その4.夕顔     (ヒカル 16歳)

 

6.夕顔の瀕死とヒカルの失望

 

 宵が過ぎた頃、ヒカルは少し寝入りました。

 

 枕上に非常に美しい女がいて、ヒカルに「とても秀でた御方とお見受けしていましたのに、私を尊重して下さらないで、 こうした格別でもない人を連れて来て愛し合うとは、 腹立たしくも辛いことです」と言いながら、ヒカルの横にいる女性を揺り起こそうとしている夢を見ました。

 何かに襲われる心地がして、驚いて目を覚ましますが、オイルランプの灯火が消えています。無気味に思って、剣を引き抜いて枕元に置いてから、閨(ねや)の外に臥しているミモザを起こしました。ミモザも「恐ろしい」と怯えているようで、ヒカルに擦り寄ってきました。

 

「警備人小屋にいる宿直人を起こして、ロウソクをつけて来るように、と頼みなさい」と命じますが、「どうして小屋まで行けましょう。暗すぎて」と答えます。

「なんだ子供じみていて」と苦笑して、宿直人を呼ぼうと、手を強く叩きますと、主塔に反射したコダマが答えるだけで、大層無気味です。聞きつけて来る者は誰もいません。女君はひどく恐がって震えていて、「どうしたらよいのでしょう」と戸惑っています。汗もしどろにかいて、正体もない様子です。気配に気付いたミモザは「女君は物怖じを無闇にされてしまうご性格ですから、どんなお気持ちでいらっしゃいますのか」と心配します。

「とてもか弱い方のようだ。昼間も閨の奥を気味悪がって、空ばかりを眺めていた。可哀想に」と言いつつ「私が宿直人を起こそう」とヒカルは手を力の限り叩いてみますが、コダマの声がうるさい程、戻って来るだけです。

 

「しばらくの間、女君の添い寄っていてくれ」とミモザを閨の中に引き入れて、西向きのドアに行って開きますと、警備人小屋の灯も消えていました。風が少し吹いていますが、警備人の数が少ない上に、皆、別棟に寝に行ってしまっていました。警備人小屋にいるのは、ヒカルについて来た侍童、いつもの隋人と管理人の息子だけでした。

 大声を挙げて呼びかけますと、ようやく返事がして、小屋から少年が起きてきました。

「ロウソクをつけて来てくれ。隋人に魔物除けの弓の弦打ちをして、ずっと声を出しているように伝えてくれ」と指示します。「こんな人気がない場所で、気を許して眠ってしまうとは、どういう料簡だ。コンスタンが参っているはずだが」と問いますと、「控えておりましたが、『仰せ事がないから、早朝にお迎えに上る』と申して帰っていかれました」と答えます。 

 応答した管理人の息子は王宮の巡警士でしたから、弓弦を大変馴れた手つきで打ち鳴らしながら、「ご用心、ご用心」と言いながら、管理人の家に向ったようです。

 

 ヒカルは王宮の様子を思い浮かべました。「もう宿直人が姓名を奏上する名対面の時刻は過ぎているだろう。巡警士の口上がある頃だ。まだ夜更けには至らず、午後十時頃であろう」と推量しながら、寝室に戻って暗がりの中で閨にいる女君をさぐってみますと、女君はじっと臥せったままで、ミモザが側でうつ伏しています。

 

「どうしたのだ。あきれるほどの物怖じではないか。こうした荒涼とした場所では、狐の類が人を脅そうとして、恐がらせるものだよ。私がいれば、そんなものには嚇かされることはない」と言って、ミモザを揺すり起こしました。

「とても気味が悪うございましたので、下を向いてうつ伏しておりました。女君こそ、さぞかしお辛いことでしょう」と心配しますので、「そうだ。どうされているか」と手探りで女君に触れてみますと、息をしておりません。身体を揺すってみても、なよなよとして正体がない様子なので、「ひどく幼っぽく、か弱い人だから、魔物に魅入られてしまったのかも」と途方にくれてしまいます。

 

 ようやく巡警士がロウソクを持って来ました。ミモザは身動きもできないようなので、間近の間仕切りを引き寄せて女君を隠してから、「こちらに持ってきてくれ」と命じます。慣例ではないことから、瀧口は閨に近付くことを慎んでいるのか、閨の下段にすら近付いてきません。

「もっと近くに寄って来なさい。遠慮するのも時と場合による」と言って灯を近づけさせますと、夢に現れた姿をした女の面影が女君の枕上に見えて、ふっと消え失せてしまいました。

「昔の物語などにも、こういう場面が書かれているが、現実にあるのだ」と珍奇なことと感じると同時に気味が悪くなりました。とにかく「女君がどうなったのだろう」と胸騒ぎがして、我が身を忘れて女君の横に添い臥して「どうしたんだ」と強めに揺さぶってみますが、女君の身体はもう冷え冷えとして、息はすでに絶えてしまっています。 

  

 もう、どうしようもありません。頼りにできる相談相手もいません。こんな場合は、僧侶などが頼みになるのですが、そんな人は無論、近くにはおりません。表向きは強がっていますものの、まだ満十六歳と若年ですから、空しくなってしまった人を見るとどうしようもなくなって、ひしと女君を抱いて「ああ、貴女、生き返って下さい。そんな悲しい目を見せないで下さい」と話しかけますが、もう身体は冷え切ってしまっていて、気配がうとましくなって行きます。

 ミモザはただただ「ああ恐い」と震える心地すらすっかり消え失せて、泣き狂う有り様が痛々しいほどです。王宮の南殿に潜んだ悪魔が某大臣を脅かしたものの、その人に威圧されて逃げてしまった話を思い出して、気丈になって「よもや、このまま果ててしまうことはないだろう。夜間の声はおどろおどろしく聞えるものだ。そんなに泣くな」とミモザを叱咤するものの、あまりに唐突な出来事なので、呆然とするだけでした。

 

 巡警士の少年を呼んで、「不可解なことだが、何かに襲われた人がここにいて、苦しんでいる。早急にコンスタンが泊まっているブルジュの邸へ行って、すぐに参るように、誰かを行かせてくれ。兄の司祭さんもいるはずだから、一緒に来るようにこっそりと伝えてくれ。二人の母親の修道女なども聞いてしまうであろうから、あまり大袈裟に言わないように注意してくれ。乳母君はこうした夜の忍び歩きを許さない人だから」などと指図をするものの、胸がつまって、女君をむなしく死なせてしまったことにたまらない思いがします。それに加えて、辺りの無気味さは例えようもない程です。

 

 

7.コンスタンの死骸処置と、ヒカルの死骸対面

 

 夜中過ぎになったのでしょう。風が少し荒々しく吹いてきて、樹木が生い茂ったあたりから、松風が荒ぶ響きが聞えてきます。聞き慣れない鳥がうつろな声で鳴いているのは、崩れかけた主塔に巣くったフクロウの一種なのでしょう。あれこれ思いをめぐらせますが、どこも彼方も人気から遠く離れていて、人声が聞えてきません。

「どうして、こんな心細い場所に宿をとってしまったのだろう」と後悔しても仕方ありません。ミモザは無我夢中でヒカルにすがり付いて、このまま震え死にをしてしまいそうな気配です。「この女までが死んでしまったら」とヒカルはうわの空で、ミモザを必死につかまえます。正気でいるのは自分独りだけだと、勇気を奮い立たせます。

 ロウソクの灯がほのかにまたたいて、寝室の仕切りに立てた屏風の上のここかしこに陰影をゆらめかせるが不安を募らせます。何かの足音がみしりみしりと床を踏みならしながら、背後から迫ってくる心地がします。「コンスタンが早く来てくれないか」と焦りがつのります。

 

 女遊び好きのコンスタンはあちこちを泊まり歩いていましたから、使い人は行方を捜し回っていました。夜が明けるまでを待つ時間の長さは、千夜を過している思いでした。ようやく、はるか彼方から、雄鶏の鳴く声が聞えてきました。

「何の由縁で、こんな命がけの憂き目を見てしまうのだろう。自分の心柄からとは言え、こうした恋ごとで、畏れ多くも義母にあたる藤壺に思いを寄せる報いに、後にも先にもない事態となる羽目に陥ってしまったのだろうか。隠そうとしたところで、実際に起きてしまったことを隠し通すことはできない。父王の耳に入ってしまうことは無論のこと、世間の人もあれこれ批判をし、口さがない子ども達の話の種にもなってしまうのだろう。その揚句に、不名誉な名を残してしまうのだ」と思案します。

 

 ようやくコンスタンが参上してきました。コンスタンは夜中、暁を問わずにいつも主君の意に従っていますが、今夜に限ってお側に仕えず、お呼びがあってもすぐに駆けつけなかったことを「憎らしい」と思いはしたものの、すぐに寝室に呼び入れました。話しを切り出そうとしても、あまりにあっけない出来事なので、中々、言葉が出てきません。ミモザはコンスタンの気配を聞いて、女君とヒカルとの最初の出会いからの事を思い出して泣いています。

 

 それまでは堪えきれないながらも、自分一人が気丈になって、ミモザを抱きかかえていたヒカルでしたが、コンスタンの顔を見ると、悲しみがこみ上がって来て、しばらくの間、激しく止め処がないほど涙を流し続けます。

 ようやく涙がとまり、少しためらいがちに「先刻、とても奇怪な事が起きてしまった。『浅ましい』という言葉では言い尽くせないほどだ。こうした火急の事には、祈祷こそ忘れてはならないと聞いている。それをしてもらい、請願も立ててもらおうと、兄さんの司祭も来られるように、と言付けたのだが」と尋ねますと、「兄は昨日、オーベルニュの山へ戻って行きました。とは言うものの、何とも奇妙な事であります。女君は前々からお加減が悪そうな様子があったのでしょうか」と尋ねます。

 

「そんな様子はなかった」と泣く様子が優雅でいたわしいので、それを見守るコンスタンまでもひどく悲しくなって、もらい泣きをしてしまいます。歳を重ね、世の中の経験を積み、様々な場面に遭遇した人こそ、こうした大事な折りには頼りになるものです。当の二人のいづれも、まだ二十歳手前の若輩でしたから、どう対応をしたらよいのか分かりません。

 

「ここの管理人に話をされるのはお勧めしません。当人は承知して秘密を守るとしても、家族の中に他人に言い漏らしてしまう者も混じっているでしょうから。とにかく、この城から出てしまいましょう」とコンスタンが言い出しました。

「とは言うが、ここより人が少ない場所がどこにあるのか」とヒカルが問います。

「確かに、左様でございます。ブルジュの館に戻ると、侍女たちが悲しみを堪えきれず、泣き騒いでしまいます。あの界隈は住人も人通りも多く、聞きとがめられてしまうと、すぐに噂が広がってしまいます。こうした場合は、山中にある教会が遺骸の取り扱いに馴れており、人目を紛らわすことができましょう」とコンスタンは思いめぐらします。

 

「そうだ。古くから知っている侍女が尼になって住んでいるソーローニュへ亡骸を移しましょう。私の父の乳母をしていた者で、年老いてから住んでおります。辺りは沼地が多く、人が少ない閑静な場所でございます」と思い立つと、すぐさま夜明け前の薄闇に紛れて、戸外に出て馬を曳きだして馬車につなぎ、寝室の近くに馬車を引き寄せました。 

 

 まだ動揺を隠せないヒカルが亡骸を抱いて馬車に載せることは無理なようでしたから、コンスタンは床の絨毯に亡骸を巻いて、馬車に載せました。遺骸はとても小柄で、うとましい所はなく、可愛げでした。亡骸をあまり強く巻かなかったので、漆黒の髪がこぼれ出ているのを目にしたヒカルは、ますます動揺して、「浅ましいほど悲しい」と思い詰めて、「土に葬るまでの有様を見たい」と思いますが、「早く馬に乗ってシュノンソーにお帰りなさい。人々が起き出して、ざわつかないうちに」とコンスタンはミモザを遺骸に添いさせるために馬車に乗せ、自分の馬をヒカルに譲ります。自らは、馬を曳きながら、ムアン城を立ち去りました。大変奇怪な、想像だにしなかった野辺送りとなってしまいましたが、主君の歎く気色が深いことを見ますと、自分のことなどは構っていられません。

 

 ヒカルは何が何だか分からないまま、悄然としてシュノンソーに帰りつきました。

「どこからお帰りになったのでしょう」、「悩ましそうに見えます」などと侍女たちが言い合いますが、寝室に入ったヒカルは内カーテンの中の閨に閉じこもります。胸を押さえるととても切なくなって「なぜ遺骸に付き添って行かなかったのだろう。万が一、生き返った時、女君はどんな心地がするだろう。『自分を見捨てて行ってしまった』と恨めしく憎むことだろう」と煩悶をしていると、胸がせき上がってくる心地がします。頭痛がして、身体も熱くなった気分がしてひどく苦しく惑い、「こうやってはかなくなって、私も空しく死んでいくのだろう」と思い詰めます。

 

 日が高くなっても、起きてきませんので、人々は不審に思って、野菜スープなどを勧めてみましたが、ヒカルは苦しくて心細く感じているうちに、王宮から勅使の一行が来ました。昨日、王さまがヒカルをお召しになったのに不在だったことから、心配されているのです。

 左大臣の息子たちもやって来ましたが、頭中将アントワンだけに「死人の穢れに触れていますので、立ち話になって申し訳ありませんが、寝室へお入り下さい」と伝えて閨とを隔てる内カーテン越しに話をします。

 

「私の乳母だった者が、この五月頃から大病を患いまして、髪を短くして戒律を受けて在俗修道女となりました。その効果が出て、一時は回復したのですが、最近またぶり返して衰弱してしまいました。『今一度だけでも見舞って欲しい』と願ってきましたので、幼い頃からお世話になった者の『いまわの願い』を聞いてやらないと、恨めしく思われだろうと考えて出掛けて行きましたが、前から病気をしていたその家の下人が私の訪問中に急死してしまいました。

 乳母の家族は恐縮してしまい、私には内緒にして夜になってから遺骸を外へ運び出した、ということを後になって聞きました。宗教的な儀式が多い時期ですから、こうした穢れに触れてしまった者は不都合であろうと考え、出仕を差し控えております。それに加えて、明け方から風邪にかかったようで、頭痛がひどく苦しいものですから、こんな形でのご挨拶となってしまいました」などと言い訳します。

 

「それでは、そのように奏上するようにしましょう。昨夜も饗宴が催された折りに、王さまは貴方をしきりにお呼びになりましたが、不在でしたので、ご機嫌ななめでした」と言って形式的に立ち去った後、すぐに私的な友人として戻って来て、「一体、どんな穢れに取り付かれてしまったのですか。今、話されたことは本当のこととは思われません」と言いますので、胸が潰れる思いがします。

「細かいことは報告されずに、ただ単に思いがけない穢れに触れてしまった旨を奏上されて下さい。

このあたりで勘弁してください」と何事もないように告げますが、心中では言う甲斐もないほどの悲しい出来事を思い出して、ますます気分が悪くなります。人と目を見合わせることもありません。

 アントワンの弟の蔵人のガストンを呼び寄せて、細々と出仕できない理由を奏上してもらうことを頼みます。義父の左大臣などにも同様に、伺うことができない旨の言付けを頼みました。

 

 日が暮れて、コンスタンが参上しました。「しかじかの穢れがあるから」と告知しましたので、来訪する人々は、皆、着席せずに、立ったまま用件を言付けるだけで去っていきますので、邸内の人影はまばらです。

 コンスタンを呼び寄せて、「どうであった。今はもはや、見込みはないか」と言いながら、袖を顔に押しあてて泣いてしまいます。コンスタンももらい泣きをしてしまい、「もう、生き返られる見込みはありません。お通夜で長いこと放置してしまうのも具合が悪く、明日は葬式に適った日でありますから、式事のことを、知己の尊い老僧によく話して頼んで参りました」と報告します。

 

「一緒に付いて行った女はどうしたか」と尋ねますと、「それなんですが、『もう生きてはいられない。私も遅れてはならない』と取り乱しまして、今朝方は沼に身を投げてしまいそうでした。『ブルジュの人たちに知らせねば』と申しますので、『もう少し、落ち着きなさい。事の事情をよく考えてみなさい』などと制しながら宥めました」と話すのを聞いていると、一層悲しみが込み上げて、「私もひどく気分が悪く、どうなってしまうのかと不安にかられている」と語ります。

 

「そこまで思いつめてしまわれるとは。何事も宿命でございます。とにかく『人に漏れないように』と思いますればこそ、このコンスタンも、すべてを処理しているのです」と申します。

「そうだね、宿命というものだ、と思い込むようにしているが、浮気心の戯れから、人をいたづらに死なせてしまった、という責任を負ってしまったことがとても辛いのだ。姉のルイーズなどにも話すではないぞ。まして乳母君は日頃からこうした事を諌めているのだから、今回の事を聞いたら、どんなに恥かしく思うことか」と口封じをします。

 

「葬式を務める聖職者たちには、すべて話をうまく変えて説明してあります」とコンスタンが伝えましたので、ヒカルは安堵しました。

 二人の会話をうっすらと聞いている侍女などは「変ですね。何事なのでしょう」、「穢れを理由にされて、王宮にも出仕されません。その上、二人でひそひそ話しをされながら嘆いておられる」と腑に落ちずに訝しがっています。

 

「葬式はぬかりなく、通常どおりに行ってくれ」と、それに適った作法を述べますが、「それはいけません。そんなにまで、事々しくすべき場合ではありません」と打ち消して、席を立とうとします。ますます悲しみが募りますので、「都合が悪いと思うであろうが、今一度、亡骸を見てみないと、どうしても納得できない。だから馬で行ってみることにする」と言い出しました。

「とんでもない事です」とコンスタンは慌てましたが、「そう思われますのも、いたし方ないことでしょう。早々に行かれて、夜が更けないうちにお戻り下さい」と思い直します。

 

 ヒカルはブルジュ通いに用意した、やつれた狩猟服に着替えてショノンソーを発ちました。心地は真っ暗闇で堪え難く、沼地が多いソーローニュの夜道に立ち入ってしまうのは危険なことは、ムアン城の経験で身に沁みていましたので、「どうしようか」と迷いもしますが、悲しみを追いやってしまう場所もなく、「ただ今のうちに遺骸を見ないでは、在りし日の姿をいつの世にまた見れるのであろう」という思いが勝ちましたので、いつも通り大夫コンスタンと随身を連れて出発しました。

 道のりが大変遠いように感じます。

 

 亡くなった翌日の夜でした。十七日目の月が射し出る中を、シェール川沿いに進んだ後、支流のソールドル(Sauldre)川に分かれてロモランタン(Romorantin)の町に入った後、前駆の松明の淡い灯に、一度入り込んでしまうと二度と戻れないと恐れられている底なし沼がある森が見えてきます。誰でも無気味に感じる場所ですが、今夜はその感性すら麻痺して、掻き乱される心地のまま、サン・ヴィアトル(Saint Viâtre)村に着きました。

 村の教会は小ぶりですが、六世紀の隠者である聖ヴィアトルを祀る巡礼地でした。辺りの物寂しさはものすごく、教会の傍らに建てられた板屋の修道女の住まいも非常に寂しそうでした。灯明の火の影がちらちらと漏れ、板屋から女が一人で泣く声がします。女が居る部屋の外の方で、僧侶が二、三人、話を交えながら、ぶつぶつと祈りを唱えています

 

 修道女の息子の尊師が貴い声で経を読むのが聞えて来ると、涙が身体からすっかり涸れつくしてしまったように感じます。板屋の中へ入りますと、灯火をあちら向きに置いて、屏風を隔ててミモザが臥せっています。「どんなに侘しいことか」と同情します。遺骸は気味悪さを感じさせず、とても可愛らしい容貌で、生きていた頃と、まだ変った様子はありません。

 夕顔の手を取って、「せめて今一度、私にお声を聞かせて下さい。どういう昔の契りがあったのでしょう。わずかな間ではありましたが、心の限りを尽くして愛しましたのに、私を打ち捨てて、こんな悲しみに会わせるとはあまりにひどい」と声を惜しまずに、際限もなく泣きじゃくります。尊師たちも「どなたか」とは分からぬままに、「何事だろう」といぶかりながらも、皆、涙を流します。

 

 ミモザに「さあ、シュノンソーへ行きましょう」と語りかけますが、「長年の間、幼い頃から片時も離れることなくお仕えした方に、突然、お別れしてしまい、どこへ帰ることができましょう。どうして、こうなってしまったのか、と人に話すことができましょうか。悲しいことは勿論のことですが、人からどう騒がれてしまうか、を思いますと辛いことです」と言いながら泣き惑い、「女君を慕って、私も土になります」とまで言い張ります。

「もっともなことだが、世の中とはこんなものなのだ。別れに悲しみがないということは存在しないのだ。先に死ぬのも、後に死ぬのも同じ命の定めなのだ。気を切り替えて、私を頼りにしなさい」とミモザを慰め励ますものの、「そういう自分の身こそ、生きていられそうもない気持ちがする」と語るのも心細い限りです。

 

「もう、明け方が近くなってまいりました。早くお帰りになりませんと」とコンスタンがせかしますので、ヒカリはしぶしぶ、後を振り返りがちに、胸が悲しみでふさがったまま、村を去りました。

 帰り道は露が非常にしげっていて、朝霧もたちこめ、どこへさ迷っていくのか、という不安がします。亡骸はムアン城の寝室の閨で打ち臥していた様子と変わりなく、あの夜、上に掛けて二人で寝入った自分の紅の衣を、そのまま着せ掛けていたことを思い出しながら、あの夕顔とどんな宿縁があったのだろう」と道すがら考えあぐねます。

 

 馬にうまく乗っていられない有様なので、コンスタンが横に添って助けるのですが、ソールドル川の土手で、とうとう馬から滑り落ちてしましました。気が遠くなって行く心地がして、「こうやって路上で行き倒れとなってしまうのだろうか。シュノンソーまでたどり着けそうもない気持ちがする」と弱音をはきますので、コンスタンは困惑して「自分がもっとしっかりしていたなら、ヒカル殿がどんなに行きたいとおっしゃっても、サン・ヴィアトルへお連れすべきではなかった」と動揺します。

 気がせいたコンスタンは川の水で手を清め、守護天使に加護を祈りながら、どうすべきであろうか、と思い惑います。ヒカルも気を強くして自らを叱咤激励して、心の中で「主」を念じます。お互いを励まし合いながら、何とかシュノンソーに帰り着きました。

 

 不可解なほど、深夜に出歩かれるのを、侍女たちは「見苦しいことです」、「この頃はいつもより、そわそわされながら、忍び歩きをされております。ことに昨日はお加減がとても悩ましそうでしたのに、どうしてお出掛けになったのでしょう」と嘆き合います。

 ヒカルは本当に寝込んでしまい、ひどく苦しがります。二、三日が経過するうちに、ひどく衰弱してしまったようです。王宮の王さまもそれを聞いて嘆かれます。病気の回復を祈る祈祷をあちこちで間断なくおさせになります。礼拝、懺悔、祈祷など言い尽くせない程です。世の中に類がないほど美男子と称えられる御方ですから、「美人薄命」と言われるように「長生きはされないのではないか」と世間の人たちまで騒ぎます。

 

 病床で苦しみながらも、ヒカルはミモザをシュノンソーに呼び寄せて、自室の近くに部屋を与えて、奉公をさせるようにしました。コンスタンは重病に至った責任を感じて動揺が続いていましたが、何とか心を落ち着かせて、頼りなさそうに戸惑うミモザを引き立てながら、奉公に慣れていくのを助けました。ヒカルは少し加減がよくなった、と感じる時は、ミモザを呼び出して用事などをさせますので、程なくしてミモザは他の侍女たちと交じっていくようになりました。非常に黒く染めた喪服を着たミモザは、顔立ちは美人ではありませんが、普通見では見苦しくない若人でした。

「不幸にして短かった契りに引っ張られて、私がこの世にいるのは長くはないだろう。お前が長い間、頼りにしていた主人を失って心細くなっているのを慰めるためにも、もし私が長らえているなら、あれこれ面倒をみようと思ってはいるが、私も程なくこの世を立ち去っていきそうなのが、口惜しいことだ」とひっそりと話されて、ヒカルは弱々しく涙を流します。女主人を失った悲しみはともかくとして、「ヒカル様までそうなってしまわれたら、とても惜しい」とミモザは思い沈んでいます。邸内の人々も平静さを失って思い惑っています。

 

 王宮からの使いは雨足よりも頻繁でした。王さまが案じ嘆かれているのを聞くと、あまりのかたじけなさに気持ちを強く引き締めます。左大臣も懸命にお世話をします。毎日、シュノンソーに見舞いに来て、様々のことをおさせになった効果が出たのでしょうか、二十日余り重態が続きましたが、余病も引き起こさずに回復する兆しが見えてきました。

 穢れを忌む三十日間も、あと一日で終る夜となりましたので、心配される王さまの御心を尊んで、王宮の宿直所に出掛けることにしました。左大臣が自分の馬車で迎えに来て、節制のことや何やかや、やかましいほど面倒をみます。

 我が身の自分ではなく、しばらくの間、別世界に生き返ったように感じました。

 

 

8.夕顔の素性判明

 

 十月十七日の頃にはすっかり回復しました。ひどく面やつれをしてしまいましたが、かえって、優美さが増しました。

 いつも、どこかを眺めるように声を出して泣いてばかりいます。その様子を見て気にかける人もいて、「何かの物の怪に憑かれてしまったのではないか」、はては「フランス王国に恨みを抱く、フランドルの白菊皇女の呪いではないか」と言い出す者もおりました。

 

 のどかな夕暮れ時、ヒカルはミモザを呼び出して、あれこれと話をしました。

「いまだに解せないことがある。どうして、あの方は自分の身分や過去を知られないようにと、隠していたのだろう。本当に『羊飼いの子』であったとしても、こちらがあれ程、思い慕っていたのに、知らぬふりをして隔てを置いていたのが辛かった」と語ります。

「そんなにまでして、隠そうとは思われておられなかったはずです。身の上を明かす機会がなかっただけでしょう。お二人の関係は初めから、不思議としか思えないような事でしたから、『現実の事とは思えない』とおっしゃって、『あなた様がお名前をあかさないのも『それなりのご身分だからでしょう』とお話しされながらも、『一時的にもて遊ばれておられるだけなのでしょう』と憂えておりました」と答えます。

 

「お互いに、つまらない隠し合いをしてしまったのだ。私はそれれほど隠しておくつもりはなかった。ただ、こうした世間が許しはしないであろう振る舞いにはあまり馴れていなかったのだ。王さまがこうした行動を諌めておられることを始めとして、慎むべき事が多くある身であるから、ちょっとでも人に戯れ言を言っただけなのに、大袈裟に取り沙汰をされてしまう、面倒な身なのだ。

 夕顔の花を折らせた、あの夕方から、妙に気になって、無理算段をして通うようになったのも、何か宿命があったからだろうことは悲しいことだ。 しかし逆に辛い思いがする。こんなに長くはなかった縁ではあったが、どうして心底から私を惹きつけてしまったのだろうか。

 今となっては、何も隠す必要はないのだから、詳しく話してくれ。七日ごとに聖人の絵を描かせて教会に奉納しても、どなたのためにと、心の内で供養したらよいのか分からないのだから」と語ります。

 

「どうして隠し事をいたしましょうか。ご本人が隠し通しておられたことを、亡くなった後から話してしまうのは口さがないこと、と考えていたにすぎません。

 ご両親は二人とも早世されてしまいました。父親は代々、アンジュー公家に仕えていた家柄の出自で、三位中将と呼ばれていました。アンジュー公家はフランス王家に併合される前までプロヴァンス地方を治めておりましたから、現地の事情に詳しいだろうと、三位中将殿はエクス・アン・プロヴァンス(Aix en Provence)に派遣され、現地の女性と結ばれて誕生しましたのが、女君でございます。父上は女君をとても可愛がっておりましたが、官位四位の高官でありながら、都落ちして格が低い行政官となった身を心もとなく思っているうちに、夫人共々、疫病で命を落とされてしまいました。そこでアンジェ郊外のブリサク(Brissac)城に嫁いでおられる父上の姉に引き取られ、エクス・アン・プロヴァンスからアンジェに上ってまいりました。

 

 数年が経った頃、まだ少将でおられた頭中将アントワン殿がふとした折りに見初められまして、アンジェ郊外にある、屋根瓦に葺くアルドワーズ石の採石場近くに家をあてがいまして、三年ばかり、お志もあつく通ってこられました。ところが昨年の秋ごろ、アントワン様の正妻のご実家である右大臣の邸から、大変恐ろしい脅しがありました。無闇に物怖じをされる御方でしたから、どうしようかと恐くなってしまい、パリに乳母の住まいがありましたので、そこへこっそりと逃げ隠れました。

 乳母の住居はタンプル(Temple)城に近いマレー地区にありましたが、ひどく見苦しい環境なので住み辛くなりまして、いざとなったらエクス・アン・プロヴァンスへ戻ろうと、ブルゴーニュ街道の基点となるモレー(Moret sur Loignに移ろうと考えました。残念ながらモレーは今年から方塞がりの方角でしたので、乳母の娘を頼ってブルジェに仮住まいをしたところ、『貴方様に見つけられてしまった』と思い嘆いておりました。世間の人と違って引っ込み思案が強く、物思いをしている様子を他人に見られるのを恥ずかしがって、さりげなさを装ってお目にかかっておりました」と語り出しましたので、「やはりな」と合点がいって、ますます不憫さが増しました。

 

「幼い児の行方を失ってしまったと頭中将が残念がっていたが、そんな児がいたのか」と尋ねますと、「さようでございます。一昨年の春に誕生されました。女の児で、とても可愛らしくて」と答えます。

「その児はどこにいるのだろう。ブルジュの人たちには知らせないで、私が引き取ることにしよう。あっけなく、はかなく亡くなってしまった方の形見として育てることができれば、この上もなく嬉しいことだ」と語ります。

 

「頭中将にも伝えたいものだが、言っても始まらない恨み言をうけてしまう。アントワンは私の義兄で従兄弟でもあるから、何と言われようが、育ててみるのを咎められることもないだろう。パリで面倒を見ている乳母などにも、うまく口実を作って連れて来てくれないか」などと、お話になります。

「そうしていただけますなら、大変嬉しいことです。まだ治安が不安定のパリの雑踏で成長されますのはお気の毒ですから。仮宿でしたブルジュは私のような若い者ばかりで、うまく扱える人がいないということで、乳母に預けていた次第です」と説明します。

 

 静かな夕暮れで、空の景色が身にしみ、前庭の花々も枯れ出して、虫の鳴き声もきれぎれになっている中に、石壁をつたう紅葉蔦が真っ赤に色づいた光景は、絵に描いたような興趣があるのを見渡して、「思いもかけずに、結構なお屋敷に奉公することになってしまった」と、ミモザはブルジュの館を思い出すと恥かしくなります。

 

 アカシア藪の中で森鳩が無愛想に鳴くのを聞くと、あのムアン城でこの鳥が鳴いていたのを、女君がひどく無気味そうに感じていた面影を、ヒカルは可愛らしく思い出します。

「歳は幾つだったのだろう。奇妙と感じるほど、並みの若い女には似ず弱々しく見えたのも、やはり長くは生きられない宿命だったのだろう」と歎息します。

「十九歳になられたはずです。私は亡くなられた女君の乳母の忘れ形見でございます。三位中将様は、母が亡くなった後も気にかけて下さいまして、女君と離さずに一緒に育ててくれました。それを思いますと、どうしてこの世に残っていられましょうか。そこまで慣れ親しんだ御方なのに、もはや会うことはできないのだ、と悔しくなります。いつも気弱そうでおられた女君を主人として頼りにしながら、長い期間を過して参りました」と話します。

 

「頼りげがなさそうなほど女は可愛いのだ、聡明だが人の意見になびかないような女性はあまり好まない。自分自身がてきぱきとしっかりした性質ではないから、ただただ柔和で、うっかりすると人に騙されてしまうようだが、そうは言ってもやはり内心は慎ましく、愛する男の心に従っていく、という女性を好んでいる。そうした女性を自分の意のままに教え込んで暮らしていくと、仲良くしていける」などと話しますと、「そのようなお好みに遠くはない御方でした、と思うにつきましても、亡くなってしまったのは口惜しい限りです」と言って泣きます。

 

 空が曇ってきて、風がひんやりしてきた戸外を淋しそうに眺めながら、

(歌)あの夕顔を 埋葬した墓の露が 天に上って 雲になったかと思うと 夕暮れの空も

   睦ましいものだ

と独り言のように口ずさみます。ミモザは返歌もできずに「こんな夕暮れに、女君も一緒におられたなら」と思うと、胸がつまってしまいます。

 ヒカルはあの夜の、やかましかった洗濯場の棒と槌の音を思い出すだけでも、あの夜が恋しくなって、「あの長かった夜、棒や槌の音が止むことはなかった」と口ずさみながら、眠りにつきました。

 

 

9.空蝉、ヒカルの病気を見舞う

 

 あのポンセの館のジュリアンは、時々、シュノンソーに参上しますが、以前のように言伝てをしませんので、空蝉は「嫌になった」と私のことを諦めてしまわれたのか、と残念に思っているうちに、ヒカルの病いを聞いて悲しい思いをしました。

 ミラノ行きが近付いてきて、さすがに心細くなっていましたので、「私のことを忘れてしまわれたのか」を試したくなって、「ご病気にお悩みになっておられることを聞きましたが、うまく言葉で表現できかねております。

(歌)こちらから お便りを差し上げないことを なぜかともお問いにもなりませんうちに

   月日が経っていきますが 私の心がどんなに思い乱れているか ご察知下さい

病に臥せっている人よりも 池のクレッソン採りに 明け暮れてしまう方が よほど生き甲斐がないものだ」という歌は本当でしょうか、と便りを送ってきました。

 

 空蝉からの珍しい便りに、愛しさがぶり返してきました。

「生き甲斐がない、とはどなたが言うべきことでしょうか。

(返歌)蝉の命は はかないものと 知ってはいましたが あなたから言葉をいただいたので

    命がつながる思いがします

浮世ははかないものです」と、病後の震える手で乱れ書きをした筆跡は美しいものでした。

 

 ヒカルが今もなお、蝉の抜け殻を忘れていないことを、空蝉は愛しくも、おかしくも感じました。こうした風に、手紙では憎からないやり取りはありましたが、空蝉はそれ以上に深入りしようとは思いませんでした。「言い寄るほどの甲斐はなかった女でもなかった、と余韻を残す程度でけじめをつけよう」というのが本音でした。

 

 もう一人の女の方は「官位五位の蔵人の少将を婿に迎えた」と聞きました。

「何とも言いようがない。男が私とのことを知ったら、どう思うだろうか」と少将の心の内を推し量ると同情がわいてくるものの、あの女の気持を知りたくなって、「死ぬほど恋焦がれている私の心をご承知でしょうか」とジュリアンを介して便りをしました。

(歌)ほのかにではありますが 軒端の荻の契りを 結んだ間柄です 露のようにはかない恨み言を 

   何の枝にかけましょうか 

 丈が長い荻に手紙をつけて「こっそりと渡しなさい」とジュリアンに言いながら、「まかり間違えて少将が見つけて『相手は私だ』と気づいたとしても、罪を許してくれるだろう」と思う御心は驕り過ぎと申せましょう。

 

 ジュリアンは少将が不在な折に、首尾よく便りを渡しました。女は便りを見て、「今さら」と思いはしたものの、こうやって思い出してくれたのがさすがに嬉しく、素早い方がよいだろう、とすぐに返信をジュリアンに渡しました。

(返歌)ほのめかしの お便りをいただき嬉しくはありますが 下荻の半分は 

    霜ですでに萎えてしまっております

 筆跡が下手なのを紛らわせようと、洒落た風に書いた仕草に品がありません。ヒカルは火影で見た女の顔を思い出しました。

「碁盤を挟んで向かい合っていた空蝉はさほどの容貌ではなかったものの、見飽きない様子だった。この女は何の嗜みもありそうでなく、若い容姿を派手に誇っていただけだった」と思い浮かべながらも、「懲りはしないが、それはそれなりに憎めない」と、またもや浮き名を立ててしまいそうな遊び心でした。

 

 

10.夕顔の五十日祭と空蝉のミラノ下り

 

 あの人の五十日祭を人目を忍んで、オルレアンに近いクレリー・サンタンダル大教会堂(Basilique Cléry Saint-André)で行いました。奉納品は手抜きをせずに、衣裳を始めとして必要な物は細部まで気配りをして、祈祷などをさせます。ミニアチュール画入りの福音書やキリスト像の飾りつけなども、おろそかにしていません。ミサを司どるコンスタンの兄の司祭は、二人といないと称されるほど尊い御方でした。

 

 ヒカルの詩文の先生で、親しく存じ上げている文章博士を召して祈願文を作らせます。故人の名前は出さず、「愛しいと思っていた人がはかない姿になった後を、天の主に委ねます」といった趣旨をしみじみと書き上げて、博士にお見せしますと、「このままで問題はありません。加筆することもございません」と博士は感心します。

 ヒカルは堪えきれずに涙をこぼして、悲しそうにしていますので、博士は「いったい亡き御方は何者なのだろう。故人に関する話は誰も聞いたことがないのに、ここまで悲しみ嘆かれられるとは宿運のよい御方だ」と語ります。

 

 ヒカルは内密に作らせて奉納したドレスの裾を引き寄せて紐で結び、

(歌)本日は 泣く泣く 追悼ミサを営んで あの世での絆の紐を結びつけてみるものの

   いつの世になったら 打ち解けて再会することができるだろう

「この頃まで漂っていると言われる魂が、天国か煉獄か、どちらの道に定まって赴くのだろう」と思いをはせつつ、福音書の教えを殊勝に唱えました。

 

 アントワンに出会うと、ひどく胸が騒いで、あの常夏の児が無事に育っている旨を教えたい気持がするものの、常夏の女を死なせてしまったことを恨まれるのを怖れて、口に出すことができません。

 

 ブルジュの館では「どこへ消えていかれたのか」と案じてブリサク城の叔母の所など、方々に尋ねはするものの、消息がつかめません。ミモザからも何の連絡もありませんので、「不可解なこと」と思い嘆いています。確かではありませんが、気配から通って来た男は「ヒカルの君」ではないかとささやきあっていたことから、コンスタンを責めてみますが、コンスタンはお門違いかのように知らぬふりをして、相も変らず出入りしていますので、皆、悪夢を見ている心地がします。

「もしかすると、どこかの県知事の遊び好きな息子が頭中将の君を恐れて、内密に父の任地へ連れていってしまったのではないか」と思い込むようになりました。

 

 ブルジュの館の主はパリの乳母の娘でした。乳母には娘が三人おりましたが、南仏育ちのミモザは赤の他人ですから、「分け隔てをして、私どもには近況を知らせてこないのでしょう」と泣きながら女君を恋しがるのでした。ミモザの方は、女君を死なせてしまったことをやかましく非難されることを懸念し、その上、ヒカルの君が「この一件は誰にも漏らさないように」とひた隠しにしますので、パリにいる幼児の様子を尋ねることもできません。双方とも、行方を分からないままにいたずらに時が経っていきます。

 

 ヒカルは「せめて夢にだけにでも、女君の面影を見てみたい」と願っていましたが、五十日祭が終った翌晩、うっすらとではありましたが、あのムアン城で女君を揺り起こそうとした美しい女が、あの時と同じように現れる夢を見ました。目を覚ましたヒカルはふいに、あの古城は桐壺王の祖父王が亡くなった場所であることに気付きました。そうなると、枕上にいた女は祖父王の寵姫であったアニエスの亡霊だったのではないか、と思い至りました。祖父王の弔いの地に見知らぬ女性を連れ込んだことに、アニエスの亡霊が激怒したのであろう、と合点がいきました。

 

 ミラノ副公使は十一月上旬にミラノに戻ることになりました。「細君も同行するから」と理由付けて、格別な餞別を贈ります。さらに、旅の無事を祈る、わざとらしい包装箱の中に、内々で特注した、きめ細かに細工をしたネックレスやブローチなど沢山の品を入れ、あの持ち帰ったショールも加えて、贈りました。

(歌)このショールは あなたに再会するまでの 形見の品と思っておりましたが 

   当分お会いできそうでなく 涙で私の袖が朽ちるまでになってしまいました 

 付けた手紙は細々と書かれていましたが、あれこれうるさく言われるでしょうから、省きます。

 

 贈答品を届けに来たヒカルの使いはすでに帰っていましたが、空蝉はジュリアンを介して、すっかりヒカルの香りが染み付いて戻ってきたショールの返歌を送りました。

(返歌)衣替えが過ぎたから 夏の薄いショールを お返しなさることは 

    私との仲が終ったことになりますので 私は泣いてしまいました

 

 ヒカルは「空蝉は不思議と言えるほど、人並みはずれた強固な意思で私を振り切ってしまったな」と思い続けます。今日は冬入りの日で、それらしく時雨る空は物寂しい風情です。ヒカルは終日、空を眺めながら物思いにふけました。

(歌)去って行った夕顔も 今日別れていく空蝉も それぞれの道を いずこへとも知らずに向っていく

   秋の暮れであることよ        

 さすがに「人知れぬ恋は苦しいもの」ということをしみじみと悟ったことでしょう。

 

 

 こうした夕顔や空蝉といった格下の女性との恋事は、ヒカル殿がごく内密にしているのを理解できますから、すべて書き出してしまうことを押さえていたのですが、「それを承知している人までが、王さまの息子だからと言って、悪いところは取り繕って、褒めてばかりいる」と、まるで作り話のように受け取る人もありますから、ありのままに書きました。作者として慎みがない、との批判は免れないことでしょう。

 

 

                著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata