その1.桐壺(きりつぼ)     (ヒカルの誕生は1489年1月)

 

6.イタリア戦争の始まりと若君の臣籍降下

 

 ブルゴーニュ・フランドル問題が一段落したフランス王は、かねてから夢想していた南イタリアのナポリ王国への遠征に着手しました。ナポリ王国はイベリア半島のアラゴン王国の王族が支配していましたが、半世紀頃前まではフランス王国の分家であるアンジュ公国の領地でした。アラゴン支配を嫌うナポリの亡命者からの要請もありましたが、ナポリ王位を取り戻して新十字軍の基地とすることが目標でした。王さまはナポリ遠征の理由付けで中世の勅許状などの古文書を用意した後、一万人を越える兵士を引き連れてリヨン(Lyon)からアルプスを越えてイタリア半島に入りました。ローマ法王の認知があったことに加えて、大軍の襲来に恐れをなしたアラゴンの支配貴族が逃亡していたことから、ほぼ無傷でナポリ国に入国することができました。この遠征が約六十年間も継続する神聖ローマ帝国との戦争の発端になるとは、誰もが予想をしませんでした。

 

 フランス軍がナポリで驚嘆したことは華やかに昇華したイタリア・ルネサンスの美術品と着飾った貴女の美しさでした。繁栄の中に腐敗臭も漂っていました。マラリアや梅毒などの疫病にかかる兵士も出現し、反フランス派の反撃も目立ってきました。さらに神聖ローマ帝国のマクシミリアン皇帝は法王を反フランスに翻意させ、ベニス共和国、ミラノ公国とスペイン王国も加わって反フランス同盟(Sainte Ligue)が結ばれましたので、王さまは長期滞在を断念し、帰国の途につきましたが、絵画、ブロンズ像、タペストリーや家具など数多くの美術工芸品や書籍を取得し、イタリアの学者、建築家、彫刻家、裁縫士、指物師や庭師などをフランスに連れ帰りました。

 

 王さまのイタリア遠征中に、若君の祖母が他界しました。老婦人は、娘を失った落胆から「娘の住む世界に尋ねて行きたい」と神に祈っておりました。老婦人は「これまで始終、お世話をしてきた若宮とお別れするのが悲しい」と返す返す呟きながら亡くなりました。若君は満五歳になっていましたので、母の死とは違い、祖母の死を知って限りない悲しみに包まれ、涙を流して恋い慕います。以来、若君は王宮で独り住まいをするようになりました。

 

 王宮に戻った王さまは、心細そうにしている若宮を見て「紫陽花王妃が自分の王子をさしおいて、若宮が坊(王太子)になるかもしれない、と気をもんでいることもあることだし、そろそろ若宮の進路を定めねばならない」と意を決しました。

 まず自らの自立を宣言して、ムーラン公夫妻の摂政を終了させました。王さまはすでに二十代半ばに達し、ナポリ遠征で名も高めましたので、姉夫婦も納得顔でムーランに戻っていきました。公夫妻が摂政をしていた間は、 王さまの弟が坊の座におりましたが、病弱だったことも理由に挙げて、紫陽花王妃の朱雀王子を坊に据えることを公約しました。王さまの本心は若宮を坊に据えることでしたが、これと言った後見人がなく、また誰もが肯定する状況でもなく、坊に据えるとかえって若宮の前途を危険にさらす事になる、と判断しました。王さまの告知を聞いて「あれほど溺愛をされても、やはり後継ぎにはできないものだ」と世間の人は語り合い、紫陽花王妃は胸をなでおろしました。

 

 若君が満六歳になって、王さまは「読み書き始め」の儀式を執り行って就学させましたが、若君の類稀なる聡明さに末恐ろしくなるほどでした。

「今では、この児を憎む者は誰もおりません。母親がいない分だけでも可愛がってあげなさい」と、紫陽花王妃の部屋を訪れる時も一緒に連れて行き、御簾の中にまで入れるようになりました。いかなる騎士や仇敵と言えども、若君を見ると自然と微笑まざるをえないほどの姿かたちでしたので、王妃も知らぬふりはできません。王妃は朱雀王子に続いて、王女をもうけておりましたが、自分の王子や王女とは比較できないほどであることを認めざるをえません。貴婦人や女官たちも若君を避ける者はおりません。すでになまめかしく様子ありげな若君を可愛くて、気が許せる遊び相手にしたいと誰も彼もが思っています。正規の学問だけでなく、音楽の才もあり、ハープやヴィオラ(Viole。バイオリンと同種)、笛の稽古をすると、雲を揺るがすほどの音色を奏でます。一つ一つ挙げていくと嘘っぽく感じるほど、才能に恵まれた御方です。

 

 その頃、来朝したオスマン・トルコの訪問団の中に、上手な人相見がいることを聞いた王さまは、イスラム人を王宮に呼ぶとローマ法王庁からお咎めがある懸念もありましたので、若君をごく内密に迎賓館に遣りました。後見人として付き添わせた太政官四位の右大弁の息子と称させて、対面させました。若君を見た人相見は驚いた様子で、しきりに頭をかしげていぶかります。

「国の親となって、上がない帝王の位に上る相をお持ちです。でも、そうなると世が乱れ憂うことになる恐れがあります。王朝の柱石となって帝王を補佐する人物と見立てても、どうも相が違うようです」と見立てます。

 

 右大弁は、学才豊かな博士でラテン語も堪能でした。人相見もラテン語を解しましたので、二人がラテン語でかわした筆談には、大層興味深いものもありました。詩を作りあったりもしましたが、人相見が今日、明日にでも帰国の途につこうか、という時に臨んで「類稀な相を持つ少年に対面できたことは悦びであると同時に、別れが悲しい」といった心情を巧みに詩に詠じました。若宮がそれに対する情緒深い詩を返しますと、人相見は限りなく愛であげ、イズミール(Izmir)製の陶器皿など大層な贈り物を捧げました。王宮からもこの人相見に多くの品々を賜わりました。王さまはそのことを外には漏らしませんでしたが、噂は自然と世に拡がり、朱雀皇太子の後見役として右大臣となったジアン公爵などは「王さまは何か魂胆をお持ちなのか」と疑います。

 

 王さまは思慮深く、すでにフランス人の人相見にも若君を見させ、その結果も考慮に入れて、正式な親王に任じないままでいました。オスマン・トルコの人相見が同じような見立てをしたことに「あの相人は確かに賢者であった」と感心します。「後見役となる外戚もいずに、四品(しほん)以下の無品親王にさせてしまうと心細い。私の治世もいつ終るか定かではない。臣下の身分にさせて、王朝の後見役にさせた方が将来に希望を持てるだろう」と思い定め、ますます諸処の道を学ばせます。若君の賢さは際立っており、常人にさせてしまうのは惜しい気もするのですが、親王にしてしまうと、自分の後継ぎにさせるのではないかと、世間の疑いを受けてしまいそうな形勢でもあります。占星術に詳しい者に考えさせても、同じような答申をしますので、「源氏姓」を与えて臣籍に降下させることを決めました。

 

 

7.藤壺の王宮入り

 

 桐壺愛后が亡くなって六年の歳月を経ても、桐壺愛后を忘れることができません。「少しは慰めになったら」と相応の方々を召されても、「故人になぞらえることができる女性は、中々いないものだ」と失望を味わうだけです。そうしたうち、父王の弟親王の四番目の女子の顔立ちが優れている、という評判をお聞きになりました。母君がまたとないほど大切に育てていましたが、王さまに仕えている女官長セシルは父王の時代から王宮勤めをしており、弟親王の御殿にも親しく出入りをしておりましたので、四の宮を幼少の頃から見知っており、今でもほのかにお顔を拝見することがありました。

 

「永年、王宮勤めをいたしておりますが、亡き御方のご容貌に似た女性を見かけたことはございません。ところが四の宮だけは、ご成長なさるにつれ、亡き御方の生き写しのようになりました。ご容貌も優れております」と奏しましたので、「それは本当であろうか」と心にとまって、四の宮の詳細について調べていきました。

 

 四の宮の母はイングランドからフランスに亡命してきた女性でした。四の宮の祖母は、フランス王家からイングランド王家に嫁いだキャサリン王妃の晩年に侍女を務めておりました。キャサリン王妃はヘンリー五世が三十五歳の若さで崩御した後、ひそかにオーウェン・チューダーと結ばれ、エドマンドとジョスパーの息子二人を産みました。二人の異父同腹の兄にあたるヘンリー六世も二人を王族の一員として認定しました。キャサリン王妃の侍女をしていた祖母は、王妃が他界した後はエドマンドとジョスパー兄弟の世話係りを務めていました。エドマンドよりも十歳ほど年長でしたが、エドマンドが成人した後、 エドマンドの愛人となり庶子の女児を出産しました。ヘンリー六世が王位を簒奪され、バラ戦争が始まった年に、エドマンドはわずか十二歳のマーガレット・ボウフォートと結婚しましたが、翌年、敵の白バラ派に捕らえられ、獄死してしまいました。半年後、マーガレットは後にチューダー朝の初代王となる男児を出産しました。赤バラ対白バラの抗争が激化する中で、娘の命を案じた四の宮の祖母はノルマンディーの知人貴族を頼って娘をフランスに亡命させました。

 

 成長した娘は王さまの父王の弟親王の再婚相手として見初められ、兵部卿と、弟親王にとっては第四番目の娘にあたる四の宮の一男一女を産みました。マーガレット・ボウフォートは愛息が十四歳になった時、ブルターニュ公国に亡命させます。愛息は十四年間、公国で亡命生活を送るようになりましたが、マーガレットの懇願で娘は異腹の弟を陰から支援し続けました。十四年後、愛息は故国に戻り、白バラ派を破ってヘンリー七世としてチューダー朝を開きましたが、マーガレット・ボウフォートは娘に対する恩義を忘れませんでした。

 ヘンリー七世の即位後、フランスとブルターニュ公国の間で道化戦争が始まりましたが、娘はマーガレット・ボウフォート母子と連絡を取り合って、イギリスに中立を保たせる役割を果たしたことから、摂政のムーラン公夫妻から厚い信任を得ていました。

 

 王さまは、四の宮の母君に王宮入りを懇切に申し入れました。しかし幼い頃から、政争の恐さを身を持って体験してきた母后は「そんな恐ろしいことを。坊(王太子)の母でおられる紫陽花王妃は性格がひどくきつい御方と聞いているし、桐壺愛后も王宮の女性たちからひどくいじめられて横死をされてしまったし」と王さまの申し入れをやんわりと拒みました。

 

 四の宮の王宮入りは宙に浮いたままになりましたが、そのうち、母君が亡くなりました。一人になって心細そうにしている様子を聞き知った王さまは「私の子女と同列と思って、王宮に上って来たら」とねんごろに王宮入りを勧めました。お付きの侍女や後見人に加えて、兄の兵部卿も「心細く寂しい思いで暮すより、王宮住みをするなら、心も慰むだろう」と相談しあって、四の宮を王宮に上げることを決めました。

 

 王さまは顔も姿もあやしく思うほど、桐壺愛后に似ていることに驚き、喜びました。早速、藤の間(壺)をあてがいましたので、「藤壺の宮」と呼ばれるようになりました。藤壺は十五歳でした。桐壺愛后と違って、王族に属す身分の高い御方ですから、周囲の者は一目を置き、貶めようとする者はおりませんので、十二分な厚遇をほどこしました。桐壺愛后は身分の高い貴婦人と人が認知しなかったにも関わらず、王さまの御寵愛が深すぎたのでした。愛后を失った悲しみを忘れ去ることはありませんでしたが、いつとはなしに情愛が藤壺に移って、こよなく慰められていったのは世の常というものです。母がイギリス国王の異腹の姉にあたり、神聖ローマ帝国との関係が悪化していく渦中で、イギリス王国との友好関係を保つために藤壺の存在が役立つと、王宮の家臣たちも藤壺を準王妃格の貴婦人として遇することに異論はありませんでした。

 

 唯一、納得がいかなかったのは、王族の強力なライバルの出現を危惧する紫陽花王妃でした。藤壺の母はイングランド現王の不遇時代を支えた女性として高い評判を得ましたが、「ヘンリー七世のブルターニュ公国への亡命を容認し、苦境を救った直近の人物は他ならぬ私の父公ではないですか。その娘がいけしゃあしゃあと、私の対抗馬のように王宮に入ってきたとは何事ですか」と後見役のジアン公夫妻の支援を得て、王子と王女を連れてブロワ城に移り住んでしまいました。

 

 若君は終始、王さまのお側を離れませんので、王さまがしげしげとお通いになる藤壺の御方も、恥らってばかりもいられません。王さまが愛される婦人たちはいずれも「人には劣ってはいない」と自負し、それぞれ確かにお綺麗ですが、年齢が高くなっていました。まだ乙女のようでもある若い美女は、なるべく若君から隠れるようにするのですが、若君はごく自然に隙見をすることができました。亡き母の面影は憶えていませんが、「母上とそっくりでございます」と女官長セシルが申すものですから、子供心にも「愛しい女性」と思い慕い、「いつも藤の間に伺って、親しくさせて欲しい」と願っておりました。

 

 王さまも、桐壺后と藤壺の君は二人とも最愛の女性でしたので、「この児によそよそしくはしないで下さい。この児の母と貴女とは怪しいほどそっくりな心地がします。不躾な児と思わずに、可愛がってあげなさい。この児の顔つきや眼つきが母親とそっくりですから、貴女とこの児を母と子と見ても不似合いではありません」などと話しますので、幼心地でも花や紅葉蔦の美しい枝を差し上げて、親愛の情を示します。そうした話を聞くと、紫陽花王妃は藤壺への嫉妬心に加えて、藤壺に好意を示す若君をも憎々しく思うようになりました。

 

「世に類がないほどの美しさ」と王さまが見惚れ、一般にも評判が高い藤壺の容貌に対して、若君のあでやかさはより一層、たとえようがないほど美しいことから、世の人は若君を「光る(ヒカル)君」と呼ぶようになりました。王さまの御寵愛は若君と藤壺に両並びとなっていましたから、対をなして藤壺は「輝く日の宮」と呼ばれるようになりました。

 

 

8.ヒカルの成人式と葵君との結婚、藤壺への思慕

 

 王さまは若君をできるだけ長く童子のままに置いておきたかったのですが、第二次イタリア遠征でミラノ共和国を占領した後、再びイタリアに第三次の遠征をすべき事態になりましたので、出発前に若君の成人式を行うことにしました。若君は満十一歳で、成人式を挙げるのは早すぎる年齢ではありましたが、戦死はないとしても万が一のことを配慮して、出陣する前に若君の方向をはっきりさせておきたかったからです。

 

 王さまは自ら陣頭指揮をとって、式を執り行いました。前年に朱雀王子の坊(王太子)就任式が謁見の間で行われたましたが、その派手やかさに劣らないように命じます。式後に階級別に官人に授ける饗宴も、 通常は内蔵寮や穀倉院などが公事として担当しますが「それでは不十分である」と仰せられて、華麗を極めたものにさせました。

 

 王室の東の控えの間に東向きに王さまの玉座を配置して、その前に冠者(成人の証しの冠を授かる者)の席、加冠役(冠をかぶせる者)の大臣の席を設けました。午後四時に若君が席につきます。長髪を二つに分けた容貌と少年の美を変えてしまうのは、惜しい気がします。大蔵卿理髪役を務めます。清らかな栗毛色の髪を切るのを大蔵卿が惜しそうにしているのを見て、「桐壺愛后がこの光景を見るならば」と王さまは思い浮かべて、耐え難くなる心地をじっと我慢しています。

 

 加冠の儀が終わり、休憩所に下がって着替えをした後、家臣の「源氏姓」となったヒカルは階段を降りて庭上で拝舞の礼をしますと、その様子に参列した誰もが涙を落とします。まして王さまは、抑え難い気持ちに包まれます。藤壺の宮が王宮に上ってからは紛れ忘れていた昔がよみがえって、悲しみが込み上がってきます。「成人式を挙げるにはまだ早い年代で成人の姿にさせると、違和感が出てしまうのはないか」と懸念していましたが、あきれる程に美しさを増していました。

 

 加冠役を担った左大臣の正室は王さまの次姉にあたる王族で、一人娘がおりました。紫陽花王妃から「いずれは朱雀王太子の后に」との要望がありましたが、左大臣が返事を躊躇しているのは「若君を自分の婿に迎えたい」という意向があったからです。その旨を王さまに伝えますと、「それなら若君が成人式を上げた後の世話役として添い寝をさせる、という形にしてみたら」とのお答えでしたので、大臣もそのつもりでおりました。

 

 侍所(さむらいどころ)で開かれた祝宴で、ヒカルは親王方の末席に着席しました。大臣は娘の添臥の件をそっと匂わしてみましたが、まだ幼さが残っている年頃ですから、ヒカルは返答がしづらい様子です。

 女官長が王さまの宣旨を受けて、大臣を呼びに来ましたので、大臣は王室に参ります。王さまはお付きを介して御禄の物を賜わりました。慣例となっている純白のコートと長衣・ヴェスト(上着)の一揃いでした。

 

 酒盃を賜わる際に仰せがありました。

(歌そちは加冠役として 若君に初元結を結んだが 同時に そちの娘との契りが

   末長くなる願いもこめて結んだのか

 王さまがいきなり若君と一人娘の婚姻に触れたことに大臣は驚きました。

(返歌)お察しどおり 濃い紫色の元結を 娘との縁を深く念じながら 結びましたが 

     男の愛情と言える紫の色が褪せていかねば と存じます

 

 返歌を奏上した大臣は、長い階段から降りて、拝舞の礼をします。王さまは、 主馬寮の名馬と狩猟所の鷹を賜わりました。長階の下に親王たちや高官が連なり、官位に応じて禄の品々を賜わりました。その日の御前に用意された折箱物や籠物などは、オスマン・トルコの人相見に見たてをさせた際に父親役を務めた右大弁が承って手配したものでした。祝いのパン・菓子や祝儀物が詰まったイタリア製の櫃(ひつ)などが所狭しに置かれ、皇太子の就任式よりも数が多くありました。中々、盛大な儀式となりました。

 

 その夜、大臣はアンジェの城に源氏の君をお連れしました。婚姻の作法など、世に珍しいほど丁重にして入り婿を迎えました。ヒカルがまだ子供らしくしていますのを「まことに可愛らしい」と微笑みます。女君はヒカルより四歳年上でしたので、まだ子供っぽいヒカルを見て「不似合いで恥かしい」との思いでした。王さまの次姉を母に持つ女君の名は「葵(あおい)」と申しますが、幼い頃から、母と同じ王族の者に嫁入りし、うまくいけば王妃の座を、と夢見ておりました。「それなのに父上が勝手に王族から降下した男子と縁組させてしまった。同じ年下なら、坊(王太子)の方がよかったのに」と気落ちしていました。

 

 左大臣は王さまの覚えがよく、正室は王さまと同腹の姉でしたから、どこから見ても華やかな一家でした。その上に王さまの秘蔵っ子まで婿に迎え入れましたので、王太子の後見役である右大臣ジアン公の勢いはものの数ではなく、気押ししてしまいました。幾人かの愛妾を抱え、多くの息子をもうけています。正室が生んだ息子は蔵人少将アントワン一人でしたが、若く美しい貴公子でしたので右大臣は見逃さず、左右の大臣の仲はよくなかったものの、可愛がっている四番目の娘の婿にしていました。左大臣がヒカルを大切がるのに劣らず、右大臣もアントワンに大事にかしずいていますが、両家の間柄もそうなって欲しいものです。

 源氏の君は王さまが常にお召しになり、イタリア遠征中も後事を託していたこともあって、ゆっくりとアンジェ城に下る行く暇がありません。心中にあるのは藤壺だけでした。葵の君より一歳だけ年上の藤壺の有様を類なき女(ひと)と思い詰め、「あのような御方こそ妻にしたい。あの御方に似た女性は一人としていないだろう。左大臣の君は大事に育てられた貴女であることには頷くが、心が通い合わない気がする」と感じて、少年のひたむきさで苦しくなるほど、藤壺に思いをはせています。

 

 

9.シュノンソー邸の改築   

  

 成人式をあげ、大人と見なされるようになった後は、王さまは藤壺の部屋を訪れても、ヒカルを内カーテンの中には入れません。管弦の宴の折々、ハープや笛の音に耳を澄ませ、藤壺の声がほのかに聞えてくるのを慰みにしながら、好んで王宮住みを続けます。

 

 王宮に五、六日伺候し、アンジェの左大臣邸には二、三日滞在するだけ、という途絶えがちな通い方をするのですが、「まだ少年の年頃だから、罪もないこと」と大目に見て、左大臣は相も変わらず大切にお扱いになります。ヒカルに仕える侍女たちも、並々ならない女性たちを選りすぐっています。ヒカルが里に下って来ると、気に入るような催し事をしたり、精一杯のもてなしをします。

 

 王宮では亡き母の桐壺の間をあてがわれ、亡き母に仕えていた女性達を散らさずに、使っています。

 シュノンソーの山荘は、修理部と建設寮に王令が下って、二つとないほど立派に改築されます。王さまがイタリアから招いた建築家、彫刻家や庭師も加わり、館が増築されたり、シェール川に面した植え込みや築山に元々風情があったところに、川から水を引く池を広くしたり、彫像を配置したりして、斬新なルネサンス様式の装いとなりました。

「このような所に、心に叶う人を据えて一緒に暮らしてみたいものだ」とヒカルは嘆息します。

 

 『光る君』という名は迎賓館に滞在したオスマン・トルコの人相見が、源氏の君を褒め称えて献じた名と伝えられています。王さまは桐壺愛后にちなんで「桐壺王」と呼ばれるようになりました。

 

 

 

          著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata