箸墓物語

 

[その六] 箸墓

     

一.正后の嫉妬

淡路島への御幸

治世一三年(二八0年)四月末

 旧暦の正月が過ぎて、スミレが男児を出産した。トヨとアヤメは我が子のように大喜びする。トヨが名付け親となりオオカシマと命名された。

「吉備の良い跡取りができましたね」

「トヨさま、それは大層すぎます」とタケカシマは答えたものの、まんざらでもないのか、満面に笑みを浮かべていた。

 

 ミマキイリヒコ王も出産祝いに駆けつけて周を驚かせた。赤子を見た後、ミマキイリヒコ王はトヨに話しかけた。

「トヨさまからお力添えをいただいたお陰で大和の国は大倭国に成長できました。お礼に何かをしたいのですが、トヨさまが一番お望みのことは何でしょう」

「一番の望みは吉備津に戻ることです」

「それはまだ無理でしょう」

「それなら讃岐の百相(ももそ、もまい)に戻りたい」

「それもまだ無理のようです。トヨさまはもう大倭国の方です。オオモノヌシは三輪山におられるのですから」

「それなら瀬戸内海が見たい。捕りたての海の幸を食べたい。サワラ、タイ、ハモ、アナゴ、サバ、スズキ、タコ、エビ、ハマグリ……」

「トヨさまはよほど魚貝類がお好きなのですね」

 

 魚をあまり好まないミマキ王はトヨが魚や貝の名前をすらすらと口にするのに驚いた。

「淡路島までならご案内できるかもしれません。淡路島から瀬戸内海をたっぷりご覧になってください」 

早速、トヨと懇意のマクハシヒメが父のアラカハトベに連絡して紀伊、淡路島への御幸を手配した。お供人ほどのの御幸となった。アヤメは五十代前半を過ぎ、機織のしすぎもあって足腰が弱まりリウマチをわずらっていたが、どうしてもお供をして瀬戸内海を見たいと同行を言い張った。出産間もないスミレは紀伊行きを諦めたがタケカシマがお供についた。三歳になったトヨキイリヒコ王子も紀伊の祖父との出会いも兼ねて、同道することになった。トヨキイリヒコはオオカシマから武術を学び、子弟の間柄だった。

 

風の森峠を下って、五條から舟で吉野川を下っていく。船頭が「この辺りから紀伊に入りますんで、吉野川は紀の川となります」とのんびりした声をあげた。

王宮での息苦しさから解放されて気分が良いのか、ミマキ王が大和の伝統歌謡を歌いだした。

(歌謡)宇陀の高城に シギわなを仕掛け じっと待っていたら どでかい鷹が捕れてしまった これは大物だ

 低音の歌声は吉野川のせせらぎに乗って響いていった。

 

「節回しが本当にお上手ですこと」

「この歌謡は大和の国を建国されたイワレビコ王が熊野越えで五條に着いた後、吉野川を上って宇陀野に入り、土民を打ち破った際に歌ったものと伝えられています」

「シギではなく、鷹が捕れたという話は、まるで倭の国を捕ったようなものですね。吉備から出発されて、大和の葛国を建国された初代王はそこまで予見されていたのでしょうか」

「いや、倭の国ではなく、トヨさまが捕れたということかも知れません」

「私が鷹ですか。私はそんなどう猛な鳥ですか」

「いや、いや。鷹は鳥たちの王さまです」

「でも私は女ですよ」とぷいと横を向いた。

 

 ミマキ王の美声に合わせるかのように、数匹のウグイスが鳴き声を競い合う。

「トヨさま、ほら、あそこにウグイスがおります」

「ミマキさま、あれはウグイスではなく、メジロですよ」

「いや、ウグイスですよ。青緑の色をしております」

「その論争は吉備でもありましたが、私自身、目で確かめました。ウグイスは茶褐色でいつも藪の中にいますので、めったに姿を見せません」

「さきほどの鷹を訂正します。トヨさまは美しいメジロです」

「するとあなたは美声のウグイスですか」

「二人が一緒になれば、完璧ですな」

「ア、ハ、ハ」と目があった二人は大笑いした。

 

護衛の船に乗っていたタケカシマとトヨキイリヒコは顔を見合わせた。

「トヨさまがこれほど高笑いされるのを初めて見た」

「私も父王の大笑いは初めてです。お二人はよほど相性がよいのですね」

あれから、はや四年がたった。吉備の女王と大和の王がむつまじく同じ船に乗っている。王さま同士でしか分からない世界があるのかもしれない。私も吉備から讃岐、河内、豊後、肥後、肥前へと流れていき、今は敵国だった王の近衛兵となっている。年あまりで世の中が一変してしまった。今のトヨさまの姿をいったい誰が予測できたろう。

 

紀ノ川河口の名草でアラカハトベが仰々しく出迎えた。背丈が伸びた孫のトヨキイリヒコとの再会を喜び、歓迎の大饗宴を催した。 

トヨは真っ先に伊太祁曽(いたきそ)神社に詣でた。祀られるイソタケルは伽耶国の神さま、ウラたちの神さまだ。トヨはウラたちを供養した。イワレビコ王の兄ヒコイツセを祀る竈山陵をミマキ王と詣でた後二人は名草山に登って眼前の淡路島と遠くにかすむ阿波の山々を眺めた。

「イワレビコ王の兄ヒコイツセの御陵にいつかは詣でねばと前々から考えておりました。イワレビコ王は名草を占領した後、どういうわけか紀ノ川を上って五條に進まず、わざわざ半島を迂回して熊野新宮まで進み、熊野越えで五條に入っています。よく考えてみると、紀ノ川の中流の橋本に強敵が待ち構えていたからのようです」

 

一行は紀ノ川河口から船出した。友ヶ島水道を過ぎる頃、前方に沼島(ぬしま)が見えてきた。

「あの島がイザナギ・イザナミの神が天からお降りになって国産みをされたおのころ島ですよ」とアヤメが指を指す。トヨもミマキ王もおのころ島を見るのは初めてだった。

「あれがおのころ島なの。想像していたより、ずっと大きな島ですね」

 

ミマキ王は、見るもの、聞くものが珍しい。周囲を青垣に囲まれた盆地に育ったミマキ王は潮の香りを満喫した。福良港に近づくと阿波の山並みがくっきりと見える。

福良で一泊した後、福良から榎列(えなみ)に進み、行宮(あんぐう。仮り宮)で休息した後、湊に向かった。四年前に大和の兵士たちに物珍しげに取り囲まれ、さらし者になったみじめさを思い出した。次第に小豆島の山々が見えてきた。その先が吉備だ。左手に阿波の大麻山が見えてきた。するとあの辺りが引田の安戸の港屋島はあの辺りだろう。引田の住民はどうしているだろう。

 

 トヨは着物をたぐり、素足になって浜辺から海中に入った。アヤメもあとを追って海中に入った。海水はまだひんやりしているのに二人は童心に戻ったようにはしゃいでいる。

 ミマキ王はトヨの白いたおやかな脛(すね)にくぎづけとなった。トヨさまはまだお若い。一度はトヨを抱いてみたい欲望がわいた。父王が亡くなった直後にトヨさまと出会っていたなら、后に迎えていたかもれない。

 

 一行は夕刻、榎列の行宮に戻った。夕食は新鮮な海の幸だった。鯛、サワラ、スズキ、ハマグリ、タコ、ハモ、アナゴ、ヒラメ、コチ、サヨリ、いかなご、エビ、イカ……と盛りだくさんだった。

「さあ、トヨさま。たっぷりとお食べください」

トヨには勧めるが、ミマキ王はどういうわけか焼き魚は食べるが、刺身には手をつけない。

「生ま魚はお嫌いですか」

「実は幼い頃、刺身を食べてひどい食あたりをしたことがあります。それ以来、刺身はにがてです」

 

アヤメが珍しく口をはさんだ。

「そんなことおっしゃらずに、サワラのお刺身を食べてみてくださいな。春の瀬戸内のサワラの刺身はそれはそれはおいしゅうございます。大洋から産卵にサワラの大群が瀬戸内に押し寄せ、魚島(うおじま)と呼ばれるほど群れがひしめきあいます。私が育った児島からも魚島が幾つも見えました」

ミマキ王は恐る恐るサワラの刺身を口にした。アヤメとトヨが案じながら様子をうかがう。

「いや、確かに旨いですな。アヤメが自慢するだけのことはある。こんな旨い刺身は生まれて初めてだ」

 

 サワラをつまみに酒が進んだ。トヨも酒を勧められて、ほんのり赤ら顔になった。

トヨが厠に行こうと控えの間を通ると、アヤメはトヨに気づかずに夢中で刺身をほおばっていた。アヤメもよほど新鮮な刺身を食べたかったのだろう。アヤメにも随分と辛い思いをさせていたのだ。

 

 ほろ酔いしたミマキ王は微笑みながら「トヨさまにもっと早く出会っていたら、私は后に迎えていたかもしれません。もっと早く出会うべきでした」

 その言葉につられるように「私もそう思います」と答えて、トヨははっとした。顔が染まっていくのが分かる。二人は見つめあい、しばらく沈黙が続いた。

 

 その夜、二人は時が過ぎるのを忘れて話し込み、夜が白けていった。

「吉備の神さまは、イザナギ・イザナミ、オオヒルメ、スサノオ、オオモノヌシ」

「大和の神さまはアマテラス」

「祖先のイワレビコ王と兄のヒコイツセは吉備の高島に滞在したと伝え聞いておりますが、高島はどこにあるのでしょうか」

「高島は穴海の入り口にあります。そういえばヒコイツセ一行は吉井川河口の水門湾の奥に住んでいた、と聞いたことがあります」

「アマテラスが鎮座される場所をどこにするか、考えあぐねています。吉備の太陽の神オオヒルメはどこにお棲みですか」

「旭川の水源に三つの峰がそびえる秀麗な蒜山があり、そこにお棲みです。明け方になると東から天に上り、夕刻に西に下り、蒜山に戻っていかれます。旭川河口の浜野では毎朝、日の出を拝んでおります」

「丹後にも太陽の神さまが住んでおられると聞いております」

「でも丹後は山陰でしょう。山陰は日が沈む場所です」

「阿波の忌部と讃岐の忌部はどう違うのですか」

 

 話はつきなかった。杯が重なるうちに、ミマキ王はふいにトヨに寄りかかり、トヨの膝の上でイビキをかきだした。トヨはそのままの姿勢でミマキ王の肌の温かみを受け取った。

「私は西の倭国の女王だった。貴方は西の倭国と東の倭国を統一した大倭国の大王にきっとなられますよ」とトヨは語りかけた。

 夜明けにミマキ王が目を覚ますと、燈芯のかすかな明かりにトヨが微笑を浮かべていた。トヨはミマキ王の顔をそっとなでた。

 

正后の嫉妬

 風評は矢のように素早く伝わっていく。しかも真っ直ぐではなく歪んで伝わっていく。二人が一夜を共にした噂は、大和に伝わった時には「ミマキ王がとうとう、人の目もはばからずにトヨさまと同衾された」という話になっていた。

留守宅の宮中は大騒ぎとなった。ことに皇后のミマツヒメの嫉妬は激しかった。

「このままではトヨとマクハシヒメにミマキ王を奪われてしまう」 

ミマツヒメは父オオビコの許を訪れて直訴した。ミマツヒメの怒りは真っ先に、御幸を手配したマクハシヒメに向けられた。誰の仕業かは分からないが、マクハシヒメの高殿の周りに糞尿がまきちらされる騒ぎが頻発した。

 

トヨが大和に戻ってくると、どうも侍女頭のヤマブキの態度がぎこちない。何となく白けた雰囲気が漂う。新たにササメという少女がヤマブキのお付きになっていた。ササメは吉備の出身と紹介されたが、言葉の抑揚から根っからの吉備の人間ではないことはすぐに分かった。

「何か、ミマツヒメの監視役がもう一人、増えたようだね」とトヨはアヤメにささやいた。

 トヨはお礼を兼ねてマクハシヒメの高殿を訪れたが、マクハシヒメの態度もぎこちなく、何か思い悩んでいるようだった。

「留守中に何が起こったのだろう」

 

 

二.外戚の画策

吉備津彦兄弟の吉備定住

 ミマツヒメの父オオビコも「このまま進んでいくと、吉備のイサセリビコとワカタケヒコ兄弟に主導権を奪われてしまう」と本気になって危機感を募らせた。娘ミマツヒメの泣き言に驚いたが、タケハニヤスビコの一件以来の懸念が現実なものになっていきそうだ。このままでは自分だけでなく、一族の存在も危なくなる。オオビコは、ミマキ王が三輪山にオオモノヌシを勧請したことに自分と同様に不満だった尾張オオマツとの関係を強めていった。思惑が一致した二人は敏速に動いた。 

  

 まずけむたい叔父たちを吉備に封じ込めてしまおう。吉備津彦兄弟はオオビコの叔父にあたったが、年齢はオオビコより若く、ということはオオビコよりも長生きすることになるとりあえずはトヨと吉備津彦兄弟との分断だ。オオビコとオオマツは、ひそかに吉備津彦二兄弟が畿内に徴発された吉備の残党を使って政権を奪おうとしている、という流言を飛ばした。ミマキ王の耳に入るころを見計らって、吉備津彦兄弟を吉備に封じ込めてしまうことをミマキ王に説き伏せた。

 夏になって、吉備津彦一族の吉備永住が正式に決まった。二人の策略どおり、西播磨は針間牛鹿臣(うしかのおみ)としてワカタケヒコの同腹の兄ヒコサシマ(ヒコサメマ)、備前は吉備上道臣(かむちみちのおみ)としてイサセリビコ、備中は吉備下道臣(しもつみちのおみ)としてワカタケヒコ、三兄弟を牽制する押さえとして吉備の西端の備後は大和系の豪族が笠臣(かさのおみ)としてそれぞれ封じられた。

 

イサセリビコがトヨに別れを告げに来た。

「吉備を私と弟の一族で分割統治することになりました。大和に戻ってくる機会は少なくなりましょう」

「私を吉備に連れ帰ってくださいな」

「いや、トヨさまはいまや、吉備だけでなく大倭国の女王さまです。ミマキ王が最も信頼し、頼りにされておられるのがトヨさまです。是非ともミマキ王を支えてください」

 

 唯一、信頼できるイサセリビコは大和を去り、後見人を失なってしまう。 

 トヨは一人になると子守歌のように口ずさんだ。

「吉備に帰りたいけど帰れない。讃岐に帰りたいけど帰れない。私は大倭国の女王ですと」

 

 

三.トヨの自害    

後ろ盾を失ったトヨ

治世一三年(二八0年)秋

アヤメは旅の疲れが出たのか、金屋に戻ってから急に衰弱していった。寝込む日が多くなり、しばらくして永眠した。虫が知らせたのか、早朝に目が覚めたトヨはアヤメの部屋を覗くと、すでにこときれていた。五歳代半ばでの、緊張の糸が切れたような死だった。トヨはアヤメの冷たい手を取って「ありがとう、ありがとう」と大粒の涙を流した。 

イサセリビコに続いて、三歳の時から仕えてきたアヤメも失った。母のような、姉のような存在だった。何かがぽっかりと空いてしまったようだった。顔には出さないように努めたが、トヨの衝撃は深かった。

 

三輪山の山中にアヤメの墓が造られた。トヨは頻繁に墓を参り、花をかかさなかった。一人で機を織っていると、隣でアヤメも機を織っている錯覚におちいる。アヤメはトヨにとって、あって当たり前だが、ないと困る空気のような存在だったことに、遅まきながら気がついた。アヤメは、ヒミコさまに代わ私の慈母だったのだ。死ぬ前にせめて瀬戸内の魚を堪能させてあげることができてよかった。児島育ちのアヤメは私以上に、魚が好きだった。

 

そのころから、原因は分からないが、夜になると高殿の室内に小さな白蛇が出没するようになった。トヨの小物入れ、寝室などにも出没する。白蛇が見つかる場所には、かすかに異臭が残っている。朝になると白蛇はどこかに消えうせている。

トヨはノイローゼ気味になった。スミレが確認する時には白蛇は出ない。白蛇が出た場所を示し「ほら、何かいやな匂いがするでしょ」と説明するが、スミレは「気のせいですよ。少し神経質になられていますね」ととりあわない。楽天家のスミレは気の細やかさに欠けるきらいがあった。

 

ある早朝、トヨは黒装束を着た男が甕を手に退出する姿を目撃した。犯人はこの男だったのだ。白蛇が好む香りで白蛇を誘導、操作しているようだった。ヤマブキとササメも加担しているのは明らかだ。背後にいるのは正后のミマツヒメに違いない。

以前はアヤメとスミレが間近にいたが、今はひとりぼっちだ。いつも誰かに監視されている視線を感じて居心地が悪い。スミレ夫妻に同居を求めることも考えたが、軽々しく頼むのも気がひけた。もう少し我慢しよう。 

三人の后の中で唯一、気心が知れているマクハシヒメも嫌がらせを愚痴るようになっていた。

「正后のいじめがひどくなって、嫌味のことばを頻繁に受けます。トヨさまは白蛇騒動でノイローゼになってしまわれたという話も聞いております。大丈夫ですか」

 オオモノヌシを招請したモモソヒメに三輪山の神さまがのろっている、という風聞マクハシヒメ耳にしていた。

 

唯一の楽しみはタケカシマとスミレの赤子オオカシマを抱く事だった。オオカシマを抱きながら「大きく、大きくなあれ。大きく育って吉備の栄光を取り戻しておくれ」と口ずさんだ。 

 ミマキ王も、紀伊から戻ってからトヨさまの様子がおかしいと、うすうす気づいてはいた。マクハシヒメもミマキ王との夜伽の時に「紀伊に戻りたい」とこぼすようになった。どうもトヨさまとマクハシヒメに正后が取り巻きを巻き込んで嫌がらせをしているようだ。ミマツヒメに注意することも考えたが、すぐにオオビコに泣きついて面倒なことになる。もう少し様子を見てみるしかない。

 

トヨは四五歳になり、老いを感じ始めていた。吉備の女王として八年、大和に来て四年。倭国の女王としての役割は終わった。志とは大きくはずれたものの、倭国は心が通じ合ったミマキ王に譲り渡した。吉備の魂はタケカシマとスミレが生んだオオカシマが受け継いでくれるだろう。

正后と外戚たちの陰湿ないじめに耐えながら老いていっても仕方ない。私にも邪馬台国の女王としての意地と誇りがある。私は邪馬台国を終焉させてしまった。でもオオモノヌシは瀬戸内海の神から、東西統一倭国の隅々に拡がった。それが私が果たした最後の仕事だったかもしれない。それで良しとしよう。吉備か讃岐に戻れないなら、ここで花を散らそう。一人きりの暗闇の中でトヨは覚悟を固めた。

 

ある日、トヨはタケカシマ夫妻を呼び、弧帯文が彫られた白い長石を手渡した。

「これが吉備邪馬台国の王家の象徴です。あなた方二人に託します」

「そんな恐れおおいことを。どういうご了見なのか、分かりかねます

「このところ、あちこちから白蛇が出現して気持悪い。侍女のヤマブキとササメからいつも監視されているような気もして薄気味悪い。弧帯文の石はあなた方に預けておいた方が安心です」

 

トヨはスミレに讃岐から持参した、王宮に上がる前幼い頃の着物もさしだした。

「次に女の子が生まれたら、これを着せてあげなさい」

タケカシマとスミレは顔を見合わせた。しかしトヨが死を覚悟したことを悟るまでには至らなかった。

「阿波の人々が大和に敗れた後、東国に逃れて安房の国を建国したように、吉備の人々が東国に新しい吉備の国を建国されてもよいのではないかと思うようになっています。オオカシマが私の夢を実現してくれるかもしれませんね」

 

最後の舞い

秋の収穫を祝う一月の新嘗(にいなめ)祭の朝、トヨはふいに王宮を訪れた。王宮は祭りの準備に追われ、人でごった返していた。

「どうされました。お供もつけずに」とミマキ王はいぶかった。

「新嘗祭なのでオオモノヌシにご挨拶をしに、三輪山に登ります。その前に急にお顔を拝見したくなりましたの」

「少しおやせになったようですが、お加減が悪いのですか」

 

王宮を出てアヤメの墓に詣でた後、トヨは三輪山に登り、山頂から西方の瀬戸内海に向かってオオモノヌシに祈りを奉げた。

山を下りながら、紅葉と榊の枝を折ってくる。高殿に戻ると、長時間の不在を心配したスミレが待ちかねていた。

「従者もつけずにどこへお出かけでした。たくさんの紅葉を持たれて」

「あまりにも紅葉が美しいから、神さまたちにも見ていただこうと思って、紅葉狩りに三輪山に登ってきました。アヤメの墓も紅葉で飾ってきましたよ」

 トヨはオオカシマを抱いてあやしながら「今日は疲れたから、すぐに就寝します。今夜のお祭をあなたも楽しみなさいな」とはやめにスミレを帰し、侍女たちも祭りに行かせた。一人きりとなったトヨはアヤメが織った純白の絹の衣に着替えた。

 

日が暮れていく。祭りが始まったのだろう。初瀬川から太鼓の音が響いてきた。

 

トヨは神々の祭壇に榊を奉げ、紅葉の枝を振りながら、遠くから聞こえる太鼓の音に合わせながら、舞を演じた。

イザナギとイザナミが造られた 倭の国よ 永久に 永久に栄えんことを

オオヒルメ スサノオ オオモノヌシの倭の国よ

楯築の ヒミコの邪馬台国 永久に 永久に栄えんことを

倭国を拡げたミマキの王よ 

大和の王者 倭国の王者 永久(とわ)に 永久に栄えんことを オオモノヌシと共に

 

紅葉の葉を一枚、一枚、散らしながら、一度、二度、三度と舞を繰り返した後、機織の上に上がった。吉備から肌身からはなさなかった小刀を梭()に付け、陰部にあてて意を決して機織からどすんと落下した。紅葉の上にトヨの鮮血が流れていった。

 

 

四.箸墓

 

ミマキイリヒコ王の怒り

 祭りから戻ったヤマブキとササメが血に染まったトヨを見つけた。慌てふためいてササメがタケカシマの家に駆け走った。

スミレとタケカシマが駆けつけた。散乱する紅葉の中にトヨを包んだ白い絹衣が鮮血に染まっていた。

「トヨさま、どうされました」

 手にはまだぬくもりが残っていた。スミレはトヨの両手を握りしめて号泣した。私どもが同居しておくべきだったとタケカシマは悔んだ。今にして弧帯文の白石を自分とスミレに託した意味を理解した。

「あの時、トヨさまの気配に気づいていたら、自害を回避させることができたのに」

 

 知らせはミマキ王に伝わり、ミマキ王が駆けつけた。何とか生き返ってほしい。何度もトヨの身体を揺さぶった。

「トヨさまのお陰で王国が固まり、名実ともに倭国の盟主となりました。死を急ぐことはなかったのに」

吉備は無理としても、讃岐だったなら、戻らせてもよかったのではないか、とミマキ王は後悔した。ミマキ王ににらみつけられたヤマブキとササメはちぢみこんだ。

 

 翌朝、ミマキ王はオオビコとオオマツたちを王宮に召集し、しらけた顔をする重臣の前で言い放った。

「お前達がトヨさまを自害に追い込んだのだ。トヨさまがおられなかったら、大和の国は自壊していた。日本統一は達成できなかった。お前達には王道は分からないだろう。こうなったら、日本一大きな陵墓を築いて、トヨさまをお祀りする」

 

 大きな墳墓や陵墓は山の尾根を利用して築かれるのが慣例だったが、ミマキ王は臣下たちの意見をさえぎって、トヨが好んだ纒向の市に壮大な墓を築くことを決めた。近くを流れる初瀬川を通じて瀬戸内海ともつながる。

 誰が流したかは定かではないが、三輪山の神と結ばれたトヨは、神の正体が蛇と気づいて、我が身を恥じて自害した、との噂が巷に広がった。大和の神と一緒になることを拒んだモモソヒメは大和の人間になりきることができなかったのだ。

 

箸墓挽歌

 ミマキ王はタケカシマに全権を託した。タケカシマとオオタタネコの指揮で、畿内の農民に加えて、吉備讃岐からの徴発者や開拓民が動員され、箸墓が築かれていった。楯築王やヒミコ女王よりもはるかに立派な墓を立てるのだ。

 

(歌謡)大坂山に群れる石 手渡しでつないでいけば 纒向も遠くはないさ

人々はそう歌いながら、大坂の山から葺き石を天秤棒で、ある時は手渡しで運びだした。吉備と讃岐の人々は夜もかがり火をたいて、働いた。驚いた大和の人々は、夜は神が造っていると顔を見合わせた。予定より一年はやく、倭国最大の陵墓が完成した。全長二十メートル、後円部径十メートルの巨大な墳墓になった。宮山形の特殊器台、円筒埴輪、都月型埴輪が頂上を飾りたてた。

 

 葬礼はミマキ王の先導で、おごそかに華麗に行なわれた。吉備、讃岐、播磨からの移住者が大和盆地や河内、和泉から集った。河内の恩智に移住したアメノコヤネを祀る中臣氏の神官たちもいた。予告なしにイサセリビコが吉備と讃岐から二人を越える大勢の人を伴って馳せ参じた。吉備の豪族になった大和側の人もいたし、敗者となった吉備側の人もいた。トヨの亡き骸をどうしても吉備津に戻したい、と泣きじゃくる者もいたが、巨大な箸墓に誰もが驚嘆の声をあげた。

 

オオタタネコが秘儀を取り仕切った。参列の最後に列した吉備の人たちはトヨの墓へと続く前方から後円に続く坂を上っていった。振り返ると三輪山がそびえている。トヨさまはあの世へ行かれたが、魂はいつもオオモノヌシが棲む三輪山を見上げられてい吉備の人たちも箸墓に納得した。

 

 

[その七] 日本統一とタケカシマ 

 

一.難航する東国進出

 四道将軍の活躍により、ミマキ王は西国と東国の統一を日本の歴史上、初めて成し遂げた。葛国を建国したイワレビコ王と並んで「初国を知らしめした大王」と称えられるようになった。しかしオオビコと息子のタケヌナカハワケが征服した東国の状況は日本海側と太平洋側とでは大きく違っていた。

日本海側は弥生時代後期から、出雲の神門王国と越前、越中、越後、信濃、会津を結ぶ交易路ができあがっており、出雲の四隅突出墳丘墓の文化も会津まで伝わっていた。オオビコは交易路の国々を一つずつ恭順させていくだけで目的が達成され、すでに越後では弥彦山を拠点に尾張族による開墾が順調に進んでいた。

 

難題は太平洋側にあった。常陸、下野、下総と武蔵にまたがる広大な関東平野は小さなクニが分立している未開の地の状態で、交易路が開通していなかった。東国に出るには、尾張から伊那谷に出て信濃を横断して碓氷峠から上野(こうづけ)に入る陸路のコースと、伊勢湾から太平洋に出て房総半島に至る海路のコースの二つがあった。太平洋岸を陸路で進む東海道は、富士山の噴火による被害がまだ残り、駿河から相模、甲斐に進む道は溶岩で閉ざされていた。

 

タケヌナカハワケは見かけでは東国を征服し、形式的には会津まで支配下に置いた。しかし実際は東山道、上野、下野の山側ルートを素通りして、恭順の態度を示す部族の首領に模造の銅鏡などを与えたにすぎないだけの話だった。銅鏡欲しさに恭順のふりをした首長も多くいたし、屈強な部族が各所にクニを構える関東平野は手づかずのままだった。

関東平野への道が唯一開かれていたのは、黒潮に乗って房総半島に至るルートだった。このルートは三世紀前半に大和が阿波を征服した前後、阿波の逃亡者が房総半島の南端に安房国を建国して以来、嵐による遭難の危険性はあったものの安定している。房総半島は山岳部が多くて水田作りが可能な耕地が少なかったが、麻や木綿(ゆう)など畑作に向く耕地が多かった。

阿波族を追う形で上総に侵攻した尾張氏と物部氏は東海、近江、北陸の住民を送り込み、安房を拠点に外房と内房の両側から開拓が進んでいた。しかし下総の平野部に入ると原住民の抵抗が激しくなり、房総半島の付け根の市原あたりから北進が阻まれていた。房総半島の対岸の武蔵や北の筑波地方には土着の縄文人と弥生中期に西の駿河や伊豆から移住した弥生人との融合で生まれていたクニグニが点在していた。統一王国は存在しなかったが、各部族は手強かった。

 

二.タケカシマの東征

治世一七年(二八四年)

 ミマキ王は家臣たちの意見を聞いて、太平洋からの東国征服を決めた。夏八月、ミマキ王は畿内、四国、東海の諸国に船の建造を命じる。

ミマキ王の悩みは誰に関東平野征服を任せるかにあった。すでに東国遠征の実績があるオオビコとタケヌナカハワケ親子をあてるのが順当ではあったが、正妃の父と兄がうさんくさかった。オオビコ親子の活躍でミマツヒメがますます増長し、口をはさむ機会も増えることは目に見えていた。親子に東国の利権を奪われてしまうと、ミマキ王と王室にとっては脅威となる。ミマキ王は東国を王室の直轄地として、王室の財政基盤を固めたかった。考え抜いたあげく、九州西部の肥後、肥前に功があったタケカシマと意富氏タケヲクミ一族を選んだ。

 

ミマキ王はタケカシマを王宮に呼び、関東平野征服を命じた。ミマキ王じきじきの東国征服の命令にタケカシマは驚いたが、吉備出身の自分にミマキ王が信頼を寄せていることに胸がうたれた。

「そういえばトヨさまは自害される直前に『阿波と同じように、東国に新しい吉備の国が建国されてもよいですね』とおっしゃっていた。これも何かの宿命なのだろう」

スミレが二人目の子供を身ごもっていたため、大和を離れるのは辛かったが、タケカシマは覚悟を固め、スミレも理解した。 

タケカシマは肥前の杵島から伴ってきた精鋭を核に、河内と和泉に散らばっていた吉備からの移住者を集めて討伐軍を結成した。初老に入ったタケヲクミ将軍に代わって息子を中心とする意富臣(おおのおみ)一族も征伐軍に加わった。

 

タケカシマの筑波征服

 月、各国に造らせた船が伊勢の五十鈴川に集結した。翌月、タケカシマ軍は兵士二千人を乗せた艘を連ねて、五十鈴川から船出して黒潮に乗った。水先案内人は阿波の忌部族だった。

 

房総半島の先端の白浜に到着した船団は、現地の者から事情を聞きながら、上総から下総へ上がるのではなく、下総と常陸を区切る内海から攻め入ることを決めた。一行は外房沿いに銚子へと進み、鹿島と香取が挟む細長の水道を過ぎて、広大な内海に入った。右手前方は信太流海(しだのながれうみ)、左手前方は鬼怒川河口の榎浦流海(えのうらのながれうみ)が広がっていた。鹿島灘には砂州が細長く続いていた。タケマシマは砂州の先端の台地に陣地を構え、真っ先に対岸の下総の香取を占拠して、内海への入り口にあたる水道を確保した。土グモからさほどの抵抗はなかった。

 

広大な水海を鮭の大群が上流に向かって遡上していく。タケカシマが初めて見る雄大な光景だった。鹿島灘の沖合では瀬戸内海や有明海には棲息しない秋刀魚(さんま)や深海魚アンコウが捕れ、腹をすかす兵士達のご馳走になった。鹿島灘の海岸線ではコハクも見つかるらしい。西国にはない自然の豊かさが東国に存在するようだ。 

鹿島と香取に陣地を張ったタケカシマ軍は榎浦流海に沿って信太郡を征服した。しかし西側の下総、武蔵、利根川流域は土着勢力が手強そうだったので、西進を断念し、信太流海から北の霞ヶ浦周辺を攻めていくことにする。

 

 北進に向けた最初の大敵は信太流海に突き出した半島の行方なめかた郡にいた。大きな集落が数か所にあった。信太郡の安婆島に落ち着いて周囲を見晴らすと、対岸の行方郡の随所から煙が立ち上っている。

「随分と人が住んでいるようだ」

 タケカシマは天を仰いで「タケミカヅチとフツヌシの神よ、住人が我らに従順な者であるなら、煙を私の頭上にたなびかせて欲しい。凶暴な敵であるなら、煙を逆方向の海にたなびかせて欲しい」と祈る。すると煙は海の方向に流れていった。

「まずは行方郡の半島に巣くう土グモの退治だ」

 

 翌朝、タケカシマは早朝に兵士に朝食を取らせた。軍勢は船に乗り、対岸の香澄里(かすり)に渡った。土グモの首領はヤサカシとヤツクシの二人だった。あちこちに穴を掘って砦を築き、常に警護を怠らなかった。兵士が上陸すると、穴に潜伏して守りを固めてタケカシマ軍に抵抗した。兵士が住民を追撃すると砦や木柵で厳重に守られた村落にすばしこく逃げ込み、固く門を閉ざしてしまう。手の打ちようがなく攻めあぐねた。

 

 陰暦の正月が過ぎ、春になった。数か月を無駄にしてしまい、焦りも出てきた。タケカシマたちはかすみに浮かぶ二峰山(筑波山)を見ながら、肥前の杵島の三山を思い出した。

「今ごろ、杵島の住民は歌垣の準備でうきうきしていることだろう」

「そうだ‼ 大将、歌垣ですよ」

杵島時代からの部下がすっとんきょうな声をあげた。

「要は賊を砦や村落から外におびき出して、打ち倒せばよいわけです。杵島時代を思い出して、杵島の歌垣を見世物にしておびき出してはどうでしょう」

「そうか、その手があった。名案だ。歌垣攻めを試してみよう」

 

 安婆島に戻った軍は、船を並べた筏の上に舞台を作り、槍に旗をつけ、キヌガサ(蓋)をいかだに巡らせ、祭りの飾りたてをしたてた。沖合に出て、笛、鈴、琴と太鼓の音に合わせて、杵島節の歌謡を歌い、舞を始めた。

 杵島踊りには多彩な種類があった。戦勝踊りの面浮立(めんぶりょう)。耕作に害をする悪霊を封じ込める踊り。面をかぶり羽飾りをつけ派手な衣裳をまとい、小太鼓を吊るして踊る鬼面芸は神さまと鬼の壮絶な戦い、女装した男女の踊りの征浮立、一声浮立もあった。杵島踊りを知らない吉備の出身者は、アメノウズメの天岩戸踊りや藁で作ったヤマタノオロチ退治するスサノオを演じた。

 即席で作った色とりどりの派手な衣裳をまとった兵士が休みなく、数々の舞を演じていく。夜は盛大にかがり火をたいた。一晩、二晩と昼夜ぶっ通しで祭りを繰り広げていると、波の音、潮の流れに乗って、村々に音色が流れていく。初めは警戒していた土グモたちも敵は攻撃してこないと次第に警戒心を解いていった。老若男女が総出で浜に群れ集まり、初めて見る異国の祭りに夢中になった。噂を聞いて近隣の村々からも見物人が増え、七日目になると浜ではあちこちで酒盛りや歌垣が始まっていた。そのすきをついて、闇に乗じて選りすぐった勇猛な兵士を上陸させ、村落に近い山陰にひそませた。

 

「ころはよし」

 示し合わせていた船上の舞台の演者の合図で、山陰に潜んでいた兵士たちがひそかに砦や村落のすべての門を閉ざしていった。そして祭りに熱中する土民を背後から襲い、不意をつかれて逃げ惑う住民を斬りつけていく。伊多久の郷ではいたく、フツナの郷では真っ二つに、安伐(やすきり)の里では易々と、吉前(えさき)の邑では「よく殺()いた」。残った住民も全員があっという間に焼き殺されてしまった。

 

関東平野の制圧

 最初の敵は徹底的に叩きのめし、相手に恐怖心を与える戦法は、タケカシマが豊後、阿蘇、肥後、肥前の転戦で会得した手法だった。その手法は関東平野でも通用した。

タケカシマは霞ヶ浦周辺の筑波地方を征服した後、筑波地方は意富臣に任せ、那珂川へと北進していった。タケマシマの勇猛さと残忍さはまたたく間に常陸の隅々に伝わり、進軍していく先々で土グモが降参した。北の磐城へ逃亡していく者も多く、抵抗はほとんどなかった。那珂川まで北上したタケカシマは水戸市の那珂川畔の飯富に拠点を構えた。 

 タケカシマは軍団を西軍と北軍の二手に分けた。西に向かった部隊は鬼怒川中流の下野(しもつけ)の宇都宮に進んだ後、左軍は上野(かみつけ)の榛名山の山麓へ、右軍は陸奥(みちのく)の那須へと進軍した。北軍は久慈川へと進み、左軍は久慈川上流の磐城、右軍は日立市から太平洋岸に沿って北上した。こうしてタケカシマ軍は久慈川、那珂川、鬼怒川、渡良瀬川、利根川上流まで征服した。しかし利根川の西南の武蔵は手つかずのままに留まった。

 

 タケカシマ軍の筑波征服後、物部系のウネメ臣ツクハの指揮で吉備の住人の移住が始まり、伊勢から船で続々と移住者が送られた。

 ツクハは榎浦流海と鬼怒川下流域に定着し、自分の姓にちなんで二峰山を筑波山と命名した。筑波山麓への移住者の主体は津山盆地の住人だった。彼らは那岐山からイザナギ・イザナミを筑波山に勧請した。筑波平野の湿地帯で水田耕作が本格化していく。北東の日立市・神峰山・多賀には赤磐市や吉井川中下流域の住人が移住していった。

 

 

三.トヨキイリヒコ王子の東国入り

治世二一年(二八八年頃)

 関東平野征服に一区切りがついて、タケカシマ軍は大和に凱旋した。留守の間に生まれた長女フジは三歳に、オオカシマは八歳に成長していた。タケマシマと意富臣の二人はミマキ王に常陸、磐城、下野、上野征服を報告し、凱旋ミヤゲとして大粒のコハクを進上した。さがタケカシマだ。タケカシマに対する信頼がますます深まった。関東地方を王室の直轄地として開拓していけば、王室の歳入は豪族たちよりもはるかに上回り、王家の権威が固まる。

 

ミマキ王は先送りにしてきた後継者選びにようやく手をつけた。ミマキ王は三九歳となっており、四代が間近だった。先々代、先代と二代続けて四代前半の若さで他界していたこともあり、外戚のオオビコを始めとした周囲は早く皇太子を決めるように幾度となくせっついていた。 

ミマキ王は意を決して長男のトヨキイリヒコと次男のイクメイリビコを呼び寄せた。ミマキ王は三人の后から息子六人、娘六人を授かっていた。紀伊マクハシヒメはトヨキイリヒコとトヨスキイリヒメの一男一女、正后のミマツヒメはイクメイリビコ、イザノマワカ、クニカタヒメ、チチツクワヒメ、イガヒメ、ヤマトヒコの三男三女、尾張オオアマヒメはオオイリキ、ヤサカノイリヒコ、ヌナキノイリヒメ、トヲチノイリヒメの二男二女をもうけていた。

 

 六人の息子のうち、ミマキ王は皇太子候補として長男のトヨキイリヒコと次男のイクメイリビコの二人に絞り込んでいた。トヨキイリヒコはすでに二一歳、イクメイリビコは八歳になっていた。どちらかといえば、ミマキ王は長男のトヨキイリビコを立てたかった。トヨキイリヒコは武道に秀で、覇王としての風格をそなえていた。王家の伝統として長男は外征の将軍として戦場に出すのが慣例となっていたが、ミマキ王はあえて戦場には出していなかった。しかしトヨキイリヒコの弱点は紀伊の豪族の血統で、王族の血を引くイクメイリビコより身分が劣ることだった。

 

 義父のオオビコ、正后のミマツヒメ親子は一刻も早く、ミマキ王がイクメイリビコを後継者に任じることを熱望していた。六十歳の還暦を過ぎて老い先が見えてきたオオビコは自分が他界した後の一族の繁栄を固めておきたかった。ミマツヒメにとってはイクメイリビコは申し分のない息子だった。律儀で真面目で母の意見にそむくことはなかった。しかしミマキ王にとっては、何か物足りなさがあった。真面目すぎる堅物で融通がきかない。少年の頃からサホ(狭穂、沙本)ヒメに片思いをしており、后はサホヒメだけとかたくなに決めていた。王者としてはもう少し度量の大きさも必要だとミマキ王は懸念していた。

「当然のことだが、イクメイリビコの背後で操るオオビコとタケヌナカハワケ親子が天下取りを企む恐れがある。せっかく手中におさめた東国も、オオビコ親子の意のままになってしまう」と思い悩んだ後、ミマキ王は大胆な策を実行した。

 

「東国経営が軌道に乗り、王家の基盤も固まった。そこで私の後継を決めようと思う。今夜見る夢を明朝、私に報告しなさい」

 兄弟は沐浴をして身を清めた後、就寝した。翌朝、トヨキイリヒコは「私は三輪山に登り、東に向かって八度、鉾と槍を突き上げ、八度、刀を打ち払う夢を見ました」、弟のイクメイリビコは「私は三輪山に登って、四方に縄を張り、粟をついばみに来る雀を追いやる夢を見ました」と奏上した。

 

 二人の夢を聞いたミマキ王は「やはり東国経営はトヨキイリヒコに託し、後継者はイクメイリビコにした方が無難なようだ。私の死後、反乱も起きないだろう」と決断した。

「兄は東を向いて武具を打ち払ったのだから、東国を統治しなさい。弟は四方に目配りをしたのだから、私を継いで王位を継ぎなさい」

臣下を集めた席で、後継皇太子はイクメイリビコ、トヨキイリヒコは東国大将軍を宣言した。オオビコ、タケヌナカハワケ、ミマツヒメの親子三人は直系のイクメイリビコの王位継承に胸をなでおろした。

ところがオオビコ親子の安堵は長くは続かなかった。

「タケハニヤスビコが鎮圧されて以来、アマツヒコネ族は鳴りを潜めている。しかし筑紫を統括するタケコロがひそかに反乱を企てているようだ、との報告が密偵からあった。そこでタケヌナカハワケは筑紫へ移って、タケコロに代わって筑紫国を治めてくれ。タケコロと配下のアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の主力は東国へ移動させる」

 

ミマキ王はタケカシマと意富臣を呼び出した。

「トヨキイリヒコを東国経営の総帥とする。息子の守り役をしてくれ」

 トヨキイリヒコは武術の師匠であるタケカシマに護衛されながら、船で東国に向かい、下野の鬼怒川支流の田川の河畔、宇都宮に居を構え、上毛野(かみつけの)君、下毛野(しもつけの)君の始祖となる。タケカシマはスミレたち家族を常陸に呼び寄せ、水戸に定住して那珂国造となり、意富臣一族も那珂川流域に移住した。

 

アマテラスの鎮座地

宮中では大和神話の語り部の部屋が拡充され、中臣族と忌部族の神官たちも迎えられ、神道の儀式が整えられていく。しかし忌部、中臣、三輪君となったオオタタネコの三者と大和伝統派の意見が対立する。なぜ敵国だった吉備の神オオモノヌシを大和の象徴である三輪山に勧請してしまったのだろうか。オオモノヌシを吉備に戻して、三輪山にはアマテラスを、いやオオクニタマを祀るべきだ、という声も依然として根強かったが、大和伝統派も御所派と磯城派に分裂したままだった。大和の神話、阿波の神話、吉備の神話をどのように融合させていくか。議論は沸騰するが、水掛け論、迷路に入ってしまい、結論が出ない。

 

ミマキ王は長年の課題である皇祖神アマテラスの処遇にも手をつけた。アマテラスさまをどこに祀ったらよいのだろう。アマテラスは暫定的に三輪山の北山麓、纒向川近くの笠縫邑(かさぬいむら)の桧原(ひばら)神社に祀られていた。王家の出身地である九州の向に祀るのが最良かも知れないが、距離的に遠すぎた。

ミマキ王はマクハシヒメの娘トヨスキイリヒメをアマテラス、オオアマヒメの娘ヌナキノイリヒメをオオクニタマの祭女に任命した。トヨスキイリヒメは兄に似てがっしりした体格だったが、ヌナキノイリヒメは幼い頃から病弱だった。

 

アマテラスの神をお祀りする場所をまず決めることが先決だ。ミマキ王はアマテラスの安住の地を探すようにトヨスキイリヒメに命じた。 

トヨスキイリヒメは五人の従者を従えて、まず母マクハシヒメの出身地である紀ノ川河口へと下っていった。次に船に乗っ

て鳴門海峡を越えて、吉備の穴海に入った。まず初代のイワレビコ兄弟が滞在したと伝わる吉井川河口を訪れ、安仁神社を建てた。旭川の河口を訪れた後、吉備中山の吉備津に入った。ここがトヨさまとスミレさまの都だったのだ。接遇したワカタケヒコの勧めで山陽道に入り、真備と川上町高山市の二か所の穴門山神社に詣でた。中国山地に入り蒜山高原を経て、伯耆の淀江から船に乗り丹後半島の内海の天橋立に着いた。天橋立周辺は丹波尾張族の拠点で、イザナギ・イザナミの降臨伝説もあった。尾張族が丁重にもてなした。

 

長旅から大和に戻ったトヨスキイリヒメは父王に報告した。

「第一候補は紀ノ川河口の名草山と感じます」

 

しかし父王は渋い顔となり、トヨスキイリビメを落胆させた。

「お前の見解は当たっているかもしれないが、それほど単純なことではない」

外戚の重しとしてミマキ王にとっては目の上のたんこぶだったオオビコは世を去っていたが、紀伊とすると一族を継いだ義兄タケヌナカハワケが尾張族を巻き込んで反対するのは明白だ。吉備にするとさらに反対は強まるに違いない。丹波にすると尾張族はもろ手をあげて賛成するし、タケヌナカハワケも同調するに違いない。しかし山陰に大和の祖神を祀るのも論理的に合わない。ミマキ王は熟考を重ねたが、結論を出すまでに至らなかった。家臣たちの意見も諸説あい乱れ、アマテラスの落ち着く場所は決まらなかった。

 

ミマキ王はトヨが言い残した言葉を思い出した。

「貴方は西の倭国と東の倭国を初めて統一した大王となりますよ」

「そうか。東西倭国の統一を達成した今、西の倭国の地に王朝の祖神を祀るのはふさわしくない。東西統合の記念を象徴できる地に祀るべきだろう」

ミマキ王はしばらくの間、様子を見ることにした。

 

 

四.出雲征服  

ミマキイリヒコ王の疑問 

治世二六年頃(二九四年頃)

 ミマキ王の治世は絶頂期にさしかかっていた。外戚としてライバル関係にあったオオビコとイサセリビコは相次いで他界し、外戚のうっとうしさが薄らいだ。しかしどうしても腑に落ちない点があった。四道将軍として出雲攻撃を指揮したワカタケヒコの報告では出雲を支配下におさめたはずである。それから六年近くが経過したものの、アメノホヒの子神タケヒナテル(アメノヒナトリ)が天から招来したという出雲の国の神宝が、大和への恭順の証として献上されたはずなのに都に届いていない。

 

「いったいどういうことなのだ」

 ミマキ王は臣下に何度か詰問したが、臣下もはっきり答えられず右往左往するだけだった。吉備に住むワカタケヒコに問い合わせをしてみても、曖昧な答しか戻ってこない。ワカタケヒコ自身も状況はよく分からないようだった。内偵をさせると状況は複雑で、ワカタケヒコ以下、お茶を濁してきたことが判明した。東出雲までは確かに大和の勢力下に入っていたが、西出雲の神門王国は大和に服従のそぶりをしながらも、実際は独立を保っていた。東の意宇(おう)郡は大和、西の神門郡は神門王国、中間にある斐伊川沿いの出雲郷が両者の緩衝地帯となっていた。

 

ミマキ王は出雲の状況を正確に把握するために、物部系の矢田部造タケモロスミを出雲に派遣した。

 

アメノホヒ族とアメノワカヒコ

 タケモロスミが東出雲の意宇郡に着いてみると、事態は想定していたよりさらに込み入っていた。

 

ワカタケヒコ軍が二七八年に東出雲を征服した後、大和から日向天孫五部族のアメノホヒ族が国造として出雲に派遣された。アメノホヒ族は意宇郡の神魂かもす神社の丘に拠点を構え、出雲の統治を開始したものの、西出雲の神門湾を拠点としてカンドツミ王が治める王国は頑強で攻め滅ぼすことができず、神門王国の独立自治を認めざるをえない状況におちいった。カンドツミ王には后が二人いた。正后は宗像族の出身でフルネ、イヒイリネ、シタテルヒメの二男一女を産み、別の后はウマシカラヒサを産んでいた。

アメノホヒ族は体裁をつくろうため、アメノホヒの子神タケヒナテルが神門王国の財宝を招来した、とする報告を都に伝えたものの、詳細はうやむやのままに留めていた。

 

 ミマキ王の催促に苦慮し、アメノヒホコ族のごまかしにもうすうす気づいた大和宮廷は、美濃出身の尾張族アメノワカヒコを出雲に送りこんだ。

 アメノワカヒコはアメノホヒ族からうさんくさい人物として冷淡に迎えられた。アメノワカヒコは情報を得るために緩衝地帯の出雲郡に出向き、カンドツミの王子イヒイリネとウマシカラヒサと知り合った。不思議なことにイヒイリネとアメノワカヒコは兄弟と間違えられるほど、そっくりの顔と体格をしており、気心も通じ合った。

 

 アメノワカヒコは吉備王国の女王トヨの大和入りとオオモノヌシ勧請、ミマキ王の東西倭国の統一、タケカシマの武勇伝をイヒイリネたちに物語り、神門王国も大和の傘下に入った方が未来があると口説いていった。そのうちイヒイリネの妹シタテルヒメは兄と瓜二つのアメノワカヒコにぞっこんとなり、二人は結婚した。結婚を通じて、アワノワカヒコはカンドツミ王を懐柔し、あわよくば王位の座も手に入れる野心を抱いた。

 

かねてからアメノワカヒコをけむたい存在として警戒していた東出雲のアメノホヒ族は、ワカヒコが神門王国に寝返ったと断じて、部下に命じてひそかにワカヒコを暗殺した。

 アメノワカヒコの葬儀は出雲郷で行なわれ、両親も美濃から駆けつけた。葬儀に参列したイヒイリネを見て、両親は「瓜二つだ、息子は生きている」と狂喜した。日頃は温厚なイヒイリネも死人に勘違いされて激怒し、喪屋の柱を斬って立ち去った。

 しばらくしてカンドツミ王が他界し、長男のフルネが跡を継いで新王となった。

 

タケカシマの出雲入り

二九五年頃

 タケモロスミの報告を受けたミマキ王は事態を鎮めることができる人物はタケカシマしかいないと判断し、常陸からタケカシマを召還して出雲に派遣した。タケカシマは吉備系の部下二人を引き連れて出雲に向かう。果たして自分がミマキ王の意向どおりに収拾できるだろうか。

丹後半島の網野港から船出し、伯耆の淀江でタケモロスミと合流した。事情を聞くとかなり複雑でよく理解できない。とにかく出雲に乗り込んでみよう。わずか二人で神門王国に乗り込むのは危険だとタケモロスミは諌めたが、タケカシマは船で島根半島の西の伊那佐(いなさ)の浜に向かった。タケカシマは船上に邪馬台国の象徴である孤帯文の旗を掲げた。

 

神門王国の新王となったフルネの悲願は神門王国をより強靭にして、出雲さらに日本海地域から大和勢力を追い出すことだった。兵力増強に向けて住民に重税を課したこともあり、王国内ではフルネ王の評判は悪かった。母方の出身である宗像族に加勢を要請したが、宗像族は大和勢力に加担しているようで、フルネ王の誘いに乗ってこなかった。かくなる上は、壱岐国、対馬国、金官伽耶国と連合する道しかない。金官伽耶国も勃興する斯盧(シラ)国の侵入で苦慮していたため、連合に乗り気だった。四か国協議に向けフルネ王は対馬に向かった。

 

フルネ王の不在も幸いし、吉備の孤帯文も効を奏したのか、タケカシマ一行は伊那佐の浜に無事に上陸できた。

 

留守のフルネ王に代わって、弟のイヒイリネがタケカシマと対面した。

「弧帯文の旗を掲げておられましたが、貴殿は吉備と関係がおありですか」

「私は今こそミマキ王直属の将校として東国の常陸に住んでおりますが、実は吉備の者でタケカシマと申します。王宮陥落の後、女王トヨさまの従者として大和入りしました。トヨさまの死も看取りました」

「あっ、あなたがかのタケカシマさまですか」

「どうして私のことをご存知なのですか」

「あなたの武勇伝は大和のアメノワカヒコから伺っております。吉備の遣晋使だったアオヒコ殿がここにお住まいです。早速、呼び寄せましょう」

 

意外ななりゆきにタケカシマはあっけに取られた。出雲でまさか晋への遣使に会えるとは予想もしていなかった。一時間ほどして、本当にアオヒコが宮殿に駆けつけてきた。

「アオヒコ殿、ご無事でしたか」

 タケカシマより五歳ほど年長のアオヒコは五十歳を越えたのだろう、白髪が目立っていた。

「あれからもう二九年になりますでしょうか。トヨさまのこと、貴殿のご活躍ぶりは噂で聞いておりました」

「二十九年の歳月で時代はすっかり変わりました。オシヲ大夫とミマツ次使お元気でしょうか」

「いや、お二人ともこの地で亡くなられました。トヨさまを祀る箸墓に一度は詣でてみたいと、かねがね思っております」

「ところで晋の王さまから金印をもらえたのだろうか」

「いえ、残念ながら拝受できませんでした。魏と違って晋は倭国に期待を抱いておりませんでした。三国時代が終わり、全国統一が目前の晋の武帝(司馬炎)に相手にしてもらえませんでした」

 

 二人は夜を徹して語り合った。

 遣晋使一行は二六六年一月に洛陽に着き、目的どおり晋の初代皇帝の武帝に謁見することができた。しかし武帝は倭の使節にあまり興味を示さなかった。武帝が晋を興す二年前の二六三年に、魏が蜀を滅ぼし、魏、蜀、呉の三国時代が終了し、江南の呉の併合も時間の問題となっていた。武帝にとっては後漢以来、半世紀ぶりに中国全土を統一することが重要課題で、東方政策には無関心だった。

落胆した遣使たちは帯方郡に戻って吉備王国の滅亡を知り、途方にくれた。帯方郡は武帝の意に反してまで吉備に援軍を送る意思はなかった。

「出雲の神門王国に頼るしか手立てはない」

 遣使一行は対馬から出雲に向かった。幸い、カンドツミ王は三人を客人として厚遇した。

 

神門王国の滅亡と武蔵開拓

イヒイリネは住民を重税で酷使する圧政ではなく、出雲の民が豊かになり課税も少なくなるなら、大和の支配下に入っても構わない、という柔軟な考えを持っていた。性格も温和で、兄のフルネよりも住民は慕っていた。

タケカシマはイヒイリネを口説いて、宝庫を開けさせた。イヒイリネは義弟のウマシカラヒサと息子のウカヅクネ親子に財宝を託して大和に献上した。

 

タケカシマは神門王国が日本海を通じていまだに信濃のタケミナカタ族と交流があることを知った。実際に西出雲にタケミナカタ族の代表者が駐在していた。

「大和軍はタケミナカタ族を尊重して信濃を攻撃しないことを約束する。その代わりに信濃を通過する大和の兵士や開拓民を妨害しないことを信濃に伝えて欲しい」

イヒイリネは代表者を呼び出し、タケカシマの言葉を伝えた。 

タケカシマとタケモロスミはウマシカラヒサ親子を伴って、財宝を携えて大和に戻っていった。タケカシマの要望で、出雲の宮大工数名も同伴した。

 

一か月後、対馬国から戻ったフルネ王は留守中のできごとを知り怒り狂った。住民には評判がよく、大和に対して中立を保ち、アメノワカヒコとも親交を深めた弟のイヒイリネを前々からこころよく思っていなかった。 

「斐伊川の止屋(やむや)の淵は最近、水草のアサザが生い茂っている。一緒に見にいかないか」

フルネ王はひそかに作らせた蔦をたくさん巻いた真刀そっくりの木刀を腰につけた。イヒイリネは真刀をつけて出かけた。

「水が清冷だ。一緒に沐浴しようではないか。心が清められるぞ

 先に川から上がったフルネ王は弟の真刀を腰に佩いた。弟は兄はどうして勘違いをしたのだろうかといぶかったが、兄の刀を腰に佩いた。すると兄が斬り込んできた。弟は刀を抜こうとして木刀であることにようやく気づいたが手遅れだった。イヒイリヒネは一撃で倒れた。

 

(歌謡)八雲立つ 出雲タケルが 佩ける太刀 蔦をたくさん巻いてはいたが 中身がなくて可哀想

 

西出雲の住人はイヒイリネの死をいたんで、アヂスキタカヒコネ神話へと昇華していった。ウマシカラヒサと息子のウカヅクネ親子は東出雲のアメノホヒ族の元に逃げ込み、窮状を訴えた。

 ミマキ王は吉備のワカタケヒコ軍に筑紫のタケヌナカハワケ軍を加えて出雲に出陣させた。大和にとっては満を持した強力な布陣だった。ワカタケヒコは兄イサセリビコの亡き後、大和の西方支配の総帥となっていた。十数年前の出雲征服が中途半端で終わったまま、ミマキ王への報告もお茶を濁し続けた責任の一端は自分にもあることを自覚していた。今回の戦いで出雲征服にけじめをつけた後、自分は引退して兄や自分の息子たちに託そう。ワカタケヒコは息子たちを従軍させた。大軍の襲撃によりフルネ軍は壊滅した。これでようやく西出雲が平定された。

 

 信濃のタケミナカタ族も大和に恭順した。信濃が安全になり、日本海と東山道経由で、タケヒナテル族が出雲の住民を率つれて関東平野へと移住していった。タケヒナテル族ヒナラスは常陸の新治の国造となり、タケカシマ軍、トヨキイリヒコ軍と共同して武蔵を攻略していく。利根川流域、荒川流域と大和軍の支配下に入っていった。大宮に拠点が置かれ、出雲から開拓民が新天地を求めて続々と東国に移住する。東出雲(意宇郡、大原郡)からの移住者は大宮にスサノオを祀る氷川神社を建立し、武蔵野を開拓していく。出雲郷からの移住者の一部は多摩川を越えた鶴見川流域に定着し、イソタケルを祀る杉山神社を建立した。西出雲の住人は下野磐城に送られ、アジスキタカヒコネを祀る都都古別(つつこわけ)神社を建立した。

 それに呼応して、筑紫や西国から移り住んだアマツヒコネ族の一部は下総経由で相模に侵攻し、残りの者はアメノユツヒコ族と共に陸奥北部へと進撃していった。

 

常陸に吉備の神々を勧請

「さすがはタケカシマだ」

ミマキ王の信頼はさらに深まった。タケカシマはミマキ王に許しを乞うて、鹿島に軍神タケミカヅチ、香取に剣神フツヌシを正式に勧請し、出雲から招いた宮大工に神社を造らせた。北の敵蝦夷をにらみつけるように、鹿島神宮の本殿は北向きに造られた。タケカシマの功績を称えて、ミマキ王は鹿島神宮に太刀、鉾、鉄弓などのみてぐらを寄進した。アメノコヤネを司る中臣カムキキカツも河内の信貴山から香取に招かれた。タケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネの吉備の三神が筑波地方に鎮座し、東国に新しい吉備の国が誕生した。筑波山、鹿島、多賀の三か所に高天原が作られた。

 

タケマシマは感慨もひとしおにスミレに語った。

「トヨさまが最後におっしゃった言葉が現実のものになった。阿波に次いで、東国に吉備、出雲の人々が移住して、新しい阿波、吉備、出雲が生まれた。トヨさまはそこまでお見通しだったのだろうか」

 

 

五.弁韓の任那の朝貢

治世三0年(二九七年頃)

その頃、朝鮮半島では大きな変動が始まっていた。晋の武帝が東方政策に力を入れなかったこともあり、楽浪郡と帯方郡の権限が衰え、北部では高句麗が息を吹き返していた。二九0年に晋の武帝がなくなり、息子の恵帝(けいてい 在位二九0~三0六年)が継いだが、愚帝だったこともあり晋の衰退が早くも始まっていた。 

南西部では馬韓五余国の中から百済国が抜きん出てきた。南東部では辰韓二か国の中から斯盧(しら)国が勃興中だった。間に挟まれた弁韓二か国からは突出した勢力が登場せず、弁韓諸国は西の馬韓勢力と東の辰韓勢力に侵食されつつあった。ことに斯盧国は辰韓諸国だけでなく、弁韓諸国にも侵入してくるようになっていた。辰韓、弁韓諸国から倭国に支援を求める使者の到来が増えていた。高句麗楽浪郡を三一三年に、帯方郡を三一四年に滅ぼした西晋は三一六年に滅び、三四六年に百済が馬韓、三五六年に新羅が辰韓を統一していく。

 

神門王国の崩壊を伝え聞いた弁韓の金官伽耶国は大和に遣使ソナカシチを派遣した。ソナカシチは、大和国は瀬戸内海の東端にあると聞いていたが、正確には所在地を知らなかった。最初に長門国の穴門に着き、現地のイツツヒコが倭国王を名乗ったが、品性から見て王ではないことを悟り、島々をさまよいながら日本海に出て、敦賀にたどりついた。ソナカシチは大和に案内され、ミマキ王と対面した。 

 ミマキ王は朝鮮半島の知識に疎かったが、たどただしい通訳を通じて、うっすらとながら父オオビビ王の時代に但馬の国に定着したアメノヒホコが倭国に逃れてきた事情が飲み込めた。

「どうか我が国を守っていただきたい。国名をミマキ王にちなんで、ミマナ(任那)と改名しても構いません」

「私は対馬の先にある貴国の事情はよく分からない。しばらく様子を見るしかない。ゆっくり大和にご滞在なさい。皇太子にお世話を命じます」

ミマキイリヒコ王は皇太子イクメイリビコに接遇を任せたが、それは波乱の四世紀の前触れにすぎなかった。

 

 

六.ミマキイリヒコ王の葬礼

治世三一年(二九八年頃)

 ミマキ王は治世三一年一二月、五歳直前の若さで他界した。早い死を誰もが惜しんだ。

「もう少し長生されて欲しかった」と痛惜する声が強かった。

 

翌二九九年一月、二十七歳になった皇太子イクメイリビコイサチが波乱なく跡いだ。もがりが終わり、ミマキ王は同一月、柳本の丘陵に築かれた全長二十メートルの陵墓に祀られた。 

 下野からトヨキイリヒコ一族、常陸からタケカシマが葬礼に参列した。スミレと息子のオオカシマ、娘のフジも同道していた。三歳になったフジはトヨの形見の着物を着ていた。八歳になったオオカシマは宮中に入ることが内定していた。オオカシマが中央入りをすると共に、タケカシマの後の那珂国の国司は意富臣が引き継ぐことになった。タケカシマは大和に戻るか、水戸に留まるか迷っていた。夢は吉備に戻ることだったが、状況が許さなかった。

 

深夜の儀式が行なわれた。食事会の後、日の出と共に新王が登場した。第一代イクメイリビコ王が誕生した。

「あの人は誰だろう。眼つきがタケハニヤスビコにそっくりだ」

スミレは挙動が怪しげなサホビコに気がついた。イクメイリビコ王の后サホヒメの兄と知ったが、タケハニヤスビコと同じように、いつか反乱をおこすに違いない予感がした。

 

葬礼と即位式が終わった後、親子四人は柳本の坂を下って纒向に向かっていく。道辺の柿畑では、農民たちが熟した柿収穫を急いでいた。

「トヨさまは柿がお好きだった」

坂を下っていくと、箸墓が浮かんでいる。三輪山に朝日が昇り、箸墓を照らしていた。朝露に濡れながら、、箸墓の前方の入り口から後円に登っていく。特殊器台、円筒埴輪の列は手入れが行き届いていた。

トヨさまが存命されていたら、六三歳くらいになる。自害されなかったら、私たちと一緒に常陸に移住されていたかもしれない」

 スミレはずっと、なぜあの時、トヨさまの心境に気づかなかったのか、自分の落ち度だという悔いが心のしこりとなっていた。その思いは夫のタケカシマも同じだった。

 

「トヨさまは、これだけ立派な陵墓に祀られた。王宮で正后や外戚にいびられながら長生されるよりも、大輪のまま散られてよかったのかもしれない」

タケカシマは自分にそう言い聞かせた。

「父上、大和に上ってきましたので、一度は吉備に行ってみようと思います」

「そんなに大きな声で話すのではない」

 

 タケカシマは周りに阿部氏タケヌナカハワケと尾張氏に通じた者がいることを警戒していた。小声で息子に答えた。

吉備に行くのは、もう少し様子を見てからにした方がよいだろう」

「なぜですか」

「吉備は吉備津彦一族の王国になっている。トヨキイリヒコ大将軍と私たちが統括する東国勢と吉備津彦一族が組んだら、大和政権もあやういことはイサチ王も承知されている。お前が吉備に行ったとしたら、警戒されるのは目に見えている」

 

 あれから三三年で倭国は大きく変貌した。激動の三三年だった。タケカシマは吉備、讃岐、和泉、肥前、大和、常陸、出雲と流れ歩いた我が身を振り返った。よくも生き延びてきたものだ。

「トヨさま、あなたの予見どおり、吉備邪馬台国は東国の常陸に移植されましたよ」

 

 四人は墓前に花を献じた後、息子のオオカシマが笛を吹き、スミレとフジが鈴を鳴らしながら舞い、タケカシマはトヨから譲り受けた白い弧帯文石を掲げながら、さびた声で歌った。

 

オオヒルメ、スサノオ、オオモノヌシの邪馬台国よ 永久に永久に

女王トヨの御心は 大和のミマキイリヒコ王に 引き継がれ 

大邪馬台(大倭)国が 誕生した 永久(とわ)に永久に

女王トヨよ 箸墓で安らかに眠れ 安らかに 永久に永久に

 

 四人の親子は、それから三世紀あまり後に一族から出た中臣鎌足(なかとみかまたり)が大化の改新の立役者となり、王朝の外戚、藤原氏として奈良時代、平安時代と栄華を極めていくことを知るよしもなかった。

 

 

 

                                                    ―-― 箸墓物語 完 ―――

 

 

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