その18.松風 (ヒカル 30歳)
1.ミラノ大画伯の死と神聖ローマ帝国の皇帝選挙敗北
神聖ローマ皇帝選挙が六月にさしせまって来た頃、ヒカルたちフランス勢にとっての誤算は、梅壺の後見役の一人で、国際外交で秀でた業績をあげていたルーアン枢機卿の他界でした。それに追い討ちをかけるようにミラノ大画伯も亡くなってしまいましたが、ミラノ大画伯を祖父のように慕っていた冷泉王の悲嘆ぶりははたから見ても気の毒でした。冷泉王は大画伯が設計にも加わっていたフランス・ルネサンスの華ともなるべき大規模な名城を自分の在位中にシャンボール(Chambord)の地に建設する意思を抱きました。
気がふれてしまった母と共同統治の形で、二年ほど前にスペイン入りしたシャルル一世はアラゴン王国とカスチラ王国の行政陣をネーデルランド公国から引き連れてきた部下たちに入れ換えながら、統一スペイン王としての地位を固めることができたこともあって、祖父皇帝の遺言を果そうと、皇帝選挙に全力を傾けていきます。シャルル一世の叔母で育て親として愛情が深い白菊ネーデルランド総督も、少女時代に自分を見捨てたフランス王国の鼻をあかす好機でもありましたから、並々ならぬ力の入れようでした。
選挙に向けてフランス側は反ローマ教皇と宗教改革の旗を掲げるルターに好意的な姿勢を示すドイツやネーデルランドの諸侯に接近していきますが、こうした秘密交渉に長けたルーアン枢機卿を失ったことが痛手でした。その一方でスペイン王国とフランス王国に挟まれたピレネー山脈のナヴァル王国をめぐって両国間で内密の会議も進められ、ヒカルも白菊総督に帝国との協調を目的にした会談を望む手紙を送ってみましたが、なしのつぶてでした。
シャルル一世側は銀や銅の鉱山経営で巨大な富を築いたアウグスブルグ(Augsburg)のフッガー財閥から支援を取り付けることに成功しました。選挙はシャルル一世と冷泉王が拮抗する白熱戦になった感もありましたが、土壇場になってフッガー財閥の財力とスペイン王国から持ち出されたドイツ諸侯懐柔資金がばら撒かれた結果、フランクフルト(Frankfurt)で実施された皇帝選挙では、ドイツ諸侯が全票をシャルル一世に投じてシャルル一世側が圧倒的勝利をおさめ、スペイン国王であるシャルル一世はカール五世として神聖ローマ帝国の皇帝を兼任することになりました。
「私の良き宿敵」を予告した白菊とヒカルの争いは見事にヒカルの完敗となってしまいましたが、白菊からの返信はないままでした。
2.花散里の移居と、明石サン・ブリュー上に上洛勧誘
皇帝選挙大敗はフランスにとっては衝撃でしたが、少しはほとぼりが冷め出した頃、シュノンソーの東にあるシセイ城の改修工事が完成して、リヨンの花散里を引き取り、しばらくしてムーランの末摘花も移って来ました。
西館と本館を結ぶ渡り回廊などにかけて管理事務所や職員の詰め所などをしかるべき形で設置させています。東館はかねてからサン・ブリュー上にあてようとヒカルは考えていました。北館はことに広く造って、一時的にせよヒカルが情けをかけ、先行きまで面倒を見ることを約束した女性たちを集めて住まわせるように間仕切りがされ、馴染みやすく見所もあるように綿密に造られています。中央の本館は誰の住まいにもあてず、ヒカルが時々滞在する際の住まいとして、それ相応の施設を整備させていました。
サン・ブリュー上への便りは怠りません。今は是非ともロワールに上がって来るように促すのですが、女の方はやはりまだ自分の身分の低さを自覚していて、「この上もなく高貴な身分の方々に混じってしまうと、中々構ってももらえず、疎遠にされたまま冷淡に扱われて、かえって気苦労が増すだけだ」と聞いたりもしますので、「自分がどれだけの寵愛を受けるだろうかと期待して、しゃしゃり出て行くことができよう。姫君の面汚しになるだけの、取るに足らない我が身が目立つだけだ。たまさかのヒカルの訪れを待つだけの生活となれば、人から嘲笑されるだけで体裁が悪いことにもなってしまうし」と思い迷っています。
「そうかと言って、娘がこんな田舎で生まれ育ってしまうと、世間の人はヒカルの子供として人並みに扱ってくれなくなるのも、とても悲しいことだから、いたずらにヒカル殿の要望に背くこともできない」。両親も「それももっともなこと」と思い嘆いて、かえって困り果てています。
3.サン・ブリューの修道僧がモントワールの旧邸修理
その昔、サン・ブリュー上の母の祖父である中務の宮という御方が所有していた山荘がル・ロワール河畔のモントワール(Montoire sur le Loir)の辺りにあったのですが、その御方が物故した後、しっかりと引き継ぐ者がいないまま、長い間、放置していたことを思い出して、その当時から代々、留守番役のようになっている者をサン・ブリューに呼んで要望を伝えました。
「私は世の中の望みを捨てて、今はこうした場所に引きこもっているのだが、この歳になって思いもよらなかったことが持ち上がって、ロワールでの住まいを求めるようになった。急に眩い人たちの中に入っていくのは体裁が悪いし、すっかり田舎者になってしまった身では落ち着くこともできないだろうから、妻方が相続している古い邸を思い出した。そちらが今まで使用している家屋は譲ってあげるから、本邸の方を一通りは人が住める状態に修繕してくれないか」と申し入れました。
「もう長い間、持ち主が住まずにひどく荒れてしまいましたので、使用人用の家を修繕して住んでおります。しかしながら、この春頃から、内大臣殿が近くのラヴァルダンにシャペルの建造を始めましたので、周辺はひどく騒がしくなっております。盛大な御堂を建てられるようで、大勢の作業員が働いております。静かな場所をお望みならば、場違いでございましょう」と預り人が答えます。
「いや、それはかえって好都合だ。この件もその内大臣に関わりがあって、そのつながりでの考えなのだ。内装や設備などは追い追い仕上げていくことにするが、とりあえず大体の修繕をして欲しい」と説得します。
「私自身が所有している所ではありませんが、相続されている御方が別段おられず、あまりにひっそりとしてしまいましたので、長年、当方が人目を避けてお守りしてまいりました。領内の田畑といったものも、ひどく荒れる一方でしたから、亡くなられた民事担当の官位五位のお役人に願い出て、しかるべき物はきちんと差し上げて、自分の土地として使っております」などと、自分の物のように使用してきた家や田地などが取り上げられてしまうのではないかと危惧して、ヒゲだらけの憎たらしい顔で鼻などを真っ赤にさせながら、不満そうな膨れ面をします。
「さような田畑などのことはとやかく言うつもりはない。そうしたものは、これまでのように思って使って構わない。所有証書などはこちらの手許にあるが、俗事のことはすべて捨て去った身であるから、長い間、ほっておいた。この機会に詳しく明確にしてみよう」などと続けますが、預り人は内大臣と関わりがある気配を感じ取って面倒になったせいか、その後、多くの物品を受け取って、急いで修繕を始めました。
ヒカルはそうしたサン・ブリューの人たちの思いや計画を知りませんので、サン・ブリュー上が中々ロワールへ上がって来るのを億劫がっているのが理解できませんでした。姫君がこのまま田舎でぼんやりと暮らしていったなら、「後の世まで人が言い伝えていくとなると、一層外聞が悪い弱みになってしまうだろう」と案じてもいましたが、一通りの修繕が終ってから「しかじかの場所を思い出しまして」と連絡がありました。
「さてはそういうことだったのか。シセイ城で他の女性たちと混じってしまうのを嫌がっていたのは、そんな意向があったからだったのか」と合点がいきました。「修行僧らしい賢明な心配りだ」と納得します。
コンスタンは例のように内緒ごとにはいつも扱い馴れている人でしたから、モントワールに派遣して、あちらこちらをしかるべき様に用意させました。
「河畔に面して眺めがよく、海辺の景色に似通った場所でございます」とコンスタンが報告しますので、「そういった住まいなら、満足しないことはなかろう」と安心しました。
ラヴァルダンに建造中のシャペルは小城の南に位置していて、ル・ロワール川を眺めるように建てられている御殿なども小城に劣らない味わいがあります。これに対しモントワールの山荘も同じように川に臨んでいますが、何ともたとえようがない風趣がある松の大木の側に、格別な工夫も凝らさずに建てられていて、簡素な様子が自然とひなびた山里の寂しさを見せています。ヒカルは室内の装飾にまで気を配りました。
4.サン・ブリュー上の出発と修道僧の生別の涙
ヒカルはサン・ブリュー上の出迎えに、親しくしている側近たちをごく内密に遣りました。サン・ブリュー上はもはや逃れることはできず、いよいよ長い歳月を過したサン・ブリューの浦を離れていくのが辛く、父僧が心細く一人ぽっちで残ることに思いが乱れ、何につけても悲しいのです。「どうしてこんなにすべての事に深く気を揉むような身になってしまったのだろう」とヒカルの情愛がかかっていない類の人が羨ましく感じたりします。
両親も、「こうしたお迎えまで来ていただいてロワールに上る幸せは、常日頃、寝ても覚めても願い続けて来たことが叶ったからだ」ととても嬉しいのですが、父僧は出逢うことも出来ずに過していかねばならない鬱陶しさが堪え難く、「もうこれからは若姫を見ることも見ることが出来ないのだね」と同じ言葉を繰り返すより他はありません。
悲しみが深いのは母君も同じです。夫とは長い間、同じ庵には住まず、別々に暮らしていたので、誰かのためにサン・ブリューに残る必要はありません。それでもかりそめでもちらっと出逢っただけの、奥深くもない男女の仲であっても馴れ親しんだ後、別れる段になるとただならない事になりますのに、ましてひどく偏屈な僧侶頭で心構えも頼りにならない夫ですが、「こここそが終の住みかである」とブルターニュにやって来て、いつまでも生き永らえることもできない人生を夫婦として契ってきた日々を送って来ましたので、急に夫と離れていくのも心細いことです。
若い侍女たちの中で、田舎住まいに気が晴れずに塞ぎ込んでいた者は、ロワールに上がって行くのは嬉しいことですが、その反面、見捨て難い浜辺の様子を眺めながら、「また、この地に戻ることはないのだろう」と寄せては返る波を眺めながら、涙で袖が濡れがちになってしまいます。秋の頃おいでしたから、サン・ブリュー上は物悲しさがさらに増して行く気持ちがします。
出発と定められた日の夜明けは秋風が涼しく、虫の音も調子を合わせて鳴いているいる中、サン・ブリュー上は海の方を眺めています。父僧はいつもの暁のお勤めで夜がまだ深いうちに起きて、鼻をすすりながら勤業をしています。めでたい旅立ちに涙を流すのは不吉なことですが、誰も誰もが別れの悲しみに堪えることができません。満二歳を過ぎた若姫はとても可愛らしく、在家僧は孫が夜の妖精が手にする光る玉石のような心地がしてなりません。自分の袖から放したことがなく、自分につきまとって来る気立てなどを思うと、こんな風な忌まわしいほどの僧侶姿に変えてしまった我が身をいまいましく思いながら、「これからは顔を見ることができなくなるのだから、どうやって過していけるだろう」と悲しみを隠し切れないでいます。
(歌)孫娘の将来の幸福を はるかに祈る別れに際して 堪えきれないのは 老人の涙であることよ
「全く縁起でもない」と涙を拭いて隠そうとします。
(歌)一緒にロワールを離れて来ましたが この度は一人で参りますので 野中の道に迷ってしまうことでしょう
と、夫と共に在俗修道女となっている妻がそう詠みながら、涙を流すのも無理はありません。長い間、夫婦の契りを交わした積もる歳月のことを思うと、このようにあてにならないヒカル殿の気持ちを頼みとして、一度は捨てたロワールへ帰って行くのも思えば空しいことです。
(歌)生きて再び お会い出来るのは いつのことなのか 当てにすることができません
とサン・ブリュー上が「せめて見送りにだけでもロワールまで同道してください」としきりに請いますが、同道できない理由をあれこれ言いながら、さすがに道中がどうなるか不安な様子です。
「大望を抱いてブルターニュ公国にやって来たものの、希望を失っておりました。貴女が誕生してからは、ただ貴女のためを思って、明け暮れ大切にお世話をすることをかなえようと決心しましたものの、我が身の拙さをつくづく思い知ることが度々ありました。今さらロワールへ戻ったところで、フランス王国に背いた落ちぶれた元地方官の類に見下されて、蓬や雑草が繁る貧相な邸の面目を改めることもできないし、公私につけ無様な名を広めて、亡き親の名誉を辱めてしまうのは堪えられないことです。『ロワールを捨てていったのは、いずれ世を捨てる門出だったのか』と人からも思われていますし。
せちがらい世の中のことは、すっぱり放棄した、という積もりでしたが、貴女が段々と成長して行って、物事を充分理解できる年頃になるにつれて、『どうしてこんな口惜しいほど辺鄙な場所に、錦のような娘を隠しておけようか』と親心の闇が晴れる間もなく歎き続けるままに、神や聖人におすがりして『いくら何でも自分のような不運な父親に引きずられて、田舎者の仮住まいに一緒に暮らしてはならない』と願う気持ちを一心に持ち続けているうちに、思いがけずヒカル殿に眼をかけていただく嬉しい幸運もできたました。しかしながらやはり自分たちの身分の違いをあれやこれや悲しく嘆いていましたところ、孫がこうやって誕生した宿縁が頼もしく、こんな海辺で月日を過していくのは誠にもったいないことです。優れた運勢をお持ちであることを考慮すると、これから出逢うことが出来ない心の迷いは鎮め難いことですが、自分の身は末永く世を捨て去る覚悟でおります。
あなた達には世に輝く未来があるのは明らかですし、しばらくの間は私のような田舎者の心を乱れさせてしまうご縁があったということでしょう。『天上界に生まれた人が功徳を積んだとしても、果報が尽きてしまうと地獄、餓鬼、畜生の三つの怪しい道に落ちていく』という話になぞって、今日のところは長いお別れを申し上げましょう。たとえ私の寿命が尽きたと聞いても後々の供養などを行う必要はありません。避けることができない死別に動揺することもありません」と強がって話を続けるものの、「やがて土と化してしまう夕べまでは、未練がましいと思われても、孫の姫君のことを毎日六時のお勤めの際でも一緒に祈ってまいります」と、そこまで言ってからべそをかいてしまいます。
「ロワールまで多くの馬車を連ねて行くのも大袈裟だし、陸か海に二つに分けるのも面倒になるし」とお供の人々は「バイユー(Bayeux)まで船で行き、そこからなるべく目立たないようにアランソン(Alençon)経由でモントワールまで参ろう」と決めました。
朝八時に船出します。昔の人も「身に沁みる」と言ったサン・ブリューの朝霧の中を船が遠ざかって行くのがたまらなく悲しく、在家僧は心を静めることができず、うわの空で空を眺めています。
船上の妻は「久しい年月をブルターニュで過した後、今さらロワールへ戻っていくのも」とやはり様々の思いが尽きずに涙を流しています。
(歌)天国に思いを寄せていた 修道女の身の私が 捨ててきた都へ 帰って行くとは
遠くなっていく浦を見つめながら、サン・ブリュー上が詠みました。
(歌)何年も 秋をサン・ブリューで過して来たものの 浮き木に乗って 両親の故郷に 私も帰って行くのだろう
追風もあって順調にバイユーに着いた後、予定した日と違わずにモントワールに到着しました。「人の眼にあまり触れないように」という気持ちがありましたので、道中の装いは地味にしていました。
山荘の様子も興趣があって、永年住み慣れた海辺にも似通っていますので、場所が変わった心地はしないものの、さすがにサン・ブリューにいた頃を思い出して、せつなさを催すことが多くありました。建て増した回廊なども風情があって、ル・ロワール川から引いた水の流れも味わい深くしています。まだ細部までは出来上がっていませんが、住み馴れたなら馴染んでいくことでしょう。
ヒカルは親しい職員に命じて、一行への祝宴の用意をさせていました。モントワールへの訪問を何とか実現させようと思案しているうちに、日が過ぎて行きます。サン・ブリュー上はヒカルの訪れがないままに、物思いばかりが募って、捨て去ってきたサン・ブリューの邸が恋しく、所在なさのまま、ヒカルが形見に残していったハープを掻き鳴らします。折柄ひどく堪え難い気持ちになりますので、人里から離れていることに気を許して、少し弾いてみると、松風が中途半端に響き合わせます。
母君は物悲しい気分でソファに横になっていましたが、起き上がって歌を詠みました。
(歌)修道女になって 一人で帰って来たこの山里に サン・ブリューの浦で聞き慣れた 似たような松風が吹いている
サン・ブリュー上も詠みました。
(歌)故郷で馴れ親しんだ人たちを恋わびて ハープを掻き鳴らす 私の心を 誰が分かってくれましょう
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