邪馬台国吉備・狗奴国大和外史
第3章 俗説・風説の検証
1.思い込みによる自己陶酔
人間は一度、思い込むとそれが誤っていた場合でも、修正に長い時間がかかる動物のようです。その思い込みは自分が身につけた教養や慣習に加えて、その時点で自分が属す世界の空気や風評に大なり小なり影響を受けます。
私の吉備説に相応の理解を示してくれる知人もおりますが、「しかし有名大学の一流の先生方はそうおっしゃてはいないではないか。新聞やテレビも吉備説など報じていない」とあくまで世間の風を優先する方が多い状況です。賛同者や理解者でもそれぞれ思い込みは異なっています。
岡山市でウエブテレビを運営され、2008年に亡くなられた久保幸三氏は、邪馬台国吉備説の盟友であり、ウエブテレビに自説の概要を掲載させてもいただきました。しかし「ヒミコ=神功皇后説」をかたくなに信じきっておられました。「ヒミコ=神功皇后説」は日本書紀の編集者が意図的に構成したもので、実際は3世紀前半のヒミコと4世紀後半の神功皇后は120年の開きがあることは実証されている、と説明しても、「古事記・日本書紀など中央政府が作った書物よりも、私は倉敷市の地元の伝承を信じます」ときっぱりでした。こうなると水掛け論になって議論はできません。
私の旧友ですが、東南アジアを主体に旅行ブログを連載しておられる方がいます。越族の拠点であった揚子江周辺の紹興と杭州を旅行した際に、私の越族ボートピープル・弥生起源説を思い出されたようです。広畠輝治氏によると『神武天皇は、中国春秋時代の越の国の軍人で、朝鮮半島経由で日本の九州に上陸、その後紀伊半島の水銀を求め……』と私が書いたことも話したこともない話を私の説としてブログで紹介されたので、肝をつぶしました。おそらく前4世紀の越族、前1世紀前後の倭族、1世紀後半の日向の神武天皇一族の流れを私の本で読んだ後、年代の違いを考慮しないまま、3つの要素が頭の中でくっついて「神武天皇、越の国の軍人説」が思い浮かんだのでしょうが、すぐに削除してもらいました。
有名大学の権威ある先生方ですら「欠史八代説」の誤りにいまだに気づかず、珍説・奇説を発表されている現状ですから、「邪馬台国」に関する珍説・奇説は数え切れないほどあふれています。古代日本史は外国人が口をはせめない世界ですから、閉鎖社会のコップの中でのはしゃぎ合いなのでしょう。
そういうあなたの吉備説も思い込みにすぎないではないか、と皮肉られる方も多くおられるでしょう。確かに吉備説第1作目の「邪馬台国 岡山・吉備説から見る 古代日本の成立」を出版した前後は、果たして吉備説が正論なのか、と不安でしたし、何千回となく自問自答をしました。ところが文献、考古学に神社古代史を連鎖させていくと、どんどん地中の根が広がっていき、これまで気づかなかった未知の世界が鮮明に見えてきました。今では上田正昭氏の「忌部・大和根源説」は明白に誤りであることをはっきり批判できるようになりました。まだ仮定の段階ですが、忌部氏の根源は弥生時代中期の倭族に属す筑紫の奴国周辺だったのではないか、と推測しています。
関連書や自分好みの書籍を読んで「ああだ、こうだ」と論じるのは、まだミーチャンハーチャンのレベルです。古事記、日本書紀、風土記を読みこなすことは難解ですが、少なくとも関連する土地、古い神社、遺跡を実際に歩き、博物館で現物を見ることが不可欠です。古代と言っても、同じ人間が築いた社会ですから、単眼、単細胞ではなく、複眼で総合的に眺める必要があります。
(古代社会と人間社会を見る私の視点)
どこの国の歴史を見ても、たまたまうまく回転した時代もありますが、理想的な社会がかって存在したことはありません。汚職、中傷、殺し合いばかりです。私が孔子の封建思想やマルクス主義が嫌いな理由は「かって古代に理想的な国、社会が存在した。だから私たちもそうならなければならない」と為政者側に有利となる論理を展開しているからです。
古代ギリシャのアリストテレスは「人間は社会的な動物」と語りましたが、歴史や社会を見る私の視点は「人間は最も欲が深い動物である」ということです。
その人物、氏族はなぜ、そのような行動をおこしたのか。その欲望は何か、をまず考えていきます。いつの時代でも物欲にかられた葛藤や世間のしがらみはあります。物欲と物欲の衝突がきわまった戦争で科学が進歩してきたことも事実です。わずかな救いは、少しずつですが社会の透明度が高まっていることです。
第3章では、俗説や風説の源、要因はどこにあるか、なぜ誤った思い込みに至ったのかを検証していきます。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(1)神武天皇2600年説
神武天皇の即位は紀元前660年前頃とする説は、「辛酉年(かのと・の・とり・の・とし)に橿原神宮で即位した」と記述する日本書紀にもとづきます。飛鳥時代から奈良時代初めにかけて、大和朝廷が創作した代表例です。もう少し厳密に見ますと、710年に平城京に遷都した後、古事記が公表された712年と日本書紀が公表された720年の間に最終決定しました。
日本書紀の記述をそのままに読んで、1872(明治5年)に「紀元節」が制定されました。しかしすでに江戸時代から年代の信憑性を疑う国学者が存在し、明治時代にも那珂通世氏が、古代中国の辛酉革命の思想にそって、推古天皇9年辛酉(601年)から1260年さかのぼった前660年とした、と公表し、文献学会の常識となっています。
こうした声を無視して「紀元節」は終戦の1945年まで続き、1966(昭和41)年に野党の反対を押し切って「建国記念の日」(旧正月頃の2月11日)として復活しました。
これは明らかに誤りである日本書紀の記述を日本政府や文部省が正論として認めている、という時代錯誤的な話となり、日本の教育行政の後進性を示していると同時に、古代史が現実の政治に利用される好例となっています。為政者側にとってはいまだに利用価値がある、ということです。
子供の頃に皇国思想を叩き込まれた人たちの中に、神武天皇2600年説の思い込みから脱却できず、史実であると信じておられる方がいまだに多いということでしょう。自分にとって何らかの利益になる、自分のビジネスに好都合、という方もまだ多いのでしょう。
(神武天皇2600年説が創作されるまでの過程)
日本は600年に中国の隋に遣使を送った頃から、中国に学び肩を並べようと、明治時代のような気運が盛り上がります。604年に暦日が導入され、607年に聖徳太子が小野妹子を通じて隋に「日の昇る国」から始まる親書を皇帝に渡したことは、その初心を表現したものと言えます。
聖徳太子は死の前年に、蘇我馬子と天皇記と国記の制作を始めますが、蘇我氏に関する記述について二人の間で意見が衝突し、聖徳太子は馬子に毒殺された、と私は推定しています。
643年に聖徳太子の王子である山背大兄(やましろのおおえ)王と一族は馬子の息子、入鹿(いるか)によって滅亡しますが、645年のクーデターにより蘇我氏が滅び、大化の改新が始まります。
天智天皇は聖徳太子の意志を次いで中央集権化の道を始めますが、663年に白村江(はくすきのえ、はくそんこう)で日本・百済連合が新羅・唐連合に大敗北、672年に壬申(じんしん)の乱と波乱が続きます。近代化の道は天智天皇の弟、天武天皇と正后持統天皇(天智天皇の皇女)夫妻により再開し、694年に中国の都市計画にもとづいた藤原京が造られ、710年に平城京に遷都して奈良時代が始まります。
その間に天皇の漢字名が創作され、天武天皇の頃から「天皇は神である」とする観念が始まります。倭国の「倭」は蔑称であることが分かり、国名は「日本」に改名されます。
古事記は712年、日本書紀は8年後の720年に公表されます。日本書紀の選者となった舎人(とねり)親王は天武天皇の皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に権勢をふるった人物で、息子が淳仁(じゅんにん)天皇となりますが、古事記と日本書紀は天武天皇の思いが強く反映していると考えて妥当です。
(建国記念の日は奈良時代に提唱された、と教科書に明記すべき)
これまでにも触れてきたように、神武天皇(イハレビコ)は葛(狗奴)国の初代王として1世紀後半に実在した、と私は考えています。時期は50~100年ごろ、今から1910年から1960年前です。
文字も詳しい暦日もなかった時代ですから、神武天皇の即位の日など、誰も分かりはしません。建国記念の日は、旧暦(陰暦)の正月頃に当たりますから、旧暦の季節感を忘れないためにも、建国記念の日を日本誕生の元旦と設定するのは問題ではありません。が同時に、神武天皇2600年説が提唱されたのは奈良時代の初めという事実、成立に至る過程を文部省は子供たちに教えるべきでしょう。私は「建国記念の陰暦正月」とするのが良いのではないか、と考えています。
建国記念の日の話は教科書問題につながります。教科書問題は、護身のために政治家の意見に振り回される官僚vs(対) 神武天皇2600年説否定論者の対立という図式になります。ところが批判する側も、「欠史八代説」と「邪馬台国大和説」という誤った視点に立脚していますから、史実の解明がとどこおっており、曖昧模糊とした状態が続いています。このため日本の成り立ちや原点、日本神話の楽しさを知らずに若い世代が成長していることは悲しむべきことです。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(2)ヒミコ(卑弥呼)・トヨ(台与)と神功皇后の同一視
ヒミコは神功皇后と同一人物と見なす方がいまだに多いようですが、ヒミコと神功皇后同一説は、神武天皇2600年説と同様に、日本書紀のトリックに引っかかった誤りです。
二人を同一視させる記述は「神功皇后紀」の以下の「―」の部分です。
〇神功皇后紀13年: 皇子の応神天皇が皇太子となる。
〇14年から34年の間は空白で記述なし。
― 神功皇后紀39年 : 魏志(三国魏志)によると、明帝の景初3(239)年、倭の女王が太夫(外務大臣)難斗米(なしめ)等が朝献させた。
―神功皇后紀40年 : 魏志によると、正始元(240)年に梯携(ていけい)等を倭国に使わした。
―神功皇后紀43年 : 魏志によると、正始4(240)年、倭王が太夫伊声者掖邪ら8人を送って上献した。
〇神功皇后紀46~65年までは、「百済記」の内容(366~385年)に合致する。
―神功皇后紀66年 : 晋の武帝の泰初2(266)年(司馬氏が魏から禅定され晋を建国した翌年)。「晋の起居(ききょ)」によると、倭の女王が通訳をつけて貢献した。
〇神功皇后紀69年 : 皇太后は100歳で崩御された。
(ヒミコ・トヨと神功皇后とは120年の開きがある)
神功皇后紀39年、40年、43年は魏志倭人伝、66年は晋の起居の記述から抜き取り、引用していることは明らかです。通常、39年、40年、43年の女王はヒミコ、66年の女王はトヨと判断されていますが、邪馬台国大和説をとっておられる方の中には、ヒミコから崇神天皇につなげる意図から、66年はトヨではなく男王と解釈する説もあります。
神功皇后紀元年から13年(このうち4年、6年~12年は記述なし)、46~65年は口承による伝承を土台として、共通したできごとを記載している百済記の366~385年を参考しながら、脚色しています。百済記の暦年は信憑度が高く、366~385年の間に倭国が朝鮮半島の弁韓諸国(任那)に遠征し、神功皇后ないしモデルとなった女性が実在していたことを裏づけています。
留意点は神功皇后紀66年です。晋の起居では266年、百済記では386年 と、120年の差があります。三国魏志、晋の起居、百済記を同じ年に重ねて引用することはなく、それぞれ異なった年に単独で引用しています。このため、120年の差を無視して、陰暦の60年周期を2つ重ねて、ヒミコ・トヨと神功皇后を日本書紀の編者が無理にくっつけたことは明らかです。巧みな編集手法により、表面的に読むとヒミコ・トヨと神功皇后はあたかも同一人物である印象を与えますが、ゆっくり読んでいくと、ヒミコとトヨの遣使は、あくまで参考資料として掲載しているにすぎません。
(日本書紀の編者がヒミコ・トヨと神功皇后を同一視した理由)
712年に古事記が公開された後、様々な批判が湧き上がってきました。有力氏族からの反論もありましたが、大きな課題となったことは古事記に年代の記載がないことでした。
さて、年代をどうするか。口承には年代の記録はありません。編纂総責任者の舎人(とねり)親王は、頭を抱えました。何とか年代設定をするように部下に命じます。
いつの時代でも公務員は上司から首を切られることが最大の懸念ですから、部下たちも必死です。帰化系の御用学者一族である東漢(ひがしあや)氏は中国、百済等の歴史書に書かれている倭国に関する記述を探し回りました。三国魏志、晋の起居、百済記の記述を一人の女性に集約させ、266年を神功皇后紀66年として、266年を基点に年代設定してみたら、どうだろうか。「倭国」改め「日本」の人たちの中で漢書を読みこなせる人はごく僅かであるから、120年の繰上げに気づく人もほとんどいないだろう。
東漢氏の提案を舎人親王の部下たちは、藁をもつかむ思いで採用しました。これに加えて辛酉革命の思想にそって、神武天皇元年を推古天皇9年辛酉(601年)から1260年さかのぼった前660年としました。
部下からの報告を聞いた舎人親王はご満悦でした。
「そうか。我が国の創始者でおられる神武天皇は、中国の孔子、インドのお釈迦様よりも古い人物だったのか。素晴らしいではないか」
かくして日本書紀の年代設定ができあがりました。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(3)アマテラスとヒミコと日蝕
アマテラスとヒミコは同一の人物、あるいはアマテラスのモデルはヒミコであり、ヒミコの在世中に出現した日蝕がアマテラスの「天の石戸隠れ」神話の源となったとする説は、典型的なミーチャンハーチャン邪馬台国論です。
私が意味する「ミーチャンハーチャン」とは、表層だけで早合点の思い込みをされて、感情だけが先走る論争に自己陶酔するタイプの人たちのことです。こうしたタイプの人が書く文章は、縁日の香具師(やし)の口上に似ていて、居丈高に扇情的なものになるか、紙芝居的な手品の手法を盛り込んでいるのが特徴です。
こうした自己陶酔的な思い込みから脱却するためには、より視野を広くするか、具体的に踏み込んだ実証が必要です。
たとえば、ヒミコの時代に果たして日蝕があったのか、という研究です。国立天文台の学者お二人が皆既日食が起きた年代と場所から邪馬台国の所在地を割り出す試みをされました(朝日新聞asahi.com 2010年3月29日付け)。記事によりますと、1~3世紀には53年、158年、247年、248年の4回、皆既日食がありました。247年と248年はヒミコの死の前後に当たりますから、表層的には天の石戸隠れの日蝕起源説を裏付けています。が残念ながら247年の日蝕は日本では日没後で見ることはできず、248年の皆既日蝕帯は東北地方だったということです。ですから、大和説でも九州説でも、日蝕起源説はもろくも崩れてしまいます。
(アマテラスの正式名は「アマテラス‐オオヒルメ」)
留意しなければならない点は、アマテラスは古事記では「アマテラス」ですが、日本書紀の本文では「アマテラス‐オオヒルメ」となっていることです。古事記より8年後に公表された日本書紀は、古事記の誤った点や不十分な点を修正・補足する目的も持っていますから、「アマテラス‐オオヒルメ」が正規の神名と考えるのが妥当です。
「アマテラス‐オオヒルメ」を私はアマテラスは大和神話の祖神、オオヒルメは吉備神話の太陽神で、2神は大和が日本統一を成し遂げた後の4世紀前半、第11代垂仁天皇の時代に融合されたと推定しています。
アマテラスの長男でホノニニギの父神であるアメノオシホミミは豊前の英彦山(ひこざん)神宮に祀られていますから、ホノニニギは英彦山周辺に居を構えていた倭族の一部族で、アマテラスはホノニニギの祖母がモデルなのではないか、と想像しています。 独立したホノニニギは日向に移住し、伊予(愛媛県)のオオヤマツミ族の支援を得て、王国を打ち立てます。その伝承が大和の建国神話に取り入れられ、アマテラスは大和葛(狗奴)国の伝説的な祖神となります。
ヒミコは吉備邪馬台国の女王として吉備神話の太陽神オオヒルメを祀る立場にありました。
(天の石戸神話は太陽を地上に引き戻す儀式)
天の石戸隠れ神話は、アマテラスとスサノオ2神の対決とスサノオの狼藉だけで早合点をしてしまうと藪の中に入ってしまいます。アマテラスを石戸から引き出した高天原の神々もセットにして考慮する必要があります。
イシコリドメ が銅鏡、タマオヤが玉を造り、アメノフトダマ(忌部系)が占いをし、アメノコヤネ(中臣系)が祝詞をあげ、アメノウズメが滑稽な踊りで神々を爆笑させます。不審を抱いた太陽神が石戸から顔を覗かせると素早くアメノタヂカラヲが太陽神を外界に引き出します。
この情景はきちんとした儀式の体系ができ上がっていますので、太陽の光りが最も弱まる冬至の季節に、太陽の女神の復活を祈って、毎年、定期的に行われていた儀式と見なすのが正しいようです。すでに触れたように、中臣系は吉備、忌部系は讃岐・阿波が主体ですから、天の石戸の舞台は大和でも九州でもなく、中国山地か讃岐か阿波の山中にあったとするのが自然です。
(太陽信仰と冬至信仰は縄文時代から存在していたのではないか)
まだ仮説のレベルですが、私は日本人の太陽(お日様)信仰、冬至信仰は縄文時代から存在していたのではないか、と推論しています。
魏志倭人伝で「魏略によると、倭人は暦による正確な年次や四季を知らない。わずかに春耕と秋の収穫を記憶して年数を数えている」と記述しているように、弥生時代の日本に陰陽五行説を元にした精緻な暦は存在しませんでした。しかし縄文時代の秋田県鹿角(かづの)市の大湯環状列石の日時計、青森県の小牧野環状列石、群馬県安中市の天神原遺跡などを見ますと、縄文時代から夏至と冬至など、ある程度の季節の変動を予測する初歩的な暦は存在していたようです。縄文時代か弥生時代かは分かりませんが、私が吉備邪馬台国の首都圏と見なしている岡山市の吉備中山にも立派な環状列石が存在します。
お日様が住み、神々が寄り集う高天原は、縄文時代から、日本の山岳部のあちこちに存在していたのではないか、という気もしています。
中国山地の高天原の候補地を挙げて見ますと、
①神(こう)ノ峰(備前と美作の境)、
②蒜山(ひるぜん)高原(美作)、
③川上町の穴門山神社周辺(備中)、
④帝釈峡・葦嶽山周辺(備後)、
⑤大土山(備後)、
⑥大朝町(北広島町)の天磐門別神社と日野(火野)山周辺(安芸)、
と最低でも6か所あります。
冬至儀式を重んじる土着の縄文人と中臣氏、忌部氏が出会う場所が、天の石戸神話が誕生した場所であろうと推察していくと、最も可能性が高い場所は備前と美作の吉井川流域に行きつきます。しかし軽はずみな思い込みや自己陶酔は避けるべきですので、「高天原の所在地探し」は今後の課題の1つにしています。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(4)ヒミコはシャーマン説
井上光貞氏(1917~1983年)はヒミコの存在について以下のように記されています。
(中公文庫版 日本の歴史1.神話から歴史へ P.206)
このような女王卑弥呼の存在は、何を意味するのだろうか。一部の学者は、「古代の母系社会における女人政治の典型」と考えている。しかし、倭人伝によれば、「鬼道(きどう)を事とし、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫婿(ふせい)なし。男弟ありて、たすけて国を治む」とあるから、政治のことは弟が行い、彼女自身は、霊力に秀でた独身の女性、つまりシャーマンにほかならなかったのである。じっさいは男子の政治であり、女子が霊媒者としてこれをたすけるという形態なのである。
この本は1964年に書かれたものですが、ヒミコのイメージは40数年後の現在もほぼ同じのようで、ヒミコ=シャーマン説はすっかり定着しています。ヒミコはまるで新興宗教のシャーマンのようです。
しかしヒミコは本当におどろおどろしいシャーマンだったのでしょうか。そうではなく、ヒミコは太陽神オオヒルメやオオモノヌシなど、吉備の神々に仕える巫女(みこ)の役割も果たしていたにすぎない、と私は考えています。第10代目崇神天皇の皇女トヨスキイリビメがアマテラス、ヌナキノイリビメがヤマトオオクニタマに仕えたと同じで、その後の天皇の皇女も代々、伊勢神宮のアマテラスに仕える巫女となっています。王族か貴人の娘が神に仕える巫女になることは普通のことでした。
(鬼道は民間道教と見る薬師寺慎一説)
注目するのは、古代祭祀研究家でおられ、吉備中山麓にお住まいの薬師寺慎一氏の「ヒミコの鬼道は中国の民間道教説」です。薬師寺氏は近藤義郎氏と京都大学で同級生で、親友同士ともいえ、お二人が岡山県の古代史の重鎮です。
薬師寺氏は「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」(吉備人出版。1995年発行)で「鬼道は民間道教説」を発表されています。改めて同書や「祭祀から見た古代吉備」(吉備人出版。2003年発行)など、薬師寺氏の著作を読み直してみました。
以下は「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」からの抜粋です。
「鬼道に仕え、能く衆を惑わす」の意味は、ヒミコが道教をよく理解し信仰していて、その呪術的な力を用いて、うまく民衆を信用させ、支配する様子を述べたものだと解釈しているのです。(P.35)
重松明久氏は「鬼道という言葉は、三国志の中ではヒミコに関する記事の中に見えるだけでなく、魏書の張魯(ちょうら)伝にも出てくる。それによれば張魯は道教の(五斗米道の)指導者で、信者の民衆をまとめて宗教的な独立政権を樹立した人物だが、彼の説く道教は鬼道と呼ばれた」(P.37)、水野正好氏は「ヒミコの周囲には道教を解し、伝達の文局があって、その呪意を伝奏したに相違ないのである」と言っておられます。(P.115)
薬師寺説はそこから吉備の足守川周辺の道教の具体的な影響について進み、代表例として楯築弥生墳丘墓の朱(水銀朱)、立石、御神体石(弧帯石、亀石)を挙げられます。
まず金と同じ価値があり、30kgも使われた水銀朱は高品質なことから中国からの輸入品と判断されています。
楯築遺跡には5つの立石がありますが、中央の石を除く4つの石は東西南北に位置しています。ここから4つの石は東の吉備中山、南の児島半島の常山、西の日差山、北の龍王山の四方の聖山を拝む時の神のヨリシロであったと考え、これは道教に関わる中国の五嶽(中央の嵩山、東の泰山、南の南嶽、西の崋山、北の恒山)に起源があるとされます。
亀石とも呼ばれる御神体石は亀に蛇が巻きついた玄武(北の守護神)石で、水稲に欠かせない水の神のヨリシロ、とされます。
私は長い間、道教というとすぐに老子と荘子の老荘思想を思い浮かべてしまっていました。ヒミコの鏡と言われる三角縁神獣鏡は道教思想の背景をもとに作られたとする説には納得しますが、舶来品の鏡の絵柄を見てスゴイと感じる程度で、道教の教理まで理解できたかどうかは疑わしいと懐疑的でした。
しかし薬師寺氏にお会いして、薬師寺氏が意味される道教は民間道教の五斗米道であることをうかがい、目を開かされました。後漢末期、魏の曹操は中国東部で黄巾の乱を起した民間道教の太平道はつぶしましたが、蜀に本拠を構えていた五斗米道は容認しました。後漢から禅定を受けた後も魏は五斗米道を容認しましたから、魏の支配下にあった帯方郡にも五斗米道の信奉者は存在したことでしょう。
私の連想では、ヒミコとその取り巻きは、占いを伝統的な骨占いではなく、五斗米道の民間道教の占いにそって行った、とすると周囲や国民は戸惑ったことでしょう。
(楯築弥生墳丘墓はヒミコの墓か)
楯築墳丘墓から出土した2枚の歯は小さく、女性の歯は男性の歯より小さいことから、女性の歯の可能性が高いことも考慮すると、「楯築の首長とヒミコは、もしかすると同一人かもしれない」という気もしてきます。仮にそうだとすれば、ヒミコのいた邪馬台国は吉備にあったことになるわけです。」(P.29)と、ヒミコの墓ではなかろかと暗示されています。
しかし薬師寺氏はヒミコの国は北部九州、敵国の狗奴国は南九州とする九州説に立っておられますので、3世紀前半の日本列島には吉備の楯築の首長と北部九州のヒミコの2人の女性大首長がいたと仮定されます。
当時、中国は三国時代で、魏・呉・蜀に分かれて争っていたが、邪馬台国は魏と同盟関係にあり、狗奴国は呉と同盟関係にあった。即ち東アジア的視点からすれば、「魏・邪馬台国同盟」と「呉・狗奴国同盟」という形で対立していたのである。(P.142)
呉は揚子江下流地域にあった国だから、南九州の狗奴国とは親密な関係にあった。一方、吉備にあった楯築の首長は、南九州の狗奴国と親密な関係にあった。即ち、南九州から宇佐(大分県)を経て吉備に至る海上ルートが開けていた。
楯築の道教は北方から朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、呉から伝えられたものと考えられる、とされています。
(ヒミコの墓は鯉喰神社弥生墳丘墓とする自説)
薬師寺説と自説が異なる点は、
①邪馬台国九州説に対して、私は邪馬台国吉備・狗奴国大和説です。
②楯築弥生墳丘墓の造成年は、薬師寺説は楯築墳丘墓はヒミコが他界した248年頃を含む3世紀前半とされますが、造成は190年代で、埋葬者は180年代に他界したヒミコの前王(仮名は楯築王)と考え、3世紀半ばに築かれたヒミコの墓は楯築墳丘墓から北に700m進んだ鯉喰神社下の弥生墳丘墓としています。
③吉備と大和の関係では、薬師寺説では、吉備勢力が特殊壷・特殊壷の祭祀をたずさえて大和要りしたとされますが、自説は大和狗奴国が吉備邪馬台国を滅ぼして、吉備から倭国の盟主の文化を取り入れた、と考えています。
ヒミコが漢字の読み書きができ、五斗米道や陰陽五行説に精通していたとは考えられませんが、
204年に公孫氏が楽浪郡の南に帯方郡を設置して、朝鮮半島南部の諸国を統制しだした前後から、吉備の足守川周辺に大陸から渡ってきた人々が多く在住していたようでもあり、ヒミコ時代の太夫(外務大臣)の難升米(なしめ)は帰化人だった可能性があります。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(5)陰陽五行説はいつ伝来したか
(ヒミコの外務大臣、難升米 は帰化人だった)
邪馬台国の太夫(外務大臣)として魏の第2代明帝(曹操の孫)に謁見し、非常に厚遇された難升米(なしめ)は朝鮮半島の帯方郡か伽邪国から邪馬台国にやってきた帰化人ではなかったろうか、という思いは魏志倭人伝を読み返しながら思い浮かんできたものです。
魏志倭人伝の記述を追ってみます。
238年、魏が公孫淵を破り、帯方郡を直轄地とする。
239年陰暦6月、ヒミコは太夫難升米を遣使とする。
240年の使者は氏名の記載なし。
243年の太夫は伊声耆掖邪狗(いしきややく)。
245年に魏は難升米に黄色の軍旗を送ることを約束する。247年に邪馬台国に派遣された張政は詔書と軍旗を難升米に与える。
247年か248年、ヒミコを継いだ女王トヨは太夫伊声耆掖邪狗等、20人を派遣した。
これから類推すると、邪馬台国には難升米と伊声耆掖邪狗の二人の外務大臣が存在していたことになります。238年に魏が公孫氏を破った後、間髪を入れずに魏に遣使を送ったことは、帯方郡や朝鮮半島の事情に精通した者が邪馬台国の中枢部にいたか、影響を与えていたことを示しています。島国に住む日本人は21世紀になった現在でも国際情報ににぶいというか、俊敏な眼を持っているとは言えませんから、帰化系の人物がヒミコ政権に助言をしたことは明らかでしょう。聖徳太子が送った遣隋使の中にも帰化系の人たちが多く混じっていました。難升米は帰化人、伊声耆掖邪狗は邪馬台国生え抜きの官僚と予想しています。難升米は漢字が読め、ある程度は当時の中国語を話せたのかもしれません。
238年に魏が公孫淵を破り、帯方郡を直轄地とした理由は、公孫淵が魏の敵である呉との連携を図ったことにありますから、239年の時点で倭国に対して期待していたのは呉対策でした。首都の洛陽がある中原では日本列島は東の方向ではなく、南の方向に細長く伸びており、南端は呉、揚子江河口と海を挟んで向かい合っている、と思い込んでいた説も、古地図から推察できます。難升米は明帝の前で、呉を打ち破るために背後から援護射撃をいたしましょう、と大見得をきった情景が浮かびます。
中国東北部の遼東半島を地盤とした公孫氏が帯方郡を造り、朝鮮半島南部の諸国への統制を強めたのは204年のことです。それ以降のヒミコと帯方郡、帰化人の関係については、第4章で詳しく触れることにします。
(吉備邪馬台国の首都は足守川下流域)
薬師寺慎一氏は「祭祀から見た古代吉備」(P.123~124)で、足守川下流域に大規模な環濠集落が存在した可能性を予見されています。その環濠集落は足守川に沿って、北は加茂小学校、南端は波止場跡が発見された上東遺跡までの、直線で約3キロメートルの大規模なものです。
おそらくこの環濠集落が吉備邪馬台国の首都の中心部です。私の予想では、ヒミコとトヨの王宮は吉備津神社の丘で、王宮と足守川を結ぶ吉備中山西麓の宮内と東山が官庁街となります。204年頃から266年まで続いた帯方郡との交易品や親書の封印の役割を果たした後に捨てられた封泥(ふうでい)は宮内か東山のどこかに眠っていると推測しています。
吉備邪馬台国・吉備津首都説に懐疑的、批判的な方も多いことと察しますが、とにかくJR山陽線の庭瀬駅からJR吉備線の足守駅まで、足守川周辺の遺跡を足で歩いてみてください。ご批判はその後でうかがいます。
(足守川周辺の渡来人の足跡)
足守川周辺に朝鮮半島からの渡来人が居住していた、と推測できる足跡は、文献、考古学、伝承、神社史の4方向から迫っていくことができます。
1.文献的には、吉備の賀陽(かや)郡は伽邪(かや)国から来た人たちが居住したことを示している、と解釈されています。
2.考古学的には、高塚遺跡から中国の新時代(西暦14年頃)に鋳造された貨泉(かせん)が、まとめて25枚出土しました。それまで貨泉は全国の11遺跡で16枚しか発見されていませんでした。上東遺跡からは朝鮮半島系の陶質土器の破片が見つかっています。
3.伝承的には、桃太郎のモデルとなった吉備津彦に抵抗した温羅 (うら)への信仰です。吉備津神社には温羅と一緒に弟の王丹(おに)も祀られています。温羅は張政が帯方郡に帰還する際に、後を託した帯方郡の武将、王丹は備後の国境に近い井原(いばら)市や鳥取県の伯耆溝口に伝えられる鬼伝説のモデルではないかと考えていますが、温羅と王丹兄弟は小説版「箸墓物語」で活躍してもらいました。
4.神社史から見ると、スサノオの息子神イソタケルが高梁川の河口であった倉敷市の酒津の青江神社で祀られています(「邪馬台国吉備説 神話編」P.102~P.104、P.404参照)。イソタケルは主に紀伊(伊太祁曽いたきそ神社)と出雲(韓国伊太氐奉からくにいだてほ神社)に分布していますが、伽邪地方から来た神と見られ、紀伊に至る瀬戸内海の港であったと考えられる地に神社が残っています。おそらく伽邪地方の海人や交易者が信奉していた神なのでしょう。
(陰陽五行説の伝来時期)
陰陽五行説は、554年(欽明天皇15年)に百済を通じて仏教と一緒に伝来した、とするのが定説となっています。しかし倭軍が朝鮮半島南部に進出した4世紀末頃から捕虜や亡命者として日本列島に定着した帰化人を通じて、あるいは5世紀初め頃、百済から招かれた王仁(わに)博士によって紹介されていた可能性もあります。
3世紀前半の吉備邪馬台国時代に陰陽五行説が伝来していたとするなら、どの深さまで神道に影響を与えたのか、を私は模索しています。その痕跡は中臣系と忌部系の古社の祭祀に残っているかもしれません。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(6)2世紀後半の倭国大乱の原因と場所
倭国大乱の根拠は、5世紀に制作された「後漢書」と7世紀に制作された「梁書(りょうしょ)」によります。後漢書では「恒霊の間」の147~189年、梁書では「漢霊帝の光和中」の178~183年、となっていますので、180年前後に大乱があったと見るのが無難です。
それでは、どうして倭国大乱が発生したのでしょうか。代表的な理由として、
①後漢の勢力の衰えと共に、朝鮮半島のバランスが崩れ、その余波が日本列島に押し寄せた、
②朝鮮半島南部の鉄資源の輸入をめぐる勢力争い、
の2点が古くから挙げられています。
(後漢の支配力の衰えと鉄資源をめぐる北九州勢力と近畿勢力の争い)
(井上光貞「日本の歴史1.神話から歴史へ」中公文庫版 P.200~P.201)
(倭国大乱の理由は)後漢帝国の保障という虎の威を借りて、その政治的安定を保っていた北九州の王たちが、後漢の衰退によって大きな打撃をうけたためである。つまり後漢を中心とした東アジアの政治秩序の崩壊、これが倭国の大乱の1つの大きな歴史的背景であったのであろう。
大乱の原因の他の1つは、弥生後期に入ってからの鉄器の普及である。弥生後期から鉄器がにわかに多くなり、しかも日本製の鉄器が現れた。鉄器のこのような普及は、農業生産力の向上をもたらすとともに、武器の威力も高めたであろう。それは国々の争いの中から、より大きな連合、さらには国家の生まれていく大きな力となったのではないだろうか。
(北九州、瀬戸内海勢力の大和入り)
邪馬台国九州説では、ヒミコの時代の後、即ち3世紀後半に筑紫勢力が大和に入り、大和政権を樹立する過程が倭国大乱であるとする説もありましたが、倭国大乱は180年頃で、3世紀後半と約100年の差がありますので、現在では否定されています。
次に登場したのが、吉備を主体にした西日本勢力が大和盆地に入り、ヒミコを共立した、とする説です。この説の代表者は寺沢薫氏です。
時まさに3世紀初め、イト倭国の権威が失速するなか、列島諸国はイト国にかわる新たな外的国家=倭国の枠組みと盟主を模索していた。 (中略) もはや一部族国家が権威と力で他を征し、倭国を新生させることはできない情況にあった。「倭国乱」と書かれたこの八方塞がりの情況を打破すべく、「筑、備前、播、讃」(後の筑紫、吉備、播磨、讃岐のこと)や出雲、近畿勢力のどこかの1つの勢力ではない、これらの国々の合意のもとに、まったく新しい倭国として、その権力中枢が「ヤマト」に建設された。 (中略) そのカードを握ったのはキビの王だった、と私は思うのだが。
(寺沢薫 「日本の歴史02王権誕生」P.249 講談社、2000年12月)
(倭国大乱は吉備邪馬台国連邦(倭国)での王位継承争い)
第2章6.で触れたたように、倭国大乱は吉備邪馬台国連邦(倭国)での王位継承争い、と私は判断しています。
57年に奴国・伊都国連合が後漢の光武帝に遣使を送り、107年に倭国王・帥升(すいしょう)等が後漢に遣使を送りましたが、107年の遣使は北部九州勢力を支配下に置いて、倭国の新しい盟主となったグループで構成されていた、と考えています。57年から107年の間に、西日本の支配権は北九州勢力から吉備・出雲勢力に移り、時代は弥生中期から弥生後期に移ったわけです。その背景には鉄器の普及により、瀬戸内海と日本海地域の農業生産が伸張し、山岳部が海に迫り農業可能地に限りがある北部九州を凌駕していったことにあります。
注目すべき点は、180年前後の倭国大乱の後、200年前後に、吉備の楯築墳丘墓、出雲の西谷二号四隅突出形方丘墓、丹後半島に赤坂今井方丘墓、讃岐に円丘墓、阿波に前方後円形の萩原二号墳が登場します。これは中心部にあたる吉備で変化が生じ、周辺の出雲、丹波・丹後、讃岐、阿波で独立性が高まった、と見ることができます。大和盆地で同規模のホケノ山古墳(前方後円墳)が登場するのは230年頃ですから、約30年前にあたります。
(第1次、第2次、第3次の高地性集落をどう読み解くか)
倭国の中心部が弥生中期の北部九州から、弥生後期は吉備、弥生終末期・古墳早期は大和に移行していった足跡は、弥生中期後半から弥生終末期・古墳早期の高地性集落(砦集落)の分布から見ることもできます。
第1次高地性集落:弥生中期後半から後期初め(前1世紀後半~1世紀)
ほとんどが瀬戸内海沿岸に密集しています。日本海側では伯耆の淀江に紀元元年頃から始まった妻木晩田(むきばんだ)遺跡が注目されます。近畿地方は摂津と紀伊に幾つかありますが、東海地方は伊勢に1か所あるのみです。
第2次高地性集落:2世紀(100年から200年頃)
第1次に比べて分布が西部では中部九州や南四国、西部瀬戸内海に拡がります。東部では河内、大和に加えて、淀川流域から近江に増えます。東海地方では伊勢、尾張、三河の東海地方に増大します。
第3次高地性集落:3世紀
中国地方では防府、安芸の宮島湾、出雲で増えます。東海地方では伊勢、尾張、三河から遠江に拡がります。北陸では越前、越中、越後の全域に広がり、信州にも登場します。
3段階をどう読み解くかは諸説がありますが、第1次は吉備邪馬台国の勃興、第2次は吉備邪馬台国の西への伸張、大和狗奴国の勃興と東海地方への進出、第3次は大和の東西への拡大、と私は読んでいます。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(7)中国山地の砂鉄と鉄の製造
「スサノオは砂鉄に関係するスサ(須佐)族の首領で、朝鮮半島の新羅から一族を連れて1世紀頃、出雲の神門川中流の飯石郡須佐郷、現在の島根県簸川郡佐多町須佐(須佐神社)に移り住んだ」
「ヤマタノオロチが毎年現れて、テナヅチ、アシナヅチの娘(イナダヒメ)を要求した神話は、他部族が出雲の河川をさかのぼって、豊富で良質な中国山地の山砂鉄を強要し、たびたび掠奪行為に出るので、出雲人は悩まされていた。そこへスサノオが現れて……」
この2節は、検索エンジンのグーグルで「スサノオと砂鉄」を打つと出てきた代表例ですが、「スサノオ―出雲―砂鉄」のイメージはあいかわらず根強いようです。私も40年前の学生時代は、対馬暖流に乗ってきたスサノオ族対中国山地の砂鉄族との争い、という情景を思い描いていました。
その頃からずっと、中国山地に産出する砂鉄は、地球が暖かく海が現在よりも200mほど水位が高く、恐竜がばっこしていた白亜紀の海岸線に積もっていたものと思い込んでいました。ところが実際は、兵庫県の砥峰(とのみね)高原から島根県に至る中国山地の花崗(閃緑)岩が風化して、砂鉄ができあがったことに気づいたのは、邪馬台国吉備説の研究を始めてからでした。
不思議なことは、古事記、日本書紀からさほど違わない時期に作成された出雲国風土記(奥書は733年)には、ヤマタノオロチの舞台になったであろう仁多郡だけでなく、他の郡でもヤマタノオロチ神話が登場していないことです。仁多郡には横田にイナダヒメを祀る稲田神社、スサノオが高天原から下ってきた鳥髪(船通)山、タマヒメを恋い慕って川をさかのぼってきた伝説がある鬼の舌震(したぶるい)などがありますが、ヤマタノオロチの根源地として何かもの足りません。高天原は出雲には見当たりませんし、仁多郡とヤマタノオロチの結びつきは古事記と日本書紀が作られた以後にできあがった印象をもちます。
さらに砂鉄から鉄を製造する技術は、応神朝の5世紀に朝鮮半島から渡来したことが明らかになっています。ですからヤマタノオロチ神話が成立したのは5世紀以降となりますが、応神朝の始祖と言えるヤマトタケルは応神天皇以前の景行天皇の皇子です。ヤマトタケルは東国行きに際して伊勢神宮に詣り、叔母のヤマトヒメからヤマタノオロチの尾から出てきた草薙の剣をもらっていますから、ヤマタノオロチ神話は応神朝以前にすでに存在していたことになります。こうなると、頭が混乱していきますが、少なくともスサノオ、ヤマタノオロチと砂鉄の関係はないと言えます。
(ヤマタノオロチ神話と吉井川)
神話の神々の根源地を探していくうちに、スサノオの足跡は出雲だけでなく、吉備の備前、ことに赤磐市に濃厚に存在していることに気づきました。
美作と神ノ峰(こうのみね。高ノ峰)で国境を接する吉井町(現赤磐市)の是里(これさと)に、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣を洗った「血洗いの滝」があります。スサノオの剣から生まれた宗像3女神を祀る「宗形神社」には、かって神ノ峰の頂上にあった太陽神を祀る「神峰伊勢神社」とオオナムチを祀る「神峰神社」、剣山にあった「剣祓神社」の3社が合祀されています。神ノ峰の近くにはオオモノヌシを連想させる「金刀比羅山」や美作で最古の本山寺があります。石上には日本書紀でスサノオの剣を祀った神部とされる「石上布都魂(いそのかみふつたま)神社」があり、奥宮の山上に見事なイワクラがあります。
神ノ峰を下っていくと吉井川に出ます。「すさ」を連想させる周匝(すさい)、周佐(すさ)の地名があり、柵原(やなはら)町(現美咲町)の吉ヶ原に柵原鉄鉱山跡(現ふれ合い鉱山公園)があります。
釉薬を使わない焼き締めで名高い備前焼の粘土には鉄分が多く含まれているように備前の土壌は鉄分が多く、吉井川流域は古代から硫化鉄だけでなく、磁鉄鉱や赤鉄鉱石の鉄鉱石が多く産出されたようです。(「邪馬台国吉備説」P.189~P.195、P.390~P.397 参照)
ヤマタノオロチは直接的には登場しませんが、スサノオの剣、血がついた剣を洗った滝、太陽神、スサノオの系譜に属する宗像3女神とオオナムチ、「すさ」の地名、鉄鉱石と、スサノオに関連するキーワードがつまっています。
これをどう解釈していくか?私は以下の仮説に至りました。
―スサノオ神話は前1世紀から2世紀にかけて、備前・美作でできあがった神話ではないだろうか。スサノオの根源地は吉備で、スサノオは吉備から出雲に入った神のようです。
―現時点では実証する遺跡は発見されていませんが、5世紀に伝わった砂鉄タタラ製法以前に、磁鉄鉱や赤鉄鉱石を材料に使った鉄製造が吉井川周辺で、小規模にせよ、実在していたのではないだろうか。
これまでの常識や固定観念をくつがえす仮説ですが、ここから、私の邪馬台国吉備説はさらに深化していきます。
第3章 俗説・風説の検証
2.古代日本に関する俗説
(8)神功皇后と河内王朝 注:「謎の四世紀解読」を参照して下さい
4世紀後半の神功(じんぐう)皇后と武内宿禰(たけうちすくね)ほど、時代の政治・社会動向に翻弄されてきた人物はありません。
1945年の第2次世界大戦の終了まで、神功皇后は日本軍の大陸侵攻の女神のような存在で、武内宿禰は神功皇后を補佐した英雄的な存在でした。敗戦により価値観が反転して、神功皇后は斉明天皇(皇極天皇として在位641~645年。斉明天皇として同655~661年)と持統天皇(在位686~697年)の女性天皇二人をモデルとして創作された架空の人物であると、歴史の片隅に追い出されてしまいました。今日では、神功天皇と武内宿禰は実在していなかったことが定説となっています。
二人が想像上の人物だったとすると、4世紀後半に倭軍が朝鮮半島南部の任那(弁韓)地方に侵攻したことも想像上のできごとということになります。現在の古代文献学会は4世紀は3世紀以上に謎の世紀とされています。
例をあげますと、熊谷公男(くまがいきみお)氏が執筆された「日本の歴史03 大王(おおきみ)から天皇」の文庫本(講談社学術文庫。原本は2001年刊行)の年表(P.363)を見ますと、東アジア社会は朝鮮と中国の史書をもとに詳しめに紹介されていますが、日本国内については369年に「百済王世子(太子)が倭王に七支刀を贈る」、391年に「この年以降、倭、しばしば半島に出兵」の2つを除くと、まったくの白紙となっています。倭国が朝鮮半島に進攻したのは事実だが、それ以上のことは分かりません、ということです。国内の意思統一のためにナショナリズムを鼓舞する必要がある現代の韓国では、倭軍の朝鮮半島侵攻は存在していなかった、とする見解が主流となっています。
(神功皇后クーデター説)
私は、二人は実在し、二人が主導した朝鮮半島への進攻も史実であると見ています。景行天皇の酒池肉林の腐敗した宮廷に辟易した和邇(丸邇。わに)氏を筆頭としたグループが神功皇后と武内宿禰を担ぎ出してクーデターをおこした、ととらえています。
約80人もの子供を作った景行天皇は70人あまりの子供を国や郡に送り込み、分封化をはかります。これは各国の豪族にとっては脅威となりますから、西国だけでなく東国の国々も、讃岐を除いて神功・和邇連合につくか、静観しました。
自説に対して「素人が何を言っている」と冷笑される先生もおられるでしょう。しかし文献の重箱の隅をつつくことにはプロでしょうが、「欲と欲がつっぱり合う生身の人間社会」については素人の先生が日本も韓国も多いようですので、あまり気にはしていません。ポイントは和邇氏と神功皇后の系図にあります。
(和邇氏の系図)
天理市から奈良市南部を拠点とした和邇氏の始祖は、第6代孝安天皇(ヤマトタラシヒコ‐クニオシビト)の兄アメオシタラシヒコ(天押帯日子)です。欠史八代説では兄弟とも実在しなかった想像の人物となりますが、父の第5代孝昭天皇が東海地方制覇した後を受けて、南葛城地方の狗奴国が大和盆地全域に勢力を伸ばし、日本列島統一の土台を築き上げた兄弟です。
アメオシタラシヒコの娘オシカヒメ(忍鹿比賣)が弟の孝安天皇の正后になった後、和邇氏は第7代孝霊天皇の后(春日のチチハヤマワカヒメ)、第9代開化天皇の后(オケツヒメ)を出した後、第15代応神天皇の后ミヤヌシヤカハエ(宮主矢河枝比賣)を出します。
ミヤヌシヤカハエは皇子ウヂノワキイラツコ(宇遲能和紀井郎子)、皇女ヤタノワキイラツメ(八田若郎女)を生みます。応神天皇はウヂノワキイラツコを可愛がり後継者とする遺言を残しますが、ウヂノワキイラツコは腹違いの兄、仁徳天皇に王位を譲り、謎の死をとげます。ヤタノワキイラツメは仁徳天皇の恐妻だった葛城氏のイワノヒメ(磐之媛)が他界した後、仁徳天皇の正后となります。
和邇氏は大和の名族として応神朝の後の継体朝になっても生き続け、春日臣、大宅臣、小野臣、柿本臣などに分化していきます。
(神功皇后の両親の系譜と朝鮮半島の関係)
神功皇后(オキナガタラシヒメ)の父は息長(おきなが)宿禰、母は葛城のタカヌカヒメです。
父方の祖は開化天皇と后 オケツヒメ(和邇氏)の皇子ヒコイマス(日子坐。第10代崇神天皇の腹違いの弟)で、子孫は近江と丹波とのつながりが深く、神功皇后の生地は近江町(現米原市)といわれています。息長氏は渡来系氏族かその影響を強く受けた氏族とも考えられています。
母方は朝鮮半島から渡来したアメノヒホコを始祖とする但馬氏です。兵庫県の北部、日本海に面する但馬は朝鮮半島、ことに新羅地方(辰韓)からの渡来人が多く在住していたことは史実のようです。新羅というと朝鮮半島を統一した新羅(斯盧しら)と同一視されがちですが、辰韓は12か国から構成されていました。この中から斯盧が台頭し、辰韓地方の他国を統一し、西隣にある弁韓地方にも食指を伸ばしていきます。斯盧に侵食された辰韓地方の他国のうち、釜山から慶州に至る海岸線に立地した複数の王国の王族や住民は日本海を越えて倭国に亡命してきます。亡命者の波は、数派にわたり時期も異なりますが、次第に但馬地方に集まり、アメノヒホコを祖神とする但馬国を作り、斯盧に対抗する祖国復興を悲願にします。
(神功皇后クーデターの背景)
景行天皇はどういうわけか晩年になって王宮を近江の琵琶湖河畔に移します。これは景行朝の腐敗に苦りきった大和の氏族が景行天皇の追い出しで結束し、景行天皇は後継者の皇子(成務天皇)を伴って近江に逃避する必要に追い込まれたことを示しています。追い出した勢力は後継者としてヤマトタケルの皇子であるタラシナカツヒコ(仲哀天皇)を推します。
その頃、仲哀天皇は父の景行天皇の命令で、熊襲討伐で筑紫に派遣され、第2夫人となった神功皇后も後を追って、筑紫に向かいます。ところが筑紫では反対勢力が強く、仲哀天皇は筑紫入りができず、対岸の長府で数年間、足止めとなります。
ようやく仲哀天皇一行は香椎(福岡市)に拠点を構えることができました。朝鮮半島の事情に詳しい氏族を両親に持つ神功皇后は筑紫勢力や熊襲勢力の背後には鉄器の輸入先である斯盧の膨張政策の影響があると見抜き、大元の斯盧を叩くことが九州全体の把握につながる、と主張します。しかし仲哀天皇はアドバイスを聞き入れないまま急死します。神功皇后は腹心の武内宿禰の助けを得て、斯盧討伐を決行し、隙をつかれた斯盧軍を破り、仲哀天皇の死と応神天皇の誕生を隠したまま、近畿地方に凱旋します。
神功皇后の凱旋に呼応して、大和盆地の和邇氏が軍を起し、近江軍を打ち破り、神功皇后親子は大和盆地に迎えいられ、応神天皇は景行天皇のひ孫にあたる3姉妹(祖父は五百城入彦皇子、父は品陀真若王)を后を迎え入れることで新王朝が成立します。
この話を単なる飛鳥時代に創作されたお伽話として片付けて、西からやって来た応神天皇が大和の王朝に対抗する河内王朝を打ち立てた、とする説が一時期流行りました。しかし景行朝から応神天皇へは后を通じてつながっていますし、応神天皇の王宮は河内ではなく、大和盆地(軽島の明宮)にありました。河内に巨大古墳群が造られていきますが、同時期に奈良市西部に佐紀古墳群も造られています。それまで古墳の造成地だった葛城地方、天理市、桜井市周辺では、大型の古墳を造る丘陵地帯や不毛地の敵地が少なくなった、ということです。
4世紀が謎の世紀となってしまったのは、日本側は欠史八代説という誤った推論をもとにしている、朝鮮半島側では朝鮮古代史は新羅を中心に書かれており、弁韓地方については最近までほとんどかえりみられていなかったためです。
日本の植民地時代の負い目を持つ日本の先生とナショナリズム高揚の流れに乗られている韓国の御用学者の、日韓の先生方にまかせておくと、その時代の政治社会の風に流されるだけで、らちがあきません。謎の4世紀については、いずれ小説の形式でまとめる予定です。
第3章 俗説・風説の検証
3.渡来人建国説
(1)縄文人と縄文文化をどうとらえるか
第3章3.では、海を渡ってきた渡来人が倭国を打ち立てた、とする渡来人建国説を検証します。
明治時代以来、倭国(日本)を建国したのは、海を渡って来た人々による、とあまたの説が提唱されてきました。
その理由は、
①日本列島の先住人である縄文人は未開で野蛮な人間だった、という偏見がある、
②日本の歴史を中国、中央アジア、メソポタミア、西洋などユーラシア大陸の歴史と連結させたい、という憧れがある、
の2点から派生しているようです。
縄文人ははたして未開で野蛮な人間集団だったのでしょうか。この視点の源は欧米の帝国植民地時代に編み出された欧米文化絶対主義、自分たちの文化が絶対であり、自分たちの文化を蛮人に教え広めることが地球文化の発展につながる、というおごりから来ています。欧米文化の摂取を第一ととらえた明治から大正の一部のインテリゲンチャは、欧米文化対蛮人の図式をそのまま、縄文人に適用してしまいました。ここ10年ほど、小学生向けの歴史教科書から縄文時代が削除されてしまったことは、文部省周辺にもいまだにこうした浅薄なインテリゲンチャが存続している、ということを示しています。
ところが植民地時代のおごりから覚めた現代のヨーロッパ人は、半世紀前までは野蛮とさげすんできたアフリカやオセアニアの原始美術を高く評価するように価値観が変化してきています。歴史の皮肉というか、キリスト教のカトリックの国フランスでは司祭や教育修道士(ブラザー)のなり手が減少し、かっての野蛮国出身の有色人種の司祭が増えつつあります。
(日本の精神的基盤は縄文1万年の間に築かれた)
私は縄文1万年の間に日本の生活文化や精神思想の土台ができあがっていた、と考えています。弥生文化は確かに渡来系の人たちが水稲耕作や青銅器や鉄器、鶏・豚などの家畜類を伝えました。ことに水稲耕作により穀物の生産量と備蓄量が飛躍的に増大したことにより、人口が増加し、生産者ではない他の職業の専従者を養う余裕ができて、部落・村からクニへと成長していったことは事実です。イザナギ・イザナミ神話と神社の鳥居も弥生時代前期に渡来した、中国の揚子江周辺の呉越のボートピープルが伝えたことも事実のようです。
精神文化的に見ると、縄文文化と弥生文化の違いは、水稲耕作が可能か否かにあるようです。3世紀におよぶ鎖国が終わった後、欧米の物質文化が一挙に流入し、日本人の生活様式も劇的に変わりました。明治から昭和時代の品々が1000年後に発掘された場合、渡来人が日本を占領して日本の文化を変えた、と提唱する考古学者も出現するかもしれませんが、それは大きな誤りであることは皆さんも納得されるでしょう。縄文文化と弥生文化も同じことが言えます。
縄文文化は黒潮と支流の対馬暖流に沿って、南は沖縄諸島から北は北海道、樺太南部まで日本列島に沿って広がっています。気候的に水稲耕作が適さない沖縄諸島、信州など山岳地、東北地方北部や北海道では弥生文化が広がりませんでしたが、そうだからと言って、これらの地域には日本文化が存在しなかったわけではなく、むしろ日本文化の祖形が残っています。琉球神道や信州の諏訪大社の御柱祭などが好例です。神道の神奈備山(聖山)やイワクラ(磐座)の起源は縄文時代で、カミ(神)やオオヤマツミの「ツミ」も縄文起源ではないかと思います。
造形美術の現代的な感覚から見ると、土偶や火炎土器に代表される縄文土器の方が、規格化された弥生土器より個性と創造性が高く、日本の現代造形作家が世界で高く評価されている理由の1つは縄文の文化を基盤に持っているから、と感じています。
縄文文化は日本文化の基盤をなす縦軸で、弥生文化、中国文化、西洋文化が横軸から入ることによって刺激を受けて、日本の文化が発展、継続してきました。横軸から入る文化は栄養剤や肥料のようなものです。
私は右翼的なナショナリストではありませんが、日本文化は1万2000年の歴史が断絶なしに直線の一本でつながっている、地球社会の中で稀有な例だ、と考えています。ユダヤ人はメソポタミアのウルク時代から5000年の歴史を誇っていますが、日本人はそれよりはるかに古い1万2000年の歴史を誇ってしかるべきです。
大和政権が東北地方全域を把握したのは、平安時代初期の坂上田村麻呂からです。それまでは東北北部の続縄文人(蝦夷)と北海道南部の続縄文人は同じ文化圏を形成していました。東北地方との交易が分断されたことにより北海道の続縄文文化が衰退し、そこに北海道北部のオホーツク海人が入り融合して、平安時代中期から鎌倉時代にかけてアイヌ族が成立したようです。
アイヌの宗教や叙事詩ユーカラにはオホーツク系の文化も入っていますが、琉球神道と同様に縄文時代の神道の祖形を伝えている部分もあります。このためアイヌの聖地をきちんと保存し、祀る必然がありますが、残念ながら現在の北海道はそれを怠っています。それが北海道が浮上できない理由の1つではないでしょうか。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(2)中国
1.呉越族と弥生文化
(弥生時代の始まりはいつか)
弥生時代は紀元前の何年頃に始まったのでしょうか。1970年代までは弥生前期は前300年~前100年、中期は前100年~100年、後期は100年~300年、古墳時代の始まりは300年頃からと、ほぼ200年単位で区分されていました。その後、全国各地で考古学的発見が相次いだこともあり、弥生時代の始まりは200年ほど早まって前500年頃と見なされるようになり、区分も草期、前期、中期、後期、終末期の5段階、弥生時代の終了は270年頃と30年早まっています。
国立歴史民俗博物館は2003年5月に、加速器質量分析法AMSの測定結果として、始まりは前1000年頃と、衝撃的な発表を行いました。同館は日本考古学研究の総元締めですから権威はありますが、測定数値を微妙に誤った勇み足の可能性もあります。前1000年頃は西周(前1027~前771年)の時代にあたります。弥生時代の定義は、水稲文化と共に青銅器と鉄器の金属製品の伝来にありますが、中国での鉄器の登場は戦国時代(前403~前221年)の間ですから、前1000年説はあまりにも早すぎる印象を与えます。
(狭義の弥生人の故郷は中国の江蘇省沿岸)
弥生文化をもたらした人々は、どこから来たのでしょうか。古くから朝鮮半島説、山東半島説、沖縄経由の浙江省などがありますが、私は山東半島と揚子江の間にある江蘇省の黄海沿岸と見ています。
江蘇省では前505年から前329年にかけて、江蘇省を拠点とする呉、揚子江をはさんで南に位置する越、揚子江中流域の楚の3国の間で、江蘇省を舞台に激しい攻防が続きました。まず呉が滅亡し、呉に代わって越が支配しますが、越も楚に蹂躙されます。その動乱の渦中で江蘇省の黄海沿岸の漁村民は、難民となって舟で逃亡し、ボートピープルとなります。
前505年、越が呉を攻め、秦が楚に援軍を差し向けた。
前494年、呉王・夫差(ふさ)が越王・勾踐(こうせん)を会稽(紹興市)に破った。
前486年、呉が運河として邗江を掘り、淮水と揚子江を連結した。
前485年、呉軍は開通した邗江を利用して黄海に出て、海から斉を討ったが敗れて引き上げた。
前473年、越王・ 勾踐 が呉を滅ぼし、呉王・ 夫差は自害した。
前380年、越王・翳(えい)が都を呉の故地(江蘇省蘇州市)に遷した。
前334年、越と楚の抗争が高まる。(一説では、楚が越を滅ぼした)
前329年、楚・威王が越を大破して、越王・無彊を殺す。越は衰退していく。
江蘇省の沿岸から日が昇る東に一直線で舟で進むと、済州島、長崎県の五島列島、九州西部に到達します。済州島と五島列島の間を流れる対馬暖流に乗ると、九州北部の玄界灘、響灘、山陰地方、北越地方に続きます。呉越族は、済州島、朝鮮半島南端、対馬、壱岐、九州北部に漂着した後、一部は定住地を求めて日本海、瀬戸内海、九州東部の海岸線へと進んでいきます。安芸の大田川、吉備の高梁川、旭川などの大河川よりも、灌漑の水を制御しやすい中小河川の周辺に定着した後、葦原を開墾していきます。
ジャポニカ米、入れ墨と素もぐりの海人などの要素から、弥生人の故郷は揚子江を越えた南にある浙江省ではないか、という説もありますが、この地の越族は漢族に追われて南の広東やインドシナ、南西の雲南省へと逃亡していき、百越となります。
江蘇省原郷説を特定するためには、江蘇省の前5~前3世紀の村落跡との比較研究、呉越時代の神話や伝承の調査を深めていく必要があります。
(呉越族が日本を建国したか)
呉越族が日本を建国したのだと早合点される方もおられるかも知れませんが、呉越人がクニや国を打ち立てて日本列島を席巻したわけでも、縄文文化が断絶したわけではありません。亡命地に落ち着いた呉越人は先住の縄文人と融和していき、水稲文化は山間部へと広がっていきます。
狭義の弥生人は呉越族ですが、広義の弥生人は縄文人と呉越族が混血した人々で、九州北部、中国地方ごとに差異が出て、 弥生時代中期のクニの発生の基盤となります。イザナギ・イザナミ神話は呉越族が伝えたものですが、縄文の神々と融合していきます。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(2)中国
2.徐福伝説と秦
(徐福伝説地)
秦の始皇帝(在位前221~前210年 )が他界する前年の前211年、江蘇省の琅邪(ろうや。連雲港市)に住む方士(ほうし)の徐福が、不老不死の仙薬を求めて童男・童女500人、百工(技術者)などを含めた総勢3000人の集団と船団を引き連れて、浙江省の寧波(にんぽう)の慈渓の港から船出しました。前219年の第1回目は失敗して引き戻ってきましたが、第2回目の消息は不明です。
この話の出典は司馬遷が編纂した「史記」(成立は前97年頃)です。1982年に琅邪の近くにある徐岐(じょふ)村が清の乾隆帝時代以前は徐福村と呼ばれており、徐福にまつわる伝承があることが判明しました。徐福を先祖とする徐姓一族も名乗りをあげ、徐福は実際に存在した人物として脚光を集めましたが、信憑性には問題が残っています。
東方の桃源郷をめざした徐福一行が到着した、とされる伝説は韓国の済州島にもありますが、日本での伝説地として、九州西部では佐賀県(金立神社)、福岡県八女市、熊本県有明海周辺、鹿児島県川内市、いちき串木野市、京都府では丹後半島の伊根町の新井崎神社、紀伊半島では和歌山県新宮市と三重県熊野市、海から離れた山梨県富士吉田市など全国に30か所あまりあります。
日本列島に渡来した一行は「秦」氏の祖先となったとか、中国では徐福が神武天皇となった、との話も流布しています。
(徐福伝説は江戸時代の国学者や漢籍学者のロマン)
問題は、本当に徐福一行は日本列島に到来したのか、到来したとするなら、どの程度のインパクト、影響を与えたのか、にあります。
中国の難破船が黒潮と対馬暖流に乗って漂着した例は九州西部、丹後半島や紀伊半島にありますので、漂着した可能性は確かにあるものの、日本列島に到来していたとするなら、候補地から秦時代の銅銭「半両銭」や遺物などが出土するはずですが、残念ながら証拠品は出土していません。
徐福集団が前180~75年頃までと推定される弥生中期を開始した、とする説もありますが、考古学的に見ると対馬―壱岐―博多湾を結ぶ線が発祥の地と見て間違いありませんから、九州西部や紀伊半島、丹後半島が弥生中期文化の発祥の地とするのは無理なようです。
日本の古代史を中国、中央アジアなどユーラシア大陸の歴史と連結させたい、という憧れを抱く人は江戸時代から存在していたようです。明治・大正時代に入ると日本人のシュメールやユダヤ人同祖説が出てきますが、徐福伝説はそれに先立った江戸時代の国学者や郷土史家が描き出したロマン、大衆小説の世界と判断するのが妥当です。
(秦と辰国)
秦の始皇帝が前210年に他界した後、秦は急速に滅亡に向かい、劉邦が前漢を打ち立てる前202年の前後まで、中国は乱世が続きます。黄河下流や北東部の中国人の一部は朝鮮半島の北西部に逃亡していきます。その数は数万人にのぼった、と伝えられています。
燕(えん)にいた衛満(えいまん)は仕えていた燕王が前漢にそむいたことから身の危険を感じて箕子(きし)朝鮮に亡命します。衛満は前漢からの攻撃を守るべきと朝鮮王の箕準を説得して、亡命者を集めた警護隊を作りますが、警護隊を使って箕子朝鮮を乗っ取り、前194年に衛氏朝鮮を半島西北部に打ち立てます。
亡命者の一部は半島の中南部や東南部に流れていきます。平家の落ち武者に類似した話ですが、彼らは秦の末裔と称して後の辰(しん)国の母体を作っていきます。彼らに刺激を受ける形で半島南部の韓地方では小国が勃興していき、西は馬韓(50数国)、南は弁韓(12国)、東は辰韓(12国)の諸国が分立していき、諸国間の交易も発展します。
前200年頃に九州北部の糸(伊都)島の住人が原(はる)の辻遺跡を首都とする壱岐国を打ち立てますが、これも朝鮮半島の動きに連動したものです。九州北部に伊都国、奴国などが分立していき、弥生時代中期が始まります。
秦の影響は徐福一行という直接的な形ではなく、朝鮮半島に逃げ込んだ自称「秦の末裔」を通じて、秦(はた)氏へと間接的につながっていきます。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(3)朝鮮半島
1.古代朝鮮の歴史概略
日本は黒潮と支流の対馬暖流の流れに沿って、沖縄諸島から北海道まで縄文人と縄文文化の基盤がしっかりしていますが、古代朝鮮の歴史は非常に複雑で、いまだに解明されていない点が多々あります。私自身は30数年前に韓国を旅行したことがあるだけなので、古代朝鮮を把握できたとはとても言えませんが、弥生時代中期の倭族と伽邪地方、江上波夫氏の騎馬民族説、秦氏についての検証をする前に、ご批判は多いことと思いますが、概略を私なりに整理してみます。
朝鮮半島は新羅によって676年(日本は天武天皇時代)に初めて統一されますが、それまでは半島の西北部は中国の支配、北東部は満州系の部族、南部は中国の山東半島や呉越からの渡来者が基盤になっていますが、3者が複雑に交錯しています。
1.伝説時代
半島の歴史は前2333年頃とされる「壇君神話」から始まります。天に住む恒因(かんいん。帝釈天)の庶子、恒雄(かんゆう)が満州と北朝鮮の国境にそびえる太白山(白頭山。中国では長白山)に降臨します。恒雄は女熊神と結ばれて檀君が生まれますが、高句麗、沃沮(よくそ)、扶余(ふよ)、穢(わい)、貊(はく)の満州ツングース系はすべて壇君の後裔といわれ、太白山は朝鮮民族と満州民族の聖地となっています。
前1027年頃、殷末の聖人である 箕子(きし)が朝鮮半島に逃れ、半島西北部で箕子朝鮮を建国し、前194年まで続きます。
檀君神話も 箕子も史実としての信憑性に欠けますが、半島の先住者は半農半牧の満州系ツングース族ですが、半島北西部は中国文化圏に組み入れられたことになります。
2.半島南部に韓族が成立 (日本では弥生時代早期・前期)
半島南部では、春秋(前770~前403年)・戦国時代(前403~前221年)に山東半島・呉越族など、中国中東部の部族が移住してきます。呉越族は3.(2)の1で触れたように日本に弥生文化をもたらした人々と同類ですが、先住民と融合して韓族となります。
3.衛氏と漢の支配 (日本では弥生時代中期)
中国の 「秦」末期から「前漢」の成立前後までの動乱期に、中国東北部から多数の亡命者が半島に流入してきます。燕(えん)にいた衛満(えいまん)も箕子朝鮮に亡命しますが、衛満は亡命者を束ねて箕子朝鮮を乗っ取り、前194年に衛氏朝鮮を半島西北部に打ち立てます。
亡命者の一部は南部の韓地方にも入り込み、後の辰国の主体者となります。韓地方は南東部は馬韓、南端部は弁韓、南東部は辰韓の三韓に分化し、それぞれ国々が分立していきます。弁韓地域の人々は対馬、壱岐、九州北部の人々と同じ倭族に属す可能性もあり、弥生中期の日本とのつながりをもちます。
前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、半島の大半を植民地化して4郡を設置しますが、この頃から満州地方の騎馬民族が膨張し、扶余国が成立、前37年に成立した高句麗は37年にが楽浪郡を襲います。伝説によれば辰韓地方では前57年に斯盧(しら。後の新羅)、馬韓地方では前12年に百済が興ります。弁韓地方では42年に天から下りてきた6つの卵から伽邪6国の王たちが誕生しますが、その12年後の57年に倭の奴国が後漢に遣使します。
4.帯方郡の設立 (日本では弥生時代後期・終末期。邪馬台国時代)
2世紀後半から後漢は分裂状態におちいり、遼東郡を征した公孫度(こうそんたく)が楽浪郡を手中にした後、204年に帯方郡を設立します。238年に魏が公孫氏を平定し、239年にヒミコが帯方郡経由で魏に遣使を送ります。
5.北方騎馬民族の南下
300年代になると北方騎馬民族が南下してきます。高句麗が313年に楽浪郡、314年に帯方郡を滅ぼします。346年に扶余族が伯済(百済)を建国して馬韓を統一、356年頃から興隆した斯盧が辰韓地方の統一を進めていきますが、360年代に倭軍が半島に進攻します。倭軍は391年頃に全盛となり、弁韓地方だけでなく新羅と百済も勢力下に置きますが、404年に倭軍は好太王(広開大王。在位391~412年)が率いる高句麗との戦いに敗れ、その後は劣勢となります。
6.新羅の半島統一
562年に新羅が任那を併合して日本府が消滅し、663年に百済・倭連合が唐・新羅連合に敗北して百済が滅亡します。676年に唐が朝鮮半島を放棄したことから新羅の朝鮮統一が成就します。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(3)朝鮮半島
2.弥生時代中期の倭族と伽邪地方
邪馬台国吉備・狗奴国大和説にそって、古い神社と祀られる神さまを追っていくうちに、弥生中期に朝鮮半島南端の弁韓、ことに金官伽邪国と対馬、壱岐、九州北部に「倭族」という同一種族に属する集団があり、半島と九州北部を結ぶ海の交易ルートを握っていた。倭人と呼ばれた彼らが住む地域が倭国と呼ばれ、それが次第に日本列島を意味するようになった、と想定するようになりました。
神々の流れで見ると、タカミムスビ、カミムスビ、コト(コゴト)ムスビなど「ムスビ」の神々の存在です。タカミムスビは娘神タカハタチヂヒメがアマテラスの長男神アメノオシホミミと結婚し、地上に天下りするホノニニギを生むなど、アマテラス神話で主要な役割を演じます。またタカミムスビは忌部氏のアメノフトダマの父神とも言われます。カミムスビはタカムスビの弟神か息子神で主に出雲で目立ちます。コトムスビは中臣氏のアメノコヤネの父神となっています。
倭族は鉄やガラス加工の優れた工人、技術者もかかえており、弥生中期前半(前180年頃~紀元0年頃)に一部が出雲・日本海地方、瀬戸内海地方、豊前・豊後・日向の九州東部へと流れていき、各地の地元勢力に影響を与えながら融合していき、西日本地域に倭人連邦国家群を形成、その中から弥生中期後半に吉備勢力が勃興していく……とするのが私のシナリオです。これに沿うと出雲の カミムスビ、忌部氏のアメノフトダマ、中臣氏のアメノコヤも起源は倭族にあることになります。
(伽邪六国の情況)(弥生時代中期:前180~75年頃)
それでは弁韓伽邪地方の状況はどうでしょうか。釜山の西、洛東江河口の金官伽邪国(現在の金海市)の建国神話が参考になります。
伽邪地方にはその昔、「九干(かん)」と呼ばれる諸族が在住していました。弥生時代中期末、中国では後漢の光武帝の時代にあたる42年(建武18年)、亀旨(くじ)峰に妙な音と歌声があがったので、九干の人々が集まって来ました。すると空から「天が私に命じて、ここに国を建て、その王になれというので、ここに来た。あなた達はこの峰の土を掘りながら、歌い踊りなさい」という声が聞こえました。九干などが「亀旨歌(韓国最初の叙事詩といわれる)」を歌って踊ると、空から紫色の綱が大地まで垂れてきました。綱の先には紅い布に金属の器が包まれていて、開けてみたら太陽のような黄金の卵が6つ入っていました。翌日、夜明けに卵6つから男の子が出現しました。最初に生まれた子は首露(すろ。または首陵)と名づけられて大駕洛(金官伽邪)国の王となり、残り5人はそれぞれ5伽邪の王となりました。
首露は外国船で到来したインドのアンダ国の王女許黄玉と結婚し、10人の息子が生まれ、金海金氏(韓金最大の宗族)と許氏の祖となります。后の許黄玉 は189年に157歳で、首露は199年に158歳で亡くなります。現在でも首露王陵と首露王妃陵が残っています。
この伝説は、首露の年齢が158歳、后の年齢が157歳から明らかなように、後代に創作された話でしょう。后がインドから渡来した逸話は、インドは遠すぎるので、中国の広東地方かインドシナから到来した可能性はありますが、仏教の伝来後に創作されたものでしょう。しかし首露王陵と首露王妃陵とともに、金海市内にある大成(でそん)洞古墳群は2世紀後半から5世紀初半まで約10代の王族が祀られていますから、日本の弥生時代中期末から後期初めにかけて、弁韓地方で支配者の交代があったことは事実でしょう。おそらく半島南西部の馬韓からやってきた集団が先住民の九干を征服して伽邪6国を建国したのでしょう。新征服者は北方騎馬民族ではないようです。
(倭族と九干との関係)
もし金官伽邪国の建国42年説が史実であったとするなら、先住者の九干(我刀干、留天干、汝刀干、彼刀干、五刀干、神天干、五天干、神鬼干)が倭族であった可能性があります。彼らが弥生中期の伽邪地方から対馬・壱岐、九州北部に至る地域の海の交易者であったことが類推できます。 中国側の歴史を見ると、前194年の 衛氏(えいし)朝鮮の始まり、中国東北部からの多数の逃亡・亡命者の移住、前108年の前漢の武帝による植民地化、と三韓地方は北方騎馬民族より中国の影響が強かったようです。武帝が植民地として作った真番郡に隣接する伽邪地方に初期形態の国家群が出現し、九干の9国が発生したのかもしれません。
前1世紀後半になると新しい動きが出てきます。ことに半島東北部の騎馬民族が勢力を伸ばしていきます。まず扶余国が成立、前57年に斯盧(しら。後の新羅)、前37年に高句麗、前12年に百済が興っていきます。斯盧の4代目王の昔脱解は倭の多婆邪(推定は丹波)国から渡来した、という伝説もあります。
57年に倭の奴国が後漢に遣使を送り金印を授与されますが、42年の伽邪6国の建国と関連があるかもしれません。新支配者が伽邪地方を征服したことにより、関係がとだえた九州北部の奴国は直接、後漢に遣使を送った、逆に金官伽邪国の新支配者となった首露王のアドバイスで遣使を送った、のどちらも想定できます。
(回答はまだ霧の中)
―ムスビの神々、倭族、伽邪地方がどうつながっていくか。
―日本語と朝鮮語は類似しており、九州北部と山陰地方の人々と半島の人々にも共通性がある。
―弥生中期に半島の人々が北九州に上陸して倭の国々を征服していったのだろうか。
―天孫降臨神話にとって対馬と壱岐が重要なようだが、それが伽邪神話とどうつながっていくか。
などを考察していくと、正直の話、私はまだ知識不足、未消化の段階です。
半島の韓族は穢(わい)族をベースに中国の山東半島人に加えて呉越族、倭族は縄文人をベースに呉越人……と考えていくと、現時点では弥生時代中期に半島人が九州北部を征服した、あるいは伽邪地方の先住民「九干」が倭人であったことはない、という結論に至ります。
半島と日本列島の住人は対馬海峡を自由に行き来しており、伽邪地方に倭人の居住地、九州北部の伊都国や奴国に半島人の居住地があったと考えると、九州北部に半島起源の支石墓があり、伽邪地方からヒスイなど倭国発の産物が出土すること、 斯盧4代目王の昔脱解が倭国から渡来したとする伝説も納得できますが、今後の課題としておきます。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(3)朝鮮半島
3.騎馬民族の日本征服説は大間違い
第2次世界大戦の敗戦ショックがまだ覚めやらない1948年、江上波夫氏が座談会「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」で、朝鮮半島から筑紫に上陸した騎馬民族が日本を征服したとする大胆な説を公表され、日本の古代史界に大きな衝撃を与えました。騎馬民族説は邪馬台国所在地論争にも絡んできますが、「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」で5世紀初頭までの歴史を読みくだいていくと、100パーセント誤りであることが明白になります。
敗戦で方向性を失っていた第2次世界大戦後のインテリゲンチャは、キツネにつままれたまま、江上氏が着想した「アリスの不思議な国」に誘い込まれて迷子になってしまいました。今なお天皇家の先祖は半島からやってきた、と本気で信じておられる方が大勢おられ、したり顔で江上説を強調する中学や高校の先生方も多いだろうことは残念なことです。
改めて江上氏の「騎馬民族国家」(中公新書。改版初版1991年)を読み返してみましたが、間違いだらけでした。
(江上波夫説の概略)
江上説は一言で表現すると「日本国家と民族の起源は東北アジア騎馬民族の日本征服にある」ということです。「扶余、高句麗は、我が国の最初の統一国家の建設者、いわゆる天孫民族と特別な関係があったらしい」。彼らが「日本における最初の高文明たる後期(中・後期)古墳文化の創造・普及に特別大きな役割を果たしたと考えなければならない」。
この発想は「弥生式時代人―中国史書のいわゆる倭人―をもって、日本民族の最初の出現とみなすことは、東洋史の側からも可能なのである」と、縄文文化を蔑視する視点と崇神天皇以前の天皇は架空の人物とする欠史八代説から喚起されていることに留意されてください。
江上説では、満州の牡丹江中流を本拠にした扶余族の一部が南下して、高句麗王家と辰王家を打ち立て、辰王家から百済王家と伽邪(任那)王家が派生した。辰王家から出たミマキイリビコイニエ王(崇神天皇)は、4世紀前半、倭人(日本人)の領域だった弁韓(任那。6伽邪国)を征服し、自分の名前にちなんでミマナ(任那)国を建国した。その後、ミマキイリビコ王は倭人の本拠地である北九州(筑紫)に侵入した。
扶余本族(牡丹江中流域)―→╽→高句麗王家 ╽→百済王家
╽→辰王家(南部朝鮮)→ ╽→伽邪(任那)王家→倭国王家
4世紀末から5世紀初めに、崇神天皇の子孫の応神天皇を中心として北九州から畿内へ進出して 大和朝廷(河内王朝)を樹立し、日本における最初の統一国家を実現した。
この筋書きの根拠として、江上氏は以下の点を挙げています。
―ホノニニギの高千穂降臨伝説と「駕洛(から)国記」に伝える 6伽邪国の建国伝説が、内容の重要な点で、ことごとく一致する。
―馬韓を統一して百済を建てた百済王も「臣は高句麗とともに源は扶余に出ず」としている。
―辰王の子孫ないし後継者と目される崇神らの天孫族が、なぜ任那方面から、またどこを根拠として倭国征服の事業に乗り出したのであろうか。辰王系の支配下にあった弁韓=任那の一部は、弥生式時代から倭人の領域で、そこが倭国の北端とさえいわれており、この方面の支配者となったものが、倭人の本拠たる日本島、直接には北九州に関心をそそられるのは、きわめて自然ななりゆきであること。
―辰王系の任那の王が、伽羅を作戦基地として、そこにおける倭人の協力のもとに筑紫に侵こうしたのが、崇神の肇国(ちょうこく)事業であり、ホノニニギの天孫降臨で、第1回の日本建国にほかならないと考えられる。
―4世紀末から5世紀初めにかけて、即ち応神の時代には、南部朝鮮諸国の対高句麗作戦の主導者となった。そうして、このような大陸作戦の時期に、応神による畿内征服・大和朝廷樹立が行われ、第2回の日本建国とその首都の東遷を見た。たぶんこれは、国の奥行を深くして背後を固め、朝鮮半島作戦に万全を期すための用意であったろう。
(江上波夫説が誤っている点)
―縄文文化に対する蔑視か無視。
―欠史八代説を正論としている。
―埴輪の起源を垂仁天皇時代の野見宿禰の形象埴輪から、とされており、吉備の特殊壺・器台が大和へ伝わり円筒埴輪に発展する知識がない。
―辰王国は秦末期から前漢初めの中国からの亡命者が建国したもので、扶余系騎馬民族が建国した国ではない。
―金官伽邪国(任那)が4世紀前半に扶余系騎馬民族に征服された痕跡はない。
―伽邪6国の卵生建国神話とホノニニギ天孫降臨神話は重要な点でことごとく一致すると判断されているが、一致点や共通点は限られている。
―伽邪地方に倭族(倭人)の居住地は存在したが、倭人が支配していたわけではない。
―4世紀前半に騎馬民族が筑紫に上陸、征服した痕跡はない。
―神功皇后と武内宿禰の抹殺。
―応神王朝が打ち立てたとする河内王朝などは存在しなかった。
江上説への批判を詳細に記していくと長文になりますので、別の機会としますが、江上波夫氏の騎馬民族説は荒唐無稽のお伽話にすぎません。
(神功皇后、武内宿禰と応神天皇の半島政策の違い)
第3章2.(8)で挙げたように、神功皇后と武内宿禰は実在し、360年代に神功皇后軍が伽邪(弁韓)・辰韓地方に進出したことも史実と判断していますが、神功皇后、武内宿禰と応神天皇の3者の半島政策には違いがあります。
神功皇后の半島進攻は、斯盧(しら。後の新羅)に対抗する辰韓諸国の復興、斯盧と九州勢力との分断、鉄輸入の確保にあります。斯盧の侵食に悩んでいた伽邪諸国にとって救世主のような存在となりましたが、神功皇后は弁韓・辰韓地方を植民地化する意向はなく、諸国の防衛軍の役割を果たし、その見返りに貢物を献上させることでした。
神功皇后が380年代末に他界した後、半島政策の指揮を担った武内宿禰は、筑紫を拠点に3韓(弁韓・伽邪諸国、百済、新羅)を従わせて、あわよくば天下を乗っ取る野望を抱きます。実際に391年に百済と新羅が倭軍に服し、これに対抗して高句麗軍が南下します。武内宿禰の野望を弟の甘美内(うましうち)宿禰が応神天皇に密告し(応神紀9年)、応神天皇は武内宿禰を遠ざけます。
応神天皇は半島経営の指揮を自らふるうようになりますが、404年に高句麗の好太王軍に敗北します。応神天皇は積極的に騎馬文化を取り入れていきながら、ことに九州南西部など日本列島の勢力拡大に力点を移していきます。半島からの集団亡命者を受け入れ、地方の豪族に割り振りながら各地に定住させていきます。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(3)朝鮮半島
4.秦氏の形成 注:「謎の四世紀」を参照下さい
秦氏は秦の始皇帝の末裔、始皇帝はユダヤ人の血を引き継いでいる、日本に秦王国が存在したなど俗説・風説が飛び交い、古代日本7不思議の1つになっていますが、
①秦末期から前漢成立に至る前200年前後の動乱期に中国北東部から朝鮮半島に逃亡・亡命した流人が、衛氏朝鮮より南に下った地域に定着して辰国の母体を作った、
②それから約6世紀後の400年前後、高句麗、百済、新羅に倭軍を加えた領土争奪戦により、辰国の領域が草刈場となり、辰国の民(たみ)が日本に集団亡命する、
③亡命者は日本各地の豪族に引き取られていくが、雄略天皇と欽明天皇の時代に秦人(はたひと)、漢人(あやひと)として統合された、
という3段階を経て、秦氏の体系ができあがったようです。
(辰王国の実態)
ヒミコが活躍した3世紀前半、朝鮮半島の中南部に辰国という国があり、辰王がおりました。辰国の都は馬韓の月氏国にあり、辰韓12国と弁韓12国、合わせて24国のうちの12国が弁辰として服属していますから、主要部は馬韓と弁韓、辰韓の3地域が接する地域にあったようです。
3世紀後半に書かれ、邪馬台国を紹介する「三国志・魏書・東夷伝」では、辰王は辰韓・弁韓の人ではなくて、つねに馬韓の人がなり、王位は世襲であるが、辰王はみずから立って王となることはできない。
「三国志・魏書」を注釈した「魏略」では、その流移の人為ることを明にす、故に馬韓のために制せらる。
「後韓書・東夷伝」では、馬韓は最も大、共にその種を立てて辰王と成す。月氏国に都し、ことごとく3韓之地に王たり。
馬韓の「耆老(きろう)」では、秦人が逃げて南部朝鮮におもむき、馬韓がその東界の地を割いてこれに与えた。辰韓は馬韓と言語が同じでなく、秦人に似ており、ために名づけて秦韓となすものがある……と、三国志・魏書・東夷伝、 魏略、 後韓書・東夷伝、耆老の4書での紹介はまちまちで、詳細は不明です。
辰国の歴史を私なりに整理してみます。
秦の滅亡(前206年)から高祖が前漢を打ち立てる動乱期に、中国北東部の中国人が朝鮮半島北西部に亡命、逃亡します。前195年に衛氏が亡命者の一部をまとめて衛氏朝鮮を建国しますが、一部は半島の中部に流れて、辰国の母体を作ります。
前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を破って半島を植民地化して4郡を設立します。武帝は国家財政の基盤として鉄と塩を専売にし、各地に製鉄産業を興していきます。半島でも鉄資源の開発と製鉄に力を注いだことは確かでしょう。半島南部では金官伽邪国(金海市)に注ぐ洛東江地域は鉄鉱床が多く、砂鉄による製鉄が勃興していきます。前漢は4郡のうち真番郡を前82年に廃止しますが、その後を担ったのが辰国と辰王でした。この頃から馬韓、弁韓、辰韓の3地方で小国が分立していきますが、辰王は前漢、後漢の威厳を背後に製鉄や工芸など中国からの技術を独占し、3韓地方で象徴的な威厳を維持します。2世紀末に後漢が衰退し、3世紀に入ると公孫氏に次いで魏が半島北西部を支配しますが、秦人の末裔を自称する辰国の威厳は3韓地方で継続します。
(日本への亡命・渡来)
4世紀に入ると、中国の半島支配力が衰え、満州から高句麗や扶余族が南下してきます。高句麗が313年に楽浪郡、314年に帯方郡を滅ぼして半島北部を手中にします。馬韓地方には扶余族が侵入して346年に百済を興して馬韓地方を統一します。中国の後ろ盾を失った辰国は衰退していきます。
江上波夫説では、百済と同様に扶余族が辰国の新しい支配者となったことになりますが、その事実はないようです。仮りに扶余族が辰国を乗っ取った場合は、百済より先に馬韓地方を統一するか、同じ扶余族同士の百済と辰国で勢力争いがあったはずですが、その伝承はありません。辰国は中国系子孫の王家が続いていた、と見るのが妥当です。
4世紀半ば頃から、辰国は高句麗、百済、新羅の3勢力に囲まれ、3勢力に侵食されていきます。360年代に入ると、3勢力に倭軍が加わり、辰国と伽邪地方(弁韓)が4勢力の争奪の地域となります。391年に百済と新羅が倭軍に服すなど、倭軍が半島南部を一時的に把握しますが、新羅の要請を受けて高句麗軍が南下します。倭軍・伽邪・百済連合は高句麗・新羅連合と一進一退の攻防を繰り広げますが、404年に倭軍は旧帯方郡の地で、高句麗の好太王軍に敗北します。
辰国はその頃から消息を絶ちますが、辰国の民は日本書紀の応神紀に登場します。
応神紀14年に秦氏の祖となる弓月君(ゆづきのきみ)が自国の民160県(こおり)を率いて百済からやってきます。応神紀20年に阿知使主(あちのおみ)が息子の都加使主(つかのおみ)と党類(ともがら)を率いて帰化し、倭漢直(やまとのあやのあたひ)の祖となります。
これは、高句麗に敗れた応神天皇が日本列島の勢力拡大と産業育成に主力を注ぐ方向に転じ、辰国や伽邪地方の難民や亡命者を積極的に受け入れたことを示しています。私の推定では弓月氏と阿知使主の集団は、滅亡した辰国の後裔です。
百済を経て伽邪に集合した弓月君の集団は新羅によって倭国行きを阻まれ、倭国の巻き返しによりようやく3年後に到来します。これは辰国の高い技術が倭国に移植されることを新羅が恐れたから、と想像できます。応神天皇か仁徳天皇の時代から、中国の王朝に直接、半島の支配権を直訴するようになった(倭の五王時代)のも、秦や漢の末裔を誇る弓月君や阿知使主一族の意見が反映しているのかもしれません。
彼らは日本各地に在住し、辰国の秘伝だった砂鉄製鉄、機織、須恵器(高温摂氏1000度を越える穴釜)などを伝えていきます。
(秦氏の成立)
雄略紀15年に雄略天皇は諸豪族の私有になっていた秦の民を秦酒公(はだのさけのきみ)に賜わり、これにより秦氏の庸調の絹が朝廷に積み上げるほどになりました。日本各地に点在する朝鮮半島からの亡命者を整理して、秦氏のもとに各地に秦部が成立します。
欽明天皇の元年、全国に散らばる秦人を戸籍に整理したところ、7万53戸となり秦伴造(はだのとものみやっこ)として統合されました。
後世になって東漢氏の子孫がその遠祖を後漢の霊帝から、さらに漢の高祖まで仮託し、秦氏の後裔がその源流を秦の始皇帝に遡らしめていきます。
飛鳥時代の608年に倭国を訪れた隋の一行は「竹斯(筑紫)国に至り、また東にいって秦王国に至る。その住民は華夏(中国)に同じく、夷州(台湾)とするが、疑わしく明らかにすることはできない。また10余国を経て海岸に達する」と「随書倭国伝」に記しています。秦王国は山口県の大島など瀬戸内海沿岸か島に集団居住していた秦人が隋の一行に「我らの先祖は秦の始皇帝である」と吹聴したためでしょうが、私は吉備の「酒津の湊」があった高梁川河口から少し上流にある「秦」の地ではないか、と推察しています。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(4)メソポタミア・中央アジア
1.童謡「月の砂漠」
月の砂漠をはるばると 旅のラクダがゆきました
金と銀との鞍(くら)置いて 二つならんでゆきました
大正時代に画家・詩人の加藤まさを氏が1923年(大正12年)に発表された童謡は、今でも親しまれていると思います。大正デモクラシーのロマンにあふれた名曲です。
ところが現実の砂漠世界はそんな悠長な世界ではありません。いつ砂嵐が押し寄せるか、いつ敵が襲来するか、一瞬たりとも気が許せない社会です。砂漠の生活は曖昧では生きれません。生きるか死ぬか、殺すか殺されるか。湿潤な水田農村文化とは世界が違います。
過酷な自動車ラリーで知られるパリ―ダカール・レースに奥さんと10歳くらいのお嬢さんと参加された日本人がかっておられましたが、サハラ砂漠は物見遊山で来る所では決してない、と大批判を浴びました。おそらくこの一家は「月の砂漠」のイメージでサハラ砂漠を思い描かれていたのでしょう。 アフガニスタン北西部の砂漠をヘラートからマザーリシャリフまでバスで横断した時、問題なく砂漠を乗り切った後、現地の人たちがメッカに向かって感謝の祈りを捧げていました。その時は、オーバーすぎると腹の中で笑いましたが、今になって考えると私が浅薄でした。
私は大学の東洋哲学課を卒業した後、古代インドに憧れて、インドに旅たちました。今から40年ほど前のことです。
ガンジス川中流のベナレス近くのアラーバッドで自転車を購入し、西北部のパンジャブ地方まで数か月の自転車旅行の後、パキスタンと国境が接するアムリツァル郊外の村で養鶏場を営んでいたアイルランド人のフランシスコ派のカトリック神父と出会い、約1年間、神父を手伝って2000羽の鶏を飼い、底辺層の人や商人に卵を売る生活を送りました。アイルランドの貧農の息子として育った神父は理想化肌の好人物で、イギリス植民地時代にヒンズー教からカトリックに改宗した最下層のアウトカーストの子弟に養鶏業を学ばせながら、無料診療所を開設する夢に挑みながら悪戦苦闘していました。
パキスタンからインド西北部に拡がるインダス川流域の大平原は前2000年頃のアーリア人(印欧語族)以来、古代ギリシャのアレクサンダー大王、シルクロードを経て中国に仏教を伝える役割を果たしたクシャーン王朝、イスラム教徒、モンゴルなど、アフガニスタンの高原から下ってくる西からの侵略者の入り口にあたり、ユーラシア大陸史の主役たちの足跡が残っています。
パキスタン側に移住したと想像していたイスラム教徒も居残っており、ヒンズー教、土着のシーク教、イスラム教の3宗教がそれぞれ敵愾心を抱きながら、古代からの怨念が混濁して生き残っている世界、日本とは価値観が全く異なる世界でした。まともに嘘がつけないようだと一人前の人間ではない、正直者は馬鹿、という世界です。しかし徹底して正直を貫いていくと、ただ者ではないと畏怖されていきますが、そこに至るまでに大変な時間と労力が必要です。
ちょうど第2次印パ戦争が始まる直前でしたが、私にとっては地球の人間社会を見る視点を養う原点となりました。被征服民族であるカトリックのアイルランド人やスコットランド人を尖兵役に使う大英帝国の二重構造、無抵抗で知られるガンジー神話は大英帝国に対抗してアメリカのメディアとガンジーが相互利用して作り上げた寓話にすぎないこと、ヒンズー教徒とイスラム教徒の宗教戦争の実態など、教科書や書籍では学ばないことを実見しました。商人として長けたシーク教徒を見ながら、シルクロード交易の主役だったイラン系のソグト人を連想しましたが、シーク教徒の少年はパキスタンのガンダーラの菩薩像にそっくりの顔立ちをしています。
インドの後、数か月、アフガニスタンを旅行しました。旧ソビエトが侵攻する前で、国王が「東洋のスイス」と自負するほど、表面的には平和な時代でした。カブール、バーミヤン、バンデアミールを経てトラックの荷台に乗って、ヒンドゥークシュ山脈、ヘラートからバスで砂漠を横断して北部のマザリシャリフへと行きました。国境を越えるとサマルカンドで、風習もモンゴルに似ています。
邪馬台国は吉備だったことに気づき、日本古代の世界を本格的に調べだしてから、約10年となります。その間、朝鮮・中国からの渡来者の日本建国説に加えて、中央アジアのソクド人、メソポタミアのシュメール人、中近東のユダヤ人などの日本建国説も雑音として聞こえてきました。
次第にこうした俗説は実際に現地を訪れるか、在住した経験がない方が思い巡らした連想、思い込みにすぎないことが分かってきました。ソクド人、シュメール人、ユダヤ人の日本建国説はいずれも童謡「月の砂漠」と同じ、大正デモクラシーの時代に発想された説です。欧米コンプレックスの裏返しとも言え、実際には行ったことがない方々の島国日本からの憧憬にすぎません。ノストラダムスの大予言信奉と同じレベルです。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(4)メソポタミアと中央アジア
2.シュメールと膠着(こうちゃく)語
前3000年頃、メソポタミア南部、チグリス・ユーフラテス川下流地域で最初の文字を作りだしたシュメール人が海を経由して、はるばる日本に到来し、日本を建国したとする説も大正デモクラシーのロマンの延長線上にあります。
根拠として、以下の点が挙げられています。
―天皇家の紋章で日本のパスポートにも使われている16弁菊花紋はシュメールで発生した。
―シュメール語は日本語と同じように助詞を伴う膠着語に属し、両者の言葉に共通性が見られる。
―最初に独神3神、次に夫婦神7神が登場する国土創生神話はシュメール神話と共通する。
―シュメール神殿での禊(みそぎ)は神道のものと類似している。
―シュメールでも褌(ふんどし)を締めた相撲の競技があった、
(岩田明氏のシュメール日本建国説)
「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」(2004年。学習研究社)の著者、岩田明氏(1930年生)は、航海士として世界中を回りながらシュメール人日本渡来説を確信し、イラクなど各地を取材された後、南インドでシュメール船「キエンギ号」を建造され、1992年に日本列島までの航海を試みました。残念ながら沖縄諸島の久米島沖で大きな三角波に襲われて船が転覆し、計画は成就できませんでしたが、島国に閉じこもったまま思い込みを吹聴するだけなのではなく、実際に実証を試みた冒険精神と勇気は高く評価されます。
岩田説では、前7000年に中央アジアの巨丹(ほたん)で発生したシュメール人は前5000年にインダス川河口からメソポタミア南部に移動し、ウル王朝を建国。前2004年の滅亡を機にインド南部に移動し、前1000年頃にシンガポール(マレー半島)とインドシナに定着し、前1000~前500年に海人(あま)族・天孫族として日本列島に到来し、弥生文化を始めた。ウルに隣接したイラン高原にいたエラム人は前2500年頃にアーリア人(アイラ族)となり、青銅騎馬民族集団として中国に入って殷(いん)を興し、その分派が箕氏(きし)朝鮮を建国、箕氏の末裔が銅鐸部族として出雲に渡り、スサノオを祀る出雲王国を築いた……とするあらすじとなります。
(シュメール日本建国説への批判)
菊花紋はおそらくシュメールが起源でしょうが、シュメールから中近東全域に広がったようです。ルーブル美術館のペルシャ部門にあるアケーメネス王朝(前539~前330年)でも16弁菊花紋を確認できます。ひきんな例ではパリにあるイラン・レストランでも装飾に菊花紋を使っています。忘れてはならないことは、天皇家の菊花紋は平安時代の醍醐天皇(在位897~930年)が定めたもので、弥生時代や古墳時代の土器には存在しないことです。その根源をたどっていくと、正倉院の御物と同様に中国経由でササン朝ペルシャ(226~642年)時代の菊花紋が日本に伝わった、と見なすのが妥当です。相撲も、インドやインドシナでは見出されませんから、中央アジア経由で伝来したものか、あるいは縄文時代から存在していたかもしれません。
私がシュメール人日本渡来説を否定する最大の理由は、インド洋の海流と太平洋の海流は異なっていることです。黒潮に比較するとインド洋の海流は穏やかで、ダウ船でメソポタミアからインド、タイ、インドネシア、ベトナム、中国南東部、フィリピン諸島までは航海ができるようです。イスラム教の伝播範囲もそこまでですから、古代にユダヤ人やフェニキア人の交易者が香料などを求めて訪れた可能性はあります。しかしフィリピン諸島北部、台湾、沖縄諸島の海域からは潮流と暴風雨はより激しく、ダウ船での航海をはばみ、異なる文化圏となるようです。
(私の夢は膠着語世界研究センターの設立)
シュメールに関するコレクションはヨーロッパではパリのルーブル美術館、ロンドンの大英博物館、ベルリンのペルガモン博物館の3か所が有名です。ペルガモン博物館を訪れた時、シュメールの神殿が復元された場所に日本の古墳時代前期の円筒埴輪にそっくりの土器があって、びっくりしました。私もシュメール人日本建国説に賛同していたなら狂喜したことでしょう。前3000~前2500年と3世紀末の時間差と距離の遠さを考慮するなら、中国やインドシナなどの中間地点で円筒埴輪が発見されない限り、今のところは偶然の一致と解釈しています。
旧約聖書のノアの箱舟神話の起源はシュメールまでさかのぼることがはっきりしたこともあり、20世紀前半からキリスト教の欧米諸国ではシュメール研究に力が入り、非常に進んでいます。これに対して、残念ながら日本の場合、シュメール研究はまだごく少数の学者や研究者に限られています。
私は常々、日本のシュメール研究は古代膠着語の研究から入るのが適正ではないか、と考えています。前2000年以前、印欧語族の前に、ユーラシア大陸の広範囲に膠着語文化が広がっていたのではないだろうか。未解読の古代ギリシャの線文字Aやフランスとスペイン国境のピレネー山脈に残るバスク語ともつながっていきそうな思いがしますし、欧米の視点からでは見えないユーラシア大陸の古代文明が浮き上がってくるでしょう。日本が率先して膠着語文化世界研究所を作って欲しいものですが、まだまだ夢物語です。
第3章 俗説・風説の検証
3.外国人建国説
(4)メソポタミアと中央アジア
3.日本人とユダヤ人同祖説
ユダヤの歴史を眺めていると、1948年にイスラエルの建国に成功するまでは、ユダヤ人はヨーロッパのキリスト教社会よりもイスラム教社会と共存し、連動していたことがよく分かります。民族的にも同じセム系で、イスラム教はユダヤ教の影響を受けていますし、食生活も中近東のイスラム圏とほぼ共通しています。中近東の東側の中央アジアやインド亜大陸、マレー半島周辺ではイスラムが存在するところに必ずと言えるほど交易者としてユダヤ人が帯同しています。
本家筋のユダヤ人はイスラム教やキリスト教に改宗したパレスチナ人であることはよく知られています。現在のイスラエル対イスラムの激しい対立は歴史的に見ると歪められた情況下にあると言えます。
(イスラエルの失われた10氏族)
イスラエルの記録は前17世紀の族長アブラハムから始まります。孫のヤコブの時代にエジプトに移住し、前13世紀にモーゼが民族をエジプトから連れ出します。
ダビデ王(前1004~前955年)の時代に統一イスラエル王国として12部族が統合されますが、ソロモン王(前965~前930年)の死後、10部族による北王国イスラエルとエレサレムを首都とする2部族による南王国ユダの南北に分裂します。
北王国は前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10氏族は捕囚としてアッシリアに連行されます。この10氏族の行方が文書に残されていないため、2氏族によって「失われた10氏族」と呼ばれるようになります。
南王国ユダは前586年に新バビロニアに滅ぼされ捕虜となりますが、このバビロニア捕囚時代にユダヤ民族としての独自性を保つ基礎が作られ、ユダヤ教が確立します。
(日ユ同祖説)
日ユ同祖説は1927(昭和2)年頃、酒井勝軍(さかいかつとき。1874~1940年)氏や陸軍将校の安江仙弘(やすえのりひろ)氏などによって発表されました。これがきっかけとなって、「失われた10氏族の一部が日本に渡来した」、「古代ユダヤの小王国が徳島県(阿波)にあり、剣山に現在もモーゼの十戒の石板を納めた箱(契約の聖櫃)がある」、「ユダヤの六芒星に似た紋章が伊勢神宮の灯篭などに見られる」、「ユダヤ―秦(中国)―辰国(朝鮮半島)―天皇家」とつながるから天皇家の遠祖はユダヤ、とする極論まで派生しています。
日ユ同祖説は、 欧米コンプレックスにもとずく大正デモクラシー時代の童謡「月の砂漠」的な発想と私はとらえていたのですが、酒井氏の系譜をフリー百科事典ウィキペディアで検索してみて、そんな悠長なレベルではなく、日本軍の満州建国、満州経営と密接に結びついていたことを知りました。
山形県に生まれた酒井氏は1988(明治22)年に14歳でキリスト教の洗礼を受け、東北学院の後、1898(明治31)年にシカゴに留学、1902(明治35)年に帰国後、牧師として東京唱歌学校を設立します。
1904(明治37)年に通訳として日露戦争に従軍、1918(大正7)年にシベリア出兵に従軍、1924(大正13)年にヨーロッパの反ユダヤ主義の存在を日本に紹介します。1927(昭和2)年に陸軍はユダヤ研究に向けて酒井氏と安江氏をパレスチナ、エジプトに派遣し、安江氏が「日ユ同祖論」の書籍を出版します。
1930(昭和5)年に満州事変が起こり、1931(昭和6)年に酒井氏は天皇礼賛のシオン運動をおこし1932(昭和7年)に安江氏が日猶(ユ)協会を設立します。
1934(昭和9)年にドイツでヒットラーが総統兼首相に就任、翌年に反ユダヤのニュルンベルグ法が決議されます。同年、満州国が成立しますが、酒井氏は備後(広島県北東部)の葦嶽山を日本ピラミッドに認定します。
1935(昭和10)年に日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として世界民族文化協会が創立され、安江氏が会長に就任します。安江氏等は、ヨーロッパで迫害を受けるユダヤ人を満州国に受け入れ、ユダヤ資本を満州国経営に導入し、日本とアメリカの関係を強化しようと目論む「河豚(ふぐ)計画」を実行中だったようです。
1936(昭和11)年に日独防共協定が締結されます。この頃から、陸軍内部でドイツを選ぶか、ユダヤとアメリカを選ぶかの暗闘が強まったのでしょう。1938(昭和13)年にハルピン特務機関の大佐だった安江氏は、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた数千人のユダヤ人を助け、出国斡旋、満州国内での入植斡旋、上海租界への移動を斡旋します(オトポール事件)。
1940(昭和15)年に安江氏は軍中央部と意見が衝突して予備役に編入され、酒井氏は他界します。同じ年にリトアニアの日本領事館領事代理を務めていた杉原千畝(すぎはらちうね)氏は本国からの指示を無視してユダヤ人に通過ビザを発行し、約6000人のユダヤ人の命を救います。
1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まります。安江氏は1945(昭和20)年に大連でソ連軍に逮捕され、1950(昭和25)年にハバロスク収容所で病死しますが、イスラエル建国後、イスラエル建国功労者として顕彰されます
日ユ同祖説は、古代史がその時代の政治・社会情勢に活用・利用される、生々しい例証でした。
(ユダヤ人渡来の信憑性)
酒井・安江説は別個にして、はたしてユダヤ人が古代日本に渡来したでしょうか。答えはノンです。
ユダヤ人はフェニキア人と同様に基本的に遊牧的な交易人ですから、前722年に北王国が滅亡した後、日本列島に定着したとする場合、中近東との交易が盛んになった、あるいは朝鮮半島と中国との貿易に乗り出して、その存在が中国の史書に数行でも書かれているはずです。シュメール、フェニキア、イスラムのいずれも、海路では中国の広東・香港まで、陸路では中国の中原(黄河中流域)までが東限ですから、同類に属すユダヤの東限も同じです。
失われた10氏族の行方の候補地として、アフガニスタンのパタン族、インドのカシミール地方、ミャンマー北東部のカレン族、中国、スキタイなどは可能性はありますが、実態は秦・前漢時代の中国からの亡命者・流れ者が朝鮮半島で衛氏朝鮮や辰国を建国したと同じで、ユダヤ系も含めたセム系の亡命者・流れ者集団だった、と見なすのが妥当です。
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