その32.梅枝             ヒカル 38

 

1.サン・ブリュー姫君の裳着と、王室入り準備の薫り物調合

 

 満十一歳が近づいたサン・ブリュー姫に、成人となった証しとして初めて裳を着ける儀式をヒカルは思い至って、並々ならぬ気持ちで準備を急ぎました。同じ三月に十一歳の安梨王太子が初めて冠をかぶる男の成人式が実施されますので、それに引き続く形でサン・ブリュー姫を貴婦人として、王室に上げる予定なのでしょう。

 

 一月末で、公私ともに暇な時期なので、ヒカルは姫の王室入りの準備として、薫り物の調合を試みました。ボルドーのアキテーヌ州知事が献上した薫り物を出させて嗅いでみましたが、「何と言っても古物には叶わない」と感じたので、シュノンソー城の倉庫を開けさせて、イタリア製の薫り物を取り寄せ、較べてみました。

「錦や綾などでもやはり古い時代の物の方が、懐かしさも細やかさもある」と、近づいて来たサン・ブリュー姫の王室入りに向けた品々として、調度品の覆い、絨毯、クッション、縁に付ける具などのようなものに加えて、故桐壺院の時代の初め頃にフランドル人が献じた絹織物、金糸を織り込んだ鮮やかな黄赤い織物など、今の時代の物とは比べ物にならない、優れた品々を様々に検討しながら、振り分けていきました。アキテーヌ州知事が献じた綾や薄物などは侍女や使用人用に当てました。

 

 薫り物は昔のものと今のものとを取り並べて、ヴィランドリー城やシセイ城の婦人たちに配り、「薫り物を二種ずつ調合してみなさい」と告げました。人々に贈る引出物や上官への贈り物など、またとない結構な品々をヴィランドリー城内だけでなく、他の場所でも準備させながら、婦人たちに思い思いの香りを選ばせて調合させましたので、城内は香の原料を鉄臼でひく音がやかましく聞える頃となっていました。

 ヒカルは本館の離れに陣取って、ヴァロワ王朝の創始王の時代に男性には禁じられた二つの処方をどうやって知ったのか、一心に調合しました。紫上は東の対に建て増した部屋に作業場を注意深くしつらえて、創始王の第七王子である式部卿秘伝の処方で作っていました。ヒカルと紫上が互いに競い合いながら極秘としていますが、「薫りの深さ浅さで優劣の判定をしようではないか」とヒカルは紫上に切り出しました。人の親らしくもない競争心を持っているわけですが、お互いに調合する場所には仕えている者でもあまり近づけません。

 ヒカルは美麗さを極めるように調度品を製作させていますが、その中でも香壺を入れる箱の有り様、香壺の姿、香炉の意匠も、これまで見たこともないように当世風に新調させ、婦人たちが苦心して調合した薫り物の中から、匂いが勝れたものを試してから香壺に納めよう、との意向でした。

 

 三月の十日は雨が少し降って、前庭の近くにある紅梅が盛りとなって、色も香りも似る物がないほどでしたが、その時、弟の蛍兵部卿が訪ねて来ました。「裳着の式が今日、明日に迫って来ましたので」とお見舞いに来たわけです。昔から仲が良い二人でしたから、分け隔てはなく、「その事、あの事」と相談しながら前庭の花を賞美していると、侍女が「前斎院からです」と、散りすぎて花がまばらになっている梅の枝につけた手紙を持って来ました。

 かねがねヒカルと朝顔の関係を聞き知っている卿は、「どういった内容をわざわざ寄越したのだろう」と興味深そうにしていますので、ヒカルは微笑しながら「実は無遠慮にも薫り物の調合を頼んだのですが、几帳面にも急いで調合してくれたようです」と言いながら、手紙を隠してしまいました。薫り物は東南アジア産の沈(ぢん。Bois d 'Agar)の木箱にリモージュ製のエナメル坏を二つ置いて、大粒に丸めた物を入れていました。紺色の坏を覆う布には五葉の松の枝が、白色の坏を覆う布には梅の花の刺繍がほどこされていて、布を結ぶ糸の様子も優美になまめかしくなされていました。

 

「中々、艶っぽい趣向ですね」と卿が箱を注視すると、朝顔が詠んだ歌がほのかに書かれていたので、卿はわざとらしく詠みあげました。

(歌)花の香りは散った枝には残りませんが 姫君の袖に移したなら 深く残ってくれることでしょう

 同席していた息子の宰相中将が朝顔の使いを捜し出して引きとめ、ご馳走を出してひどく酔わせました。ヒカルは使いに、イタリア製の紅梅長衣の細長ドレスを添えた女性向けの衣裳を授けました。朝顔への返信には同じ紅梅色の紙を選んで、前庭近くに咲く紅梅の枝を折らせて添えました。

 

「中味の内容が思いやられる返信ですね。どういった秘密が書かれているのでしょう、そこまでひた隠しにするというのは」と卿は恨んで、見たそうにしています。

「どうと言うこともないよ。隠し事をしていると思われるのは迷惑だな」と言いながら、ヒカルはすらすらと書いていました。 

(歌)いただいた花の枝に 一塩心が惹かれます 人に咎められてしまうだろうと隠してはいますが 

といった返歌をおそらく詠んだのでしょう。

 

「真面目な話、サン・ブリュー姫の成人式でこんな騒ぎをするのは物好きなようだが、一人しかいない娘の一生のことなので、この程度のことをしてあげるのは当然なことだと思っている。まだまだ見映えがしない児なので、裳を着せる介添え人に縁遠い人をあてるのは心苦しく、秋好王妃に王宮から下っていただいてお願いしよう、と考えている。しかしながら王妃は身内の人とは言え、自尊心が高い人ですから、ありきたりのやり方にしてしまっては申し訳ないので、きちんとした式にするわけです」と説明しました。

「確かに式に添われる人はそれなりの人物であるべきですからね」と卿は納得しました。

 

 

2.薫り物競争と蛍兵部卿の判定と香道談義

 

 弟卿が訪れた機会に、ヒカルは婦人たち各人に使いを遣って、「雨で湿った、この夕暮れに出来ぶりを試してみたい」と通知しましたので、各人とも様々に趣向を凝らして、自作の薫り物を差し出しました。

「『(歌)君でなくて いったい誰に見せるというのか』とよく知られた歌の出だしをヒカルは詠みながら、香炉を準備させて、比較を試みさせました。

「『この梅の花の色も香りも 理解できるのは 君だけなのだから』と、歌の続きのような者では私はありませんが」と謙遜するものの、卿は言い知れぬ匂いの良し悪しを過不足なく嗅ぎ分けながら、優劣の区別をつけていきました。

 そこでヒカルは自身が調合した二種類の香を持ってこさせました。王城では城濠のほとりに香を埋めておく例にならって、自作の薫り物を西館への渡り殿の下から湧く泉の近くに埋めて熟成させていましたが、宰相コンスタンの息子の兵衛府六位の尉が掘り出して、それを受け取った夕霧がヒカルの許に持ってきました。

 

「いやはや、非常にしんどい判定者になってしまいました。とにかく煙たい」と卿は当惑しています。

「薫り物の調合の仕方は広く知られていますが、調合する各人の心の持ちようによって、出来上がりが違ってきます。その深さや浅さを嗅ぎ較べていくと、興味深いことが多くあります。どれが勝れているのか、中々決め難いのですが、『冬の薫り物』では前斎院の朝顔が作った香りが何とも心憎く、落ち着いた趣が格別です。『秋の薫り物』ではヒカル作のものが優れて艶っぽく、懐かしい香りがします」と卿が判定しました。

 紫上が作った三種類の中で、「春の薫り物」が花やかで今風で、その上で少し冴えた心遣いをした珍しい香りが加えられていました。卿は「この頃の微風に連れ添うのに、これに勝る匂いはないでしょう」と紫上作の「春の薫り物」を褒めました。

 

 夏の町に住む花散里は婦人たちが思い思いに競い合う中で、「自分などがしゃしゃり出るべくでもない」と消極的でしたが、「夏の薫り物」をただ一種類だけ調合しました。様変わりがした、しめやかな香りで、しんみりしたなつかしみがありました。

 冬の町のサン・ブリュー上も「季節に合わせた薫り物は調合の仕方が定まっているし、ひねくった物を作るのも面白くない」と考えて、衣服用の薫り物を調合しました。処方が勝れている桐壺王の叔父の前朱雀院のものを土台に、院の忠臣が特に選別して作った遠方まで匂う処方も思いつきで加味して、世にもないなまめかしい物を作り出していました。

 

 どの薫り物にも「心配りが優れていますね」と卿が無差別に評価しますので、ヒカルは「ありきたりの八方美人の判定人だね」と冷やかしました。

 月が昇って来て、ワインを飲みながら昔の話などを語り合いました。霞がかかった月光が心憎く、雨上がりの風が少し吹いて、梅の花の香りがなつかしげに漂いました。ヒカルの館の辺りは言い知れない匂いが満ち、人々もとてもうっとりした気分になりました。

 

 

3.薫り物競争の後宴と歌の贈答、裳着の式

 

 ヴィランドリー城の詰め所から、明日の遊宴での合奏会の予行練習に向けて、ハープ類の調整などをして、あらかじめ演奏の準備をした王宮人が大勢集まって、面白く笛を吹いているのが聞えてきます。内大臣の長男の頭中将・柏木や次男の弁少将・ロランが自分の名を記帳するだけで退出しようとするのをヒカルが引きとめて、楽器を取り寄せました。

 蛍兵部卿にはリュート、ヒカルにはチェンバロ、柏木にはハープが渡されましたが、柏木が花やかに掻き立てる音色は父の内大臣に劣りません。非常に楽しく優雅に聞えます。宰相中将・夕霧は横笛を吹きましたが、季節に合った調べで、雲を突き抜けるとばかりに吹きたてました。ロランが拍子を打ちながら「梅の枝にやって来る黒歌鳥が 春が来る 春が来ると啼くけれど 悲しいかな まだ雪が降っている」と催馬楽「梅が枝」を歌い出すのも一興でした。ロランはまだ童子の頃、韻隠しの宴の席で「高砂」を歌ったことがありました。卿もヒカルも一緒に歌い出し、仰々しくもない風雅な夜の宴となりました。

 

 盃を交わしながら、歌の詠み合いが進み、盃が廻っていきました。

(歌)梅の花を眺めながら 黒歌鳥のようなロランの歌声を聞いていると 心が締め付けられてしまう

と兵部卿が詠んだ後、卿は「『(歌)いったいいつまで 春の野辺に心を惹かれだろうか 花さえ散らなければ 千年も過ぎてしまいそうだ』という名歌もありますね」と続けました。

(歌)今年の春は 色も香りも 袖に染み付いてしまうほど 花が咲いている 私の邸に 始終訪ねて来てください

とヒカルが詠んだ後、柏木に盃を廻しました。

(歌)黒歌鳥がねぐらを作っている枝が たわんでしまうくらいに 夜通し 笛を引き続けてください

と柏木が詠み、次に夕霧に盃を渡しました。

(歌)風が気を使って 避けて吹く梅の木に向けて 無闇に笛を吹いてよいものだろうか

と夕霧は詠んだ後、「それでは梅の花への思いやりがありませんね」と言って笑いました。

 それを受けてロランが詠みました。

(歌)霞が立ちこめて 月光と花の間を隔てなければ ねぐらにいる鳥も 啼き出すことでしょう

 

 ロランの歌に合わせるように、明け方近くになって、卿が帰宅していきます。ヒカルは贈呈品として、自分用の贈り物として作られたプルポワン(上着)とショース(タイツ)一揃いと、まだ手をつけていない薫り物二壺を添えて、卿が乗った馬車に届けました。

(歌)頂戴したこの薫り物を 上着の袖に移したなら 自宅にいる妻が 他の女性と誤ったことをしたのかと 

   咎めてしまいます

と卿が馬車から詠みますと、ヒカルは「確かに気が滅入ってしまうね」と笑いました。

(歌)私が贈った花の錦を着て戻ったなら 邸で待ちかねている人も 珍しいことだと 確かに感じることだろう

「めったにないことだ、と思うことだろうね」と走り出した馬車を追いかけるようにヒカルが詠みますと、卿はひどく苦笑してしまいました。ヒカルは同席した客人たちにも、大袈裟にならないようにして細長ドレスや重ね着などを贈りました。

 

 裳着の儀式が行われる日、ヒカル夫妻とサン・ブリュー姫は午後七時過ぎに、秋好王妃の館に向いました。館に建て増した西側の部屋を式場にしつらえていましたが、化粧係の女官などもこちらに付いて来ていました。この機会に紫上も王妃と対面しましたが、王妃付きと紫上付きの侍女たちがひしめき合いながら、数え切れないほど見えました。

 午前零時に儀式が始まりました。灯火はほのかでしたが、王妃は「姫君の様子が立派なこと」と見ていました。

「貴女なら、姫君をお見捨てになることはあるまい、ということを期待して、ぶしつけな姿を進んでお目にかけました。王妃が裳着の儀式の介添え人をされることはあるまじきことですが、今回が今後の前例になるだろうか、と狭い料簡ながら考えています」とヒカルは王妃に語りました。

「そんなことは知らずにおりました。そこまで気をつかっておられるとは」と謙遜する王妃の気配が非常に若々しく愛嬌があるので、「申し分もなく結構な夫人方が一堂に集まっているのは、一家にとってめでたいことだ」とヒカルは感じ入っていました。

 

 姫君の実母が「こうした機会に出席できないことが悲しい」と語っていたのが心苦しく、参列させようとも思いましたが、人々からの批判をはばかって見送ってしまいました。

 こうした場所での儀式は適切なものであっても、あれこれ煩雑なことが多く、面倒なことになりますから、その片端だけを例のようにだらだらと書き伝えるのも中途半端になりますから、詳しくは記しません。

 

 

 

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