その4総角(あげまき)          カオル 二十二歳

 

5.メアリー・チューダー女王の崩御とエリザベス一世の即位後、ニオイ宮の山荘訪問が困難に。

 

 重病が伝えられていたイングランド王国のメアリー・チューダー女王が十一月十七日に崩御し、虹バラの落とし子であるエリザベス一世が新しい女王に即位しました。カトリックの女王からプロテスタントの女王への移行は、国内やメアリー女王の夫君であったフェリペ二世国王が治めるスペイン王国のみならず、周辺国に与える影響ははかりしれないものがありました。カトリックとプロテスタントの共存政策をとっているフランス王国も例外ではなく、ルーブル宮殿も右往左往する状態になりました。カトリック派もプロテスタント派も疑心暗鬼の状況下で、ニオイ卿は軽々しい行動は出来ずにいました。

カオルは「ニオイ卿はさぞかしコンフラン行きを待ち遠しく思っていることだろう」と思いやり、自分が仲介役を果たしただけに心苦しく、絶えずニオイ卿を訪ねて注意を怠らないでいましたが、ニオイ卿がマドレーヌにひどく思い入れしている様子なので、安心していました。

 

 十一月も末近くになって、ニオイ卿はコンフランへ向かう野山の様子を思いやっていました。時雨模様の空が暗くなって、恐ろしげな一群のむら雲が空を行き交う夕暮れ時になって行く戸外をそわそわと眺めながら、「どうしようか」とコンフラン行きを迷っていると、そんな気持ちを察してか、カオルが訪ねて来ました。「あの山里の姉妹はどうしているでしょうか」と水を差し向けると、「大変嬉しいことを言ってくれるね」とニオイ卿が喜んで、「それでは一緒に行くことにしよう」となって、例のお忍び用の馬車に二人は乗り込みました。

 コンフランに進む丘陵を分け入りながら、ニオイ卿はましてや待ち侘びているマドレーヌの心中を察していて、道中はこうした心苦しさをずっとカオルに話していました。黄昏時のうら悲しい心細さに添えるように、雨が冷ややかに馬車にうち注ぎます。暮れ行く秋の物寂しさの中で、しっとりと濡れ湿った二人の衣服が放つ芳香は、この世にはないなまめかしさなので、二人がうち揃って馬車に乗っているのを、里人たちはどんなに戸惑ったことでしょう。

 

 日頃はぶつぶつ愚痴をこぼしている山荘の侍女たちも、そうした名残りも見せず、にこにこしながら迎える座を用意しました。老いた侍女たちの中で、パリのしかるべき所に散らばっている娘や姪の二、三人が山荘に呼ばれていましたが、それまでこんな山荘を侮っていた思慮が浅い女性たちも、高貴な客人の来訪に驚いていました。ジュヌヴィエーブも折りが折りだけに、ニオイ卿の訪れを嬉しく思ったものの、賢そうにしているカオルが一緒に来たのが恥ずかしくもあり、煩わしい思いもしました。それでもカオルはゆったりと思慮深そうにしているので、「なるほどニオイ卿はこんな風な振る舞いはしていない」と二人を見較べて、「カオル様はめったにいない存在なのだ」と実感しました。

 姉はニオイ卿を妹の婿としてとても丁重にもてなし、カオルに対しては主人側の人として気安い応対をするものの、まだまだ仮りに設けられた客室に案内されたので、「ひどい対応をするものだ」とカオルはこぼしていました。カオルが恨んでいるのをさすがに気の毒になった姉は、内カーテン越しに対面しました。カオルは(歌)恋人に逢わずにいられるだろうかと 自分の心を試しつつ 逢えないとなると 冗談事も出来ないほど恋しくなってしまう といった歌を思い浮かべながら、「こんな状態のままでは」としきりに恨みました。

 

 姉は段々とカオルの情熱を理解するようになっていましたが、妹とニオイ卿との縁組の件で、何かと物思いに沈んでしまうことが多いので、ますます「恋愛というものは厭わしいものだ」と思い込んでいました。「やはり、これ以上の打ち解けた接近はしないでおこう。慕わしい思いをするようになっているカオル様の心境も、結婚した後は必ず『辛いことだ』と思わせる行動をするに違いない。私も相手も友情を保ち続けながら、仲違いをしないままでいよう」との思いを一層深くしました。

 妹に対するニオイ卿の様子を尋ねてみると、「それもそうだろう」とカオルが想像していたように最近の様子をそれとなく漏らすので、気の毒になったカオルはニオイ卿のマドレーヌへの思いの様子や素振りを見守り続けていることを説明しました。姉はいつもより機嫌をよくしたのか、「まあ、このところの心配事がなくなって、もう少し気分が静まってから、ゆっくりお話をしましょう」と返答しました。

 

 内カーテンの前は、そうそっけなく、よそよそしくはしていないものの、衝立で堅く閉ざしていました。強引に衝立を突破してしまうと、「辛く悲しい思いをさせてしまうだろう」と感じて、「何かしら考えていることがあるのだろう。軽々しく他人に靡いてしまうことはまさかあるまい」と穏やかな性格のカオルは、そうと思いながらも不安な胸の内を落ち着かせていました。

「ただこうやって、はっきりともしない物隔てをされているのは気が晴れません。先夜のように間近に話したいものです」と責め立てますが、「いつもより、(歌)夢の中ですら 貴方に逢おうとは思いません 毎朝毎朝 鏡に映る自分のやつれた姿が 恥かしいと感じている身ですから といった歌のようになっていますので、私を間近にご覧になると、不愉快な思いをされるのではないかと気になっているからですよ」とほのかに微笑む気配などに、不思議と親しみを感じさせました。「そんな気持ちに引きずられてしまうと、終いには私の身はどうなってしまうのだろう」と歎きがちでいるまま、いつものようにオスとメスが峰を隔てて別々に寝る山鳥のような気持で夜が明けて行きました。

 

 ニオイ卿の方は、カオルが客人扱いをされて独り寝をしているとは思いも寄らず、「この邸の主人ぶってくつろいでいるのが羨ましい」と話すので、マドレーヌは「おかしなことおっしゃる」と聞いていました。 

無理を押してやって来たニオイ卿は長居をせずに帰って行くのが物足らず、辛い思いでいました。そんなニオイ卿の心中を知らずに、姉妹は「これからどうなって行くのだろうか。世間の物笑いになってしまうのではないか」と思い嘆いているので、ニオイ卿は「本当に気が揉めて苦しい」と見えます。と言ったところで、マドレーヌをパリに移してかくまっておく場所もさすがに見当たりません。

 モンモランシーに住む夕霧左大臣は落葉上の養女の六女フローラとニオイ卿との縁組をあれほどにまで望んでいるのに、ニオイ卿がフローラに無関心なので、「何とも恨めしいことだ」と思っているようです。ニオイ卿の浮気っぽい有様を容赦なく非難して、王宮でも不満を漏らすこともあるので、ますます意外な女性を連れ出して正夫人に据えるのは、憚らざるをえない点が多くありました。軽めの愛人と考える女性の場合なら、王宮仕えの体裁にしておけば気楽なのですが、マドレーヌはそうした並の女性には思えません。

「万が一、時勢が移り変わり王様や王妃が考えているように王太子の身になったなら、マドレーヌを誰よりも高い地位に据えたいものだ」と考えているものの、目下のところは心に描いているような花やかにもてなす方法もなく、困り果てていました。

 

 カオルは「ランブイエ城の改築工事が終わったら、しかるべき準備をしてジュヌヴィエーブを迎えよう」と考えていました。「それにしても、王族ではない臣下の身は気楽なものだ。王族の一員であるニオイ卿がこれほど心苦しい思いをしながら、出逢うのが容易ではないことを双方が思い悩んでいるのを見るのは忍び難いことだ。ニオイ卿が忍び通いをしている事情を王妃などに漏らして、一時的にでも世間から騒がれてしまうと、ニオイ卿にとっては面倒なことになるものの、姉妹が非難されることもない。二人がこれほどまで、ゆっくりと夜を明かしきれないのは苦しいことに違いない。何とかうまく計らって二人の仲が認められるようになったら」と考えるので、強いて隠そうともしないでいました。

「姉妹の冬用の衣替えなども誰がきちんと世話をするのだろうか」とカオルは気を使って、冬向けの内カーテンの垂れ布や仕切りなど、ランブイエ城の改築後にジュヌヴィエーブが移って来る時の部屋飾りに準備させていたものを、「差しあたって必要なものを」とそれとなく伝えて贈りました。それに加えて乳母などに言いつけて、侍女たちの色々な衣装の仕立てもさせました。

 

「メアリー女王の崩御とエリザベス一世の女王即位をめぐるルーブル宮での動揺も一息ついた」と感じたカオルは、十二月に入ってから「コンフラン辺りの柴などを立ち並べて小魚を追い込む網代漁も面白くなっていることでしょう」とニオイ卿に声を掛けて、秋の終わりの見学と称した船での遊覧に誘いました。「王宮人の中でも親しくしている者だけに限って、ごく内密に」と思ったものの、王子としての威勢もあるので自然と話が広がり、監視役としてなのか、夕霧の四男で官位四位の宰相中将フレデリクも同伴することになりました。上級役人はカオル中納言だけでしたが、お供の数は多くなりました。

 カオルはコンフランの姉妹に「言うまでもなく、そちらで休憩をするようになるので、用意をしておいて下さい。昨年の春も花見で訪れたことがありますが、こうした機会にかこつけて、時雨を避けるようにして立ち寄ることになるかもしれないので」などと細やかに知らせました。姉妹の山荘ではカーテンを掛け替え、あちらこちらを掃除したり、庭の岩陰に積った紅葉の朽ち葉を少し取り除け、池の水草を払わせたりしました。カオルからは立派な果物・肴や手伝いの人たちを送って来ました。ここまで世話になってしまうのは気詰まりでもあるので、「どうしたら良いものか。これもご縁があるからだろう」と姉は受け入れて、訪れを待ち受けることにしました。

 

 一行は船に乗って、セーヌ川や支流のオワーズ川を上り下りしながら、楽しそうに興じています。その光景がちらほらと見えるので、若い侍女たちは川岸の方に出て見物しています。当のニオイ卿の姿は見分けられませんが、紅葉を葺いた船の飾りが錦のように見え、思い思いに吹き立てる笛の音色が風に乗って、物凄く思えるほど響いて来ました。お供の人々が大事そうにかしずいている様子は、こうしたお忍びの遊びでも格別に盛んなのを見るにつけても、「なるほど年に一度、銀河を挟んで逢瀬をする、こと座のベガ(織姫)がわし座のアルタイル(彦星)の光りを待ち受けている」かのように、姉妹たちには思えました。

 一行はラテン語で詩を競作する心積もりで、詩の師匠なども連れて来ていました。黄昏時に船を川岸に寄せて奏楽で遊びながら詩作会を始めました。薄いのや濃い紅葉の枝をかざしながら、流行り歌「舟遊覧の楽」を吹いて、誰もが満足している様子を見ながら、ニオイ卿は(歌)どうやったら レマン湖に寄り添いながら 人目に全くつかないように出来るだろう といった気分になって、(歌)銀河の対岸にいる恋人は 薄情だと どんなに歎いていることか といったように上の空でいました。時期に適った題が出されて、皆は口をすぼめて詩を誦し合っていました。

 

「皆の騒ぎが少し静まってから、二人で姉妹の山荘に向かおう」とカオルは考えて、その旨をニオイ卿に耳打ちしていると、サン・ブリュー王妃の指示で、夕霧の長男でフレデリクの兄の官位四位の衛門府の督アンドレが随身を大袈裟に引き連れて、正装のいで立ちでやって来ました。こうしたニオイ卿の外出は内密にしていましたが、自然と噂が広がっていました。重い地位にいる高官が多くもいずに、急に出掛けてしまったのを王妃が聞いて驚き、イングランドとスペインとの関係が緊張している時期も時期なので、王宮人を付けて迎えに寄越したわけですが、カオルとニオイ卿にとっては具合が悪いことでした。二人とも苦々しい思いになって、興覚めしてしまいました。そうした二人の心中も知らずに、お供の人々は酔い乱れて夜を遊び明かしました。

「今日こそはマドレーヌに逢わなければ」とニオイ卿は思っていましたが、王妃付きの長官やその他の王宮人が大勢やって来て、帰宅を促すので、ニオイ卿はそわそわ落ち着かず口惜しくて、パリに戻る気もしません。仕方なくマドレーヌに手紙を送りました。別段、興味深い内容ではなく、ごく生真面目に思いのままを細々と書き続けましたが、「人目が多く、何かと騒がしいことだろう」と思ったのか、マドレーヌからの返信はありません。

「自分のような数にも入らない身で、パリの貴い方々と交じり合うのは無意味なことだ」と改めて思い知っていました。パリとは隔てがある場所にいるので、訪れが不確実なことももっともであると慰めることは出来るものの、「これほど近い所で大騒ぎしながら、冷淡にも立ち去って行くのは辛く口惜しいことだ」と姉妹は思い乱れていました。ましてやニオイ卿は「気が晴れないし、やるせない」といたたまれない思いでいました。

 

 網代漁をしている者もニオイ卿に心を寄せているのか、コンフランの港で色とりどりの木の葉の上に小魚をかき混ぜてもてあそんでいるのを、下級の者たちはとても面白がっていたり、人それぞれに遊山を楽しんでいますが、ニオイ卿だけは胸が塞がって空ばかりを眺めています。姉妹の古びた山荘の木々の梢が一際美しく、常緑樹に這いかかっている蔦の色などが趣深く、遠目でも物寂しく見えます。

「前もって訪れを知らせてしまい、かえって辛い思いをさせるようになってしまった」とカオルは反省していました。去年の春、コンフランにお供をして来た者たちは桜の景色を思い出して、父卿に先立たれてしまった後もここに暮らしている姉妹の心細さを話題にしていました。その中には「ニオイ卿が忍び通いをされている」と薄々知っている者もいたことでしょう。そんな事情を知らない者も混じって、大方の者は何だかんだと、このような場所に住んでいる姉妹についての噂は自然と耳にしていたので、「えらく綺麗なようだ」「スピネットが上手だそうだ」「亡くなった卿が明け暮れ指導されておられたからね」などと口々に話していました。

 

(歌)いつのことだったか 花が盛りの折りに 一目見た あの山荘の桜の木も 秋の末となると 

   さぞかし寂しいことだろう

と宰相中将フレデリクが、カオルを主人側の人と思って詠んだので、カオルが応答して詠みました。

(歌)春に咲き匂う桜も 秋の紅葉も すぐに散ってしまい 世の中の無常を思い起こさせる

 続いて衛門府の督アンドレが詠みました。

(歌)山里の紅葉の蔭は 風情があって立ち去りにくいが どこから秋が去って行ってしまったのだろう

(歌)かってお見かけした卿も 亡くなってしまったが この山里の石垣に 気長にツタが這っている

と詠んだ王妃付きの長官は、皆の中で最も老いていて、第八卿の若い頃を思い出していました。

(歌)秋が終って寂しさが増していく木の下を あまり激しく吹き過ぎるな 峰の松風よ

とニオイ卿は詠んで、ひどく涙ぐんでいましたが、うすうす事情を知っている者の中には「なるほどマドレーヌ様を深く愛されているのだ。今回の機会を逃してしまって、さぞかし辛いことだろう」と見ている人もいました。しかし仰々しくお供を従えて姉妹の邸に立ち寄るわけにはいきません。

 皆は昨日詠んだラテン語の歌の興味深い部分を誦したり、状況に合わせた俗っぽいフランス語の歌も多くありましたが、そうした酔いに紛れて詠まれたものなので、良作などはなく、一部分でも書き留めておく必要はありません。

 

 姉妹の邸では遠ざかって行く船の声々が遠くになるまで聞えて来るのを、言いようもない思いで聞いていました。二人の訪れを待ち望んでいた侍女たちも「まことに残念なこと」と思っていました。ましてジュヌヴィエーブは「やはり噂に聞いているように、(歌)調子が良いのは言葉だけだ つゆ草の汁で染めた色はさめやすいように 表面と本心は全く違っているものだ といった気持ちでいたのだ。それとなく人が話すのを聞いたところでは、男というものは嘘をよくつくそうだ。『愛してもいない女性に愛している顔をしてとりなす言葉が多いものだ、といった話が昔の物語にある』とこの邸にいる取るに足らない侍女たちが話している。

確かに身分が低い者の中には、そういったけしからぬ料簡を持つ者も混じっていることだろうが、何事においても高貴な身分の人となれば世間の評判を気にかけて、慎ましく軽々しい振る舞いなどはしないものだ、と考えていたのは思い違いだったのだ。亡き父卿もニオイ卿は浮気性のように聞いていたので、こうしたように婿に迎えようとは思いも寄らなかった。しかしカオル様が不思議なほど熱心に話された上に、はからずも妹との縁が出来てしまったことから、苦労の種が増えてしまったのは味気ないことだ。

 ニオイ卿のこうした期待外れの浅はかさを、一体カオル様はどう思っているのだろうか。この邸には特に留意すべき者などは混じっていないが、侍女たちは各々、人に嘲笑されてしまう、みっともない羽目になってしまったと思っていることだろう」と煩悶していると、気分が悪くなって悩ましい思いになりました。 

 

 当のマドレーヌは、たまさかでもニオイ卿と対面する時には、限りなく深い愛情を頼もしげに約束するので、「いくら何でもすっかり心変わりをされることはない」と気にかかりながらも、「どうしてもやむをえない差し障りがあって来られないのだろう」と心の中で思い慰めていました。しばらく訪れが途絶えているので、気になることもなくはなかったのですが、今回はなまじっか近くに来たのに、素通りしてパリに戻って行ったことが辛くもあり、口惜しくも物悲しくもなりました。妹が滅入っている様子を見て、「世間並みにかしずかれ、きちんとした住まいであったなら、こんなように素通りされることはなかっただろうに」と姉は一塩「可哀想に」と妹を見つめていました。

「私もこの世に生き長らえていると、こうした目に遭うことになるだろう。カオル中納言があれやこれやと言い寄るのも、私の気を引いてみようとしているだけなのだ。いくら自分が恋の相手にはなるまいと思っていても、言い逃れるのには限度がある。侍女たちが性懲りもなく、カオル様との結婚だけはどうにかまとめようと考えているので、心ならずもそうならざるをえないことになるだろう。父卿が返す返す『独り身を守って行くように』とおっしゃっていたのは、『こういったことも起こるだろう』との誡めだったのだ。そもそも私たち姉妹は薄幸の身で、両親とも死に別れをしてしまっている。『妹と同じように恋人に捨てられてしまったのだ』と人から笑われてしまう有様になったら、亡くなった草葉の陰の両親まで歎かせてしまうことになるのが悲しい。やはり私だけでもそういった恋煩いに沈むことなく、あまり罪が深まらないうちに死んでしまいたい」と思い沈んでいると、気分が苦しくなって、食事ものどを通らないでいました。ただ、自分が死んだ後のあれこれを明け暮れ思い続けていると心細くなって、妹を見るにつけてもいたわしくなります。

「私にまで先立たれてしまったら、妹はどんなに悲しく寂しくなってしまうことだろう。今までは新たに綺麗になって行く姿を朝晩の慰みにしながら、『どうにかして妹に世間並みの生活だけはさせて上げたい』との願いを、人知れず先行きの生きがいと考えて来た。幾ら相手がこの上もなく貴い人物であろうとも、今回のように人から笑われてしまう目にあってしまうと、妹がこれから世間の中に立ち混じって、普通の人のように過ごしていくのは肩身が狭く、辛いことになるだろう」などと思い続けていると、「「やはり私たち姉妹は何の生き甲斐もなく、この世に少しの慰めもなく終わってしまう身なのだ」と心細い思いをしていました。

 

 パリに戻ったニオイ卿は「例のように人目を避けてコンフランに引き返そう」と思い立っていました。ところが衛門督アンドレがルーブル宮で「恋人に内密に出逢うつもりで、コンフランへの遊覧を急に思い立ったようです。世間の人も『軽々しい振る舞いだ』と非難しております」とそっと報告していました。それを聞いた王妃も歎いて、安梨王もそうした行動は許すまいといった様子でした。

「ともかく、気ままに出来るヴァンセンヌ住まいが悪い事なのだ」と厳しい判断を下して、ルーブル宮でじっとしているように命じました。おまけにニオイ卿が夕霧左大臣の六女フローラとの結婚に同意しないでいるので、強引でも結婚させてしまおうと皆が同意してしまいました。

 それを聞いたカオルは「具合が悪くなってしまった」と困ってしまいました。

「自分はあまりに常人とは違っているのだろうか。それともそういった運命であったのだろうか、亡き父卿が姉妹のことを気にかけていた様子が気の毒で忘れ難いことから、姉妹の様子や人柄に特別なことも起こらずに、世間から無視されてしまうことが惜しいと思うあまり、人並みの境遇にしてあげたいと、不思議なほどお世話をして来た。そんな中、ニオイ卿がしつこく仲介をしてくれるように責め立てて来たので、自分の思いは姉の方なのに、その姉が妹に譲ろうとする様子なのが気に食わずに、ニオイ卿と妹の仲をとりもったことを考えてみると、悔しくなってしまう。姉妹の両方とも自分のものにしたところで、それを咎める者もいなかっただろうに」と今さら取り返すすべもないものの、愚かなことをしてしまったことを心の中で煩悶していました。

 ニオイ卿はましてやマドレーヌを忘れる折りはなく、「恋しくて、気になってならない」とやきもきしていました。サン・ブリュー王妃は「そんなに気に入った女性がいるなら、私に仕える侍女にさせて、ごく普通に愛人として可愛がってあげなさい。王さまも貴方のことを格別な存在と考えておりますから、軽々しい噂が立ってしまうのはとても残念なことです」と明け暮れ注意していました。

 

 時雨がしとしとと降る、のんびりとしたある日、ニオイ卿はルーブル宮の西館にある姉の第一王女エリザベトの間を訪ねました。多くの侍女が仕えていない中、エリザベトは静かに絵を鑑賞していました。ニオイ卿は内カーテンだけを隔てて、姉と話をしました。エリザベトのこの上なく上品で気高い一方で、物柔らかで可愛らしい気配を、「二人とはいない女性だ」といつも感じていて、「姉の様子に肩を並べる女性は世の中に存在しないだろう。冷泉院の王女ジゼルだけは父親の寵愛も受けて、実際の気配も奥床しいと聞いてはいるものの、そうと打ち明けて言い寄る機会もないまま、気になってはいる。しかしいかにも可愛らしく上品な点では、あのコンフランのマドレーヌも引けを取らない」などと、真っ先に思い起こして恋しくてなりません。

 マドレーヌへの恋しさを紛らわせようと、散らばっている沢山の絵を見てみると、愛らしい女性の風俗画の中に、恋する男が遊んでいる光景などをおりまぜた、趣がある山里の風流な住まいなど、思い思いに世の中の様子を描いたものが目に留まったので、少し譲ってもらって、コンフランへ贈ろうと思いました。騎士物語の逸話を描いた絵もあって、色男が妹にハープを教えながら、(歌)若く初々しい若草の上に寝転んだなら さぞかし気持ちが良いことだろう その若草を誰が草枕に結んで寝るのだろうかと 気になってしまう と詠んでいる場面に気付いて、どう感じたのか少し近くに寄って、「昔の人も兄妹の間柄では隔てを置かない習慣でしたよ。ひどくよそよそしく内カーテンで仕切っているのはどんなものでしょう」とこっそりと話すと、エリザベト王女は「どんな絵なのだろう」と見たがったので、ニオイ卿はその絵を引き出して、内カーテンの下から差し入れました。うつ伏して絵を見やりましたが、髪が横になびいて、その間からちらちらと見える横顔が言いようもなく美しいので、「肉親の女性でなかったなら」と思って堪え難くなり、思わず詠んでしまいました。

(歌)若草のように美しい貴女は 実の姉だから 共寝をしようとは思わないものの 結ばれてみたい気持ちがする

 それを聞いた王女に仕えている侍女たちは、ニオイ卿の側にいるのが恥ずかしく感じて、物陰に隠れてしまいましたが、エリザベト王女は「こともあろうに、ひどくはしたないことを言う」と不快になって、ものも言わずにいました。それももっともなことなので、騎士物語の色男の歌に、(返歌)兄と妹の間柄なのに 春の若草などと 珍しく思いがけない言葉を 隠し立てなく話すなんて と返した妹は婀娜っぽくて小憎らしい女性だったのだと、ニオイ卿は感じました。

 亡くなった祖母の紫上は孫の中でもとりわけエリザベト王女とニオイ卿の二人を手元に置いて育てたので、大勢いる兄弟姉妹の中でも、この二人は分け隔てがない仲良しでした。サン・ブリュー王妃も二人をまたとないほど大事にしていたので、王女に仕えている侍女たちの中で、少しでも不器量で欠点がある者は、勤めにくそうにしていました。侍女には高貴な家柄の女性も多くいました。女性に対して移り気なニオイ卿は、目新しい侍女たちにちょっとした言葉を投げかけたりしますが、あのコンフランの女性を忘れる折りはないまま、訪問出来ない日が続きました。

 

 ニオイ卿の訪れを心待ちにしているコンフランでは、あまりに間が開き過ぎているような心持で、「やはりこういうことだったのだ」と心細くしていると、「ジュヌヴィエーブの加減が悪い」と聞いたカオルが見舞いに訪れました。ひどく落ち着きがなくなるほどの苦しさではありませんが、病を言い訳にして対面しません。「病と聞いて驚いて遠い道のりをやって来たのだから、やはりベッドの近くで」としきりに心配そうに話すので、いつもくつろいでいる居間の内カーテンの前に案内されました。「こんな所で恥ずかしい」と姉は当惑していますが、不愛想でもなく頭をもたげて返事などをします。

 カオルはニオイ卿が、気分が晴れ晴れとしまいまま、訪問出来ない状況を説明して、「気長に思っていて下さい。いらいらして恨んではいけませんよ」と諭すと、「ともかく妹は不満を漏らしてはおりません。ただ亡くなった父卿が諫めていたことは、こういったことなのだと思い当たりながら、妹が可哀そうで」と涙を流している様子です。

 とても気の毒で、自分までが面目ない気分になったカオルは、「世の中というものは、とにかく一筋縄では行き難いものです。どんなことでも経験したことがないと、一途に『恨めしいことだ』と思い込んでしまいがちですが、強いて辛抱して下さい。不安になるようなことなど全くないと考えていますから」と言いながら、他人の恋愛に釈明をしているのも妙なことだと感じていました。

 まして夜になると、姉はきまって苦しくなるので、妹は他人が側にいることに当惑しています。「やはり、いつもの客間の方へ」と侍女たちが話しますが、「始終思いをかけている人の加減が悪くなった、と聞いて飛んで来たのに、ここから追い出そうとするのはあんまりだ。こうした折の看病に、誰かしっかりした者が付き添っていなければ」などとベネディクトに告げて、祈祷を始めるように指示しました。ジュヌヴィエーブは「こんなに見苦しく、自ら願ってでも死んでしまいたいくらいの身なのに」と思いながら聞いていましたが、そうあけすけに断ってしまうのも嫌なことであるし、さすがに「生き長らえるように」と願っているカオルの心持ちにしんみりとしました。

 

 翌朝、「少しは気分が良くなりましたか。せめて昨日のようにしてでも話をしてみたい」とカオルが話すと、「ここ数日続いていて、今日は一塩苦しいのですが、それならこちらへ」と答えました。カオルはひどく悲しくなって、「一体どうなっているのだろうか。以前よりも親しみを見せる様子は加減が悪くなっている兆しではないか」と胸が潰れる思いで近くへ寄って、あれこれと話しました。「苦しくて、うまく返事が出来ません。少し休ませてもらいます」とかすかな声で苦しそうな気配なので、カオルはこの上もなくいたわしい気持ちで嘆息してしまいました。

 さすがに所在なく長居も出来ないので、とても気掛かりですが、帰宅することにしました、「このような住まいが健康に良くないのです。住む場所を変えるということにして、しかるべき所に移ってもらいましょう」などと話し、尊師にも祈祷を熱心にするように頼んで邸を出ました。

 

 カオル中納言のお供で、いつの頃からかこの邸の若い侍女と恋仲になった者がいました。二人が思い思いに話しているうちに、ニオイ卿の話が出ました。

「ニオイ卿は忍び歩きを禁じられて、ルーブル王宮にばかり籠らざるをえなくなっている。夕霧左大臣の六女フローラ様と結婚させることが決まったようだ。左大臣側は長年の希望なので、ためらいはなく年内にも式を挙げさせようとされている。ニオイ卿の方はこの結婚に気が進まず、王宮の中にいても好色がましいことに熱心になっていて、王さまや女王様のお叱りにもめげずに落ち着いてはいられないようだ。その一方で私のご主人は、不思議なほど他の人と違って、あまりに生真面目すぎて、他の人が困ってしまっているほどだ。こうやってこの邸にやって来ることだけが、『何とも言いようもなく格別なことなのだ』と人が話している」と語りました。

 その侍女が「こんな話を聞きました」と他の侍女たちに話しているのを耳にはさんだ姉は、いよいよ胸が塞がって、「妹とはもうこれ限りということなのか。ニオイ卿は立派な女性との縁談が決まる間の、一時の本気でもない戯れ事にすぎないと考えていたのに、さすがにカオル様の意向を考慮せざるをえないので、口先だけは巧みだったのだ」と思うと、ともかくニオイ卿の辛さは思いも寄らずに、ますます身の置き所もない気分になって、落胆したまま泣き伏してしまいました。弱気になって、もうこの上は生き永らえて行けそうにも思えない有様でした。

 妹の方は、気兼ねをする侍女などいないものの、「侍女たちがどう思っているのか」ときまりが悪く、何も聞いていないふりをして、ベッドに臥していました。(歌)親が注意したうたた寝は 物思いをする時の仕草なのです といったように、うたた寝をしている妹の様子がとても可愛らしく、腕を枕にして髪が肩の横にたまっているのが、めったになく美しいのを見やりながら、「夫を持たない方が」と亡き父卿が諫めた言葉を返す返す思い出しては悲しくなりました。

「父卿はよもや罪深い地獄に堕ちてはいないだろう。たとえ何処におられたとしても、私を迎えて欲しい。これほど苦しい思いをしている私たちをうち捨てて、夢にすら現れてくれないとは」と思い続けていました。

 

 夕暮の空の模様は、ひどく時雨が降り、木立ちの下を吹き払う風の音などがたとえようもなく寂しい中、これまでの過去やこれからの行く末を案じ続けながら、ベッドに添い臥している姉の様子はこの上もなく上品に見えました。白い寝着にかかっている髪は幾日も梳いてもいないのに、もつれもなくすっきりと流れていました。このところの悩みで顔が少し青みを帯びているのが、艶めいた趣を添えていて、物思いに沈んでいる目つきや額つきの様子は心ある人に見せたいほどでした。

 うたた寝をしていた妹は、風音があまりに荒々しいのに驚いて起き上がりました。黄色や薄紅など花やかな色合いのドレスを着て、顔は染めたような美しい華やかさで、何の物思いもしていない様子でした。

「夢に父卿が現れました。とても心配でならない様子でこの辺りをさまよっておりました」と話すので、姉は一塩悲しみがつのりました。「父卿が亡くなった後、何とかして夢にでも会ってみたいと思っているのに、私の夢には現れてはくれません」と答えて、妹と一緒になって涙を流しました。「このところ、しきりに父卿の面影を思い出すというのは、ひょっとしたらほのかにでも現れているのだろうか。何とかして、父卿がいる所へ尋ねて行きたいものだが、結婚をして罪深い身になってしまったら、それも難しくなってしまう」と姉は後の世のことまで考えていました。「古代ローマにあったという、煙の中に恋しい人が現われるという香を手に入れたいものだ」と思いをはせていました。

 

 すっかり暗くなった頃、ニオイ卿から手紙が届きました。姉の方は少しは物思いが紛れたでしょうが、妹の方はすぐに見ようとはしないでいます。「やはり、素直な気持ちで穏やかなように返信を書きなさい。私がはかなく死んでしまうようになったら、侍女の仲介でとんでもない男が現れて来るかもしれない、と心配ですからね。ニオイ卿が時たまにでも貴女を思い出して下さる間は、あってはならない手出しをする人は出てこないと思うので、辛いことは分かりますが、ニオイ卿を頼りにしていなさい」と話すと、妹は「私を置き去りにすると考えているとはあんまりだ」と、ことさらのようにますます顔を掛布団の中に隠してしまいました。

「限りがある命ですから、一刻も早く父卿の後を追って行こうと思っていたのに、結局、生き永らえてしまっています。明日も分からない世の中なのはさすがに嘆かわしいことですが、私が命を惜しんでいるのは誰のためでしょう」と言って、姉は灯火を近くに寄せて、ニオイ卿の手紙を読みました。

 ニオイ卿はいつものように細やかな心持ちで書いていました。

(歌)眺めているのは同じ空なのに どうして今日の時雨は 貴女に逢いたい気持ちをそそるのだろうか

 以前、ニオイ卿は「このように袖を濡らす」などと書いていたこともあったし、 耳馴れた月並みな文句を書いているにすぎない手紙を読むにつけ、姉はますます恨めしさが増しました。とは言うものの、あれほどの類まれな様子や容貌をしている上に、「どうやって女性から愛されようか」と好ましく艶っぽく振舞うので、まだ若いマドレーヌが心を寄せてしまうのももっともなことでした。時が経つにつけてもニオイ卿が恋しく、「あれほど重々しい誓いをされたのだから、幾ら何でもこのままで終わりにすることはないだろう」と妹は常に思い直していました。

 ニオイ卿の使いが「返信は今夜中に届けねばなりません」と催促し、侍女たちがああだこうだとせかすので、マドレーヌはただ一言だけ書きました。

(歌)あられが降る 深い山里では 朝夕に眺める空も 掻き曇っております

 

 それは十二月二十日過ぎのことでした。「会えない日がもう一か月にもなってしまう」と気分が落ち着かず、「今夜こそ、今夜こそ」と思いながら、差し障りが多い上に王宮でのカトリック派とプロテスタント派の駆け引きにも巻き込まれてしまい、そんなつもりはないもののやり過ごしざるを得なくなっていました。コンフランの姉妹は情なく、待ち遠しい思いでいました。王宮に仕える侍女たちにちょっとした戯れをすることはあるものの、ニオイ卿はマドレーヌを忘れることはありません。

 夕霧左大臣の六女との縁談に関連して、サン・ブリュー王妃も「とにかく落ち着いた後見役としてフローラを娶った上で、その他に愛しいと思っている女性がいるなら、私に仕えるようにして大切にしてあげれば良いのでは」と繰り返し説得しますが、「もうしばらくの間は、考えておくべき仔細もあるので」とやんわり断りながら、「どうしたらマドレーヌが辛い目に合わないようにすれば良いのか」に思いをはせていました。

そんなニオイ卿の心境を知らないコンフランでは日が経過していくままに思案に暮れていました。カオル中納言も「幾ら何でも、思っていたよりも軽薄すぎる」と失望して、心から姉妹を気の毒に感じながら、ニオイ卿にはあまり近づかないようにしつつ、コンフランへは「加減はいかがですか」と見舞いの便りを送っていました。

 

 

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