中臣・藤原氏が祀る四神のうちの「ヒメ(比売)」はヒミコ(卑弥呼)とトヨ(台与)ではないか
「大物主と三輪山」(自説の要旨2)で中臣・藤原氏の根源地は岡山県の吉井川中流の美咲町から赤磐市、ことに柵原鉱山に近い「藤原」、「藤の原」ではないか、との結論が出ました。現代でも「藤原姓」が多い県は兵庫県と岡山県となっています。
三国志・魏志倭人伝には、「邪馬台国の官僚には、伊久馬(いくま)、次に弥馬弁(みまき)、次を弥馬渡支(みまかし)、次を奴佳鞮(なかと)」と記されていますが、最後の「奴佳鞮」は「中臣(なかとみ)」ではないか、と推測できます。となると「奴佳鞮」が存在した地は「吉備」であり、邪馬台国は吉備にあったことは確実なことになり、さらに中臣・藤原氏が祀る四神フツヌシ(布都主)、アメノコヤネ(天児屋)、タケミカヅチ(建甕槌)、ヒメ(比売)のうち、「比売」はアメノコヤネの后と見なされていますが、ヒミコ(卑弥呼、姫御子)とトヨ(台与)ではないか、という可能性も出てきます。
まず、フツヌシ、アメノコヤネとタケミカヅチ三神の特色や系譜をみた後、吉備を主体とした倭国の流れを時系列で整理しながら、果たして「ヒメ(比売)」が「ヒミコとトヨ」であるのかを検討していきます。
1.中臣・藤原氏の四神
中臣・藤原氏が祀る神はフツヌシ(布都主)、アメノコヤネ(天児屋)、タケミカヅチ(建甕槌)、ヒメ(比売)の四神です。
代表的な神社は、枚岡(ひらおか)神社(河内一の宮)、奈良市の春日大社、千葉県の香取神宮、茨城県の鹿島神宮の四社が挙げられますが、なぜ春日大社は「大社」なのに、橿原神宮と鹿島神宮は「神宮」の名が付けられているのでしょうか。この点が中臣・藤原氏の歴史を読み解く鍵となります。
(1) フツヌシ(布都主) イザナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)系譜
前334年、揚子江南部に加えて北部(旧呉の領土。江蘇省)も支配する越が楚に敗れ、北部の沿海部の住民が黒潮に乗って倭国に逃れ、一部は日本海の越地方、一部は瀬戸内海に入り、淡路島に定着して水稲栽培を伝え、イザナギ・イザナミを祀りました。
水稲栽培の伝搬と共にイザナギ・イザナミ神話は吉備東部の津山盆地に入り、那岐山にも祀られるようになりましたが、中国山地から銅が発見されたことから、津山盆地が銅剣などの銅製品の製造地として発展して行きます。イザナミのホトを焼いて殺したカグツチ(迦具椎)を剣神フツヌシが斬り落とします。津山盆地を治める富(とみ)族はフツヌシと共に東上し、河内と大和にまたがる生駒山麓に登美(とみ)国を建国して、物部氏となります。
(2)アメノコヤネ(天児屋) ムスビ(産巣日、産霊)系譜
前473年、揚子江南部の越に敗れた呉の住民の一部は朝鮮半島南部と九州北部に亡命して、ムスビ(産巣日、産霊)の神々を祀ります。
前206年、秦が滅ぶ前後、秦と同盟国の敗者が朝鮮半島に亡命し、黄河文明を伝えますが、この影響が九州北部に入り、弥生時代中期に入ります。
前108年、前漢の武帝が朝鮮半島四郡を植民地化した後、先進の鉄剣や鉄製品が九州北部に入るようになったことから、奴国や伊都国が隆盛し、北部九州が倭国の中心部となり、人口も増加していきます。
しかし北部九州の問題点は丘陵部がほとんどで、水田に適した平地が少なく、過剰となった住民を養えなくなってしたったことでした。このためカムムスビ(神産霊)、タカミムスビ(高御産霊)、コゴトムスビ(興台産霊)などを祀る多くの人々が、先進文化を携えて、日本海、瀬戸内海と九州島南部に移住して行きました。
吉備ではコゴトムスビの子神アメノコヤネが祭祀を司る神となります。
(3)タケミカヅチ(建甕槌)
スサノオ(須佐之男)系譜とオオヤマツミ(大山祇)系譜
前漢の武帝の朝鮮半島植民地からしばらくして、吉備の吉井川の中流の柵原(やなはら)に磁鉄鉱が発見されたことから、北部九州の荒くれ者どもが争うように吉井川中流に押し寄せました。鉄資源を求めて、吉井川と旭川周辺を荒らしまわりますが、有望な鉄鉱山は見つからず、土着の旭川族に追い払われてしまいます。吉井川中流に戻った後、優れた斧や鍬などを使って荒れ地や湿地帯の開墾を始めて、スサノオ族として勢力を拡大していきます。
(スサノオ系譜)
スサノオ系譜は中臣・藤原氏の主柱を形成しますが、スサノオは二系統のいずれも太陽神オオヒルメ(大日孁)と共に縄文時代の主要神である大山の神オオヤマツミ(大山祇)の子と婚姻関係を結んでいます。
クシナダヒメ(櫛名田比売)系譜
大山祇(おおやまつみ)の息子足名椎(あしなづち)の娘クシナダヒメを后として、八島士奴美(やしまじぬみ)をもうけ、八島士奴美は大山祇の娘木花知流比売(このはなのちるひめ)との間に生まれた子の五ないし六代目が国土創成のオオナヌチ(大穴牟遅)となりますが、吉備では大物主、出雲では大国主、播磨では葦原色許男(あしはらしこを)、越では八千矛(やちほこ)となります。吉備の大物主の四代目がタケミカヅチ、五代目が大田田根子(おおたたねこ)となります。
カムオオイチヒメ(神大市比売)系譜
大山祇の娘カムオオイチヒメとの間に大年(おおとし)と宇迦之御魂(うかのみたま)の二神をもうけます。
宇迦之御魂は稲荷となって伏見稲荷など、農産の神として全国的に拡大します。
大年(広島県、岡山県、兵庫県に多い)は大国魂、御年、大山咋など十六神をもうけますが、クシナダヒメ系が瀬戸内海側に加えて、日本海側にも広がっているのに対し、商工の神として瀬戸内海の大市場を主体にしており、この地域が吉備邪馬台国の影響圏であったことが想定できます。
大国魂(おおくにたま) (奈良県天理市の大和神社、兵庫県三原町の大国魂神社)
御年(みとし) (奈良県御所市の葛木御歳神社))
大山咋(おおやまくい) (滋賀県大津市の日吉大社、京都市の松尾大社)
(4)ヒメ(比売)
三神を俯瞰してみると、中臣・藤原氏はスサノオ系譜に加えて、縄文時代のオオヤマツミ、弥生前期のムスビとイザナギ・イザナミを起源とする神々をまとめたことになり、その範囲は吉備・讃岐を主体として、西は安芸と伊予、東は播磨、摂津、山城と近江となります。
四神目の「ヒメ」は果たして、ヒミコとトヨなのか、吉備を中心に、時系列で見て行くと、その可能性が高いことが分かります。
2.吉備邪馬台国の発展と敗北禮
前108年から0年 吉備の吉井川中流に誕生したスサノオ族が吉備、伯耆、出雲に拡大し各地で大土地王(オオナムチ)が誕生。吉備の大物主は吉備王国を繁栄させて行く。
0年から57年 吉備王国の首都が吉備津となり、讃岐も傘下に置く。
57年から107年 57年に筑紫の奴国王が後漢から金印を授与される。しばらくして、吉備・出雲連合が奴国・伊都国を征服。宗像氏を介して、日向のイハレビコ(伊波禮毘古)兄弟が警備役に。吉備王国の管轄圏は伊都国から近江まで。イハレビコ一行は宗像氏と吉備王国の依頼を受け、大和山中の水銀朱鉱山を確保し、南葛城地方に葛国を建国。
107年から160年代 吉備王国の帥升が後漢に遣使。吉備王国の全盛期。
170年代前後 楯築(たてつき)王の死後、倭国大乱。西出雲王国・北部吉備勢力対南部吉備・阿波王国の後継者争い。阿波王国の後押しで、伊勢のサルタヒコ王国が水銀朱鉱山がある宇陀野に侵入するが孝昭天皇軍が返り討ちし、余勢をかって伊勢、美濃と尾張の3国を支配し、大和葛(狗奴)国の拡大が始まる。
180年代から247年頃 ヒミコが邪馬台女王に。大和国が孝安天皇と孝霊天皇の2代で、近畿地方と阿波を勢力下に置き、孝元天皇が吉備邪馬台国への攻撃を始める、ヒミコが魏に支援を求め、大和軍を食い止める。
ヒミコの死後、中臣氏が「ヒメ」として祀る。
247年頃から267年 ヒミコを男王が継いだが周囲が納得せず、トヨが即位。吉備津彦兄弟の下でアマツヒコネ(天津彦根)族が水軍、尾張氏が陸軍を率いる開化天皇軍が吉備邪馬台国を制覇し、一挙に筑紫まで支配下に置く。
トヨは人質兼開化天皇の后候補として大和に送られ、祭祀を司る枚岡氏と特殊壺・器台の工人、タケミカヅチやタケカシマ(武鹿島)の武人は河内に送られるが、タケカシマなど武人の大半は、意富(おふ)氏の下で伊予、豊後と肥後の制覇に送られる。
3.崇神天皇と垂仁天皇の判断と選択
270年頃 開化天皇の死。崇神天皇が即位するが、国内外が混乱し苦闘する。
270年代前半 トヨの助言で大物主を三輪山に勧請すると、吉備王国と瀬戸内海地域に加えて、近畿圏も平穏となる。
270年代後半 天津彦根族を配下に置くタケハニヤス(建波迊安)の反乱と鎮圧。全国統一に向けて四道将軍を派遣。
280年頃 安倍氏と尾張氏らの苛めでトヨが自害し、崇神天皇は箸墓に埋葬。
枚岡氏がヒミコを祀る「ヒメ」にトヨを加える。
大物主の三輪山への勧請の成功とタケハニヤスの反乱を通じて、大和系の外戚よりも、吉備邪馬台国の勢力との協調関係を活用する方向に転じる。
関東平野と陸奥の平定に向け、豊後、肥後と有明海西部の掌握を果たした 建鹿島と意富氏を霞ヶ浦に派遣。その成功を受けて、王子トヨキイリヒコ()を下野(宇都宮)に、天津彦根族の筑紫刀禰(つくしとね)を常陸に、阿部親子の建沼河別(たけぬなかわわけ)を筑紫に移す一石三鳥策。
285年頃 西出雲王国の制圧で崇神天皇の東西倭国の統一。中臣氏の復権。
290年代前半 崇神天皇の死と垂仁天皇の即位。サホビコ(沙本毘古)の反乱。中臣。大鹿嶋(おおかしま)と物部十千根(とをちね)五大夫の二人に。
320年前半 日本神話の原形の成立。ヤマトヒメ(倭媛)が伊勢神宮を創建、東西倭国が統合された日本国誕生の象徴として、鹿島(タケミカヅチ)と香取(フツヌシ)を加えた三社が、最初の三神宮となる。
4.景行天皇から平安時代まで
330年頃から350年代 景行天皇の爛熟。
360年代前半 神功皇后と武内宿禰が応神朝を開始。
390年代 倭軍が任那、新羅と百済を支配。武内宿禰の失脚。
392年 高句麗の南下と倭軍の敗北。応神天皇は国内発展に集中。
507年 応神朝から継体朝へ。
645年 大化の改新。 中臣・藤原氏(藤原鎌足)の飛躍。
710年(和銅3年) 春日大社の創建。藤原氏が絶頂期へ。