その10.神の木 (ヒカル 22歳~24歳)
1.ヒカル、メイヤン夫人のランス下向慰留
メイヤン夫人が斎宮に付き添ってリモージュのサン・レオナール・ドュ・ノブラに移り住んでから一年ほどが経過して、ランスへ下って行く日が近付いてくると、メイヤン夫人もさすがに心細くなっていきます。
ヒカル殿の本妻として気を置かねばならない存在だった左大臣家の葵夫人が他界した後、「今度こそはメイヤン夫人が本妻に」と世間の人たちが噂をし、邸内の人々も期待で胸をときめかせていましたが、ヒカルの訪問はふっつりと絶えてしまって、冷淡な態度を示しているだけです。メイヤン夫人は「自分を忌まわしい者と思わせる出来事があった」ことが分かっていましたから、あらゆる哀しみを振り捨てて、一途な気持ちでランス行きの決意を固めました。母親が付き添ってランスへ下って行く例は特にありませんが、まだ成人に達していない年齢なので、放ってはおけない状況ということを理由にして、「ロワールから離れて行こう」と考えています。
今になってヒカル大将は「これっきり離れ離れになってしまうのが惜しい」と思って、便りだけは哀切をこめて度々送りますが、メイヤン夫人の方はヒカル殿との対面は「今さら会っても仕方ない」と考えています。「私のことを不愉快に感じた記憶がヒカル殿からまだ消え去ってはいないようであるし、お目にかかってしまうと自分の思い乱れがさらに増していくだけだから、出逢ったところで何の益もない」とかたくなに思い込んでいます。メイヤン城にそっと戻る折りもありますが、ごく内々で行きますので、ヒカル大将はそれに気付きません。
サン・レオナールは聖域で、気がむくままに気軽に訪問できる場所ではありませんから、気に掛かりながらも月日が過ぎていきました。その上、桐壺院が大病という程ではありませんが、時々、突発的に悪くなりますので、心が休まる暇はとてもありませんが、「メイヤン夫人が自分を薄情者と思い諦めてしまうのは残念だし、人が聞くと冷淡な男に思われはいないか」と考え直して、 サン・レオナールを訪れることにしました。
訪問は九月二十八日を予定していましたので、「出発は当日か翌日に迫っているだろうか、と気になります。夫人からは「慌しい最中ですから」と面会を断わる返信があったのですが、「立ち話だけでも」との手紙が度々ありますので、夫人は「どうしようか」と躊躇しながらも、「あまりに引っ込み思案なのもどうか」との思いもあって「物越しでの対面でしたら」と返信しつつ、心の内では人知れず、ヒカルの来訪を待ちわびていました。
馬にまたがってサン・ジャック街道のルモヴィサンシス(Lemovicensis)道を分け入って行くのが身に沁みます。秋の花が咲き出していましたが、サン・レオナール手前の枯れ枯れの浅茅が原にさしかかると、か細い声で鳴く虫の音に松風がすごく吹き合わせ、何の楽器とも聞き分けがつかない音色がきれぎれに聞えて来るのが、とても艶に感じます。
気心が知れた者十数人が前駆を勤めていますが、随身たちは目立たない地味ないでたちです。ヒカルもあまり物々しくない装いをしていますが、場所柄に合ったように見えますので、お供の中の風流好きな者は興趣に浸っています。ヒカル自身も「なぜ今まで何度か通ってこようとしなかったのだろう」とすでに過ぎてしまったことを悔しく思います。
聖域にふさわしいヒイラギの生垣を外囲いにして、仮普請のような木造の家があちこちに建っています。心身を清める潔斎所に入るアーチ型の石門などがさすがに神々しく目に映り、自然と襟を正したくなる雰囲気です。聖職者たちがあちらこちらで咳払いをしたり、何事かを話し合っている気配なども、他の場所では見られない光景です。パン焼き小屋の火がかすかに光って、人気がなく湿っぽく、「こんな場所に派手好みで気苦労も多い人が一年近くも暮らしてきたのか」と思いやると、ひどく哀れに痛ましくなります。
建物の北側の目立たない場所に立ち隠れながら、案内を乞いますと、楽器の音がぴたっと止まって、多くの侍女たちの衣擦れの気配が室内から聞えてきます。ところが夫人は取り次ぎを通して対話をするばかりで、自分自身で面と向って話そうとする様子がありません。
「それはないだろう」と飽き足らず、「こうした忍び歩きは今では不似合いな身分になっていることを察してください。こんなよそよそしい扱いをしないでください。日頃のわだかまりを晴らしてみたいのです」と真顔で話しますと、「本当にばつが悪そうにおられる御方を立たせたままにされていますのはお気の毒です」などと侍女が説得します。
「確かにここにいる侍女たちから見ると見苦しく、聖職者たちからもどんな想像をされてしまうか分からない。でも年甲斐もなく、今さらのこのこ出て行ってお目にかかるのも」と誠に億劫なのですが、「無愛想にもてなしてしまうほど気丈でもないし」と戸惑いつつ、溜息をつきながら奥から出て来る気配に奥床しい品の良さを感じます。
「こうした場所柄でもテラスなら立ち入りも許されるでしょう」と言って、ヒカルはテラスに上がりました。夕月夜が花やかに射し出でる中、振舞いの様子や気品は較べようがない程、素敵です。
これまでの積もった思いをもっともらしく話すのが、面はゆくなる程のご無沙汰でしたから、少しばかり折って手に持っていたモミの枝をカーテンの下から差し入れて、「このモミの葉のように、常緑で変色しない心を抱いて、あえて神聖な場所にやって来ました。よそよそしくはなされないでください」と話しかけます。
(歌)神域を示す杉など こちらには植えていませんのに 何を間違えて モミを折って来られたのでしょうか
とメイヤン夫人が返答します。
(返歌)モミの葉の香りをなつかしがる 乙女がいる辺りと思って 探し求めて折って来ました
潔斎所の空気が重々しくて煩わしいのですが、ヒカルはカーテンに上半身を引き寄せ、横木に手をあてて室内を覗いています。
いつでも気がおもむくままに出逢うことが出来て、相手も恋焦がれていた頃は、慢心した驕りから夫人に対して、さしたる思いを抱くことはありませんでした。その上、夫人の心の中にやましい生霊が生息しているのを目撃してしまって以来、夫人への情愛は覚めてしまい、二人の仲に隔たりが出来てしまっていました。
こうして珍しく対面すると、以前の思い出がよみがえり、夫人を不憫に感じて限りなく引き寄せられてしまいます。これまでのこと、これから先のことを思い浮かべると、はからずもヒカルは涙を流してしまいます。「そうとは見せまい」と押し隠そうとしながら、堪えることができなそうな夫人の様子を見るとますます心苦しくなって、ランス行きを思い留まらせようと身を入れて話します。
月が沈み、寂しくなった空を眺めながら、ヒカルの説得を聞いていると、これまで積りに積もった夫人の恨めしい気持ちも消えていきます。ようやく「今はもう」と思い諦めていたのに、「やっぱり出逢わない方がよかった」と心中がぐらついて思い乱れてしまいます。王宮の若い役人たちが連れ立って訪れ、情緒にひたりながら逍遥するという庭の佇まいは、確かにヒカルの眼にも艶なものに映る景観でした。思い残すことがないように語り合った二人の会話の中味を写し取ることはできません。
ようやく明けて行く空の模様は、特別に造り出したような印象を与えます。
(歌)明け方の別れは いつも涙に濡れますが 今朝の別れは 今までになく涙で曇る 秋の空模様です
帰り辛そうに夫人の手を取ってためらっている様子がいじらしいほどです。風がひどく冷やかに吹いて、虫の鳴きからした声も二人の別れを知っているかのように聞えます。秋の愁いをさして感じない者でも見過ごすことができない風情なのですから、やるせない胸中の二人は歌を詠むこともできません。
(歌)ただでさえ 秋の別れは悲しいものなのに その悲しみをさらに深めようと鳴いてくれるな 野辺の虫たちよ
悔しい思いは多いのですが、空が明けていくにつれ、体裁が悪くなってきますので立ち去ることにします。ロワールに戻る道の道中、涙がこぼれてなりません。
夫人も冷静にはいられず、別れが名残り惜しげに空を眺めています。若い侍女たちは月影にほのかに見えたヒカルの姿や立ち去った今も残っている衣服の匂いなどをしみじみと感じ入りながら、間違いをしでかしそうなほど褒め上げます。「どんな所へ行くとしても、あれ程の御方を見限って、別れてしまうことはできませんのに」と皆、涙ぐんでいます。
ヒカルから届いた手紙はいつもより細やかで、情愛がこもっていますが、今さらランス行きに迷うべきではありませんから、何の甲斐もありません。男という者は、さほど思ってもいないことでも、恋文を書くとなると、言葉巧みに言い寄るものですが、まして並の列には置いていない愛人が、こうして自分に背を向けてランスに下っていくことが悔しくも、愛おしくも思いながら、ヒカルが書いた手紙でしたから、夫人は改めて思い悩んでしまいます。
ヒカルは旅の装束を始め、お付きの人々の物まで、何くれとなく立派で目新しい調度品を餞別として贈りますが、夫人は嬉しいとも有り難いとも、何の思いも湧いてきません。軽々しい浮き名だけを世に流して、最後には浅ましい身になってしまった有様を、今になって初めて気付いたかのように、出発間際になっても寝ても覚めても歎いてばかりいます。
まだ若い斎宮は、今まではっきりしなかった母君がランスへの付添いを決めましたので、喜んでいます。世間では「母親が付き添うのは通例ではない」と非難したり、同情したりと様々に言い交わしているようです。何をしようとも人からあれこれ言われない身分の者は気楽です。抜きん出て身分が高い人になると、窮屈なことが多いのです。
十月七日にラ・ロワール川で出立のミサが実施されます。慣例の式より立派で、ランスへの送迎を担当する役人に加えて、身分が高く声望もある高官がミサの立会人に選ばれたのは、斎宮の父親代わりを自認する桐壺院の心遣いもあったからでしょう。
出立の日、ヒカル大将から例のように、別れを惜しむ尽きないあれこれを記した手紙がありました。
「畏れ多くも御前に」という前書きで、十字模様の布につけた斎宮宛ての手紙もありました。
「天を踏みとどろかす雷も相思相愛の仲を裂くことはない、と申します。
(歌)六角形のフランスを守る聖人も 哀れんでくれる気持ちがあるなら 別れねばならなくなった理由を教えてください
どう考えても諦めきれない心地がします」と書いてありました。
取り込み中でしたが、メイヤン夫人は返事を書きました。斎宮からの返答は事務長を務める女性に書かせました、
(返歌)国の守護聖人が 二人の仲を判断されるとしたら 夫人をなおざりにされたことを 糾明することでしょう
ヒカル大将は二人の様子を見たくて、王宮での儀式にも参列したい思いでしたが、振り捨てられて見送りをするのは人聞きが悪い気がしますから、じっと我慢して所在なさげに自邸に留まっています。斎宮の皮肉っぽい大人びた返信を微笑みながら読んでいます。
「まだ成人にはなっていないのに、歳のわりには人情が分かっているのだろう」とふと心が動いたりします。このように、普通とは違って面倒くさそうな女性に、どうしても惹かれてしまう習癖がありますから、「よく見ようとすれば出来た斎宮の幼少の頃に、じっくりと見ずにいた」ことを残念に思います。「それでも世の中には定めがないから、そのうちに対面できる時もあるだろう」と思ったりもします。
趣味が豊かで気品も高い親子として評判が高いこともあって、沿道には見物の馬車が数多く並んでいました。斎宮は午後四時頃、王宮に上がりました。付添いの御輿に乗った夫人は「ミラノ総督になって不慮の死を遂げてしまった父上が、ゆくゆくは王妃にと大望を抱いて大切に育ててくれたものの、状況が急変してしまいすぎた」と王城を見るにつけても感慨無量の思いをします。夫人は十六歳で王太子だった桐壺王の弟宮に嫁いだものの、二十歳で先立たれてしまいました。三十歳になった今、再び王宮に上がることになりました。
(歌)今日だけは 昔のことを思い出すまいと 堪えているものの 心の内は悲しくてならない
斎宮は十四歳が間近でした。大層美しい上に麗しい衣裳を着せられていましたので、この世の女人とは見えないほどの輝きでした。朱雀王は斎宮の美しさに胸を打たれて、一目惚れをしてしまったようです。別れの髪飾りをつけてあげる際には、このまま王宮に留めておきたいと涙を浮かべるほどでした。
ブロワ城から下って来る斎宮の一行を待ち構えて、役所の前に立ち並んだ、斎宮の侍女たちを乗せた馬車からはみ出る、ドレスの袖口や色合いの意匠が目新しく心憎いほどです。恋人の侍女との別れを惜しむ王宮人の声も多くあがります。辺りはすでに暗くなりかけていましたが、大通りを過ぎてロワール川にぶつかって左折する辺りで、見物人の中に紛れた馬車に乗ったヒカルは哀しみにしんみりしながら、文を挿したモミの枝を差し出しました。
(歌)私を振り捨てて 本日旅立って行かれますが マルヌ(Marne。セーヌ川支流)を渡る際に
川波に袖を濡らせて 後悔をしないでしょうか
と馬車の中の夫人に話しかけたのですが、暗い時分で、物騒がしくもありましたので、とぎれとぎれになってしまいました。
翌日、一行が一夜をすごしたクラリー・サンタンドレ大教会から返信がありました。
(返歌)マルヌ川の川波に ドレスの袖が濡れるか濡れないかは分かりませんが ランスまで下って行く私のことを
誰が思いやってくれるでしょうか
とり急いで書いたようですが、筆跡はまことに優美で艶めいています。「これに人当たりの優しさをもう少し添えているなら、一層よくなるだろうに」とヒカルは惜しい気がします。
霧がひどく降って、身に沁みる朝ぼらけを眺めながら、ヒカルは独り、歌を口ずさんでいます。
(歌)夫人が向かった方角を眺めて見ている 今年の晩秋は 霧でボース平野を隠さないで欲しい
紫君がいる西館への行かずに、終日、物思いをしながら淋しく過します。メイヤン夫人は旅の空を見ながら、さぞかし物思いが多いことだろう。
2.桐壺院崩御
桐壺院はまだ四十一歳の若さでしたが、十月に入ってから病状が非常に悪化します。世の中で心痛しない者はおりません。ローマ教皇をはじめ、近隣諸国はその動静を注視しています。
朱雀王も深く歎いて、見舞いにショーモン城を訪れました。院は衰弱していましたが、朱雀王に冷泉王太子のことを繰り返し頼まれて、その次にヒカル大将について「私の在世中と変わりなく、大小の事でも隔てなく何事につけても相談相手と考えなさい。大将は歳のわりには国政を執らせても、それなりに問題はない、と私は見ている。間違いなく、世を治めうる観相を持った人物である。それだから、ごたごたが起きないように王族の身分にはせずに、臣下の身分に下して王の後見をさせようと考えた次第である。私のこの気持ちに背いてはいけませんよ」などと切々と多くの遺言を朱雀王に託したのですが、筆者は女の身ですから、遺言の片端を伝えるだけでも気が引けてしまいます。
朱雀王はとても悲嘆にくれながら、院が告げたことに「決して違えることはありません」といった趣旨を返す返す誓います。二十歳が手前になった王さまの風貌は非常に清らかで、以前より期待が持てそうにもなっていますので、院も嬉しく頼もしげに病床から見つめています。王には公務が多くありますので、長居はできずにブロワ王宮に帰りましたが、院も王も心残りになったことが多くありました。
四歳になった冷泉王太子も「王と一緒に」と希望しましたが、周囲の者が「大事になって敵国に注視されてしまう」と判断して、日を変えてショーモン城を訪れました。年齢よりも大人びて美しい様子で、日頃から父である院との出逢いを待ち遠しく思っていましたので、無心に嬉しがって院を見つめる様子がいじらしいほどです。
院は久しぶりに会うことができた愛児を見ながら、王太子の母である藤壺中宮が涙に沈んでいるのを見やって、様々な思いで心が乱れている様子です。王太子に何くれとなく教えを諭すのですが、まだ幼少なので、告げたことを理解してはいないだろう、と心もとない表情で我が子を見つめています。同席したヒカル大将にも、王さまに仕える心得や王太子の後見を何度となく頼みます。 王太子は夜が更けてから、ブロワ王宮に帰りました。宮廷人が一人残らず、王太子のお供をしており、その騒ぎは朱雀王の来訪時と変わるところはありません。飽き足らないうちに王太子が戻って行きますので、桐壺院は名残惜しく感じます。
紫陽花王太后も見舞いに伺おうとしたのですが、藤壺中宮が付かず離れず院に付き添っているのをこだわってためらっているうちに、これといった苦痛も見せずに、院はお隠れになりました。
巷では、これからの王国の行方を懸念して、浮き足立つ人が多くありました。譲位をして王の座を去った、というものの、院政をしいて内外の政治の舵取りは王在世中と変わりはありませんでした。朱雀王は荒波を乗り切っていくにはまだ若く、経験不足ですし、後見役の右大臣ジアン公爵は性急な性格で気難しい人物でしたから、「ジアン公の意のままに政局が動いていくと、どうなることやら」、「院の崩御に乗じて、ローマ教皇と神聖同盟の加盟国の結束が強まっていくだろう」など、高官や宮廷人は皆、先行きに不安を感じていました。
まして藤壺中宮やヒカル大将などは、物の分別がつかない程、悲嘆に暮れています。それでもヒカルは崩御後の儀式などをうまく取り仕切っていき、数多い院の息子たちの中でも抜きん出た能力を発揮しましたので、世間の同情がヒカルに集まりました。
喪服姿でやつれた顔をしたヒカルは限りなく清らかな印象を与えるものの、痛々しさが目立ちます。去年の葵夫人、今年の桐壺院の死と引き続き、こうした不幸の遭遇で浮世の味気なさを知って、こんな折りにでも出家をしようと思い立つこともありますが、まだまだ様々な制約が多いので、出家は無理なようです。
五十日祭が過ぎる十二月中旬までは院が愛した貴婦人たちは皆、ショーモン城に集まっていましたが、五十日祭が過ぎると、ちりじりにショーモン城を去っていきました。十二月二十日を過ぎますと、藤壺中宮は年末の先行きが見えない閉塞した空を見つめながら、心の内が晴れることはありません。藤壺は紫陽花皇太后の性格をよく知っていますので、「皇太后の思いのままに動いていく時代になると、さぞかし生き辛くなるだろう」と思うと、院の愛情に包まれて過して来た、これまでの思い出に浸る余裕もありません。ショーモン城は紫陽花王太后の管理下に入りましたので、中宮たちもいつまでもショーモン城に留まるわけには行きません。皆が他の場所へと去っていくのを見る悲しみに限りはありません。
藤壺中宮がオルレアンの実家に戻る日、実兄の兵部卿宮が迎えに参じました。雪が打ち散り、風が激しく吹きつけ、ショーモン城も段々と人影がまばらになって、ひっそりとしています。そんな中、ヒカル大将が中宮を尋ねて来て、昔の思い出話を語ります。
前庭の小ぶりの松が雪に萎れて、下葉が枯れているのを見て、兵部卿宮が歌を詠みました。
(歌)広い木陰だと頼みにしていた松の葉が萎れて 下葉が散り枯れていく 年の暮れになりました
どうと言うほどの歌ではありませんが、折りからの物の哀れに合致するので、ヒカルの袖も涙でひどく濡れてしまいます。すっかり凍ってしまった池を眺めながら、ヒカルが詠みました。
(歌)氷で池が張り詰められて 鏡のように冴え渡っていますが 見馴れた院の面影が映らないことが悲しい
感じたままを歌に詠んだだけですが、ヒカル殿にしては未熟な歌です。
(歌)年が暮れ 岩井の氷も凍りつき 今まで見馴れていた人影も まれになって行きます
と、中宮の付き人ブランシュが詠みました。他の者もそれぞれの思いを詠みましたが、省略します。
オルレアンの実家へ移る儀式は通常通りで変わったことはありませんが、心なし悲しくなります。実家に戻っても旅の宿のような心地がして、実家を離れていた年月を思い巡らしてしまいます。
3.ヒカル、朧月夜と藤壺に忍ぶ
年が変わると、ローマ教皇が主導する神聖同盟がイタリア北部のフランス勢力に対抗する動きが活発化してきましたので、フランス王国は北部イタリアへの遠征軍を強化していきます。
フランス国内の情勢はとりわけて花やいだ事もなく、平穏でした。ヒカル大将は何となく物寂しくシュノンソーに籠もっています。毎年一月十一日から十三日に実施される官吏任官式の頃などには、桐壺王の在位中は言うまでもなく、譲位をして院となった後もヒカルの威勢に変わりはなく、自邸の門前に馬や馬車が所狭しと立ち並んでいましたが今年はめっきり減って、宿直者が持ち込む夜具を入れた袋も少なくなりました。顔見知りの事務職員たちだけが急ぎの仕事が特にはないようにのんびりしているのを見るにつけ、「これからはこうして時勢からはずれていくようになるのだ」と思いやって味気ない思いをします。
二月になって王宮の衣裳係として裁縫室に勤めていた朧月夜は、王さまに直々に仕える上級職の女官長に昇格しました。前任者の女官長は桐壺院の喪に服して修道女になりましたので、その代わりでした。高貴な家の出で身のこなしに気品があり、人柄も非常に良かったので、王に仕える多くの上級女官の中でも、抜きん出て時めいていました。王太后はショーモン城に住むようになって、ブロワ王宮に上がる際は「梅壺の間」を使用するようになりましたので、朧月夜は王太后が使っていた間に住むようになりました。衣裳係時代にあてがわれていた部屋は狭くて陰気でしたが、今は晴れ晴れとして部屋になり、数え切れないほどの侍女が仕えるようになって今風の華やかな生活になりました。それでも内心では、四年前のあの思い掛けなかったヒカルとの出来事が忘れられず、溜息をついてばかりいます。以前と同じように、ごく内密にヒカルと恋文のやり取りを続けていました。「世間の眼がうるさいことでもあるし、どうなることだろう」とヒカルは案じながらも、いつもの癖で「女官長に昇格したから、以前よりもさらに逢い辛くなろう」と朧月夜への思いが募っていきます。
ブルターニュ公国の公主である紫陽花王太后は、いずれ朱雀王に公国を譲る意向でしたが、ヒカルが目障りで邪魔な存在でした。桐壺院が在世中ははばかっていたのですが、早くも「積年の恨みを晴らそう」と好機をうかがっているようです。何かにつけてヒカルにとって心外な事ばかりが生じてきますので、「こうなることになるであろう」と予測はしていたものの、これまで経験しなかった不快さを味わうのが堪えがたく、人付き合いをする気がなくなっています。
左大臣も面白くない気がして、あまりブロワ王宮に出仕しないようになりました。王太后は左大臣が朱雀王太子を差し置いて、葵君をヒカル大将に縁付けたことをいまだに根に思っていて、好意を抱いてはいません。左大臣と右大臣の仲は昔から疎遠でした。桐壺院の在世中は左大臣は意のままに政治を切り盛りすることができましたが、時代が変わって右大臣が得意顔で政治を仕切るようになったのを「味気ない」と思うのも道理です。
ヒカル大将は以前と変わりなく、アンジェの左大臣邸を訪れて、葵夫人に仕えた侍女たちを今でも細々と目をかけて、我が子を限りなく大切に可愛がります。そんなヒカルを見て、左大臣夫妻はしみじみ「有り難いお気持ち」と感激して、以前と同じように大切にもてなします。
桐壺院の在世中は院の寵愛が強いことから、めまぐるしい程多忙に見えましたが、この頃は通っていた所々の女性たちと関係が途絶えることも多く、その他の女性への軽々しい忍び歩きもつまらなく思うようになって、とりたてて出歩くこともなくなりました。自邸でのんびりと過しているのが、今の状況にふさわしい様子です。
西館に住む姫君がつかんだ幸運を世間の人たちも祝しています。乳母のセリーヌなども人知れず、「亡くなった祖母の尼君の祈りの効験」と考えています。今では父親王の兵部卿とも思いのままに文通し合っています。継母である兵部卿の正妻は、大事にしている自分の娘にはさほどの幸運が来ないことから、紫上を妬む事が多く、面白くなく感じているようです。まるで物語の世界で書かれているような有様です。
桐壺院と王太后の王女であるトゥールの斎院は、父院の裳に服すために職を降りましたので、代って朝顔の宮が斎院になりました。斎院に王さまの姪が立つ例は多くはないのですが、該当する王女がいなかったからです。歳月を経ても朝顔への思いが消えていないヒカルは、聖域に入ってしまったことを悔しく思います。朝顔の侍女の中将リリアン宛てに便りをすることが絶えません。以前と違って不遇の身になったことをヒカルは何とも気にせず、退屈を紛らわせるままに、朧月夜や朝顔のような女性にはちょっとした関係を試みながらあれこれと思い悩んでいます。
朱雀王は父院の遺言に背かずに、頼れる兄としてヒカルを大切に思っていましたが、まだ若い上に気が弱く、強い所がありませんので、母の王太后や右大臣がてんでに進めていくことに逆らうことができず、内政も外政も自分の思うようにできません。
女官長となった朧月夜は恋文を通して、人に知れないヒカルへの思いを通わせていますので、無理をしつつも心許ないわけではありません。国家の大事な時に行う、王様の贖罪の苦行が始まって、朱雀王が謹慎をしている隙を見計らって、例の夢のようにヒカルと出会います。あの思い出深い右大臣専用階の小部屋に、中納言ヴェロニクがうまく計らって案内しますが、人目が多い折りなのでいつもより人目につきやすく、さすがにヴェロニクは空恐ろしい思いをします。
朝夕、お顔を拝見している人でさえ、見飽きぬ容姿をしているヒカルですから、まして稀にしか対面できない朧月夜はどうして粗略にできましょうか。朧月夜も二十歳近くになって、今や美しい女盛りです。重々しいという点ではどうだか分かりませんが、綺麗でなまめかしく、若々しい気分を与えますので、男の心を十分に惹き付けます。
「もう夜が明けていくのか」とあっけなく覚える時分になって、すぐそこで「宿直者がここにおります」という甲高い声が聞えて来ます。「近くの侍女部屋に忍び込んだ近衛府の者がいるのだろう。意地の悪い仲間がそれをわざと夜警に教えて、わざとらしく言わせているのだろう」とヒカルは聞き流しています。「おかしいが、煩わしいことだ」。夜警はあちこちを歩きながら、「午前四時となりました」と告げ廻っています。
(歌)夜明けを知らせる声を聞くにつけても 別れが惜しく あれこれと 涙で袖を濡らします
と朧月夜が詠む様子がいじらしく、とても魅力的です。
(返歌)はかない自分の人生を 嘆き続けながら過していくのでしょうか 胸の思いが晴れる時はありません
落ち着いていることもできずに、ヒカルは小部屋を出ました。まだ夜が深い暁の月夜で、霧が一面にたちこめる中、身なりをとても窶した姿は似るものもない有様です。運が悪いことに、メディチのアヤメ貴婦人の兄の頭中将が妹の室から出て来て、月蔭になっている衝立の側に立っていたのを気付かずに通り過ぎてしまいました。その人たちの口から中傷する陰口が起きていくことでしょう。
朧月夜とのよりが戻ったことを思うにつけても、自分に対してそっけなく、つれなく接している藤壺中宮の態度は「さすがだ」とヒカルは感心します。それでも「藤壺を恋い慕う身になると、やはり辛く恨めしい」と思う折りが多いのです。
中宮はブロワ王宮に上がるのは「落ち着かないし、気詰まり」と思いますので、久しく愛児の冷泉王太子と出会うことができないことを寂しく思っていました。王太子を支えてくれる頼もしい人はヒカル大将の他にはいませんので、ただただすべてにおいて、ヒカルを頼みにしています。それなのにヒカルはいまだに、自分に対するやましい執念を止めませんので、胸がつぶれる思いをする時があります。故院が自分とヒカルの密事の気配をいささかも感づくことがなかったことを考えるだけでも、末恐ろしくなります。今さらになって二人の仲の噂が立ってしまうと、「自分の身はどうでもよいとしても、王太子のためには必ず良からぬ事が起きて来るだろう」と思うと、とても恐ろしくなりますので、祈祷をさせて「自分への情念を思い止ませよう」としつつ、出来る限りのことを尽くして身をかわしていました。
ところがどういう折りのことでしたか、浅ましくもヒカルが藤壺の寝室へ忍び込んで来た時がありました。ヒカルは用意周到に計画していたようで、侍女たちは誰も気付きませんでした。藤壺はただ夢を見ている心地です。ヒカルは筆に書き写すことができないほど、かき口説き続けますが、藤壺はあくまでもそっけなくあしらいます。最後には胸の痛みがひどくなって苦しみ出しましたので、側で仕えているブランシュやポーレットなどが驚いて介抱します。ヒカルは、「恨めしく、辛い」と限りなく歯軋りをします。 来し方も行く末も真っ暗になった心地がして、理性を失ったまま、朝が明けても寝室に居座って去らずにいました。
中宮の急変に驚いて、侍女たちが側へ駆け寄って、しきりに出入りするようになりましたので、ヒカルは自分の思うようにはいかず、物置部屋に押し込められてしまい、細目に開けた入り口のドアは衝立で隠されました。ヒカルの上着などを隠し持っている侍女はびくびくしています。藤壺は何もかも「とても辛い」との思いで上気して、なおも苦しみ続けます。
急を聞いて、実兄の兵部卿宮や中宮付きの執事などが駆けつけて来ました。「すぐに僧侶を呼びなさい」などと騒いでいるのを、物置部屋に閉じ込められたヒカル大将は、大層侘しい気持ちで聞いています。
ようやく日が暮れ始めた時分に、藤壺の加減がよくなったようです。藤壺はヒカルが物置部屋に籠もっているとは思いもよりません。侍女たちも「中宮を心配させないように」と告げずにいます。藤壺はベットから起き上がって、居間に入りました。
「加減がよくなったようだ」と兵部卿も邸を去っていき、居間には人が少なくなりました。藤壺に仕える侍女たちは日頃から数少ないのですが、そこら辺りの物陰などで控えています。「どういった手段でヒカル殿をお帰ししましょう。今夜もまた上気されてひどくなってしまったら、たまりません」と当惑しながら囁き合っています。
ヒカルは物置部屋のドアをそっと押し開けて、衝立との隙間を抜って寝室から出て、居間に近付きました。ヒカルの存在に気付かない藤壺の横顔を見ると、嬉し涙がこぼれてきます。「何かとても苦しくなって来ました。このまま尽き果ててしまうようです」と言いながら、外の方を遠く見やっている横顔が言いようもなく、なまめかしく見えます。
「せめてお菓子でも召上がってください」と侍女が菓子台を持って来ました。台の蓋の上においしそうに盛られているのですが、藤壺は見やりもしません。世の中をとても悩んでいる気配で、静かに一所を見つめ入っている姿がとても美しいのです。髪の恰好、頭つき、髪が垂れている様子が限りなく匂わしく、まったくあの西館の姫君と違う所がありません。
このところ、藤壺のことを少し思い忘れしていましたが、「姫君と驚くほど似ている」と感じますと、藤壺への切ない物思いも紫君がいることで、少しは執心が晴れる気もします。気高く、近寄りがたい雰囲気があるところなど、紫君は藤壺とは別人とは思えないほどです。それでも昔から限りなく思いを寄せている心の思いなしからでしょうか、やはり藤壺の方が「ことのほか女盛りが円熟して美しくなられている」と世に類ない存在に感じます。
前後の見境も忘れて、やおら間仕切りの背後を伝って藤壺に近付き、藤壺のガウンの裾を引き動かしました。服から匂い出る香りから藤壺はすぐにヒカルと気付いて、浅ましさく恐ろしく思って、そのままうつぶしてしまいました。
「せめて、こちらを向いてください」と飽き足らずに恨めしく、ガウンを引き寄せますと、ガウンを脱ぎ捨てて逃げ出そうとしますが、思いがけず髪がガウンにまつわりついてしまって、ヒカルの手に押さえられてしまいました。何とも悲しく、自分の薄幸さを思い知って、たまらなくなります。
ヒカルは長い間、心の内にためこんでいた思いですっかり乱れてしまい、我が身が我が身でなくなって、泣き恨みながらあらゆる言葉を語るのですが、藤壺は「たまらないほど厭わしい」と思って、返事もしません。ただ「今はひどく気分がすぐれないのです。こんな時でもない機会にお話しします」とだけ言うのですが、ヒカルは尽きない思いを話し続けます。その言葉の中には、さすがに藤壺が「心が打たれる」と感じるものも交じっていたことでしょう。
こんなことは、これまでにもなかったことではありませんが、藤壺は改めて悔しく思います。優しげに答えながら、何とかうまい具合に言い逃れているうちに、夜が明けていきます。力づくで藤壺の意に背いてしまうのも畏れ多く、藤壺の気高さに一目を置かざるをえません。
「ただ、こんな風にでも、時々お逢いして切ない胸の内を晴らしていただけますなら、どうして大それた料簡を起こしましょう」などと油断をさせようと思います。こうした場面は、何でもないような事でも悲しみが付き添うものですが、ましてこの夜は類ないものでした。
夜が明け果ててしまいましたので、ブランシュとポ「レットの二人がかりで、早々に立ち去るように懇願します。中宮は半ば死んでしまったような心苦しさですが、「私のような恥知らずの男が世の中にいる、と噂されてしまうのも恥かしいので、そのうち死んでしまうことにもなりましょう。それでも私の魂はこの世から離れられない罪を犯してしまうことになりましょう」などとしつこく語り続け、凄まじいまでの執心ぶりでした。
(歌)出逢うことの難しさが 今日に限らず続いていくのなら 私はあと幾晩 嘆きとおすことになりましょう
貴女の往生の妨げになったとしても」とまで言い張ります。
さすがに藤壺は溜息をつきながら、
(返歌)未来永劫の怨みを 私に残したとしても それは貴方の浮気っぽい性分からだと 自覚してください
はかなげに諭すように詠む様子の、言いようもない優美さに惹かれますが、藤壺が言おうとしていることも理解でき、自分のためにも自重しなければならないと、ヒカルは我にもない気持ちのまま退出しました。
「何の面目があって、再びお目にかかることができようか。せめて私のことを『いとおしく気掛かり』と思い知ってくれるまでは」と思って、その後は手紙すら送りません。ふっつりと王宮へも王太子への挨拶にも参上しないで、自邸に引き籠り、寝ても覚めても「つれない御心をお持ちだ」とみっとも無いほど恋しく悲しくて、心も魂もなくなってしまった病人のように感じます。心細さが募って「俗世界にいるとどうしても苦労がたえない。出家した方が良いだろう」と思い立ちはするものの、あの紫君がとても可愛く、可哀想になるほど頼みにしているのを振り捨ててしまうのも難しいことです。
中宮もあの騒動の後、動揺が続いていました。ヒカルがわざとらしく引き籠ってしまい、便りも来ることもなくなったことをブランシュなどは気の毒に感じています。藤壺は王太子のためを考えると、「ヒカル殿と疎遠になってしまうのは好ましくない。この世を味気ないものと思って、一途な気持ちから出家するようになってしまったら」とさすがに苦しく思い悩みます。
「それにしても、ああしたけしからぬ振る舞いが止むことがなかったら、うるさい世間に浮き名すら漏れ出してしまうだろう。王太后がありえない事と公言している中宮の地位から退くことにしよう」と次第に考えるようになりました。故院が生前に言い残された「並々ではない格別な約束」を思い起こすと、「すべてのことが、そうとはならずに世の中が変わって行っている。ゼウスの正后ヘラが愛后レトへの嫉妬から、アルテミスとアポロンを身ごもるレトに出産の地を与えまいと、国々を追い回していったほどではないとしても、私もきっと世間の物笑いになることが起こる身になってしまうだろう」と憂鬱で過ごし難い日々となることを思い浮かべ、これを機に世に背いて修道女になろうと覚悟します。
王太子に逢わないままで姿を変えてしまうことは可哀想に感じますので、お忍びでブロワ王宮の王太子を尋ねました。ヒカル大将は、さほどの事でも気がつかないことがないほど、好意を見せているのですが、今回は気分がすぐれないことを理由にして見送りにも来ません。ヒカル大将の一通りのお世話は従来通りなのですが、事情を知っている者は「やはり気落ちされておられるのでしょう」と同情しています。
王太子は大変美しく、五歳になって大きく成長していて、ひさびさの出逢いを嬉しく思って母宮にまつわりつきます。それを見ると藤壺は世の中を捨てることが悲しくなって、決意が鈍ってしまいます。王宮の雰囲気を実見するにつけても、世の中の様相が哀れにはかないものに感じて、移り変わる事だけが多いのです。王太后がどう考えているのかも煩わしく、王宮を出入りするのも不快なことが多く、何かにつけて苦しい思いをしますので、王太子の行く末も心配になって、様々なことに思い乱れます。
「長い間、ご覧にならないでいるうちに、私の姿が今のようではなく、すっかり変わってしまったら、どう思いますか」と尋ねますと、顔をじっと見つめながら「老侍女のエステルのようになるということですか。それはないでしょう」と笑います。何とも言えないあどけなさがいじらしく、「いえ、それは老けて醜くなったからです。そうではなく、髪はエステルより短くなって、夜勤をする僧のように黒い服を着るようになるのです。これからは、お逢いできることも今よりもっと久しくなりますよ」と言って泣きますと、真面目顔になって「王宮に長い間来られないと恋しく思います」と涙を落とすのが恥かしいと思って顔をそむけます。
髪はゆらゆらと清らかで、目元が優しげに潤い匂う様子は大きく成長していくにつれて、あの御方の顔を抜き出したようになっています。歯は少し虫歯になって、口中が黒ずんで笑っている色つやの美しさは女として見ても清らかです。
「本当に、これほどヒカル殿に似ているのが心配で」と玉の瑕のように思うのは、世間の口がうるさいことを恐れているからです。
著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata