その31.真木柱             ヒカル  36歳 ~ 37

 

6.冷泉王の帰還

 

 冷泉王の釈放と敗戦処理をめぐる神聖ローマ帝国・スペイン王国との交渉は依然として難航していました。

 

 二月下旬のイタリアのパヴィアの戦いでフランス軍に勝利をおさめた神聖ローマ帝国軍のうち、ドイツ諸侯から派遣されていた兵士たちの多くは帰国後に農民軍の鎮圧にあたりました。マルチン・ルターが農民軍の過激さに閉口して、諸侯側を支援したこともあって諸侯軍側が優位となり、五月の決戦で10万人の農民が殺戮され、農民軍の大敗北で農民戦争は終結となりました。ヒカルがひそかに画策したユマニスト人脈を通じての煽動も不発に終ってしまいました。

 地中海地域での覇権をめぐって、帝国・スペイン王国との対立が強まっているスレイマン皇帝率いるオスマン・トルコはエジプト支配が安定化したことから、眼を西側に移してオーストリア王国の防波堤とも言えるハンガリーへの侵攻を始めました。対帝国・スペイン王国で利害が一致したこともあって、十二月六日、フランス王国とオスマン・トルコの連合が成立しました。

 

 オスマン・トルコ軍のハンガリー侵攻に恐れをなしたのか、それに加えてヒカルの白菊総督への手紙が少しは効果を与えたのか、カール五世皇帝側は急にフランスへの態度を改めて交渉の歩みが速まり、年が明ける一月十四日にマドリード条約が調印されて、三月十七日に冷泉王の帰還が決まりました。

 帝国側がフランスにつきつけていた、「冷泉王の釈放に対して、法外な身代金」、「見返りとして安梨王太子を捕虜としてスペインへ」、「フランス側はブルゴーニュ地方やアルトワ地方などの領地を帝国側に譲渡」、「イタリア半島への野望を断念する」などといった、とても飲み込みがたい条件もフランス側も驚くほどゆるやかな譲歩となり、安梨王太子が身代わりとして捕虜となる話も立ち消えとなりました。フランス王国とオスマン・トルコ帝国が呼応して一斉に、オスマン・トルコ軍が東から帝国、地中海からスペイン王国を、フランス軍が南から帝国、東からスペイン王国を攻撃したなら、さすがに帝国とスペイン王国も持ちこたえることができないことを悟ったからでしょうか。

 

 

7.冷泉王帰還の祝宴と踏歌の盛況。玉鬘、王さまに拝謁

 

 冷泉王の帰還が明らかになって世間は安堵と喜びで沸きかえっていますが、玉鬘はヒゲ黒大将家のごたごたした騒ぎで憂鬱そうにしていますので、ヒゲ黒は「申し訳ない」と気を揉みました。

「玉鬘が女官長として王宮に上がることを何とか食い止めて来たが、帰還される王さまが『無礼であり、何か下心があるのではないか』と私を疑い、大臣たちも思うところが出て来るだろう。王宮勤めについている女性を妻に持っている者はいないわけでもないし」とヒゲ黒は思い直して、冷泉王の帰還前に王宮に上がることを許しました。

 

 中止になっていた新年の男踏歌を兼ねて実施される、王さま帰還祝賀会の前に、王宮に上がることになりましたので、その儀式が立派に類がないまでに行われました。太政大臣と内大臣の二人に加え、ヒゲ黒大将の勢いも加わり、宰相中将の夕霧がかいがいしく世話をやき、玉鬘の兄弟たちも「こうした機会にこそ」と集まって誠意を見せましたので、非常に素晴らしいものになりました。

 女官長の室は、王太子の母でヒゲ黒の妹アヤメ貴婦人の室の東面があてがわれました。西面には長廊下を挟んで式部卿の娘の貴婦人の室がありましたが、二人の心中ははるかに遠く離れていたことでしょう。

 秋好王妃を除くと、冷泉王の貴婦人にはアンジェリク、式部卿の娘の二人を筆頭に左大臣、中納言と宰相の娘の三人がいましたが、王さまの帰還に備えて競い合っていますので、王宮は洗練された、花やいだ雰囲気となっています。

 

 王さまの帰還祝宴が盛大に行われた後の踏歌の披露には、貴婦人たちの実家の人々もアンボワーズ王城に見物に上がっていましたので、いつも以上に賑やかなものになっていて、誰も誰もが華奢を競いあうのが見事でした。女性たちの袖口の重なり具合が度を越すほどの華麗さです。

 予期もしなかった冷泉王の捕虜騒動の反省から、後継者を固めておく必然が生じたことから、安梨王太子の母であるアヤメ貴婦人への注目が高まっていました。王太子はまだ十一歳の若さで、すべての点でまだ未熟でしたから、アヤメ貴婦人は次期王の母として非常に花やかに振舞っていました。

 

 男踏歌の行列は、冷泉王、秋好王妃への披露の後、王太子の父の朱雀院が住むスリー城へと廻って行って夜が更けてしまったので、ヴィランドリー城へは「そこまでは無理」と割愛されました。朱雀院邸から帰って来た後は、王城の新女官長の室で簡単な饗応がもてなされて夜が明けていきました。賑やかな気配の中、侍女たちも細心の注意を払い、一定の作法どおりの饗応とはいうものの特別な用意はヒゲ黒大将が準備させたものでした。

 ほのぼのと白んだ、風情ある朝ぼらけに、ひどく酔い乱れた様子で祝い歌の一行が定番の「竹河」を歌っているのを見ると、内大臣の息子たちが四、五人ばかり混じっていて、ひときわ声がすぐれ、容姿もそろって美形なのがまことに立派でした。まだ童子の八郎君は正夫人の息子で、とても可愛がられていて非常に愛らしく、ヒゲ黒大将の長男と並んでいるのを見ると、腹違いの弟となるので女官長も他人とは思えずに目を止めていました。

 新女官長の侍女たちの袖口や全体的な感じは、王宮仕えに馴れた高貴な貴婦人たちの侍女たちよりも目新しく、同じ色合いのものを重ねているのに一段と花やかに見えました。侍女たちには皆、王さまから同じように俸禄がかずけられていましたが、新女官長の侍女たちは髪飾りのリボンの趣向や匂いも格別に上品に工夫していました。女官長自身も侍女たちも「こうした王宮仕えを楽しみながら、しばらくの間、王宮で過していたいと感じていました。

 

 ヒゲ黒は終日、王城の宿直所に居続けていました。

「今夜にでも退出させてもらうようにしよう。『この機会に王宮勤めをずっと続けていたい』と気が変わってしまったなら心配だからね」とばかり、同じことを繰り返して言い立てますが、玉鬘は返事もしません。侍女たちが「太政大臣が『王さまが帰還されたばかりでの出仕だから、慌しく退出を急がず、王さまが納得されて、許可を出されてから退出しなさい』とおっしゃっておりますから、今夜の退出ではあまりに早過ぎます」と反発しますので、「たまらなく辛いことだ」と思いながら、「そうはならないように言っていたのに。中々、思い通りには行かない世の中だ」と大将は嘆いていました。

 

 兵部卿も王さまの遊宴の席に参列しましたが、気が落ち着かず女官長がいる辺りだけが気になりますので、我慢できなくなって玉鬘に手紙を書きました。ヒゲ黒大将が近衛庁の詰め所にいた時でしたが、侍女が「あのお方から」と手紙を持って来たので、ヒゲ黒からの手紙と勘違いした玉鬘はしぶしぶ読んでみました。

(歌)深山の樹の上で 仲良く羽根をうち交わしている 一つがいの森鳩が この上もなく妬ましい春です

「さえずる声に、つい聞き耳をたててしまいます」とありました。

 

 気の毒なほど顔を赤くしながら、返信のしようもないと玉鬘が困っていると、ふいに王さまが尋ねて来ました。月が明るく射す中に、王さまの容貌は辛苦な捕虜生活の痕跡もなく、言いようもない清らかさで美しく、ただただ、あの太政大臣の気配と違うところはありません。

「こんなお方がもう一人おられたのか」と玉鬘は王さまをじっと見つめてしまいました。太政大臣の心遣いは浅くはないものの、嫌な物思いをさせることがますますひどくなっていますが、王さまとの間には、どうしてそんな懸念がありましょう。

 王さまはとても親しげに、期待していたことと違って玉鬘が人妻となってしまった恨みを告げるので、玉鬘は顔のやり場がない気持ちになりました。玉鬘が顔を袖で隠して返事もしないので、冷泉王は「妙に表情を出さない人ですね。女官位三位に昇進した喜びを味わっていると思っていたのに、それが理解できていない様子は貴女の性格なのかね」と語りかけました。

 

(歌)逢うのが難しい 紫色を着る女官位三位の女性に どうして心深く 思い染めてしまったのだろう

「これ以上は濃い間柄になれずに終ってしまうのか」と話す様子がまことに若々しく清らかなので、気恥ずかしくなりましたが、「ヒカル様と違うところはないのだから」と思い直して返事をすることにして、王宮仕えの実績なしに女官位三位を賜わったお礼の気持ちを述べました。

(歌)紫色はどの官位のものなのか 知らずにおりましたが 王さまの特別の思召しで 頂戴したものなのですね

「ただ今からは王さまのお気持ちを充分理解してお仕えします」と答えますと、冷泉王は微笑んで「今から理解して仕える、と申すが、それも無駄なことになってしまったね。私に仕えることを憂う人がいるようだが、その理由を聞いてみたいものだ」と大層恨んでいる様子に心がこもっているのが煩わしく、「これは困ったことになった」と感じました。

「心が引かれたようにはあまり見せないようにしよう。男の人というのは、困った癖があるのが世の常なのだから」と考えて、真面目な態度のまま黙っていましたので、王さまはしまりのない乱れた冗談などは切り出さずに、「段々と親しみ馴れて来るだろう」と感じているようでした。

 

 夫の大将は王さまが尋ねていったことを聞いて、ますます平常心を失って退出を急がせました。玉鬘自身も「自分にふさわしくないことも起きてしまうかもしれない」と心配になって、王宮に長く留まらずに退出させてもらうようにもっともらしい口実を作り出し、父の内大臣などにうまく取繕って、退出が許されるように工面しました。

「しかしまあ、妻が王宮勤めをするのに懲りて、それっきり王宮に上げない者もいるからね。貴女のことは捕虜になるより先に関心を抱いていたが、マドリードに幽閉されている間に先を越されてしまって、横取りした男の機嫌をとることになってしまった。昔の物語に出て来る(歌)昔にした私との約束の言葉が悲しく感じるのは どういった契りの名残りなのだろうか

といった歌のように『妻を別の男に奪われてしまった』気分がする、と王さまは言いながら、「誠に残念で口惜しい」と思っています。玉鬘は噂で聞いていたよりも、間近で見ると格段に勝っているので、初めからそうした気持ちがなくても見過ごすことができないことですから、なおさら残念でたまらない思いでいました。けれども王さまは「一途な出来心と思われて疎まれてしまったら」と感じたのか、深い愛情をこめた言葉で親しみを示しますので、玉鬘はかたじけない思いで、(歌)夢見心地で 誰と契ったのでしょう 私は私なのに 定めのない夢路に迷ってしまった という歌を思い出しました。

 

 女官長を乗せる輿(こし)が寄って来て、あちこちにいるお付きの人たちがじれったそうにしており、夫の大将も何やかやと寄って来て騒ぎ立てますが、王さまは中々、手放そうとはしませんでした。

「こんなに厳重に守られているのは不愉快だね」と王さまは憎らしく感じているようです。

(歌)幾重もの霞に隔てられてしまったから 梅の花の香りは 匂って来ないのだろうか

 格別どうという歌でもありませんが、王さまの様子や気配を目前に拝見しながら、特別な言葉のように玉鬘は受け取りました。

(歌)春の野にスミレを摘みに来たが 野原があまりにも懐かしいので このまま夜明かしをしたい といった歌のように「貴女と語り続けながら夜を明かしたいのだが、そうはさせたくない人もいるから、身がつまされて心苦しくなっている。しかしこれからは、どうやって便りをしたらよいのだろう」と思い悩んでいる様子なので、玉鬘は「改めてかたじけない」と見つめています。

(歌)美しいお后たちの花の枝に 立ち並ぶほどの香りもない私ですが せめて王さまの香りだけは 

   風に乗せてお伝えください

と、さすがに王さまと離れてしまいたくない玉鬘の気配を王さまは「愛しい」と思いながら、後を振り返りつつ室を去って行きました。

 

 ヒゲ黒大将は「今宵はこのまま自邸に連れていこう」との腹積もりをしていましたが、「前もって太政大臣に知らせると許すことはあるまい」と確信できますので、そんな風には言わずに、「風邪気味になって、急に気分が悪くなってしまいました。気が楽な自邸で養生をしたいのですが、離れ離れになってしまっては、妻も心配するでしょうから」とやんわりとした言い訳をして、そのまま自邸に連れて行ってしまいました。

 それを知った父の内大臣は「きちんとした儀式もせずに、突然にとは」と不満に思いましたが、「そのくらいのことで身勝手に邪魔をしてしまうのも、相手を傷つけてしまう」と考えて、「ともかく、元々自分の思い通りにすることはできないのだから」と諦めました。「あまりに唐突なことで、不本意なことだ」とヒカルも失望したものの、口出しはできません。玉鬘も(歌)サン・マロの漁師が 塩を焼く煙は 思ってもみなかった方向に なびいてしまったといった歌のように「情けないことだ」と嫌がりましたが、ヒゲ黒の方は「恋人を盗み取ってきた」との思いがして非常に嬉しく、気持ちも落ち着きました。

 

 王さまが女官長の室に入って来たことをヒゲ黒がひどく嫉妬して、ぐちぐち言うので、玉鬘は好きになれず、「つまらない男だ」という気がしてますます機嫌が悪く、無愛想にあしらっています。

 本妻の父の式部卿はあれだけひどく大将をののしったことを、今は後悔していますが、大将はあれっきりヴィルサヴァン城を訪ねていくことはありません。ひたすら「思いが叶った」と、玉鬘にかしづくことだけに明け暮れいそしんで過していました。

 

 

 

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