「邪馬台国大和説」は渡来系漢籍学者の想定に過ぎなかった
(参照)随想録―渡来系学派からの離脱と縄文ルネサンスへ
古事記と日本書紀を読み比べているうちに、
―「邪馬台国=大和」説は、応神天皇時代の五世紀初め頃から来朝してきた渡来系学者が誤解釈をして唱えだしたもの
―日本書紀の暦年は古事記(712年)の公表から日本書紀(720年)の公表に至る八年間の造作
ということがはっきりして来ました。
(参照)古事記の吉備津彦二兄弟の吉備国平定の逸話が、大和国は邪馬台国ではなかったことを明白に語っている
不幸なことは、四世紀以前の実史を知らない渡来系学者の想定が朝廷から正式に認められたことによって、今日まで五世紀以前の日本古代史が不明瞭となってしまったことです。
1.渡来系漢籍学者が「邪馬台国は大和国」と想定していく過程
三世紀の邪馬台国から五世紀初頭までの倭国と朝鮮半島・中国との交流を整理してみます。
(1)邪馬台国と魏・帯方郡との交流 (西暦239年~266年のヒミコとトヨの時代)
(2)アメノヒホコ(天日槍)に代表される弁韓・辰韓地方からの来朝者 (三世紀後半から四世紀初頭)
朝鮮半島東南部の辰韓十二か国の中から、剘羅国〔シラ。後の新羅)が台頭し辰韓地方の統一化が進んだことから、倭国への亡命者が増大。この時点ではまだ「漢字」の知識は伝えられていない。
(3)大和朝廷と百済との交流の始まり。倭軍の弁韓・辰韓地方への進出 (四世紀後半)
倭軍の半島南部への進出。百済国(近肖古王親子)との友好。新羅、高句麗との軋轢。
(4)五世紀初頭から始まった渡来系学者の来朝 (五世紀以降)
五世紀初頭の応神天皇時代に、阿知吉師と阿直史、王仁(和邇)吉師と西漢氏、漢直と東漢氏など、百済国から漢籍学者が渡来してきます。いずれも四世紀前半に消滅した楽浪郡と帯方郡の漢籍学者の子孫・系譜につながりますが、彼らを通じて、朝廷での漢字文字の使用が本格化していきます。
渡来系学者が関心を示したことの一つは後漢書や三国志で紹介されている「邪馬台国」は日本列島のどの地方のどの国か、ということです。
大和朝廷の官僚や知識人に「邪馬台国」という名を出しても、「女王ヒミコ(卑弥呼)とトヨ(台与)」の名を挙げても、皆、きょとんとして首をかかげるだけでした。大和朝廷には、かって大和国が中国の「魏」という国と外交関係があったことを伝える伝承は全くありませんでした。
それを不思議に感じる渡来系学者も存在したことでしょうが、「大和と邪馬台」は発音が似通っていることから、「邪馬台国は大和であろう」と類推していきます。自分たちは大和朝廷に保護・雇用されている身であることから、保護者を持ち上げる意識もありました。
(5)隋の裴世清の訪日と隋書
西暦608年に来訪した隋使の裴世清(はいはいせい)一行は、通訳として知友を得た渡来人系学者からの話も参考にして、三国志の東夷伝(魏志倭人伝)に紹介されている「邪馬台国」は「大和」であると認定して、隋書に「倭国は邪靡(摩)堆に都す、則ち、『魏志』のいわゆる『邪馬台』なる者なり」と記載されました。
これにより、渡来系学者や朝鮮・中国の識者の間では、「大和=邪馬台国」説が定説となりました。
2.日本書紀の暦年は古事記の公表後、日本書紀が完成するまでの八年間の造作
大和朝廷が「邪馬台国=大和」説を公的に掲げだしたのは、古事記が八世紀初頭の712年に公表された後からのことです。それまで、大和朝廷は三国志などが紹介する「邪馬台国、ヒミコ、トヨ」の実態を知らず、重要事項でもありませんでした。古事記には「邪馬台国、ヒミコ、トヨ」が全く登場しないことも、大和朝廷には伝承がなかったことを語っています。
古事記で欠落した点を補充する目的もあった日本書紀(公表は720年)の編纂事業の最大の目的は、いつ日本列島に侵攻して来るかもしれない唐と新羅に対抗しうる「国家公認の編年体の官製の歴史書」をまとめ上げることでした。
天武天皇の王子である舎人親王の下で、日本書紀の編纂を委託された、唐人の続守言と薩弘格を筆頭とする渡来系学者は、神武天皇以降の生没年代を造作していく基準として、四世紀後半の「神功皇后」と干支二運を繰り上げた120年ほど前の「卑弥呼・台与」を同一視させ、これに百済記など年代が明確な朝鮮半島・中国の史書とを組み合わせていきます。
(日本書紀の神功皇后とヒミコ・トヨを同一化する部分)
神功紀十三年から26年後の同三十九年に突然飛び、百済記などで暦年が確かな神功紀46年(366年)から同65年(385年)までの前後に「ヒミコの魏との交流」と「トヨの晋への遣使」をはめこんでいます。
留意すべき点は「神功皇后=ヒミコ・トヨ』説を断定にはせずに、あくまで参考資料として挿入していることです。これは神功皇后とヒミコ・トヨの時差の違いを発案者も承知していたこと、同説に異を唱える者もいたものの、渡来人系学者チームは神功皇后以前の実史を知らなかったがために強引にはめ込んだことを示しています。
チームは「神功皇后=ヒミコ・トヨ」を基準年として「辛亥(しんがい)思想」にもとずいて神武天皇の即位年を縄文時代の紀元前660年と規定し、「邪馬台国=大和」説を明確にしました。
神功紀39年、「魏志に云はく、明帝の景初三年(239年)、倭の女王の朝献」
同 40年、「魏志に云はく、 正始元年(240年)、倭国に詔書印綬を奉る」
同 43年(363年)、「魏志に云はく、正始四年(243年)、倭王が魏に上献」
同 46年(366年)から65年(385年)まで、
暦年が確実な「百済記」を主体に、倭国側の記録を交えながら、倭国と朝鮮半島の関係を
記載。
同 66年(386年)、「晋の起居の注に云はく、武帝の秦初二年十月(266年)に倭の女王の貢献。
3.大和一元主義の確立
渡来系学者が造作した「神功皇后=ヒミコ・トヨ」説と「邪馬台国=大和」説は、対唐・新羅を念頭に置く奈良朝廷にとっても都合のよいものでした。
初代王からの生没年を明文化すると同時に、「大和=邪馬台国」であること、神武天皇の即位を縄文時代の紀元前660年、崇神天皇を弥生時代の西暦零年の頃と規定することにより、大和国は太古から日本の中心であったこと(大和一元主義あるいは大和天動説)を対外に誇示できるからです。また、大和一元主義は奈良時代の朝廷にとって国内の反対勢力や不満分子を押さえ込むのに効果がありました。
朝廷の内外で、「神功皇后=ヒミコ・トヨ」説の矛盾を指摘する声も上がった可能性もありますが、渡来系学者が指摘するまで「邪馬台国とヒミコ・トヨ」の実態や重要性を知らなかった朝廷にとっては三世紀以上も昔の120年の時間差を気にかけることよりも、大和朝廷の権威を確立ことが優先事項でした。
その一方、神功皇后以前の実史を知らず、「中国や朝鮮諸国より文化的に劣っている」という視線から四世紀以前を見ている渡来系学者が造作した説を朝廷が公式に認定したことにより、結果として四世紀前半以前の実史が不明瞭となってしまいました。現代に至るまで、渡来系学者の「自分たちが文字(漢字)を伝える以前の歴史は作り事の『神話の世界にすぎない』)という、誤った区切りにはめこまれた「日本の古代を大陸(中国・朝鮮半島)の視点から見る」ことが正当化されてきています。
古代を三期に分けると
前期:第一王朝以前(縄文時代から)、中期:第二王朝、後期:第三王朝
となりますが、文字の記録が残されていない、あるいは文字を知らなかった前期の第一王朝以前の時代は、「作り事の神話の世界」と決めつけてしまった弊害が今なお続いています。
史実として実在した第一王朝は、百済の成立(西暦346年)、新羅の成立(同356年)より半世紀以上も早い、第十代崇神天皇の末期(推定は同280年代後半)に東西倭国(日本国)の統一を達成しています。その後、第十一代垂仁天皇の皇女ヤマトヒメは東西統合の象徴・記念碑の地として、首都の大和盆地の纏向から海路での東国への出発地である伊勢の五十鈴川を選び、同時並行の形で、大和国の祖神アマテラスと吉備邪馬台国圏神話の太陽神オオヒルメを合体させた日本神話の大筋が成立しています。
4.奈良時代初期と明治時代の類似性
大和一元主義は、 マラソンにたとえると、先頭グループを追う第二グループ、第三グループのメンタリティと言えます。「唐、新羅に追いつき、追い越せ」の奈良時代の気概は、「唐と新羅」を「西欧とアメリカ」に置き換えると、明治初期の「欧米に追いつき、追い越せ」のものと共通性があり、帝国主義全盛の十九世紀の国際情勢にぴったり適合しました。
十九世紀は一神教が正論であり、多神教は原始的な、文化的に遅れた宗教、と見なすことが欧米諸国の主潮でした。これに対抗していくために、神道もアマテラスを頂点とする一神教的な要素が強められていき、神武天皇が「紀元前七世紀の人物」であったことも「人間神」として正当化されていきます。
邪馬台国大和説に対抗する九州説や他の地方の勢力が大和盆地に入り、地元勢力と融合して邪馬台国が誕生したとする説も大和一元主義の変形にすぎません。
5.欠史(闕史)八代説と騎馬民族説
第二次世界大戦後は「欠史八代説」と「神功皇后・武内宿禰架空説」が、戦前の行き過ぎた右傾化のアンチテーゼとして登場し、先進的で革新的な説として脚光を浴びました。
残念なことに「先進的で革新的な説」ともてはやされたものの、奈良時代初期に朝廷が渡来系学者の意向に添って認定した大和一元主義を脱してはいません。右に行き過ぎた戦前の反動として左に傾いただけで、依然として「日本の上古代を大陸(中国・朝鮮半島)」の視点から見ようとしています。
忘れてならないことは、欠史八代説の源流を作った津田左右吉の出発点は「満鉄の満鮮地理歴史調査室」から出発していること、騎馬民族説を提唱した江上波夫はユーラシア大陸史の研究者で、いずれも渡来系学者と同様に中国・朝鮮半島の視点から日本古代を見ていることで、基本的に奈良時代からの「大和一元主義」から脱していません。
その結果、「謎の三世紀」に続いて、「四世紀も謎」となってしまいました。現在では、文献学者は出口がない閉塞状況におちいり、行きづまってしまっています。一部の考古学者は「箸墓ヒミコ説」で強引に「邪馬台国大和説」をひねり出して決着をつけようとしていますが、これにも無理があります。
6.ブレイク・スルーは「大和は狗奴国説」の視点から
奈良時代から1300年間にでき上がった社会体制の中で大和一元主義(大和天動説)が浸透しすぎてしまっているのでしょう。その中に根をはった方々の中には、大和一元主義が否定されることを迷惑と思っている方も多いことでしょう。
古代日本を中国・朝鮮半島の視点から見ながら、諸外国への対抗意識を高めていく、というマラソンの第二集団的メンタリティが日本列島の知識人を支配しているようです。「神武天皇の即位は一世紀後半の80年代」、「欠史八代説は誤り」という、既成概念を批判する声も当初から存在しますが、こうした異論は排除され、社会的に片隅に追いやられている印象を受けます。
マラソンの第一集団に上げていく起点は「大和狗奴国説」です。「大和狗奴国説」から見ていくと、日本文化の糸を縄文時代までたどっていくことができます。
弥生終末期は吉備邪馬台国と大和狗奴(葛くづ)国が拮抗
(注)大和盆地の南葛城地方は古代から葛粉の特産地。「くず・くづ」が「くぬ・くな」に変化。
弥生後期の盟主は瀬戸内海の吉備と日本海の出雲(但し、吉備が兄貴格)
弥生中期の中心部は奴国・伊都国を主体とした北部九州
弥生前期に北部九州で「ムスビの神々」、瀬戸内海東部で「イザナギ・イザナミ神話」が誕生しますが、イザナギ・イザナミ神話の中に縄文の神々も入り交じっています(例:オオヤマツミは瀬戸内海西部の神、信州の生島・足島神、太陽神オオヒルメ等)。
さらに以下の三つの要素が視界に入ってきます。
―これまでは弥生中期と後期の「米の生産量」の各国・各地方比較が欠けていました。邪馬台国九州説では「鉄器の存在 は北部九州が圧倒する」ことが強調されすぎていますが、弥生中期半ば頃から、ことに吉備・出雲地方の米の生産高が北部九州を凌駕したことに触れていません。米の生産量が多いことは富(米)の蓄積が多く、戦時には兵士となる農民の数も多いことを示しています。
―平安時代の延喜式に記載されている全国各地の神社の由緒と祭神、これに加えて大和系と非大和系氏族の動きを仔細に見ていくと、弥生時代から古墳時代に至る実史に近接することができます。
―水田耕作を基盤とする弥生文化の範囲は、九州中南部から東北地方南部までですが、黒潮・対馬暖流を基盤とする縄文文化は琉球諸島から北海道・樺太南部までと、日本列島全域をカバーします。
西暦80年代から第一、第二、第三王朝へと続く世界最古の王室は日本の誇るべき遺産ですが、日本文化は縄文時代から一貫性があることを明らかにしていくことが先頭集団を走る気構えとなります。
日本への外人観光客の増加に伴って、神社を詣でる外人観光客も増えている中で、マラソンの第二集団的で偏狭な大和一元主義では通用しなくなってきています。高天原の舞姫アメノウズメ、スサノオの大蛇(おろち)退治などの日本神話は日本国内だけでなく 、世界の人々に愛読されていく共有財産に意識を高めていくことが、これからの課題と考えています。それに向けて「ムスビの神々の九州北部起源説の確認」、「琉球列島から北海道に到る、縄文時代からの神々の発掘」を次のテーマとしています。
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