カオル・ゲンジ篇で紫式部が当初着想していた筋書き

 

   ――イエス・キリストはタキシラで勃興中の大乗仏教に触発されたのではないか――

   ――平安時代末期と十六世紀のフランスの類似性――

 

[1]「源氏物語フランス・ルネッサンス版」の意図

 

 当初は紫式部が描いた風景をフランスのロワール地方やパリ地方に移植させてみたら、どうなるか、といった趣旨から始めました。紫式部が十六世紀のフランスに生きていたなら、社会の動きをどう描いただろうか、を念頭にいれながら、自然や風景、動植物などをフランスの風土に置き換えることはするものの、原則として、原文を現代文にしていきながら、その中にフランスと近隣諸国の歴史的なできごとを挿入していく、といった手法で「ロワールのヒカル・ゲンジ篇」(第一巻桐壷~第四十一巻幻)を進めて行きました。

主要人物は原作が紫式部であることを印象付けることもあって、ヒカル・ゲンジ紫上葵君など原名のままとして、他の登場人物はフランス名に変更しました。

 

 原典には登場しない人物として、マルグリット・オーストリッヒ(Marguerite d’Autriche)をモデルにした「白菊」を登場させました。白菊のフランス滞在中の出来事とヒカルとの出逢いを第一帖「桐壷」の冒頭に紹介することで、舞台は日本の京都ではなく、フランスのロワール地方であることを強調する意味合いもありました。

マルグリット公女はブルゴーニュ公国(注:公国の地理的状況を明確にするため、「フランドル・ブルゴーニュ公国」としました)の女公マリーと神聖ローマ帝国の皇太子マクシミリアン一世との間で生まれました。マリーが落馬事故で急逝した後、マクシミリアン一世がフランドルを追われて母国オーストリアに帰国せざるを得なくなった隙に乗じて、フランス軍がフランドルに侵入して、まだ三歳にすぎなかったマルグリットを将来のフランス王妃としてロワールに連れ帰りました。

次代の王妃と育てられたマルグリットが十一歳になった時、フランス王(桐壷)は独立公国であったブルターニュ公国を吸収する政治的目的から、ブルターニュ公女(紫陽花)を王妃に迎えることにしました。自分の立場が宙に浮いてしまったマルグリットは十三歳に祖国のフランドルに帰還するまでの二年間あまり、憂鬱な日々を送りましたが、その時の慰め相手となったのが、桐壷王の愛人(貴婦人)が生み残した幼児のヒカルでした。ヒカルは姉ないし母代わりになった白菊になじみ、四歳でマルグリットが王宮を去って行く際には号泣しました。そのせつない記憶が染み付いたこともあって、青春時代に亡き母の面影を求めた女性遍歴を重ねて行きますが、後に求めていた面影は実母ではなく、マルグリット(白菊)であったことを悟りました(第35帖 3.四英傑の揃い踏み――白菊とヒカルのカンブレイ和平――)

 

 ヒカル・ゲンジの生年は14891と設定しました。1494にイタリア戦争が始まり、イタリアのルネサンス文化を持ち帰る形で、フランス・ルネサンスが始まります。同時に、神聖ローマ帝国、イングランド王国など近隣諸国との摩擦・軋轢を経ながら、現代にまで繋がる西ヨーロッパの基盤が芽生えて行く十六世紀に入り、六度に渡る神聖ローマ帝国との戦役の後、フランスは過酷な宗教戦争の時代に入りました。

 

 

 

[2]平安仏教とキリスト教の共通性

 

[キリスト教にも多神教の要素がある]

源氏物語のフランス・ルネサンス版を始めるまで、多神教に属す仏教と神道を一神教に属すキリスト教に、「どうやって切り替えていくか」が悩みの一つでした。ところがこの心配は全くの杞憂となりました。キリスト教にも多神教の要素が多分に存在することが分かったからです。

 

キリスト教は基本的に一神教のようですが、サン・ミシェル、サン・ジャックなどサン(聖。Saint)がつく聖人が無数と言えるほど存在します。キリスト教の聖人(Saint)を神道の「神」や仏教の「菩薩」に置き換えてみると、「神・菩薩」と「聖人」は同意義ととらえたとしても違和感がありません。

キリスト教は多神教の側面も併せ持っている、とも解釈できます。実際に中世の時代では聖人信仰と聖地巡礼が盛んで、現在でもセシルは音楽家、ドミニクは天文学者、オノレはパン・洋菓子業、イヴは弁護士といったように、各職業を司る聖人が存在しますし、パリの守護聖人が聖ジュヌビエーヴであるように各都市にも守護神が存在します。このことからキリスト教には西ヨーロッパに普及する以前の先住民ケルト属や古代ローマ帝国時代(ガロ・ローマン時代)の多神教の名残も含まれているのではないか、とも考えられます。

 

[イエス・キリストはガンダーラ地方のタキシラで大乗仏教に触発されたのではないか]

源氏物語に描かれている仏教を、ローマ・カトリックを主体としたキリスト教に置き換えて行きましたが、不思議に感じるほどすんなりと進みました。「物の怪」は「魔女」、「占い師」は「占星術師」に置き換えても違和感はありませんし、「罪の意識」や「慈愛」など平安仏教とキリスト教には共通する点が多くあることに気付きました。

源氏物語によく記述されている「罪」「慈愛」とキリスト教の「原罪」「愛」の観念には、確かに共通性があります。西方教会での「原罪」は神が禁じたリンゴを食べてしまったイヴとアダムから派生しますが、源氏物語にしばしば登場する「前世の罪」と似通っている印象も受けます。自分の罪を償えば、誰でも天国(極楽)に行ける、といった平等の観念も類似性があります。

純粋なユダヤ教にもとづいている旧約聖書は絶対唯一神を信じ、他の思想や宗教に対して攻撃性・排他性が強い側面がありますが、キリスト教にも大乗仏教にも他者を認める「寛容性」が見られます。「汚れた世俗から離れて、山奥や修道院で祈りを仏や神に捧げながら清らかに住む」といった理念も似ています。

 

イエス・キリストは青春時代にあたる十三歳から、宣教を始める三十歳の十七年間(ルカの福音書)の行動が不明で、一体、どこに滞在していたのかがあれこれと論じられて来ました。ひょっとしたら、イエス・キリストは修行中あるいは放浪中に、当時はパルティア王国であったペルシャ(イラン)、アフガニスタンを経由してパキスタン西部のガンダーラ地方、タキシラに行き、そこでおりから勃興中であった大乗仏教に出逢って触発・啓発されたのではないか、と憶測するに至りました。

ペルシャはゾロアスター教の地域ですが、「悪霊」を除くとキリスト教との共通点はほとんど見られませんが、ペルシャよりも東に進んだタキシラの大乗仏教と共通点が見出されるのは驚きです。キリストが誕生した紀元ゼロ年の頃、タキシラは南、西、北の三方向の合流地点として栄え、ギリシャ系、イラン・スキタイ系、バクトリア大月氏系、インド系の四系統が混在していました。そうした国際的な雰囲気の中で、インド仏教の大衆部の概念が大乗仏教として熟成していき、一世紀末頃に、大月氏から派生したクシャナ朝の下で、古代ギリシャ文化の影響を受けたガンダーラ美術が開花します。

 

(タキシラの歴史)

紀元566年~前486 仏陀(ゴータマ・ブッダ)。

326 アレキサンダー大王がインダス川流域に到達

317 インドでマウリア朝の誕生(前150年まで)。

200年頃 タキシラはギリシャ系のバクトリア王国とインド系のマウリア朝の接点となり、ギリシャ文化と仏教の交点の場となった。

185 ギリシャ系のグレコ・バクトリア王国の活動が活発化し、王朝の首都タキシラが繁栄する。

90 イラン・スキタイ系の部族長が最期のギリシャ系王をタキシラから追放。

65 バクトリアに月氏五王国(故地は敦煌などがある天山北路地域)の成立。

25年 イラン・スキタイ系のゴンドファルネスがタキシラを支配し、インド・パルティア王国を建国。首都はタキシラ。

20 大月氏クシャナ侯ヘラウスの統一事業始まる。大乗仏教の芽生え

紀元13年~29年 イエス・キリストの動向が不明。

紀元76 クシャナ朝が建国され、ガンダーラ美術が開花。

 

 紀元一世紀末から、クシャナ朝はインダス川流域からガンジス川流域へと勢力を伸ばして行き、冬季はガンジス河支流のヤムナー川のマツーラ(Mathura)、夏季はタキシラに近いペシャワールに首都を置きました。次第に初期の大乗仏教はウパニシャッド哲学やヒンドゥー教の影響も受けながら成熟していきました。

 大乗仏教は紀元ゼロ年頃にはすでにタキシラがあるガンダーラ地域からバーミアン、バクトリア、天山北路と通じて中国の黄河流域に伝搬していた、と見られていますが、これは大月氏の故地が天山北路(匈奴に駆逐されてバクトリアへ移住)だったから、と言うことができます。

 

 

 

[3〕十一世紀の平安時代と十六世紀のフランスの共通性

 

 ヒカル・ゲンジ篇を進めていく中(20168月~202111月)で気付いたもう一つの点は、予想していた以上に紫式部が描く日本の十世紀から十一世紀にかけての世界と十六世紀のフランスに共通している点が幾つかあることでした。

代表的な事例は、旧教天台・真言、ローマ・カトリック)に対抗する新教鎌倉仏教、プロテスタント)の登場です。

 

日本では、伝統仏教(天台・真言宗)と爛熟・腐敗化した貴族社会への反発から、王族や貴族に侍っていた侍階級と農民が台頭し、鎌倉新仏教が誕生していきます。荘園制が全国に普及しましたが、熟成と腐敗化が進む中で、荘園を預かり警護役を務めていた、王族や貴族に侍る者(侍)が力をつけて台頭していきました。荘園で働く農民も自作農になる者が出てきたり、荘園の土地をかすめ取るなどで力をつけて行きました。侍が支配する鎌倉時代に入り、武家は禅宗の自力本願、農民・庶民は浄土宗などの他力本願の方向で進みました。

 

西欧では王族・貴族社会は継続して行きますが、荘園経営を主体にした封建主義体制(カトリック派)に反対する都市部の商業手工業者(プロテスタント派)の対立が進みました。当初はマルチン・ルターなどユマニズム(人間中心主義)の視点からのローマ・カトリック教会内部での刷新化運動として始まりましたが、次第に政治・社会問題に高まり、権力闘争が激化していきました。

 

 

[4]第四十四帖「竹河」から宇治十帖への不自然性と紫式部の当初の構想

 

 源氏物語五十四帖の最終の部分となる「宇治十帖」を何度となく、読み返してみました。第四十五帖「橋姫」の八宮と正妻の二人娘である大宮・中君とカオル・匂宮との関係から始まり、三人目として八宮の愛人の子である橋姫が登場してカオル・匂宮の三角関係のもつれへと進行していきますが、橋姫との場面が中心となって行くにつれ、ヒカル編に較べると鋭利さに欠けて退屈しますし、少し投げやりに書いているような印象を受けます。

ヒカル没後の「匂宮」、「紅梅」、「竹河」の三帖から「宇治十帖」への流れの不自然さはこれまでも指摘されています。「宇治十帖」の主役三姉妹の父である八宮はヒカル編では具体的に登場しておらず、「紅梅」の末尾に「八宮の姫君」として初めて登場しますが、後付けで書かれた印象も受けます。紫式部とは別の人物、あるいは娘の賢子(越後の弁)が書いたとも思えますが、そうでもないようです。

 

私の推定では、紫式部は「匂宮」でカオルと匂宮、「紅梅」で真木柱、「竹河」で玉鬘と冷泉院の王子を産む長女を登場させることにより、カオル対匂宮、玉鬘対真木柱との対比の構図から、「朱雀院―現王(安梨王)―匂宮」対「ヒカル―冷泉院―王子」の王位継承をめぐる物語に進めて行こうと考えていました。ところがこの構成に対して、「王位をめぐる継承騒動は刺激的すぎる」、「現実の王位継承紛争へとつながってしまう恐れもある」などと藤原道長など周囲からの忠告を受けたがために、三姉妹とカオル・匂宮の陳腐な恋愛小説に切り替えざるをえなかったのではないか、ということになります。

 

 紫式部が源氏物語を執筆したのは1005年~1012と見なされていますが、藤原道長の内覧・太政大臣時代は995年~1017ですから、時期的には合います。岩波文庫の「源氏物語」を校注された山岸徳平氏は「源氏物語は1002年頃に開始し、「竹河」の完了後、多少の年月を隔てて宇治十帖を開始し、1008に完成した」と言及されていますが、「多少の年月を隔てた」期間に、紫式部の戸惑いと仕切り直しがあったのではないか、と推定したりもします。

 池田彌三郎氏も「源氏物語 潤一郎訳(巻五の解説)」で、「紫式部の当初の構想は、後嵯峨天皇(在位1242年~1246年)の後、持明院統の後深草天皇(1246年~1259年。北朝)と大覚寺統の亀山天皇(1259年~1274年。南朝)を経て、1336年~1492年に渡る南北朝の対立に至る」ような筋書きだったのではないか、と記しておられますが、紫式部は一世紀半も前に先読みしていたことになります。 

     

 

[5]紫式部の意向を汲んでヒカル生誕から百年間の歴史へと延長

 

「フランス・ルネサンス版」の設定では、最後の帖「夢の浮橋」は、1562年で終了します。1562年は「フランス宗教戦争」に突入する年に当たりますが、紫式部の悔しさと本来の目論見を尊重する意味合いも含めて、フランスの宗教戦争に組み込み、当時のフランスの政治・社会情勢と照らし合わせながら、ヒカル編よりも創作要素を増やして、期間をアンリ四世が即位する1589年まで延長して行きます。

 

 基本テーマは「愛と罪」としますが、大枠の筋書きは以下のように考えています。

―「竹河」で、冷泉院と玉鬘の長女との間に男児が誕生した後に、玉鬘の息子たちを中心にしたグループ(プロテスタント派)が男児を次の王に仕立てる画策を開始。これにアンジェ公家のロランたち(カトリック派)が反発し、宗教戦争が萌していく。

―玉鬘と真木柱の確執:ロランの妻である真木柱は、父親を奪った玉鬘を憎んでいる。

―王家と夕霧一家はヒカルの願い通りに、カトリック派とプロテスタント派の両立を基本政策としながらも、宗教戦争の荒波に巻き込まれていく。

―三アンリ(匂宮、真木柱の息子、冷泉院の王子)の対立を経て、ヒカルが誕生した1489年から百年後の1589年にサン・ブリュー(明石)大后が他界し、同年、匂宮(ニオイ王)が暗殺されて、冷泉王の王子が王位を継承する(アンリ四世の即位でブルボン朝が始まる)までの100年間、一世紀にわたる歴史物語として行きます。

―この結果、自分を祖とする王家が、女系よりも男系となることを願望した(若菜・下)のヒカルの夢が実現した、

といったシナリオで進めていきます。

 

 

[6]想定筆者

 

筆者はアンリ四世の内縁の妃ガブリエル・デステレGabrielle d’Estrées)の女官を想定しました。

 

デステレは十八歳でアンリ四世の愛人(貴婦人)になり、王妃にはなれないまま、二男一女の子供を残して二十六歳で早世しました。カトリーヌ・メディチの後を受ける形で、パリ北東部モー(Meaux)近くのモンソー・レ・モー(Monceaux les Meaux)城に居住していました。女官はデステレからアンリ四世の実の祖父は桐壷王ではなく、ヒカル・ゲンジだったことを聞いて、ヒカルについての調査を開始した後、戦いに明け暮れる夫君の不在で退屈するデステレを慰めるために、ゲンジ物語の執筆を始めた、という設定です。