複眼的に検討する必要があります。

 八尾市は大和系アマツヒコネ族の本拠地であり、欠史八代説は誤りで天皇系譜につながる王さまが大和盆地に実在していたとすると、特殊壺・器台と吉備型甕(かめ)の流れからだけで、吉備勢力が3世紀前半に大和入りしたとする説は砂上の推測となり、説得力を失います。大和が吉備を破った後、アマツヒコネ族が吉備から持ち込んだことも考えられるからです。

 吉備型甕が大和川河口周辺に多く、纒向に少ないことは吉備勢力が大挙して纒向に進出したことを示していませんし、吉備型甕と庄内式土器の間に東播磨か淡路島の陶工を挿入して、東播磨か淡路島の陶工が八尾市に移住して吉備型甕と庄内式土器を製作した可能性もありえます。

 

 考古学的発見物から単眼的に推定する時代から、幅広い文献と神話・神社史の2つも加えた複眼的な考察の時代へ脱皮する必要があります。 ある程度、文献と神話・神社史の知識を持っていないと、進むべき方向を間違えてしまいます。

 

(2)大和が吉備を破った後、吉備文化を吸収

 3世紀後半、250年頃から300年頃にわたるわずか半世紀、より絞り込むと266年から290年頃まで4分の1世紀で日本列島は大和によって統一されるという大変化が生じます。

 この大変化を私は、大和が266年頃に吉備邪馬台国を打ち破った後、一気呵成に西部九州から南部東北地方まで武力によって日本統一を達成したことによると解釈しています。決め手は意富(おう)氏、これまでほとんど重視されてこなかったアマツヒコネ族・アマノユツヒコ族が山陽道、筑紫、肥前・肥後を征服した後、東国に転じて関東地方から東北地方南部にまで拡大していったことです。考古学的にも、吉備型庄内甕は吉備津彦兄弟、筑前型庄内甕は筑前のアマツヒコネ族とタケヌナカハワケの動きと連動しており、大和が吉備を攻略した後、筑紫まで一挙に征服したことを示しています。

 

(3)吉備と大和が手打ち

 吉備勢力(邪馬台国)と大和勢力(狗奴国)は敵対していたが、最終的に和解してトヨが大和入りし、盟主の座を平和的に大和に譲ったする説で、1.と2.の折衷案と言えます。

 この説は「和をもって尊し」とする日本古来の心情と合致しますが、国造本紀の各国の系譜を見ると大和が武力で各国を平定していったことは明らかです。地元勢力や豪族が抗争なしに大和と折り合った場合は、地元勢力がもっと国造の人事に反映されてしかるべきですし、東西日本を大和主導の協調路線で統合していくのは、交通と通信技術が発展していない3世紀後半のわずか230年は短すぎます。

 

2.中臣氏の復活

 トヨは開化天皇の后候補兼人質として大和入りしますが、開化天皇の急死で中途半端な存在となります。20歳前後の若さで父王を継いだ崇神天皇は即位当初は国の滅亡の危機に瀕しますが、主要因は河内と山城の国造を世襲するアマツヒコネ族出身の、腹違いの叔父タケハニヤスビコが西日本から届けられる財宝を巻き上げ、天下取りを狙っていたことにありました。倭国の盟主のシンボルである特殊壺・器台もアマツヒコネ族の本拠地である大和川河口の八尾市に運び込まれ、負傷した兵士のみが無報酬のまま大和へ送られたがために、兵士たちが反乱をおこします。

 

 崇神天皇の窮地を救ったのがトヨ(ヤマトトトビモモソヒメ)です。若き崇神天皇を援けて、祭祀儀礼など倭国の盟主としての風格を整備していくアドバイスをします。

 大和が吉備を滅ぼした後、吉備や周防の捕虜や住民はアマツヒコネ族の船や陸路で河内湾周辺に送り込まれ、開拓を強要されます。居所が不明だったオオタタネコが河内の陶邑(すえむら)にいたこと、八尾市周辺に中臣系の神を祀る恩智神社と枚岡神社や岩戸神社の存在がその裏づけですが、崇神天皇がトヨを敬ったことが中臣氏の復活につながります。

 

(1)祭祀の中臣氏 オオモノヌシとオオタタネコ

 吉備勢力が大和入りしていたら、最初からオオモノヌシを三輪山に祀るのが通常ですが、ヤマトトトビモモソヒメ への神がかりによって、初めてオオモノヌシを勧請する動きが出てきます。河内の陶邑(すえむら)にいたオオタタネコの存在を大和朝廷は知りませんでしたが、オオモノヌシを勧請してオオタタネコを祭主にすると、大和は苦境から脱して上昇気流に乗ります。倭国の盟主の神さまを勧請したことが好結果につながったことになります。

 

 勝者の大和が敗者の吉備の神さまを首都の三輪山に招いたことになりますが、これはギリシャを破ったローマがギリシャを踏み台としたことと共通します。勝者が敗者の文化を取り入れることはモンゴルの中華圏とイスラム圏の図式で顕著に現れますが、大和は3世紀前半に阿波を破った後に、忌部氏の祭祀や前方後円墳など阿波文化を吸収した前例がありますから、比較的順調に進攻しました。 

 

(2)軍事の中臣氏(肥前と常陸のタケカシマ)

 常陸風土記でタケカシマは敵をあざむく奇策として常陸から遠く離れた肥前の杵島(きしま)の歌垣の祭りを実施します。

 

 私の連想は、タケカシマたちは捕虜として河内湾に連行された後、豊後と肥国征伐のタケヲクミ(意富氏)軍に編入され、九州遠征し、肥前の有明海に面する杵島と鹿島市に居住して杵島の歌垣祭りを体験します。

 その後、大和に戻りトヨと再会します。四道将軍の後に意富氏と共に東国の常陸に送られ、杵島の歌垣で敵をあざむく作戦で、関東平野に橋頭堡(鹿島神宮と香取神宮)と築きます。

 

3.ヤマトトビモモソヒメと箸墓古墳

  四道将軍の遠征により西出雲を除く東西日本の統一を達成した崇神天皇のトヨに対する信頼度はさらに増し、中臣氏も復権していきますが、それを快く思っていなかった氏族は崇神天皇の外戚にあたる阿倍氏の祖オオビコと尾張氏でした。トヨは阿倍一族と尾張氏のいじめに耐え切れずに自害しますが、両氏と距離を置く崇神天皇はトヨの功績を称える意味から、日本一の古墳の築造を命じます。

 

 今月99日(2012年)付けの朝日新聞サイトで「箸墓古墳の後円部の頂上は石積み」という記事を見て、

善通寺市の大麻山にある野田院古墳を思い浮かびました。野田院古墳はオオモノヌシを祀る金毘羅宮とほぼ同じ地域にあり、全長44.5メートルの前方後円墳、2段からなる後円部は直径21メートル、高さ2メートルの積石塚。で、3世紀後半の出現期の古墳と言われています。トヨは吉備津の王宮を逃れて故郷の讃岐に避難した後、大和入りしたとする自説のストーリーはフィクション的すぎるとお感じになる方々も多いと察しますが、やはりトヨは讃岐と縁が深いようです。

 

4.アマツヒコネ族、阿倍氏、物部氏の変化

(アマツヒコネ族)

:河内と山城が本拠地で大和川河口(八尾市)を拠点とする海人となり吉備邪馬台国攻略では水軍として活躍し、その後、筑紫まで山陽道の西征を指揮します。母方が一族に属すタケハニヤスビコ(崇神天皇の腹違いの叔父)が天下取りを狙いましたが敗退し、アマツヒコネ族も中央での権勢を失いますが、崇神天皇は阿倍氏親子に代わって、東国開拓に送り込みます。

(阿倍氏の祖オオビコとタケヌナカワワケ親子)

:祖のオオビコ(大毘古)は第八代孝元天皇の皇子で第九代開化天皇の腹違いの兄、第十代崇神天皇の叔父で義父です。息子タケヌナカワワケ(建沼河別)と共に四大将軍としてオオビコは北陸道、 息子タケヌナカワワケは東山道を進軍し、会津(いさすみ神社)で合流します。その後、タケヌナカワワケは筑紫に転じ、吉備津彦と共に西出雲王国征伐に進軍します。

(物部氏)

:物部氏は大和の草創期から重要な氏族だったイメージを与えます。物部氏の母体である登美王国は第五代孝昭天皇の時代までは大和盆地で葛国と共存していましたが、第六代孝安天皇の時代に吸収され臣下となります。アマツヒコネ族に代わって大伴氏と共に中央政府で台頭していくのは、タケハニヤスビコの反乱後の崇神朝の半ば頃です。ことに垂仁朝の東海地方・富士山麓の開拓で勢力を伸ばします。

 

5.出雲の国譲りとタケミカヅチ・フツヌシ

 出雲の国譲りで、アメノホヒ、アメノワカヒコに次いで、崇神天皇はタケミカヅチを祀る吉備集団を西出雲王国征伐の最後の切り札として出雲に送り込みます。その理由は吉備集団は出雲と縁戚関係にあるため説得力がある、東国開拓を担う吉備集団にとっては出雲の影響が強い信州の街道を確保する必要があったため、と推察します。

 その後、2代目の吉備津彦と筑紫に移ったタケヌナカワワケが西出雲王国を攻略して崇神天皇の東西日本統一事業は完了し、神武天皇が葛国の初国知らしし天皇であるのに対し、大倭国の初国知らしし天皇の名誉を受けます。

 

 

[9] 垂仁朝以降の中臣氏 4世紀前半以降)

         参照:広畠輝治の邪馬台国吉備・狗奴国大和説 第7章 日本神話の成立)

 

 第十代崇神天皇が日本統一を実現した後、大和第一王朝といえる神武・崇神朝は第十一代垂仁天皇時代に絶頂期にさしかかり、日本神話体系が作られ伊勢神宮の造営されて大和支配体制が確立します。その流れの中での中臣氏の歩みを俯瞰してみます。

 

1.軍事系と祭祀系の中臣氏

(1)五太夫

 垂仁天皇は(日本書記)治世25年に5太夫に詔(みことのり)をします。父王を継いでまもなく、愛后の狭穂(さほ)姫の兄狭穂彦の天下取りの反乱を制圧したものの、兄に従った愛后を失います。垂仁天皇は狭穂姫の従姉妹にあたる丹波道主(みちぬし)の娘姉妹を后に迎え入れますが、狭穂姫が残した王子である誉津別(ほむつわけ)はヒゲが生える年代に達してもモノを話すことができず、その原因は出雲の神の祟(たた)りであることが判明します。

 

 治世25年は即位後の混乱がようやく解決し、垂仁天皇の治世が順風に乗った時期にあたります。5太夫は阿倍臣のタケヌナカハワケ(武淳川別)、和邇(わに)臣のヒコクニブク(彦国葺)、中臣連(むらじ)のオホカシマ(大鹿嶋)、物部連のトヲチネ(十千根)、大伴連のタケヒ(武日)の5人です。

 

 阿倍臣タケヌナカハワケの父で、孝元天皇の王子、崇神天皇の義父であるオオビコ(大毘古)

から始まります。父子とも崇神天皇の四道将軍となり、オオビコはすでに物故していますから、垂仁天皇の母御間城(みまき)姫の兄タケヌナカハワケが最強の外戚として太夫の筆頭に位置することは納得できます。

 和邇臣は第六代孝安天皇の兄アメタラシヒコクニオシヒト(天足彦国押人)から始まりますが、以後、大和盆地北東部を拠点として天皇家を支える名家として栄えます。ヒコクニブクは崇神治世10年のタケハニヤスビコの謀反の鎮定将軍としてオオビコと共に登場します。第十二代景行天皇と第一三代成務天皇で第一王朝が終焉し、神功皇后クーデターを経て第二王朝の応神朝が始まりますぅが、和邇氏は神功側に組したことから、応神朝でも重鎮の座を維持します。

 

 阿倍氏と和邇氏は王家出身ですが、中臣氏物部氏大伴氏は崇神天皇の時代に台頭した新興勢力です。タケハニヤスビコの敗退後、出身母体であるアマツヒコネ族も中央勢力としては没落し、その空白を埋める形で3氏が浮上したことになります。

 3氏のうち、物部氏は恭順する登見(とみ)国の王家、大伴氏は久米氏と共に日向からの従者として神武天皇記・紀に登場しますが、中臣氏は神武天皇記・紀の宇佐篇アマノタネコ(天種子)以後では初めて登場します。

 前稿[8]で記したように、中臣氏は吉備邪馬台国の重鎮氏族で敗北者の立場ですが、崇神天皇の時代にトヨと推定できるヤマトトビモモソヒメ、常陸国平定と出雲の国譲りで活躍するタケミカヅチ―タケカシマ(建鹿島)で復活します。常陸国平定はタケカシマと意宇(おう)氏によりますが、タケカシマは崇神天皇に重用されたことから、中央に呼び戻され、息子オホカシマの代になって中央政府の軍人としての地位を固めた、と推定します。

 

(2)祭祀・占い

 大和朝廷の祭祀を司る氏族として猿女(さるめ)君、三輪君も含む中臣氏、忌部氏の3氏族が挙げられますが、いずれも葛(狗奴)国に平定された国の祭祀を司っていた氏族です。大和内部では御所派(日向伝承)と磯城派(三輪山の蛇神)との対立、大国を率いる祭祀体系ができていなかったためでしょうが、大和盆地西南部の中小国に過ぎなかった葛(狗奴)国が支配下に加わった国・地域の文化を吸収していったことが、東西日本統一の秘訣、ノウハウにつながった、ともいえます。

 

猿女君:伊勢のサルタヒコ王国の神話の語り部でしたが、第五代孝昭天皇の東海3国の征服後、大和朝廷に組み込まれます。

忌部氏:阿波王国の祭祀を担っていましたが、第七代孝霊天皇の阿波征服後、阿波・讃岐の前方後円墳の技術と共に大和入りします。

中臣氏:前2者より遅れて崇神天皇に時代に大和朝廷に迎えられたが、倭国(西日本)の盟主の祭祀を担っていたこと、忌部氏と違って軍事面でも復活したこと、の2点から強い影響を与えるようになり、先に大和入りしていた忌部氏とライバル関係となります。

 

2.大倭神話の編纂

 課題は西日本に東日本も加えた大倭国の盟主としての神話をどのようにまとめていくか、仕上げていくかにありました。作業は中臣、忌部、猿女と意富の各氏の担当となりますが、それを統括する垂仁天皇、外戚の阿倍氏と尾張氏の意向と4世紀第1四半期の日本列島の政治情勢が反映されていきます。

 

 日本神話は地域が異なる5つの要素が合体しています。

日向神話 :タカミムスビとアマテラスの孫神ホノニニギの降臨と子孫系譜

神武東遷神話 :不弥国―投馬国―吉備邪馬台国―大和葛城地方

伊勢神話 :サルタヒコとサルメ

吉備邪馬台国神話 :舞台は美作・備前の旭川と吉井川と出雲街道

出雲神話 :オオクニヌシと国譲り

 

 それまで大和朝廷に存在した神話は、

アマテラス・タカミムスビ→孫神ホノニニギの降臨→サルタヒコの出迎え→日向神話→神武東遷

という筋書きの大和建国神話と呼べるものでした。これはホノニニギの降臨と子孫系譜の間に伊勢のサルタヒコの出迎えを挿入することにより、大和の東海3国の支配を正当化する狙いで第七代孝霊天皇の頃に出来上がり、語り部の猿女君が伝えていました。

 阿波、吉備、出雲の3地域の神話は、吉備邪馬台国を盟主とする倭国の神話が骨子となっています。イザナギ・イザナミ→3貴神(太陽神、月神、嵐神)と神々の誕生→高天原の冬至祭(アメノコヤネ、アメノフトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマオヤの5伴緒)まではほぼ同じで、吉備と出雲ではスサノオの降臨後の系譜が発展します。

 

 協議の結果、倭国神話と大和建国神話を合体することが決まります。これに加えて、当時の政治情勢を考慮して、崇神天皇末期の西出雲王国制覇の出来事を素材にした「出雲の国譲り」が脚色されます。4世紀第1四半期は西出雲王国の征服からまだまもなく、出雲文化圏は越後までの日本海地域と信州、岩代(福島県西部)にまで波及し、また関東平野にも出雲の住民が開拓民として送り込まれていました。出雲文化圏の勢力がまとまって大和勢力にはむかうと、さしもの大和朝廷も土台が崩れてしまう恐れがあります。出雲文化圏の住人を納得させる理屈が必要でした。

 

 倭国神話と大和神話の合体は太陽神オオヒルメと大和の祖神アマテラスをくっつける、倭国神話の5男神と舞女(アメノウズメ)を大和の神と入れ替える手法で解決します。

 この結果、大倭国神話は以下の筋書きとなります。

イザナギ・イザナミ→神々の誕生→高天原の冬至祭→スサノオの狼藉と降臨→スサノオの子孫→出雲の国譲り→アマテラス・タカミムスビ→孫神ホノニニギの降臨→サルタヒコの出迎え→日向神話→神武東遷

 まず倭国神話から始めて、出雲の国譲りを接着剤として創作し、大和建国神話へとつなげます。高天原の中臣系と忌部系の5神が5伴緒としてホノニニギの降臨のお供になることは吉備勢力と阿波勢力が大和勢力のお供になったことを意味します。

 

 もちろん応神朝に隼人神話が加筆されるなど後に挿入や修正はありましたが、垂仁天皇の治世下で日本神話の原形は成立したと、私は考えます。

 

3.伊勢神宮の造営

 大倭神話作りと並行して、先代の崇神天皇時代から懸念となっていたアマテラスを祀る所在地選びで、崇神天皇の皇女トヨキイリヒメは候補地として吉備王国、紀伊、丹後王国の西日本の旧王国を巡りましたが、垂仁天皇の皇女ヤマトヒメは陸路での東国への入り口に相当する伊賀、近江東部、美濃を巡った後、東国への海路での玄関口に当たる伊勢の五十鈴川に決めますが、ヤマトヒメの背後には阿倍氏と尾張氏の主導がありました。

 

 その焦点は大和朝廷の直轄地である東国経営をどの氏族が担うかにありました。阿倍氏と尾張氏は伊勢を押さえることによって、トヨキイリヒコ(垂仁天皇の腹違いの兄)、意宇氏、中臣、移住開拓者(吉備、安芸、讃岐、阿波、出雲)の東国勢力を牽制したかったようです。

 

4.中臣氏は日本文化の地下水脈

 大伴氏は継体朝初期に、物部氏は飛鳥朝で衰退しますが、中臣氏は応神朝、飛鳥朝を生き延びて、奈良・平安時代に頂点に達し、祭祀系は江戸時代末まで吉田神道として影響を残していきます。

 

 過去半世紀、欠史八代説にそって、歴史時代の始まりは応神朝の5世紀以降が常識となり、3世紀と4世紀は謎の世紀となっていますが、私自身としては、57年の奴国あるいは奴国・伊都国連合の後漢の光武帝への遣使と金印から歴史時代が始まるととらえるようになっています。

 

 この歴史時代の始まりを

1世紀~1世紀 :奴国・伊都国を筆頭とする北部九州の興隆(吉備の勃興と神武東遷)

2世紀 :吉備邪馬台国を盟主とする倭国(西日本)の成立

2世紀末 :倭国大乱(日本海勢力と瀬戸内海勢力の南北対立)

3世紀前半 :大和盆地の葛(狗奴)国の成長と膨張

3世紀後半 :大和の吉備邪馬台国圏の征服と東西日本の統一

5段階に分けていますが、中臣氏は弥生中期以来の歴史の中で生き続け、神武系譜も弥生中期後半に源があります。

 

 大和が実現した大倭国の顔の水面下に中臣氏を筆頭とする倭国の地下水脈が流れています。私の今後の課題はこれをより具体的に明らかにしていくこととなっています。

 

 

                「中臣氏と吉備邪馬台国」 完

 

                 

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