その20.朝顔       (ヒカル 31歳) 

       

1.ヒカル、朝顔見舞の偽装に第五女宮訪問

 

 桐壺院の崩御の後、八年あまりトゥールの斎院を務めていた朝顔は、父の式部卿の喪で職を辞して、世俗人に戻りました。ヒカル大臣は例のように一度惚れこんだ女性は諦めきれない性癖なので、何やかや、しげしげと手紙を送ります。梅壺の里帰りで騒ぎ出した好色の虫はまだ鎮まっていないようで、ことに朝顔はヒカルの誘惑に袖を振った数少ない女性の一人でしたから、まだ未練がましい気持ちがあるのでしょう。

 一方の朝顔は、斎院につくのを引きとめようとしてヒカルに煩わされたことを思い出して、打ち解けた返信をしないでいましたので、「まったく口惜しいことだ」とヒカルは思い続けています。

 

 十月になってから朝顔が実家のユッセ(Ussé)城へ戻ったことを聞きつけて、同じ城に住んでいる桐壺院の妹の第五女宮の見舞いにかこつけてユッセ城を訪れました。故院は妹宮や弟宮を心から大切に扱っていましたから、それを引き継ぐ形でヒカルも親しく交際していました。

 

 第五女宮と朝顔は東の対と西の対に区切って生活していました。式部卿が他界してから、さほどの時間も経っていないのに、すでに荒廃した感じがして気配は悲しげにひっそりしています。

 ヒカルは第五女宮と対面して、あれこれと話します。非常に老け込んでしまった印象で、咳こみがちでした。姉のアンジェの大宮は今でも羨ましいほど若々しいのですが、妹宮の方は姉とかけ離れて、声がごつごつ無骨な印象を与えるのも、独り身の生活が長いせいだからでしょうか。

 

「兄の桐壺院が崩御されてからは、何につけても心細い思いをいたします。段々と歳を積んでいくにつれて、とても涙っぽくなって過しておりましたが、式部卿にまで先立たれてしまい、もう今ではあるかなきかのように生き残っております。こうやってお立ち寄りくださると、物憂さも忘れてしまいそうな心地がします」と話します。

「それにしても随分と老け込んでしまわれた」とヒカルは思いながらも、かしこまって話しかけます。

「父院が崩御された後は、何事につけても同じ世の中のようではなくなって、私も思いがけない罪を課せられて、見知らぬ地を流浪いたしました。運よく罪が解かれて、ロワールに戻ってまいりました後は、多忙に追われて暇なくしておりました。ここ数年、お訪ねして昔話を申し上げたり、聞かせていただくことができないのを不本意に感じておりました」。

「いえいえ、どこを見ても本当に浅ましいほど定めがない世の中なのに、私と言えばいつも同じ有様で過しているだけなので、命が長いことが恨めしくなることが度々あります。無事にロワールに戻って来られたのは喜ばしい限りです。漂泊されていた頃に、お逢いできないようになってしまったなら、さぞかし口惜しい思いをしたことでしょう」とぶるぶる震え声で答えます。

 

「それにしても大層ご立派に成人されましたね。まだ童子の時分にお眼にかかって、『こんなに光り輝く御方がこの世に誕生してくるものだ』と驚きました。その後も時々拝見する度に、恐れ多いほどの美しさだと感じておりました。ただ今の王さまが『貴方ととてもよく似ておられる』と人々が話しておりますが、『いくら何でも貴方よりは劣っておられるだろう』と推察しております」と長々と話しますが、「そうは言うものの、本人に面と向ってこうまで褒めそやす人はいないものだが」とヒカルはおかしがります。

「ブルターニュの田舎者になって、あれこれ思いがくじけてしまってからは、私もすっかり衰えてしまいました。現王の容姿は『過去の世でも立ち並ぶ者はいない』と有り難く拝見しておりますから、貴女のご推察は誤っておりますよ」とだけ口を挟みます。

「そういうことでしたら、私も現王を時々拝見できるなら、ここまで生き延びてこられた私の寿命もさらに延びるかもしれませんね。今日お越しいただいたお蔭で、老いを忘れ憂き世の歎きもすべて消えた心地がします」と言って、また涙をこぼします。

 

「アンジェの姉が羨ましい。貴方を婿に迎えたご縁で親しくお付き合いをされているのを羨んでいます。亡くなった兄の式部卿が貴方を婿に迎えなかったことを後悔している折々がありました」との話に少し耳がとまりました。

「そういう運命になっていたなら、今頃はどんなに幸せだったことでしょう。あの頃は誰も皆、私のことを相手にしてくれませんでした」とヒカルは思わず恨めしそうに気色ばんで話し込みました。

 

 

2.ヒカルの熱情を朝顔拒否

 

 朝顔が住む西の対の庭に眼をやりますと、晩秋の枯れ枯れになった風情が趣ありげに見渡され、のどやかな気分で眺めているであろう朝顔の姿・形はとても奥床しく、しみじみした感じであろう、とたまらなくなりました。

「こうして伺ったついでにお訪ねしないのは無愛想なようなので、あちらの御方へも挨拶をして参ります」と言って、テラスを伝って西の対に移動します。辺りが暗くなった時分で、父の喪中なので鈍色の内カーテンと黒い間仕切りの透影が哀れげで、追い風で薫物の香りがなまめかしく吹き通して申し分ない気配です。

 

 外のテラスに立たせたままでは失礼ですから、南面の控えの間にヒカルを案内して、付き人の執事が応対して取次ぎ役を務めます。

「今さら、若者扱いをして応接間の前で待たせるとは。神のように真面目に振舞って来た長い年月の労苦を数えてくれるなら、今なら応接間への出入りくらいは許していただけるだろう、と期待していたのだが」と物足りない思いでいます。

 

 すると執事が「過ぎ去ったことは皆、夢のことと見なしています。夢から覚めた今は、何と空しい世の中なのだろう、と戸惑っております。長い年月の貴方の労苦につきましては、冷静に考えてから決めさせていただきます」と朝顔の言葉を伝えました。

 ヒカルは「なるほど定め難い世の中ですな」と朝顔のそっけないない言葉にもめげずに朝顔への思いを続けます。

(歌)貴女が神の許しを得て 自由な身になるのを待ち続けている間 人知れず つれない世を過してまいりました

世俗に戻られた今、どうして神の戒めを口実にされるのでしょう。総じて、あのひどい仕打ちに遭遇してしまった後は、色々と思い悩みもしました。せめてその片端だけでもお話ししたいのですが」と思い詰めたように告げる様子は以前よりも今少し優美な気配が添えられています。もう三十歳代に入っていますが、位の高さに似合わない若々しさを保っています。

 

 しばらくして朝顔が返歌をしました。

(返歌)一旦は 神に仕えた身ですから 一通りの挨拶を交じらすにしても 誓った言葉に背くのではないかと 

     神が諌めることでしょう

「何てまあ辛いお言葉でしょう。あの頃の罪は罪や汚れを吹き払う風に託して、すべて払いのけておりますよ」と返すヒカルの言葉には愛嬌があふれています。もう恋はしまいと 汚れを流す川で誓約したのだが 神はその誓約を受けてもくれなかったといった歌もありますのに」とヒカルは他愛ない話を続けますが、生真面目な朝顔は気恥ずかしくなるだけです。義理の叔母メイヤン夫人を幼い頃から慕っていた朝顔は、ヒカルが夫人に示した身勝手さをいまだに許していないのでしょうが、ヒカルはそこまで悟ってはいないようです。

 

 年月が重なるうちに、男女の色恋に引っ込み思案な性格をますますつのらせていた朝顔は奥に引きこもってしまって、執事にも伝言を伝えなくなってしまったので、執事を始めお付きの人々は困惑してしまいました。仕方なくヒカルは「何だか色っぽい話をしすぎたようですな」と深い溜息をつかせながら、その場を立ち去ることにしました。

「歳をとっていくと、面目もない目に遭ってしまいますね。こんなに恋心に身をやつしているので、『今回だけでも』と面会していただきたかったのに、ひどい扱いを受けました」と立ち去る名残りを惜しんで、侍女たちは例のように大袈裟に褒めそやします。

 空一帯の色合いに風情がある時節で、はらはらと散る木の葉の響きを聞きながら、侍女たちは過ぎ去った過去がしみじみとよみがえって来て、ヒカルと交渉があった折々の、おかしかったり悲しかったことにつけて、ヒカルの心映えを思い出して、朝顔に話したりします。

 

 不愉快な気分のままシュノンソーに戻ったヒカルは、夜も寝覚めがちに朝顔のことを思い続けます。朝早く、よろい戸を開かせて朝露に濡れた前庭を眺めます。枯れた花々の所々に朝顔が這い回っているのを見つけて、色艶があせていく残り花を折らせて、朝顔に贈りました。

「あまりにそっけないもてなしを受けて、体裁が悪い心地をしました。私の後姿をどのようにご覧になったことか、と恨んでおります。

(歌)以前お見かけした 朝露のように美しい貴女を 忘れることができません 朝顔の花の盛りも

   そのうち過ぎて行きますよ

長い年月に積もった私の思いを『気の毒だ』というくらいは思ってくれないだろうか、という期待をこめて」と書いてありました。

 

 やんわりと円熟した文面なので、「はっきり返答しないのも知らんふりをしているようだし」とさすがに朝顔も感じ入り、侍女たちもインク壺を用意して返信を進めます。

(返歌)秋が終って 霧が立ち込める垣根に絡み付いて あるかなきかに色褪せている 朝顔の花のような私です

「貴方が贈ってくれた、我が身に似つかわしい色があせていく朝顔を見るにつけ 袖が涙の露で湿ってしまいます」とだけ書いてありました。

 

 さして面白味もない文面でしたが、どういうわけかヒカルは手離すのが惜しいかのように見つめています。青い鈍色の紙に書かれた上品で穏やかな濃淡の筆跡が美しく見えます。書き手の身分や書き方にごまかされて、その時は難点がないように見えても、いざ書くとなると事実を歪めてしまう場合もあります。筆者が差し出がましく書き紛らせてしまった部分もありましょうから、はっきりしない点も多くありましょう。

「恋に自由奔放だった昔の自分に立ち返って、今さら若々しい恋文などを書くのは似つかわしくない」とヒカルは思うものの、こんな風に以前から、疎遠なまでにはしようとせず、付かず離れずの態度を見せつけながら、口惜しくなるほど月日が過ぎていくのを考えてみると、「ここで止めてはいけない」と思って、気を取り直して熱心に手紙を送り続けます。

 

 

3.ヒカルの朝顔へのよろめきに紫上憂愁

 

 ある日、ヒカルはユッセ城の東の対に付き人の執事を呼んで相談しました。朝顔の侍女たちの中で、たいしたこともない男にさえ靡いてしまいそうな者などは、過ちを犯しかねないほどヒカルを褒めそやしますが、朝顔はあの当時ですらヒカルのことなど全く考慮にしませんでしたし、まして今はお互いに若い頃のような恋沙汰を思ってはならない年齢でも身分でもあります。

 はかなげな草木に触れたヒカルからの手紙に時期が過ぎないように返信する場合でも、「軽々しいと言われはしまいか」と人の批判を憚って、打ち解けた気配で書くことはありません。こうした昔と同じ態度は「世間の普通の人に較べると珍しくも恨めしいことだ」とヒカルは感じています。

 

 世間の人も二人の関係を漏れ聞いて、「前斎院と親密にされていて、第五女宮なども喜んでおられるそうだ」、「お似合いの組み合わせだな」などと語り合っているのが紫上の耳にも伝わりました。

「まさか、そういったことがあるとしても、隠し立てはされないだろう」と当初は紫上は気にすることはありませんでしたが、それなりに注意していると、素振りなどもいつもと違って、何かに心を奪われたようにぼんやりしています。

「本気で思い詰めていることを、さも何でもない戯れ事のように話されていたのか。同じ王族の出自と言っても、朝顔の父は桐壺院の弟、自分の父は桐壺院の従兄弟だから、朝顔の方が格上になる。世間の評判もよく、夫も昔から大事に扱っているようだ。夫の愛情が朝顔に移ってしまったら、私の立場は不安定なものになってしまう」と日頃から立ち並ぶ者がいないほどの寵愛に馴れていますので、「ここで押し消されてしまったら」と人知れず思い嘆いてしまいます。

「自分のことをすっかり見限ってしまうことはないにしても、幼少の頃から見馴れ親しんで来た長年の睦び合いも、自然と軽んじられていくことだろう」と様々に思い乱れます。ある程度のことなら、愛嬌を添えながら怨みごとを言いもするでしょうが、今回は「心の底から辛い」と感じていますので、おくびにも顔色に出しません。

 

 ヒカルは居間の端近くで外を眺めながら物思いに耽りがちになり、対外政策会議を口実に王宮に泊まることが頻繁になります。自宅に戻っても、手紙を書くことを唯一の仕事にしていましたから、

「やはり世間の噂は嘘ではなかった。それなら少しでも匂わしてくれたなら」と紫夫人は疎ましい思いに包まれます。

 

 冬入りしましたが、今年は王さまの母堂の他界などがあったため、祭事がなく物寂しい日々となりました。ヒカルも時間を持て余して、またしてもユッセ城を訪れることにしました。

 雪がちらちらと降る艶っぽい黄昏時に、着馴らしてしなやかになった上着に思い切り香を焚き染めて、身嗜みも入念にしますので、気が弱い女性なら、ふらっと魅せられて「どうなってしまうかしら」と危ぶまれるほどです。さすがに紫上の所へ行って、外出の挨拶をしました。

「第五女宮が病でお悩みのようなので、お見舞いに行って来ます」と軽くソファに腰を下ろして話しますが、紫上はヒカルの方を見ようともせず、若姫をあやしてその場を紛らわせようとしていますが、ただならぬ横顔をしています。

「このところ、ご機嫌が悪いようですね。でも私には叱られるような罪はありませんよ。塩作りの者が着る粗末な服をあまり見馴れてしまうと、ありきたりと思われることでしょうから、邸を空けたりしていますが、今日はまたどうしたことでしょう」と声をかけます。

「『サン・マロの漁師の服のように なよなよ馴れ親しんでいくと 厭なことも多くなる世の中だから 男女の仲は間遠になっていくという歌のように心配ごとが多いのですよ」とだけ言って、背中を向いてベットに臥してしまいます。

 

 そんな夫人をそのままにして外出するのは気が咎めるものの、「もう第五女宮に手紙で知らせていますので」と言って出掛けてしまいました。

「こんなことも巡って来る夫婦仲だったのに、無邪気に過してきたことよ」と紫上は悔いながら臥しています。鈍色の喪服のような服でしたが、色合いや重ね具合が好ましく、かえって美しく見えるヒカルの姿が雪の光りで一層艶に映えているのを見送りながら、「このまま離れて行ってしまったなら」とたまらなくなります。

 

 

 

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